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2013年3月24日日曜日

韓国の近現代史~その五、李承晩

 このところテンションの上がらない状態が続いておりますが連載再開です。自分でもメンタル弱いのかなとか思ったりしますが、別の見方をすれば今の状態でもブログ更新続けてるのだからもしかしたらタフな方かもしれません。それにしても、ああしんど……。

李承晩(Wikipedia) 

 今日取り上げるのは韓国の初代大統領の李承晩(イ・スンマン)です。彼の来歴を王と共に健康書記の韓国の動きを解説します。

 李承晩は朝鮮半島が日本の植民地だった頃からアメリカに渡って独立運動をしており、1919年に上海市で大韓民国臨時政府が結成されるとこの機関の大統領に就任しております。
 もう少しこの臨時政府について説明すると、要するに日本統治下の韓国の政府機能を認めず、こっちが本流だとばかりに作られた仮の政府です。二次大戦中の仏亡命政府と比べるとあまり国際的な承認を得られませんでしたが、この時の臨時政府跡は今でも上海市、それも観光地である新天地という場所の近くにあって行くつもりはないのしょっちゅう目の前を通っておりました。

 このように独立運動を続けていた李承晩たちでしたが、最終的には日本が二次大戦で敗戦し朝鮮半島の南半分を占領した米国によって与えられる形で独立を回復します。それまで海外で活動していた李承晩達も帰国して政府の設立準備を始めますが、その他多くの国同様に指導者間で徐々に主導権争いが活発化していきました。
 この主導権争いで李承晩は、左派と右派を統合した幅広い政権作りを考えていた呂運亨に対し、米国が望む左派の徹底的弾圧を掲げたことによって米国の支援を受けるようになり、徐々に主流派となっていきました。こうした中で1948年に行われた第一回総選挙では様々な選挙干渉を行った上で李承晩率いる韓民党は勝利し、李承晩も初代大統領に選出されることとなりました。

 ここまで見れば混乱期に紛れうまいこと大統領になれたというサクセスストーリーですが、先に私の評価を言ってしまうと、李承晩は韓国の内政にはあまり興味がなくどちらかといえば自身の権勢を大きくすることばかりに腐心した節があり、それがため現在の彼への評価もそれほど高くありません。
 そうした姿勢は大統領就任当初からもう見え始めており、李承晩は大統領に強い権限を持たせる大統領制を強く主張したのに対し与党の韓民党は議院内閣制を主張し、議会と激しく対立するようになります。こうして国内の政治闘争に明け暮れていた1950年には北朝鮮が南進して朝鮮戦争が開戦するのですが、この間も米国の方針に逆らって勝手に捕虜の処置を決めたり、休戦条約への署名を拒否したりと、一言で言えば国家元首として如何なものかと思う駄々っ子ぶりを発揮しております。面倒くさいのでここではやりませんが、現在の竹島問題に連なる「李承晩ライン」を引いたのも朝鮮戦争中です。

 そんなかんだで1953年に朝鮮戦争が休戦し、翌1954年は李承晩の大統領任期を迎えます。当時の憲法では大統領は二期までとなっており李承晩は強制的に退任させられるはずだったのですが、「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という自分にだけ都合のいい改憲案を突然出してきました。この改憲案は改憲に必要な3分の2に当たる135票まで1票足らずで否決されるのですが、「四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えている」として、ジャイアンもびっくりな思考転換を図って無理矢理可決させてしまい、そのまま大統領の座に居座り続けました。
 もうこの頃には韓国国民も李承晩に対してほとんど支持してなかったようですが、選挙の度に露骨な妨害工作を行い、政敵だった曺奉岩に対してはあらぬ罪を着せて処刑までかますというなりふり構わない手段をとるようになってきました。現在に至っても李承晩の枕詞に「独裁者」とつくのはこうした所以でしょう。

 ただそんな李承晩にも終わりの時が迫ります。1960年の大統領選挙でも再選を目指していつものように選挙工作を行っていたところ、慶尚南道馬山で反李承晩デモが起こりました。この際に行方不明となった高校生が遺体で発見されたことによってデモは瞬く間に全国へ拡大。ソウルでは186人の死者が出るほどの大混乱となったそうです。
 こうした状況を見て事実上、李承晩の後ろ盾だった米国も態度を一変。経済支援の打ち切りまで示唆されたことから、「行政からは手を引くが、元首は続ける」と譲歩する姿勢をみせましたがさすがに韓国の人ももうこの人を信用してなかったのか、完全退陣を求めデモはますます拡大していきました。

