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2015年7月26日日曜日

日本と中国で異なる資産運用

 預金がある程度溜まった所で誰もが手を出すのは資産運用ですが、その運用の方法について今日は日本と中国の違いを簡単に説明します。
 まず資産運用の仕方は大別すると4種類に分類され、日本で人気だと思われる順番で列記すると下記の通りとなります。

<日本で人気な資産運用順位>
1位、積み立て型保険
2位、銀行の定期預金(金融商品)
3位、株式投資
4位、住宅運用

 私の視点ですが、日本で最も運用される方が多いのはやはり積み立て型保険ではないかと思います。代表格は生命保険で、一定の収入がある成人であれば多くの人間が加入しており、これに付随する形で損害保険や重大疾病保険の加入率も低くはないでしょう。次いで2位の定期預金もそこそこやっている人は多いですがデフレ傾向が続いてきたため保険と比べるとやや頼りなく、3位の株式投資は以前に比べれば個人トレーダーは増えつつあるものまだまだ一般的であるかというとそこまでには至っていないというのが実情でしょう。私自身は株取引をしておりますが、やはりこの事実を告げると周りから珍しがられるし。
 4位の住宅運用に至っては、まず持ち家率もそれほど高くはない上に、住宅を購入すると言っても大抵は自分が住むために買うもので資産運用として使うことはほとんどないように思えます。ましてや日本市場では住宅価格が経年と共に急激に下落し、新築の場合だと購入した直後に評価額が半値となるため転売して利ザヤを稼ぐことは並大抵じゃありません。そういうことから資産運用としてはこれが一番マイナーではないかと思われます。

 こうした日本の状況に対し中国ではどうか。もう一気に書きたいので私の視点で見る人気な資産運用の順番を下記に列記します。

<中国で人気な資産運用順位>
1位、住宅運用
2位、株式投資
3位、銀行の定期預金
4位、積み立て型保険

 2位と3位はともかく、1位と4位は見事なまで日本と逆転しております。こうした逆転が起こる背景としては、日中で真逆と言っていいほど異なる住宅市場の様相が原因です。

 中国はよく住宅バブルだと言われますが、実際にその指摘は正しいと思われます。住宅の値段はこのところ5年ごとに2倍くらいまで高騰しているように思え、早く住宅を買って、寝かして、売り抜けることが億万長者への最大の近道だと考えられ、事実その通りとなっています。現時点でも住宅価格は政府の様々な抑制策を跳ね除けつつ高騰を続けており、もし住宅を購入できるだけの資金があるのであれば誰もが住宅を資産運用に用いていることでしょう。
 2位の株式投資に関しては中国では成人の90%が手を出していると言われ、そのうち8割方が損をしながらも取引を続けていると以前に読んだ記事で書かれてありました。何故中国人がそれほどまでに株に手を出すのかというと単純にこれまでの好景気で割と儲けやすかった(以前は)のと、即日で値段が変わってキャッシュに買えられるという形態がせっかちな中国人の気質に合ったんだと思います。

 では3位と4位について。3位の定期預金に関しては街を歩いていると銀行の支店などが店頭で6ヶ月定期の広告をボンと出していることが多いですが、周りに話を聞いてみるとあまり人気は内容です。何故人気がないのかというと多分中国人としては6ヶ月も待っていられるほど気がなくないのと、利幅が株式投資の利益と比べると小さく見え、あとインフレ傾向が続いているためそれほど得したと感じられないためではないかと勝手に分析しています。

 そして4位ですが、これがある意味今日の記事の肝です。結論から言うと中国人は保険というものを全く信用しておりません。気持ちはよくわかるが。
 一応中国にも生命保険や疾病保険などはありますが、生命保険に関してはそんなに長期でお金を預けて運用するというのが性に合わないのと、果たして満期時に本当にお金が返ってくるのか疑問視しているようにも感じられます。ましてや死亡時に支払いがあると言われても中国人としては「死に金よりも生き金」という感覚が強く、遺族にお金を残すくらいなら自分が根こそぎ使った方がいいと間違いなく考えるでしょう。ある意味健全な精神なようにも見えますが。

 そして疾病保険に関しても、日本でも以前あったように中国でもいざ病気になった所で特約が不払いとなるケースがあるらしく、ちゃんともらえるのかという点で全く信用がありません。中国人の同僚に聞いたら親族がまさにこれだったらしく、一応掛け金は返ってきたそうですが疾病時に支払うと約束された特約のお金は支払われず、それだったら他のに投資しておけばよかったなどと話していました。

