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2014年12月4日木曜日

美濃加茂市長の公判について

 私はこのブログで七月に「美濃加茂市長の逮捕・起訴について」という記事を書き、現在汚職の疑いで公判が進められている美濃加茂市の藤井浩人市長事件について取り上げました。この記事を書いた時点でこの事件は非常に冤罪の線が濃厚だと書きましたがその後どうなったのかふと気になって調べてみたところ既に公判が始まっており、ちょっと自分の予想を超えた事態に発展していて笑えるので、一度乗った船だし最後まで取り上げようという妙な責任感から今日も頑張ってこの記事を描こうと思います。


 上記リンク先はそれぞれ10/1~2、11/19に行われた公判を取り上げた記事です。
 この事件の概要を簡単に説明すると、藤井市長が市長に就任する前だった昨年の3~4月に水供給設備会社社長から中学校に取りつける雨水濾過機の件で便宜を図るよう依頼され、二回に分けて現金を約30万円授受したとして、今年6月に藤井市長は警察に逮捕されました。しかもその逮捕期間は一ヶ月以上にもおよび、この間市議会も市長不在とあって混乱し、全国ニュースでも取り上げられるような事件に発展しました。

 私は前回の記事の段階で警察や検察が出して来た供述が非常にあやふやであるばかりか確固とした証拠もなく、さらには現金30万円ぽっちという通常では逮捕されるにまでは発展できない金額レベルの事件で一ヶ月以上の拘留が続くというのは警察(前回記事で「国家の犬」とまで書いたが)と検察に負い目があるためと見え、この事件は冤罪の線が非常に濃いという意見を提示しました。先に結論を書いてしまうと、もうこの事件は冤罪であると断定してもよさそうで、次のステップこと足利事件、障害者郵便割引制度に続く第三の大型でっち上げ事件として捜査するべき頃かなと考えています。

 まず10月の公判についてですが、今回の事件の発端となった藤井市長に現金を渡したと自ら証言した水供給会社「水源」の中林正善社長の過去の経歴が明かされ、その経歴を見るにつけどうしたらこんな人物の証言をまともに受け取れるのかと思うようなひどい経歴でした。それはどんな経歴かというと、以前に事務員として勤めていた病院で長年にわたり横領を働き、使い込んだ額はなんと1億5000万円にも上ったそうです。しかも一回発覚していながらもこりずにまたやって、またばれて、結局返済義務を課された挙句に辞めさせられたそうです。
 病院を辞めた後に現在の水供給会社を作ったそうですが、こっちも経営実態は借金まみれて文字通りの自転車操業でした。にもかかわらず経営が順調であるかのように見せかけて中林社長は金融機関に対して融資詐欺を繰り返し不正に得た金額は資本金5000万円の会社に対して数億円にも上るそうで、藤井市長の弁護団は「中林社長が融資詐欺で立件されている件数は不自然に少ない」と指摘しています。
 このように経歴からして真っ黒な中林社長ですが証言もあやふやそのもので公判の最中も、「藤井市長から金に困っていると聞いた」という発言を弁護団からの指摘を受けて、「実は藤井市長の知人から聞いた」とその場で翻す始末で、見ていてなんですが「何がしたいんだこのおっさん?」という気がしてなりません。

 このような怪しい原告側の証言者が特に真新しい証拠や証言を出さずにこれまでの供述を繰り返したのに対し、藤井市長を弁護する被告側は公判で何をしたのかというと、書いてて笑えますがなんと暴力団員を証言者として出してきました。この暴力団員はたまたま留置所で拘留中だった中林社長と房、というか牢屋が隣同士だったため話し込み、仲良くなっていろいろ話し込むうちにこの藤井市長の事件についても本音とも取れる話を聞いたとして、わざわざ証言しに来てくれたそうです。その暴力団員が中林社長から聞いた話というのも、

・藤井社長に贈収賄をしたことにすれば融資詐欺事件の捜査を警察はストップしてくれる
・藤井市長とは二人きりの時に現金を渡したと話したが、警察からその場にはもう一人同席者がいたと言われ怒られた

 などなど警察や検察とさも癒着して藤井市長を敢えて追い落とそうとするような内容を事を話した上で、この証言者に対して中林社長はわざわざ手紙を書いて同じことを伝えていたそうで、この手紙については中林社長も実際に書いた出したことをすでに認めています。この暴力団員の証言者が何故わざわざ弁護側の証言台にたったのかについては、中林社長は出所したら韓国人を相手とする人材派遣業を始めようと考えたそうで、証言者の身内に対して事業に協力するよう勝手に動いてたことに強く不満を感じたためだと本人が説明しています。

 このほかにも内容を追って行ったらまだまだ証言と捜査のボロがどんどん出てきますが、これ以上何を探ろうってんだという気持ちが私にはあります。そもそもこの事件は中林社長の証言以外に事件を立証するものは何もなく、しかも中林社長が自ら現金を渡したと告白したことに端を発します。何故こんな怪しい親父の証言を警察と検察は信じたのか、いやそもそも何故岐阜県警、愛知県警、検察の三者は藤井市長を追い落とそうとしたのか、そろそろこの点について考えるべきポイントに達してきたように思えます。藤井市長は全国最年少で市長に当選しており、こういってはなんですが妬むような人間は確かに多そうで、そうした人間と上記の三者がタッグ組んでチンケな詐欺者の訴追を見逃す代わりに事件をでっちあげた、なんて考えたくなってきます。

 最後に極め付けと言ってはなんですが、11月の公判の最後でこんな間抜けなやり取りがあったそうです。該当箇所を弁護士ドットコムの記事からそのまま引用します。

「最後に郷原弁護士が『今回の尋問のために何度も検事と打ち合わせしたのではないか』と問うと、2人の検事が『異議あり』と声をそろえ、『何度も、ではない』と主張。『では何回か』とあらためて聞かれた中林社長が『6、7回』と答えると、傍聴席から思わず笑いが漏れた。」

