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2013年3月30日土曜日

暗殺者列伝~山口二矢

 このところ「暗殺教室」、「AZUMI」という暗殺に関わる漫画ばかり読んでて「暗殺」という言葉に対していろいろ思うことがあるので、実在した暗殺者を取り上げて皆さんと一緒に考えてみたくなりました。そんなわけで、「猛将列伝」に続く列伝物のカテゴリーとして今日から「暗殺者列伝」っていうのを始めます。栄えある一発目は物知りな友人も知らなくて「ヨッシャヽ(・∀・ )ノ」と思った17歳のテロリストこと、山口二矢(やまぐちおとや)を取り上げます。

山口二矢(Wikipedia)

 恐らく自分と同世代の人間はまず間違いなくこの人のことを知らないでしょう。自分よりやや年上の世代でも同じかもしれませんが、1950年より前に生まれた人であればこの名前を見るだけでピューリッツァー賞も受賞したあの写真の情景が浮かんでくるかと思います。この山口二矢がどんな人物か簡単に述べると、17歳時に当時の日本社会党委員長である浅沼稲次郎を刺殺し、逮捕後は東京少年鑑別所内で首を吊って自殺した人物です。

 山口二矢は1943年、戦後になってからでしょうが父親が自衛官という家庭に二男として生まれます。幼少の頃から軍国主義的な性格の兄の影響を受け右翼思想を持ったとされ、高校に入学後は右翼団体とも交流を開始し、高校を中退してからは正式に愛国党という党員になります。

 彼が行った暗殺は既に記してある通り、浅沼稲次郎の暗殺です。左派勢力に反感を抱いていた山口二矢は自宅にあった脇差を忍び、日比谷公会堂で開かれた自民党、社会党、民社党の3党党首演説会で壇上に立った浅沼稲次郎に飛びかかり、彼の胸を2度突き刺して暗殺しました。この暗殺時の情景はネットで検索すれば出てくると思いますが、毎日新聞の長尾靖カメラマンが見事に収めたことによって後に彼を日本人初のピューリッツァー賞受賞へと導きます。
 もっともこの時の撮影については以前に誰かが、当時はまだフィルムが貴重な時代でほかのカメラマンは演者がみんな登壇した時に撮影して使い切っていたところ、長尾カメラマンは仕事を横着していたことからたまたまフィルムを残しており、うまいこと撮影に成功出来たと書いておりました。本当かどうかはわからないけど。

 話は戻りますが、刺された浅沼稲次郎はほぼ即死で、山口二矢はその場で自決を図りますが警官に取り押さえられています。取り調べに対し山口二矢は比較的落ち着いた態度だったとされており、警察は何かしら背後に暗殺を指示した組織があるのではないかと問い詰めたものの本人はあくまで単独犯だと主張し、暗殺理由については浅沼稲次郎個人に恨みはないものの、社会党の指導的立場にいることから決行したと証言したとされます。
 そして逮捕から三週間後、山口二矢は鑑別所内で首を吊って自殺します。壁には歯磨き粉で「七生報国 天皇陛下万才」と書いておりました。こうした鮮烈な一生であったことから死後は右翼勢力に祭り上げられたそうで、未だに追悼祭なども開かれていると聞きます。

 私はこの事件を高校生の時に知りましたが、正直に言ってびっくりするような強い印象を覚えました。当時の心境を言うと、当時の自分と同じような年齢でこんな大それた事件をやった奴がいたのかと思うのと同時に、今現在イラクやアフガニスタンで起きているような政界重鎮の暗殺がこの頃の日本に起こっていたのかなどということを思ったのを今でもよく覚えています。ただ山口二矢の行動に関しては間違いなくテロそのものであり肯定する気にはなれず、尊敬とか崇望みたいな感情はついぞ覚えることはありませんでした。