 事ここに至り、ようやくというかやっと李承晩も大統領職の辞任を発表します。辞任発表から約一ヶ月後、韓国にはとどまらず夫人と共にハワイへ亡命し、そのまま韓国には戻らず5年後に90歳で死去しました。

 先にも書いておりますが、彼の統治を見る限りどうも国を豊かにしようとかそういう情熱はあまり感じません。実際、1950年代の韓国は朝鮮戦争の影響もありますが世界の最貧国の一つで1960年代の朴正煕政権時に大幅な経済成長を果たしたことと比べるとあまりにも政治が悪すぎるとしか言いようがありません。
 にもかかわらず李承晩が政権の座に就き続けられたのは米国の後ろ盾があったからでしょうが、米国ももうちょっとマシな人物を選べよと心底思います。わかる人だけわかってくれればいいですが、李承晩はゴ・ディン・ジエムと違ってCIAに暗殺されなかっただけマシだなと皮肉っぽく感じます。

2013年3月22日金曜日

公示地価上昇の原因について

・【地価公示】今年の公示地価、全国2千地点で上昇 住宅地は復興の宮城がトップSankeiBiz


 今日はブログ更新はお休みしようかと思っておりましたが短くてもいいからちょっと突っ込んでおくべき話題が出てきたので取り上げておこうと思います
 上記のリンク先に書かれているように国土交通省はこのほど全国の公示地価を発表しどのメディアもリーマンショック以降の地価下落に歯止めがかかりつつあることや一部地域で上昇に転じた報じておりますこれら要因は景気回復兆しが出てきたためで今後も期待感が出ている……というような具合で今朝のテレビニュースでは報じておりました

 結論から言うと今回の地価下げ止まりは景況感による要素も全くないわけじゃないでしょうがそれ以上に大きいのは消費税の増税控えているというこの条件でしょう消費税が増税されれば住宅や土地取得にかかる費用も金額が大きいだけに大きく増えるため駆け込み需要とばかりに取得しようとする人が出てきているのだと思いますもちろん、これらの需要は消費税引き上げ後に一気になくなるので長期的どころか中期的に見ても日本の不動産価格は下落していくと私は予想します

 今朝のあるテレビニュースでは外国人投資家が日本の不動産割安感があり投資価値が高いなど証言した後こうした外国人による取得増えてきているなどと報じておりましたが多分こういう人たちは消費税増税前の駆け込み需要で全部売り抜くつもりじゃないかと思います逆に言うなら、目端の鋭い人たちは既に不動産を取得しており、今更買ってもちょっとしょうがないんじゃないかというのが私の意見です。

2013年3月21日木曜日

海外での人件費上昇に関する考察

 近年、中国では人件費の高騰が著しいことから中国以外の別の東南アジア諸国、具体的にはベトナムやミャンマー、インドネシアなどへ日系メーカーの進出ラッシュが続いていると報じられています。進出目的はやはりコストこと各国・地域の安い人件費にあるのですが、短期的にならともかく長期的には果たしてどうかなと少し感じるところがあるので、今日はほぼすべて私見によるオリジナルな話を展開していこうかと思います。

 まず中国の人件費が高騰していることは紛れもない事実です。この前終わっちゃったけど胡錦濤政権の後半では格差解消が大きな政治課題となっており、実際に中国国内の各地域で最低賃金の引き上げが大々的に実施され続けております。それこそ2005年ごろは500元程度だった最低賃金は現在ではほとんどの地域で1000元の大台を超えており、1500元にも達している地域も確かありました。
 こうした最低賃金の引き上げに伴い、大卒初任給も急上昇が続いております。たとえば上海市内であれは2009年は平均で約2000元でしたが、わずか3年後の2012年には約3000元に達したという調査データが出ております。ちなみに同じ調査データでは、2012年の入社3年後の社員の平均給与は約4500元、つまり3年で給与が2.5倍にまで昇給するというなんだか夢のある話も乗ってました。夢があるたって日本人からすればベースが低すぎるかもしれないが。

