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2015年4月24日金曜日

Wordpressでのテキストエディタの切り替え不良問題

 今日は勤務している工場のある一帯が停電のため臨時休業となり自宅で過ごしてましたが、折角だから姉妹サイトの「企業居点」でポチポチと更新していました。そしたら作業中、突然記事投稿画面でビジュアルエディタとテキストエディタの切り替えが出来なくなるという妙な問題が起こって「こは如何に」と妙な古語が口から出てきました。

 そもそもビジュアルエディタとテキストエディタとはなんなのかですが、大抵のブログソフトの記事編集画面には実際にホームページで公開された状態、言い換えるとHTMLが反映された状態で編集する画面と、HTMLを直接打ち込んで編集する画面の二種類を自由に切り替えられるようになっており、Wordpressの場合は前者がビジュアルエディタ、後者がテキストエディタだと呼ばれます。
 私が記事を編集するさいは両画面を切り替えながらリンク貼ったり改行弄ったりするのですが、それだけに切り替えが出来なくなると記事編集自体が出来なくなるので非常に困ります。思い当たった原因としては最近、ベースとなるWordpressのソフトが新バージョンに更新されたのでその影響で追加ソフトに当たる「プラグイン」と呼ばれるソフトの中で新バージョンに対応していないのもあり、それが悪さをしているのではないかと推測しました。

 なわけで早速プラグインをしらみつぶしに一つ一つ無効化させて不具合が直るか直らないか試した見たところ、意外とあっさり犯人は見つかりました。今回の私の場合、「Jetpack」という、閲覧数の統計やスパムコメントのブロックなどWordpressに様々な機能をまとめて追加してくれるプラグインでした。これ一つを止めたところ先程の問題はピタリとなくなり、こちらが驚くほど万事丸く収まってしまいました。
 しょうがないのでこの「Jetpack」はしばらく封印せざるを得ないですが、なくてもいいといえばそれまでなのでもしかしたらこのまま削除することになるかもしれません。

 ちなみに今日はまた150件ほど海外拠点データを打ち込んだ後、このブログで連載している「創業家列伝」をそのまま向こうのサイトにもコラムとしてアップロードしました。同じ経済系のネタだから相性いいだろうという判断からですが、アップロードに当たって以前に書いた安藤百福に関する記事を読み返し、「俺もええこと書いとるやないけ」と自分で書いた記事を自分で読んで感動してました。

 そもそもあの創業家列伝自体、安藤百福について記事を書きたいと思ったことがきっかけで作った連載であって、正直な心境を話すとほかの人物については小倉昌男を除いてやはり熱意が一段低くなっております。この辺は佐野眞一氏も書いておりますが、経歴が怪しかったり物凄い決断をするような人間的魅了に溢れた人物はルポ記事を書く側にとっても魅力的で、書き手からしても「この人物を書きたい」という気持ちにさせられます。安藤百福然り、中国史の猛将然り、紹介したいと思う人物に対しては全力疾走で記事が書けますがそうでもない人となると引き上げられる熱意にも限界があります。
 もちろん、この連載で取り上げている人物はどれも面白い人たちだし、そこそこ熱意を盛って書いてはいるつもりです。しかし安藤百福と同程度にまではモチベーションを上げ切れず、多分記事を読んでいる方にしてもそういう温度差が感じられるのではと推測しています。この前書いた樫尾四兄弟の記事なんかいい記事にしようと執筆前に集中しながら音楽聞くなどしてややトランス入った状態にしてから書きましたが、悪くはない仕上がりだけど他を圧倒するかのような記事にはとうとうできませんでした。好き嫌いで仕上がりに差がつくというのはよくないんだけどなぁ。

2015年4月22日水曜日

創業家列伝~鈴木道雄(スズキ)

 軽自動車大手であるスズキの経営者ときたら現会長の鈴木修氏が非常に有名ですが、その創業者となるとトヨタの豊田喜一郎やホンダの本田総一郎と比べると印象が薄い気がします。案外ほかで紹介されていることが少ないような気がするので、いい機会なので今日はそのスズキ創業者である鈴木道雄を紹介しようと思います。

