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2014年11月4日火曜日

ポストリーマンショックの世界

 
 ほんとどうでもいいですが上記リンク先のニュース見出しを見た際に何故か、「瓶とちくわで殴った!?」と見間違えました。でもって中身を見てみると、「ほかに逮捕されたのは、同じ会社に勤務する25歳から25歳の3容疑者」と書いてあって、25歳以外の何物でもないじゃんと心の中でツッコみました。ってか、記者も編集も妙な表現だと思わないのか?
 
 話は本題に入りますが自分が学生だった頃は竹中平蔵大臣(当時)の政策が是か非か、盛り上がる新古典派に対してマルクス経済を見直すべきだなどという経済学の議論がそこそこ盛り上がりましたが、あまり勉強していないのでただ単に知らないだけかもしれませんが、近年はこういう世界を大きく俯瞰するような経済議論がやや物足りないように思います。なもんだから一人で練り上げるしかなく、今日は20分程度考えて自分なりに分析した現代世界の見方こと、ポストリーマンショックというような見方を勝手に書いて行こうと思います。
 
 2008年に起こったリーマンショックは文字通りそれ以前の世界を大きく一変し、特に欧米を中心に大規模な金融危機が襲ったことからそれ以前とそれ以後を分断する大きなターニングポイントになったと事件と言えるでしょう。ちなみにこの一つ前を上げるとしたらやっぱり2001年の9.11かな。
 このリーマンショックによって世界中で経済活動が停滞して日本でも失業率の上昇や税収、給与の現象が起こりましたが、歴史的に語ればこのリーマンショックの余波からいち早く抜け出したのはほかでもない中国で、確か50兆円だったかあんまはっきり覚えてないけど、途方もない額の政府投資を行うことによって自国のみならず世界の経済を引っ張り、別の見方もあるでしょうがリーマンショックからの立ち直りという面で大きな役割を演じたと私は見ています。仮にこの時の中国の躍進というか投資が無ければ世界はどうなっていたか、20世紀の大恐慌ほどではなかったでしょうがその影響が下手したら未だに続いていたかもしれません。
 
 ただそのリーマンショックから既に四年が経過しており、「リーマンショック後の世界」というにはもはやその直接的な影響は残っているようには思えず、敢えて言うなら「ポストリーマンショック」という、リーマンショックからひとまず立ち直った状態が現代世界ではないかと思います。となるとリーマンショックが終わったのはいつなのかですが、これは国によって多少異なり中国に関して言うと完全なV字回復を遂げた2010年、経済が割と絶好調な米国は2012年くらいなんて思えてきますが、一つの区切りとしてはリーマンショックを起因として起こった欧州の金融問題が先送りによってひとまず沈静化した去年こと2013年が終了年としてみています。なお日本はリーマンショック以上に2011年の3.11の方がダメージが大きく未だに引き摺ってる気がします。
 
 ではそのポストリーマンショックの世界とはどんな世界なのか。始まったばっかなのでまだ何とも言えないところがありますが、いくつか要素を箇条書きで挙げると以下のような変化の兆しがあるように見えます。
 
・中国が「世界の工場」から「世界の市場」に
・東南アジアを中心とした新興国市場における日本ブランドの失墜
・欧州の未だくすぶる不安定な金融爆弾
・米露間の軍事的緊張の高まり
・地域、民族による独立・分離意識の拡大
・イスラム過激派の世界的拡張・分散化
 
 いくつか説明のいるのだけ追記すると、二番目の新興国市場における日本ブランドの失墜は意識的に見ていないと案外気づいてない人が多いと思います。たとえば中国一つとってもソニー、パナソニックといった家電ブランドはおろか自動車のブランド価値も急減しており、伝え聞く話ではシンガポールやインドネシアといったほかの国々でも同じような経過を辿っていると聞きます。なんでこうなったのかいろいろ理由は考えられますがここではひとまずその議論を省きます。
 我ながらいい着眼点をしていると思うのは下から二番目の独立・分離意識の拡大で、一例をあげるとこの前投票があったスコットランドといい、軍事的な影響も大きいですがクリミア地域のロシア帰属など実際に国境線が変わる例も出てきています。以前から取り沙汰されているスペインのカタルーニャ地方もスコットランドの余波を受けて独立を意識する層が増えていると聞き、かつては妄想での話でしかなかった沖縄独立論も公に主張する人まで出てきて、こういうのって世界的な動きなのかなと密かに見ています。最後のイスラム過激派にも通じる気がするし。
 
 ここだけの話、私はリーマンショック後は世界的に保護主義が高まるのではないかなと思っていましたが現実はそうならず、TPPを含むFTAなど部分的に目指そうとする動きはあったものの各国の利害意識が鋭く対立して案外今まで通りに回ってきています。その一方で妙なところがグローバル化したというか、この前も日系のハーネスメーカーたちがしょっ引かれたように国境を越えた企業同士の国際カルテルが明らかに増えており、攻殻機動隊の世界みたいに企業の方が国家を部分的に超越している面も見えます。
 おかしな話をしますが、異常のような世界が広がりつつあるため個人としての価値を求め、イスラム国が拡大しているのではなんて思う時があります。日本人はそんなに個人というものを意識しないですが、埋没していく懸念に対して強大な権力に反抗するというのは、それ自体が過激派組織に取り込まれることでありながら非常に「魅力的な餌」であるように思います。そうした懸念に対してどうするべきか、話しを発展させすぎかもしれませんが日本も外交を真剣に考え、イスラム国に対する姿勢をもっと示した方が良いのではというのが密かな意見です。