 このような中国での人件費高騰は大量の従業員を雇わなければならないメーカーにとって死活問題であり、より人件費の低い国や地域に生産拠点を移転しようというのもごく自然な流れといえるでしょう。中国では昨年にスポーツ用品メーカーの独アディダスが唯一の自社工場を閉鎖し、委託工場への発注も大幅に減らすなど明確な生産移転を打ち出したことが大きく話題になりましたが、日系でもこのところ「中国撤退」という言葉が出て、先程挙げた国に進出するべしという意見がよく出ております。単価の低い商品、具体的には玩具や雑貨、繊維系メーカーなどにとっては実に頷ける話です。
 ただここまで書いておきながらですが、だからと言ってすぐに中国から生産移転をしていいものか、ほかの国に生産移転すればそれで済む話なのかというと少し疑問があります。もったいぶらずに言うと、短期的には安い人件費の恩恵を享受できるとしても長期的には中国以上に急激な人件費高騰を受けるのではないか、という懸念があります。

 私がこのように考える理由は単純に、人口の違いです。言うまでもなく中国は世界最大の人口大国で、豊富な労働力を背景に世界の工場として君臨するに至っております。その中国ですらこの10年の間に人件費が大きく上昇したのが現在の状況ですが、逆を言えば人口が多い中国だからこそ人件費の上昇はこの程度にとどまっていたのでは、具体的には賃金の上昇スピードはまだ緩慢だったのではないかと私は見ております。それこそ、中国ほどではなくともインドネシアなどの国に外資メーカーの進出が相次いだら2~3年という短い間に賃金が2倍、3倍と上昇していく可能性がある気がします。
 参考までにアジア諸国の人口統計を下記に記載します。

中国:13億5300万人(2012年)
インドネシア:2億2900万人(2008年)
日本:1億2600万人(2012年)
ベトナム:8400万人(2008年)
ミャンマー:5000万人(2008年)
※すべてWikipediaより引用

 見てもらえばわかる通りに、ベトナムやミャンマーは中国どころか日本以下、インドネシアはまだ日本を上回っているもののそれでも中国からすれば六分の一程度です。アジア域内で中国に互す人口を抱えているのは唯一インド(11億9800万人)がありますが、インドへの進出はその治安、インフラの悪さに加えカースト制度や宗派対立があるためその苦労は並大抵じゃありません。それだけに向こうで頑張っているスズキは本当にすごいと思うんだけど。

 国にもよるでしょうが、外資メーカーの進出ラッシュが起こることによって今の中国みたいに人手不足がすぐ発生するように思えます。そして不足する人手をかき集めるため人件費も高騰、それに合わせて最低賃金も引き上げへ、この辺の上昇ペースは相当急だと思います。これらの国へ進出するのは日系に限らずさっきのアディダスのように独系、米系もいるからです。
 仮に賃金がこれから急激に上昇していくことも織り込み済みで中国以外の国へ進出するというのであれば問題ないでしょうが、この点を見落とす、現状の人件費水準だけに着目して進出を決め、工場を設立しても投資額を果たして回収できるのかという懸念を覚えます。それであれば既に人件費は高騰しているものの圧倒的な人口を背景に巨大な国内市場を持つ中国に留まるという選択肢も、商品やサービスによってはありじゃないかと個人的に思います。

 今日ここで書いた話は私の完全オリジナル、というか思い付きの話であるため具体的な根拠性についてはやや乏しいです。むしろ問題提起するという意味で書いているので、意見がある方などはどんどんコメント欄に書いていってもらいたいです。
 ちなみになんでこんな話を思いついたのかというと、2005年に出版された中国関連の新書を読んでて当時の人件費が500元前後と書かれてあったのを見てビビッと来ました。我ながら妙なところに反応する傾向がある気がします。

2013年3月20日水曜日

韓国の近現代史~その四、朝鮮戦争 後編

 大分日が空いてしまいましたが、前編に引き続き朝鮮戦争の経過とその結末について書いていきます。前回では北朝鮮の急襲によって米韓側は一時追い詰められたものの、起死回生の仁川上陸作戦の成功によって北朝鮮に対し米韓が逆王手をかけるに至ったところまで解説しました。この時の北朝鮮側の支配地域は元山市に限定されており、誰もが「朝鮮半島の統一は間近」だという風に考えていたでしょう。