 スズキの創業者となる鈴木道雄は1887年に静岡県浜松市にある農家の次男として生まれます。知ってる人には有名ですが浜松市は豊田佐吉や本田総一郎など著名な日本人発明家が数多く生まれており、知る人ぞ知るパワースポットだったりします。なんでここに発明家が集中しているのかいくつか仮説はありますが、一番大きいのは恐らく繊維産業の中心地だったということに尽きるでしょう。

 話は戻りますが道雄の家は貧しかったために道雄も14歳から大工へ奉公に出ております。道雄を雇った大工は当初は通常通りに普請を手掛けていたそうですがある時期から木製の足踏み織機の製造販売を始め、弟子でいた道雄も一緒になって織機を作り始めたそうです。
 奉公に出てから7年後、21歳となった道雄は大工の親方から独立して織機職人として活動を始めます。道雄は自ら設計した織機第一号「鈴木式織機」を自分の母親へプレゼントするのですが、この織機が他の織機と比べて能率が格段に優れていると評判になり道雄の元にはたくさんの受注依頼が舞い込むようになります。こうした追い風を受けた道雄は従業員を雇い入れるなど事業を拡大し、1920年には「鈴木式織機株式会社」を設立して経営者としてのスタートを切ります。

 道雄の会社は大正の大戦景気後の不景気にも揺さぶられることなく順調に拡大していき、昭和に入ると娘婿で後に二代目社長となる鈴木俊三がアジア各国を回って織機を売り歩き、インドネシアに至っては約2万5000台の織機を出荷するにまで至ったそうです。こうして織機メーカーとしてその名をとどろかせる一方、道雄は日本にも欧米のようなモータリゼーションの時代が来ると考え、そもそもの発明家としての気概からか戦前の時代から自動車の開発を手掛け始めます。
 道雄はこれまた別の娘婿でありエンジニアでもあった鈴木三郎にまずオートバイエンジンの試作を行わせ、これに成功してから四輪自動車の試作車開発にこぎつけます。ただその後、二次大戦の本格化に伴って自動車開発は一時ストップし、会社も軍部から指定を受けて軍需品の生産を引き受けることとなります。

 終戦後、軍需工場がたくさんあったことから浜松は戦火に焼かれて道雄の会社も大半の工場が消失する憂き目に遭いました。しかし比較的被害の少なかった工場で鍋釜などの生産から再開したところ政府から大量の織機の注文を受けたことで再び息を吹き返し、新規開発にも取り組めるだけの体力を戻すに至りました。
 この時に先程出てきた娘婿の俊三(後の二代目社長)から提案されたのが、自転車に原動機を付けた製品、ってかそのまんま原動機付自転車こと原付でした。待望のスズキ製原付第一号は「バイク・パワーフリー号」という名前でこれが大いに評判となり、道雄たちはこの後も続々と二輪車の新製品を市場へと売り出していきます。

 道雄自身はこの時代からかねてから夢だった四輪の開発に従事したかったもののまた時期尚早と考え、この時期は二輪の開発に従事し続けたそうです。その甲斐あってか1954年には4サイクルエンジン二輪車の「コレダ号CO型」が富士登山レースで優勝し、「二輪のスズキ」という名を全国に轟かせ、それに合わせてか同年には会社名を「鈴木自動車工業株式会社」に変更しています。

 会社名の変更とともに道雄はいよいよ四輪車の開発を社内に指示します。しかし社内からはまだ四輪について何のノウハウもなくまだ時期尚早だという声が強かったそうですがそこは道雄が押切り、社内から設計が出来る人間を選抜して開発チームを組織します。もっともこの時に選抜されたメンバーは3人とも運転免許すら持っておらず、運転免許を持っているという理由だけで途中から静岡大を出たばかりの新人2人を追加するという状態だったそうです。勢いだけはよく感じる。
 開発チームはまず既に発売されている他社の自動車を購入し、分解するところからはじめ、比較的構造が簡単で模倣がしやすいという理由からロイトLP400をベースに試作車の開発を始めます。この開発の間、道雄は多忙にもかかわらず朝早くから研究室に入って開発メンバーを激励し続けたと言われており、やはりというか自動車に対する並々ならぬ情熱があった模様です。