 このように考えると中国の保険市場は、一応大手保険会社とかはきちんと存在していますが、今後発展していくかという点では信用を勝ち得るかどうかというところにかかってくるでしょう。また逆を言えば、日本人は保険会社に対する信用が明らかに強いように思え、米国の保険会社がTPPによって日本市場への進出を狙うというのもわからなくはありません。

  おまけ
 新しいロジクール製のキーボードとマウスを一緒に購入してきました。キーボードは以前のと比べるとクリック感がやや軟らかいですがこれはこれでありです。マウスは結局元々使っていた「M185」というマウスとなり、結局これ使うのが一番でした。

2015年7月25日土曜日

ロジクールのマウス

 投げたり握りつぶそうとしたりと、普段の扱いが激し過ぎるせいかこのところマウスのホイールクリックの調子が悪いので今日新しいマウスを買ってきました。私は普段からタイピング量が異常であるのでノートパソコンにも外付けキーボードを付けて使用しているのですが、現在はロジクール製の「K270」という無線キーボードを使っています。これだと同じロジクールのマウスなら一つのUSBレシーバーでマウス、キーボードが同時に使えるので、今回新しく買おうとしていたのも必然的にロジクール製のマウスに絞られていました。

 欲を言えば外付けキーボードも右後ろについているヒンジを潰しているのでいいのがあればまたキーボードとマウスの無線セットを一緒に買おうと思いましたが、訪れたパーツショップでは良さそうなキーボードが売っておらず、仕方なしに「M215」というロジクールのマウスのみを70元(約1400円)買ってきました。これまで使っていたマウスは「M185」という騎手だったのですが、マウスは普段からずっと使うし、このところお金使う機会もほとんどないので敢えてちょっと高いのを選んでみました。結果的には失敗だったんだけど……。

 自宅に帰宅後、早速取り付けて感触を試してみましたが、はっきり言えばとても使えるマウスではありませんでした。具体的にどこが悪かったのかというとホイールが悪く、感度があまりにも良すぎるせいかほんの少し指が触れただけで画面がスクロールしてしまい、見ていて激しく気分が悪くなりました。
 普通のマウスのホイールならホイールを一つ動かすたびに3スクロールなり5スクロールなり上下させますが、何故だかこのM215は一つ、というか1段階上下させるまでもなくほんの少しホイールが動くたびに1スクロールでも上下させてしまい、意図せず指がホイールと当たる度に画面が上下にグラグラ揺れて、また普通にスクロールさせている最中もずっとグラグラと画面が揺れ続けて正直目に痛いです。

 幸いというか今日はそれほどストレスたまってなかったこともあってマウスを投げ飛ばすこともなく、「また買換えだね」とすぐに気分を切り替えることが出来ましたが、ロジクールの企業姿勢というかこんな製品を普通に販売することにちょっと疑問符を覚えました。元々、私はロジクールのマウスはデザイン性が皆無でダサく、言われているほどマウスの挙動も正確ではないと思うので嫌いでしたが、キーボードとセットでよく販売していること、またUnifingという機能でマウスかキーボードのどっちかが壊れてもレシーバーに追加できるので使ってました。けどこのM215のホイールの挙動に関しては明らかにおかしなレベルだし、こんなマウスをそこそこの値段で売ろうってのは果たしていかがなものかなとマルクス主義的に疑問です。別にマルクス主義者ではありませんが。

 そういうのもあってか今日もマウスとキーボードがセットの製品でいいのがあればそっちを買う予定でもあったのですが、キーボードの方がどれもよくなくてマウスだけ買ってきたらこのざまです。キーボードはなるべく大きくて、あと手元にワンクリックで音量調節やスリープが出来るボタンがあるのが希望ですが、そんな気の利いた製品は案外中国市場には転がってませんでした。

 最後にほんとどうでもいいですが買い物を終えて自宅に帰宅後、何故だかなんだか眠いよパトラッシュとなって午後二時から五時までそのまま寝入ってしまいました。このところ体調は良く、食欲もやけに高まって充実している最中でしたが疲れがたまっていたのか、はたまた体のモードが切り替わる前兆なのか、やけにぐっすり眠りつづけたのでまた明日から気合入れて副業に力入れようと思います。

