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2011年9月20日火曜日

産業空洞化懸念に対する一つの意見

 もはや1ドル70円台が定着しつつある日本の円高状況ですが、この円高に伴いメーカーの海外進出は確実に増えてきております。メーカーからしたら日本で物を作るだけでどんどんと損失が増えるような状況ですし、この異常なまでの急激な円高を考えると彼らに対して「出ていかないでつД`)」などとはとても言えません。
 しかしこうしたメーカーの動きに対して主に政界などから、工場が海外に移転していくことで日本国内の技術力の低下、産業の空洞化が広がってしまうのではという意見がこのところ出てきており、なにか優遇策を付けてでも日本に残ってもらうべきではないか検討するべきという声も聞こえます。こうした産業空洞化懸念に対する私の意見は至極その通りだと考えており、これまでのグローバリズム化による空洞化懸念(通称、いくいく詐欺)とは違い、今回の円高は真面目に企業の生き死にもかかっているだけあって何かしら対策を打つことも必要性を感じます。具体例を一個あげちゃうと東レがこれまで日本でしか作ってこなかった強化炭素繊維の工場を顧客も多い韓国にも作るとこの夏に発表しており、東レを責めるつもりは全くありませんがこれにはさすがに冷や汗を垂らしました。

 ただこうして産業空洞化の対策を打つべきと主張する一方、技術や製品によってはこの際に日本は捨ててしまうべきなのではないかと真逆の意見も私は持ち合わせております。極端な意見に聞こえるかもしれませんがこうした「技術の放棄」についてこのところ真剣に考えているので、今日はちょっとその辺について軽く触れます。

 ここで私の言う技術の放棄とは文字通り、特定の技術を完全に捨て去り関連する製品や部品の日本での製造をやめてしまうことです。捨て去るべき特定の技術とは具体的に言うと、「日本国内で製造しても採算の取れない技術」、「今後新技術に取って代わられる可能性が高い技術」のことで、身近な例を挙げると白物家電とかがこれに当てはまります。また後者の例だと、ガソリン車から電気自動車に移り変わる過程でなくなるエンジン、ラジエーター、マフラーなどといった部品の製造技術がそうです。
 何故これらの技術を捨て去るべきだと主張するのかですがこれはごくごく単純な理由で、今だったらまだお金に換えられる可能性があるからです。日本では採算の取れない技術でも中国や他の新興国ではまだ必要とされている技術も多く、多少プライドにも関わりますがどうせ日本では使えないのであればそれらの国々の企業にこの際に売ってしまい、売って得たお金で新技術やまだ採算の取れる技術に注力した方がまだ未来につながるのではないかというわけです。

 またもう一点こうした案を持つ理由を挙げると、団塊世代が大量退職した時期にはよく技術の継承問題が盛んに言われてきましたが、私は技術というものはなんでもかんでも継承するべきでなく、物によっては継承してはならない技術もあると考えています。私がこう思うのも既に何度かこのブログでも書いていますが、以前に親戚から、

「昔に家電メーカーでブラウン管テレビ作っていた連中は今は悲惨だ。ブラウン管テレビ自体がもう日本では作られなくなったし、ほかの方面に技術を転用することもできないから完全に日干し状態だ」

 という話を聞いたことがあり、芸は身を助けるとはいうものの企業内である特定の技術に染まったらなかなかそこから脱却できず、その技術の衰退と命運をともにしてしまう可能性が高いからです。それこそ下手に今後使われなくなる可能性の高い技術の継承をしてしまったらその技術を継承した人間はすぐにお払い箱になってしまうこともありうるわけで、こんなことを言ってろくでなしと言われても仕方ありませんが、死ぬ人間は少ない方がいいに決まっており、死ぬべき技術は継承なんかして犠牲者を増やすべきじゃないと私は考えています。

 このような観点から言って、技術を早めに捨てるという選択肢も今の日本には求められているのではないでしょうか。一つのモデルケースとして私が今現在でよく使っているのは、IBMによるLENOVOへのパソコンハード部門の売却で、この例は他山の石にしてはならないと思います。さらについでに書くとHPも今度ハード部門を売却すると言ってて、台湾のノートPCメーカーらは「サムスンが買わないように」と祈ってます。
 また技術を売るにもタイミングというものがあります。ほっといても新興国でもどんどんと腕を磨いてきますし後になって売ろうと思っても相手してくれなくなることも十分ありうるわけで、将来性がないと判断するのであれば決断を早くし、失敗するかもしれませんが新たな方面へ売却で得たお金を投資する方がまだ生き残る可能性も広がるのではと思います。