 しかし、ちょっと表現し辛いのですが、尊敬や崇望はしなかったものの、少なからず共感は感じました。こう書くとなんか自分が危ない人間に思われる懸念はありますがありのままに書くと、あの時の共感は十代における思い込みの激しさや、まるですがりつくかのように一つの思想・概念に凝り固まりやすい時期だったからじゃないのかと、今現在思います。

 大分前にも書きましたが、私も中学から高校の一時期はやや表現が古いですが軍国少年っぽい思想を持ち、政治とかにも興味を持ってわかった振りして吹聴し回ってたのですが、ああいう風になるのは反抗期の影響が強い気がします。自分の周囲も自分ほど極端ではなくとも、親とか教師とか学校とか既存の概念に対して反感を持つ一方、国家とか宗教、オカルトみたいなとかく巨大で一見確固としてそうな概念に魅かれる、しかもかなり思い込み激しく傾倒するところがあったように思え、あの年代というか10代の中盤から後半ってのはそういう時期だと考えてます。
 ただそうした思い込みはあくまで思い込みに留まり、実際の行動として出てくるのは中二病と呼ばれる痛い行動程度なのが一般です。それだけに、暗殺というとてつもなく恐ろしい事を本当に実行してしまったという点で、高校生の自分は山口二矢に対して感じるところというか、自分みたいに妄想だけで実行しない臆病者とは違うんだなと思ったのでしょう。無論、そんな臆病者で自分はよかったと、年を食った自分は思うわけなのですが。

2013年3月29日金曜日

日本人女性の化粧技術は世界一ィィィィ

 無駄に見出しをジョジョ風にしましたが、特に意味はありません。じゃあなんでしたのかっていうと、なんとなく書く話題にジョジョっぽい雰囲気が合いそうだなとか感じたからです。

 唐突ですが私個人の実感として、日本人女性の平均的な化粧技術は真面目に世界一、少なくともトップクラスにあると思います。一体なんでこう思うようになったのかというと、このブログで何度も出てくる上海人の友人が、「日本の女の子はみんな化粧が上手い」と言った一言からでした。改めて言われてみると、中国の街中を歩いている女性はみんな化粧っ気が少ないように思え、化粧をしている女の子も、「なんかメイクの仕方間違ってない?」と男の自分ですら思うほどなってなかったりします。

 では女性の目から見たらどうなのか。前の会社にいた頃に日本人女性の同僚にも聞いてみたところ、「確かに中国の街中を歩いていると、素材はいいのにと思う女の子が多い」と話し、化粧技術が日本人に比べて大きく劣り、ちょっと弄ればグッと良くなると他人でありながらよく思うと話しておりました。
 ぶっちゃけた話、日本と中国以外で女性の化粧技術の差にそれほど着目しているわけじゃありませんが、留学中に見た多国籍の女子学生を思い出すにつけ、確かに日本人女性は化粧が上手いなという気はします。一体なんで日本で発達したのかは資生堂あたりに聞いてもらいたいものですが、一つの日本人女性の特徴として覚えておくと面白いかもしれません。

2013年3月28日木曜日

現在と未来の優先順位

 このところよく考える哲学テーマの中の一つに、未来に対する価値観というものがあります。未来といえば現在より時間が進んだ先の状態、ということには間違いないのですが、その未来をどのように捉えるかでこのところ、というか中国に渡ったきた辺りから価値観が変わってきました。

 まず前提として、多かれ少なかれの日本人は将来、10年先とは言わずとも2~3年先くらいの自分の未来がどのようにあってほしいのか、どうあるべきなのかという予測とも希望ともいう漠然としたイメージがあると思います。多分、高度経済成長期であれば今ほどイノベーションというか世の中の動きが激しくなかったので20年とか超長期スパンで物事を考えていた人もいたかもしれません。
 ではそうした未来の自分に対するイメージは現在の自分にどのような影響を与えるのか。改めて考えるといろいろあって、たとえば将来の仕事に必要だからと思って実行するかどうかは別にして英語を勉強しようと考えたり、資格取得を目指したり、生活に根差したものなら住宅ローンを組んだらどうだとか、組んでいる人はいつごろに返済するかとかそういうものを逆算して現在の収支を組んだりなどするかもしれません。こうした見方からすると、未来に対するイメージは長ければ長いほど、確固としていれば確固としていた方がいいようにも見えます。何故なら、現在の行動の方向性が掴みやすいからです。