  おまけ
 今年の旧正月にヨーロッパ旅行に出かけてベルギーを訪れた同僚と昨日話しをした際、「日本人はベルギーに行くと真っ先に少年と犬が死んだと言われる都市に赴き、パトラッシュと言いながら泣き始める。多分この寓話はベルギー人よりも日本人のが詳しい」と余計なことを教えておりました。

2015年7月23日木曜日

家庭で親から受ける精神的影響

 昨日は負の連鎖を避けるためにも教育において家庭と学校の距離をしっかりと置いて、学校は独立した立場で子供に教育をしなくてはならないという持論を勝手に展開しました。物のついでなので今日は、家庭で親から受ける精神的な影響についてまたかってな主張を述べていくこととします。

 私は教育学を学んでいないのであくまで社会学の目線でこのテーマについて語っていきますが、社会学において個人の心的発達を考える場合、両親のことを「重要な他者」という言葉で表現します。この言葉の表現する通りに子供が親から受ける精神的影響は計り知れないほどに大きく、人格形成において一般常識通りに無視してはならない存在だと考えます。
 何もここで私がもったいぶって言わなくても、子供というのは多かれ少なかれ親の影響を受けて、その性格も多少なりとも親に似てくるところがあるのは周知の事実でしょう。ただこれだけを語るのであれば芸がないのでここで一工夫したことを書くと、子供が親のことを慕っていようが憎んでいようがその性格は似てくる傾向がある、と私は考えております。

 仲のいい親子で性格が似てくるというのは素直に想像できるでしょうが、仲の悪い親子同士でも性格が似てくると言っても疑問に持つ方もおられるかと思います。しかしこれまでの私の経験から言うと案外この傾向はあり、口汚く片方を批判する姿がもう片方が同じように批判する姿と非常にそっくりだなとみて、「なんだかんだ言いながらよく似てやがる」とほくそ笑んだことも少なくありません。

 では一体何故仲が悪くても似てくるのか。やや極端な例ですが、暴力の激しい家庭なんかがこれを考える上でいいモデルケースじゃないかと思えます。父親が激しく暴力を振るう家庭に生まれ、小さい時から散々に抑圧されてきた子供が成長して同じように子供を持つと何故かかつての父親のように激しく暴力を振るう親となる、このようなケースを耳にしたことのある人は少なくないでしょう。とある教育本で、「暴力で教えられた子供は暴力で解決しようとして、会話で諭された子供は会話で解決しようとする」と教える内容があるそうですが、社会学的にこの過程を分析するなら説得手段がただ単に暴力や会話だったからではなく、単純に親の性格を受け継いだからではと私なりには考えます。

 仮に嫌う人間がいたとしたらそのような人間になりたくないと思うのが普通です。しかし実際には部活動の上級生から下級生へのしごきのように、理不尽な行為を受けた人間が長じて同じような理不尽な行為を課すことは珍しくはないでしょう。
 昔、哲学科出身の友人にこういう事例を話題にしたところ、「恐怖というのは憧れと紙一重だ」といったような内容を教えられました。曰く、暴力に晒されている間は恐怖を感じて強いストレスを覚えるが、その一方で自分もこのような強い人間になりたい、他者をねじ伏せたいという憧れに似た願望が芽生えるそうです。この説明を聞いてなんとなくそうかもしれないと思うと同時に、虐待とまで行かなくても仲の悪い親子間で「こんな人間になるもんか」と思いつつも案外、そのような立場に取って代わりたいという憧れに似た感情を持つ人も少なくないのではと思え、なんかいろいろな疑問が氷解したのをまだ覚えてます。

 何が言いたいのかというと、親子間で仲が良かろうが悪かろうがどうあがいても親からの影響を子供は免れ得ないと言いたいわけです。下手すれば憎悪という感情が強い分、仲のいい親子より仲の悪い親子の方が案外似た者親子になるかもしれません。

 ただもしそうだとすると虐待を受けた子供は将来虐待を必ず行うということになりかねず、人文主義者でもある私の立場からするとそれは認めることができず、必ず後天的な教育によって人間は真っ当に生まれ変われるはずだとして最初に述べた学校の独立性を担保することで矯正を行う価値を強調したいわけです。
 学校で矯正できるとはいっても、親からの影響を100%排除することはやっぱり難しいでしょう。それほどまでに親からの影響は半端なく強いだけに、だからこそ虐待するなどといったおかしな価値観を持つ親からはもっと積極的に子供を隔離させるべきだと思え、子供は社会で育てるものとして行政にもそのような強い権限を持たせるべきではないかと個人的に思います。

