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2012年3月13日火曜日

新華社の日本専門ページについて

新華社 日本頻道

 上記リンク先は中国のNHKこと新華社の日本専門ページです。何故だか知らないけど新華社は国・地域としては日本と台湾のみこうした専門ページを用意していて、こっちの日本語のページもありますが、中国語が読めるなら一番上のページの方が見ていて面白いかと思います。何気に、中国語を勉強している人はニュース内容が日本のニュースということでわかりやすいため、上記サイトの記事を読むことが中国語の勉強にとてもいいと思うので真面目にお勧めします。

 それで今日この日本専門ページでどんなことが取り上げられているかですが、やっぱりというか日本が650億元の人民元債を購入したというのが大きく扱われております。解説記事を読む限りだと中国としても大喜びだし、「欧州事情が不安定なことを考えると人民元の価値は安定しており、また米ドル一辺倒からリスク分散をするという戦略では」とHSBCのアナリストが書いています。私としても人民元債を持つことによって、日本に対して極端な貿易政策を取りづらくなるので、金額としても妥当な額であることから今回の購入は双方にとって悪くない話だと考えています。

 これ以外で書かれていることになると、「日本人とラーメン」とか今日はなんかしょうもないのばっかですが、普段はAKBとかコスプレ写真とかって、普段もくだらないものが多いですね。
 ただ今日見ている中でちょっと感心したのは、「中国人が喜ぶ日本のちょっとしたお土産」の中に爪切りが入ってて、恐らくわかる人ならわかるでしょうが凄い納得しました。というのもこっちの爪切りは「馬鹿にしてんじゃねぇぞ(#゚Д゚)ゴルァ!!」と言いたくなるくらい爪切りが小さく、しかも果てしなく切りづらいです。記事中にも「匠の切れ味」と書かれてありますが、どうして同じ爪切りが普及しないのか普段から疑問です。

2012年3月12日月曜日

なんでもかんでもレッテル貼りする人

 最近固い記事ばかり書いてきたのでたまには柔らかいネタを入れようと考えていたのですが、ちょうどよくニュースが入ってきたのでこっちを取り上げます。

読売渡辺会長が橋下市長発言に懸念 「『白紙委任』はヒトラーを想起」(J-CASTニュース)

 内容はリンク先の記事を読んでもらえばわかりますが、要するにまたナベツネがまたわけのわからないことを言って、橋本大阪市長に対してヒトラーのようだと書いたようです。もう購読する予定はないので厳しく批判させてもらいますが、こんなわけのわからんジジイをいつまでもかこってる当たり文芸春秋も落ちたなとつくづく思います。
 まぁこのナベツネの言っている内容については清武元GMの件といい「お前が言うな」という感想でほぼすべて片付くのですが、なんていうかこの「ヒトラー」に例える表現を見るとこの頃うんざりした気持ちにさせられます。というのももうはっきり書いちゃいますが、この「ヒトラーのようだ」という表現は対象がヒトラーと似ているかどうかはほぼ関係なく、政治的に対立する、もしくは嫌っている人間に対して批判する際に使われる常套句と化しているところがあるからです。

 一体何故ヒトラーがこんなにしょっちゅう政治家の比喩に使われるかというと、時代が比較的新しいということと「最悪の政治家」として印象付け、いうなればレッテル貼りしやすいからです。そのためこのたとえを使っている本人は「独裁者という点で共通しているんだ!」と言うかもしれませんが、実態的にはヒトラーにたとえられた中で実際に近かった政治家なんてほぼ皆無に等しいでしょう。小泉元首相も対立している相手からしょっちゅうヒトラーだなどと言われましたが、そういう批判をしていた人たちに対して「お前にヒトラーの何がわかるんだ」と今更ながら突っ込みたいです。
 そういう意味でこの「ヒトラーのようだ」という表現は似てる、似てないは全く関係なく、とりあえず嫌いな政治家を悪く言うための方便でしかありません。あと今回の橋本大阪市長の件について言うと、本来監督するべき市役所の人間を好き放題させていたばかりか、禁止されている選挙応援活動(しかも自分への)までやっていたのを黙認してた平松前市長なんかはどうなの、この表現使わないのとすら思います。

