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2009年5月26日火曜日

何を目安に投票すればいいのか

 次の衆議院選は長くともこれから四ヶ月の間に行われるということもあり、このところあちらこちらで各政党の候補者らが街頭に立って選挙演説を行っているのをよく見ます。さてこの次の選挙ですがわざわざここで私が言わなくとも、参議院では既に与党が過半数を確保していない背景もあって民主党が強く主張しているように政権交代の可能性を含んでおり、時期が時期だけに今後の日本を占う上でも重要な選挙となる公算が高いといわれています。

 そうした背景を持っていることから私の周りでは早くも、次の選挙では小沢元代表や鳩山現代表は好きではないものの必ず民主党に投票するという知り合いが数多くいます。私としても少なくとも今の麻生政権が続くことだけは避けたいので民主党に入れるものかと考えはするのですが、かといって地元の民主党の候補が一体どんな経歴を持った人物でどんな政策をもっているのか、それどころか現在の民主党が掲げている路線に果たして本心から協力的なのか、全く知らないわけじゃありませんがさすがに集会に出たりして取材をしているわけじゃないので断言することが出来ません。

 ここで今日の問題提起ですが、そうした全体の流れから民主党を応援するといっても地元の民主党の候補が過去に問題のある発言や行動、果てには能力的にも疑われるような候補だった場合、果たして民主党を応援するためといってもその候補に投票をしてもよいのでしょうか。またそのような問題がありそうな候補の対抗馬が自民党の候補といっても、非常に優秀で将来的にも人材であるとしたら、いくら政権交代を一度実現させるためとはいえむざむざ落選させてもよいのでしょうか。
 ここまで言えばわかると思いますが、有権者は選挙において候補者自身の能力や人柄を目安に投票をするべきなのか、それともその候補が所属している政党が掲げている政策を目安に投票するべきなのか、この点について自分の意見を今日は述べようと思います。

 まず現在の日本の選挙制度である小選挙区比例代表並立制では、はからずもこの二つの思惑を同時に実現することが出来ます。たとえば小選挙区投票では政治家としてみた場合に優秀だと思う候補に、比例区投票では政策に賛同する政党にとそれぞれの投票し、自分の意志を十分に投票に乗せることは出来ます。そういう意味で私は現在の選挙制度はなかなか良く出来てると思うのですが、こうした投票が出来ない地方自治体選挙ではじゃあどうなるのかということで、こっちの制度で話を進めていきます。

 仮に政党を目安にして候補者の人柄などを無視し投票して当選させた場合、確かにその後の政局ではその政党が政策を実現できる力は強まりますが、記者会見で酩酊振りをみせるなど今の麻生内閣のようになんでこんな人が大臣になれるのかという疑わしい人物を送り込んでしまう可能性があります。逆に政治家の人柄で投票したところで、賛同する政党と一致していればともかく異なっていれば自分の願うように政治が動いてくれないばかりか逆に歯止めをかけてしまうことになりかねません。

 なんでこんな問題提起をわざわざここでするのかですが、まだ組織票が強かった90年代の選挙において私は国民全体が自民党に問題があるとは思いつつも、利権やら地元のしがらみといった昔からの関係でなんとはなしに大して実力もない自民党の候補、それも今問題となりつつある世襲の議員なども受からせてしまい、政治が延々と低迷をし続けてあの失われた十年を作ってしまったと考えているからです。確かにこうした経緯を鑑みると個人としての資質は二の次にして政策や政党で投票をするべきかとは思うのですが、そうして賛同する政党の候補を受からせたところでその後その政党が政策を堅持するかは未知数であり、今の自民党のように小泉政権時の政策をまさに根本から引っくり返してしまうと後にはただ9.11選挙の流れで、たまたまと言ってはすこしかわいそうですが、流れで受かってしまったちょっと実力が未知数な議員しか残らなくなってしまいます。

 政治家にとって落選は即、死を意味しており、たとえ一回の落選でもその後に立ち直って再度出馬するには今の日本では相当な苦労が必要となります。地元に優秀な候補がいるとはいえ政策の路線上で対立候補に鞍替えして投票し当選させた場合、その後また前に応援していた優秀な候補に舞い戻ってもらおうと思ってもそうはなかなか行きません。

