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2019年3月3日日曜日

長篠の戦いに関する考察

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       ∧_∧      r||__||.....| ノ     どうしてこうなっ・・・
       (     )     └‐、    レ´`ヽ
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 現在、上記AAのような議論が最も交わされている戦国の合戦を挙げるとすれば、それは恐らく長篠の合戦ではないかと見ています。具体的な論点は以下の通りです(カッコ内は私の意見)。

一、織田軍の鉄砲三段撃ちは本当に存在したのか(一部存在したと思う)
二、武田騎馬軍団は存在したのか(部隊レベルで、軍団レベルでは存在しない)
三、何故武田軍は撤退せず野戦に踏み込んだのか(単なる判断ミス)
四、何故武田は主力武将が軒並み戦死したのか(この後すぐ)

 ざっと上記のような論点に絞られますが、このところよく議論に上がるのは四番目です。何故かと言うと、武田軍は宿将を始め多くの武将がこの戦いで戦死しているのに対し、織田軍はほとんど誰も死んでいないほどの完勝を収めています。その一方、兵力の損耗で言えば武田軍が一万以上に対し、織田軍はほとんど戦死しなかったとする説もあれば、数千単位で実は発生していたとして実際には言われるほどの完勝ではなかったとする説もあります。
 実際、織田軍も戦死傷者がそこそこ出ていたと思われる要素はないわけでなく、というのも武田の武将の多くは織田・徳川軍の陣内で討たれており、これは味方を変えると武田軍は相手陣内にまで進軍して戦闘が起こっていたと示唆されます。論点一の鉄砲三段撃ちの疑義もあり、多量の鉄砲を運用したことは事実であっても一方的な掃射戦ではなく、実際には切合いも多かったとする意見も見受けられ、戦争の経過について議論が賑やかです。

 結論から言うと、自分は織田・徳川陣内でも激しい切合いが起こっていたとする説を支持します。何故このように考えるのかというと、陣形図と戦争結果、そして武田軍が取った戦術を考慮するとそれが適当だと思うからです。

 自分が改めてこの長篠の合戦を考えたところ、まず最初に疑問に感じたのは武田軍は何故中央突破しなかったのかという点です。武田軍は長篠城を包囲していたところ、織田・徳川の援軍が近づいてきた事に気が付き、迎撃するか撤退するかを議論して迎撃を選んだことで合戦が発生しました。
 この決断について、島津の退き口じゃないですが何故武田軍は中央突破してそのまま撤退という戦術を取らなかったのだろうかという疑問を持ちました。これなら相手に一発食らわせた上、安全な撤退も確保できるので一石二鳥になるように思え、また実際存在したか怪しいけど騎馬隊があるんだったら中央突破のほうが戦術として実行しやすいように感じたからです。

 こうした仮定を持った上で改めて武田の陣形を見ると、実は真逆だったというか武田軍は左右両翼に主力を配置して織田・徳川軍に包囲を仕掛けるような陣形を作っていました。この時点で非常に意外というか素人目的にも戦術としてありえないと感じたのですが、何故そう感じたのかというおと兵力差的におかしいからです。
 かなり意見が分かれていますが、兵力比較だと織田軍が3.8万~7.2万だったのに対し、武田軍は1.5万~2.5万です。ハンニバルのカンネーの戦い見たくうまく包囲隊形に持っていければそりゃしめたものですが、実際には兵力で大きく勝る相手に包囲戦を仕掛けるのは難しく、ましてや山間の川を挟む平地でそんなのやろうったって普通できるとは思いません。それこそ、相手兵力がまだ2.5万~3万くらいならまだ望めるでしょうが、種々の状況から察するに織田・徳川軍は武田軍の倍以上の兵力があったとされ、それほどの兵力差では包囲なんて望めるはずもなく、普通に戦ったって実際に勝てるのはフランスのダブー元帥くらいでしょう(アウエルシュタットの戦いで倍の兵力差がある敵軍とばったり遭遇し、自軍の倍以上の損耗を食らわせて完勝している)。