  追記
 コメント欄から指摘を受け、アップロード時に「警察」と書いた箇所をほぼ全部「警察と検察」に変え、「岐阜県警」と書いたところを「岐阜県警、愛知県警、検察」と修正しました。この事件、岐阜県の事件なのになぜか最初から愛知県警が捜査に加わっててなんか妙だなと感じたことをすっかり忘れてたよ……。
 あと同じ方からの指摘で末尾の、「傍聴席から思わず笑いが漏れた」というところは実際の現場では大爆笑だったそうです。そりゃまぁ検察との密会した回数を聞かれて、「6、7回」と正直に答えられたら面白いに決まってますし、普通のギャグセンス持ってたら爆笑すること間違いなしでしょう。それにしてもこのおっさん、傍から見ている分には凄い面白いな。

2014年12月2日火曜日

京大の公安トラブル事件について

 ちょっと時間が経っていますが思うところがあるので先月起こった京大での公安トラブル事件について書きます。なおこの事件の名将については「京大ポポロ事件」という呼ばれ方もありますがこの名称だとネーミングセンスが感じられないので私は拒否します。ちなみにこの名称を聞いて真っ先に思い浮かべた言葉は「アバンチポポロ」というイタリアの歌ですが、こんなの想像するのは間違いなく私一人だけでしょう。
 
 話は本題に入りますが事件のあらましを簡単に説明すると、11月2日に行われた中核派のデモで逮捕された学生三人のうちに二人が京大の学生だったことを受けてかその二日後の11月4日、京大に公安の捜査員が潜入捜査をしていたところ学生に身分がばれ、持ち物を奪われた挙句にしばらく学生によって拘束される事態となりました。この事件の評価に関しては各方面からいろいろ声が上がっていますが、中でも捜査官を捕まえた学生側こと全学連はまるで勝利宣言をしているかのように捕まえた事実を大きく持て囃しております。
 
 まず捜査官に対する私の意見を述べると、すべてにおいて稚拙であるような印象を覚えます。元々京大側と公安との間では捜査官が学内に入って捜査を行う場合は公安側が事前に通知するという取り決めがあったようですが今回の事件ではそうした通知がなかったばかりか、あっさりと学生に身分が見破られて捕まるというちょっと見ていてもかっこ悪い結末に陥ってます。学内は治外法権で公安や警察はみだりに入るべきではないという主張をするつもりは全く有りませんが、取り決めがあったにもかかわらずそれを無視して約束破りをするというのは法の番人として如何なものかと思います。まぁぶっちゃけ交通違反などをみていると私も警察は嫌いで、ゲーム中(「逃走ハイウェイ」とか「セインツロウザサード」)なんかはよく、「国家の犬め……」なんて呟きますが。
 
 次に学生側について意見を述べると、まぁ向こうも逃げようとしたんだから捕まえたくなるというのは人情としてわかるししばらく拘束するというのも理解できなくはありませんが、この一件を持ってさも大勝利であるとか国家の介入がどうだこうだと大騒ぎするのは見ていて正直、「ちっちぇなぁ」なんていう感想を思わずにはいません。言ってしまえばウサギ一匹捕まえた程度でこんだけ大喜びする事かと言えばそうでもないし、逆を言えばそうやって大騒ぎせず(=功績を過大に宣伝せず)には組織が保てないのかと疑います。
 またその後の京大学生寮への家宅捜査においても激しく公安を批判してここでも学問の自由やら大学自治がどうこう言ってましたが、少なくとも中核派という過去に大規模なテロ事件を起こした団体の関係者が捕まっているのだから、自治もクソもなくどうして単純な治安活動として受け取れない、やましい腹でもあるのかと勘繰りたくなります。まぁあるんだろうけどさ。
 
 以上が事件に対する主な感想ですが、少し論を発展して関西の学生、特に寮生の妙な思想についてもう少し触れます。まずいきなり断言しますが基本的に関西の学生寮はほぼすべて左寄りで、社会主義勢力の肩を持つ一方で無意味に警察や政府を敵視しています。繰り返しますが彼らの敵視は本当に無意味で理由はなく、特に理論立ったものもなければ特別な怨恨も何もありません。
 何故関西の学生寮にいる学生はそういう思想を持つのか、一つは私が前に書いた「『弾圧』を自己正当化理由にする人々」で書いたように自分たちが大きな勢力(=権力)に弾圧されていると主張することでしか自己正当化できなくなっているのと、やや外界と隔絶されたインナーでカビ生えた妙な文化を育んでいるためではないかと考えています。
 
 何故私が知ったかぶりでこのように語るのかというと、ほんのちょっとですが関西の学生寮と接触を持ったことがあるからです。私は世にも珍しく箱根の関所を越えて関西の大学に進学しましたが、なるべく生活費を抑えたいがために学生寮に入ろうと当初は入寮を希望しました。てっきり私は入寮者は大学事務所での抽選か何かで決まるのかと思ってたら寮生が面接で決めると言うのでただでさえ出費が苦しいというのに入学前に新幹線往復台を払って京都まで面接を受けに行きましたが、面接前に行われた寮の説明を聞いて「何こいつら?」と強い違和感を覚えました。
 どの点に違和感を覚えたのかというと、寮生が語る寮の歴史とやらです。どういう内容かというと、「〇年 大学側との交渉の末、電気代を大学側の負担にさせることに成功した」、「×年 備品代を大学側の負担にさせることに成功した」、「△年 ガス代を……」という具合で、まるでさも自分たちが大学運営側との交渉で実績を残して来たかのように書いてありますが、中身を見る限りだとむしろ大学側に脛をかじるというかたかるというか、不必要なまでに依存していることを自慢げに語ってました。にもかかわらず、「これは学生自治の成果だ!」と主張していて、自治だの自立だの言うのなら電気代くらい自分で負担したらどうかと素直に感じました。同時に、大学側に色々負担させているのだから感謝の気持ちを持つのならともかく、むしろ敵視するかのような発言を繰り返すという点を取っても人情のなさを覚えました。
 