 では現代人は自分の将来像をしっかり持った方がいいのか。ここまで書いておきながらですが、私はこの見方に対して異を唱えます。つまり、自分の将来像を固めすぎるとあまり良くないと言いたいのです。
 一体何故こんな風に言うのかですが、単純に現代社会は未来がほとんど読めないからです。恐らく就職活動をする学生さんは応募する企業に対して多少なりとも将来性を考えるでしょうが、5年前に日系メーカーとしては一番勢いのあったシャープが現在では青息吐息な状態であるなど、 現代社会はとにもかくにもイノベーションが激しく、今後も更に加速して行きかねません。それ故にうまくいけばめっけものですが急なトラブルというか方向転換を迫られる事態に巻き込まれた場合、 自分の将来像を固め過ぎてると返って選択肢を狭めかねず、言ってしまえば応用が効かなくなる可能性があります。

 では将来像を全く持たずにその場その場で刹那的に生きるべきなのかという声も出てきそうですが、これでは極端から極端に走りすぎです。全く将来像を描かずに「現在」しか見ないで生きるというのも自らの活躍、発展の可能性を狭めてしまいます。
 じゃあ一体どうしろってんだとそろそろ言われそうですが、結論としてはこれはあくまで日本人限定ですが、もう少し未来より現在に意識を集中して生きた方がいいのではというのが私の意見です。

 一体何故私がこんな意見を持つようになったのかというと、言ってしまえば中国での体験が原因です。中国人は概して、日本人と比べると刹那的に生きている人が多いです。10年先なんて知ったこっちゃないよと言わんばかりに勢いで行動するし、仕事も長期スパンの計画とかが苦手で面倒くさい問題は後回しというか放置(日本人も見なかったことにすることが多いが)、キャリアプランも深く考えずちょくちょく転職も実行します。
 自分も一応は日本人であるのでちょっと中国人は刹那的過ぎるかなぁとは思うのですが、その一方で日本人は長期的に物を考え過ぎるあまりに、いざ方向転換しようと思ったら時既に遅しというパターンが多すぎる気がします。中国人を見習えっていうわけじゃありませんが、今感じていること、考えていること、やりたいこと、やるべきことをもうちょっとストレートに即実行しようとしてみる方が長い目で見ると返っていいのではと思います。

 こんな風な考えを持つに至った故というべきか、未来に対する意識というか価値観が数年前と比べて何か自分の中で変わった気がします。敢えて表現するなら、以前は「出来ればこうあってほしいなぁ」という希望イメージだったものが、「現在を積み重ねた結果」と考えています。
 この辺が非常に表現しづらいのですが、以前は希望する、期待する未来のイメージに現在の自分をどう近づけるかを主に考えていましたが、今はあまりそういった未来のイメージを持たず、今現在で頑張ったり、努力したりすればいい未来に繋がり、逆なら悪い未来に恐らく繋がるだろうというようなアバウトな価値観になってます。要するに、先のことは知らないけどまぁ今目前でやるべきことをしっかりやってれば多分良くなっていく、こんな信仰です。

ホリエモンの釈放について

 このところ連載にかまけて時事ネタと中国ネタが放置に近いので、先に時事ネタとばかりにホリエモンこと堀江貴文元ライブドア社長の刑務所出所について書いてみようと思います。

 既に各ニュースで報じられている通り、一時は時の人だった堀江氏が保護観察の身分とはいえ刑務所から出所しました。各新聞、テレビは入所前の写真を持ち合わせその激やせ(30kg減)ぶりを大きく取り扱いましたが、この人は確か拘置所に一時収監、出所した際も痩せ、そしてまた太ってだったので、なんとなくリバウンドが激しい人だなぁと思いました。

