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2010年1月25日月曜日

上海旅行記

 前回の記事の予告通り、金曜夜から出発していた上海旅行から本日帰ってきました。具体的な旅行スケジュールを書くと以下の通りです。

金曜夜:日本から上海へ。夜十時過ぎについて予約していたホテルに着いたのは十二時を過ぎていた。
土曜:友人の上海人と朝早くに合流し、上海中心部をこれでもかといわんばかりにくまなく回る。
日曜:上海人家族とともに郊外へ観光。その後また中心部に戻り観光。
月曜朝:朝九時の飛行機に乗って日本へ帰国。

 一見すると駆け足なスケジュールに見えますが、土日は全日自由に使えたということもあって日程的には随分と楽な旅行でした。

 さてそういったことは置いといて本題ですが、今回の上海旅行は友人を尋ねるという目的のほかに「万博直前の上海はどんな具合なのか」ということを確かめる旅でした。結論から言うと万博直前だからといってオリンピック前の北京ほど浮き足立った雰囲気はなく、むしろ上海がどれだけ中国の中でも特別な町なのかということを強く思い知らされました。

 具体的に何が特別なのかというと、一言で言うならば中国の臭いがしないって点です。あくまで私の印象ですが中国というのは基本的にどこにいっても独特の臭いがしている国で、香辛料の臭いだとかほこりの臭い、他には排気ガスの臭いなど日本などと比べるとそういったものがはっきりしている国だという風に私はこれまで訪れた中国の都市に感じていました。それが今回行った上海となると街全体がほぼ無臭で、おまけに建物から街を歩いている人の格好までほとんど日本人と区別がつきませんでした。

 特に友人である上海人と北京にいたことのある私とのギャップは大きく、上海人は私の予約しているホテルは上海駅の近くにあって浮浪者が多く、治安がよくないために可能ならば変更するべきだとあらかじめ教えてくれていたのですが、いざ実際に着いてみるとそのような浮浪者は少なく、道端で寝っ転がっている人も数人程度で、中国なのにどうしてこんなに浮浪者が少ないのだろうかと思わず私は考えてしまいました。
 こう書くと身も蓋もないような言い方をしているように思われるかもしれませんが、自分がいた頃の北京ではそこらかしこに浮浪者が転がっていて、身なりも他の人と比べて明らかに異彩を放つ、いわゆる地方出身の出稼ぎ農民とすぐわかる人がたくさんいたのですが、上海にも全くいないというわけではなかったのですがそれでもその人数は北京と比べると随分と微々たるもののように感じました。

 また前述の臭いについても、建設現場近くの通りを歩いている際に友人は巻き上がるほこりの臭いに口を押さえて、万博前ということでこういったほこりが多くなったと話していたのですが、一緒にいる私は北京にいた頃にいつも嗅いでいた臭いということでむしろ懐かしさというか、こういう臭いを嗅がないと中国に来たって感じがしないとテンションが上がっていました。
 見方によれば私がいた頃の北京がちょっと特別な時期だったと見ることも出来るのですが、ほかにも行ったことのある大連や瀋陽、南京と比べても上海は傍目には随分と裕福な都市に見えました。

 万博関係については建設現場を見に行っても仕方がないということで敢えて行きませんでした、今まで私も知らなかったのですが、上海万博のマスコットキャラのポスターやぬいぐるみは数多く見かけました。

2010上海万博公式マスコット「海宝」特集ページ

 そのマスコットというのは上記ページの青色したキャラで、名前は「海宝」とかいて「ハイパオ」と言います。あまり日本では今まで報道されていないように見えますが、現地では結構浸透していてイミテーションを含めて様々なグッズがあちこちで売られていました。

 会場予定地から程近い浦東地区には上海人に案内されて足を運びましたが、そこはビジネス街となっている一方で日本の六本木ヒルズよろしく高級住宅街も数多く作られており、住宅街の方にまで来ると中国独特の喧騒はどこ言ったのかと思うくらい急激に静かとなり、二人で夜遅くに道に迷った際はちょっと恐かったくらいでした。
 なおその上海人によると彼が上海でランドマークと目している建物は日本の森ビルが建てたビジネスビルで、周辺で一番高いだけでなく意匠が凝られており確かに一目置くビルでした。