 ついでに書いてしまいますがこの政治家への批判にヒトラーを引っ張り出す人たちについてよく思うこととして、ほかに引き合いに出す悪い政治家はいないのかという風にも前から思ってます。それこそ、「まるでお前は三国志に出てくる十常侍のようだ」とか、「妥協ばかりして状況を悪化させており、ネヴィル・チェンバレンを想起させる」だったり、「強攻策ばかりでお前は足利義教か」など、引き合いに出す政治家なんてほかにもいくらでもいるのに、ヒトラーしか出せない人は語彙や知識が足りないんじゃないかと真面目に思います。っていうか誰か、ポルポトとか毛沢東出す面白い奴はいないかな。

 最後に今回書いてて思ったことですが、「○○さんって、××みたいよねー」という具合に嫌われている、もしくは嫌っているほかの何かに当てはめて悪口言う人間がクラスに一人は確実に存在してた気がします。ナベツネもその中の一人だというのは百も承知ですが、私も昔こういうレッテル貼りする人間に絡まれていたことがあり、顔合わすたびに「お前は○○に似ている、本当に憎たらしい」などと言われていろいろ面倒くさく感じてた時期がありました。周りからも言われてましたし自分自身でもその比較対象にされたものとは似ても似つかないことをよくわかってましたが、改めて考えるとこういうレッテル貼りする人は自分が嫌う人間をみんな同じ対象として当てはめようとする、もしくは同じような人間だと考えるんじゃないかと思います。その上でレッテル貼りすることで、何らかの安心感を得ていたのではとこちらも今更ながら強く感じたわけです。

2012年3月11日日曜日

今、雇用を創出することの重要性

 先週に書いた記事中で「なにかリクエストがあれば書くよー」と書いたものの、見事に何も来ませんでした。返事ないのがショックだったわけじゃないですが、どうもこのところメンタルが弱くなっているのかやけに占いサイトに入り浸って今日の運勢を確かめる日々が続いてます。四柱推命でも3月は低迷と書かれてるし……。
 そんなことはさておき国家的プロパガンダに与したくないので今日が何の日かについては敢えて触れず、最近、というか以前にもそれほどやっていないと思いますが、今日は具体的な政策提言でもしようかと思います。どんな提言かというと単純に、今現在の日本で一体何を優先してやるべきかということです。単刀直入に題名通りの内容を言いますが、私は今一番に日本が取り組むべきなのは雇用の創出、それも若年層への創出が重要じゃないかとかねがね考えております。

 一体何故雇用の創出が重要だと感じるのかですが、仮にこれが達成できた場合に多くの問題を一挙に解決、もしくは前進させることが出来ると踏んでいるからです。まず一つ目は言うまでもなく若年層の生活の安定化で、安定した収入を得ることで余裕を持つことが出来ます。何気にこれ単体で記事を書いてもよかったのですが、ちょうど警察庁が去年の自殺統計を発表して読売が記事にしてますが、若者層こと「学生・生徒」の自殺者が統計開始以来初めて千人を超えたそうです。少子化の最中でこんな記録が生まれるなんて、最近の若者はこのところの私同様にメンタルが弱くなっているか、相当追い込まれているかのどっちかでしょう。なお去年あたりから自殺者の大半は50代以上が依然と占めているものの、徐々に若年層、主に20代の自殺者が増えていると聞いていただけに引用しやすいデータが生まれました。

