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2015年2月16日月曜日

インドでの邦人女性の被害について

日本人女子学生に性的暴行、インド警察が25歳男逮捕 懸賞金かけ追跡(産経新聞)

 リクエストが来たのと、自分もインドに行ったことがあって多少は自分の体験談を話せると思うので、今日はインドでこのところ起こっている邦人女性の被害について少しだけ述べます。

 事件概要については説明するまでもないでしょうが、このところインドで邦人女性が暴行の被害に遭うという事件が頻発しております。もっとも私の印象だと最近になって急激に増えたというよりは報じられる機会が増えただけで、以前からもインドでこのような事件は数多く起こってたのではないかと見ています。インドではそのような女性の暴行事件は何も邦人女性だけでなく同じインド人の女性に対しても非常に多く、インド国内でもようやくと言ってはなんですが社会問題として広がりを見せてき始めた段階にあるようにも思えます。

 知ってる人には有名ですが、私自身も一度インドには旅行に行ったことがあります。現在の日本での潜伏先は「千葉のマッドシティ」こと松戸市でこのところ激ヤバな犯罪都市であるかのようにこの街が語られますが、松戸市なんて実際はそんなに治安が悪いとは思えません。なんでそう言い切るのかというと実は、インドの首都であるニューデリーは本気でヤバい所だと感じた経験があるからです
 私が旅行で回ったインドの都市はニューデリー、アグラ、バラーナシィーの三都市で、三都市それぞれで治安悪そうだなぁと感じましたがこの中でも格段にヤバそうだと感じたのはニューデリーでした。ただ私の場合は日本で予約した旅行会社のインド人ガイドがずっと付き添ってくれたため特に危険に陥ることは一切ありませんでしたが、それでも観光中にちらちらと見る街の風景はこれでもかと犯罪の臭いがプンプンしており、実際同じツアーで来てた女の子二人組がここで非常に怖い体験をしたと話していました。

 その女の子二人組は確か従弟同士で一緒にインドへ旅行に来たのですが、ガイドを同行せず二人でタクシーに乗り買い物に出かけたところタクシー運転手がやけに暗い路地へ連れて行き、「支払う料金を増やさないとここで降ろすぞ」と脅して来たそうです。この時要求された追加料金は法外なものではなかったそうなので素直に従ってきちんと目的の場所に付けたそうですが、さすがにあの時はちょっと怖かったねと列車での移動中に自分と自分に同行した友人に話してくれました。
 なおそんな怖い思いしてまで女の子が買ったサリーはまがい物で、次の日からつけている最中に色落ちし始めていました。

 このようにインドでは想像もつかないようなところから犯罪に巻き込まれやすく、また昼間でも路地裏は映画に出てくるような暗く怖い場所が多く、「ここからいきなり飛び出されてはどうにもならんだろうな」という印象を覚えました。旅行中に被害らしい被害は一切ありませんでしたが、夜は夕食に出かける以外はずっとホテルに入ったままで、昼間ですらあんな怖いのに出歩くなんて考えは思いつきませんでした。

 それとこのところの邦人女性の被害事件についてもう一つ思い出話を書くと、昨年11月に邦人女性が誘拐されたガヤという町ですが、実はここは旅行中に私も訪れています。ガイドブックなどでは「ブッダーガヤー」などと書かれ、ブッダが悟りを開いた場所として日本人向け観光地としてはそこそこ人気がある場所です。
 訪れたのはもちろん昼間ですがどこ行っても人だかりでごみごみしていてうるさいインドの町でこのガヤという町だけは不思議な静けさがあり、明らかに一線を画す聖域のような印象を当時覚えました。それだけにあのガヤでもこんな事件が起こるのかと事件の一報を知った際は軽いショックのような気持ちを感じると共に、やはりどこ行っても油断ならない国なのかという感想を持ちました。

  おまけ
 インドでは上記の通りに夜中は一切出歩くことはありませんでしたが、私が行ったことのある海外の都市で一番安心して夜中歩けたのは意外でしょうが中国の北京です。北京だと人がいきなり飛び出してきそうな隠れる場所が街中に少ないですし、また警察の人数と力がどちらも半端じゃないため治安に関しては非常にいいです。ほかの中国の沿岸部都市も大体似たりよったりで、総じて治安のいい所ばかりです。
 あとマッドシティの松戸駅前では夜になるとちょっと粋がった格好した若者とかおっさんが歩いたりするものの、なんかやたらと周りを気にするかのように目が泳いでたりするので見てるこっちが不安になってきます。

2015年2月15日日曜日

創業家列伝~島津源蔵(島津製作所)