 そうした外見に関する話は置いとき、出所後のインタビューでは混乱を招いて株主や関係者に迷惑をかけたと謝罪してましたが、これにはいい意味で違和感を覚えました。というのもわかる人には早いですが、堀江氏の逮捕容疑は有価証券報告書での架空計上、要するに実体のない取引でさも利益があるように粉飾したという内容でこれ自体は確かに違反背反です。しかし架空計上した金額は確か50億円程度で、言ってはなんですが微々たる金額で果たして逮捕、しかも初犯で実刑を食らうほどかとなるとアメリカさんじゃあるまいし日本の司法上では異例です。
 しかも堀江氏の逮捕後、もっと悪質な手法で金額もでかかった日興コーディアルグループの粉飾事件では逮捕者は一人も出ず、さらにオリンパスに至っては長年に渡って隠し負債があったことが発覚したにもかかわらず処分が異常に緩いという、不公平もいいところだというくらいに司法の判断が分かれました。

 上記の背景があるだけに、真に株主らを混乱に陥れたのは私は日本の司法こと検察だと私は考えているので堀江氏は別に謝らなくてもいいんじゃないのとすら思うのですが、なんか殊勝な態度を見せてきたので、年相応にこの人も落ち着いてきたのかなという印象を覚えます。まぁ最初だけかもしれないけど。

 あとこれは堀江氏が近鉄球団買収(2004年)に名乗りを挙げた際の友人の言ですが、「僕は堀江社長が近鉄の買収に名乗りを上げた事にはそんなに感じることはないんだけど、この人が宇宙開発をしたいと言っていることにはすごい共感する」と評価しておりました。それにしても昔のことを自分も良く未だに覚えているもんだ。
 今回の出所後インタビューで堀江氏は昔同様に、「これからは宇宙開発とか実験に関わっていきたい」と話しておりました。このセリフを聞いて上記の友人のエピソードを思い出したのですが、こういうところは首尾一貫しているなぁと思え、私が言うような立場ではないのでしょうが、堀江氏には是非その方面で活躍してほしいと密かに思います。

2013年3月27日水曜日

韓国の近現代史~その六、朴正煕のクーデター

 この連載も個人的に書いてて楽しいところまでようやくたどり着いた気がします。そんな今回はある意味で今ホットというか恐らく韓国史を扱う上で最重要人物の一人である朴正煕の政治界デビューこと、5・16軍事クーデターを取り上げます。

5・16軍事クーデター(Wikipedia)

 最初に前回までのおさらいをします。前回では韓国の初代大統領、李承晩が朝鮮戦争を経た後も自身の地位保全のため選挙妨害などを行うなどしたことからデモが起こり、1960年に退陣して亡命するところまで書きました。
 李承晩の退陣後、韓国では尹潽善(ユン・ボソン)という初代ソウル市長でもある民主党最高委員が二代目韓国大統領として就任しました。ただ李承晩の後に改正された韓国の憲法では大統領にはあまり実権がなく、政権はむしろ首相であった張勉という人物が運営するような形でした。この時期の韓国政界の特徴としては、ほかの時代や国でも同じですが、共通の敵(=李承晩)を打倒した後というものは主導権争いこと内紛が起こるもので、韓国でも与党である民主党内部で激しい内紛が起こり政局は安定しませんでした。また本来協力し合わなければならない大統領の尹潽善、首相の張勉の二人の関係もしっくりと行かず、こうした状態に懸念を持つ勢力が出てきたということです。

 その懸念を持った勢力こそ、ほかの何物でもない軍部で、1961年には後に大統領となる朴正煕ら韓国陸軍士官学校8期生を中心に軍事クーデターが実行されます。
 彼ら軍部がどうしてクーデターを引き起こしたは色々な要因がありますが、Wikipediaに書かれている内容を抜粋すると以下の通りとなります。