 試作車開発に当たって様々な困難はあったものの今も動き出したら結構早い鈴木なだけに、開発開始からわずか8ヶ月で試作車は完成しました。出来上がった試作車2台は輸入自動車販売大手のヤナセの二代目社長である柳瀬次郎に実車を評価してもらうため浜松から東京へと試運転を行いましたが、最大の難所である箱根越えで1台がトラブルを起こし、仕方なくマフラー外して無理矢理運転することでどうにかこうにか東京へと持っていくことが出来ました。
 到着時刻は既に夜11時を過ぎていたものの柳瀬次郎はスタッフ一同共に工場前で出迎え、持ってこられた試作車を夜中ずっと乗り回してその性能を確かめたと言います。その上で道雄に対し、「認めてやろう。いい車だ」と、「頭文字D」の須藤京一のようなセリフを言ったかどうかは定かではありませんがとりあえず高評価を下し、道雄も俄然自信をつけたと言われます。それにしてもこの柳瀬次郎も面白い人だな。

 この後もありとあらゆる改良がくわえられ、翌1955年に満を持してスズキ初の自動車、そして世界初の軽自動車である「スズライト」が発売されることとなります。なおWikipediaの記述によるとスズライトの初代ユーザーは女医で、当時は軽自動車なら二輪免許だけで運転できるということで往診の足として購入したそうです。

 このスズライトが発売された2年後の1957年に道雄は社長職を引き、1982年まで長生きした上で往生を遂げています。彼について私の評価を述べると、戦前の代から自動車開発に強い情熱を持ちつづけスズライトの開発を主導した経緯を考えると、非常に粘り強い精神の持ち主だなという印象を覚えます。特にスズライト開発に当たっては本当に何もノウハウがない所から、日産やトヨタの様に資本にも余裕がない状態にもかかわらずかなり体当り的に作り始めたことを考えると今も昔もスズキはワンマントップのバイタリティが半端なく高い会社と言えそうです。

 そんなスズキの代表的な特徴といったらなんといっても代々の経営トップがその前のトップの娘婿が就くという点にあります。道雄→俊三→修と、俊三と修氏はどちらも娘婿として鈴木家に入っていますがどちらもスズキの成長に大きく貢献しており、特に現在の修氏は金融業界から入ってきたにもかかわらず現在の日系自動車メーカートップとしては最も高い評価を受けている人物です。前にも書きましたが修氏がスズキに入社して間もなく、周囲から「銀行屋風情が」と言われながらもジムニーのライセンスを購入したという話は「慧眼まさに恐るべし」と感じるほどのセンスの良さを覚えます。

 そういう意味ではスズキもオーナー色が濃くリーダーシップが強い会社と言えるのかもしれませんが、直接の血縁者ではなく優秀な外部の人間をオーナー一家に代々取りこんでいるという点ではかなり特徴的な日系企業と言えるような気がします。まぁこの辺はほかの人もたくさん書いているので詳しく書きませんが、「葵徳川三代」みたいに「Sの字鈴木三代」ってドラマとか作ったりしたら案外面白いんじゃないのとくだらないこと言ってまとめにしたいと思います。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

2015年4月21日火曜日

現代神話は何故作られるのか

 今日はちょっと短くこの前考えたことについて書きますが、いつの時代もというか日本ではよく「少年犯罪の凶悪化」や「子供の学力低下」の二つが取り上げられます。しかし少年犯罪は70年代とかと比べると規模も内容も現代の方が圧倒的に小さいですし、ゆとり教育の世代もよくよく調べてみると大学入試の問題は難問化していて実際は二極化の傾向が強かったりして、現代神話ともいえる先程の二つの言葉は実態を表していないどころか、むしろ内容的に間違っている可能性が高いです。では何故内容的に実態を表していない言葉が、現代社会に置いてこれほどまで広く流布されるのでしょうか。