 この際だからもうはっきりと書いちゃいますが、液晶について言えば日系メーカーはもう完全に撤退した方がいいでしょう。有機ELならまだ投資する価値がありますが、液晶はこの後はどうあがいても採算は取れず赤字を生むだけです。なんせ韓国、中国メーカーですら手に余るくらいなんだし。
 同様にさっき挙げた一部の自動車部品においても、発展する見込みがなく電気自動車には使われないものだったら捨てるべきかどうかを検討すべきです。一つの技術で死ぬまで食べていける時代ではもうないのです。

 じゃあそうした技術を捨てた後で今度は何に投資するべきなのか。実は一つ、凄い気になっている技術があります。

【TGS 2011】脳波で猫耳を動かそう!neurowearの「necomimi」(インサイド)

 実物を見たわけじゃないですが脳波で猫耳が動くって、何気にこれはとんでもないものなんじゃないかとこのところ注目しております。それこそ萌えにとってはただの一歩だが、人類にとっては大きな一歩っていうくらい。
 いちおう注意書きを書いておきますが私がここで主張する「有望な投資先」というのは猫耳ではなく、脳波感知系です。ガンダム風に言うならサイコミュですが、このニュースが出る以前にも今後自動車にどのようなものを付けたら付加価値が付くのかと考えており、あるとしたらやはり曲がろうと思っただけでウィンカーが自動的につくサイコミュしかないと思っていた矢先でした。

 これ以外のサイコミュの運用先となると、風呂に入ってて湯加減を自動で感知して温度を調節するとか、その日の気分で音量が自動で変わるスピーカーとかせこいものばかり浮かびますが、最大の運用先となるとやはり軍需産業です。それこそガンダムに出てくるファンネルなどといった脳波でコントロールする無人兵器さえ作れたら某米国など一瞬で叩きのめせるわけですし、夢は限りなく広がります。ただファンネルの場合だとハード面はもとよりソフト面も強化が必要で、なんとしてでもギュネイ・ガスを超える強化人間も作る必要があります。

 別にこの記事に限るわけじゃありませんが、前半と後半で語る内容に大きな差を感じます。ひょっとしたら自分は後半部を書くためだけに、わざわざ前半部を用意して引きを作ったんじゃないかと、自分で自分に妙な疑念を抱くくらいだこの記事に関しては。

2011年9月19日月曜日

東條英機に対する私の評価

 太平洋戦争開始時の首相、そしてA級戦犯の代表格ということで有名な東條英機ですが、彼の評価については現代において色々あって分かれており、あくまで私感で述べると昭和の時代までは時局もあったのか否定的な評価が支配的でしたが近年は逆評価のような肯定的な評価のされ方が増えて来ているように思います。そんな東條に対する私の評価をどんなものかというと、先に書いてしまうとこの人は首相、軍人である以前に人としてもどうかと思うほどどうしようもない人物だったと見ています。

東条英機(Wikipedia)

 東條の詳しい来歴などについては省略するので、興味のある方は上記ウィキペディアの記事をご参照ください。まず東條への批判として最も多いのは勝算の見込みが全くないにもかかわらず太平洋戦争を開戦した(参謀本部はシミュレーションだと全部日本の敗戦だったのに、「勝負はやってみるまで分からないよ( ゚∀゚)」と言い切ったらしい)という点が挙がってくるでしょうが、これについては私はあまり気にしていません。何故なら東條一人が旗を振ったから当時にあの戦争に突入したわけでなくそれ以前からの長年の積み重ねと、これは近年になってようやく主張できるようになりましたが軍部だけでなく当時は国民の大半も中国、アメリカとの戦争を望んでいました。それゆえ東條がたとえ存在しなくとも戦争に突入したであろうと私は考え、開戦の責任まで東條に負わせるのは真相を解き明かす上で致命的な躓きになりかねないと考えています。

 ではそんな東條のどこが嫌いなのかといえば、我ながら結構細かいですが一つ一つのエピソードがどれも気違いじみているところに激しい嫌悪感を覚えます。そんな気違いじみたエピソードの代表格は、バーデン=バーデンの密約で、これは大学受験レベルの日本史ではまず出てこないのですが是非とも後世に伝えるために指導するべきだと私一人で主張している史実です。これは1921年に東條を含む欧州に滞在していた陸軍若手官僚同士がドイツのバーデン=バーデンに集まり、陸軍の近代化や後に国家総動員法として後に実施される案をお互い一致団結して目指すということを誓ったという会合で、この時集まったメンバーらは後の統制派、皇道派という戦前陸軍の二大派閥の指導者となっていきます。