2014年11月3日月曜日

中国のリッチなホテル内装

 昨日まで上海に来たうちの親父の相手をしていたのでブログ更新をまた休んでました。ちなみに土曜の晩には香港料理の店に連れて行きましたが、出された料理の中でうちの親父が一番気に入ってたのは何故かロシア料理の「ボルシチ」でした。「うちのおかんがこういうのよく作っとったねん」といいながら8割方一人で全部飲んじゃうし(ーー )
 
 話は本題に入りますが、上記の写真は土曜に親父が予約してたので一緒に泊まった上海にあるオークラホテルこと「上海花園飯店」の一室です。なお最初に指定された部屋はダブルベッドが一つだけだったのですぐフロントに文句言って「デラックスツイン」とホテル側が称するこの部屋に案内されましたが、ベッドは普通にシングルでした。
 そうした文句はさておき、このホテル内装を見て感じ方は人それぞれでしょうが恐らく大抵の人は、「オークラなだけあって悪くないじゃん」と思ってくれるのではないでしょうか。実際に一晩泊まった私の感想としても悪い印象ではないのですが、ここ上海に限っていうならせいぜい並の程度というくらいところで、取り立てて特別豪華だとは思いません。なんでこんな言い方するのかというと、ほかのホテルを含めて上海にあるホテルはどこも非常にリッチな内装をしていることが多いためです。
 
 以前にも中国のビジネスホテル市場で記事を書いておりますが、中国、特に上海においてはヒルトンやシャングリラ、ホリデイインといった外資系大手ホテルチェーンが数多く進出しており、その競争振りも半端なく激しいレベルにあります。現実にいくつかのホテルチェーンで競争に耐え切れず撤退するところも出てきているくらいで、それくらいガチの競争が繰り広げられているだけあって物価の差もありますが日本人からすれば驚くくらい安い値段で五つ星のホテルにも泊まることが出来ます。上海旅行で何が一番華かと問われるなら、私ならやっぱり手ごろな価格で泊まれる豪華なホテル施設を上げることにします。
 
 では上海のホテルはどんな点がリッチなのかですが、サービスに関しては日本と極端な差はないものの中国の中では図抜けて高いです。この前西安から来た私の後輩などはホテルのボーイに荷物を預けた際、「凄いですよ花園さん。さっきあのボーイ、僕に対して笑顔を見せながら荷物を受け取りました。西安だったら必ず舌打ちされるのに……」と感動した(実話)程のレベルです。
 
 こうした中国としてはマシなレベルのサービスはもとより、見出しに掲げた内装の良さには目を見張ります。以前に私が別の上海市内のホテルに泊まった際に妙な居心地の良さを感じたので家具などの内装に詳しい知人というか読者に尋ねたところ、「中国のホテルの方が日本よりも内装はいいよ」という回答を受けました。その知人によると、中国人は日本人と比べて家具の質、とりわけ色彩の組み合わせに特段を気を使っており、またタイルなどといった建築材でも日本は機能性を優先してビニールなど化学素材を優先するのに対し、中国は機能性を無視してでも大理石などといった天然素材を選ぶ傾向があるそうです。実際に言われてみてから見回してみると、中国は駅構内を始めやたらと大理石を多用していて日本のようなビニールのタイルがあんま見られないことに気が付き、知人の言う通りに中国人の方が内装のセンスは上かもと私も思えてきたわけです。
 
 一体何故中国のホテルの方が内装がいいのか、この答えは私の考えだと民族性にあると思います。近年の日本は車において燃費を絶対重要視するなど機能性を何よりも優先する傾向があります。それに対して中国は機能性を度外視、ってか不良品が出ても出してもあんま気にしない性格もありますが、こと外観というかデザインに関しては強いこだわりを持ちます。車においても燃費や馬力は一切無視してどれだけでかくて派手で目立つ色か(+価格)を大事にしており、そう考えると内装に機能性の高い化学素材ではなく天然素材にこだわるというのと一致する気がします。
 
 やや本筋から外れましたが中国のホテルはクラスに比べて明らかに手ごろな値段に加えて、日本のホテルとはいい意味で一線を画した内装となっていることが多く、中国旅行に来られる際は意識的に良いホテルを選ぶことをお勧めします。もっともビジネスホテルに関しては日本とそんな大差なくふとんも心もちしっとりした肌触りのため、私の感覚で言えば一泊300元(約5100円)が一つのボーダーとなっているように思えるのでこれより上の価格のホテルがお勧めです。ちなみにビジネスホテルは200~250元くらいかな。

2014年10月31日金曜日

今日の日銀の追加量的緩和について

 最初にまたどうでもいいことですが中国というのは人間もタフだったら虫もほんとタフな国だなとつくづく思います。冗談ではなくこの時期においても蚊が飛んでいて油断すると刺されるし、しかもこいつら明らかに日本の蚊よりすばしっこくて殺しづらいです。血を吸った後だとさすがに奴らも動きが鈍るのですがそのかわり叩き潰すと手が返り血で薄汚れ、この前も低空飛行している蚊を革靴で上から思い切き踏みつけて殺しましたが床に血の跡が残った時はやや気分が晴れました。
 あと蚊ともう一つ、ダニもやけに生命力が豊富でちょっとでも湿気が増えたりすると急に大発生します。さっきもどうもパジャマ着てるとあちこちかゆくなるので、耐えきれず夜中であるものの洗濯機に放り込みました。そんなわけでしょうがないから今は半袖のパジャマで代替してます。
 