 私の考えをスパッと述べると、「そうであってほしい」と願う人間がたくさんいるからこうした現代神話は生まれるのではないかと思います。どちらも子供関連、それも教育に深く影響する内容ですが、現代教育が間違っているということにしたい人間が案外こういう神話をはやらせているのではないかと何の根拠もなく思えてきました。
 考えてみると現代に限らず、神話というのはどの時代でも案外そのように「そうあってほしい」という願望が下地となって作られている気がします。天皇降臨節とか天地創造説とか、作った人間に都合のいいように、権威がもたれるようにして作られているのではと思えてきます。現代における神話とも言うべき眉唾な話しなども、基本はこういった願望が根拠を含まずに独り歩きするものが大半でしょう。

 なおそういう、「そうであってほしい」ことが一番感じられる神話を敢えて挙げるとすれば私の中だと「マリアの受胎」で、ダヴィンチの師匠に当たるジョットが「聖誕告知」の絵でマリアの夫・ヨセフを何やら不安そうな顔に描いた理由を問われた際、「そりゃそうだろ。妻のお腹にいる子供の父親が誰なのかわからないんだからさ」と答えているだけに、ヨセフからしたら「そうであってほしい」と強く神話を信じたんじゃないかと思います。

2015年4月19日日曜日

中国雑誌の山口組特集

 昨夜は上海に行って友人と一緒に夕食を取った際、昨日に書いたベルリン五輪の日本人選手の記事で「トレーナーにNIPPONって書いてあって時代を感じた」と話したところその友人から、「でも花園さんも夏場はよく、胸にHONGKONGって書いたTシャツ着てるじゃないですか」とツッコまれて苦笑しつつ、「俺、香港好きやねんから……」としか言えませんでした。なお「I♡上海」のTシャツもよく着て徘徊しています。
  そうした私のTシャツセンスは置いておいて本題ですが、前日に引き続き上海をうろうろしていたところ売店で気になる表紙の雑誌が売られていたので衝動買いしてきました。


 余計な説明は最早不要でしょう。何故だか知りませんが中国の雑誌に日本最大、というより構成員数では世界最大のマフィア組織である「山口組」の特集が組まれていました。なお表紙に書かれている言葉は「アジアで最も有名なマフィアの生存法則(サバイバル技術)」といったところです。

 興味津々でページを開いてみたところこの特集記事を書いたのは日本人ライター二人で、中国人から見た山口組とはどんなものかというのが見たかっただけに少し残念でしたが、記事自体は非常によくまとめられており、後述するよう日本では「週間大衆(ヤクザ業界の業界紙と個人的に考えてます)」くらいにしか書けないネタも書かれてあってなかなか興味深い内容でした。
 主な内容は神戸港の港湾運搬組織から発祥する山口組の歴史と彼らを取り巻く「暴力団対策法(暴対法)」を中心とした現況、そして日本社会のヤクザに対する見方などでまとめられています。山口組の歴史についてはネットにも詳しい記事がたくさんあるのでここでの説明は省略しますが、この特集記事ではある意味で現代山口組の祖ともいえる三代目・田岡一雄の来歴が詳しく語られており、映画の「三代目襲名」で田岡を演じた俳優の故・高倉健が田岡と並んで2ショットで写ってる写真が何故か添えられています。今だったらこんな写真は撮れんわな。

 山口組の歴史について書かれている部分で興味深かったのは、山口組が芸能事業に進出した昭和の初め頃より吉本興業と手を組んでいて、現代においても重要な傘下組織であるということをはっきり書いてある点です。山口組と吉本興業の間となると何人かの芸人が構成員と付き合いをしているという報道は日本でもたまに出てきますが、吉本興業の発足当初から会社ぐるみであるとスパッと書いてあるのは中国雑誌ゆえでしょう。なおこちらはタブーが取れかかっていますが美空ひばりも山口組傘下の芸能事務所で活動していたと触れ、あと現代では芸能事務所のバーニングは今でも付き合いがあってこのバーニングに所属する誰もが知るような有名芸能人の名前もいちいち挙げています。
 このほかの記述となると北野武氏のヤクザ映画と彼本人のヤクザに対する意見などを引用して、日本の芸能界とヤクザは関わりが深いことを比較的冷静に紹介しています。実際、否定できないし。