 ちょっとここで補足を入れておきますが、この上海の浦東地区というのは元々は上海の田園地帯で、ほんのちょっと前までは水田の広がっているのどかな地域だったようです。それが経済開発特区に指定されてからは開発ラッシュの波を受け、私の友人の上海人家族も元々はその浦東地区内のアパートに住んでいたのですが立ち退きを受けて(お金はちゃんと払ってもらったそうだが)現在の住所に移ったそうなのですが、かつて彼らが住んでいた場所には現在高いビルが建っており、その土地の地価はもはや手の出せないほどまで高騰しているそうです。
 この上海の地価については上海人との絡みで面白い話もあったのでまた明日にでも紹介しますが、前もって言っておくと日本人の私からしてもその高騰ぶりは目を見張るもので、中国の不動産市場の恐ろしさというか需要の高さを見せ付けられた旅でした。

 最後にこの旅行中に見た、ちょっと面白かったものをいくつか紹介しておきます。

1、三菱ギャラン(8代目)
 多分私が一番こだわりを持っている車種。向こうで日本の中古車が出回ること自体少ないのに、どうしてこの車が走っていたのか、見た時は一瞬あっけに取られてしまいました。

2、道端で大泣きしている女の子
 私と上海人が夕方に繁華街を歩いていると、携帯を持った女の子が一人で大泣きしている現場を通りかかりました。

私「なんだろあの子、道に迷ったのかな?(゚Д゚;)」
上海人「道に迷ってあんなに泣かないよ。多分彼氏に振られたんだろね(´Д` )」

 我ながら、頓珍漢な当て推量をしていました。

2010年1月20日水曜日

JAL破綻についてあれこれ

 すでに各所で報じられているように、JALこと日本航空が会社更生法の適用を申請したことで事実上破綻をすることとなりました。さすがにかつては日本を代表する企業であっただけにどこのメディアでも取り扱いは大きく、その一挙手一足についてあちこちで報じられています。
 リンクこそ貼りませんが昨日にはJALの取引先銀行が今回の破綻を受けて債務放棄を迫られることとなり銀行側へのショックも大きいというニュースがありましたが、元を質せば経営のおかしくなっているJALにほいほい金を貸し続けた銀行側のリスク意識も問題だと思うので私はあまり同情しません。

 むしろ今回の一件で一番同情するのはJALの現役社員です。何に同情するのかというと経営再建のために新たに会長職に就任するのがあの稲盛和夫氏だからで、実際に私が京セラで働いたことがあるというわけではありませんがあそこは京都府民なら誰もが知るほど激務ゆえに離職率の高い会社だと言われており、給与などの待遇はともかくまるで人を部品のように扱って経営を行っているという評判ばかりが耳につくからです。稲盛氏もいろいろ本を書いて会社は人なりとか言ってますが、松下幸之助といい、社員を死ぬまでこき使っても平気な連中というのはみんな似たようなことを言うんだなとこの前友人と話していました。

 そうした余計な邪推は置いといて、この稲盛氏の就任についてなかなかうまい指摘をしている方らがいるのでまずはそれを紹介しておきます。

3人の財界人が語る「稲盛日航」が危ういこれだけの理由(ダイヤモンド社)

 リンク先で語られている意見はというと、要するに今回JALの再建のための会長職に稲盛氏が選ばれたのはその人物の適正さなどというよりもただ単に、民主党と交流のある財界人が稲盛氏しかいなかったからだという意見です。元々稲盛氏は前原国交省の後援会長をやっており長らく民主党と関係のあった人物でその通りなのですが、逆を言えば稲盛氏以外の財界人と民主党関係者は自民党と比べてほとんど伝手がなく、そうした点が今後の政権運営において大きな障害となるのではないかと早くも懸念を持たれております。