 話を戻しますが、何も自殺対策のためだけに雇用を創出するわけじゃありません。大分昔に管仲という人が「衣食足りて礼節を知る」と言っていましたが、人間というのは余裕を持って初めて消費を増やします。消費を増やす価値についての説明はこのブログの読者層には必要ないでしょうが、私が狙っているのは消費拡大のみならず結婚増とそれに伴う出産増で、要するに少子化対策にもつながるのではないかと考えてるわけです。
 更に更に付け加えると、出産数を増やすだけでなく若年層が仕事について社会保障への税収を増やすことでこの辺もマシになるのではないかと期待しています。年金についてはどうあがいたところで現行制度じゃ維持できるわけないので、この場合は医療保険のみが該当します。あと変な話になりますが仮にここで雇用を創出しなければまともな職業訓練を受けられない若者は増加の一途をたどり、10年後には社会保障の担い手とは逆の生活保護対象者を増やすことにもなりかねません。

 あとこれもいちいち言う必要あるのかと自分でも悩むのですが、よく「日本は労働力不足だ」、「移民も検討しなければ」などという話を今でもたまに聞こえてきますが、移民議論は大いに必要でありますが議論の前に若者をもっと雇えよなと言いたいです。要するに労働力不足対策の根本的解決にはまでは至らなくとも、改善にはつながるのではと言いたいということです。

 上記のような観点から私は若年層の雇用創出が必要だと感じるわけですが、ならばどうやって創出すればいいのかという疑問を持たれるかと思います。やり方としては政府の公共事業や企業が雇用した場合の給料を肩代わりするなど政府支出も十分検討できますが、過去の実績から私はこの案ではそんなにうまくは運べないかと思います。理由は前にも書いたように、変な仲介業者が邪魔するからです。ならほかにはどんな案があるかですが、前にもちょこっと匂わせましたが高年層の給料を大きく引き下げるか、この際リストラされてもらうかが一番ベターじゃないかと思うわけです。
 この議論で肝心なのは「いくら人件費を払うか」じゃなくて「何人多くの人間を雇うか」なのです。それこそ月給40万円の人間を1人雇うくらいなら月給20万円で2人を雇う方が長い目で見ると価値があると言いたいわけで、なおかつ雇われる人間は若ければ若いほどいいと主張したいのです。これは言ってしまえば5年くらい前に流行ってもう死語となったワークシェアリングと同じ考えで、この思想を実現化していくことで懸案となっている問題が大分改善されるのではないかというのが昔からの私の考え方です。

 ちなみに私がこの手の主張で我ながら容赦ないなと思うのはうちの親父への態度です。この手の議論をするほぼ毎回のように、「親父一人の給料で俺を何人雇えるんだ」と言いますが、親父も親父で「その分仕事しとるわ」と言い返してきます。
 ただ親父の意見も全く分からないわけではなく、自分もあまり人のこと言えた義理じゃないですが年下の人間とか見ていて、「どうすればこんな連中を使えるのだろう……」と不安に駆られるほど不出来な人を見かけることも少なくありません。ただその一方で、どうしてこれほど優秀なのに評価されないのにと思う人もいないわけじゃないので、希望は捨てずに前向きにこの主張を繰り返してこうと思います、ファイトだ自分。

2012年3月10日土曜日

ストーリの良かったRPG

 前回日本に一時帰国した際に自慢のPSP(まだVITAじゃない。)にまたいっぱいゲームをダウンロードしておきました。そんなダウンロードした中には「リンダキューブアゲイン」という古いRPGのゲームも入っており、このゲームはやったことはありませんでしたが「ストーリーというか残虐描写がかなりアレなゲーム」という噂を聞いていたので、前から興味を持っていました。時期にして大体二週間くらい前にクリアしましたが、前評判通りに面白いストーリー内容で遊んでいる間は大いに満足することが出来ました。それにしても、「俺の屍を越えてゆけ」同様に手加減のないシナリオだった……。