 長らく期間が空いての連載再開です。なんでこんなに期間空けたのかというと昨年末にかけて「企業居点」の編集作業が忙しかったことと、この編集作業を終えた後も先月は派遣マージン率を陰で調べていて下調べのいるこの連載はなるべく後回しへとされてしまっていました。まぁこの連載記事はある意味で、「腐らない記事」のため、ささっと書き溜めておくに越したことはないのですが。
 そういうわけで今日取り上げる人物ですが、精密機械メーカー大手で過去にはノーベル賞受賞者(田中耕一氏)も輩出した島津製作所の創業家、島津源蔵を取り上げます。どうでもいいですが「源蔵」という名前を見ると「SGGK」と呼ばれるあの人物が真っ先に私の中で浮かんできます。

島津源蔵(2代目)(Wikipedia)

 島津製作所の創業者、というよりは立役者の島津源蔵は1869年に京都府木屋町で生まれます。父親も同じ「源蔵」という名前で扱いとしては初代島津源蔵と呼ばれていますが、京都の鍛冶屋で明治8年からは標本を初めとした学校用品の製作を始めて後に法人化し、島津製作所と名乗るようになります。
 なおこの島津という名字についてですが、薩摩藩で有名な島津家に由来すると言われております。ただその由来については諸説あり、手元の「実録創業者列伝」では先祖は黒田家の重臣だったが関ヶ原から敗走してきた島津義弘の九州への引き上げを世話したことから島津姓を賜ったと書かれてありますが、私が以前に聞いた話だと元々は街道沿いの旅籠を経営しており、参勤交代で利用した薩摩藩がそのもてなしぶりを評価して島津姓を許したという逸話でした。このほかにもまだまだあり、あまりにもはっきりしないので内心では薩摩の島津家とは関係ないのではと密かに考えています。

 話は戻りますが島津源蔵(2代目)の幼少期は非常に貧しく、教育熱心なことで有名な京都にいながら小学校には二年間だけ通って退学しています。しかし向学心が高く勉強熱心だったらしく家業を手伝う傍らで独学を続け、19歳の時には京都師範学校に招かれその後5年間教壇に立ち学生を指導しています。1894年に初代島津源蔵が亡くなると会社を引き継ぎ、実質的に現在の島津製作所はこの時にスタートしたと考えてよいでしょう。

 島津製作所のエポックメイキングが起こるのは源蔵が社長を受け継いだ2年後の1896年で、この時に島津製作所はその前年にレントゲンが世界で初めて成功したエックス線による撮影、所謂レントゲン撮影を日本で初めて成功させます。今の様に通信技術が整っていない時代、ましてやまともな研究設備にすら事欠く日本国内の環境で世界最新の技術を再現してみせたというのは私の目から見ても脅威というよりほかなく、また現在にも続く島津製作所の医療検査機器事業はこの時始まったのかと思うとなかなかこみ上げてくるエピソードです。

 この医療機器事業に続き島津製作所が後に主力とする事業はその翌年、1968年にエポックメイキングが起こります。この年、島津製作所は京大から外国製の見本を供与され、蓄電池の製作を依頼されます。見本もあったことからあっという間に依頼に応え製作を行い、それをきっかけに全国からも同じ蓄電池の製作を依頼されるようになったため源蔵は蓄電池生産を本格的に事業化させていきます。
 蓄電池事業は当初でこそ10A時の小さな電池からスタートしましたが研究に研究を重ね、1904年には150A時の据置用蓄電池の開発に成功します。この時開発された電池は軍にも採用され、日露戦争でバルチック艦隊を発見しあの有名な「敵艦見ゆ」の信号を発した信濃丸の通信機に取り付けられていたそうです。

 この日露戦争のエピソードもあって「電池とくれば島津製作所」と呼ばれるまでに評判を上げ、1908年からは電池規格を作り大量生産化に取り掛かります。この時に自社製電池のブランド名として源蔵は自分のイニシャルである「GS(Genzo Shimazu)」という文字を用い、「GS蓄電池」という商標を使い売り出します。
 察しのいい人ならわかるでしょうが、この「GS」という言葉は現代にも受け継がれています。島津製作所は1917年に電池部門を分離独立させ「日本電池」という会社を設立しますが、この日本電池は2004年に同じ電池大手の「ユアサコーポレーション」と合併し、現在の「ジーエス・ユアサコポーレーション」となるわけです。最近保険大手が合併して長ったらしい変な名前になってますが、そういうのと比べるとブランド名を利用したこのGSユアサの命名はなかなか語呂が良くて悪くないと思えます。