 話は本題に入りますが本日の日経平均株価終値は前日比+755円、為替も1ドル111円超にも達し、大幅な円安株高となりました。こうなった理由は非常に明白で、日銀の黒田総裁が正午ごろの会見で追加量的緩和を実施すると発表し、この発表がトレーダーに好材料と判断されたことに尽きるでしょう。しかし結論から言うと、今後はちょっと怖いと思うのと同時にしばらく株買うのはよそうと私は思いました。
 
 量的緩和の中身については説明を省略しますが、つい先日に米国のFRBが量的緩和の規模を今後縮小すると発表した矢先の出来事だっただけに、日銀側は米国の発表に合わせて反対の行動となる今回の追加量的緩和を発表したのでしょう。では何故量的緩和を追加で行う必要があるのか、これに関しては既にロイターなどでちゃんとした記事出てるので自分の記事よりそちらを参考にした方がいいのですが、私の方から書くと理由は大きく二つあり、一つは今年四月の消費税増税以降インフレがほとんど進んでいない、もう一つは来年のさらなる消費税増税を実行するためにも市場を盛り上げる必要がある、この二つだと見ています。
 
 後者に関してはもうとやかく説明しませんが、前者に関しては前々から知人には伝えていたもののどうして日本のメディアは統計データを出して取り上げないのかと前から不思議でしょうがありませんでした。今年四月の消費税増税以降、最新の9月データだとインフレ率(=物価上昇率、CPI)は実質で1%にとどまっており、3%の消費税引き上げを行った割には非常に弱含んだ数字となっております。日銀の当初の目標は2%であり今の状態のままだと到底足らず、アベノミクスの前提が崩れる可能性もあることから早くからこの追加量的緩和を計画していたのかもしれません。もっとも、計画しながら実行しないことが多い日本の実情を考えるとかなり果断な決断と言え、トレーダー達の間でも日銀がこのような行動に出るとはだれも予想していなかったことでしょう。
 
 それで今後の推移ですが、しばらくは今回の発表によって株価の上昇とインフレ率の持ち直しが期待できますが、どれだけ効果が持続するかとなると全く分かりません。言うなれば「もう日銀には残された手段がない」と見られてどっかで株価がガクンと落ちる可能性もあり、デイトレードで来週やるならともかく長期的に株式を保有するとなると結構考え物です。というのも、実体経済の具体的な成長戦略を安倍政権がなにも描けていないのが不安で仕方ありません。
 しかしここでテコ入れしなければ来年の消費税増税は批判されっぱなしでやり辛く、不意を突いてやるタイミングとしては決して悪いタイミングではありません。当初の想定通りにインフレりる2%に持ってこれなかった手前、手放しで誉めるつもりはないですが修正をするという手段としては間違ってはおらず、非常に評価が難しいというのが本音です。この辺は歴史に判断してもらうしかないですね。

2014年10月30日木曜日

私なりの社会学的アプローチ

 最近中身の薄い記事ばかり書いている気がしてならないので今日はまたぞろ頭を使うような記事にします。
 最近マイブームな「大学生にこんなこと聞いてみたい」と思う質問としてこれまで、「労農派と講座派の違いは?」、「ロシアのラストエンペラーは?」を上げていますが、この二つは多少おふざけが入っているので答えられなくてもまだ理解できますが、「学問を身に着けるとはどういう意味か?」というこの質問には真面目に回答してもらいたいです。答えをあっさり明かすと、理系に関してはそのまま技術と知識を覚えるという意味になりますが文系に関しては「その学問分野に根差した思考法を身につける」ということが私の中の模範回答です。私は幸いというかこの内容を一回生の頃に恩師に教えてもらったのでそれ以降は意識的に思考法を身につけるよう努力するとともに、ほかの専攻の連中はどんな思考法なのか密かに観察していました。

 もっとも今の大半の日本学生はそれほど真面目に勉強しないので思考法以前に教養が物足りない者で溢れ返っていますが、割と真面目に勉強している学生を見ていていくつか気づいた点として、まず経済学の学生は明確に貨幣の流通を中心に社会を分析するという前提があるので、比較的現代的価値観に近い思考法を持ってることが多いです。具体的には流通経済の価値観に沿ってどれだけ回せばどれだけ返ってくるような、こうした考え方することが多く普段はそんな突飛なこととかも言い出したりしません。ちなみに一番突飛なのはやっぱりダントツで文学部出身者。
 最も考え方に特徴が出てくるのを上げるとそれは法学部で、彼らのやっていること自体がそれだからってのもあるでしょうが、基本的に枠の中でしか物を考えません。法学部出身者は何か新しい発想を求めてもあんまり意見は出てきませんが、「こういう条件で」という具合で枠を作ってあげるとその中にある材料でいろいろ組み立ててくるのでこうした傾向がある人間にはなかなか有効な手段となり得ます。

 以上はあくまで私の独断による見方で自分の中でもまだ固まっておらずほかにも意見がある方がおれば是非話を聞きたいのですが、それはさておきじゃあ私はどんな思考法でどんなアプローチをするのかというのが問題です。そもそも私の専門とする社会学はまだそれほどメジャーでないこともあって「一体どういう学問なの」って聞かれることも多いのですが、あくまで私個人による解釈として社会学とは、「人間は集団となると個人としての人格とは別の、集団の人格が形成される」というのが大前提です。これは個人としては非常に良心的な人を集めて30人にしても、その30人が集団して活動すると非常に好戦的で残酷な思考でもって行動を取ることがあるというように、個人と集団の考え方や思考、人格は大きく異なるという考え方です。
 心理学との大きな違いは心理学は個人の精神、思考を対象とするのに対して社会学は集団の精神、思考を研究対象とします。具体的には民族や国民といった同じ文化をもつ大きな集団から小学校のクラスや会社の人間関係なども小さい集団も取り扱います。大きなポイントとしては人間の思考や心理を対象にするという点で、制度やルールは逸れに絡まない限りはあんまり相手にしません。