 最後に逆の話として、親からの精神的影響をほとんど受けない人間とはどういう人間なのかを考えてみます。勝手な推論ながら結論から言うと幼少時から自我が相当強い人間、言い換えるなら人の話を全く聞かないアナキン・スカイウォーカーのような人間がそれに当たると自分を省みながら思います。
 人の話を聞かないことに関しては周囲から定評がある私ですが、これも周囲から言われますがほとんど親から性格的な影響を受け継がずに今日までやってきてしまいました。なんで昔から自我が強かったのかというともはや先天的としか言いようがありませんが両親と比べても性格的に一致する部分はほとんどなく、価値観に至っては完全に正反対と言っていいほど異なっています。
 もっとも冷静に考えると別に両親に限らなくても、自分みたくハイリスキーな性格が一致する人間というのが周囲に誰もいないように思え、親からの影響云々を議論する以前なような気がします私に関しては。

 なお名古屋に左遷された親父とは趣味は合ってても性格なり行動原理は全く逆と言っていいほど違ってますが、アルコールに弱いという身体的な特徴は完全に遺伝してどっちも甘党です。辛い物は自分の方が親父よりやや耐性が強く、上海で一回火鍋屋に連れて行ったら途中から親父は何も食べなくなりました。

2015年7月22日水曜日

家庭と学校を隔離する必要性

 先日知り合いにちょっと妙なことを吹き込んだので、それとやや関連するネタとして家庭と学校を隔離する必要性について今日は書くことにします。結論から言って、学校は家庭とは隔離するというか一種独立した立場を維持しなければならないと私は考えており、みだりに保護者の意見を聞いたりしてはならない上にむしろ家庭に対して口出しするべき立場を取るべきじゃないかと思います。

 まず何でもってこんなことを言うのかというと、中国で普段目にする子供があまりにもバーバリアンばかりだからです。そりゃ子どもなんだからと自分でも思うものの、中国の子供の身勝手さは日本の子供とは次元が違い、温厚な自分ですらたまにハッサンの様に「とびひざげり」とか「せいけんづき」を全力でかましたくなることがあります。
 どれくらいひどいのか具体例を出すと、これなんか昨日ケンタッキーのレジ前に並んでいたところ、前列が子連れの親子でしたが子供の方は常に動き回ってて、レジの乗ってあるテーブルに飛び乗ったり、飛び降りたりを繰り返し、私がオーダーする版になっても横で飛び乗ったり、飛び降りたりしていて何やねんと思いつつ母親を見ると、そ知らぬふりして携帯を見ているだけでした。

 こういう例は中国にいると本当に多く、電車やバス内を全力で走り回って他人とぶつかってもやめなかったり、金切り声をやたらめったら上げ続けたり、所構わず5秒ごとに唾を吐いたり(これは大人も)と、ガチで文明がない状態とはこういう事かと見ていてつくづく思い知らされます。しかもこのように子供が好き勝手やっている横でその親は大抵はニコニコ見守ってたり携帯見てたりしていて、一向に注意する雰囲気がないのが見ていてほんと腹が立ってきます。
 数少ない例ですが、中にはちゃんと注意する大人もいます。自分が見たのは一回だけですが、高速鉄道の中で大きな声を上げる子供に対して、「電車の中だから静かにしなさい」と、教養のありそうなお父さんが注意したのを目撃しています。逆を言えばマジでこれっきりなんだけど。

 こうした中国のバーバリアンを見ていて思うこととしては、親が親だから子も子なんだろうというのが何よりも大きいです。こうした無作法を無作法と思わない親だからこそ子も無作法とは思わずバーバリアンとなる、いわばバーバリアンの再生産が際限なく繰り返されているからこそ中国は大人も至ってマナーが悪い人が多いと言っても間違いないでしょう。
 ではこうした負の連鎖を止めるにはどうすればいいのか。やはり一番重要な役割を期待できるのは学校教育で、家庭では常識であることを一般社会では常識ではないと突っぱね、きちんとした価値観を子供に培ってもらうことが文明化への第一歩でしょう。実際明治期の日本における学校教育はこうした面を多分に含んでおり、日本という国家意識を植え付けると共に地域ごとの妙な悪習やら迷信を取っ払い、「日本人としての常識」を全国統一的に作り出す役割が大きかったと思います。もっともその過程で妖怪が隅に追いやられた感もありますが。