 あまり考えをまとめていないので今日はやや崩れた構成の記事になっておりますが、結論から言えば政治家を資質で選ぶか政策で選ぶか、これはどっちが絶対的に正しいというのはないと私は思っています。選挙の質や時期、内容によって判断基準の比重は大きく変わりますし、またこうしたことはそれぞれ個人が決めることであって、法則のように「長期的には絶対こっちが正しい」と言うべき内容ではないと思います。とはいえ、どんな目安が重要になるのかを考えるためにこうした議論があった方がいいのではないかと思い、本日記事にまとめてみたわけです。

 なおこの話題を友人に相談したところ、少なくとも次の選挙は政党の政策で選ぶべき選挙だと言われました。私はどうかですが、折角比例代表並立制なんだし、それに合わせて投票しようと思います。

2009年5月25日月曜日

科目としての、中国の歴史教育

 昨日は延々とペルソナ3をやっててまたブログをサボってしまいました。そういうわけだから今日はきちんと書こうと思っていたら先ほどものすごい頭痛に襲われ、さっきまで寝込んでて今日も無理かと思ってましたが、さすがに二日も休むのはなんなので頑張って更新します。それにしてもこのところ、頭痛がどんどん激しくなってきています。何か霊に取り憑かれたのかな。

 実は先日土曜日に、前の記事でも書きましたが上海人の友人と親父を引き連れて筑波山にハイキングに行ってきました。筑波山へのハイキングについては前のつくばエキスプレスの割引チケットに関する記事で散々批判をしましたが、蓋を開けたら私はともかく友人と親父がへとへとになって、結局帰りは徒歩ではなくケーブルカーで下山することになりました。まぁ楽しかったのは間違いないけど。
 その筑波山からうちへの親父が運転する車での帰路、上海人と中国の歴史教育について簡単に話をしました。この時が彼とこの話題について初めて話をしたわけではなかったのですが、今回別の中国人の知り合いから聞いていた話と見事に一致したので、裏が取れたという意味でちょっと紹介しようと思います。

 まずは当たり前の話ですが、やっぱり私も連載で解説した文化大革命と天安門事件についてはほとんど教えてもらっておらず、日本に来てから両方の事件について概要を知ったそうです。特に天安門事件については、日本風に言うなら過激派の学生が暴動を起こしたというように教えられていたそうで、もうあの事件から二十年近く経とうとしていますが、大袈裟でなくともこの事件について知っている中国人はこのまま行けばほとんどいなくなってしまうかもしれません。

 そういうわけで基本、中国の歴史教育というのは戦後の現代史はあまり教えられないという背景から、日中戦争後の国共内戦の辺りで一区切りがつけられ、その後の現代史は曖昧な感じでほとんど教えられないというそうです。
 ここで今日の本題に移りますが、よく一部の日本の人なんかは中国は歪んだ教育をして日本への憎悪を強めさせているなどと言う方がおりますが、以前はともかく現在において私はそういった面はほとんどないのではないかと思います。それは何も現代史があまり教えられからというだけでなく、中国において「歴史」という科目が非常に低い扱いになっているからです。

 その上海人に限らずこれは私が知り合った中国人みんなが口を揃えて言う言葉ですが、「歴史」という科目を真剣に勉強する中国人などほとんどいないそうです。というのも中国の大学受験では「国語」、「数学」、「英語」の主要三科目の配点が非常に高い上に、学部として権威が高いのは理系学部であって、文系学部などではあまり社会でも相手にされないほどらしいのです。日本人なんかでは想像しづらいのですが、中国の大卒の政治家や会社経営者は基本的に理系出身者で、私が逆に日本はみんな文系出身だと言ったらそれでどうやって世の中回していけるのと、おおいに驚かれたことがあります。聞いた感じだと、中国で文系学部に進むということは趣味の世界に入るのと同じような感じじゃないかと思います。

 そんなわけで主要三科目でもない上にあまり相手にされない文系の科目である「歴史」というのは、受験時に役に立たないということから以前から中国の中高生で熱心に勉強する子はどんどん少なくなっているそうです。こうした話を聞いた中国人との会話で私が岳飛の扱いは現在どうかと聞いたら、「君は中国人より中国史に詳しいよ」とまで言われました。なおこの岳飛ですが、荊軻司馬光らと並んで時の中国の政権によって評価が変わりやすい人物の典型です。

 今回一緒に筑波山に行った上海人などはまさにこの典型で、自国の歴史にあまり関心を持っておらず恐らく通史で言えば私の方が詳しい気がします。これはその友人の言ですが、よく日本の右翼は中国の歴史教育は反日色が強いというが、そもそも歴史を真面目に聞く中国人の若者はほとんどいないとのことで、私も何人も中国人から話を聞いている限りそんな印象を受けます。
 逆に現代の中国人は漢文が読めないのに対して、書き下し文で読んでしまう日本人の方が中国史の勉強に熱心な国民なのかもしれません。