 そんな社会学を曲がりなりにも学んで来た身であるため私の考え方というかアプローチの仕方も社会学に影響されており、必ずしもこれが正道というわけではないかもしれませんが、私がモノを考える際は基本的に「動機」から入ります。
 科学でいちばん基本的なこととして因果関係の概念があります。原因があるから結果がある、英語で言えばCause and effectですが、この構図をどのように組立て適用し、証明するのかという過程が文系理系を問わずに存在する科学です。社会学は人間を対象にするため基本的にはその心理と行動が因果関係となっており、ある心理からどのように行動に移されるか、また逆にある行動がどのように心理へ影響を与えるかという構図で基本的に組み立てます。まぁ社会学はずるい学問なので、原因と結果を平気で逆にしたり、原因でもあり結果ともなるといった具合に双方向な干渉を主張したりすることもありますが。

 それはともあれ私のアプローチの仕方ですが、私は何か疑問に当たったり、何か構造を分析しようとする際は必ず最初に「一体どんな目的で?」という具合に動機から探るようにしています。ちょうどいい例と言ってはなんですが今何かと話題の小渕優子議員の後援会における資金問題が発覚した際に彼女の発言などを見て思ったこととして、「何故憎悪が込められていないのだろうか?」というのが、決して誇張でもなく最初に感じた事でした。

 この資金問題は彼女の後援会が不可解な経理報告書を出していたことに端を発し、発覚当初は小渕議員というよりは後援会の会計責任者がきちんと管理しなかったために起こった問題で小渕議員にはそれほど責任はないのではという声もありました。しかし私の考えは違い、もしその通りに会計の責任者なり担当者のポカミスもしくは不正があって起こったというのであれば一般的な人間の常識感覚だとその上司たる小渕議員は、「余計なことしやがって!」という風に怒りを覚えるのが普通な気がします。しかし先程も言った通りに小渕議員は釈明で、「監督不行きがあった」、「事実を調査中」という事ばかり述べて、自分の部下に対する怒りや恨み言を全く口にしないばかりかその目にも憎悪の炎が見えず、むしろ発言は会計担当者をかばうかのようなトーンすら感じました。

 私の勝手な想像で進めますが何故小渕議員は会計担当者の責任なりをあげつらい自分に責任がないなんて主張せず、むしろかばうかのような素振りを見せたのか、一つに考えられる理由としては、やっぱり自分が主導してやったことなのでこの難局をどう乗り切るかでいっぱいいっぱいだった、もう一つに考えられる理由として、今後どのように秘書なり会計担当者に罪をおっ被ってもらうかを考えていたからあからさまな非難が出来なかったのでは、なーんて私は考えました。なんでこんな風に考えるのかというと一つはこういう組み合わせなら動機と行動が一致するように思えるのと、これまで秘書の責任にして逃げ切ろうとした議員たちも同じような釈明をしていたからです。なおこの例外は鈴木宗男元議員で、彼は部下なり他人に罪をおっ被せようとはしませんでしたが全部知らぬ存ぜぬで乗り切ろうとするのはちょっと無理があった気がします。

 またややこしい話をしますが動機と行動は必ずしも一致するとは限りません。ですが普通なら何らかの思考があって行動が伴ってきます。逆を言えば周囲にある条件と行動が一致しない場合はその条件を無視する必要のある思考があると言え、その思考は一体何なのか、そしてこれからどんな行動を取ろうとするのかという風に考えて私は物事の予測を立てることが多いです。恐らく社会学を学んだ人間でもこういうアプローチをする人間はそんなにおらずやっぱり私独特な考え方だとは思いますが、こうしたアプローチをするようになったのは間違いなく社会学の影響を受けており、中にはこういうアプローチする人もいるんだという風に考えてもらえればありがたいです。
 読者に負担をかけることは承知していながらも、たまにはこういうわけのわからない内容を書きつづるのはいいストレス解消になります。

2014年10月28日火曜日

派遣労働法改正審議に対する個人的見解

 今日は元々更新する予定はありませんでしたが最近政治記事少ないし短くまとめられそうなので派遣労働法の改正審議について一言書いてきます。結論から書くと、この記事書いた記者は自分で書いてて違和感を覚えなかったのだろうか。
 
 
 小渕、松山の両元大臣の問題で審議開始が遅れましたが、今国会での目玉とされていた派遣法の改正審議が今日から始まりました。改正箇所の論点は派遣労働におけるいわゆる「三年ルール」の取り扱いについてで、与党と野党で意見が真っ向から対立しています……という風に最初は書く予定だったのですが、記事を読んでなんじゃこりゃと「?」でいっぱいな状態です。
 派遣労働における三年ルールとはなにか私が世間で見聞きして理解している内容だと、「通訳など一部業種を除き企業がある仕事を派遣社員に任せる場合はその期間は三年までと定められており、三年以上雇用する場合はその派遣社員を正社員にしなければならない」というルールです。上記の毎日新聞の記事によると今回の改正審議で与党自民党はこのルールを、「派遣社員を三年以上雇用するとしても、三年ごとに派遣社員を切り替えるのであればOKにする」方向で改正するよう主張しているそうです。この文言を見て「?」と疑問に感じたのですが、ほかの人はどうなのかな。
 