 島津製作所の電池事業は後の第一次世界大戦でドイツとの国交断絶に伴いドイツ製の輸入が止まったことでさらに受注を伸ばしていくのですが、この電池の生産には鉛粉こと鉛酸化物が必要でした。島津製作所は電池の生産では日本国内随一となりましたが生産に必要な鉛粉は日本製だと品質が不均一なため、主に高価な海外製を輸入して使用していたそうですが、どうにかして国産化できないと源蔵は考えていようです。
 鉛粉とはその名前の通りに鉛を粉末化すれば出来るので何とか粉末化させようと源蔵は自らあれこれ実験し、回転容器に鉛球を入れグルグル回すと鉛粉が生産できるところまではこぎつけました。だがこうやってできる鉛粉は品質が相も変わらず不均一で使い物にならず、どうしたもんかと解決策に悩んでいたところ鉛投入孔にやけに良質な鉛の塵こと鉛粉が溜まっていることに気が付き、ここから着想を得て送風させながら回転容器を回すことで非常に質のいい鉛粉、亜酸化鉛を高い効率で生産することに成功します。この製法は当時世界初で、電池製造の分野で一気に島津製作所をスターダムに持っていきました。

 ただこの亜酸化鉛の製法の特許を巡ってはちょっと一悶着があり、英国とフランスではすぐ取れたのに対し何故か本国の日本では、「物理学上の発見であって技術上の発明ではない」として、なかなか特許の認可が得られなかったそうです。日本らしいっちゃ日本らしいけど。
 さらにもう一つエピソードを付け加えると、島津製作所はこの時出来た亜酸化鉛から防錆剤を作りだし、当初は日本電池で売り出してましたが途中でまた分離独立化させ、「鉛粉塗料株式会社」を設立し、この会社はその後他社との合併などを経て現在は大日本塗料株式会社となりました。

 以上が島津源蔵の主な経歴ですが、書いてて感じたこととしては「一体この人、何社の設立に関わってるんだろうか」という底の知れなさです。現代でも認知度の高い大手企業の創業に何らかの形で関わってることが多いし、またどれも自身の発明をとっかかりにしている点で実に恐ろしいまでの才能の持ち主です。経営者のタイプとしては典型的な発明者型ではあるものの、複数の業界大手企業を設立していることからただ技術が高かっただけでなく発明品を事業化させる才能も桁違いに高かったのではと私は評価しています。

 知ってる人には有名ですが京都にある大手企業はどれも知名度、業績はよくても従業員(+取引先)にとってはブラックな会社であることが多いというかほぼ全部そうなのですが、この島津製作所に関しては真面目にそういう悪い噂はほとんど聞かず、私の就活中なんかは「京都企業の良心」などと呼んでいました。実際入社して働いたわけでもないのにこのように言うのもどうかなという気がするし島津のポンプメーカーの人に聞いたら、「実際中はそんなでもないですよ」という証言も得られましたが、先ほど出てきた田中耕一氏の会見を見ている限りだとやはり一線を画す社風だと覚えます。
 というのもノーベル賞受賞の発表があってすぐ社内で開かれた会見で田中氏は、背広ではなく普段通りの作業着で会見に臨んでいました。ただ単に背広を準備する時間がなかったり田中氏の個人的な好みなだけだっただけかもしれませんが、ああした会見にも普段通りの作業着で臨まれるという会社はやっぱり一味違うと思うし、技術というか現場を第一に考える社風なのかなという印象を覚えます。まぁそれ以上に田中氏の人柄が非常に素晴らしかったの一言に尽きますが。

 最後に蛇足ですが、島津製作所製蓄電池が取り付けられ日本海海戦で軍艦三笠に対し重要な通信を送った信濃丸ですが、実はこの船はその後の二次大戦中にも兵員を南方へ運ぶ運搬船に使われ、その時に運ばれた兵員の中にはあの水木しげる氏もおりました。当時としても竣工から30年以上経過しており乗船した水木氏も、「えー、あの信濃丸がまだ動いてんの!?」と驚愕したそうですが、大半の輸送船が途中、米軍の攻撃によって撃破される中で無事に任務を果たし終戦後まで沈没せず生還を果たしました。
 さらに続けると水木氏は終戦後に日本へ復員する際、開戦から終戦に至るまで主要な海戦ほぼすべてに参戦し、他の艦船がほぼ全滅した中で生き残り「不沈艦」とまで号された駆逐艦「雪風」に乗船しております。こうしてみると水木氏は行きも帰りも気違いじみた強運に守られた船に乗っており、彼にはある種、幸運の女神ような何かが始めからついて回っていたのかもしれないとこの記事書きながら思いました。