 こうした状況下、北朝鮮と国境を接する中華人民共和国では救援(参戦)するべきか否かで大きく揉めておりました。当時の最大権力者と言ってもいい毛沢東らは参戦に積極的でしたが、多くの人民解放軍幹部はWikipediaにも書かれている通りに反対しており、その反対理由をそのまま引用すると、

1、中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
2、長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
3、中華人民共和国建国後も中国国民党政府の支配下のままとなった台湾への「解放」や、チベットの「解放」など、国内問題の解決を優先するべき
Wikipediaより)

 3番にも書かれている通りに当時の中国は蒋介石率いる国民党との内戦に勝利したばかりで、国内の整備もまだ進んでいない状態でした。そんな最中に外征に出る余裕なぞ少なく、場合によっては米軍に中国本土への攻撃を許す口実すら与えかねない状況でもあるため、多くの幹部が反対したという理由に私は納得できます。
 最終的には「人民解放軍」としてではなく「志願軍」、つまり有志の兵隊が勝手に出向いたという形で参戦してきます。実態的には組織された人民解放軍がそのまま攻め入った形になるのですがその兵力は総勢で100万人近いという説も出ており、単独での参戦兵力数では朝鮮戦争中で間違いなく最大でした。ちなみにWikipediaによると主な参戦国の参戦兵力数を列記すると下記の通りです。

・韓国軍:約60万
・米軍:約48万
・英軍:約6.3万

・北朝鮮軍:約26万
・ソ連軍:約2.6万
・中国軍:約78万

 こうしてみると、如何に中国軍が巨大だったかよくわかります。現代にも言えますが、中国の最大の長所と短所はその膨大な人口でしょう。

 話は朝鮮戦争に戻りますが、米参謀本部は38度線を超えると中国軍が参戦してくると懸念していたようですが、実際に指揮していたマッカーサーは「そんなことはない」と主張して進軍していたほどで、恐らく参戦を予想していなかったのでしょう。それだけに突如現れた大兵力に対する備えがほぼなかったため、戦線を一気に38度線付近まで押し返されます。

 なお余談ですが、私の専門である中国の話をするとこの時の中国軍を指揮したのは彭徳懐という将軍で、国民党との内戦でも朱徳とともに大活躍した軍人です。朝鮮戦争でも上記の通りにその才能を遺憾なく発揮したのですが、後年に中国で吹き荒れた文化大革命の際には紅衛兵による激しい暴行を受け無残と言わざるを得ない最後を辿ります。建国の英雄と言ってもいい彭徳懐がどうしてこのような仕打ちを受けたのかですが、毛沢東の掲げた方針に反対したなどいろいろな説がある中、この朝鮮戦争が原因という説もあります。というのもこの朝鮮戦争に従軍した毛沢東の長男、毛岸英が戦死しており、毛沢東自身も後継者と期待していた人物だっただけに大いに嘆いたそうです。仮に毛岸英が生きていたら歴史も変わったかもと、個人的に思います。

 行ったり来たりが続きますがまた朝鮮戦争に戻ると、中国軍の参戦によって北朝鮮側は一時大きく盛り返します。こうした中でマッカーサーはトルーマン大統領に対して原爆の使用許可を求めるなどことごとく中央の方針に逆らったため、1951年にとうとう解任されます。かわって指揮を執ったのはマシュー・リッジウェイで、中国・北朝鮮軍の反撃を38度線付近で見事に押し留めます。その後はほぼ休戦状態となって大きな戦闘も少なくなり、1953年に米国ではトルーマンに代わりアイゼンハワーが大統領に就任し、ソ連でもスターリンが死去したことによる大きな状況の変化があり、そのまま1953年中に休戦協定が結ばれました。もっとも、この休戦協定は北朝鮮側が一方的に破棄すると今月発表したばかりですが。

 この朝鮮戦争は米ソの冷戦が実際の戦闘に発展した最初のケースで、その後のベトナム戦争につながる一つの段階と見ることが出来るでしょう。周辺国に与えた影響はいうに及ばず、当事者である韓国と北朝鮮では国土が直接戦場になり、大量の犠牲者が出ただけでなく離散家族の問題など深刻な影響を受けることとなり、冷戦が終わったにもかかわらず現在に至るまで朝鮮半島が統一されない最大の要因となりました。
 私個人の一意見を述べると、まだ90年代は先ほど挙げた離散家族の問題がよく取り沙汰されておりましたが、ここ数年は長い年月を経て当事者が減ってきているのか、この単語自体が見なくなってきているように思えます。それだけにかつては「同じ民族、二つの国家」だったものが、段々と二国間の民族同士のつながりは減ってきたのかなという気がします。