 結局面接には落ちて私の新幹線往復代は空費することとなったわけですが、その後の学生生活で何度か寮生と会って話す機会があり、彼らもああいう妙な主張を自分自身で胡散臭いと理解しつつもなんか伝統となっているから受け入れてるみたいなことを話していました。もっとも寮生だった後輩からは、「きっと花園さんなら寮の文化にすぐ溶け込めますよ」なんて言われてちょっと不安に感じましたが。
 
 最後にまとめると、関西の学生寮は決して思想的なバックボーンがあって学生自治だの公安敵視だのをやっているわけでなく、思考を停止した上で妙な伝統だと思いつつも受け入れてやっているのが大半ではないかと私は考えているわけです。その上で述べると、書類選考でやればいいのに無駄に面接をやって金の少ない入寮希望者にムダ金使わせるようなことはとっととやめろと言いたいのと、今回もこういう事件あったのだし、恩を売っても仇で返すような連中も多いのだから大学運営側はこの際寮を廃止した方が良いのではとお勧めしたいです。
 実際、中核派とかは完全に活動の根拠を失っているし、そんなのに惑わされる時点で学生どころか人間にとって必要な最低限の自我がないのではと内心思います。まぁそれを言ったら魂持ってる日本人は自分を含めてどれくらいいるのかだけど。

2014年12月1日月曜日

民主党・枝野幹事長の解散に対する発言

 今日出勤中、「三途の川って英語で言うとSons river?息子の川?今でも脱衣婆が河渡ししてるのかな、それとも時代も変わったし今頃は橋が掛けられたりフェリーが運航されてたりするかも。それどころか青函トンネルみたいに川底をトンネル通ってるかもなぁ。考えてみれば臨死体験者がよくトンネルくぐったとか言ってるけど、それってやっぱり三途の川底トンネルかも……」なんていうことを割と真剣に考えていました。
 なお臨死体験については私は記憶の混濁であるとして少なくとも死後の世界を垣間見たとかそういうのじゃないと考えています。根拠は単純に、三途の川を見るのは日本人だけで、逆に光に包まれるという欧米人がよく見るイメージを非キリスト教国の日本人はみないなど文化的要素があまりにも強すぎるからです。
 
 話は本題に入りますが今回の解散が決まる前の9月に、民主党の枝野幹事長はこんな発言をしていました。
 
 
 このニュースを9月の時点で見た私は何を馬鹿なことを言っているのだと思ってましたが、本当に安倍首相はこの後の臨時国会で解散を決議しちゃって意外に枝野幹事長の予測は侮れない、けど実際に解散されて今頃逆に困ってるのではとも思いました。そしたら解散が確定的となった11月には、
 
 
 案の定というか、急な解散は身勝手だと決断した安倍首相を批判する始末です。ってか私は枝野幹事長は、「我が意を得たり!」なんて言って安倍首相を誉めてあげてもいいんじゃないかと過去の発言から思っていましたがやはりというかいつも通りの変節振りで、何も私だけじゃなくほかの多くの人も同じように「何言ってるんだこいつ」というばかりにこの二つの発言を取り上げています。
 逆を言えば民主党の上層部は解散を要求するだけで何の論点も持っていなかったばかりか候補者も策定できていないような状態で、こうした点を考慮するにつけ私個人としてはやっぱり政権は任せられないなぁというのが本音です。まだ自民の方が大人だ。
 
 もっともこういう民主党関係者の変節は今に始まったことではなく、そもそも論で話すとこういう一般人としてみてもかなり危ない人間が議員としてそこそこキャリアを積めてしまう日本社会の方に問題があるのじゃないかとすら思えてきます。なお選挙予想に関しては大体方向性が見えてきましたが、恐らく自民が圧勝で野党各党はほぼすべて議席を減らし、自民・公明は今以上に議席を大幅に増やすことでしょう。ポイントとしてはさしたる論点がなく投票率が下がって創価学会票が威力を増すことと、アベノミクスに対する評価は決して上場ではないものの民主党の政策よりはマシだと考えている層が多そうに見えることと、維新の会が内部分裂激しく勢いがなくなっているなどという点からの結論です。

2014年11月30日日曜日

中国の衝突安全性に対する意識

 昨日の記事で書いたド底辺の中国人労働者が味千ラーメンをおごられたことに気負いがあったのか、「今度は中国ラーメン屋に行かない?」と誘ってきたので、お昼ごろに彼の仕事場近くにあるラーメン屋に行っておごられてきました。そのラーメン屋まで私は自転車に乗っていったのですが、自らの公道最速理論に則って飛ばしてたら(時速40kmは出した)雨上りの路面だっただけに車体やら靴やらがやけに泥だらけになってちょっとしょげたわけです。
 なもんだったから帰りは比較的ゆったりとした速度でもって走ってたのですが、なんか前の方から「ドーン」という音がして、またどっかの馬鹿が昼間っから爆竹鳴らしてるのかとムッとしながら走り続けると、上記の写真のような場面に出くわし、「あっ、交通事故だったんだ」とわかりちょっとうきうきしてしまいました。

 上の写真がまさにこの時の事故直後ともいえる写真で、さすがに当事者であるドライバーには悪いかなと思って伏し目がちに携帯カメラを構えて撮影してきました。あんまり歩行者が多くない道路だったのもあって写真撮ったのも自分だけだったし。
 