  参考文献
「実録 創業者列伝」(学習研究社) 2004年発行

2015年2月13日金曜日

中国の空母プラモを見て

 先週末、日本語を教えている中国人労働者を連れて上海に行っていました。なんでこんなことをしたのかというとその中国人労働者が一度も上海に行ったことがないマジモンの田舎者だったので、一つ都会を見せてやる方が良いと思ったからです。
 もっともこの中国人労働者、あらかじめ高速鉄道のチケットを買って駅で待ち合わせだったのに見事に寝坊してきやがって、土曜日は電話口で激しく怒鳴り続けたので非常に疲れました。なんかこう書くと自分が如何にもな性格をしているように見えますが、そいつはその前週に昆山市内の観光地に行く際も寝坊で遅刻しており、またこっちの指示を待たずに長距離バスに乗ったり降りたりを繰り返したりもしたのでかなり全力で怒鳴り続けました。ちなみに私は駅のど真ん中で怒鳴り続けましたが、中国ではよくある風景なのか周りの人は自分に対して全く無関心でした。日本じゃこうもいかんな。

 話は戻りますが日曜日にそいつを連れて市内をぶらぶら歩いていると日本の模型メーカー大手のタミヤの看板を掲げたプラモ屋が見つかり、折角だからと入ってみたらこっちの想像以上の品々を集めていてびっくりしました。一番最初に目に入ったのはミニ四駆で、「ダッシュ!四駆郎」に出てきた「エンペラー」というミニ四駆が置いてあり、そのほか大和とか武蔵といった戦艦はないのになぜか空母の瑞鶴、翔鶴のプラモは置いてあって、瑞鶴は日本の軍艦の中で私が一番好きな船なだけに買って帰るか非常に悩みました。なお中国人労働者は以前に私も作ったことのある「インプレッサWRX STI 99ver」を買って帰りました。

 そのような豊富な品々の中でふと隅っこに目を遣ると、なんかやたらと大きなサイズの箱がありました。見てみると「遼寧」と書かれてあり、知る人ぞ知る2012年に就航した中国初の空母のプラモでした。
 ちゃんと自国の艦船のプラモもあるんだなーという具合で感心するとともに、こんだけ大きなサイズ(箱の横幅が1mくらいあった)のプラモしか置いていないってことはもしかしたら小型サイズで作れないってことではとも思え、またそもそも寸法とかちゃんとあってるのかと本体もプラモもどちらもメイドインチャイナなだけに疑いを覚えてきました。もっともこれは中国の模型メーカーがどうこうというよりも、日本の模型メーカーが異常なまでに精密に作ってしまっていると考えるべきなのかもしれません。

 ここでその日本の模型メーカーについて話が移りますが、王者なのは言うまでもなくミニ四駆も作っているタミヤです。私も自動車プラモをいくつか作りましたがほかの日系メーカーと比べてもここは作りや構造がしっかりしていて、よくもこれだけ精密に金型作れるなと感心させられます。軍艦に関しても旧日本軍は本気でアホだから、アメリカは同じ設計の艦船を次々と量産していったのに対し日本は一艦一艦別々に設計をして無駄に多種多様な艦船を造り、あらゆる方面で効率を悪くさせましたが、そうした土壌の下でタミヤは多数ある艦船を次々と模型化していきました。真面目に誇張ではなく、日系模型メーカーの隆盛の陰には旧日本軍の無駄遣いが背景にある気がします。

 そのタミヤですが、知ってる人には有名ですがその製品の正確さ、精密さについて気違いじみたエピソードが多数あります。開発中の車をチラ見しただけで外観から内部構造まできっかり再現してみせたなんて序の口で、海外自動車メーカーがどうしても内部構造を見せてくれないから推定で作って売り出したところそのメーカーから、「お前ら、技術情報を盗んだな」などと言われ、ほぼ実物そのものに作ってしまっていたことからあらぬ誤解を受けたなんて話も多々あります。

 話しを再び中国の初代空母、遼寧に戻しますが、この艦船は元々旧ソ連で建造が始まったものの予算不足で中断され、その建造途中の船を回り回って中国が購入して空母に仕上げたという経緯があります。実に建造開始から二十年近く経っての就航したという曰くつきなのですが、建造に関わった中国人民解放軍関係者は、建造開始当初の設計図は既に紛失されていたことから設計が近いほかのソ連の艦船を元に見よう見真似で作ったことを明かしています。恐らくそれでもきちんと作れたということを自慢しているのだと思いますがこれを聞いて、「中国人の言う見よう見真似ほど恐ろしいものはない」という言葉を私以外、下手すりゃ中国人ですら頭に思い浮かべるのではないかと思います。
 日本のネット上の掲示板でもこの話題が持ち上がり、中国に軍艦の設計なんて危なっかしい、むしろタミヤの方がまともな設計をするのではなんていう意見があって見ていてなかなか楽しめました。ただ「タミヤの方がまともな設計をする」という意見ですが、これはあながち冗談っぽい意見ではなく、本気でそうなのではないかとちょっと思っています。というのもタミヤは旧日本軍の軍艦はもとより世界各国の戦闘機から戦車、銃火器まで模型化しており、下手な軍事専門家よりこの手の構造に詳しいのではないかと思えるからです。