 あと周辺国の影響ではやはり日本は見逃せません。日本は隣国での戦争の恩恵を最大限に受けたというべきか、特需景気によって戦後低迷していた経済が劇的に回復します。先日にも親父と話しましたが朝鮮戦争と言いベトナム戦争といい、日本は冷戦のさなかで最も恩恵を受ける立場を享受していたように思え、また冷戦の終了とともに競争力を減らしたのかなとも思います。

 そういうわけで二回に渡り序盤の山場である朝鮮戦争を取り上げました。次回は韓国初代大統領である李承晩の大統領就任から落ち目までを取り上げていきます。

関西遠征について

 昨日友人と焼肉屋に行ったところ、牛タン噛んでいる最中に自分の舌を噛んでしまってまだ痛いです。何この本末転倒。

 話は本題に入りますが、先週の金曜から昨日まで関西地域へ遠征に言っていました。主な目的は親戚や友人に会うためでしたが、昨晩に東京に帰ろうとしたところで上海で知り合った友人から連絡がありそのまま東京で夕食してくるなど、スケジュールの割に会ってきた人間の数は多かったです。もっとも、あちこち移動していた関係でブログの更新は出来なかったけど。

 まとまりのない内容になりますが思いつくことを片っ端から挙げると、これ以前に関西に行ったのは2010年ですが、あくまで私の実感ではあるものの当時より関西の人の表情は明るくなっているように見えました。この点について友人などと話してみると、やはり民主党政権が終わって自民党政権になった去年の12月から世間の空気がマシになったと言っており、私もこれが大きいように思えます。
 それと今回は高速バスに乗って移動しましたが、行きも帰りも疲労しないために昼便を使いました。行きでは東京駅を早朝に出発して夕方に梅田に着くJRバスでしたが、何の気なしに中央道を通る便を選んだら例の笹子トンネルを通って思わず天井を見てしまいました。

 体力の話でもう少し続けると春先の寒暖差を受けちょっと体が疲れ気味というかだるい日が続いており、遠征前にじっくり体を休めておりましたが今日あたりはまだしんどさを感じます。もともと、毎年3月前後の春先はツキのない事態に振り回されることが多いだけにこの時期であるってだけで気分が悪いです。実際に帰国から一ヶ月半経って面倒くさい事態に巻き込まれて実際には書きませんが、聞く人によっては真面目にドン引きする状態に陥ってます。といっても、「殺し屋さん」のネーム担当の作者は自宅が焼けて保険で揉めたりなどとつづっており、この人に比べれば自分なんてまだまだとか思う程度ですが。

2013年3月18日月曜日

WBCでの日本敗退について

 毎日が日曜日というあまり笑ってばかりもいられない環境を使って、今日は朝早くからWBCの日本対プエルトリコ戦を見ておりましたが、結果は皆さんも知っての通りに残念ながら日本が敗退しました。選手の方々が頑張っていただけに残念ではあるのですが、大きくニュースになっているように、8回の内川選手、井端選手によるダブルスチール失敗のシーンはリアルタイムで見ていましたが本当に「えっ!?」と驚かされました。

 現在までに出ているニュースを見る限りだとどうもベンチが無謀だと言い切ってもいいダブルスチールを指示していたようで、それだけに走塁でアウトになった内川選手が不憫でなりません。元々、内川選手は責任感が強そうに思えるだけに人一倍今回の敗戦の責任を感じているかもしれず、声をかけられるものなら「気にしないでいい」と言いたいくらいです。

 それにしても、投手の継投といい今回の監督、コーチ陣の指揮ぶりには素人ではあるものの、私も疑問に感じる点が少なくありません。ショートの位置で守備に不安のある坂本選手がいたり、調子のいい投手を続投させずに細かく変えて失点したりと、もっと人選があったように思えるというのが私の感想です。

2013年3月15日金曜日

韓国の近現代史~その三、朝鮮戦争 前編

 この連載も三回目で、今日は序盤最大の山場に当たる朝鮮戦争を取り上げます。今回の連載を始める前から勉強していたから、書きやすいと言えば書きやすいんだけど。

朝鮮戦争(Wikipedia)