 それとなかなか読ませられた部分として、暴対法について書かれてあるところは面白かったです。記事中では日本の暴対法について、「このようにマフィア組織を対象とした規正法はほかの国には存在せず、ある意味でヤクザの存在を法律上で認めているような法律でもある」と指摘しており、私もこの指摘は至極その通りのように見えます。そして1992年の施行以来、この法律による摘発を恐れ庇護主を得るために山口組に参加する規模の小さい暴力団が多かったと述べ、山口組の勢力拡大の一因にもなったとも指摘しています。
 ただ規制の威力自体は高く、施行以来ヤクザによる犯罪は減少しており、またヤクザ関係者からも悲鳴にも近い暴対法の見解を引用した上で、「ヤクザをやめるか、警察に捕まるか、どちらにしろ彼らは消えていく存在だ」という警察関係者の言葉でまとめています。

 果たして、中国人はこの記事読んでどう思うのだろうな。試しに何人か読ませてみようかね。

2015年4月18日土曜日

ベルリン五輪に出場した日本人レスリング選手

 今回はちょっといつもと趣向が異なる記事で、友人から提供いただいたちょっとした記録的写真を紹介します。


 この写真はこのブログによくコメントくれる若生わこさんから提供いただいた写真です。写真に写っている人物は誰かというと若生さんの親戚で、見ての通りというレスリング選手だったそうで1936年のベルリンオリンピックに日本代表として出場した際に撮ったのがこの写真だそうです。


 如何にもベルリンって感じがするのはこっちの写真ですね。日本人でありながら体格の大きいドイツ人と並んでいても見劣りしない辺りさすがはレスリング選手だという気持ちを覚えます。ただ、「NIPPON」って刺繍のあるトレーナーはいくらか時代を感じてしまいます。


 こちらは日本国内で撮影された写真のようです。このベルリン五輪に日本はレスリング選手を明大から二人、早大から三人を選出して計五人だったとのことですから、一番右の方が監督で他の方々がその五人のレスリング選手だと思われます。


 こちらも日本国内で撮影されたものと思しき写真で、郷里の壮行会で撮られたのでしょう。この時代でありながら居並ぶ面々がスーツ姿のきちんとした身なりで、また神主さんもしっかり写っているのが印象的です。一人だけ女性も写っていますが、この人が母親なのかな。


 こちらが最後の写真となります。日本の国旗、五輪のマークの入ったバッヂがついている辺りは日本代表らしい姿で、体格ががっちりしている分スーツ姿が堂に入っています。このほか思いつく点としては髪型が比較的現代の見方でもそれほど時代を感じさせない髪型で、現代と時代が続いているんだなという気がします。

 戦前の時代の写真はそこそこ残っていますが、オリンピック選手の写真となるとこれまで案外見たことがなかったので今回提供いただいた写真は素直に新鮮な感じを覚えました。改めて写真を提供いただいた若生さんにはここで感謝を述べさせてもらいます。

2015年4月17日金曜日

創業家列伝~樫尾四兄弟(カシオ計算機)

 たまに友人から、「あの創業家列伝の連載ってもう終わったの?」って突っ込まれるほど掲載時期に幅のあるこの連載です。書けるネタ、書きたいネタはたくさんあるものの書く前にそこそこ調べものとか準備がいるので、ついつい執筆が後回しになってしまっているのが現状ですが、今の所マッドシティとかほかにもいくつか連載記事を抱えたりしているのでなかなか手が回らないのが本音です。てんかん発症気味の状態だったら無限のエネルギーで延々と書き続けられるんだけどなぁ。
 そういうわけで今日の創業家ですが、意外と書かれている評伝が少ないと思われるカシオ計算機の創業家、というよりは創業一家である樫尾四兄弟を取り上げます。

カシオ計算機(Wikipedia)