 ここに至りもう一つの疑問が出てきました。おわかりでしょうが、何故武田軍は包囲攻撃を仕掛けようとしたのかです。ちょっとくらいの兵力差ならともかく、現在類推される実際の兵力差からすれば包囲なんて仕掛けるべくもないほど離れているのにどうしてこうなった♪のか。考えられる理由としては、武田軍が織田・徳川軍の兵力を見誤ったからではないかと自分は思います。
 恐らく、武田軍としては相手は多くても自軍より少し多い、下手すりゃ自軍よりも少ない兵力ではないかと考えたのではないかと思います。実際にそのように判断したと思う節はあり、というのも織田軍は敢えて丘陵地帯に陣取り、野戦築城をした上で、後方の部隊を武田軍の視界に入らないようにしたと記録されています。実際に山間の地形であることを考えれば不可能ではないように思える上、こうした兵力を敢えて過小に偽装する戦術は古来から珍しくもありません。そう考えると、野戦築城も騎馬隊対策の防護柵というよりは、兵力を隠すための仕掛けだった可能性もあります。

 それ以上に、織田軍が敢えてそのように兵力を過少に見せる動機がいくらでもあることも見逃せません。鉄砲の多量配備、野戦築城を始め、明らかに織田軍は救援に来ておきながら武田軍を戦場で迎え撃つ体勢を取っており、如何に武田軍を誘引、というか攻めてこさせるかが肝心であり、そのため兵力を過小に見積もらせる戦術も意識的、というか最重要で実行されたとしても不自然ではありません。
 また過去の三方原の合戦でも、織田家は徳川家に援軍を送っていますが、連合軍の兵力は武田軍に劣っていたこともあって徳川家は大敗しており、そうした過去の成功体験も武田軍に影響したかもしれません。

 以上をまとめると、武田軍の真の敗因は鉄砲三段撃ちでもなく、騎馬隊の不在でもなく、相手兵力の過小見積りに伴い包囲攻撃を選択したという判断ミスではないかと自分は考えます。ある意味で織田軍は伏兵に近い戦術を取り、攻めかけてきた武田軍を自陣に誘い込んで鉄砲運用を含め余りある兵力で袋叩きにした、つまり自陣付近(陣内含む)でボコボコにしたのではないかという推察に自分は至りました。
 なお言うまでもないですが、武田騎馬軍団についてはその存在をかねてから疑問視しているため、騎馬突撃という戦術ははじめから考慮していません。武田軍は普通に部隊を動かして攻めかかってきたという前提で考察しています。

 ポイントを改めて述べると、やはり何故中央突破ではなく包囲攻撃を武田軍は選んだのかという点がキーです。何気に、中央には織田信長も結構前線に近いところに陣取っており、武田軍は位置をつかめなかったかもしれないけど中央突破を仕掛ける理由はあったかもと思ったのに全くそういう素振りが見えないことから、今回の考察に至りました。
 その上で、長篠の戦いにおける織田軍の最大の勝因は何かと言うと、やはり鉄砲というよりは伏勢、兵力の過小偽装による誘引にあると思います。武田軍の武将が数多く戦死したのも、敵陣深くに誘い込まれたと考えれば納得できるし、また通説より織田・徳川軍の損耗も多かったとする説も、伏兵攻撃を仕掛けたと考えれば自然でしょう(それでも完勝といえるくらい一方的だが)。

 今回、何故このような考察に至れたのかというと、やっぱり漫画の「ナポレオン-覇道進撃」を読んでるせいだと思います。この漫画だと包囲戦に持ち込むための駆け引きが非常に事細かく書かれており、何故成功したのか、失敗したのかがよく分かるように描かれています。でもって丘陵地帯での伏勢ですが、これが一番効果的に作用したと思えるのがあのワーテルローで、まさに決勝点となった箇所でもあるだけに、織田と武田の布陣図からみてはっとひらめきました。

2019年3月2日土曜日

言語を介さない思考

 「外国語のできないやつは母国語もできていない」というのはゲーテの言葉ですが、これはあながち偏見の入ったセリフではありません。人間、たとえ人生にどんな出来事があったとしても幼児期に最初に習得した言語が思考する際に使われる言語として使われ、生涯それが変わることはないと各実験などからも証明されています。逆を言えば、母国語が充実していなければ思考言語も未熟なままとなり、思考能力もある一定の段階で限界を迎えそれ以上は発達しないというか、ハイレベルでの思考処理を行うことはまず不可能となります。