 翻って現代日本。いじめによる自殺があれだけ大きく騒がれたにもかかわらず私の予言通りにやっぱりまた繰り返されるなど学校教育に対する信頼感がやや薄れてきていると共に、家庭の一般的な価値観をもっと学校にも反映すべきだというような声も高まっているようにこのところ思います。しかし私の意見はというと学校はやはり家庭とは一線を画した立場を保持するべきで、学校があくまでまともな常識を持っていることが前提ですが、家庭の常識の介入を排した独立した概念をしっかりと子供に伝える役割を持つべきだと考えます。何故なら明らかに社会の常識から逸脱した親も今もってな多いので、そうした親による負の再生産を食い止めるためにも学校は家庭の声を必要以上に聞いてはならないと考えるからです。

 このように考えてみると、いじめ問題のアプローチもちょっと方向性が変わった見方が出てきます。よくいじめ自殺が起こると自殺した生徒をどうして守れなかったのか、どうすれば守れたのかというのが議論となりますが、逆のアプローチをかけるとならば、いじめっ子をいじめることのない無難な人物に変えることはできなかったのか、この点についてももう少し議論があってもいいような気がします。
 私が何を言いたいのかは薄々読んでてわかるでしょうが、報道されている話を見る限りだと案外いじめっ子の家庭というや両親も「ちょっと……」と思わせられるような人が多いようにみえます。そうした親から悪い因子を受け継がせないような教育、繰り返しになりますが負の連鎖を断つ教育法についての議論もあってもいいのではと個人的に思うわけです。

  おまけ
 昔、ある友人に「子育てをしないライオン」の話をしたことがあります。どういう話かというと子育てをしないライオン(♀)は子供を生んでも子育てをしないので、結果的にその子供は死んでしまってそのライオンの遺伝子は後世に伝わず、一種適者生存のような形でちゃんと子育てをするライオンの遺伝子だけが後世に伝えられるというわけです。この話に友人、「うんうん、そりゃそうだね」と納得してたので続けて私は、

「子育てをしないライオンの子供は死んでいく。しかし、人間社会の場合だと行政とかが介入するので……」
「よせ、それ以上言っては駄目だ!」

 と、友人にガチでそれ以上話を続けるのを止められましたが、改めて思い返すにつけ当時も感じましたがいい友人を持ったなと思います。しかし現実問題として虐待を受けた子供は長じて自分の子に虐待を行う確率が優位に高いのは事実であるため、だからこそここで述べた「家庭と隔離する教育」というものをある程度確立させる必要があると案外昔から考えているわけです。

2015年7月21日火曜日

日本の経済犯罪に対する処罰の軽さ

 最近やる気のない記事ばかり書いてたのでたまにヒア真面目に記事を書こうと、今日はまだまだホットな東芝の不正経理問題について書きます。

 電機大手の東芝が社内で不正経理があったことにより決算発表が遅れたことは皆さんの記憶にも新しいかと思います。この問題で調査を行った外部委員会は組織ぐるみの不正で、また歴代の経営陣が問題を未然に防ごうとせず、むしろその原因を作ったとして責任があるとの結論を下し、また社内調査でも同様の結果であったことから本日、東芝の直近三代の社長がそれぞれの役職から辞任することを発表しました。
 個人的にこのニュースを見て思ったこととして、東芝は西田厚聡元社長以降は派閥間の争いが激しくなり、社長職を巡って暗闘が続いていたとかねてから聞いていたので、今回の問題もそれに端を発した物なのかなと考えておりました。ただ今回、直近三代がまとめて辞任するので、こうした派閥間争いも少しは緩和されるのかなという期待も持てます。