 この写真で注目してもらいたいのは二台の事故車の破損具合です。位置から察するに左の車(中国ローカルメーカー車)が右の車(ドイツ車)に後ろから追突したと推察されますが、破損具合は明らかに中国車の方が大きいです。中国車のフロント下部にある外部プラスチックパーツがひしゃげるのはまだ理解できますが鋼鉄製なはずのボンネットが大きく曲がっているのに対し、ドイツ車の方はトランクの蓋がやや曲がるだけにとどまっているのを見るにつけ、「ここまで強度に差があるのか(;゚д゚)ゴクリ…」なんて思ってしまいます。明らかにぶつかった方がぶつけられた方より破損がひどいというのもなぁ。
 
 
 上記リンク先のニュースは先週出たニュースですが、サーチナさんにケンカ売るのもどうかと思うけどあまり見られる記事ではありません。先に言っておくと何故トンチンカンなのか根拠に乏しく、見ようによっては妙な反発をしてるだけにしか見えない記事です。
 この記事では中国の自動車ユーザーは日本車は燃費や構成部品の価格バランスが良く実用的だがそのかわりに強度を犠牲にしているとして、基準に適合する必要最低限度の水準しか強度がないなどと中国メディアが書いていると紹介しています。その為に本社は米国社に対して安全性に劣るとしてこの記事のライターは「的外れな主張」と書いていますが、何故的外れなのかという理由は書かかれておらず、読んだ後にちょっとストレスを感じる文章です。
 
 私の意見を述べると、上記の中国メディアの主張は半分当たりで半分外れといったところで、決して「的外れ」だと言い切る文章ではないと考えています。私も自動車の安全性については素人ですが素人なりに聞きかじった知識で述べると、日本車は何よりも乗車している人間が死なないように、次にぶつかった人間が死なないように安全性を設計するそうです。それはどのような設計かというと、具体的に言えば衝突時にボディ板金が敢えて曲がるようになっており、曲がることによって衝撃をボディ自体が吸収するようになってるそうです。
 たとえば曲げやすい金属と曲げにくい金属の板をそれぞれ叩くと、叩いた手が痛むのは恐らく後者だと思います。これは曲がる金属の方が叩いた際にひしゃげることによって衝撃を吸収するのに対して曲がらないとそのままの衝撃が反対方向、それと手に直接伝わるため衝撃が大きくなるわけです。
 
 こんな具合で日本車には靱性が高く曲がりやすい板金ことハイテン板が多く使われているため、ぶつかった時にドイツ車やアメ車と比べてへこんだりすることが多くともドライバー、ひいては轢いた相手の死傷率というか安全性は高いとされます。実際に米国などで行われる衝突安全性テストでは日本車が高い評価を受けていて、最初のサーチナの記事に関してはこうした理由に触れずやれトンチンカンやらやれ的外れやら書いているのでちょっとどうかなと感じたわけです。
 
 ただこうしたドライバーの安全性を確保するため、先程書いたように日本車はドイツ車やアメ車と比べて少しの衝撃でへこんだり、ひしゃげたりする傾向が高いそうで、そうした姿を見るにつけ中国のカーユーザーからは「日本車は脆い(中国車はもっと脆いけど)」という印象を覚えるようです。これを中国のユーザーが安全性に対する知識がないためと割り切るのは簡単ですが、私からすれば中国ではドライバーみんなが強引な運転をするのが当たり前で軽微な接触や衝突がガチで多いことを考えると、生か死かを分けるような重大な事故は頭から眼中になく、接触程度の事故でどれだけボディがへこまないかを重視するのは決して的外れではない気がします。言ってしまえば、彼らにとって交通事故というのはそういった水準の事故で、大事故が起きたらなんてことはあまり考えてないように見えます。
 
 まとめとしては所によって自動車の安全性に対する意識は確実に変わるということと、日系自動車メーカーは単なる衝突安全性というのではなく「命の安全性」という観点で自社の車を宣伝すべきかと言いたいのと、ドイツ車は中国車に比べてやっぱり硬いんだなということがよくわかったってことです。

2014年11月29日土曜日

ある中国人労働者の記録

 私は現在の勤務地までんの出退勤は中国人従業員の車にいつも上司と共に乗せてもらっているのですが、今月初めのある日、たまたまその従業員が早退きしたので私と上司はバスで帰宅しました。バスの中で日本語でどうでもいいことを話していたら若い中国人の男の子が近づいてきて、「貴方たちは日本人?」と中国語で聞いてきました。そのまま少し話をするとなんでも来年日本に留学するそうで日本人に興味があるというので、念のため私の名刺を渡し、帰宅後に少しメールのやり取りを行いました。折角の機会でもあるし一回くらいは腰据えてあってみようと思い、自分の方から「日本語を教えてほしければ教えるよ」と伝えて夕食に誘いましたが、これにはちょっとした下心がありました。その下心というのも、私の元記者として、というよりかはアングラな社会学士としての嗅覚で、「きっとこいつはド底辺の若年労働者だ。取材相手としてこれ以上ない人物になるだろう」という確信めいた予感です。
 
 某日、私が指定したバス停にやってきた彼を近くのケンタッキーに連れて早速話をしてみました。聞いてみると彼の年齢は22歳で、なんでもYMCAの選考を受けて来年七月からの日本への留学切符を手に入れたそうです。話してみると意外と日本語の単語をたくさん覚えており、また日本語の教科書もそこそこ自習しているようで聞き取りにはまだ難があるものの片言での要求や自己紹介といった会話は日本語でもある程度こなしてきました。
 割と語学の筋が良いと思いつつ学歴を尋ねると、「高校二年」という回答が返ってきました。それ以上は深くは聞かなかったが大学には通っていないことはもちろんのこと、もしかしたらきちんと高校も卒業していないのかもしれません。この時点で大体想像ついていましたが出身地を訪ねると安徽省の農村(地名聞いてもさっぱりわからんかった)で、高校を出てからは都市部に出稼ぎに来て働いているとのことでした。
 