 この意見について私は、財界人とのチャンネルが民主党にないということは長所にもなるし短所にもなると今のところは考えております。財界と縁がないということは言い返すなら財界からの応援を見返りとした要望を気にせずに政策を打って出られるということになり、恐らくそれが鳩山首相のCO2の25%削減宣言にもつながった一因だと思います。これ自体がいいかどうかは置いといて。
 実際にこのところニュースを見ていると安倍、福田首相時代にブイブイ言わせていたキャノンの御手洗富士夫経団連会長がこのところ急に露出が減ってきて、そのかわりに早くも次の会長は誰だと現会長そっちのけの意見まで聞こえてきます。

 私なんかこうしたところがなかなかマスメディアにとって皮肉だなと思ってしまうのですが、去年の総選挙前は岡田外務大臣がイオングループの創業者一家であることから民主党が勝利すると選挙後は財界が権力を握るという意見を言うメディアをいくつか見かけたのですが、岡田氏自身があまりお家の看板を掲げないのもあるでしょうが、蓋を開けてみるとこのところ財界の力がめっきり落ちたように思えます。少なくとも安倍首相時代が恐らく戦後以降で経団連が最も力を持っていた頃だと思うので、その頃に比べれば大分弱まったといっても言い切れます。

 その一方で鳩山首相にかけられている疑惑の故人献金の出元は母親からで、その母親の原資はブリジストン株だったので、ある意味では民主党は財界と非常に密着しているという事もできるでしょう。小沢幹事長の疑惑も、こちらは財界とはいえませんがゼネコン絡みだし。
 ただこうした財界との関係は今後の民主党を見ていくうえでいい判断材料になるかと思います。自民党から離れて民主党につくのか、あるいはこのまま財界自体が地盤沈下をおこすのか、またあるいは民主党から財界に近づいていくのか。

 話は大分脱線して行きましたが、最後にこのJALの問題を中途半端な形で終えずに法的整理に持っていった前原国交省は素直に評価していいと思います。本来このJALの問題は数年前には手をつけなければならなかったのを自民党が全く手をつけなかったのを、トップダウンにて一気にここまで持ってきて今後民主党が下野してもひっくり返されない状態にしたのは大したものです。

つくば市VS早稲田大学 回らぬ風車対決二審判決

 人間、いろんなものを書いておくものだなぁと、今日は自分のブログを見るなり思いました。

早稲田大学のつくば市風車裁判の判決

 リンク先は2008年に書いたFC2の方の私のブログ記事ですが、今日ちょっとアクセスを見ていたらなんとこんな以前の記事にもかかわらず今日だけで二つも拍手コメントがついておりました。一体何故こんなことが起きたのかというと、今日このつくば市と早稲田大学の回らない風車についての裁判で二審判決が下りたというのが原因と見て間違いないでしょう。

回らぬ風車、控訴審判決は「つくば市の過失が大」早大の賠償を減額(産経新聞)

 詳しくは私の元の記事を読んでもらいたいのですが概要を簡単に説明すると、環境にいいエネルギーを作ろうってことでつくば市が早稲田大学に委託して風力発電が出来る風車を三億円も掛けて市内のあちこちに作らせたのですが、なんとこれが当初試算された発電量を得るどころか全然回らず、結局無駄金だけ使ってしまったので金返せとつくば市が早稲田に起こした裁判です。
 一審ではつくば市の言い分が通って早稲田側に二億円の賠償金を課す判決が出たのですが、今日下りた二審では当初の試算を下回る発電量になることを市側も認識していたとして、前回は早稲田とつくば市の過失割合は七対三だったのが、今度の判決ではつくば市側の過失の方が重いとして見事にひっくり返り三対七とされ、早稲田側に課される賠償金額も二億円から約九千万円へと大幅に減額されました。(過失割合が一割増えるごとに約三千万円ほど上がる計算でしょうね)

