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2008年7月24日木曜日

テレビを守る規制

 ちょっと出張所のコメントにも書いたので、記事にも少しこの話題について触れておこうかと思います。

 以前の新聞メディアを考えた連載の記事の中で、テレビは守られているが新聞は守られていない、ということを私は書きました。これは同じメディアでも、新聞と比べてテレビは非常に多くの国からの規制によって守られているという意味で書かれています。では具体的に、どんな規制によってテレビは守られているのでしょうか。

 まず代表的なのは放送権許認可制です。これは日本では放送法といって、国の免許が下りなければテレビ放送が許されない制度で、事実上、地上波においては80年代くらい以降は何一つ新たに許認可など下りていないと思います。これは言い換えるなら、この時代以降にテレビ放送局は何一つ生まれていないということです。

 何故放送局を新たに作らないのか、その回答は簡単で視聴率確保のためです。昔はそれこそ紅白歌合戦の時には視聴率が五割を超えた時期もありましたが、現在では三割もいく番組などめったに現れなくなりました。これは何故かというと、単純にチャンネル数が増えたからです。多チャンネルになればなるほど、一局当たりの視聴率は基本的には落ちていきます。事実、昔はNHKを入れても東京でも三局くらいしかありませんでした。
 では視聴率が落ちると何が起こるか。言うまでもありませんが広告料が減ってゆきます。昔から現在まで広告料の額は視聴率によって決められており、多チャンネル化すると既存のテレビ局は視聴率が減り、パイは限られているので収入も減っていくわけですから困るわけです。そのため、日本のテレビ界はこれまで新規参入をしようとする企業を締め出してきたのです。

 そんな日本の姿勢がはっきり現れたのはソフトバンク社長の孫正義による、アメリカのルパード・マードックと組んで行った96年のテレビ朝日買収騒動です。恐らく、孫氏も放送局を持ちたがったのでしょうが、この許認可制によって新たに放送局を立ち上げることができず、日本メディア界に進出を狙っていたマードックと意見が一致し、買収することによって参入しようとしたのでしょう。これは何も孫氏に限らず、ライブドアのホリエモン、楽天の三木谷氏も、口では「テレビは死ぬメディア」と言いつつ、テレビ局の影響力を高く見ているようです。

 はっきり言って、普通に考えるなら今挙げたIT界の三巨人(一人はもう引退したけど)の言い分の方が正しいです。新たに放送局を作らせてもらえないなら、テレビ放映をするには買収するしかないのだし、彼らは法律に則って株式を集めているのですから何も問題はありません。それ以上に、この三社の騒動の最中のテレビ局の言い分の方がどこか世間とずれた、許認可制に守られた側の意見にしか私は思えませんでした。また国の側も、ライブドア騒動の際にはライブドア側が行った株式の購入方法は違法(ライブドア側は購入前に法務省に合法かどうか確認しているにもかかわらず)と判断し、テレビ局を守る姿勢をはっきりと見せ付けました。

 もっとも、このような時代はあと三年で終わりを迎えます。何を隠そう、三年後からテレビの地上波デジタル放送が始まり、今のように一局一チャンネルではなく、複数のチャンネルが持てることから多チャンネル化し、視聴率は落ちていくといわれています。また現状ではデジタル放送の許認可は地上波ほど厳しくなく、新たに参入する放送局も増えると言われています。

 そして何より、テレビ界は最大の後ろ盾をすでに失っています。その大きな後ろ盾というのも国、その中の郵政省です。というのも、放送の許認可を昔から行ってきたのは郵政省で、その郵政族議員を束ねてきたのが野中広務だったと言われています。一見地味ではありますが、郵政族はこの放送において権益を作り、大きな力を行使していたらしいです。それが知っての通り9.11選挙によって郵政族は自民党を事実上追い出され、さらに郵便局も民営化しました。一説によると、小泉氏は郵便事業の民営化などには全く興味を持っておらず、この自民党の中に隠然たる力を持つ守旧派の人間を叩き潰す為に民営化を行ったともいう説があります。なので、これからはあまりテレビ局も昔みたいに羽振りがよくなることはないと考えています。

 なんか、メディアの話が増えてきたなぁ。新聞は面白かったのですが、こういうテレビの話はなんだか書いててあまり気分が乗りません。ラジオのことも今度書こうかな、ツッチーに聞いた方が早いけど。