1、自由党政権を引き継いだ民主党政権の政治的無策と党内抗争
2、民主的改革に対する民主党の曖昧な態度、経済状況悪化[2]に対する国民の不安の高まり
3、学生や革新政党を中心とする民主化運動と「行こう!北へ!来たれ!南へ!会おう板門店で!」をスローガンとした統一運動の高まりに対して軍部が危機感を抱いた。
4、分断の固定化と朝鮮戦争によって肥大化した韓国軍では軍人事が停滞し、それによって進級が進まなかった下級将校に不満が蓄積されていた。
5、不正腐敗を働いた高級軍人を追放するため下級将校によって進められた「整軍運動」が失敗し、運動の首謀者が追放されそうになっていた。

 1~3までが社会的背景で、4~5が直接的要因と書かれてあります。私個人の意見としてはやはり4番の理由こと、出世要因が最も大きいとみます。軍人というのは基本、戦争がなければ飛び抜けた実力、才能があってもなかなか出世しづらい職業です。それ故に平時は官僚同様に年紀で昇進するわけなのですが、上記にも書かれている通りに何かの拍子で軍人が余っちゃうと途端に出世が遅れ、8期生とか11期生とか、士官学校の卒業年代別で階級に大きな隔たりが生まれます。それ故に軍隊というのは世代間対立が激しい所で、戦前の日本で起こった皇道派、統制派の対立も突き詰めると世代間対立が原因で、最終的に二二六事件にまで発展したことを考えるとこのクーデターもそう言った対立の延長かなと思ってしまいます。

 話はクーデターに戻り、当時少将だった朴正煕を中心とした8期生の将校らはデモ鎮圧を口実に出動し、そのまま国会やテレビ局といった国家の主要施設の占拠に成功します。驚くべきはこの時のクーデター実行部隊兵数で、わずか5000人にも満たない兵力だったそうです。
 何故それだけの兵力で国盗りが見事に成功できたのかというと、一つにソウルの主要施設をすぐに占領できたことと、軍部の長老の懐柔にうまく成功できたという二点が挙がります。後者の軍長老の懐柔ですが、要するに身の安全や今後の保証を約束した上でクーデターの正当性を認めさせたということなのですが、実際にはこの約束は反故にされてクーデターの成功後、軍の長老らはみんな放逐されております。

 また成功要因としてもう一つ、権力保持側である政権がほとんど抵抗する姿勢をみせなかったということもあります。クーデター開始後、時の首相の張勉は女子修道院に隠れ姿を見せず、大統領の尹潽善もクーデター実行部隊側の要求を聞き入れて非常戒厳令を追認しております。こうした二者の行動に対して批判する声もありますが、当事者としては命にかかわる事態だっただけに私としては批判する気はありません。

 こうして権力を握った朴正煕は国家再建最高会議を組織し、自らが議長に就任。反対デモなどを武力で抑えて軍政を展開します。こうした事態に対して米国こと在韓米軍は、クーデター直後は尹潽善にクーデター軍鎮圧のため軍隊を出すべきだと進言しますが内乱を過熱化させるとして尹潽善は拒否します。そうこうしているうちに米本国は、当時はケネディ政権でしたが朴正煕政権を追認し、朴正煕もこれに応じる形で訪米を果たしております。
 この時の米国の追認ですが、背景にあったのはベトナム戦争だと私は考えています。既に米国はベトナムへの干渉を行ったものの事態は泥沼化を辿っており、下手に手を突っ込んでグダグダになるくらいなら、政権移行がスムースに行くようであれば追認してしまおうと考えたのではないかと思います。どうでもいいですが、日本ではケネディはベトナムからの撤退を準備していたという神話が流れておりますが、ベトナムを泥沼化に追い込んだのはほかならぬケネディでしょう。