 もっとも、それはあくまで「言語を介して思考」する場合に限ります。「言語を介さずに思考」する場合はその限りではありません。

 そもそも言語を介する思考とはなにかといいますが、普通に言葉を喋ったり文字に起こしたりせずに黙って頭の中で考える作業がこれに当たります。例えば無言で「今日のご飯は何にしようか」とか、「ヒナまつりの15巻は絵がものすごく荒れてて心配だったが16巻はやや持ち直したものの、かつて程の勢いはもうない」などと、文字スクリプトを起こすような感じで頭の中で考えることがこれです。
 恐らく思考の99%くらいはこうした「言語を介する思考」に当たると思いますが、残り1%の範囲に「言語を介さない思考」が存在すると私は考えています。

 では「言語を介さない思考」とはなにか。そもそも言語にならない思考作業を言ってるんだから表現のしようもありませんが、いくつか実例でいうと、やはりめちゃくちゃ賢い人ほどこうした思考をやってのけていると私は思います。
 これまで私が見てきた中でも何人かいますが、ものすごい早口で喋りながら説明している最中、突然ピタッと言葉が止まるようなタイプがまさにこういった言語を介さない思考をやっている用に見えます。いわゆる、「頭の回転が早すぎて、考える内容に口が追いつかない」ような説明をする人がこれで、こうした人は大概にして、聞いてる側からすれば説明内容が意味不明なのに本人はやたら納得したように説明していて、説明を終えるとドヤ顔かましたりします。

 思うにこうした人達は、思考言語以上に頭の中の情報の連結や分解速度が早く、そのため言葉足らずとなったり、発声が遅れたりするのだと思います。この場合、彼らの頭の中では情報処理は実際に行われているものの、その情報処理において各情報は頭の中で言語化というプロセスを経ておらず、本来なら「カレー+ごはん=カレーライス」となるところを「情報A+情報B=情報Z」という風に処理して、それからしばらくしてから「情報Z=カレーライス」みたいに判別しているのでしょう。
 まぁ中には思考言語能力自体が低くて、こうした情報のラベリングがただ単に拙く、「あれがそれでこうなってな」みたいに元阪神・オリックス監督の岡田氏みたいな話し方になってる人も少なくはないでしょうが。

 と、ここまで説明しておきながらなんですが、上記のように「思考言語能力が追いつかないから言語を介さず思考する」パターン以外にも、言語を介さない思考は存在すると考えています。端的に言えばそれは、ひらめきです。

 自分においては、多分思考言語能力が人よりは高いこともあって、言語を介さず思考する際は圧倒的にこっちのパターンが多いです。ではどういう風に思考処理しているのかというと、はっきり言えば「問題Aに遭遇した→対処法を検索→対処法BとCを発見→BとCを比較→対処法Bを選択して実行」となるべき処理を、「問題Aに遭遇→対処法Bを実行」みたいに、主に「比較」に当たる箇所をすっ飛ばして対処法Bを選んで実行し、その後で、「そういえばCもあったけど比較するに値しないな」と思い起こすというようになります。
 もっともこうした思考処理は「反応」とも取れるので純粋にひらめきと言えるかは微妙です。自分の中で真にひらめきだと思うのは、問題と対応がセットで思い浮かんで、最後に過程が出てくるようなものがそれです。

 ではこうしたひらめきパターンの処理はどう行われているのかですが、私なりの仮説を述べるとやっぱり二次方程式のような代数計算パターンが一番適当な気がします。大体、変数が二つか三つくらいあって、それら変数が含まれる代数式が5、6個ある状況、具体例を挙げると日本の賃金問題を考える資料や材料を5、6例暗記、同時想起した段階で代数比較が自動実行され、それら5、6例に共通する変動要因(=変数)が一気に導き出される感じです。
 なので本人としては代数比較を行っている自覚はなく、ぽんと変数X、Y、Zに当てはまる数字が出され、むしろその数字を見てこれらの数字が何に影響を及ぼしているのかという風に帰納的に考えることが多いです。この段階にいたり、初めて先程の5、6例の材料の代数式が認識できているような気がします。

 なんでこんな訳のわからないことを突然書き出したのかというと、突き詰めると推理や推測、分析における思考は代数式のように頭の中で処理されていると日々強く感じるからです。真面目な話、人と議論する際に私は常に代数式のようにして論点を整理し、議論で結論に当たる部分を変数と仮定してその変数を解き明かすようにして話を進めています。で、この代数式ですが実際には計算するよりも、途中でぽんとひらめいた答えを軸というか仮定にして途中式を分解するパターンが多く、総じて帰納的に処理しており、どうしてなぜそれがファンクションするのかという、言語化した論の組み立ては後回しにしていることが多いです。はっきり言ってそんなの、喋りながらゆっくりやればいいだけですし、総じて説明というか理由は後付であるとも考えているからです。