 では現在の仕事は何かと聞いたところフォークリフトの操縦と答え、より詳しく聞いてみたところ鉄スクラップの集積・販売業者みたいなところで働いているようで、「凄く汚れる」などと言いながら油被ったジーンズを見せてきました。その次に勤務日はと聞いたのですが、実はこの日会ったのは土曜日の夕方で、私はてっきり土日は休みだろうと思ってお昼くらいの時間を最初に指定したら「その時間は勤務中でいけない」と返ってきたので夕方になったわけです。なもんだから平日の何曜日が休みなのかを確認したかったのですが、「休みはない。毎日仕事がある」という、ちょっと想定外の回答が来て私も困っちゃいました。ちなみに曜日感覚は全くなく、「今日って土曜日なんだっけ。花園さんは土日が休みなの?」なんても聞いてきました。
 
 念のため書いておくと、彼の様に全日仕事がある中国人労働者は決して多くはないと思いますが存在することは確かに存在しており、ホテルの従業員や不動産屋なんかには多いものの、面と向かって知り合いになった人物では彼が最初だったのでさすがに私も面喰らいました。しかもその仕事、短期の契約制なもんだから今年の12月で雇止めになるらしく、「1月以降はまた新しい仕事探さないと」だなんて言い出し、「花園さんの所で働けない?そこなら日本語も学べて一石二鳥なんだけど」と、中国人らしくストレートな物言いをしてきましたが、「うちの会社儲かってないから無理」とここはやんわりと断りました。
 この時点で私の中にもかなり同情心も芽生えて来たので、「ひとまず毎週一回のペースで会おう。その度に色々教えるよ」と約束しました。無論向こうとしても歓迎する提案だったようですが、多分毎日でも構わないような雰囲気だったもののさすがにそれだと自分がきついと感じたので敢えて触れませんでした。
 
 一通り相手の現況について聞き終えると今度は向こうから、日本の大学について教えてほしいと切り出してきました。なんでも、日本に留学して日本語を学んだらそのまま日本の大学に入りたいとのことで、どの大学がいいかを聞きたかったようです。しかもかなり自分でしらべており、国立は東大京大、私立は早慶上智がトップで、ほかにもMARCHや関関同立なんていう言葉まで知っているなど非常に細かいところまで把握していました。もっとも最初の留学というか日本語学校は福岡県だそうなので九州内で探すか、あとは生活費が比較的安く済むのとアルバイト先も確保しやすいという点で関西の方が良いとは薦めましたが、「東京の大学じゃないと就職きつくない?」なんて言い出してきて、これには私も苦笑しました。
 なお彼との会話はほぼすべて中国語で行いましたが、私からすれば綺麗な中国語の標準語を向こうは話してくれるので非常に聞き取りやすいです。その点を彼に伝えたら、「僕だってこっち(昆山市)の人の言葉は聞いててよくわかんないよ」とホッとさせてくれること言ってきてくれました。あとケンタッキーであれこれ話してたら掃除のおばさんが寄ってきて、「なに?あんたら起業でもすんの?」と話し掛けてきて、「あたしも昔会計士目指して勉強してたんだけどさー」なんて大阪のおばちゃんみたいにいきなり苦労話をしてきました。
 
 こんな具合でほぼ私の予測通りのステイタスを持ったいい取材相手だし、近年の中国の若者はどんな生活をしているのか、何に関心を持っているのか、でもって最底辺に近い労働者はどういう生活水準なのかを知る上でいいパートナーを見つけたと考えています。同時に私の中国語も少なからず上達が見込めるだけに、なるべく彼には自分からもいい刺激を与えようと考えてその後も会い続けています。今週に至っては彼が「味千ラーメン」という中国で一番有名な日系ラーメンチェーンのラーメンを食べたことがないというので、待ち合わせ場所からタクシーに乗って連れて行ってあげましたが、「昆山に来てこんな遠くまで来たの初めてだよ。普段は家と勤務地の往復で休みなんてないし」と話しだし、まぁ引っ張ってきてよかったと思いました。もちろんタクシー代とラーメン代は私の負担。
 
 以上までが観察日記でこっからが私の論評ですが、まず彼のようなタイプの日本人は確実に存在しないでしょう。一週間毎日休みもなく働き詰めにもかかわらず日本への留学を企図し、備えるため勉強し、さらには日本の大学への入学を目指す。一言で言えば非常にやる気があり応援したくなるような人物ですが、ここまでガッツある日本人を捜すとなると割とハードワークな気がします。もちろん彼のような中国人もレアと言えばレアだし、上海人の友人にも話したところそんな人間は周りにはいないし、同じ中国人ながら同情するし応援したいと話していました。
 しかし、一言で言うならやはり中国はまだまだ発展途上国であるということに尽き、親のお金で何不自由なく大学に通う上に車を乗り回す人間もいれば、故郷を離れ毎日働きながら勉強、そして立身出世への意欲を強く燃やす若者も同時に存在する。これこそが中国の縮図であって日本には存在しない世界のように思えます。
 