 仮にこれだけの内容であればさして気にするほどでもないのですが、この時に示し合わされた議題の一つに当時の陸軍で権勢を振るっていた長州閥の排除も含まれていました。東條自身も自分の父英教が陸大一期を首席で卒業したにもかかわらず大将にまで昇進しなかったのは長州閥でなかったせいだと信じ込んでいた節があり(事実かどうかは不明)、長州閥への憎悪は強かったようです。
 そんなことを誓い合った東條達はどんな方法で長州閥の追い出しにかかったのかというと、なんと自分たちが陸大の入学選抜に関わって長州出身者を徹底的に排除するというやり方を取りました。具体的にどんな方法かウィキペディアの記事によると、入学選抜の口頭試験において長州出身者のみに対し、「貴官は校門から、試験会場まで、何歩で到着した?」、「陸軍大学のトイレに便器はいくつあるのか?」などという全然選抜する上で関係のなく、答えられるはずのない質問をして落としていったそうです。その甲斐あってある年を境に長州出身の陸大入学者は、陸大が廃止されるまで10年以上に渡って現れることがありませんでした。

 このエピソードだけでも十分神経というかいろいろ疑うのですがこれ以外にもこういった人間の小ささをアピールするかのようなエピソードが東條には多く、陸軍内部で人事権を握るや能力如何にかかわらず自分と馬が合うかどうかで人事を決めていき、戦時中もノモンハン事件の辻正信やインパール作戦の牟田口廉也など軍人として致命的なまでに能力が欠けていて実際に大失敗をやらかした人物らに対し、「名誉挽回のチャンスを与えねば」と、どんどんと中央に上げていって戦争指揮を任せています。その一方で陸軍内部で良識派と呼ばれ実際に多大な戦果を挙げた今村均や山下奉文については「仲間」だと判断しなかったせいか、中央に呼び寄せることなく延々と現地司令官のままに据え置きました。石原莞爾に至ってはお互いに犬猿の仲だったこともあり、左遷から予備役にまで追い込んでます。

 このほかにも戦時中に、「竹槍で勝てるものか」と批判記事を書いた毎日新聞の新名丈夫記者(当時37歳)を報復のために硫黄島へ送ろうとしたり、東條内閣退陣を促そうとした逓信省工務局長の松前重義(当時42歳)を二等兵として招集し、こちらは実際に南方に送っています。しかも40代という明らかに徴兵年齢としては高齢過ぎる松前を目立たせないよう、松前に近い年齢の老兵を合わせて数百人も招集するほどの手の入れようだったそうです。
 極めつけが終戦直後で、戦時中に「敵の捕虜になるくらいなら自決しろ!」と言っていたにもかかわらず本人は阿南大将と違ってなかなか自決せず、GHQが逮捕に来た段階に至ってようやく拳銃自殺を図り、案の定未遂に終わっています。この時に東條は腹部を撃っていますが、いろいろ意見が言われているものの普通自決するなら頭を撃つのが自然じゃないかと思いますし、そもそももっと早くに自決してればよかったのではという気がしてなりません。公家出身の近衛文麿ですら当時既に自決してたのに。

 その後は知っての通りに東条は極東国際軍事裁判で裁かれるわけですが、この裁判において東條は戦争責任が昭和天皇に及ばないように自身がスケープゴートになろうと努めたと巷間言われておりますが、私はこの説に対して率直に疑っております。東條自身がスケープゴートたらんという意識を持っていたということに対しては否定しませんが、東條がそう務めたからと言って何かが変わったのかといえば何も変わりはしなかったと思います。こう思う根拠としてアメリカは日本のポツダム宣言受諾以前から対日占領政策を研究しており、その研究の中で天皇制を維持することは占領政策にかなうとはっきりと結論を出しており、天皇への戦争責任は初めから見逃されることが決まっていたからです。
 そのためこういうと実も蓋もないですが、東條=スケープゴート説というのは彼を無理矢理にでも肯定的に評価しようとする人たちに作られた説、もしくは東条とその支援者らが自己満足するために作られた話ではないかと見ています。第一、スケープゴートになろうってんなら初めから自決未遂なんかしてるんじゃないよと言いたいし。少なくとも、東條がいてもいなくても昭和天皇は戦争責任から外されていたであろうことを考えると取り上げる価値もありません。

 最後に東條の靖国合祀について一言を添えると、「死ねと命令した人間」と「死ねと命令された人間」が同じ場所に合祀されるのはやはりおかしな気がします。それもまともな戦争指揮ならともかくインパール作戦をはじめとしたかなり偏った、異常な価値観で決められた戦争だとするとなおさらです。