2009年5月23日土曜日

週刊新潮誤報記事掲載紙の返金について

弁護士「誤報雑誌に価値なし」 新潮社、読者に返金応じる(YAHOOニュース)

 本当は昨日に書くべきだったこの記事ですが、詳しくはリンク先を見てもらえばわかる通りに、私も以前に散々にこのブログで取り上げた「朝日新聞阪神支局襲撃事件」こと、通称「赤報隊事件」について実行犯の手記と称した誤報記事を載せた週刊新潮がなんと、「あからさまに誤報記事だったのだから金返せ」と言って、連載記事が掲載された雑誌二冊とその購入レシートを新潮社へ送りつけた弁護士に二冊分の金額を返金したそうです。

 まぁ私の正直な感想とすれば金を返せと言う方も言う方だなと思うのですが、実はもしかしたらこんな話になってくるんじゃないかと考え、さすがにレシートまでは取ってはいないものの私も連載記事が載っている雑誌は今も取ってありました。もちろんこれをすぐに送りつけて返せとケチ臭いことを言うつもりは毛頭ありませんが、記事中でも新潮社側の担当者が「誤った対応をしてしまった」と述べていますが、この返金の事実は私も非常に呆れた対応だと言わざるを得ません。

 今回の新潮の誤報記事は明らかに意図的なもので非常に悪意の含まれた記事でしたが、だからといってもし今回のように「誤報を載せた」という事実で返金するのであれば、今後故意に載せたわけではなく結果的に誤報となった記事でも返金せよというようになってしまいますし、どうもこの記事に書かれている弁護士の言い分はそうしろというように見えてしまいます。
 もちろん虚偽の事実を記事に載せるのはあってはならないことですが、だからといって揚げ足取りとばかりにいちいち数百円程度のお金を返金しろと騒ぐのもなんですし、それによって起こるであろう混乱を考えると今回の新潮社の対応は非常に悪しき慣例を作りかねないうかつなものだったでしょう。

2009年5月21日木曜日

私の好きなゲームBGM

 ちょっと今日は時間がないので私が評価するゲームのBGMをいくつか紹介しようと思います。あまり注目されないジャンルですが、歌声なしで如何にゲーム内の雰囲気を伝えるかという目的の元で作られており、中には何度聞いても飽きないほど作りこまれた曲もゲームBGMには少なくないと思います。

1、天地創造(エニックス)
 このゲームはやったことがある人ならわかりますが世界を創造していくというストーリーのアクションゲームで、BGMもどことなくクラッシック的な重厚感を思わせるものが多かった気がします。なおこのゲームとBGMには当時小学生だった私は非常にのめりこみ、わざわざサウンドトラックを購入するに至るほどでした。

2、ロマンシングサガシリーズ(スクウェア)
 今でもYoutubeでよく聞いてしまうほどの名曲の数々で、このシリーズに触れたことから伊藤賢治氏のファンになったほどでした。私の一番のお勧めはロマンシングサガ3の四魔貴族戦(二回目)です。次点として、ロマサガ2のメインテーマも挙げておきます。

3、ラングリッサー4(メサイア)
 多分やったことのある人はほとんどいないであろうやや上級者向けの戦争シュミレーションゲームですが、このシリーズはどれも音楽がよく作りこまれていて、特にシリーズ中でも屈指の難易度を誇ったこの4をクリアした際のエンディング曲はBGMのみながら非常に感動しました。

4、ドラゴンボールZ 超サイヤ伝説(バンダイ)
 クソゲーの宝庫といわれるバンダイのゲームの中としてはまだマシな部類のこのゲームでしたが(それでもバグが多かったけど)、今でも折に触れて思い出すのは最終ボスのフリーザ戦の曲です。はっきり言ってこの戦闘はゴクウを超サイヤ人にすればまず負けないイベント戦みたいな内容なのですが、リズム感と臨場感にとんだBGMと、負けはしないけどなかなか死なないフリーザのしぶとさもあって延々と聞く羽目になったので、今でも時たま懐かしく思う曲です。

5、ドラゴンクエスト5(エニックス)
 ドラクエシリーズはたくさんありますが、私がちょうど小学校低学年の頃に出たこの5がやはり一番思い出深いシリーズです。このゲームで使われている曲はどれも素敵なのですが、一番好きだったのはザコ敵との先頭曲で、なんともいえないあの小気味良さが当時の私の感性をしびれさせました。