 最後に何が言いたいのかというと、一定の段階、自分の中では変数が二つの二次方程式モデルまでは言語を介した思考でも間に合うものの、変数が三つとなる三次方程式モデル、つまり三つくらいの要素(=論点)を同時並行で分析思考する場合、思考内容をいちいち言語化処理しようと思っても間に合わず、それこそさっきのように「情報A、B、C」のように敢えて言語化しないまま、言語を介さずに思考していかなければ処理が間に合わないと思います。
 なので非常に複雑かつ大量な要因が絡みつく問題を議論、分析する際は、こうした言語を介さない思考がどれだけできるかにある程度かかってくると私は考えます。とはいっても、意識してトレーニングしている人はほぼいないので、主張するだけ無駄ですが。

 さらに言えば変数三つで議論について来れる人間はほとんど限られているので、敢えてこの三次方程式モデルを使うとしたら意図的に論点を三つに増やして、議論相手を大混乱に陥れようとするケースくらいです。これはこれで、非常に物足りなさをこの頃感じるわけですが。

2019年3月1日金曜日

睡眠時間

 やはりちょっと神経がやられておかしくなっているのか、この二日間の睡眠時間がヤバイことになっています。具体的には、一昨日は夜九時、昨日は夜十時に布団に入り、翌日朝七時に起床しています。なお昨日は寝入ったのは夜十時ですが、実際には九時くらいから布団入ってゴロゴロしてました。

 後自分でもちょっと驚いたのが今日の昼。いつも会社で30分位昼休みに仮眠していますが、今日は完全に意識すっ飛ぶくらい寝入ってました。時間にしてほんの十分程度ですが、目が覚めた際に今自分がどこにいるのか、何をしていたのか完全に記憶が飛び、はっと時計と周囲を見て会社にいることを思い出すくらい寝入ってました。今までたくさん昼寝してきましたが、こんなの初めてです。

 やはり体調が悪いことからやる気も起きず、ゲームもこの一週間全く手を付けていません。っていうかやる気起きない。食事も、今時分がお腹空いているのかいないのかがはっきりわからず、とりあえず時間が来たから食べるようなのが続いていて正直面倒くさいとすら覚えます。
 昨日、一昨日に長く寝た甲斐もあって今日はやや元気ですが、明日とか郵便局とかを多分雨の中回らなきゃいけないので今から気が重いです。っていうかさり気なく一昨日、スーツのズボンの内股部分の接合部が破けててショックでした。多分太ももが確実に学生時代よりでかくなっているせいでしょうが。

2019年2月28日木曜日

米朝会談の結果について

 正直体調とともにやる気も出ないので今日もブログ書きたくありませんでしたが更新回数減ってるので無理くり書きます。

 さて本日ベトナム・ハノイで米朝首脳会談が行われましたが、結果は衆目の予想と違って完全な物別れで、何らかの合意はおろか共同声明すら行われずに終わってしまいました。日本の外務省も予想外の結果と述べていますが、それもそうだろうと私もすごく納得します。
 もっとも、結論から言えば今回のこの結果は日本にとっては最良の結果であると言えるでしょう。

 物別れに終わった原因は、北朝鮮側の譲歩案が一部各施設の廃棄に対して制裁の全面解除を求めたのに対し、米国側は全面制裁解除の条件には全面核放棄を要求したためと言われています。真偽や詳細については今後の報道を待つ必要があるでしょうが、個人的に気になるのは、何故階段前に北朝鮮側は余裕綽々、つまり合意できるという自信があったのかという点です。
 簡単に類推するなら再選を控えてトランプ大統領が成果を欲しがっているなどとの報道があったことから、容易に北朝鮮側の条件を飲むと思っていたのかもしれません。ただ、事前の報道では交渉の焦点は核放棄の実行前の制裁解除や経済支援の実行を行うか否か、要するに卵が先か鶏が先かという順番が焦点と言われており、やはり「全面制裁解除」という北朝鮮の要求が過大であったという印象を覚えます。