2011年9月18日日曜日

A級戦犯の選出方法

 極東国際軍事裁判への批判の代表的なものとして、「日本人を支配しやすくするための洗脳の一環だった」というものがありますが、これについては私もほぼその通りだという意見を持っております。ちょっとこのところやる気が落ちてきているのでぱっぱと書きますが、連合国側がこの裁判を通して日本人の意識に刷り込ませたかったであろう内容とは下記の数点に集約されます。

・戦争は軍部、それも東条英機を中心とした陸軍らが国民を煽動して引き起こした。
・日本国民はそうした軍部に間違った情報を流され、騙された被害者だった。
→アメリカは戦争を主導した一部の人間を倒しただけで、日本人全員の敵になったわけじゃない。

 大雑把にするとこんな感じだと思います。何故私がこのように考えると、前回の記事でも書いたようにA級戦犯に指名された人間に明らかに恣意的な要素が働いているからです。

A級戦犯(Wikipedia)

 名目上、A級戦犯に指名された人間らの指名理由は「人道に対する罪」ということになっていますが、現実は「国民を騙して戦争に無理やり駆り立てたというグループ像になってくれそうな連中」というもので選ばれているように私は考えています。作業の手順としてはまずその中心となる人物として、太平洋戦争開戦当初の首相であった東条英機が選ばれ、その東条と距離関係が近かったものから次々と選ばれていきました。
 無論、東条は首相になる前から対米強硬派であったことは間違いなく、日米を開戦に至らしめる上では波を強くさせた一人ではあります。しかし生前に松本清張は、「たとえ東条がいなくとも日米は開戦していた(別の人間が東条の代わりになっただろう)」と言っていたように、東条以外にも陸軍内部には数多くの戦争推進者がおり、仮に東条が処罰されるのであれば同様の理由でもっと大勢の人間が処罰されなければ論理としてはおかしくなります。

 実際にはその他大勢の陸軍関係者らはB、C級戦犯として裁かれることとなるのですが、私が最も腑に落ちないのは満州事変の首謀者といってもいい石原莞爾が東条と仲が悪かったという理由で一切処罰されていないことです。ちょっと専門的な話になりますが、満州事変は政府の承認なしに関東軍が勝手に軍事行動を起こしていることから本来ならば関係者らは厳しく処罰されなければいけないところ、満州地域の大半を占領したことから政府が追認を与えてしまい、その後の陸軍内部では命令がなくとも、また違反しても戦果を作れば許されるという風潮が生まれてしまったようです。このような目から見ると、真に日本を戦争に駆り立てたのは誰なのかという疑問がもたげます。

 またもう一つ極東国際軍事裁判への代表的な批判の一つに、「勝者による敗者への一方的な報復」というものがあります。これについてもおおむね間違いではないのですが、内心ではアメリカは満願を果たせずにいるのではないかと見ています。というのもアメリカが最も報復したかった人物はほかでもなく、真珠湾作戦を実行した山本五十六だったのではないかと思うからです。
 山本は戦時中に戦死しますが、もし仮に終戦まで生きていれば真っ先にA級戦犯として死刑判決を受けていたでしょう。よく真珠湾についてはアメリカは、「宣戦布告なしに奇襲をして日本は卑怯だった」と批判しますが、二次大戦におけるドイツのポーランド進撃をはじめとして近代戦はむしろ宣戦布告のある戦争の方が少ないです。また当のアメリカ自身、アフガニスタン侵攻、イラク戦争においては一切宣戦布告はしておらず、私はアメリカが真珠湾にこだわる理由は宣戦布告のあるなしではなく単純に、予想外の大きな損害だった故のショックからだと思います。

 そんな大ショックを与えた張本人の山本に対しては相当怨念が強かったらしく、戦時中も戦略的価値が低いにもかかわらずアメリカはわざわざ山本の出身地である新潟県長岡市までも空襲を仕掛けております。しかしいざ報復をする段階で当の山本は戦死していたわけで、東条とはあまり関係がないもののわざわざ海軍からは永野修身、嶋田繁太郎、岡敬純の三名がA級戦犯に指名されておりますが、これは山本のとばっちりが回ってきただけだと一説では言われており私もそれを支持します。

 これまでの意見はあくまでこういう仮説があるというものでまだ確定された歴史観ではないものの、仮にそうだとしたら本当にしょうもない理由で決められたんだなという気もしないでもありません。だからといって一部のA級戦犯、特に東条について私は同情するような感情は覚えず、厳しい言い方をすればアメリカに余計なものを始末させてしまったという風にすら思っています。東条の評価についてはまた次回に解説します。