 話は変わりますが、今回このゲームをやってみて改めてRPGはストーリー内容が評価を決めるということを強く思い知らされました。「リンダキューブアゲイン」は古いだけあってゲームのビジュアルとかは現代と比べると未発達な点は否めませんでしたが、それでも昨今のRPGと比べるとプレイしている間の楽しさは段違いで、以前に遊んだことのあるゲームであれば思い出補正と考えることもできますが今回はそういうのも一切無しです。
 このところよく日本のRPGゲームは駄目になった、っていうかゲーム産業自体駄目だという話をよく聞きますが、私はこの辺はグラフィックとかそういうものじゃなく、やはりストーリーが悪くなっているのが大きな原因なんじゃないかと思います。それを言ったら不況の原因をみんなが本を読まなくなったせいだという出版業界もそうですが。
 そんな前置きにした上で、今日は今まで私が遊んだゲームの中でストーリーの良かったRPGゲームを紹介しようかと思います。

  <ストーリーの良かったRPG>
ヘラクレスの栄光3
ドラゴンクエスト5
テイルズオブファンタジア
マザー2
真・女神転生2
幻想水滸伝2

  <ストーリーがクソだったRPG>
ファイナルファンタジー8
ブレスオブファイア2
パラサイト・イヴ
ペルソナ2
※上記評価はあくまで私の視点によるものです。

 さりげなくクソだったRPGも入れておきましたが、おおむねこんな感じとなります。なお「クロノ・トリガー」はシステムと相まって日本のRPG史上で最高傑作だと考えているのと、「ライブ・ア・ライブ」は複数シナリオという観点から敢えてはずしてます。

 まず一番最初に「ヘラクレスの栄光3」を持ってきていますが、このゲームは知名度は低いもののプレイし終えた後の圧倒感は半端じゃなく、最近だと携帯ゲームにも移植されているのでやっていない人にはぜひやってもらいたい一品です。あとドラクエシリーズは数多い中で、やはり全体を通して5が一番好きだということからこの選となっています。
 逆にクソだったゲームでFF8については私以外にも同じ感想を持つ人は多分多いでしょうが、「ブレスオブファイア2」に関しては3以降はやったことないけど非常に良いと言われておりますが、この2に関しては降って湧いたかのように突然ラスボスが最後の最後で出てきたり、行方不明の主人公の妹を軽くスルーしたりとダメなシナリオのいい見本なくらいに突っ込みどころが満載です。「パラサイト・イヴ」はゲーム自体は面白いですがもうちょいなんとかならなかったのかと思う内容で、「ペルソナ2」は「噂を操る」ということをシナリオにもシステムにも重大なテーマにしていますが、プレイした感じだと「噂を操らされる」という感覚が強いというか、なんかやらされている感がしてどうにも好きになれませんでした。

 ざっとストーリーが良かったRPGと悪かったRPGを比べてみると、やはり「やっている」と思うのと「やらされている」と思うのとの違いじゃないかと思います。面白かったRPGというのはどれも主人公たちが冒険する、戦う大目的というものが比較的はっきりしており、プレイしている側も目的意識を持って遊ぶことが出来ますが、逆につまらなかった奴はその場その場で次にやることを指示されて、なんていうか「お使いを重ねていたらいつのまにかラスボスと戦うことになった」という、なんか振り回されるだけの感じがしてやっててうんざりしてくるのが多い気がします。

 ちなみに今現在、「リンダキューブアゲイン」と同じくダウンロードしてきた「影牢」というゲームでよく遊んでいます。このゲームは「館にやってくる人間を片っ端から罠にはめて殺す」というダークなシナリオと変わったアクション性が受けてそこそこ評価されているゲームですが、昔に遊んだこともありましたがやはり楽しく、上からタライを落としたり暖炉の中に放り込んだり、電気椅子に無理やり座らせたりしてケラケラ笑いながらやっています。続編の「蒼魔灯」もダウンロードしておりますが、ここだけの話PS2の「影牢2」はシナリオもアクションも非常に不評だったので、罠ゲー三部作の中で唯一遊んでおりません。ただこの前にこの「影牢2」の罠の中に、「ワニがたくさん入っている池の水車に無理やり縛り付ける」というトラップがあると聞いて、なんだか興味が湧いてきました(´∀`*)ウフフ