2008年7月23日水曜日

日本の大学教育と職業とのつながりについて

 ある日、知り合いのチリ人留学生とこんな話をしました。
「チリでは法学部の学生は皆弁護士になるし、文学部の学生は出版会社とかに勤めて、経済学部の学生はそれぞれの専門に学んだ分野の企業で働くけど、なんで日本人は大学の専門と関係ないところで働くの?」
「日本の場合、大学はモラトリアム的な空間と考える人が多いからね。一時はこれはよくないと言われて再考した時期もあったけど、理系はともかく文系は未だに大学での専門と社会での職業が結びつかないことの方が当たり前だよ」

 実はこのチリ人からの質問は、私が中学校時代に思った疑問でした。
 今では小学校や中学校での義務教育の質の低下が問題となっていますが、90年代後半当時はむしろ、「分数の解けない大学生」などといわれ、大学生の質の低下の方が問題視されていました。そのため会話の中の私のセリフのように、あまりにも大学の教育が社会で実を結ばないことが問題視され、社会で即戦力となる人材を育てるべく大学の教育方針を変えるべきだとあちこちでいわれた時期がありました。私は当時は中学生位でしたが、学問は社会で役に立ってなんぼだと思い、この動きを支持していました。

 その方針が本格的に採用されたかどうかはわかりませんが、現在新設学部の名前に多い、「政策学部」というのは、まさにこの動きの中から生まれてきた学部だと思います。ちなみに、現在どの大学も収入を確保するために学部を増設したがっていますが、文科省も安易な学部増設は認めないのですが、「政策」、「国際」という名前がつけば認可が下りやすいとのことで、現在のように政策学部と国際関係やら国際経済学部という名前が各大学に氾濫することになったわけです。なお、それらの学部は定員を増やすために作られ、指導内容などは二の次となっていることが多く、あまり現役高校生の方には入学を私は薦めません。

 話は戻りますが、確かに日本では理系はともかく文系の専門によって職業が決まるといった、実社会へのつながりは非常に細いです。それこそ文学部の人間が商社に勤めたり、経済学部の人間が公務員になったり、商学部の人間なのに簿記がわからないとかざらです。果たして、そんな状態で大学の存在意義はあるのでしょうか。こんなので大学は社会へと貢献をしているのでしょうか、この点が昔の私にとって強い疑問を感じたところでした。

 しかし、先ほどのチリ人留学生との会話の私の話の続きを言うと、
「けど、私はこの日本の教育の仕方もありだと思っている。確かに大学での専門と職業が直結していれば専門的な能力はずっと向上すると思うけど、その代わりに他分野への理解が減り、人間として幅が狭くなると思う。
 日本は専門的な能力は職業を通して学ぶものだと考え、大学では将来の職業を全く考えず、人間の幅を広げるためだけの教育の場と割り切っていると思う」

 今の私の考えは、まさにこれです。詳しくはわからないですが、このような大学教育の考え方を「リベラルアーツ」といって、大学教育に求められる重要な要素とされています。一般には大学一回生、二回生の間に行われる一般教養の授業に当たるのがこれです。一つの専門に凝り固まらず、幅広い分野を学び、その上で専門に進んでいくという教育方法で、今じゃ私もこの方針の支持者です。

 この教育方法だと、学生は自分の入った学部なり学科の専門に縛られず、空いた時間に好きな学問を勉強したり、他学部の学生と交わったりすることができます。私自身の大学生活を思い返しても、いろんな専門の人間と関われたことが最大の自慢でもあり、収穫でもあったと自信を持って自負できます。これがもし単科大学で、カリキュラムが高校時代のようにあらかじめびっしり決められもしていたら、こんだけ書かれる内容が統一されていないブログなんて、恐らく書けなかったでしょう。

 もちろん、チリのような教育方法も決して悪いわけではありません。少なくとも専門の勉強を行うことで、その知識が生かせる職業に必ず就けるというのならそれはそれで即戦力で、また社会への貢献も大きくできるでしょう。しかし私は社会というのは多様性があるほど活気があると考えており、一つの会社の中にも様々な専門知識を持った人間がいろいろいる方が、なにかと楽しそうな気がしますし、将来的には大きくなる可能性を秘めている気がします。

 もっとも、日本の大学教育にもデメリットはまだまだあります。その辺はまた今度解説するとして、そうしたデメリットを考慮に入れても、私は現状の大学教育を支持します。
 最期に今の大学生に一言言っておくと、できるだけ自分と関係のない分野こそ勉強してください。それがいやなら、なるべく他学部の友人を作ってください。私なんか、同じ学部の友人がほとんどいなかっただけだけど……。