6、機動戦士Zガンダム PS版(バンダイ)
 Zガンダムのゲームはたくさんあるのですが、私が特に気に入っていたのはこのPS版の、グリプス戦記中のカミーユとシャアの戦闘をなぞるアクションゲームでした。バンダイにしては非常に作りが良くてアクションゲームとしてもこれは文句なしに高く評価できるゲームなのですが、わざわざこのゲームのために新たにアニメーションも作られており、特に最後のシロッコ、ハマーン、シャアが言いあいをする中でカミーユが割って入り、最後のシロッコ戦へと至る過程のBGMが今でも思い出すだけで鳥肌が立つほどのいい出来でした。
 どうでもいいけど、Zのセリフはどれも応用があって使いやすいのですが、その中でも屈指の名言と私が思っているのが以下のセリフです。

「アッシマーがーっ!」

2009年5月20日水曜日

世の中みんなが社長になったら

 これまた大分前、時間にすると六年も前の話になりますが、ある日友人から前にNHKがやっていた「真剣10代しゃべり場」という番組内でのある討論の話を紹介されました。この番組自体は私は一回も見たことはないのですが、何でも高校生くらいの子達が番組内で集まってテーマごとに忌憚なく意見を言い合う番組だったらしく、その内容に賛否両論が分かれたものの当時はそれなりに話題になった番組らしいのですが、ある回にて一人の高校生の男の子が、

世の中みんなが社長になればいいんじゃないの?」

 という意見を提案したそうです。

 この男の子の意図することには、みんな雇われて上司からがみがみ言われてストレスを溜めながら働くくらいならいっそみんなが社長になってそれぞれバラバラに、自由に仕事をやった方が効率的なんじゃないのという、なんていうか男なら小学生の頃に一度は考えるであろう提案をこの番組でぶちまけたそうです。その結果は案の定というか、他の出演者からボロクソに「世の中そんなに甘くない」とか「うまくいくわけないだろ」とばかりに散々批判され、提案者の子は最後はパンチドランカー状態になったかのように元気をなくしていたそうです。

 この話を紹介してくれた友人は話し終えた後、私に男の子のその提案をどう思うかと聞いたのですが私はというと、「確かに甘い考えといえば甘い考えではあるが、非常に前向きで明るい意見だと思うし、その子の心意気は素晴らしいと思うよ」と答えたところ、友人もそう思うと同調しました。

 確かに社長、というよりは一事業主としてやっていくことは日本に限らずどの国でも大変なことですが、皆が皆それこそ一つの会社の社長のように個人として責任を抱える一方で、自分で自由に裁量できる範囲が今より拡大できればそこそこ世の中面白くなるんじゃないかと個人的に思います。戦後の日本はそれこそ可能な限り横並びであることが重要視されてきましたが、別に法律で決められているわけでもないのに大卒の初任給がどこも20万円±1万円で画一化されているのはやっぱりやり過ぎなんじゃないかなと思ったりします。

 特に私の世代なんかは「個性を強く持て!>(゚Д゚ )」と散々言われてきて育ってきた世代でもあるので、近頃の若者を見ているとなんでもかんでも横並びであるよりは、個人ごとに多少のアレンジがあった方が仕事については働きやすいんじゃないかと思います。まぁ横並びから大きく外れたら、それはそれで不安にかんじる世代でもあるんだけど。

 ここで最初の「みんなが社長になればいい」という意見ですが、さすがにみんな社長になれとまでは言いませんが、私はみんな揃って出勤し、みんな揃って休みを取って、みんな揃って同じ給料の現状に対して、正社員でも個人ごとにいくらか応用の利く様な働き方にこれからは変えていく方が全体の利益に叶うのではないかと提案します。それこそプロ野球選手のように毎年年度末にそれぞれ雇用主に意見を言って、自分の要求を通したり相手の要求を呑んだり、それによって年俸も変動するような、そういった形態がすこしはあってもいいんじゃないかとおもいます。たとえるなら、