 きちんと裁判を傍聴せずにこんなこと言うのもなんですが、確かにつくば市も今回過失として指摘されたクリーンエネルギー事業をやると国から補助金が出るという話に飛びついたというのも不自然ではなく恐らくあったかと思いますが、それでも早稲田大学を上回る過失があったかといえば私はそれはやりすぎじゃないかと思います。仮に過失割合が五対五ならまだしも、書いた本人もすっかり忘れていましたが早稲田側はこの裁判の始まった当初にて、「試算された発電量は、作られた風車の三倍の大きさのものであった」と言っていた辺り、やっぱり私は早稲田側の過失の方が大きいように思います。これまた元の記事で書いていますが、作られた風車を早稲田の主張する三倍の大きさのものにすると羽の長さは約15メートルにも及び、これほど巨大な風車で試算をしたというのは苦し紛れの言い訳にしか聞こえません。こんなでかいの作って、マイクロウェーブでも受信するつもりなのか?

 それにしても昔の記事がこんなことで日の目を見ることもあるんですね。去年に取り上げられた法人税についての記事でもそうですけど、これからももっとこういう風に過去の記事が日の目を浴びる機会が増えたらこの上ないのですが。

2010年1月19日火曜日

三国志の成り立ち その二

 前回に引き続き三国志の成り立ちの話です。

 さて前回では正史三国志の後に裴松之の「注三国志」が現れ三国時代の話がまとめられていったというところまで話しましたが、この注三国志には当時にまで伝えられていた様々な三国志に関連する書物が引用されており、その中には東晋時代にいた習鑿歯(しゅうさくし)の「漢晋春秋」という特筆すべき書物も入っておりました。この漢晋春秋が何故特筆すべきなのかというと、筆者の習鑿歯の先祖は陳寿同様に蜀に使えていた官僚で、そういった影響からか彼は自分の著作にて歴史上初めて魏ではなく蜀こそが正当な王朝であると主張したのです。

 もっとも蜀を正当王朝とする意見はこの東晋時代には徐々に広まっており、当時の知識人らが残した日記においても三国志の講談をすると曹操が勝つ場面で聴衆はくやしがり、劉備が勝つ場面では喝采が集まったと記されております。ただこうした人物の選り好みや贔屓以上に、この時代の漢民族が置かれた状況が蜀正当論に拍車を掛けたのだろうという意見が現代では有力です。

 ちょっとややこしい話になりますが三国時代が終わった後には晋という王朝が出来るのですが、この晋という王朝は出来るやすぐに激しい内乱が起こり、そこにつけこんだ北方異民族によってあっさりと中国の北半分を占領されて漢民族は南方へと追いやられてしまいます。中国史ではこの晋という王朝を南方へ追い込まれるまでを西晋と呼び、追い込まれてからは東晋として区別しているのですが、習鑿歯のいた東晋時代はそれまで中央文化圏であった北方地域が異民族に占領され、逆に蛮地とされていた南方地域に漢民族が住んでいた時代だったのです。

 こうした時代背景ゆえに、北方地域を異民族が占領している中で三国時代にその地域を領有していた魏を正当王朝とすると当時の漢民族には具合が悪く、それよりもむしろ南方の蜀や呉を正当王朝とすることで自分達が現在置かれている状況でも正当性を保てることから蜀漢正当論が強まったとされております。無論これ以外にも曹操が恐怖政治に近い手法を取っていたのも影響しているでしょうが、基本的に私はこの意見に同感です。

 さてそういったもんだから、注三国志以降はどれも蜀贔屓の三国志ばかりとなって行きます。注三国志のすぐ後に成立したであろう「世説新語」はまだ注三国志と似たような逸話集なのですが、元代に成立した小説の「新全相三国志平話」に至っては三国志演義以上に蜀中心に偏って書かれており、魏や呉の場面が極端に少なくなっております。また当時は小説に限らず三国志を題材にした講談も各所で行われ、こうした様々な文学的要素を下地にして作られたのが現在の我々が手に取る「三国志演義」というわけです。

 三国志演義は元末から明初に羅貫中がそれまでに伝わっている話をまとめた小説で、一般に三国志の話と言われたら基本的にこの演義の話を指すほどスタンダードな代物となっております。ただこの演義はあまりにもスタンダード過ぎて実際の史実と脚色の演出部分がわかり辛く、清代の学者の章学誠に「七部が真実で三部が虚構。しばしば読者を混乱させる」と評されておりますがまさにその通りな代物です。