2008年7月22日火曜日

中国バス爆破事件について

 久々の中国ネタです。
 すで知っての通りでしょうが、昨日中国雲南省の昆明にて、二件連続して路線バスが爆破される事件が起こりました。この事件について中国国内ではどう報道されているのかというと、留学時代に私が愛読していた「新京報」という、北京で発行されている新聞のWEB版の記事を読んでみると、

・被害者
 三十歳女性一人と二六才男性一人が死亡。十四名が怪我を負い、そのうち一人は今も危険な状態。
・発生時刻
 一発目が七時五分。二発目が八時十分。
・爆破手段
 爆弾による爆破。
・容疑者
 未だ不明。しかし現地の警察は十数枚の、三十歳前後の若い男性が写ったモノクロ写真を公開し、事件に関係している可能性があると発表している。
・事件の影響
 事件のあった次の日である今日、現地ではこの日バスのかわりにタクシーを使う人間が増え、タクシー運転手によると売り上げが増えたとのようです。

 日本での報道によると、北京政府はまだテロとは断定せず、人為的な爆破事件という見方をしているそうです。犯行声明がなく、容疑者の捕まっていない現在ではこのような発表にならざるを得ませんし、安易にテロと断定すべきでもないので、私としてもこの北京政府の見方を支持します。同様に、誰が、どんな目的で、なぜ事件を起こしたのかはまだあれこれ推量する時期ではないと思います。幸いというか、どのメディアもまだ下衆な推理合戦は行わず、事件の続報を落ち着いて待っているようです。

 しかし事件の影響だけを見るとすれば、すでにオリンピックまで一ヶ月を切ったこの時期にこんな事件が起こったことにより、北京政府への衝撃は大きいことが予想されます。今後この事件を教訓にどんな対策を北京政府が取るかが注目すべき点でしょう。

毎日新聞の今後

 すでにあちこちで報道されていますが、先日に毎日新聞の英語版サイト「WaiWai」がようやく閉鎖されました。ようやくとは書きましたが、私自身もこの毎日の英語版サイトについては今回の報道でで初めて知りました。その報道によると、この英語版サイトでは声に出すのすら恥ずかしい卑猥な内容や、何の実証性のない週刊誌から抜粋しただけの異常な記事が発信され続けていたというようで、正直このニュースを知った時に私は目を疑いました。

 しかもなお悪いことに、この英語版サイトについては以前より批判があったようです。しかし毎日新聞社側はその批判を真面目に受けず、約三年間以上にも渡ってこのサイトの更新を続けていたというのです。結果的には今回大きく他のメディアで取り上げられて閉鎖したものの、他紙、確か朝日か読売かですが、「海外の読者に対し、失った日本の信頼を取り戻すのは難しい」と言う通り、誤った情報を世界に発信し続けたという罪は非常に重いことに間違いありません。

 そして現在に至るのですが、この事件の余波は案の定大きく、毎日新聞の日本版ウェブサイトである「毎日jp」では今も確認しましたが、現在ページのどこにも自社及び関連会社以外の広告が全くないという異常事態が発生しています。普通、こういった新聞社のサイトでは経済面などに企業の広告が貼り付けられるのが普通なのですが、ここにすら何もないというのですから事態は予想以上に深刻です。他紙の報道によると、やはり事件の影響を考え大企業などは企業イメージを悪くするとの懸念から一斉に広告を引き上げたためとのことらしいですが、本紙はまだ確認していませんが、恐らく紙面上も大企業の広告は現在ほとんどないでしょう。

 すでに以前に連載して書いていた新聞メディアの記事でも触れていますが、毎日はただですら北海道での夕刊配達を中止するほどに経営が追い込まれていたにもかかわらず、今回このような事態となって広告収入も先細るとなると、ますます追い詰められるのは明白でしょう。私の見立てでは、もしこのままの状態が続くとなると今年か来年中には毎日新聞社は潰れるのではないかと思います。現にそういった話、買収案なども私の耳に入ってきています。

 もし毎日新聞社の経営が破綻するとどうなるかですが、やはり一番に考えられるのは他社による買収です。しかし毎日新聞社自体が不良債権となっている現在、恐らく他の新聞社は動かないのではないかというのが知り合いの業界関係者の見方です。それよりも系列テレビ局であるTBSが資本を注入し、財務状況を救うのではないかと言っていましたが、私も現状ではこの線が最も可能性が高いと思います。
 そしてこれは恐らくありえないですが、ここでもしインターネット会社が毎日新聞、この際取材部門だけでも買収するとなれば、私の予想するメディア業界の大変動の一歩が踏まれることとなると思います。まぁ、起こったら面白いけど、さすがにこれは起こんないだろうな。孫正義氏とかやんないかな。