 さすがに主機などの設備を含めた設計となると話は別ですが、アウトラインだけの設計であればタミヤの設計部なら本気でいいの作ってくれるんじゃないかと思います。折角だから日本政府も今後自衛隊で新しいイージス艦とか掃海艇作るんだったらタミヤに外注した方が安くていいのが出来上がるのではなんていう風にも思え、このところ周りの人間にも話しています。タミヤも自社の設計を元にプラモも作れるんだから一石二鳥じゃないかな。

  おまけ
 中国に出稼ぎに来る前、何故かスポーツカーのプラモにはまって何体か作っていました。けど部屋に一台だけ作って置いておくとなかなか洒落ててインテリア的にグッドでしたが、二体、三体と増えていくにつれてなんかよくなくなるというか、部屋がマニアっぽくなって失敗したと思いました(´・ω・`)ガッカリ…

2015年2月12日木曜日

千葉のマッドシティ~映画館編

 昨日の記事でも触れていますが、私の日本潜伏地ことリアル隠れ家的賃貸住宅(マジ冗談になってなくて笑えない)は千葉県の松戸市にあります。知ってる人には早いですがこの街は最近、「千葉のマッドシティ」と呼ばれており、その理由はアニメ「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の中でこの松戸市のことを「マッドシティ」と呼んだことがきっかけだったそうです。恐らくこの作品の制作者は「マツドシティ」と「マッドシティ」の音と文字が近いことからこう呼んだのでしょうが、なかなか語呂がいいのと、どうもいくつか全国区で報じられたことのある殺害事件があった街という印象がぴったりはまり、如何にも犯罪都市っぽい雰囲気を持つこの「マッドシティ」というあだ名が定着したのだと思います。
 なおこのマッドシティという言葉ですが、元々はコナミのアクションゲームのタイトルだそうです。それと松戸市の犯罪率ですが、ネット上では冗談めかして若者の9割超が暴走族だとか内戦状態だとかいろいろ書かれてますが、さすがに毎日死人が出るほどはヤバくはないです。過激派みたいな内容を毎日書いてる私が住んでてていうのもなんですが。

 そんな松戸市ですが私自身が住んでいたのは2013~2014年の一年足らずではあるものの、実家が隣の市にあって実は子供の頃から買い物なり遊びなりサイクリングなりでしょっちゅう訪れてて非常に慣れ親しんだ街だったりします。微妙な裏道とかも大体把握しているし、街がどのように変化していったかも持ち前の記憶力で案外覚えてます。
 特に際立って印象に残っている松戸市の変化として、私の中ではかつて存在した二つの映画館が挙がってきます。どちらも松戸駅近くにあった映画館で、一つは松戸輝竜会館、もう一つは松戸サンリオシアターで、どちらも既に閉館しております。

 輝竜会館の方は1959年に建設されてその後幾度か改装をされた映画館でしたがはっきり言って非常に狭く、ガラガラの時ならともかく人気作なら入り口が人でごった返し、正直言って今思い返すとかなり危険なレベルだったのではと思います。しかし東映アニメフェアなど子供の時分に見たい映画は何故か近くの映画館ではこの輝竜会館でしか公開されず、内心行きたくないと思いつつ小学生だった私は友達とこづかいを片手に見に行き、上映終了後にこれでもかというくらいの子供にもみくちゃにされながら脱出していたことをよく覚えてます。パンフレットを買おうものなら争奪戦みたいになってたし。
 なお松戸市出身の友人にこの映画館のことを話すと、「俺はあの輝竜会館って名前を聞いただけで映画を見に行くのをやめてた」と話しており、友人もあの人でごった返す異常な構造を嫌ってたようです。

 対する松戸サンリオシアターは1980年、当初は「松戸サンリオ劇場」という名前でオープン。1993年になってビルが移り「松戸サンリオシアター」と名前を変えたのですが、私が高校生までの間は映画を見に行くとしたらいつも決まってここに見に行っていました。特に小学校低学年の頃はやたらよく映画を見に行っており、うちの姉貴と二人でこづかいもらって見に行き、帰ろうと松戸駅で切符を買ったら姉貴が間違えてJRではなく京成の切符を買ったりして子供心に「頼りにならねぇなぁ」と思ったりしました。
 このサンリオシアターは周辺の店舗との提携活動をよくしていて、たとえば近くの本屋なら映画料金を割り引いたチケットが買え、近くのマクドナルドの二階店舗内にはよく公開中の映画のポスターが貼られていました。貼られていたのだと「ネバーエンディングストーリ―2」のポスターが何故かよく記憶に残ってる、アトレイユ……。