 そういうわけで次回は、軍事政権を経て大統領に就任した朴正煕の施政を解説していきます。

2013年3月25日月曜日

日本語表現でこの頃感じること



 いきなり妙なマークから書きだしましたが上記の記号は日本人なら言わずと知れた温泉地図記号です。なんでこんなマークを引っ張り出してきたのかというと、今日買って読んだ「日本人の知らない日本語3 祝! 卒業編」にてロシア人留学生がこのマークを、「おんせん」と読む漢字だと誤認していた書かれていたからです。ちなみにそのロシア人はこれが漢字じゃないと知って、やけにショックを受けたそうです。

 言われてみると確かにこのマークは漢字っぽく見えるし、「温泉はこの一字で表せる」とか言ったらなんとなく信じちゃいそうです。それ以外にもこの漫画では、社長や先生といった役職が宛名に付く場合には「様」を付けないが、どうして時代劇では「お館様」と呼ぶのか、日本人が聞いても考え込みそうな内容が書かれてあって、物事は見方だなぁとつくづく感じさせられました。

 ここで話は変わりますが、実は最近自分の中でもある比喩表現を今後も用いるべきかと悩んでいるものがあります。サッとあげちゃうとその比喩表現とは「彗星の如く」という表現で、一般的には突然現れた時に使用し、対象も物体というよりは人間(人材)などに用います。
 この「彗星の如く」、こういってはなんですが結構お気に入りでした。よく使われるのはアイドルやお笑い芸人など突然売れ始めた人に使われるのですが、アイドルなどをよく「スター(星)」と表現することもあり、このスターと彗星が意味的にもマッチしていて他の人は知りませんが私個人にとっては何とも言えない組み合わせに感じます。

 では何故この表現に今更疑問を持つのかですが、一言で言って「今時、彗星が飛んでくる時刻はほとんど予想されてるじゃん」という点に尽きます。いわば東條が予想されているものに対して突然現れたかのような比喩表現は如何なものかと思うわけです。
 かといって、じゃあほかに何か突然現れた際の比喩表現はあるかとなるとパッと出てきません。改めて考えてみると、意外と「突然」という表現は難しいものがあります。そんなわけでまたオチが弱いですが、日本語って難しいねというのが今日の私の意見です。

  おまけ
 「トラの威を借るキツネ」という比喩表現がありますが、これの応用として「ジャイアンの威を借るスネ夫」という表現がたまに散見し、自分でも使ってみたいなぁと日々感じます。

  

2013年3月24日日曜日

韓国の近現代史~その五、李承晩

 このところテンションの上がらない状態が続いておりますが連載再開です。自分でもメンタル弱いのかなとか思ったりしますが、別の見方をすれば今の状態でもブログ更新続けてるのだからもしかしたらタフな方かもしれません。それにしても、ああしんど……。

李承晩(Wikipedia) 

 今日取り上げるのは韓国の初代大統領の李承晩(イ・スンマン)です。彼の来歴を王と共に健康書記の韓国の動きを解説します。

 李承晩は朝鮮半島が日本の植民地だった頃からアメリカに渡って独立運動をしており、1919年に上海市で大韓民国臨時政府が結成されるとこの機関の大統領に就任しております。
 もう少しこの臨時政府について説明すると、要するに日本統治下の韓国の政府機能を認めず、こっちが本流だとばかりに作られた仮の政府です。二次大戦中の仏亡命政府と比べるとあまり国際的な承認を得られませんでしたが、この時の臨時政府跡は今でも上海市、それも観光地である新天地という場所の近くにあって行くつもりはないのしょっちゅう目の前を通っておりました。

 このように独立運動を続けていた李承晩たちでしたが、最終的には日本が二次大戦で敗戦し朝鮮半島の南半分を占領した米国によって与えられる形で独立を回復します。それまで海外で活動していた李承晩達も帰国して政府の設立準備を始めますが、その他多くの国同様に指導者間で徐々に主導権争いが活発化していきました。
 この主導権争いで李承晩は、左派と右派を統合した幅広い政権作りを考えていた呂運亨に対し、米国が望む左派の徹底的弾圧を掲げたことによって米国の支援を受けるようになり、徐々に主流派となっていきました。こうした中で1948年に行われた第一回総選挙では様々な選挙干渉を行った上で李承晩率いる韓民党は勝利し、李承晩も初代大統領に選出されることとなりました。