 こうしてオーソドックスな三国志は完成を見るわけなのですが、もちろん日本人の我々には漢文で書かれた三国志を読めるわけではなく、訳本なりなんなりでなければ読むことは出来ません。余談ですがかつて高校で漢文マスターと呼ばれた上に中国語も習得したこの私ですら、内容もわかっているはずなのに三国志の原文を見てもさっぱり読めませんでした。

 ではそんな日本人にとってのオーソドックスな三国志はというと、昭和期の作家の吉川英治氏の「三国志」がまさにこれに当たるでしょう。私が評するのもなんですがこの吉川英治版三国志というのは非常によく出来ており、日本人があまり好まない幽霊が出てくる場面や食人の場面をことごとくカットした上で丁寧に日本人に合わせて作られております。そんな吉川英治氏に続いて柴田連三郎氏、陳舜臣氏などもそれぞれの筆で三国志を書いておりますが、やはり吉川版には及ばないというのが実情ではないかと思います。

 そんな吉川英治氏に次いで強い影響力を持っているのが、私の贔屓も入っていますが横山光輝氏による漫画版「三国志」でしょう。私もこの横山版三国志の一巻をゴミ捨て場で拾ったのが運の尽きで中国に留学するほどはまることとなったわけですが、あの膨大な内容の三国志を漫画化したというのは偉業以外の何者でもないでしょう。連載期間は15年間にも及びましたが、横山氏は途中からこのままでは書ききれないとして毎月100ページを執筆して連載を続けていたというのですから頭が下がります。
 なおこれまた余談ですが、横山氏が当時連載していた雑誌が休刊してしまったせいで話が一度中断してしまい、そのせいで載るはずだった一回分の原稿が収録されずに終わってしまったことがあったそうです。その回を横山氏は官渡の戦いのあたりと述べていますが、実際にこの辺りを読み返すと程昱の十面埋伏の計、劉備の汝南の戦い、袁氏の滅亡といった過程がすっ飛ばされて一気に年代ジャンプしているのがわかります。

 このほか三国志を取り扱った漫画は「蒼天航路」や「龍狼伝」などありますが、後者はもはやただのバトル漫画と化しているのであまり評価はしておりません。また漫画に限らず現代では私も頭がおかしくなるほど遊んだ光栄(現コーエー)の「信長の野望シリーズ」と並ぶシミュレーションゲーム「三国志シリーズ」、同じく光栄の「真三国無双シリーズ」も新たな三国志ファンの開拓に大きく貢献しているでしょう。

 私がこの三国志に触れた小学生の頃、いつか三国志を題材に小説を書いてみせると北斗七星に誓いましたが、その日はまだまだ遠そうです。とはいえこうして三国志についてながなが書けるのだから、私のハマリ具合もまだまだ捨てたもんじゃないなと思います。

  参考文献
三国志グラフィティ シブサワ・コウ編 光栄 1996年

2010年1月18日月曜日

三国志の成り立ち その一

 折角先の記事にて、よりによってこの私に向かって三国志の正史と演義の区別もつかない奴だと妙なコメントした奴のことを晒したので、前から書こうと思っていた三国志の成り立ちについてここでご紹介します。

 まず皆さん知っての通りに三国志というのは紀元後二世紀末から三世紀中盤までの間、三つの国(国号)が並立して存在していた中国の時代、またはそれを題材にした物語のことを指しております。この言葉の由来は三国時代の後に中国を統一した晋朝において、この時代の歴史書として晋朝の官僚であった陳寿によってまとめられた「三国志」という書物からつけられており、ほぼすべての三国志の物語はこの陳寿編纂による三国志を原典にしてあると言っても過言ではありません。なおこの陳寿の三国志は他の多くの三国志を題材にした物語らと区別するために、通常は「三国志正史」であったり、単純に「正史」と呼ばれております。