「(´д)<あなたはこの一年でこれというスキルアップがなかったとはいえ大きなミスもなく仕事をしてきたので、来期の年俸は今期の維持で300万円でどうでしょう?」
「( ゚Д゚)<私はこの一年、成績の上がらなかった部署にいたので功績など作りようがありませんでした。にも関わらず大きなミスもしなかったのでもう少し上げてください」
「(´д)<それはどこの部署も一緒です。悪かった部署にいたのは考慮しますが、会社全体でみればあなたに特段の功績があったようには思えません」
「( ゚Д゚)<私はこの部署で、うだつの上がらない上司の愚痴を一年間黙って聞いて部署内の調和に貢献したと自負しております。この点を評価してせめて10万アップさせてください」
「(´д)<あなたの上司の愚痴には同情しますが、社会人としては基本的なことなので我慢してください」
「( ゚Д゚)<ではこれから私の上司だけでなく、あなたの上司の愚痴ももう聞いてあげません」
「(´д)<それでは、来期は15万円アップの315万円で契約しましょう」

 という具合に、それぞれインセンティブ的なものがあった方がいいんじゃないかと思います。
 さすがにこの会話文は極端な例ですが、例えば給料を一段下げる代わりに有給休暇日を増やしたり、土曜の午前に出勤する代わりに水曜日は午後から出勤できるようにしたり、全社員で画一的な規則ではなくそれぞれがそれぞれの希望を反映できる働き方の方もあってもいいんじゃないかと思います。さしあたって私は、有給休暇日の範囲内で場所ごとに一日相撲を観戦にいけるように契約したいです。

  おまけ
 中国の一部の企業は年度末などのボーナスが物納で行われるそうです。多分クリスマスプレゼントみたいに決められた金額の範囲内で社員の希望の品を会社が買ってプレゼントするのだと思いますが、これだったら会社の経費で処理できるので、日本にあっても悪くないと思います。なお昔は中国の公務員もこれだったらしく、旧正月の前に魚とか大根を持って帰る官僚がたくさんいたらしく、あの頃の方がアットホームで良かったと懐かしがっている官僚も少なくないようです。

2009年5月19日火曜日

現状分析の必要性

 これは有名なエピソードなので知っている方もたくさんおられると思いますが、元プロ野球選手の牛島和彦氏が現役時代、当時の投手コーチから「9回2死満塁、カウント2-3からどんな球を投げるか?」という質問を受けた際、他の投手がそれぞれの決め球を挙げる中で一人だけ「分からない」と答えたそうです。その理由を問われると牛島氏は、

「どのような状況で2-3となったかによって、最後に投げる球も変わってくる。2-3となるまでの経緯がないと、最後の球も決められない。点差によっても投げる球は変わるし、一概に決められるものではない」(Wikipedia引用)

 というように答えて、コーチも納得したそうです。なお後年に牛島氏はこの時を振り返り、もしこの時のコーチが稲尾和久氏でなければきっと嫌われただろうと述べています。
 これはなかなか含蓄深いエピソードで私も気に入ってよく使っているのですが、この時の牛島氏の発言の趣旨を改めて要約すると、「現状のピンチに対する対策はなぜピンチに至ったのかという過程、そしてそのピンチが今後どれほど広がる可能性があるのかを把握していなければ決められない」というものだと私は理解しています。

 この意味は何も野球に限らず日常の様々な場面でも当てはまり、よくよく考えてみると何かトラブルが起きた際に人は一般的な対処法に頼りがちですが、状況によってはその対処法が逆効果を起こしてしまうことも少なくない気がします。例えばこれはある実例ですが、昔アマゾンの密林に航空機が墜落した際、その後の調査で奇跡的に墜落後も生存していた乗客が何人かいたようなのですが無事に生還したのはたった一人の少女だけだったそうです。
 通常、山で遭難するなどサバイバルな状況になった場合は下手に動いて体力をすり減らすよりもじっと救助を待った方が生存できる確率は高いといわれているのですが、この時の墜落の場合は密林という墜落地が見つけづらい場所であったことから、墜落後にすぐに人里を求めて密林を歩いた少女だけが生き残り、その他の墜落後に生存していたであろう乗客は皆墜落地を動かずに死亡してしまったそうです。なおその墜落地は少女が保護された後に行った証言から判明したそうです。

 このようにサバイバル知識としては非常に一般化している「動かずに救助を待つ」という対処法も、時と状況によっては逆の結果を生むこともあり、よくよく自らの置かれた現状と近く予想される事態を考慮して対策や行動を行うことが非常に重要だと私は考えております。