2011年9月15日木曜日

極東国際軍事裁判に対する私の意見

 昨日、一昨日と帰宅が11時過ぎとなり、ブログの更新が出来ませんでした。別に仕事が忙しくて残業しているというわけじゃなく付き合いで遅くなったのですが、さすがに今日はブログ書きたいし三日連続は嫌だからとその付き合いを断ったけど、ありゃ確実に上司から目を付けられただろうな。

 それはさておき比較的高い支持率で今のところ私も文句がない野田新首相ですが、就任当初によく「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」という過去の発言が取り上げられました。この発言前後の話及び具体的な意図がわからないので特にあげつらうつもりはさらさらありませんが、ちょうどいい機会というか前からまとめようと思っていたので、このA級戦犯と極東国際軍事裁判について私が持ちうる知識と評価をまとめようと思います。

極東国際軍事裁判(Wikipedia)

 まずはっきりいうと、この極東国際軍事裁判は論点が多くて非常に整理し辛い内容です。私において言えばある一点では肯定、別の一点では否定と項目ごとにに意見が異なっており、いっしょくたに全肯定や全否定するべきではないとみております。またこれも最初に言っておくと、多分ここで私が書く内容よりも歴史家の半藤一利氏(たまに自分で”半藤的”とシャレたりして面白い)と保坂正康氏の著作の方がわかりやすくよくまとめられているので、興味がある方は両者の著作を読まれることをお勧めします。私の意見も基本的にこの二人に依っていますし。

 それでは早速始めますが、まずこの裁判がアメリカの復讐によるもので公平性は低いという意見については私もまさにその通りだと思います。論拠としてはこれはまた後で詳しく解説しますが、A級戦犯となった被告人たちの選出基準が明らかに恣意的なもので、罪状となった平和に対する罪とは関係なく決められているからです。ではどういう基準で選ばれたのかというと、まず陸軍関係者、それも東条英機に近いかどうかで選ばれ、その後バランスを取るような形で海軍からも開戦当初の責任者ということで3人、でもってついでに外交関係者からもちょちょいのちょいという形で頭数が揃えられています。こう書くと本当に馬鹿みたいですが、真面目な話でこれが実態だったと思います。

 ただこうした背景があったとはいえ、私はこんな裁判を行ったアメリカは卑怯だとか文句を言う気持ちはあまり覚えません。こういうことを書くと怒られるかもしれませんし実際に怒られたとしても何も言い返す気はありませんが、私は二次大戦で日本は負けた国であって、負けた国が勝った国に「平等に扱え」などというのはどこかお門違いな気がします。もちろん平等に扱ってくれればそれに越したことはありませんが、そんなのは所詮理想論で、好き勝手やられたくないのなら負けるような戦争を初めからするべきでないという立場を取ります。
 むしろ二次大戦後のアメリカの日本に対する態度や処置は、冷戦構造のおかげではあるものの一次大戦後のドイツと比べて非常に寛大なものがあり、この点についてはアメリカに対して素直に感謝したいと思います。ただ唯一言うことがあれば、上記のようないい加減な基準で半ば巻き込まれるような形でA級戦犯にされてしまった一部の方には深く同情しますし、アメリカさんにもあんまりこういうこと繰り返しちゃいけないよと言いたいです。

 ではA級戦犯として裁かれた方々は本来無罪とするべきだったのか。これについては私は理想論でいえば「その通り」ですが、現実論としてはやはり何かしら裁かなければ世界、場合によっては日本人は納得することができなかったのではないかと思います。あくまで仮定の話ですが、もし仮に東条英機が天寿を全うしていたら私は一個人としてやはり納得がいかなかったと思います。文民で唯一死刑判決を受けた広田弘毅についてはその逆で、死刑とされたことに納得がいきませんが。
 一番ベストだったのはやはり、日本人自身で戦後に裁判を起こし、一体何が原因で負けるをわかっていた戦争に突き進んでいったのか、誰が亡国の臣だったのかを徹底して究明し、戦時中にかこつけて好き放題やった人間らを相応に処罰するべきだったかと思います。最もこれで当時の世界の人間らが納得するかと言われたら難しいですが。

 案の定というか短い文章ながらかなり時間がかかりました。次回はA級戦犯について詳しくやります。

2011年9月12日月曜日

枝野氏の経産相就任について

 ZAKZAKが今シーズンのプロ野球セリーグについて「あれれ~ヤクルト突然“復活”のワケ…セは再び「1強4弱」」という記事を書いてますが、1強4弱って……。まぁ言いたいことはよくわかるんだけど。