 朝鮮戦争は1950年6月25日に北朝鮮軍が突如として38度線を突破してきたことから開戦しました。先に開戦時における国際状況を説明すると、一番大きいのは  中国で1948年 、毛沢東率いる中国共産党が蒋介石率いる国民党との戦いに勝利して中華人民共和国が勝利しております。北朝鮮にとっては同じ社会主義の政権が国共の接する中国に成立しただけでなく、共産党軍と共に国共内戦を戦った朝鮮族の部隊が北朝鮮軍に合流しております。実戦を経験した部隊であるだけに、金日成の決定に何らかの影響を与えたのではないかと私は見ます。

 ただこうした状況の中、北朝鮮と同じ社会主義勢力の中国、並びにソ連は当初、韓国に攻め込むという北朝鮮の計画に難色を示したと言われております。中国は国民党を台湾へ追い出したと言っても建国まもなく国家機構もきちんと整備されておらず、ソ連も二次大戦で若い男性がほぼ全員戦死したことから労働力不足に喘いでいる上、米軍との直接対決にもなりかねない韓国侵攻を望まなかったと言われており、私もこの説を信じます。
 にもかかわらずどうして北朝鮮は侵攻を実行したのかですが、一説ではソ連のスターリンに対しては「中国からは了承を得ている」と話し、中国の毛沢東に対しては「スターリンからは支援してもらうと約束を得ている」と都合のいいことを言って、双方から支援の約束を取り付けたという説があります。その後の経過を見るにつけ、これも多分間違いじゃないんじゃないかな。

 こうして開戦した朝鮮戦争ですが、韓国側の防衛計画が甘かっただけでなく指揮系統の面でも混乱があったために、序盤は北朝鮮の連戦連勝が続きます。ましてや北朝鮮軍にはソ連から二次大戦中で最強の戦車であったT-34を筆頭に最新鋭の装備が供与されていたのに対し韓国軍の火力は低く、開戦4日目の6月28日にはソウルが陥落しました。
 このソウル陥落時は軍、官憲、市民が一斉に脱出を図ったことからひどい混乱となり、市民が渡河中にもかかわらず橋が爆破され数百人が犠牲となった漢江人道橋爆破事件も起こっております。もっとも朝鮮戦争による非戦闘員こと市民の犠牲はこの後の方がひどく、北朝鮮軍、韓国軍共に進軍先でスパイ容疑をかけるなどして万人単位での大量虐殺を繰り返し、合計すれば少なくとも100万人以上が死亡したと試算されております。

 話は戦況に戻りますが、韓国軍は一時は釜山以外の地域を北朝鮮に占領されるところまで追い詰められます。こうした中で米国は、ソ連が拒否権を発動しなかったのもあって北朝鮮に対して国連軍の派遣を決め、日本でGHQを率いていたダグラス・マッカーサーが指揮を執りました。ただ国連軍の派遣後も戦況はなかなか改善せず苦戦が続いたのですが、こうした中でマッカーサーは起死回生を図り、仁川上陸作戦を実行に移します。

(Wikipediaより引用)

この仁川上陸作戦の上陸地点は上記地図のピンクのポイント、位置にして北緯38度線の西側にあり、当時は北朝鮮の占領地域に当たります。いわば敵地のど真ん中に一気に突っ込むという作戦で米参謀本部ではマッカーサー以外はほぼみんな反対したものの、反対を押し切る形で実行して見事に上陸を成功させました。
 この作戦の成功によって長く伸びきった北朝鮮の補給線は寸断され、逆に韓国軍は作戦の成功に勢いづき一気に反撃を開始し、あっという間に北朝鮮軍を38度線以北に追い帰しました。開戦前の領土を奪回したことからここらで和睦という案も当時出たのですが、「いつ統一するのか、今でしょ」って某予備校講師みたいに言ったかどうかは定かじゃないですがマッカーサーは38度線を越境し、北朝鮮軍への追撃を決断します。

 このマッカーサーの決断に米参謀本部、並びにトルーマン大統領は反対をしたのですが、その理由というのも「38度線を越えたら中国の参戦も有り得る」という情報を得ていたからです。果たしてその予感は当たり、北朝鮮の領土の大半を占領し中朝国境に当たる鴨緑江へ迫ったまさにその時、中国の人民解放軍は志願軍という形で参戦してきました。既にかなり長くなっているので、続きはまた次回で。