産経新聞の記者の質について

 元々批判的な内容が多いこのブログですが、あまり他紙を批判するのはやめとこうと思いつつもこのところあまりにも目につくのと、別の観点からもある批評をしようと思っていたので産経新聞について書きます。まず結論から言うと、最近の産経新聞はあまりにも質が低過ぎると言わざるを得ず、人事の人間はすべからく首を挿げ替えるべきだと切に感じます。百聞は一見に如かずなので早速見ていて呆れた記事を紹介しますが、下記のGMが販売しているシボレー・ボルトに関する記事を見た時は本当に目を疑いました。

GMが「ボルト」を5週間生産中止 発火問題も影響(産経新聞)

 この記事のどこが問題なのかというと、シボレー・ボルトのことを「電気自動車(EV)シボレー・ボルト」と表現している点です。確かにGMはこの車をあくまで「電気自動車だ」と現在も主張していますが、どこの世界に内燃機関(エンジン)を搭載した電気自動車があるのか、こんなおかしな発想が通用するのはアメリカ自動車業界ならではのもので生憎というか日本や世界では通用しません。そこら辺を消費者もわかっており、中途半端なエコカーだって見透かされてか気合入れて出したくせに販売が不振で生産中止になったというのが上記ニュースの肝だというのに。
 それで気になったのでほかのメディアはどう報じているのかというと、まず日経は「電気とモーターで走る戦略車シボレー・ボルト」と書いており、うまいこと核心を避けているなぁと匠心を感じさせる表現となっています。ではこのほかではどうか、読売新聞ブルームバーグレスポンスでは揃ってはっきりと、「プラグインハイブリッド車(PHV)シボレー・ボルト」と表現しており、私もこの表現が最も適切だと考えております。

 はっきり言って私は自動車は見るのは好きですが運転は下手だし別にこの方面専門の記者というわけでもありません。そんな私からしてもシボレー・ボルトを電気自動車と書くのは素人以前の問題で、なおかつこの表現で校正を通す編集というのは異常というよりほかないと感じます。車の構造に詳しくないとかそういうレベルじゃなく、また発行から数日経っているのに全く修正しないというのも安西先生じゃないですが、「誰か教えてやる人間はいないのか(;゚Д゚)」と別な意味で驚かされます。

 仮にこの記事一つだけだったらこの記事を書いた記者(ぶっちゃけ署名載ってるけど)だけが問題だと言って済ませられますが、これ以外でもこのところの産経の記事は疑問符が付くものが異常というか桁違いに多いです。特に中国関係の記事は明らかに現況分析が間違っている、偏向的な視点で書かれている記事が多く、ここだけの話ですが官公庁や金融機関関係者などから北京支局にいるという産経の記者に対し実名で、「あいつをどうにかしろ(#゚Д゚)y-~~イライラ」という批判をシャレや冗談抜きで聞くことが段違いに多いです。私自身も、ネット上で履歴の残る記事によくこんな適当なこと書けるなと思うのと同時に、ほかに人材はいないのかとつくづく感じるレベルです。

 更にこれは日本における産経記事についてですが、産経新聞は読者ターゲット層を保守派に絞っているため基本的に自民か民主かと言ったら間違いなく自民寄りに記事を書く傾向がありますが、これが親米保守か反米保守かと迫られると二律背反となって主張が腰砕けになる傾向があります。特に顕著だったのは去年のTPPに関する記事で、賛成か反対かできれいに親米か反米かで別れてしまうためほかのトピックと異なりどっちつかずな主張が明らかに目立ちました。日経なんか財界が主な読者層ということもあって賛成一辺倒でわかりやすかったのですが。