 それにしてもこの毎日の凋落は私自身にとって非常に残念な事態です。というのも、新聞社の記者で比べるなら私は毎日新聞が最も優れていると考えていたからです。かつてはゴッドハンドと呼ばれた遺跡発掘者の捏造事件を暴くなど、毎年のスクープでは質、量ともに他紙を圧倒し、その記者の取材力ではかねてより定評があり、私自身も高く評価していました。
 今回のこの事件はかねてより批判を受けていたにもかかわらず、何のチェックも行わなかった経営側の明らかな不作為によるもので、そうした無能な経営側のせいでで優秀な毎日の記者があおりを食らうというのを残念に思います。英語版サイトを閉鎖したにもかかわらず鳴り止まない批判に対し、ようやく毎日新聞社は今回の騒動の顛末を公表すると発表しましたが、はっきり言って遅きに失したでしょう。また記事を編集し続けた記者の処分も、どうも見ていて緩いのではないかと私は思います。

 一部の評論にもありますが、意外や意外に、この事件は日本メディア界を大きく揺るがす一発目になりかねない可能性を含んでいます。今後とも、この問題は続報があれば紹介していくつもりです。

生き残るゲーム会社とは

 ちょっと私用で中国地方、主に広島県へと行っていました。印象に残ったのは、私は鹿児島県生まれで現地だと、島津斉彬様万歳、が色濃く主張されているのですが、今回行った山口県、特に萩市では吉田松陰先生万歳が色濃く主張されていました。

 そんなこともあって久々の投稿です。今日はこのところよく取り上げる、ゲーム会社の話です。
 まず単刀直入に結論を書きますが、今後生き残っていくゲーム会社というのは過去の遺産があるゲーム会社だけだと私は考えています。

 先日、かねてより前評判の高い「ドラゴンクエスト5」のNINTENDO DS版が発売されましたが、これが逆に一部のネットユーザーの意見からは批判の的になっています。その批判の内容というのも、このところのスクウェアエニックスは昔のゲームのリメイクばかりで稼いでいて、新しくゲームを作っていないというものです。 

 なんだかんだいって、こうした昔のゲームのリメイクというのはよく売れます。その理由というのも、昔に遊んだユーザーが年を取ってからまたやりたくなり、出たらまた買うからだと言われています。そもそも、私の知る限り昔のゲームを新たなハードでリメイクをやりだしたのはこのスクウェアエニックス(当初はエニックス単独)で、「ドラゴンクエスト1,2」をスーパーファミコンで出したのがきっかけで、皮肉な言い方ですが、このリメイク商法の元祖は未だにこの手法を続けているとも言えます。ドラクエ5なんて、プレステ2でも出していたし。

 しかしこうしたリメイク作品が何度も世に出る一方で、新しいジャンルのゲームというものは確かに以前ほど多くはありません。業界関係者によると、リスクの高い新ジャンルの作品より、過去のリメイクの方が安定した売り上げが見込めることからこうした状態が続いているといっていますが、現実にはそれ以上に、新しいジャンルのゲームでやっていけるほど、もはや今のゲーム業界に体力がないのかもしれません。
 というのも前の記事でも書きましたが、今じゃゲームの開発費は天井知らずになってしまい、本当に売れなかったら会社は即倒産なんていうことすら結構ザラです。知ってか知らずか、もはやリメイク作品がないところはゲーム業界では生き残れないのかとすら私は思います。

 それが冒頭に言った、ゲーム会社が生き残るかどうかは過去の遺産があるかどうかなのです。この考えを発展すると、なにもリメイク作品にとどまらずシリーズ作品もこの「遺産」と考えてもよろしいでしょう。
 たとえば、任天堂なら「マリオ」、「ゼルダ」、「マリオカート」、「ポケモン」と、未だにこれらのシリーズは最新版が出るたびに売れますが、これらと全く関係のない新たなゲームシリーズはやはり比較するとあまり売れていない気がします。
 さらに例を挙げていくと、バンダイナムコなら「テイルズシリーズ」、「鉄拳」、「スパロボ」で、KOEIなら「三国無双」、「信長の野望」、「三国志」、コナミなら私もお世話になっている「パワプロ」、「ウィイレ」、「メタルギアソリッド」、さすがに「かんばれゴエモン」はもう見なくなったけど。