 こうした東芝単体の問題と共にこの事件で私が感じたこととして、「アメリカだったらなぁ」という比較した考えです。アメリカだったらどうなのかというと、一言で言えば即刻で東芝は上場廃止になっています。むしろ、「不正経理」、「利益の水増し」、「数年続いている」、「外部からの指摘を無視」、「役員も関与」というフルコンボであることを考えると、一体何をすれば東証で上場廃止になれるのか、かえってわからないくらいです。
 こうした東証の大手企業に対する異常な甘やかしぶりは何も今に始まることではなく、2011年に発覚したオリンパスの不正経理事件の際もあれだけ大きな事件で巨額の不正だったにも拘らずオリンパスは上場廃止を免れており、正直この時は目を疑いました。もっともオリンパスの旧経営陣はさすがに逮捕されましたが、逆に言えば経営陣が逮捕されるような不正事件でも東証は上場廃止にしないってことです。

 今回の東芝の事件も役員連中は利益水増しについて知らなかったと話していますが、外部役員が急激な利益の増加ぶりについておかしいと指摘していたにもかかわらず黙殺していた点を考えると知らなかったわけないでしょう。そのように考えると今回の東芝からも逮捕者の一人や二人は出てきてもいい気がするのですが、オリンパス程は長期間に渡って行われた不正経理でなかったので多分見逃されることになるでしょう。
 しかし仮にこれが米国での事件だったらどうなるのか。まず確実に逮捕者は出ていたと予想され、でもって逮捕された元役員は懲役で10年以上はくらっている可能性すらあります。一般の日本人が知ってるかどうかはわかりませんが向こうでは不正経理に対する処分は非常に厳しく、懲役30年とかでるのもざらですし、とんでもないのだと70年とか一生出られなくなるくらいの懲役が科されることもあります。

 私の目から見て経済犯罪に対する米国の処罰はきつすぎるのではと思う一方、日本の処分は逆に緩すぎるように思います。それこそ一年や二年程度の不正経理なら「知らなかった」と言って修正申告済ませればそれっきりですし、長期間にわたるものでも自ら辞任するなど社会的処罰を受けていれば逮捕はまずまぬがれます。そして何より、どれだけトレーダーを欺いたとしても、どんなことしたっても大手なら上場廃止にはならないというのはオリンパスの例で証明されています。

 こうした日本と米国の経済犯罪に対する温度差はどこから生まれてくるかですが、単純に資本主義が成熟しているか否かということよりも何に対する責任に重きを置くのかという点において両国で大きく異なっていることが大きいように思えます。
 言ってしまえば経済犯罪というのは個人に対する罪ではありません。企業が不正経理を行ったところで誰か一人が大きな損害を受けることもなければ権利を侵害されることもありませんが、トレーダー全体では大きな影響となる、いわば社会に対する不正なり裏切りです。私が見る限り日本人は個人が損をする、侵害されるということに対して強く敏感である一方、社会に対する侵害に関してはやや無頓着な所があるような気がします。

 それこそBSEの時とかぺヤングに虫が入っていた際などは激しく動揺するとともに強く憤りを見せますが、社会全体に対しては大きな影響があるものの自分には直接的な被害がまず及ばないような経済犯罪だとほとんど興味を持たず、また処分なども軽めで済ませようとします。私が何を言いたいのかというと、そもそも日本人は社会に対してそれほど帰属意識を持っていないのでは、だからこそ社会に対する不正があっても自分、もしくは身内など周りが影響を受ける恐れが無ければ全く意に介さないのではなんて思うわけです。

 この辺また次回でゆっくり語ってもいいですが、一言で「社会」といってもその範囲は個人によって変わります。私の場合は極端に広くて下手すりゃ「人類全体」を指すこともありますが、一般の日本人にとってすれば「家族」の枠を少し大きく広げた範囲、具体的に言えば「家族+職場」が彼らにとっての社会全体であって、それ以上は関知しない領域となります。
 もちろんほかの国も多かれ少なかれそれくらいの範囲がメインとなりますが、日本と米国で絶対的に異なっているのはエリートが認知する社会範囲で、やはり欧米のエリートは日本と比べるとここら辺で差があるように感じます。なお中国の場合、人が多すぎるのでエリートであっても認知する社会の範囲は割と狭く家族程度であることが多いですが、その分プレイべーとでの友人との紐帯が強いのでピンポイントに範囲が広い人もいる気がします。

2015年7月20日月曜日

千葉のマッドシティ~良文堂書店

 久々にこのブログの投票機能を作って、「新国立問題で誰が戦犯なのか?」というアンケートをトップページ右上部に設けたので、興味がある方は投票していってください。ぶっちゃけ、候補に挙げた全員どれも問題抱えてるような気がするけど。
  そんなわけで本題ですが、今日は松戸ことマッドシティ市民なら恐らく誰もが知っていると思われる、良文堂書店松戸駅前店を紹介します