 そういう意味で現下の政府の経済対策として提出している補正予算案について、私は果たして現状分析がしっかりなされて作られているのか疑問に思ってしまいます。今日街頭に立っていた選挙候補者などは小出しに財政出動はやるべきではなくまとめて一気に行うことが重要だと演説しており、確かにその言も全く理解できないわけではありませんが、どこに問題があると分かって効率的に資金を振りまけるのかというと、今回の補正予算案はエコポイントがなんに還元されるのかがまだ決まっていないのをみるとそういった現状分析はしっかりとなされていないのではないかと思ってしまいます。

 こういう風に思うのも私がやたらと調査にうるさい社会学士の端くれだからかもしれませんが、私は今の補正予算案、ひいては国会を通過した本予算案もいわゆる一般的対処法として戦後扱われ続けた「ケインズ的不況対策」に忠実に則ったものに見えます。ケインズの提唱した政策は確かに過去に実績を挙げたとされますがそれが今回の場合にも適用できるのか、そうした議論が今国会で行われることを期待します。

2009年5月18日月曜日

新型インフルエンザの感染拡大について

 すでに各ニュースでも報道されている通り、これまで数人だった感染者数が先週土曜日から関西地域を中心に急拡大し、今日には確認感染者数だけで百人を超すなど新型インフルエンザが猛威を振るっております。今回の新型インフルエンザはわかっている情報の限りだと、毒性についてはH5N1型の鳥インフルエンザよりは大幅に弱いものの空気感染によって爆発的に広がるなど感染力については折り紙つきといわれており、現在の事態を見る限りそれらの情報に間違いはないと思います。

 さて今回の日本の感染拡大についてですが、当初はカナダに学校主催のツアーにて訪れていた関西の高校生らが国内初の感染者として報告され、現在感染が拡大化している地域が神戸を中心としているのを見るとやはりこの時の潜在的感染者から広まったとみるべきかもしれません。しかしこういってはなんですが、遅かれ早かれこのような事態にはなると予想されていたので、感染が広がっている現在においてそのカナダへの旅行を企図した学校や、初の感染者となった高校生らを非難するのは明らかに間違った行為でしょう。

【新型インフル】「帰ってくるな」「謝れ」…大阪・寝屋川市や学校に中傷殺到(MSNニュース)

 残念なことに、上記にリンクを貼ったニュースでも書かれている通りに中には心無いクレームをつけてくる人間も少なからずいるようです。
 しかしただでさえ感染力の強いこの新型インフルエンザですから、私はそれこそ可能な限りの対策を行ったとしても国内での感染拡大は防げなかったと思います。というのも現在感染者数が多いのはカナダやアメリカ、メキシコといった国ですが、こういった国で感染者が多いのは感染している人間が他国より多いというのも事実ですが、それ以上に感染者がそうであるとわかる医療体制を持つ先進国という要素の方が強いと思います。それこそ発展途上国やお隣のだだっ広い中国にいたってはたとえ感染者がいたとしても、なかなかそれが新型インフルエンザだと気づけないばかりか中国の地方政府によっては感染の事実を隠蔽しようとするところもある気がします。

 言ってしまえばそういった感染者が出ていないと思って旅行したところで帰ってきたら感染していたということもおおいに考えられ、ここ数週間の間に日本が行っていた水際対策が無駄だったとは言いませんが、防ぎきるのには自ずから限界があったでしょう。
 ではこれからどうすればいいかですが、まずは慌てずに落ち着くことです。先ほどの高校生へのクレーマーのように大騒ぎしたところで感染者が減るわけでもないのですし、また一部の報道によると複数の医療機関が今回の新型インフルエンザが疑われない場合においても診療を拒んだという行為も報告されております。警戒を怠るのは以ての外ですが、無用に慌ててパニックを起こすというのもまた愚考です。幸い、今回の新型インフルエンザは毒性はそれほど強くないといわれているので、社会機能が著しく低下するのを避けつつどう感染拡大を防ぐかといった対策の整備を推し進めるのが第一でしょう。

 またこれはまだ結論として出されていないものの、今回の新型インフルエンザは老人にはかかりづらいとアメリカなどから報告されております。これは逆に言うのならば若者ほどかかりやすいということになり、日本でも高校生らが最初に感染した(成人の教師一人も含まれていましたが)事実を考慮するとあながち無視できない傾向のように思えます。だとすると対策で重要になるのはそういった若者の感染をどう防ぐかということで、小、中、高の学校でどれほどまで休校や感染予防対策を採るかが肝心になってきます。さっそく関西の学校では本日から休校になったところが多かったそうですが、それをどこまで行うか、また休校した分の授業をどこで補填するのか、そういった議論が今後必要になってくると思います。