 私は高校生になった頃からあんま映画見なくなってここに通うこともほとんどなくなってしまったのですが、2006年にはスクリーン数を拡大して「松戸シネマサンシャイン」と再び名前を変えていたようですが、他の全国の映画館同様に客足が伸び悩んだことと、周辺の他の街でもシネマコンプレックスが出来ていったことなどからか羽振りが悪かったようで、2013年1月末にはここも閉館してしまいました。
 多分、私が最後にこの映画館で見たのは2003年の「ロードオブザリング 王の帰還」で、友人と二人で見に行ったのを覚えています。なお「ロードオブザリング 旅の仲間」もこの映画館で見ており、その時は家族と見に行っています。私が2013年に日本へ帰国し、たまたまこの映画館跡の前を通った際に初めて閉館したという事実を知りましたが、子供時代から自分の中の風景に存在していた映画館だっただけに軽いショックを当時受けました。

 ちなみに「松戸シネマサンシャイン」の閉館に伴い、松戸市には現在もなお映画館が一つもない状態が続いています。これだけの人口規模を持ちながら映画館が一つもないというのは全国的にも珍しいのではないかと思いますが、この辺りの人からすると小さい映画館に行くくらいなら都内や幕張に出て行くのであろうと思え、今のところあまり需要がないような気がします。とはいえいくらなんでも寂しくはないかという気がするので、どっかが新しい映画館を松戸市内に作ってくれることを陰ながら期待しております。

 それにしても見出しをそのまま「千葉のマッドシティ~」としちゃったけど、こういった松戸の思い出話をシリーズ化する気か?映画館同様需要があるのかどうかも分からんし、自分で書いておきながらなんかよくわからない状態です。

2015年2月11日水曜日

時計を置きまくる友人

 何度かこのブログで書いていますが私が現在日本で隠れ家に使っている部屋は「千葉のマッドシティ」こと松戸市にあります。隠れ家といいましたがこれは決して誇張な表現ではなく、松戸駅に歩いて10分程度で行ける便のいい場所にありますが行き方を知らないとまず見つからないような変な場所にあり、多分住所とか渡してもGPSとか使わない限りは普通はたどり着けないだろうと言えるようなところにあります。

 現在の私は中国滞在中ということもありこの部屋にいることはほぼないのですが、日本にもある程度私物を置いておきたいのと、ちょうど部屋を借りたがっていた友人がいたので私が中国に行くのと入れ替わりにその友人が住んで現在使用しています。私物の管理はおろか郵便物、電気代諸々の諸費を友人が払ってくれるので私としても大助かりなのですが、去年の9月に一時帰国した際にちょっと驚く光景が広がっていました。
 単刀直入に述べると、部屋中いたるところにこれでもかというくらい無数のアナログ時計が置いてありました。なお私が部屋を出て行く際にはデジタルの置時計が一つだけしかありませんでした。

 実際にどれくらいの時計があるか正確には数えてませんが、友人曰く部屋の中にいてどの方向を向いても時間がわかるような配置にしてあるということで、感覚的には居間内の八方向すべてに何かしらの時計が置いてあり、台所にも複数、そして何故か風呂の中にもハンガーの針金使って無理矢理吊るす形で配置されていました。

 一体なんでこんな時計置くのかついさっき聞いてみたところ、なんでも友人の実家では当たり前の光景だったそうで、風呂の中で読書したりするので長湯となるため時間を把握するのに風呂内に置くのも特別不思議に感じてないそうです。
 また時計の種類も基本はアナログで、正確に何分何秒かを知ることよりも一目で大まかな時間がわかる方が大事とのことで、割とデジタル時計を使う傾向のある自分と対照的な答えをしてきました。

 しかし友人の言うことの中でもどの方向を向いても時計が視界が入るようにするというのはまだ理解でき、先日にふとこの時の友人の話を思い出し、私も文具屋で小さいアナログの置時計を買ってパソコンの隣に置くようにしてみました。パソコンの画面内にも時計表示がもちろんありますがやっぱり置いてみると違うもので、作業中に今何時なのかパッと見る際はついついアナログの方を向いてしまいます。
 それと私のパソコンは設定変えればそれまでですが、現在のところ日本標準時に設定していて中国の時間とは一時間の時差があります。なんでこんな風にしているのかというと作業中とかに日本は今何時当たりなのかと意識させるためなのですが、ぶっちゃけそうした意識よりも現在こっちで何時かを把握する面倒さの方が大きい気がします。

 なお私と友人の二人で以前にインテリア関連に詳しい方と話をする機会がありましたが、その時の会話をきっかけに私もインテリアというか室内の空間をどのようにみせるのか、家具などの配置をどうするのかということに興味を持つようになり、先日にこのブログでも紹介した革椅子の購入など以前に比べこだわりを持つようになってきました。この友人のやたら時計を置く、それもアナログでというスタンスも一つのセンスで、そう考えると部屋には何かしらのコンセプトというかこだわりがあった方が面白いのかなと思えてきます。