 往年の世代の方であれば「答え一発カシオミニ!」というこのキャッチコピーを覚えているのではないでしょうか。このコピーと共に一世を風靡し、それまで企業向けにしか需要のなかった電卓を一気に個人用として普及させた電子電卓「カシオミニ」は現代においても「電卓といったらカシオ」と言われるほどの大きな成功を収め、同社を優秀な電子機器メーカーとして名指しめました。そのカシオ計算機を創業したのは現社長の樫尾和雄氏(三男)、現副社長の樫尾幸雄氏(四男)の兄である樫尾忠雄(長兄)とその弟の樫尾俊夫(次男)であり、実質的に四兄弟の団結によって生まれ、繁栄した会社と言っても過言ではありません。

 長男の忠雄(以下名字は省略)は1917年に現在の高知県南国市で、農業を営む両親の元で生稀増した。忠雄がまだ幼少だった1923年に一家は関東大震災後の東京に移り住み、その翌年の1924年に次男の俊雄が生まれています。
 一家の生活は決して裕福ではなく忠雄は小学校高等科を卒業した十三歳の頃には就職し、巣鴨の榎本製作所で旋盤工として働き始めます。ここの会社の社長をしていた榎本博は忠雄の熱心な仕事ぶりを認め、自ら学費を負担する形で十六歳になった忠雄を早稲田の夜間学校へと通わせ、忠雄もまたその期待に応えギリギリまで仕事こなしつつ勉強もしっかりこなして無事に卒業を果たしました。
 しかし善人ほどとでもいうべきか、戦時色が強まっていた1936年に榎本博は軍から召集を受け、そのまま戦地で散る運命となりました。榎本の出征に伴って榎本製作所は閉鎖しましたが、榎本は出征の前に忠雄へ愛用のノギスを託したと言い、このエピソードだけでも両者の強い絆というか忠雄の将来性を深く買っていたということが伺えます。

 榎本製作所の閉鎖後、忠雄はいくつかの会社を渡り歩き1942年には間借りの工場で独立を果たします。その後、戦争が終結した翌年の1946年に東京都三鷹へと移り「樫尾製作所」を正式に発起して、この時点を現在のカシオ計算機は創業年として取り扱っています。
 ただ独立を果たしたものの当時は敗戦直後で物資は何もなく、工作機械にすら事欠く有様だったようです。どうにか中古の機械を調達する算段が出来たものの売主は長野県諏訪市にいたため、父親の茂がリヤカーを引いて往復300キロを渡り歩いてわざわざ運搬してきたほどだったそうです。それにしてもガッツのある父ちゃんだ。

 またこの時、兄同様に優秀で当時逓信省に技術者として勤めていた次男の俊雄が公務員という職を捨てた上で樫尾製作所に入社しています。少しでも兄を手伝いたいという一心からの行動だったということで、創業当初はまさに兄弟二人三脚であれこれ製品を作ってどうにかこうにか会社を回していく状態だったらしく、手元の資料によると兄弟がうどん製造機を作って、それで作るうどんを家族が売り歩くということもあったそうです。
 そんなこの兄弟の初のヒット商品は指輪に煙草を差せる突起をつけた「指輪パイプ」で、煙草をスパスパ吸う兄を見た俊雄が発案した作業しながらでもタバコが吸えるという製品でした。これが意外にヒットして1日300個も売れる日もあり、創業当初の経営を大いに支援してくれました。

 そしてこの指輪パイプに続いた商品というのが、カシオの代名詞ともいえる電卓こと計算機でした。この時既にスポーツマンで行動的な三男の和雄氏、温和で研究肌な四男の幸雄氏も入社しており、四兄弟が揃い踏んだ上で計算機の開発に心血を注いでついにソレノイド式計算機の自社開発に成功します。なお、このカシオのソレノイド式で初めて採用されたボタン配置というのが現在のテンキー配置だったりもします。
 ただこの時のソレノイド式計算機は演算速度は高かった掛け算を連続して行う連乗機能がなく、商社からは欠陥商品としてあまり相手にされなかったようです。その悔しさをばねにしてか四兄弟はソレノイド式から今度はリレー式の計算機開発に手を付け、1956年には「14-A型リレー式計算機」の発明に成功、翌年に内田洋行と販売契約を結び正式に売り出したところ市場からも高く評価され、「電卓のカシオ」という名を始めて轟かせるに至りました。