 それでは本題に入りますが、果たして自分が解説する価値があるのか非常に悩む話題です。

経産相後任に枝野氏、正式発表(読売新聞)

 事の発端は全経産大臣の鉢呂氏が失言によって辞任したことからですが、そもそもどうしてあんな発言が飛び出してくるのかまったくもって理解できません。発言を巡ってはいろいろごたごたしているようですが、議員以前に人として神経を疑います。
 それで代わりに登板することとなった枝野氏ですが、恐らくその抜群の知名度から今回就任を打診されたんだと思います。ちょうど程よくフリーだったし。ただ枝野氏の経済方針というか考え方についてはこれまで私はあまり見聞きしたことがなく、現在まだ未知数です。もしかしたら飾り程度の人事になるかもしれませんが、この際失言さえしなければただ座ってる大臣の方がマシじゃないかとすら思えてきました。

 先週末に寝だめし損ねたので、ちょっとやる気が低いです。明日からはまた頑張って、気合入れた歴史記事を書こうと思います。

2011年9月11日日曜日

今日目についた記事

 あまり名指しで批判しても敵を作るだけだし他人は他人で放っておくというのが基本的な私のスタンスなのですが、ちょっと今日に限ってはあまりにも目につく記事を二本連続で見かけたので、差し出がましいようですが批判をさせてもらおうかと思います。

任天堂ピンチ!「3DS」値下げ効果、早くも失速のワケ(SankeiBiz)

 まず気になったのは上記リンク先の記事ですが、記事内容自体は特に悪いというわけじゃないですが1ページ目にある売上比較について、これはほかの記事でもそうでしたが「何故その数字を取り出す?」と思わずにはいられません。具体的なその個所を抜粋すると、

「ゲーム雑誌出版のエンターブレイン(東京都千代田区)によると、3DSが値下げされた直後の8月第2週(8~14日)の国内販売台数は約21万5千台に達した。2月26日の発売初週(約37万1千台)に次ぐ水準で、値下げ前の買い控えがあった8月第1週(1~7日)に比べ約58倍と大幅に増加した。値下げのインパクトが販売台数を大きく押し上げた形だ。」

 上記の文中でどこが気になるのかというと、この記事ではNintendo 3DSが2万5千円から1万5千円へ値下げした直後の週の販売台数を21万5千台と報じて、それがどれくらいの売り上げだったのかを比較する上で二つの数字を引用しております。まず一つ目の数字は3DSが発売した直後の第一周における発売台数の37万1千台ですが、ゲーム機に限らずとも発売直後の初期出荷台数というのはそのまま最大の販売台数になりやすいです。現実に3DSもこの37万1千台という数字が現時点における最高週間販売台数のようですが、値下げ直後の21万5千台はこれに「次ぐ水準」だとして、大きく売り上げを伸ばしたという感じで書かれてます。
 ただ私の目からすると、どう見たって「37万1千台」と「21万5千台」には数字に大きな開きがあるようにしか思えず、いくら初期出荷台数に次ぐ水準だからといっても、一万円もの大幅な値下げによるテコ入れをしたにも関わらずこれしか販売台数が伸びなかったのかという印象をむしろ覚えます。

 この初期出荷台数とともに「値下げのインパクトが販売台数を大きく押し上げた形」という根拠として、この記事では値下げ前の8月第一週に比べ値下げ後は「約58倍」も販売台数が増えたと書かれてあります。これなんか「値下げ前の買い控えがあった」と書いてあるのでもしかしたら上に言われて無理無理入れた根拠なのかもしれませんが、確か今回の3DSの値下げは発表から値下げまでタイムラグがあり、8月第一週の時点ではすでに次週に値下げすることが発表されていたはずです。言うなれば来週値下げされることがわかっててわざわざ高い値段の今週のうちに買う消費者などほとんどいるわけがなく、売り上げがどれだけ伸びたかとする比較対象とするのには如何な数字かと私は思います。それであれば値下げ発表前の週の販売台数を持ってくるのが適当なんじゃないでしょうか。
 任天堂に脅されているのかどうかまではわかりませんが、何故かどこの記事も同じ数字の引用の仕方をしているのを度々見ました。まぁ脅されるにしてもされないにしても、こんな数字の引用の仕方をするのは素人目にも問題があると思う書き方です。

なぜ若者はテレビ離れしているのか、制作会社から見たテレビの現在(Business Media 誠)