 このように、今挙げたのはゲーム業界が華やかなりし頃に一作目が発売されたゲームシリーズばかりです。今やこれらのシリーズ以外で、販売本数で上位に上がれるソフトというのはほとんどないでしょう。つまり、まだ新ジャンルを開拓できる時代に人気シリーズを確立できたゲーム会社しかもう生き残れず、今後新ジャンルを新たに開拓するにしても、これらの過去の遺産で売り上げを確保しつつ開発するしかない状況にあるのではないかと私は言いたいのです。これだけ書くと、なんか今の日本のゲーム業界は閉塞してしまったような感じですね。

 唯一の例外を挙げると、カプコンについては未だに旺盛に新ジャンルに取り組んでいます。実はこの前までまたカプコンは潰れる間際だと言われていましたが、今回の「モンスターハンターシリーズ」の大ヒットによって再び息を吹き返しました。ここの会社は昔から、危なくなるごとに「ストリートファイターシリーズ」、「バイオハザードシリーズ」などの新ジャンルを開拓し、そのたびに不死鳥のごとく生き残っていますので、一ゲームユーザーとして今後も温かい目で見守って生きたいと思います。

2008年7月17日木曜日

格差社会を読み解く、経済学の系譜

 最近筆が乗らず、あまりたいした事書いていないので補填とばかりに現在の経済学の系譜を書いておきます。明日からちょっと所用で、しばらくブログがかけなくなりそうですし。

 まず経済学は大きく分けて二つに分かれます。経済学の祖であるアダム・スミスの源流を受ける資本主義経済学と、カール・マルクスを祖とする共産主義経済学です。もっとも、後者は勉強する学生も減り、二十世紀に起こった共産主義国もほぼすべてその綱領を放棄してますので、最近ではちょっとマイナーです。

 では前者はというと、こっちはこっちで今、二つの大きな流派に分かれています。まず、二十世紀中ごろに出現して各国で採用された、国家の経済への介入を謳うをケインズ主義と、その逆にすべての国家などによる規制の排除を謳う新自由主義、通称ネオリベラリズムの二つです。この新自由主義の代表格、というより親玉とも呼べたのが私のブログでも何度か出したミルトン・フリードマンです。

 このフリードマンが主張したのは、所得が大きい層、つまり金持ちががどんどん大きくなれば、そいつらの使うお金は最終的に貧困層にまで落ちてきて、みんなで豊かになれるというのが主な綱領です。この過程のことを新自由主義者は「トリクル・ダウン」、日本語に直すと、「水の滴り」と呼んで、実際に取る政策は大企業がもっと大きくなれるように規制を排除する、近年日本で取られた政策です。

 しかし読んでてわかると思いますが、私はこのやり方に疑問を持っています。すでにこれまでこのフリードマンの考えに則り政策を行った国はたくさんありますが、はっきり言って一つもこのトリクル・ダウンが起こった国はありません。どの国も格差が広がり、最終的には破綻した国の方が明らかに多いです。

 かといって、ケインズ主義も必ずしも正しいというつもりはありません。まぁその辺は今度に深くやるとして、ここで私が言いたい内容は、フリードマンの背後にはハイエクという人物がいます。このハイエクという人は今言ったケインズとめちゃくちゃ対立してたそうですし、案外フリードマンを読み解くより、このハイエクを読み解く方が、今のこの格差社会を読み解くのに役立つのではないかと思ってます。そういいつつ、「ケインズとハイエク」という本を難しさのあまり私は途中で投げ出したのですが。もし興味のある方は、この辺のことを勉強するといいかもしれません。

怒りの矛先について

 昨日、十四歳の中学生が高速バスをハイジャックするという事件が起きました。明日高速バスに乗る予定の私からすると、非常にスリリングな話題です。
 幸いなことに被害者は一人もいなかったのですが、呆れたことに犯人の事件の動機というのは、親に怒られて困らせてやろうと思った、というのです。

 実はこの動機、ちょっと前から注目していました。というのも、以前に駅のホームで人を線路に突き落として殺害した高校三年生の男子生徒も、はっきりとは明言してないものの、家庭の事情で大学進学をあきらめざるを得ず、両親に対してやや不満めいたことを漏らしていました。
 私が奇妙に思う点というのは、なぜこの二つの事件の犯人は、不満や怒りの直接的な矛先である両親に向かわず、その早まった行動を知りもしない赤の他人に向かったという点です。考えてみると、このような事件はなにも未成年に限りません。あの秋葉原の通り魔事件も、掲示板では職場や親への不満が書かれていたにもかかわらず、そのはけ口へとなったのはやはり赤の他人でした。

 詳しい原因や傾向まではこの場で図りはしませんが、今後もこういった事件は続出していくのではないかと思います。ただ言える事として、赤の他人にその暴力を振るったとしても、自分にとっても何の解決にもつながらないというのは断言できます。