 しかしこの時のカシオの成功を見た同業他社もこぞって電卓の開発に乗り出し、電卓市場の競争は非常に激しくなっていきました。カシオもスタート当初でこそリードしていたもののあっという間に技術的差を詰められ、究極のリレー式計算機として開発していた「81型」は当時普及し始めていたトランジスタ採用の電子式計算機との比較によってほとんど評価されず、ほぼ完成しておきながら結局製品化はせずにお蔵入りになるという憂き目を見ています。
 なおこの時カシオの最大のライバルとして電子式計算機を持って立ちはだかっていたのはあのシャープです。こういういい時代もあったんだなぁ。

 この時は最初の電卓の成功でいい気になってゴルフ三昧だった四兄弟も気を入れ直し、1965年には市場の要求に追いつこうと遅ればせながら電子式計算機の開発に取り組みます。元々切り替えの早い会社でもあるようだし社員も優秀な人材がそろっていたこともあって開発開始から一年足らずでカシオ初の電子式計算機「カシオ001」を世に送り出し、一旦開いた技術的な差を一挙に埋めることに成功し、「電卓のカシオ」の名を維持し続けました。

 そしてそれから7年後の1972年、ほとんど法人向けにしか売られてこなかった電卓を個人向けに売る道はないかとカシオは動き出します。当時カシオの社員で現在はオプトエレクトロニクス会長の志村則彰氏を中心に、カシオは個人向け販売に当たって最大の障害となる生産コストの削減を様々な方法で探り、キーをリードスイッチからパネルスイッチにしたり、演算処理にLSIを導入したりなどしてついには当時の市場価格の約3分の1程になる12,800円という定価で恐らく世界初の個人向け電卓「カシオミニ」を世に送り出します。なお原価は4,500円程度だったらしく、定価の設定は社長の忠雄がトップダウンで、というか製品発表日に突然決めたそうです。

 このカシオミニは発売当初から大きな話題を集め、発売からわずか十ヶ月でで百万台を販売するなどカシオにとってかつてないほどのヒット商品となり、やはり「電卓のカシオ」と当時は言われたことでしょう。しかもこの時の日本ではボウリングがブームで、ボウリングの点数計算に当たってその使い勝手の良さが評価されたことが追い風となり、電卓を販売した競合メーカーを市場から一気に叩き落とすほどの成功を得ています。

 その後もカシオは電卓にとどまらず、電子楽器の「カシオトーン」、高耐久性電子腕時計の「G-SHOCK」など独自性の光る商品を次々と発表し、現代においても一芸のある電子機器メーカーとしての地位を保ちながら「電卓のカシオ」という看板を守っています。何気に私もカシオの電卓使ってるし、例の1・3・7・9・AC同時押しの裏技も知ってるしなぁ。

 このカシオという企業について私見を述べると、本当に創業当初から四兄弟が一緒になって盛り立てきて現在も社長と副社長が三男と四男という辺り、いい意味で「創業者が一人の会社じゃない」という印象を覚えます。しかも長男と次男は既に逝去していますが、生前もケンカがあったなどというエピソードは聞かず仲が良かったようで、比べては悪いですがどっかの化学品メーカーの兄弟がいやでも頭に思い浮かんできてしまいます。
 既に述べていますが、カシオというのは一癖、一工夫ある商品がやはり多いように思え、四兄弟のオーナーシップがその独自性を高めているようにも覚えます。その点ではこの会社も一種の家族経営企業とみても間違いではなく、その数少ない成功例として考えてもいいと私の友人は話していました。
 ただなんでもかんでも成功してきたというわけではなく、1995年には「ルーピー」という女の子向けを意識したゲームハードを発売したものの市場から認知されることもなく淘汰されています。それにしても、現代でこの名称聞くとこっちもまたある元首相が浮かんできてしまうな。

  おまけ
 先週末に自分の所属するサイクリング部のメンバーと共にボウリングをやってきましたが、みんな揃いも揃って下手で誰もスコアが100に届くことがありませんでした。しかしレベルが低い分、みんなして実力が拮抗したため結構熱くなって楽しかったです。なお昼食はサイゼリヤ。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