 一体何に疑問を感じるのかというと、「これって現行でも一般的に行われている事例ではないか」と覚えたからです。三年以上雇用すれば正社員にしなければならないのでどの企業でも二年十一ヶ月で派遣社員を切り替えるというか雇い止めする方法が横行していると私は以前から聞いており、何も改正がどうのこうの以前に今も普通に行われている事に対して与党も野党も何をこいつら揃ってグダグダ言い合っているんだと思いました。
 念のために書いておくと毎日だけがこういう風に書いているだけでなく、ざらっとほかのメディアの記事を読みましたがどれも同じような内容で書かれてあり、おぼろげながら見えてきた内容を見ると現行ルールでは、「同じ仕事を派遣に三年以上任せてはいけない」と名目上はなっているようで、たとえば「お茶汲み」という仕事を派遣社員に任せていれば三年以後はたとえ派遣社員を切り替えたとしてもその仕事担当者は正社員でなければならない……ってことになってるそうですが、こんなルールは私は初めて聞いたし、第一仕事内容を「お茶くみ」から「雑巾絞り」に変えればいいだけではなんて思えます。
 
 何が言いたいのかというと、この記事内容から見える議論の論点が明らかにおかしく、現行で横行しているルールを改正の必要ない再認をするのに与党と野党が言い合っているなんて書かれてあり、本当にこういう議論になっているのか非常に不思議に感じます。私が依然に聞いていた与党の今国会での改正案は三年ルールの撤廃で、「三年以後も同じ派遣社員を派遣として雇い続けられる」という内容だったはずですが、この記事の内容だと「派遣社員を切り替えれば三年以後も派遣に仕事を任せられる」になってます。どっちが正しいんだ?
 
 
 念のため自分の認識が正しいのか軽く検索してみてみましたが、上記のサイトに書いてある内容を読む限りだとやっぱり各企業では切り替えことで派遣雇用形態での労働を維持しているようにしか見えません。なおマイナビ派遣の記事タイトルが「ギモン」とカタカナで書かれてあるのにはちょっとムカッってきて、「日本語なめてんじゃねぇよこのカス」とか思いました。
 
 現行の三年ルールで大きな問題になっている点として、派遣社員の側が派遣の身分のままでもいいから同じ職場で働き続けたいと願っても雇用側は正社員化義務があるため切らざる(=切り替えざる)を得ない、こういう問題があると以前から聞いております。そういう意味で当初聞いていた改正案の内容、三年ルールの完全撤廃は一見すると派遣社員の負担が大きくなるようではあるもののあながちそうは言いきれない点もあり、果たしてどういう議論が展開されるのか楽しみだったのですが、なんか今日の記事を見ると論点が違っていて肩透かしを食らったかのように残念に思います。
 
 その上で政治家とマスコミ双方に対する苦言として述べると、これらの議論に当事者である派遣社員の声が全く出てきません。それこそ適当な人間をランダムで国会に承知して三年ルールをどう思うかとか生の声を聴いてみたいのですが、そういう試みはなく野党側も派遣社員の格差が広がるなどと大した根拠やデータも持ち出さずに声高に言うだけです。データの集計とか細かく調べていませんが、前にメディアに出たデータだと派遣社員の身分で満足しているという回答が過半数を上回ったデータもありましたし、当事者たちがどのような制度を望んでいるのか、そうしたものを拾わずに議論だけしてても無駄な時間にしかならないと思う次第です。

2014年10月27日月曜日

ロシアのラストエンペラー 後編

 昨日に引き続きロシアのラストエンペラーことニコライ二世について書いてきます。昨夜はやる気満々だったけど、今日ちょっと頭痛くて調子悪いですが期間空けられないのでこのまま頑張って書くことにします。
 
 前編ではその生い立ちから即位、そして日露戦争に至るまでを書きましたが、日露戦争中に戦争の中止、並びに憲法制定など民主化を求めた大衆のデモ隊に発砲して千人以上が亡くなる(どっかの国もあったような……)「血の日曜日事件」が起こりました。この頃から王制に対する批判も激しくなってき始めバリバリの王権神授説論者のニコライ二世も日露戦争後はセルゲイ・ヴィッテらが提出した民主化改革案の「十月詔書」にサインして一旦は歩み寄る姿勢を見せますが、すぐさま翻意してヴィッテを首相から降ろすと折角開設した国会でも議員の選挙方法を回改正して貴族寄りの政策に方針に変えています。
 
 ニコライ二世というかロマノフ朝は元来、皇帝の側近が中心となり政治を取ることが多いのですが、この頃のニコライ二世の傍に最も近かった人物というのはあの有名な怪僧、グレゴリー・ラスプーチンでした。その圧倒的な存在感から現代においても様々なサブカルチャー作品に登場するだけでなく「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏(何気に同門)を始め多数の人物のニックネームにも使われる彼ですが、特に宗教教育を受けたわけでもない農夫だったのに突然、「巡礼に出る」といってロシア国内を流浪し、首都サンクトペテルブルクで彼の祈祷で病気が治る人が続出したことから王室にも出入りするようになりました。
 ここでニコライ二世の家族について触れますが、彼と妻のアレクサンドラとの間には一男四女が生まれ、写真で見る限りですとどれもみな粒ぞろいの美男美女ばかりです。ただ長男のアレクセイは当時としては不治の病だった血友病キャリアで、しかも重度の症状を患っていました。彼の血友病は元代においてヴィクトリア女王の血統によるものとみられていてほんのちょっとのあざでもなかなか治らず寝たきりになるため、両親は息子の将来とその健康を非常に心配していたそうです。そこへさっそうと登場したのがラスプーチンで、彼が祈祷をするやアレクセイの病状や気分がぐんとよくなることが多かったため、ロシア皇帝夫妻はラスプーチンを深く信用して王室内への自由な出入りすら認めるに至りました。
 