2015年2月10日火曜日

シチズンの広州工場閉鎖について

 経済記者でもないんだしニュース自体は取り上げなくてもいいんですが、このニュースの扱いについてちょっと思うところがあるので執筆します。

シチズン系の中国工場が閉鎖 突然の通知、従業員ら抗議(朝日新聞)
西铁城在中国销售边缘化或成公司清算主因(中国広播網、中国語)

 多分このブログを訪れる人も上記のニュースは知らなかった方が多いのではないかと思います。ニュース概要を簡単に説明すると、日本の腕時計メーカー大手、シチズンの子会社、西鉄城精密(広州)有限公司(広東省広州市)は先週の2月5日午後、全従業員に対して突然、翌6日付で解雇するとの通知を出しました。もちろんこの通知は従業員らにとって寝耳に水でしたが、工場はその日の就業を終えると翌日には既に閉鎖され、事の説明を求める従業員らが入り口前に集まるなど大きな騒ぎとなりました。
 シチズン側は今回の突然の解雇、閉鎖について会社自体の清算に伴うもので、従業員らに対しては契約終了(=解雇)に同意すれば一ヶ月分の給与に当たる補償金に加え勤務年数に応じた一時金を支払う方針であると発表しています。こうした通知に対して従業員の中にはやむなく同意する方も出ているようですが、大半の方は事前通知もない度の過ぎた解雇行為であるとしてシチズンと地元当局などに抗議を続けているとの報道も出ています。

 論点を整理すると、今回シチズンはこの子会社の従業員に対して文字通り、「明日から来なくていいよ」と突然発表したということです。この事前通告なしの解雇が問題であるか否かですが、結論から言うとクロで、明らかに法律に違反した行為と言わざるを得ません。中国の労働法では会社が従業員に対して解雇を行う場合、最低でも一ヶ月前には通知しなくてはならないと明記されています。しかも不渡りを出しての突発的な倒産でもなく自主的な清算であればなおさらでしょう。
 もっともシチズン側がこうした強引な手段を取った気持ちも、経営社側からの視点であれば理解できなくもありません。しかし理解できるのは「こうしたいと思う気持ち」だけであって実際にやるとなると話は別で、ストレートに言えばひどいことをやる会社だと私も思います。

 特に中国は2月18日から旧正月(春節)の長期休暇に入り、故郷へ里帰りするためにもただでさえお金が入用なこの時期に解雇を迫るというのは、こう言ってはなんですが確信犯でしょう。また長期間勤務していた人からすればいきなり定職を失うようなもので、ろくな再就職支援も受けられないまま放りだされるなんて家族持ちの方々には心の底から同情心を覚えます。

 なお引用した中国語の記事には業界関係者のコメントとして、シチズンは確かに世界七大腕時計ブランドに入っているが近年は他の日系ブランド共にフェードアウトしつつあり、中国市場でもスイス製やドイツ製の腕時計の方へ人気が高まってきていると述べ、経営環境が悪くなっているというような見方を示しています。

 以上が事件の事実解説ですがこの件についてもう少し触れると、こう言ってはなんですがやや日系メディアの取り扱いは小さすぎやしないかという気がします。私自身も友人から昨日に教えてもらってこの事件を知りましたが、日系メディアで大きく取り扱っている所は、見落としているだけかもしれませんが今の所見当たりません。
 仮にこのような行為を、それこそシチズンほどの規模を持つ会社が実行したら少なくとも三日くらいは大きくニュースに取り上げられ、企業の倫理観を問う記事も出てくるでしょう。しかし中国の工場だったら、中国人を解雇するのであればそこまでしないのか……となっていいものでしょうか。そりゃ外国の工場なのだから国内より注目が小さくなるのは仕方ないとしても、それを考慮に入れてもこの件の日本の報道はやや小さすぎる気がしてなりません。

 最後にシチズンについて個人的な思い出を述べると、今をさかのぼること約3年前、香港でこのシチズンの時計を巡り多大な苦労をかけさせられました。

シチズンの呪い

 詳細は上記の記事を是非読んでもらいたいのですが、結局この時にしていたシチズンの時計は日本に送り修理しました。修理から戻ってきた後はしばらくつけていましたが自分の中の愛着はとうに薄れており、また別の理由でこの時計が憎くてたまらなくなったため、「ファッキンシチズン!」と吐き捨てて実家で投げ捨ててしまいました。
 そんなこんだで今はイトーヨーカドーで買った1000円の女性ものっぽい腕時計をしています。この時計1000円やったと周囲に話すと、「中国でもそんなに安くで腕時計買えないって」と反応されてしまいます。