 私個人としては先ほどにも書いたように取材相手としてほぼ最高の材料であるとともに強い同情心を覚える相手で、また彼のような中国人にこそ日本に来てもらい、学問を修め世に出るべきだと思えるだけに出来る範囲で今後も応援していきたいと考えています。また最近は日中の関係が密になって中国人を取材する本もたくさん出ておりますが、それらの本は主に元から裕福な中国人が主な取材相手であるのに対し、ド底辺な中国人、しかも若者となると実際に取材するのも難しいこともあってそんなには出ていない気がします。そういう意味で彼のエピソードというかライフヒストリーを書くことはブログレベルでも価値あることだと思え、多少なりともライターとして燃え立つ気持ちを覚えます。
 なお、日本でも就職戦線や労働状況に関する話題は基本的に世代間約50%の大卒しか取り上げられず高卒者の話はほとんどなく、中卒者に至っては皆無に近いでしょう。しかしド底辺こそ地に足がついており、本当に目を向けるべき場所というのはここにあると私は常々考えており、彼から聞ける話はそこそこ価値があると思えるのと同時に日本でもこうはならないものかと、ちょっとやるせなさを覚えます。
 
  おまけ
 味千ラーメンを食べた帰り、同じショッピングセンター内にあって前から匂いが気になっていたチーズケーキ屋に寄りました。看板を見てみると「RIKURO」という文字とコック帽のヒゲ親父の絵が書いてあって後で調べてみましたがどうやら大阪にある「りくろーおじさんの店。」のフランチャイズか何かだったようです。
 この店で私はチーズケーキを自分用に買うのと同時に連れてきた彼にも買ってあげようとしたら向こうが遠慮して、「いや、僕はそんなに甘いのが好きじゃないから」と言ったところ、「甘くないっ!( ゚Д゚)」と、すかさず女の子の店員が否定してきたので、それならばと二つ買って一つは彼に持たせました。その次の日に彼から来たメールには、「あの店の女の子かわいかったね。けどケーキはめちゃくちゃ甘かったよ(´・ω・`)ダマサレチッタ」と、書かれてありました。

2014年11月28日金曜日

生贄の牛を羊に取り換えるとな

 これは昔々、中国戦国時代のお話です。戦国時代に現在の山東省は斉という国で、この国は「封神演義」でおなじみの太公望を祖とする国でしたが、内紛によって戦国時代には田氏に乗っ取られ、田一族が王となって治めておりました。この田氏斉の四代目は宣王という人物(紀元前4世紀)なのですがこの宣王がある日、宮殿を歩いているとひどくおびえた牛を従者が引いているのを目撃しました。そこでおもむろに宣王はおもむろに、「この牛をどうするの?」と聞いたところ従者は、「はい、煮込んだ鐘に血を塗る儀式に使うので、これから生贄に殺すところです」と答えました。
 この従者の答えに宣王は、「やめなさい。ひどく怖がっているし何の罪もない牛だ。殺すに忍びない」というので、なら血塗りの儀式は中止ですねと従者が確認すると、「いや、儀式はやる必要がある。そうだ、代わりに羊を使えばいい(・∀・)」と閃いたので、その時の儀式は牛の代わりに羊を殺してつつがなく終えたそうです。
 
 私はこの話を大学三回生の頃の中国語の授業で習ったのですが一読して、「これって、羊とばっちりじゃん(;゚Д゚)エエー」と思うのと同時に、牛がかわいそうだからって羊殺してちゃ意味ないんじゃないかと心の中で突っこみました。恐らく、この記事読んでる人たちもみんな同じような感想だと思いますが、出典によると当時の斉の人間ですら「牛をケチって羊を使った」などと揶揄していたと書かれてあります。
 その出典ですがこれは何かというと実は「孟子」からです。「孟子」の説明は省きますが斉の国を訪れていた孟子に対して宣王が民を安んじて治めるにはどうしたらいいかと説いたところ、孟子は「宣王は過去にこんなことやりましたよね」と自分からこのエピソードを切り出します。確かにそんなことがあったと頷く宣王に孟子は、「それこそ仁です」と言わんばかりに激賞し、世間はアホな王やと言っているがこのような心持ちを持つことこそが大事で、王たる資格がある証拠だとまで言います。
 
 正直に白状するとこのくだりまで読んだところで、「孟子もちょっと持ち上げ過ぎじゃないかな?」、「頭のいい人の考えてることはよくわからない」、「もうちょっと単純に事実を見た方がいいのでは」なんていう感想を当時の私は持ちました。しかし牛や羊の肉を食べる時にふとこのエピソードを思い出すことがあり、しかも年数が経つにつれて段々とあの話は含蓄の深い話なのではなどと何故だか熟考することが増えていきました。
 
梁惠王章句上(孟子を読む)
 
 このエピソードについて上記サイトでは原文と共に詳しい解説が載っております。非常に詳しく載っていて、読んでて自分も見入りました。
 直接上記サイトを読んでもらうのが一番なのですが自分の方からここの解説をかみ砕いて説明すると、孟子はこの時宣王に対して、目の前にある生き物に憐憫の感情を持つことが大事だと言いたかったようです。憐憫の心を持つことは仁の心にまで発展させるためのスタートに当たり、結果的には目の前にいない羊を代わりに殺すことになったものの、目の前にいる怯える牛の命を助けたという情けの精神をきちんと実行した宣王の心根は悪くないと孟子は伝えたと解説されています。
 その上で上記サイトの執筆者は補足として、人間は目の前で起こっていることしか関心がなく、目の前にないものにまでは気が回らないのは自然なことであるとして、下記のような例を持ってきています。
 
- どこかの隣国の独裁政治に始終憤激しているのならば、どうして旧ソ連で同様に独裁体制を取っている諸国に激怒しないのか?
- 自分の子には勉強させて高学歴を与えるのに必死なのに、どうして一般論になると「ゆとりある教育を」などといまだにのたまうのか?
 