 こうしたラスプーチンへの贔屓が面白くなかったのは言うまでもなくロシア貴族たちで、ただでさえ怪しい人物が妙な祈祷をして皇帝夫妻に取り入るのを見るにつけ、「何か裏があるに違いない」と誰もが思ったことでしょう。そうした不満は主に皇后のアレクサンドラに向かい、元々社交的でなく王室行事にも率先して参加したがらない彼女がロシア国民から嫌われていたのもありますが、当時からもラスプーチンと密通しているのではという噂がまことしやかに流れ王室への信頼が日に日に薄れていく事態となりました。
 ここでちょっと早いですが私の見解を述べると、元々ニコライ二世は極端な保守的政策を取ったことからロシアの一般国民からは即位当初からそれほど敬われていたようには見えません。そんな彼が支持基盤として固めていたのは特権を持つ貴族層で、彼らの利益を代弁する形で政権を維持してきましたが、このラスプーチンへの肩入れによって貴族層からの支持も薄れていき、それが彼の末路へと導いて行ったように思えます。もっとも本人は国民からは信頼を得ていると考えていた節があり、敢えて言うならちょっと古いタイプの王様でフランス革命以降の時代の変化を嗅ぎ取れず実感しきれなかったことがドイツ王室と共通し、英国王室と異なっていたのかもしれません。ボナパルト家はまぁ別だけど。
 
 話は戻りますが、ニコライ二世のみならず欧州すべての国にとって運命の転換点となった第一次世界大戦が1914年のサラエボ事件をきっかけに勃発します。この大戦でロシアはバルカン半島での利害関係がぶつかるオーストリア、そしてその同盟国のドイツと対戦しますが近代兵器を多数保有していたドイツに対して日露戦争同様に連戦連敗を重ねます。また総力戦に対する対応も遅れ国内では経済の混乱、物資の不足が起こり日に日に王室への批判が高まっていきました。
 しかも間の悪いことにニコライ二世は自ら前線へ赴き戦争指揮を手掛けたため、首都では嫌われ者の皇后アレクサンドラが主に政治を執り、その傍らにはラスプーチンも控えていたことからとうとう沸点を越える事態こと「二月革命」が1917年に発生。首都は革命勢力が実権を握り前線にいるニコライ二世は軍を率いて首都奪還を図るも現場指揮官全員から拒否され、強制的に退位させられることとなります。
 
 この前線での退位の際にニコライ二世は自分の後継として病弱な息子ではなく弟が次の皇帝だと指名しますが、革命勢力に対する報復を恐れた弟はこの使命を拒否してしまいます。ニコライ二世としては自分が退位させられても王朝はまだ続けられると考えていたようですが時すでに遅しで、仮に革命前に周囲の一部から薦められていたように譲位していればもうちょっと反応は違ったでしょう。
 また退位後の決断においても結果論ではありますがニコライ二世は鈍さを見せています。ニコライ二世は当初、従弟であるジョージ五世が国王だった英国への亡命を企図して打診しましたが、英国は国内の社会主義勢力を警戒してこの打診を黙殺します。その一方で、対戦国同士であるものの個人的な関係は非常に親密であった同じく従弟でありドイツ皇帝だったヴィルヘルム二世は「ドイツにおいでよ」と誘ってくれましたが、対戦国同士ということを懸念してかニコライ二世はこの誘いを断り、ロシア国内にとどまってしまいました。まぁ難しい決断ではありますが。
 
 こうしていよいよフィナーレへと至ります。ロシアにおける革命の革命こと「十月革命」によってロシアの実権はレーニン率いる社会主義勢力ボリシェビキが握ります。ボリシェビキはニコライ二世一家をエカテリンブルクの屋敷内に監禁し、翌1918年にレーニンの決断によって一かとその使用人の計11人が処刑というべきか、一応殺害されます。殺害時の現場は当時の関係者が数多く証言しており比較的詳細にわかっており、当日の深夜、というか直前に地下室に集められて、「これから処刑する」と一方的に伝えられてニコライ二世、長男アレクセイ、皇后アリックス、そして四姉妹の順番で射殺されたようです。その際に皇后は娘達の除名を求めましたが通ることもなく、痛ましいことに全員が殺害されしばらくは、「皇帝のみ処刑して家族は無事」とソ連政府が喧伝したことから後に四女アナスタシアを名乗る偽物がでる事態も招いています。
 
 同じく一次大戦中に退位することとなったドイツのヴィルヘルム二世は亡命先で天寿を全うしていることと比べると、ニコライ二世の末路は本人に全く責任がないというわけではありませんがやや不憫にも感じます。特に一家全員が問答無用で殺されているのは素直に同情心を覚えると共に、国王と皇后が処刑されたものの子供たちは名目上は放免となったフランス革命と比べてもそのやり口の強引さは目に余ります。
 そのフランス革命との比較ですが、国王ルイ16世の処刑は一応は議会での決議を踏まえた上でその暴力が実行されていますが、ニコライ二世のケースだとトロツキーの反対があったにもかかわらずレーニンが何の議会、裁判手続きを踏まえず命令しており、この辺がロシアの国民性なのかと言われればそうなのかもしれないと私なら答えます。昨夜も友人に話しましたがレーニイズムとスターリニズムは基本的な軌を一にしており、違いがあるとしたらその期間と粛清された人数くらいししか案外ないのではと思います。
 