 3DSの記事とともに気になったのは上記の記事です。結論を最初に述べるとよくこれで上もOKを出したなと呆れました。
 内容は視聴率低迷に喘ぐ日本のテレビ業界について番組製作会社の人間はどう思っているのかをインタビューし、それをまとめた記事内容なのですが、まず最初に文章が滅茶苦茶長い割にはこれという内容がほとんどありません。しかも普通の記事なら冒頭、もしくは末尾にインタビュー対象者の経歴やプロフィールを書くべきなのに、何故かインタビューの話を解説している最中に急に入れてきてます。恐らく製作会社の雇用状況の話題と合わせて書こうとしたんでしょうが、読んでみればわかるでしょうが完全に流れがぶった切りになってます。もっとも流れがぶった切りといえば全編に渡ってインタビュー対象者の話をちょこっと引用され、それに記事執筆者がどうも本人の視点なのかあれこれ長い文章を付け加えられているのでどうもインタビュー対象者の真意がいまいちわからない、というより読み辛いことこの上ありません。しかもインタビュー対象の話も全然整理して書いているようには思えず、私だったら括弧で直接引用するよりかは前後の文章と合わせて内容だけまとめて書くのですが。

 最後に執筆者、インタビュー対象者二人への批判として個人的な見解を書きますが、インタビュー対象者は日本のテレビ市場は衰退・縮小しているとしてグローバル市場を意識して作品を制作、販売して行かなければならないとこの記事の中では言っているようなのですが、これ見て私はどうして執筆者はそのまま書いちゃってるんだろうなと感じました。というのもこれは何もテレビ業界に限るわけじゃありませんが、そもそもの話として日本で売れない作品がどうして海外では売れるのか、日本で番組が見られなくなっているという話をしている最中にどうしてこんな話題になるのかちょっと信じられません。しかもインタビュー対象者はそうしたグローバル市場の方向性として「海外の俳優を起用して、英語や中国語、スペイン語などで制作する」と言ってますが、本気でそれで売れると思うのと私は問いたいです。せめてそういうセリフはもっと日本で評価される番組を作ってからでも遅くない気がします。執筆者も執筆者で、そういう突っ込みが何故記事中にないのか不思議です。

 ちなみに海外でも売れる番組の例として今挙げるとしたら、一昨年と今年に放映されたTBSドラマの「JIN-仁-」をこのところよく引用してます。この番組は日本国内でもドラマとしては久々の大ヒットでもはやドラマでは(高予算なのに)視聴率は取れないと言われた風潮を一気に打破しただけでなく、海外でも好評だったことから今年放映された第二期は放映前の時点で海外80カ国での放映が決まったというとんでもない快挙を成し遂げています。
 日本では売れないけど海外では売れるというのは一種の幻想だと思います。まぁこれも例を出しちゃうと、トヨタの「カムリ」ってのが稀有な例としてありますが、日本国内で売れないのは多分名前が悪いせいだと思う。

2011年9月10日土曜日

猛兵列伝~藤田信雄

 恐らくこのブログのメインコンテンツの一つである、ちょっとマイナー感のある指揮官を取り上げる「猛将列伝」ですが、このところどうもネタ切れ感が否めません。もちろん有名どころを取り上げればまだまだいくらでも続けられるしマイナーな小話を加えて面白く書く自信もありますが、何となくそこまでして続ける気にはなりません。
 そこで今日は方針転換というか、指揮官ではなく末端のある一兵士を取り上げようと思います。

藤田信雄(Wikipedia)

 この藤田信雄氏は旧日本海軍のパイロットだった方です。この方がどのような人物かというと、歴史上唯一、アメリカ本土への空襲を成功させた人物です。

 事の起こりを話すにあたってまず当時の状況を説明します。日米は1941年の真珠湾攻撃をきっかけに戦争に突入しました。その翌年1942年4月21日、すでに海軍パイロットとして高い実績を作っていた藤田氏は海軍軍令部に呼ばれ、アメリカ本土へ空襲を実行するよう命令を受けます。

 はっきりと因果関係は書いてはいないものの、恐らくこの命令の背景にはこのわずか3日前にあった「ドーリットル空襲」が影響しているように私は思います。ドーリットル空襲について説明すると、当時の日本は太平洋で連戦連勝を重ねていてアメリカ側もさすがにこの時は気分的に沈んだ状態だったようです。そこでアメリカ国内の戦争士気を高めるために印象の強い作戦を実行しようという話となり、太平洋上から爆撃機を飛ばして日本本土を直接空襲するという案が採用されました。
 空襲すると言っても当時制海権は日本側が圧倒的に握っており、一度飛ばした飛行機を回収するまで空母が洋上で待つのはほぼ不可能であったため、最終的には飛び立った爆撃機はそのまま日本を通過し、連合側であった中華民国にて着陸、帰投するという大胆な作戦となりましたが、結果的には前触れもない本土への直接攻撃に当時の日本軍部は大いにうろたえたそうです。