 この三国志正史は純粋な紀伝体の歴史書で、他に確認する術はないですが三国志における歴史事実はすべてこれに準拠しているかどうかで史実であるかどうかが判断されております。また最近奈良県が卑弥呼の墓が見つかったとして最近えらく勢いづいていますが、この卑弥呼の邪馬台国について書かれている「魏志倭人伝」というのはこの三国志正史の中に収められている史料で、日本とも縁の深い史料でもあります。
 ついでなのでここで書いておきますが、三国志の「志」の文字の意味は日本語みたいに意志とか志しを表す意味ではなく、単純に雑誌や週刊誌などの「誌」という本や史料といった意味を持っております。今でも中国語では雑誌のことを「雑志」という風に書きます。「雑」の字は簡体字になるけど。

 話は戻りこの正史三国志の評価ですが、全般的に記事が簡略でよくまとめられていることから他の史料と比較しても高い評価を受けております。また作者の陳寿は元々は蜀の官僚であったにもかかわらず魏を正当王朝として書いていることも公平性が高いと言われておりますが、この点は書かせたのが魏を継承した晋朝なのですから当たり前といえば当たり前ですが。
 ただそんな陳寿の正史三国志にも一つだけ大きくケチがつけられる点があり、それは何を隠そう三国志における最重要人物といっていい諸葛亮孔明にについてやや冷淡に書いている点です。陳寿は諸葛亮の項目において、

「内政、外交といった方面においてよく事を熟知していたが、長らく魏との戦乱でついに勝利を得ることが出来なかったのは応変な戦術に欠けるところがあったからだろう」

 と、政治家としては一流でも軍略家としては二流だったとまとめております。
 同時代の他の人物が遺した史料などでも当時からすでに諸葛亮の神格化とも言うべき高評価がされていたことがわかる中、この陳寿の評価はそれらとは一線を画す異彩を放つ評価です。この点については様々な意見が交わされていますが、こうした周囲に囚われない冷静な評価が三国志正史における公平性を証明しているなどともいわれております。

 こうしてすべての原典の正史三国志は成立したわけなのですが、実は現代の我々が見聞きする大部分の三国志の逸話はこの中には収められておりません。特に最も割りを食っているのは蜀の趙雲で、彼の記述については長坂破で劉備の息子の阿斗を救ったとだけしか書かれておらず、小説「三国志演義」にて書かれている彼のスーパー超人ばりの活躍は皆無に等しいです。
 ではそういった話はどこから補填されていったのかですが、実はここからが本当の話のミソで、原典の「正史三国志」から我々が一般に見聞きする小説の「三国志演義」が成立するまでの過程には実に様々な三国志が他にもあるのです。

 そういった三国志を補填していった史料の中で代表的とも言える第一弾というのも、南北朝時代の宋朝の官僚であった裴松之(はいしょうし)によって編纂された「注三国志」です。業界用語ではこの史料のことを編纂者から「裴注」と読んでおりますが、これは陳寿の三国志正史を含め当時までに様々な形で伝えられていた三国志について書かれた書物を綿密にまとめ上げ、原典の記述の正誤を判断するとともに異説、別説も併記しており、物語としての三国志演義の成立に正史以上に貢献しているだろうと言われております。
 ちなみにこの裴注で取り上げられている異説の中には、裴松之自身も信頼度は低いとしながらも、終盤で蜀を裏切って粛清にあった魏延の方が先に蜀の楊儀らに裏切られたという話も載せられています。

 思っていた以上に力が入ってきたので、続きはまた次回にて。

2010年1月17日日曜日

人口減の何が問題なのか

 Sophieさんの「フランスの日々」をこのところ見ていると、なんかしつこく面倒そうなコメントをしている人がよくやってきていて傍目にも大変そうに映ります。私のブログではあんまりそういう変なコメントは少ないですけど、記事の内容にあまり関係なく感情的にただ賤しめるだけのコメントとか来るとやはり頭に来るものです。
 折角ですので一つ晒すと、出張所の方の「私選、三国志名場面トップ3」という記事にて、特に記事中では言及していませんが小説の三国志演義の名場面をピックアップしているのに何故か、「正史を知らんな。いつもの悪い癖?話にならん。」という、勝手に正史準拠だと決め付けてコメントしたこのbuteiという人にはこんな読解力もない人間でも文字の読み書きは出来るんだと、怒りを通り越して笑っちゃいました。ちなみにこの記事で挙げた三つの場面は、正史でも演義でも大差ない場面です。