 どちらも自分の胸にグッときました。実際、日本国内で虐待で子供一人が殺されるというニュースを聞くのとアフリカで今日何百人の子供が死んだというニュースでは、感じ方は後者の方が他人事です。同様に、北朝鮮や中国の政治弾圧の方が中東やアフリカの政治弾圧より気になります。上記のサイト執筆者によるとこうした距離感に伴う感じ方の違いは人間にとって当たり前で、誰にでも平等にだなんて言わずにしかるべき距離のしかるべき対象に愛情や憐憫の情を持ち、発展させていくことが大事だと孟子は人生を通して主張しているそうです。
 
 ここからが私の個人的意見になりますが、解釈にもよりますが上記の孟子の考え方はキリスト教の隣人愛とも通じるように思えました。隣人愛の解釈は人によっても変わりますが、私の解釈だとまずは何よりも身近な人を大事にすることに尽きます。身近な人を大事にすることが出来ればもう一つ先の距離の人も大事にすることが出来るようになり、こうして範囲を徐々に拡大していくことによって良好な共同体を作り上げられるというような具合です。
 こうした考え方のほかにもう一つ最近できてきて、たとえばNGOとかNPOみたいに世界中の人々を助けようとして活動する集団が結構ありますが、そうした集団の方々の活動は確かに尊敬できますが果たしてそれで本当に世界はよくなっていくのだろうかという疑問がよくもたげます。単純な話、日本人が地球の反対側のブラジルで活動するにしてもお金も費用も文化的障壁もあります。それであれば日本人は同じ日本にいる困っている日本人を助けることによって、その助けられた日本人が今度はほかの人を助けていくような状態に持っていく方が結果的には効率がいいのでは、しかもこっちの方が外国語能力とか変なバイタリティが無くてもすぐできるのではなどとも思います。
 
 無論、海外に行って救援活動などをされている方は確かに必要とされているし、尊敬もします。しかしみんながみんなそこまで強くはなれないし、それであれば、「貧困の国に井戸を掘るため募金しよう!でもって砒素いっぱいの水飲ませて村の人を病気にしよう」なんて某テレビ番組みたいな主張はほっといて、もっと距離的にも身近な人同士で助け合おうという精神を持つことの方が人間として正しいのではという結論に至りました。マザー・テレサも、「自国の困っている人を無視して他国の人を助けようとするのはちょっと違う」なんて言ってたそうで、この辺は孟子もキリストも一致しているのではなんて思った限りです。
 
  おまけ
 終戦間際の山田風太郎の日記に、「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出すのがキリスト、右の頬を叩いたら左の頬も叩いてくるのがキリスト教徒」と書いてあって吹き出しました。あと自分の大学はミッション系だったのに、「キリスト教は虐殺を繰り返して信者を増やしてったような宗教だ」なんて授業中に言い出す講師がいて、フリーダム過ぎるにもほどがあるずこの大学なんて思いました。

2014年11月25日火曜日

どうして成りすましするんですか?

 また我ながら挑発的な見出しですが、案外ほかの人が使ってないのでこんなの浮かぶのってもしかして自分だけってちょっと悦に入っています。この見出しから恐らく連想がつくかと思いますが、NPOをやってるという二十歳の大学生が先日、小学四年生が作ったように見せかけ、「どうして解散するんですか?」と暗に安倍首相を批判するようなサイトを公開していたことがバレ、ネットを中心に批判が起こり炎上しています。しかも安倍首相までフェイスブックで「卑怯な行為だ」として槍玉に挙げたことからさらなる盛り上がりを見せており、逆に攻め過ぎなのではないかという逆批判も起こる等そこそこ議論としてみていて面白い感じになってきました。自分もこの事件では少し気になる点があり、今の所その点を誰も追及してくれていないので議論に参戦する形で、今日はこの事件について言いたいこと書きたいこと書いてきます。
 それにしても非常に驚いたのは、さぁこれから記事を書こうとパソコンに向かった矢先、読者の方からまさにこの事件について意見をとリクエストを受け取ったことです。
 
 結論から書くとこの大学生はしょうもないやっちゃなぁと思うのと同時に、そもそもどうして子供に成りすまそうとしたのかという点が個人的に興味あります。三度の飯より政治論議は好きだけど、やっぱ自分は社会学士だなぁ……。
 
<事件の経緯>
 事の経緯から簡単に追って行きますが、先日の衆議院解散後にどうして解散をするのかと解散理由を問うサイトが公開されました。そのサイトの製作者と名乗る人物は自分が小学四年生で周囲の友人とこのサイトを作った、子供の自分から見ても解散する理由、特に約700億円というやけに具体的な選挙にかかる費用を挙げてこんな無駄遣いをする価値があるのかわからない、自分たちから見てもおかしいなどと、暗にというかあからさまに安倍首相を批判する論調でもって世に訴えるような内容でした。
 しかし公開直後から小学生が作ったというにはやけに凝ったサイトで、年齢を詐称しているのではないのかという疑惑が持たれていました。案の定というか公式ツイッターで、
 
「妖怪ウォッチ真打はもう買いましたか?」
「もちろん買いました」
「まだ発売してないんだなぁ」
 
 というようなやり取りが交わされるなどボロがどんどん出てきて、証拠もほぼほぼ揃って人物の特定も済んだ段階でようやく件の大学生が小学四年生だと詐称した事実を認め謝罪をしました。このサイトについては公開直後から、主に民主党関係者が取り上げては賞賛しており、またサイトを制作した大学生が所属していたNPO団体に民主党関係者の親類が所属しており、マッチポンプだったのでは、民主党は初めからわかっていたのではなどという疑いも出ています。まぁ政治上における疑惑とは事実という言葉と何ら変わりはないのですが。
 