 まとめになりますが一次大戦によってロシア、ドイツ、オーストリアという列強各国で各王朝が滅亡しています。その要因は戦争に負けたことが大きいのはもちろんですが、20世紀に入り国の形が変わったというか植民地主義こと世界戦国時代の風潮が薄れ思想が変わっっていったのに対して各国の皇帝がその辺かを受け入れなかった、対応しきれなかったことが背景としてあると私は見ています。逆を言えば、そのような時代の変化にも鋭敏に反応して役割を変えた存続し続けた、もっと溯れば17世紀の時点で政治実権を議会に譲り渡した英国王室というのはやはり際立った存在のように感じます。
 英国が何故強いのかと問われるならば、変化に対応できる王室がいるということも十分要素に入ってくるでしょう。逆に変化に対応できなければロマノフ朝の様に滅ぶこともあり得、日本の皇室もその辺を頭の隅っこに入れておいた方がというのがちょっとした私の意見です。念のため書いておくけど、別に私は社会主義者みたいに皇室の廃立はのぞんでませんからねっ。

ロシアのラストエンペラー 前篇

 日本でラストエンペラーとなると中国清朝の最後の皇帝である「溥儀」の名前が挙がってきますが、ラストエンペラーはその王朝の数だけ存在しておりそれは何も中国に限るわけではありません。例をあげればフランス第一帝政であれば初代のナポレオン・ボナパルトがそのままラストエンペラーですし、日本も将軍をこの類として考えれば徳川慶喜がラストエンペラーです。
 そうした滅びゆく王朝の最後の権力者として人生を歩んだ人物の中で比較的近代だと、ロシアとドイツでそれぞれ一次大戦末期に国内で革命が起こり、二人のラストエンペラーがほぼ同時に生まれました。最もロシアはその後「紅い皇帝(つるふさの法則)」の時代を経て現在はKGB皇帝が君臨していますが、名目上のラストエンペラーであるニコライ二世については日本と深い関わりを持っているにもかかわらずいまいち認知度が低いような気がします。そこで今日は詳しい内容までは踏み込めませんがさらりと紹介するような具合で、ニコライ二世についてその経歴と私の見解を述べていくこととします。さらりと紹介と言いながら前後編にするのもあれですが。
 
ニコライ二世(Wikipedia)
 
 ロシアのロマノフ朝第14代皇帝にして最終皇帝のニコライ二世は1868年、時の皇帝のアレクサンドル二世の息子で皇太子であった後のアレクサンドル三世の長男として生まれます。生まれながら将来の皇帝を約束され両親からの教育も帝王学に沿ったものでしたが、コライ二世の幼少期の行常はそんなに良くなかったようで勉強にはそれほど熱心でなく、またやや気弱で女の子っぽい所もあったことから父親は少し心配していたようです。
 成人に至る前のニコライ二世に大きな影響を与えた事件として、祖父であり皇帝のアレクサンドル二世の暗殺事件がよく挙げられています。アレクサンドル二世は進歩的な改革者でロシアでの国会開設を目指し一般市民の権利向上など人民に寄った政策を取ってきたのですが、国内の過激な民主派によって爆殺されてしまいました。この事件は当時13歳だったニコライ二世にとって、「人民に肩入れしても平気で裏切られる」という感情を持たせたのではと言われておりますが、祖父がこういう死に方したらそう考えるのも無理ない気がします。
 
 こうして成長していったニコライ二世が日本と初めてファーストコンタクトを持ったのは彼が23歳だった1891年のことで、父親の勧めで前年から世界旅行に出かけていたニコライ二世は最後の渡航地として日本を訪れます。当時の日露関係は樺太(サハリン)の帰属を始め決して良いものではなかったものの、来日したニコライ二世に対して日本政府は礼を尽くして歓迎し、ニコライ二世自身も率先して長崎の街を回るなどそこそこ堪能していたようです。
 それが暗転したのはニコライ二世が大津に入ったその日でした。わかる人には早いですがこの時に警護を行っていた警察官の津田三蔵が突然ニコライ二世に斬りかかるという大津事件が起こり、ニコライ二世は津田に右耳のあたりをサーベルで少し切られます。幸い、怪我自体は大したこともなくその後に明治天皇がわざわざ神戸まで訪れ謝罪し、日本国内から見舞いの手紙や品がたくさん送られてきたこともありロシア側は外交問題に発展させず矛を収めましたが、当事者であるニコライ二世自身がどのような感情を持ったかについては諸説あり、彼自身が日本側の対応に好感を持って事件かを見送ったとも、内心では相当腹に据えかねていてそれが後の日本との対立を作る要因になったとも言われております。
 私個人の見解を述べるとこの時のニコライ二世は残っている記録などからそこそこ日本側の対応に満足していたのではないかと思うものの、その後日本と外交で対立する機会に直面するに至って、「そういやあの時に日本人には酷い目に遭わされたな」という具合に、後から思い出して憎悪の種にしたのではという風にみています。そういう意味では日露関係を悪くさせた要因と呼んでもよい事件でありますがサラエボ事件と比べると即火種にはならなかっただけに、ほんとこの時死ななくてよかったなんても思います。なおこの大津事件当時、ニコライ二世に対して申し訳ないと自決した女性もいました。
 