 逆に辛らつなコメントでもそれが非常に的を得ている、私が見落としている内容の指摘である場合は逆にうれしく感じます。ブログ上だけではありませんが、実際の議論でも人を批判する際に落ち着いて着実なことを指摘する人はこちらからの意見にもよく聞く耳を持ってくれる人が多いのですが、その逆の批判をする際に入れなくてもいい罵倒語を必ず入れる人ってのはあまり関わっても得るものが少ないです。

 そういったことはさておき、このところのSophieさんのこれからの日本について提起している記事に寄せられているコメントにてよく、「日本は少子化だから駄目だ」、「人口減の中でそんなうまくいかない」などという意見がよく目に付きます。

 この人口減という言葉ですが、結論から述べると私はこれは世間で言われているほど日本の国力、というよりは日本人の未来を削いでしまう原因ではないと前から考えています。そうは言っても人口が減れば税収は減るし、年金制度は成り立たなくなるし、働き手もいなくなるじゃないかとみなさん思われるかも知れません。
 しかしここで冷静に考えてください。人口が減るということはその人口を支えるために必要な作業、資金、人員の数も同時に減るということです。一例を挙げると一億人の社会の人口を支えるために必要になる食糧生産量は、人口が半減するとそのまま必要な量も半減します。同様に介護に必要な人員、年金制度維持に必要な税収も半分になり、人口が減ること即すべてが成り立たなくなるという意味ではありません。

 しかしそうは言っても今の日本は急激な少子化社会で、これまで勤労者十人で一人の老人の年金を支えていたのに対してこのまま行くと勤労者二人で一人の老人の年金を支えなければならなくなるので、日本人一人当たりの負担が大きくなるというのは事実です。しかしこれなんか自分も結構調べましたが、団塊の世代に当たる1946年から1948年生まれの人口が今の日本の中で突出しており、言い方は悪いですがこれらの方が年金を受け取り始めて亡くなられるまでの受給期間を乗り越えさえすれば日本の人口ピラミッドの構造は大分改善されます。因みに平均寿命を80歳とするとその乗り越えねばならない期間は2011年から2028年の18年間です。

 私は以前からそういう風に考えており、いわばこの18年間をどうやり過ごすか、この間のみ時限立法のようにして新たな税金を徴収したり基金を積み立てさえすれば最悪の事態は避けえたのではないかと考えていました。
 しかし現実はというと、この年金の問題が大きく取り扱われるようになった2004年から6年経った今でも、なんら制度の改革や対策は打たれませんでした。

 ここで今日二つ目の結論ですが、日本の人口減が何故ここまで大きな問題になったのかというと、政府がこういう風に少子化になっていく傾向が明らかにわかっていたにもかかわらず、そのような社会に対応した制度へとなんら改正せずに元の制度を維持し続けていたから問題になっているのです。言ってしまえばそもそもの少子化対策も90年代初期にはこのままじゃまずいとわかっていたはずなのに、今の今までこれという少子化対策がなされてきませんでした。また年金制度についても、早くからとっかかっていればどうとでもなんとでも対応はまだ効きました。つまり人口減自体が問題ではなく、その傾向に対して何の対策もせずに放っていた政府が一番問題なのだと私は言いたいのです。
 さらに言うと日本政府、というより官庁は90年代からほぼ一貫して日本の経済力が毎年5%前後成長することを前提にしてこの様な制度を作り、維持し続けてきました。しかしのっけから日本の経済成長はそんな5%はおろかマイナス成長する年もあり、そうした低成長時代もまるきり想定されておりません。