 上記写真の良文堂書店は松戸駅東口目の前にあり、松戸駅とはコンコースが直結していて夕方くらいになると帰宅者たちが大勢目の前を通っていくのでいやでも目に入ります。写真はそのコンコースから取られた写真で、この入口から入ると良文堂書店の2階に入ります。

 この本屋の面白い所はなんと6階建ての本屋になっており、階層ごとに置いてある本のジャンルが分けられています。適当な記憶に従って書くと、確か1階は雑誌類、2階以降は文芸書、文庫、漫画、教育参考書、児童書などに分かれてたような気がします。最近行ってないからほんと記憶が曖昧。
 階層は2階ならばコンコースから直接入れますがそれより上は店内の細い階段を昇り降りしなくてはならないのでたまにしんどさを覚える時があります。ただジャンルごとに階層が別れているので捜したい本は割とすぐ見つかるし、雑誌を立ち読みする人とかに邪魔されずに店内を歩き回れるのは地味にいい点だったりします。

 あとこの本屋で特筆すべき点は、個人的には受験参考書の充実ぶりです。松戸駅前には大手予備校の河合塾松戸校舎があり、またその近くには予備校生寮もあることが影響しているのか、ほかの本屋と比べてもこの良文堂にはやたら受験参考書がずらっと置いてあります。私も赤本(大学別の過去問集)は全部ここで買って、関西の大学なんかよそではあまり置いてないのにここにはしっかり置いてあって非常に助かりました。

 オチらしいオチはありませんが、駅の真ん前にあるという立地上、電車で移動する前とか通勤途中に立ち寄るという意味では非常にいい本屋です。ただ松戸はやたらと本屋が多く、競争相手も多そうな気がするので内実はどうなのかなとちょっと気になっていたりもします。

2015年7月19日日曜日

かつて餓えた日々

 適当に書くネタがパッと用意できないというかさっき上海から帰ってきたばかりでもあるので、私が餓えていた学生時代の日々について少し書こうと思います。

 一言で言って、学生時代は本当に金がなかったです。別に使ってもよかったのですがわざわざ東京の大学を蹴って京都に下宿しながら進学した負い目もあったのでなるべくお金は使わないように節約し、差し当たって削りようのある食費は自分の気力の許す限り削っておりました。もちろん自分以上に削っていた人間もおり、具体的には「冷蔵庫は必要ない」と主張してやかんでスパゲッティをゆでていた友人もおりましたが、私自身はとにもかくにも余計なおかずを買わずに白米で乗り切る戦略を取り、そのせいか白米の消費量は一食で2合食べることがざらでした。

 またおかずも60円のコロッケとか、酷い時はキムチのみで乗り切ることもあり、大体夕方くらいになると今晩何を食べるのかという事ばかり考えるほどでした。ひどい時なんかはあまりにもお腹すいて夜眠れなくなったこともあり、また夢でたくさん食べて満腹感を感じた瞬間に目を覚ますという貴重な体験も経験しています。

 あとお腹がすくと甘いものに餓えるというか、お菓子への欲求が非常に高まりました。とはいえお菓子を買うと家系に直撃するため、如何に少ない投資で腹の足しになるお菓子が買えるかを友人などと必死で研究したこともあり、最終的な結論としてはホットケーキを大量生産するか、100円のビスケットを買うかというところに至りました。それでもホットケーキとビスケットだけでは飽きてくるため、具体的に言えばチョコレートが無性に食いたくなる時があり、ある日断腸の思いで「きのこの山」を買って口に入れた時は涙が出そうになるくらいおいしく、今でもあの時の感動というか味覚を覚えている程です。

 なんで今日こんな記事を書いたのかというと、今日たまたま寄った上海の森ビルことSWFCの地下にあるローソンで「たけのこの里」が売られているのを見て、「きのこの山」と「たけのこの里」のどちらが優れているかというのはある意味一つの日本の論点だろうななどと思い浮かべ、そういやあのときの「きのこの山」はうまかったなぁなんて思い出したからです。もっともここまで書いておきながら、私は「たけのこの里」の方が好きだったりします。