<大学生に対する私の見方>
 余計なことは置いといてこの事件に対する私の意見を述べると、まず名探偵コナンとは逆にサイトを作った大学生の頭が小学四年生以下だということはよくわかりました。どうでもいい冗談やゲームの攻略情報とかならともかく、政治に対する意見というのは主張したが最後、言った本人が責任を持たなくてはなりません。自分はこのブログでもその点を特に注意を払って書いており、具体的には、「誰々さんがこう言ってた」なんて伝聞系で終わらせず、それに対して自分は賛成か反対か立場を必ず明示させるようにしています。
 にもかかわらずこの大学生は、要するに安倍首相の解散の決断が気に食わなかったのでしょうがその不満を自分自身ではなく架空の小学四年生が言ったことにしようとしました。私に言わせるならば自分自身が自身の人格でもって意見を主張できないなど政治議論においては言語道断もいい所で、匿名としての発信ならまだしも子供を装っていう言い方は安倍首相同様に卑怯としか思えず、そんな生半可な覚悟でしか意見を言えないのなら始めから黙ってるか、そもそも発言する資格すらないように感じます。もっともこんな無意味なことしているあたり、政治議論の場はおろか一般社会においてもいなくていい存在に見えますが。
 
 ただここで話題を変えますが、そもそも何故彼は子供に成りすまそうとしたのでしょうか?理由は簡単で、二十歳の大学生が言うよりも小学四年生が言った事にした方が注目されやすいなどメリットが多いからに尽きるでしょう。じゃあなんで子供が言った方が注目されるのか、改めて考えるとここがこの事件の奇妙な所だなと私は思いました。
 
<何故子供の意見は尊重される?>
 最初に言っておくと、こと政治の話題に関して私は小学生及び中学生、高校生の意見は頭から一切耳を貸しません。一応聞くだけ聞いた後にやんわりと指摘をかけ修正を促したりはしますが、やはり子供の時分だと政治を語るにはまだ周辺知識が絶対的に不足していて狭い了見の中で考えるから、「お金がないならお金を刷ればいい」というような意見になりがちです。また子供の場合、特に注意しなければならないのは「誰かに言わせられているのでは」という点で、周囲の影響を受けやすいこともあって無自覚に、無理解に意見を言うことがあるので場合によってはその意見を操る背後を探る姿勢も必要となります。
 ある意味で今回の事件も「誰かに言わせられている」といった類の事件と言え、上記のような注意点もあるため私は子供の政治や社会に対する意見はそもそも聞くに値しない、取り上げるまでもない、むしろ耳を貸すなと考えているのですが、恐らくこんな価値観の持ち主は日本じゃ少数派でしょう。少なくとも今回の事件の張本人である大学生は子供を装った方がメリットがあると考え、また民主党の関係者らも子供ながら大した意見だなどと持ち上げていました。また日頃の報道を見ている限りだと、40歳のおっさんの意見はあまり取り上げられなくても10歳の子供の意見だったら、しかも政治などといった高尚な話題であれば率先して取り上げられる気がします。
 
<仮説一、毛沢東思想>
 どうしてこのように子供の意見だったらみんな注目しがちなのか、この点が私にとっては凄い不思議です。この理由をいくつか考えてみましたがまず民主党関係者については地味に毛沢東思想が影響してるんじゃないかと最初は冗談っぽく、途中からは割と真剣に考え始めました。毛沢東思想には「余計な知識のない無垢な状態の意見こそが最良」みたいな考え方があり、言ってた毛沢東本人ですら本気で信じてたわけじゃないのに元社会党の系譜を受け継ぐ現代の民主党はまだ毛沢東に踊らされ、子供や女性といった社会的弱者(とみなす存在)の意見ほど貴重で価値があると信じているのではないかと思えてきました。ある意味これは逆差別な気もしますが。
 
<仮説二、子供礼賛なマスコミ>
 では民主党以外の日本人ではどうか。私の目から見ても普通の日本人もやっぱりハゲたおっさんの意見よりは子供の意見を大事にするように見えますが、これは毛沢東思想というよりはマスコミの影響のが強いかなと考えています。マスコミ関係者が上記の毛沢東思想の影響を受けたかどうかはこの際置いておきますが、マスコミは確信犯的に子供や女性、障害者などといった社会的弱者の意見に価値があるかのような報道を行い、彼らを利用しております。何故このように断言するのかというと自分も記者時代に少なからず経験があるからで、記事に書きたい主張したい意見を自分の考えとしてではなく、取材対象に敢えて言わせる、もしくは言ってくれる人間に取材することによってメディアは報道しているからです。
 さすがに自分はこういった社会的弱者をダシに使ったインタビュー記事はさすがに書きませんでしたが、自分の言わせたいように言ってくれる存在として子供なんかは本当に使いやすいような気がします。実際に「あるある発掘大辞典」とかではないですが最近の街頭インタビューなどでは劇団員が多く使われており、市井の生の声というよりはシナリオ上のセリフが現在の報道では主要となりつつあり、こうした報道をやりやすくするため日本のマスメディアは子供の意見は大事で価値があるように見せかけていったのでは、なんて思ったりします。
 
 最後に大まとめに意見をまとめると、そもそも論として政治や社会といったやや小難しい領域において子供の意見なんて始めから聞く耳を持つなと言いたいわけです。内容がやけに通っているとしてもそれは悪い大人が言わせている確率が高く、ちゃんと子供に自分の頭で考えるよう指導してあげるのが大人の役割です。その上で、自分で堂々と意見を言えずに子供をダシに使って言うような人間は間違いなくクズで、そうしたクズを如何にこの社会というかマスコミ業界から追い出していくかが今後の日本の課題なのかもしれません。
 
  おまけ
 政治や社会問題に関しては私は子供の意見を始めから聞きませんが、かといって子供の意見全てを無視する気は毛頭ありません。一つ例を出すと、小学生の女の子二人が並み居る大人たちに対し言い放った、「盲導犬は人間を助けてくれるのに、どうして人間は目の見えない犬を助けてあげないの?」という意見には文字通りドキッとさせられ、自分にはこういう意見を言い出す少年の心はまだありやなどと考えさせられました。