 話は戻りますがニコライ二世がロシアに帰国して数年後、彼が26歳の時に父親であるアレクサンドル三世が病に倒れこの世を去ります。初めから後継者と決まっていて特に争いは起らずニコライ二世は皇帝に即位し、また父の逝去前から付き合いの続いていたヴィクトリア・アリックス(ロシア語読みならアレクサンドラ)と結婚します。アリックスについて少し述べると、彼女の母親は英国のヴィクトリア女王の娘で父親はヘッセン大公国(現在のドイツヘッセン州)の大公でした。ドイツで生まれますが生後すぐに母親が逝去した6歳からはずっと英国のヴィクトリア女王の下で育ち、ロシアに来るまではほとんど英語しか話せなかったようです。だけど後年ロシア人からは「ドイツ女」なんて呼ばれて批判されちゃってますが。
 皇帝となったニコライ二世は側近に後の好敵手とも言うべきセルゲイ・ヴィッテを採用し、彼の主張に合わせシベリア方面に鉄道を敷き(シベリア鉄道)、ロシアは東アジアでの勢力拡大を図ることとなり、特に日清戦争後の中国では列強による分割が進められていただけに国境を接するロシアにとっても重要な狩場の一つだったっことでしょう。しかも満州地域はロシアが太平洋へ出るに当たって重要な地域で、日清戦争後に中国から旅順を租借した日本に対し三国干渉を行って中国に返却させるなどかなり早い時期から干渉というか目をつけています。
 
 しかし「極東の和を乱す」として日本に旅順を返却させながら、極東進出の足掛かり並びに不凍港として価値があるという周囲の声に押されニコライ二世はヴィッテに反対されながらも1898年に中国を脅迫し、旅順と大連を中国から無理矢理租借します。この行為に怒ったのは言うまでもなく三年前にロシアに言われて旅順を返却した日本で、国民の間でも打倒ロシアという感情が明確に生まれ明治政府としては国内政策がやりやすくなった一方で外交に苦慮することとなるわけです。
 ロシア側でもこの時期から対日政策についての議論が活発となり、前述のヴィッテなどは対日融和派で日本も模索していた「満韓交換論」こと満州はロシア、朝鮮半島は日本がそれぞれ管轄するというか住み分ける方針を唱えていましたが、ニコライ二世はこれとは別の満州も朝鮮も両方まとめて切り取るべしと主張する強硬派の意見を採用する形でヴィッテを罷免させてしまいます。こうしたロシア側の態度を見て日本も対露同盟派は瓦解し、将来の対決を見越して英国との間で日英同盟を締結するなどして準備を進めます。そして1904年、日本人のノスタルジーともいえる日露戦争がついに火蓋を切って開戦へと至るわけです。
 
 日露戦争についてはさすがにいちいち説明しませんが主要な戦闘では日本が文字通り連戦連勝で、最後の逆転をかけたバルチック艦隊も日本海海戦で完敗と言ってもいい大敗北を喫します。ロシアの敗因はウィキペディアの記事を引用すると、戦地が首都から遠いだけでなくシベリア鉄道もまだ整備しきれてなくて動員力で日本に大きく劣っていたことと、軍の指揮官同士が仲が悪く戦争指揮で拙いミスが連発されたことが挙げられています。
 さらに開戦当初はともかく序盤から負け続けたことから国内でも厭戦気分が高まり、ついには戦争中止、憲法の制定と施行を求めた市民グループが宮殿前をデモ行進している最中に兵士が発砲するという「血の日曜日事件」が起こり、国内でも革命の機運が高まり支配体制が大きく揺らいでいくこととなりました。ついには軍隊内でも「戦艦ポチョムキンの反乱」で有名な水兵の反乱が起こり、ここに至ってロシア側も日本との講和交渉へと臨まざるを得なくなります。
 
 米・ポーツマスで開かれた講和会議には日本側からは小村寿太郎が出て、ロシア側からは急遽呼び戻されたヴィッテが全権代表として望みます。先程私はこのヴィッテを好敵手と呼びましたが、戦前からの外交判断も大したものでしたが彼はこのポーツマス会議での日本側の態度から継戦能力はほとんどないと見抜き、当初強気だった日本側に対して一歩も引かず賠償金を放棄させた上で講和条約をまとめてしまいます。彼がニコライ二世の側近で居続ければ日露戦争はなかったかもしれず、彼がポーツマスにいなければ日比谷焼打ち事件はなかったかもしれません。敵ながら、これほどの巧者はあまり目にかかれないでしょう。
 
 日露戦争終結後、ヴィッテは仲間と共にニコライ二世に対して国会開設や普通選挙実施を含む改革案の「十月詔書」を提出します。ヴィッテとしてもこれまでの王族と貴族を中心とした体制ではロシアは続かないと考えていたのでしょうが、ニコライ二世は当初はこの詔書に署名こそするもののすぐに後悔し、実際にその後すぐに選挙法を改正して貴族に有利な制度に変えてしまいます。そしてヴィッテの方も、初代首相になるもののニコライ二世にまた嫌われていたのもあってか国会の承認が得られずすぐ辞任し、政治の一線から引退する羽目となります。
 先程の「血の日曜日事件」を受けてからニコライ二世はしぶしぶですが民主化に少しは動いたものの、すぐまた旧制度への転換を図ろうとするなど強い保守主義的傾向を見せています。また一応は開設された国会では首相となったストルイピンが自作農の創出を図るなど改革を進めましたが、その彼も1911年に暗殺されたことから中国の光緒帝同様に改革は頓挫し、そのままのロシアであり続けたまま(れりごー)1914年の一次大戦を迎えることとなるわけです。ってことで、残りはまた次回に。