 ここまで見れば混乱期に紛れうまいこと大統領になれたというサクセスストーリーですが、先に私の評価を言ってしまうと、李承晩は韓国の内政にはあまり興味がなくどちらかといえば自身の権勢を大きくすることばかりに腐心した節があり、それがため現在の彼への評価もそれほど高くありません。
 そうした姿勢は大統領就任当初からもう見え始めており、李承晩は大統領に強い権限を持たせる大統領制を強く主張したのに対し与党の韓民党は議院内閣制を主張し、議会と激しく対立するようになります。こうして国内の政治闘争に明け暮れていた1950年には北朝鮮が南進して朝鮮戦争が開戦するのですが、この間も米国の方針に逆らって勝手に捕虜の処置を決めたり、休戦条約への署名を拒否したりと、一言で言えば国家元首として如何なものかと思う駄々っ子ぶりを発揮しております。面倒くさいのでここではやりませんが、現在の竹島問題に連なる「李承晩ライン」を引いたのも朝鮮戦争中です。

 そんなかんだで1953年に朝鮮戦争が休戦し、翌1954年は李承晩の大統領任期を迎えます。当時の憲法では大統領は二期までとなっており李承晩は強制的に退任させられるはずだったのですが、「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という自分にだけ都合のいい改憲案を突然出してきました。この改憲案は改憲に必要な3分の2に当たる135票まで1票足らずで否決されるのですが、「四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えている」として、ジャイアンもびっくりな思考転換を図って無理矢理可決させてしまい、そのまま大統領の座に居座り続けました。
 もうこの頃には韓国国民も李承晩に対してほとんど支持してなかったようですが、選挙の度に露骨な妨害工作を行い、政敵だった曺奉岩に対してはあらぬ罪を着せて処刑までかますというなりふり構わない手段をとるようになってきました。現在に至っても李承晩の枕詞に「独裁者」とつくのはこうした所以でしょう。

 ただそんな李承晩にも終わりの時が迫ります。1960年の大統領選挙でも再選を目指していつものように選挙工作を行っていたところ、慶尚南道馬山で反李承晩デモが起こりました。この際に行方不明となった高校生が遺体で発見されたことによってデモは瞬く間に全国へ拡大。ソウルでは186人の死者が出るほどの大混乱となったそうです。
 こうした状況を見て事実上、李承晩の後ろ盾だった米国も態度を一変。経済支援の打ち切りまで示唆されたことから、「行政からは手を引くが、元首は続ける」と譲歩する姿勢をみせましたがさすがに韓国の人ももうこの人を信用してなかったのか、完全退陣を求めデモはますます拡大していきました。

 事ここに至り、ようやくというかやっと李承晩も大統領職の辞任を発表します。辞任発表から約一ヶ月後、韓国にはとどまらず夫人と共にハワイへ亡命し、そのまま韓国には戻らず5年後に90歳で死去しました。

 先にも書いておりますが、彼の統治を見る限りどうも国を豊かにしようとかそういう情熱はあまり感じません。実際、1950年代の韓国は朝鮮戦争の影響もありますが世界の最貧国の一つで1960年代の朴正煕政権時に大幅な経済成長を果たしたことと比べるとあまりにも政治が悪すぎるとしか言いようがありません。
 にもかかわらず李承晩が政権の座に就き続けられたのは米国の後ろ盾があったからでしょうが、米国ももうちょっとマシな人物を選べよと心底思います。わかる人だけわかってくれればいいですが、李承晩はゴ・ディン・ジエムと違ってCIAに暗殺されなかっただけマシだなと皮肉っぽく感じます。