2015年4月16日木曜日

中身を見ようとしない日本社会

 先日、例の上海人の友人から、「日系企業にいるなら間違っていると思っても上司の言うことを黙って聞かないと駄目だよ」と諭されました。実際、相手が誰であろうと文句があればすぐ言う性格なので間違っているわけではないのですが、まさか中国人に日本の雇用慣行を諭されるとは夢にも思わなかった……。

 そんな日本の雇用慣行について今日は書くつもりなのですが、ちょうど去年の今頃というか4月頃は例の小保方騒動が一番ヒートアップしていた頃だと思います。この騒動においては理研の研究審査体制や体質、女性研究者であることを理由に過剰なまで持ち上げたメディア、コピペ問題などいろいろな問題点が挙げられてましたが、私が内心一番大きな問題だったと思うのはどうして小保方氏が理研に研究員として採用されたのか、その選考方法にあるのではないかと考えています。
 報道によると小保方氏はハーバード大留学という経歴を引っ提げて理研に入ったとのことですが、この際に通常の選考で課される英語でのプレゼンは免除されていたそうで、万能細胞という魅力的な研究テーマでもってほぼ一本釣りみたいな形で採用されたと聞きます。しかしその実態はすでに報道されている通り、博士号論文をコピペして出すわ、研究ノートもまともにつけられないは、自然発光かどうかも疑わなかったなど研究者としては全く実力がなく、はっきり言えば中身が全くない人物だったと言っても過言ではありません。ただそんな小保方氏ですが去年の釈明会見を見て私は、「ああ、この人ならどんな採用面接でも受かるだろうな」という印象を覚えました。

 何故そのように思ったのかというと、とにもかくにも見せ方というかプレゼンが非常に上手かったからです。大学もAO入試で入ったというだけあって恐らく昔からその手のセンスが鋭かったのだと伺えますが、今の日本だとこのように、中身が全くなくても面接時などの見せ方、しゃべり方が上手かったらそれだけで評価されて通してしまうことが多いように思えます。換言するならば外見と比べて中身はほとんど評価されない傾向にあり、真面目系な大学生ほど就活では苦戦するという話をよく聴くし、私のある後輩なんかまさにそうでした。

 何故がさっきから続きますが何故日本社会は中身を評価しようとしないのか。多分一番多いであろう言い訳としては「コミュニケーション能力が求められているからだ」という回答でしょう。確かに私もそれを否定しませんがでは何故(またか)コミュニケーション能力が求められるのか、その理由について考えている人は今の今まで私は出会ったことがありません。
 私的な意見を述べると、比較的年齢の高い現役世代があまりにもコミュニケーション能力が低くて意思疎通がほとんど図れないためか、若手の世代が同じように低いか、中身のない人間が多すぎてコミュニケーションする内容がないのか、この三択じゃないかと思います。私が考える原因はこの三つともで、特に理解してもらうよう説明することに努力を払わない人間が多すぎることが大きいと考えています。

 中身のない人間が何故評価されるかについて話を戻しますが、基本、中身がある人間と比べてない人間の方が口は軽いに決まっています。物がわかっている人間なら軽々に、「ハイできます」なんて言えるわけないですし、慎重にならざるを得ませんが、小保方氏の様に初めからあるかどうかすらも認識できないなら、「STAP細胞はあります」と堂々と言えちゃうわけで、選考過程ではそりゃ後者の方がいい方に見えることでしょう。
 その上で中身をきちんと審査しようとなると、審査する人間の中身も求められますし、また中身を審査すること自体も外見だけを見るのに比べて多大な労力が必要です。この後は言わないけど、こういう点も今の日本で中身が評価されない時代ゆえなのかもしれません。

 私は二年くらい前からたびたび、「黙って手を動かす奴が一番強くて偉いんだ」というセリフを言う機会が増えています。何故こんなことを言うとどれだけ実力があっても、力量があっても、外見ばかりが評価される現代ではそのような人間はまずほとんど評価されていないきらいがあるのではと思うからです。もちろん周りを楽しませられる才能があるに越したことはありませんが、人間はやっぱり中身で、そういう点をおろそかにしているから昭和期と比べて今の日本はパッとしないんじゃないかと常々感じるわけです。