2015年2月9日月曜日

鎌倉仏教が成立した背景


 上記の画像はまたネットで拾ってきたものですが、鎌倉時代に新たに成立した六宗派の仏教、いわゆる鎌倉仏教の特徴と関連性が非常にわかりやすく図示されており、初め見た際には「こんなものあったのか」と思わず唸りました。真面目な話、これ中学や高校での歴史の教科書や資料集に載せた方が良いんじゃないかと本気で思います。なお一番ツボだったのは時宗です。
 さてこの鎌倉仏教ですが、現代で最大勢力を誇るのは浄土真宗ですが他の五宗派も現代において一勢力を張るだけの勢力はしっかり保っており、これは逆に考えるならば現代にも続くくらいスタンダードとなる宗派がすべてこの鎌倉時代に成立したということになります。何故成立したのがすべて鎌倉時代なのか、これは一つのキーワードになるように思え今日はその辺について自分なりの意見をスパッと書くことにします。

 結論からとっとと書くと鎌倉仏教が成立した当時、日本人にとってまさに世界観が一変する出来事があったためではないかと思います。その出来事というのも天皇制の立ち位置の変化こと、1221年の承久の乱で、この事件による思想、社会的価値観の大きな変化が新仏教の成立に寄与したと素人ながら考えています。

 承久の乱については説明するまでもないでしょうが、天皇家の権威と権力の回復を図った後鳥羽上皇らの一派が鎌倉幕府と対立したところ鎌倉幕府側が圧勝し、それによってそれ以前はやや拮抗していた両者の関係が幕府側が皇位継承権に干渉できるようになるなど優位に立つようになった事件です。承久の乱については以前にも一度取り上げていますが、日本というのは良くも悪くも天皇を中心とした国家で、その天皇制の立ち位置が大きく変化するということは文字通り国体が変わると言ってもいいほどのインパクトを持ち、それだけにこの事件も日本史上でも稀に見るくらいの大事件であったと考えてもいいくらいです。それこそ承久の乱以外で天皇制の立ち位置が明確に変わった例を挙げるとすれば明治維新と二次大戦の敗戦しか例はなく、いわば承久の乱は日本史上の事件としてはトップスリーに入るくらいのインパクトを持っていると私は考えています。

 ちょっと脱線しますが、トップスリーというには承久の乱はほかの二つと比べて現代日本ではやや取り扱いが小さいようにも感じます。恐らくそれは戦前の皇国史観が影響していて、天皇家側が敗戦したという事実にあまり触れたくなかったのではないかと推測しています。ただ事件のインパクトを考えると明らかに扱いが小さすぎて評価を誤る恐れがあり、もうちょっと大きく取り扱うべきではないかと日頃から私は主張しています。

 話は戻りますが、事件当時に当たる鎌倉時代初期は武士の地位が確実に向上しつつも日本の統治主は天皇家でまだ変わりないというのが常識だったと思います。それがこの事件によって一気にひっくり返るというか天皇家の上に幕府が明確に立ち、また土地の支配に関しても公家より武士が勝るようになったことは本気で世界そのものが変わるくらいのインパクトだったのではないかとも思えます。勝手な推測が続きますがそれは一種の社会的不安を起こしたでしょうし、また権威の崩壊というかそれ以前まで尊敬を集めていた組織や人物が一気に軽蔑されるようになるなど、ヨーロッパのルネサンスのような大きな思想の変化があったのではないかという気がします。

 そのような世界観の中で求められたのはやはり新しい価値観であったように思え、そうした背景もあって鎌倉仏教は当時の新興宗教として設立に至っていったのではないかというのが私の意見です。最近この言い回しが多くて自分でも嫌な気もしますが、逆を言えばこうした社会不安がなければ鎌倉仏教は成立していなかったのではとも言いたいわけです。

 最後におまけというか自分の実体験を話すと、この六宗派の中で明確に帰依している人物と会ったことがあるのは曹洞宗の人です。その人は自分の大学の先輩にあたる人物で、なんでも在学中に出家して一旦は大学を退学したもののもう一度学問に目覚めて復学し、自分と同じ講義を受けていたことから知り合いました。
 やっぱりユニークな人で話してて面白かったのですが、ある日に曹洞宗なら座禅の時間が長いのかと聞いてみたところ、こんな答えが返ってきました。

「いや、ほかの寺は違うかもしれないがうちは座禅というよりもとにもかくにも掃除に力をかける。もう何も考えず永遠に掃除をしてろっていう具合に。なもんだから静かな所で瞑想に耽りたいと思ってうちに来る人なんかは違和感を感じることが多いよ」

 こういう話はなかなか外では聞こえないだけに、聞いた当時は非常になるほどと思って感心しました。やっぱり仏教解説本を読むよりも、実際に修行している人の話を聞く方がずっと早そうです。