2012年3月9日金曜日

東日本大震災から一年経って思うこと

 明後日が3月11日ということもあって今頃日本のテレビなどでは震災特集がたくさん組まれているかと思います。私は震災後の日本のムードというか空気について以前に「震災後の作ったようなムードについて」という記事で、如何にも作ったようなお仕着せの感じがしてあまりいい気分がしないと批判しましたが、この感覚は現在においても全く変わりありません。はっきり言ってしまえば合意か不合意かまでは特定できませんが、まるで国と主要メディアはタッグを組んでプロパガンダを展開しているようにしか見えず、被災者を悼むことは大事ではありますが必要以上にそのような気持ちを煽ったり、不必要なところで震災をイメージさせるというのは意識操作以外の何物でもないでしょう。しかもそのやり方は稚拙そのもので、やるならもっとうまくやれよと言いたくなるくらいです。

 何気に、去年の3月11日はひとつ前の会社を辞めた日で、偶然重なっただけですが恐らくこの日付は今後一生覚えていくことになるかと思います。私は去年のこの日、正直にひどいことになったと思うと同時に、この震災をきっかけに日本全体で危機感と責任感が芽生えて好転していく一歩になるかもしれないと内心期待しました。然るに現時点の日本を見る限りだと全く逆で、政財界は東電を筆頭に互いに責任を擦り付け合うばかりか、以前にこのブログでも指摘しましたが直接的な因果関係が明らかにないにも限らず、売上げが落ちたり悪いことが起きると全部「震災の影響で……」と主張する輩も増えています。
 そのため反発を買うことを覚悟で主張しますが、私は東日本震災をきっかけに日本は直接的な被害はもとより日本人全体の意識レベルも低落したように思います。物事を良くしようという考えがほとんど感じられないばかりか、悪くなるのが自然でしょうがないという意識が少なからず共有されているような気がします。

 震災の復興対策も、ある程度は予想していましたがここまでひどいものになるとは想像していませんでした。原発事故に伴う除染作業はかつてと同じ、下手すりゃ以前以上に複数の仲介業者が介在(=中抜き)して労働者を募集するありさまで、これが国や東電が直接雇用するのであればどれだけ違ったのかと腹立たしい限りです。さらにこれもようやく一部で報じられるようになりましたが、仙台市の歓楽街は今、工事を受注したゼネコン関係者によって大いに栄えているそうです。
 この状況を政治の責任、ひいては民主党のせいにするのは非常に簡単です。ただ自民党が上記のような状況を是正させようという話は聞ききませんし、抜本的な改革案から修正案を出しているという話も聞きません。さらに言えば、ここら辺は政治というより行政で、官僚の管轄じゃないかと思います。じゃあ何を責めればって話になるでしょうが、それをここで私に言わせるのは野暮でしょう。

 さらに言えば、社会全体で何か物事に対する感覚がおかしくなっているような気もしてなりません。この前もAIJの事件が起きましたが、オリンパスほどの経済事件が海外で起きたなら関係者は10年は刑務所に入ることになるかと思います。一応逮捕はされましたがあれで上場が維持されるなんて、一体何をすれば東証で上場廃止となるのか理解に苦しみます。
 なんか自分でも今日嫌なことでもあったのかと思うくらいに後ろ向きなことばかり書きますが、今のような状況が続くようであればもう日は上らないんじゃないかと思います。ここまで言うのもひとえに日本人全体に危機感が呆れるくらいに不足しているように感じるためで、震災一周年でお悔みムードを作るくらいなら崖っぷちムードをもっと作るべきじゃないかというのが今日の私の意見です。

2012年3月8日木曜日

精神年齢は若返るのか

 先日、友人とこんな会話をしてました。

「ビキニ水着ってあるだろ。あれ、ビキニ環礁が語元らしいぜ」
「マジかよ」

 いい年してこんな中学生みたいなくだらない会話したことはほっといて、以前に私は「寿命の尽きない時代に向けて」という記事で肉体が不老となる時代について簡単な考察を書きました。現時点ではまだ実現こそしていないもののこの辺の技術はかなり発達していて下手すりゃあと百年くらいで実現するかもしれないのですが、この前ふとしたことで「じゃあ精神年齢は若返ることがあるのか」という問いを持ったので今日はちょっとこの辺について解説します。