 こうした問題は現在進行形でまだ続いており、手を打つのが遅ければ遅いほど傷口が広がっていく問題です。更にここで思い切って対策を打とうとしても、すでに国債が山と詰まれた現状では十年前、二十年前と比べると使える手段の幅も大きく狭められているのも事実です。
 基本的に世の中というものは単純な図式を求めたがるもので、この問題も「日本の社会が悪いのは少子化、人口が減っているからだ」、という意見がわかりやすくて単純なもんだからあちこちで飛び交っているのでしょうが、一体これらがどのようにして社会に悪影響を与えるのかきちんと認識しておく必要があるでしょう。また政府の、「日本が駄目なのは少子化のせいだから、もっと子供を生めよ増やせよ」という意見に対して、「日本が駄目なのは少子化に対応する政策を作れない政府が悪い」と言い返す態度も時には必要かと思います。

  補足
 人口が減る場合、その当該社会の中はともかく外国との通商が絡むとGDPが下がるので国力が落ちるのは事実です。日本は食糧を海外から調達しているのでその点ではちょっと弱くはなりますが、その分自給率を上げるなどといった対策で人口減社会に対応はまだ可能だと私は思います。

2010年1月16日土曜日

何故今の若者は指示待ち型なのか

 もしかしたらずっと以前からも同じことが言われ続けているのかもしれませんが、現代の若者はよく上司からの指示を待つだけで自分から率先して動こうとせず、指示待ち型、もしくはあらかじめ手順が決められた行動を欲しがるマニュアル型の人間が多いという言葉をよく聞きます。結論から言うと私はこれらの意見に対し、やっぱり一若者として納得いかない点も少なくなく、そこまで言われる筋合いはないと言い返したい気持ちが強くあります。

 まず率先する行動力がないと言われる点ですが、私の方からするとたとえそれが状況の好転につながることがはっきりわかっているとしても、勝手な行動一つ取ろうものなら上下左右のオールレンジから集中砲火を食らって叱られる、注意されるからそうならざるを得ないというのが実情かと思われます。実際に私も幾度かそういう体験をしておりますが、その際に言われたのは、「今回はたまたまうまくいっただけだ。二度とこんな勝手な真似はするな!」でした。そのくせ、「ちゃんと自分で考えて行動しろ。いちいち指示を待ってるんじゃない!」とも言われるのだから正直たまったものじゃなかったですけど。

 そういった個人的な話は置いといて、では何故今の若者は上の世代から見てそういったマニュアル型の人間が多くなったのかについてこの前考えたのですが、細かい理由はいくつか挙がってくるもののこれという決め手にかける理由がなかなか見つかりませんでした。そこでちょっと発送を転換して逆にマニュアルに沿うことが強く求められている現場や社会性はないのかと考えたら、浮かんできたのが近年増えている中学受験、並びに大学受験でした。

 これなんか私が子供の頃によく言われてた言葉ですが、いい学校に受かっていい大学に行けばいい人生を送れる、だから何も考えず親の言うことにしたがって勉強しろ、と。
 別に私に限らずとも、少なくとも90年代の間はいい大学を卒業すれば大企業に入れるというマニュアル通りの人生をみんな多かれ少なかれ信じていたと思います。もっとも就職氷河期に突入した今では当座の生活をどうするかにみんな目がいっているのか、近年の進学先は実家から通える範囲の地元の大学というのが多いそうですが。

 言ってしまえば、大人がいい大学に行けば大企業に入れるというマニュアルに沿ったライフコースを信じ、子供にそれを歩むことを課していたのではないかと思います。そうして育った子供が大人になったのが現代で、いわばマニュアル型の若者を作っていたのはほかならぬその子供の親こと現代の若者より上の世代なのではないかと考えたわけです。

 昔、「学歴なんて関係ない。東大に行って言ってみたい」というクズなキャッチコピーで宣伝していた予備校がありましたが、就職難の時代ゆえに現代ではある意味でそんな状況に近くなってきた気がします。その一方で大企業に入るためにはやはり学歴は重視される傾向はまだ残っているそうですし、一体何を信じたらいいのかが難しい世の中でもあります。
 折しも今日は大学入試センター試験日でしたが、今の受験生達が社会に出る頃には私も覇気がない奴らだと言ってしまうのかもしれません。