 このドーリットル空襲から3日後、恐らくそれならばと日本からもアメリカ本土を直接攻撃してやろうと軍部は考え、その実行手として藤田氏が選ばれたそうです。ただ空襲するにしても日本本土からアメリカまで言うまでもなくとんでもない距離があり、その間にはアメリカ側も潜水艦などで防衛しているわけですから並大抵のことじゃありません。それ故に藤田氏も生き残る自信がなく、出発前日には遺書を書いたそうです。
 作戦は伊25という潜水艦にEY14という飛行機を折りたたんで収納し、アメリカ本土まで近づいて焼夷弾を落とすというかなり無茶な内容でしたが、8月15日の出発から約一ヶ月後の9月9日、藤田氏らはアメリカの艦船に見つかることなく見事アメリカ本土へ近づくことに成功した上、カリフォルニア州とオレゴン州の境目に森林火災を起こすため焼夷弾を落とすことにも成功しました。その3週間後の9月29日にも藤田氏は出撃し、またも焼夷弾落下に成功して無事潜水艦に帰投、さらには日本への帰路も潜水艦は撃沈されることなく見事に帰還を果たすことができました。

 これだけ難度の高い作戦を実行した藤田氏でしたが、帰ってくるなり軍部からは、「戦果は木を一本折っただけではないか!」と激しく叱責されました。というのも爆撃直前に雨が降っていたことと、空襲が現地のアメリカ人に見つけられていたために、空襲には成功したもののすぐに火は消火されていたようです。とはいえ生きて帰ってこれた藤田氏はその後教官として軍に在籍しつづけ、そのまま終戦を迎えました。

 これで話が終われば戦時中の本当に些細な一エピソードで終わるのですが、1962年のある日、工場勤めをして生活していた藤田氏は突然政府から呼び出しを受けます。呼び出された都内の料亭にはなんと時の首相の池田隼人と官房長官の大平正芳がおり、藤田氏のことをアメリカが捜しているためそのままアメリカへ行くように、またこの件について日本政府は一切関知しないと告げられました。この池田元首相の言葉はいうなれば、アメリカ現地で戦犯として裁かれても日本は一切救いの手を差し伸べないと言っているも同然です。
 この突然の事態に藤田氏も観念し、いざとなった際に自決するために先祖代々受け継がれてきた日本刀を忍ばせアメリカへ向かいました。そして戦々恐々とアメリカの空港へ降り立った藤田氏を待っていたのは、たくさんの歓声と笑顔あふれるアメリカ人達でした。

 というのもアメリカが何故藤田氏を探していたのかというと、藤田氏が空襲したブルッキングズ市のフェスティバルにゲストとして呼びたかったためでした。もちろん現地では大歓迎で、藤田氏も藤田氏で自決用に持ってきた日本刀をそのままブルッキングズ市へ寄贈してしまうほどだったようです。
 しかもあまりの歓迎ぶりに感激した藤田氏はその後、自費でブルッキングズ市の3人の女子学生を日本に招き、またブルッキングズ市へもその後何度も足を運んで自らが空襲した場所に植林をするなど交流を続けました。1995年には84歳という高齢ながらも、当時の市長らをセスナ機に載せて自分が空襲した航路をなぞるという荒技まで披露しております。

 その後1997年に藤田氏は永眠されますが、死の直前にはブルッキングズ市の名誉市民の認定を受けました。藤田氏がここまで現地に受け入れられた背景には空襲をしたものの死傷者が誰一人いなかったというのが何よりも大きいでしょうが、それにしたってアメリカ人の戦後はノーサイドともいうべきこのフレンドリーさには頭が下がります。また好意的な解釈をするならば、戦時中に行きも帰りも非常に困難な航路だったにもかかわらず幸運にも日本への帰国を果たせたのは、戦後に交流を長くに続けた藤田氏という人物を生かせようとした天の配慮によるものだったのかもしれません。

 それにしても「日本政府は一切関知しない」と言った池田元首相ですが、恐らくアメリカが捜している背景を本当に知らなかったんだと思うけど、結果的には国家ぐるみで藤田氏をサプライズパーティにかけただけじゃないかと思わずにはいられません。ここまで脅かすことなかったのに……。