 まず先ほどのビキニ水着について語った友人に、「仮に不老の肉体が手に入るとしたら受け取るか」と聞いてみたところ、やっぱり「いらない」と返されました。その理由というのも肉体はともかくとして精神を永遠に保たせることがきっとできないと思うからだそうで、よくあるSF小説のように本人が不老不死となっても周りが年老いて死んでいくのに耐えられず、最後は発狂するような悲劇的な結末をこの友人の回答から私は思い浮かべました。
 私自身も基本的に友人と同じ意見で、というかそんなに長く生きたくない、さらにぶっちゃければ20歳を超えてるんだしもう長生きしすぎなんじゃないかとすら思っててそろそろ遺書でも書こうかと思ってるくらいなのですが、話は急に飛びますがじゃあ精神年齢が若返りすることはあるのかという考えがふと頭をもたげました。

 例えば今の私の肉体年齢は二十代後半ですが、精神年齢についてはちょうど二十歳の頃にインドの占い師に、「もう30歳近くに達している」と言われたことがありもしかしたらもう40歳くらいに至っているかもしれないのですが、このように精神年齢とは必ずしも肉体年齢とは必ずしも一致しません。ほかにも同じ中学三年生のクラス内で比較しても、大人びた子もいれば小学生みたいな子もいるなど人によって明確な個人差があるでしょう。
 この精神年齢単体についてもいろいろ突っ込めば肉体年齢と近ければいいのか、それとも高ければ高いほどいいのか、もしくはある基準となる年齢に近いほどいいのかなど、これだけでもそこそこの記事が書けるのですがそれは今回置いといて、繰り返しになりますが一度引き上がった精神年齢を後で引き下げることは可能なのかというのが今日の疑問です。

 明日休みだけど再来週にまた武漢出張を言い渡されたせいか今日の文章の調子はやけに悪いのですが、ここで結論を述べると私は精神年齢を引き下げることはある程度は可能だと考えております。
 こう考える根拠として、ちょっと古いアニメ映画ですが「千年女優」という作品で年老いた主人公が、「好きな人を追いかけている時、私は少女だった頃の自分に戻ることが出来る」というセリフがあります。このセリフはそのまんまな意味で、どれだけ肉体年齢が年老いてても恋焦がれている時は気分的には十代の頃と同じ感情になるということを示しているのですが、別に恋に限らなくとも昔に住んでいた場所とか古い友人と会ったりすると「童心に帰る」というように、それぞれその場所に立ち会った年齢のような感情が惹起することは誰にでもあると思います。

 ただこうした精神年齢の若返りは基本的には一時的な現象にとどまる例が多いとも言えます。先程の例でも古い友人と久しぶりに会って話をしている間は若返っても、家に帰って普段見慣れている家族と話してたらまた一気に老け込んでしまうでしょう。もちろん状況次第、やり方次第では若返った状態を維持することも可能でしょうが、そもそもそこまでして精神年齢を若返らせたいという人はいないと思うのでやる人は少ないでしょう。
 そんなことを言っておきながらですが、今現在の私は三年くらい前の日本で働いていた頃より現時点の方が精神年齢は若い気がします。何故精神年齢が若返ったのかというとひとえに中国で働いているから以外にほかなく、経済も右肩上がりであることから社会の空気が前向きで、かつ街中を歩いている人間の平均年齢が少子高齢化の日本と比べると明らかに低く、以前と比べて自分の思考に攻めの姿勢が強くなってきております。

 最後にこれは蛇足かもしれませんが、もう一つ精神年齢が若返ったと思う要素として今現在の自分は失うものが少ないというのも当てはまるかもしれません。やはり日本にいた頃と比べると現職に対する執着(なんとしてでも残らなければ)というものが全くないですし、何が何でも今の状態を維持しようという意識が希薄となっております。変化を求めるのが若者というのであれば、ある意味これがど真ん中なのかもしれませんが。