 日本側としては、「北朝鮮のミサイル放棄の代わり、核保有を認める」というシナリオが最悪でしたが、今回に関しては核放棄を米国はしっかり求めてくれ、なおかつ安易な一部制裁解除という妥協もなく、それどころか拉致問題も提起してくれたとのことで、満点この上ない結果だったと言えます。一方、韓国にとっては北朝鮮の融和路線が阻まれたこととなり、ムン・ジェイン大統領にとっては面白くない結果であるでしょう。
 では中国はどうか。こっちのメディアの報道を眺める限りだと、注目してないわけではないものの、日本とかと比べるとやはりその熱は低い感じがします。どちらかというと印パのカシミール上空での空戦のほうが大きく取り上げられており、その関係からかやたらとパキスタン推しの記事が書かれてあって面白いです。何気に自分もF-16とMig-21という単語見て興奮したし。っていうかまだMig-21って飛ぶんだ。

 今後についてですが、北朝鮮側としては今回の会談失敗は対面的には非常に痛手になる気がします。というのも先週辺りから北朝鮮国内ではこの会談や金正恩の動向が詳しく報じられており、大きな成果が得られること間違いなしとばかりに期待値を上げまくっていたからです。それが今回こうしてなしのつぶてで終わったわけですから、ストレスのはけ口とばかりにまた日本海とかになんかミサイルとか飛ばしてくるかもしれません。
 そしてそれに対して、中国とロシアがどう反応するかで、自分が見る限りだと米国以上にこの二ヶ国の方が北朝鮮の運命握っている気がします。

2019年2月26日火曜日

久々の一位

 昨日まで日本にいて昨日の夕方に上海へ帰国しましたが、なんか熱はないけど風邪引いたのか猛烈に体調が悪くなって、休みとっていた今日は自宅でほぼずっと寝込んでいました。休み取っててよかったと言えるんだけど、なんとなく休日を無駄に損した気がしてなりません。日本で買ってきた「スバル・サンバー」のプラモも全く手を入れられなかったし。

日本のゲームがいつの間にか中国でエロ認定されてた(JBpress)

 そんなわけで本題ですが、昨夜は前述の通りダルくて書きませんでしたが、中国ゲーム業界の2本目の記事として昨日上記記事を出しました。お陰様というかアクセス数で日間1位を久々に獲得できましたが、南京大虐殺とかキャッシュレス社会など関心の強い話題の記事が同日に配信された中でよく1位をもぎ取ったなと我ながらちょっと驚くとともに素直に嬉しかったです。このところほんんと1位取ることが難しくなっただけに……。

 内容に関しては記事の中であらかた書いているので今更付け加えることはないのですが、唯一書ききれなかった点として「熱血高校」の話があります。これは「熱血硬派くにおくん」シリーズというファミコンゲームのことで、現在の「グランド・セフト・オート」に代表される箱庭ゲーの如くゲーム内で何でもできる、具体的には通行人を「まっはぱんち」とかで殴ったり蹴ったり、溶岩に落としたりすることができるゲームでわたしが子どもだったころに非常に流行っていたのですが、意外にも中国でも遊んだ経験がある人が多く、話をふると、「やったことがある」と答えられる事が多いゲームです。
 このゲームについても記事で紹介し、「中国人はこのゲームを遊んで、日本はなんて暴力的な連中なんだと誤解しなかったのか、今更ながら心配になってきた」というコメントを入れようかと当初は考えていました。ただ文字数的にもきついのと、あんまりレトロゲームばかり紹介していては論点がブレると思い、泣く泣く排除しました。でもマジな話、中国の子供とかはあれが日本の日常とか思ったりしなかったのだろうか。

 一応来週にももう一方ゲーム記事を出す予定ですが、こちらは業界関係者向けというか一般向けではないゲーム業界の賃金比較記事のため、アクセスは正直期待できません。だからこそ一番アクセスが期待できる内容をこの二回目に配置して前後の記事を関連アクセスで増やそうという戦略をとったのですが、内容的、ビジネス的にはやっぱりこの次の記事が一番価値があると内心踏んでいます。まぁそういう内容のある記事ほどアクセスが取れないのですが。
 その次には既に歴史記事を出してて、こちらは日間アクセス1位を取る気満々の自身のある内容となっています。ため記事として先月に既に準備して出していた記事ですが、そのおかげでこの先しばらくは一切記事書かなくても大丈夫なくらい締切に余裕があったりします。

 一応、中国アニメ市場についても既に資料を準備していていつでもかける段階に来ていますが、友人にせっつかれている甲子園関連記事のほうがタイミング的に先に出るかもしれません。もっともそれ以前に、現在の体の怠さが早く抜けてくれないとこういう記事書く余裕がないので、健康が早く回復してほしいです。
 なんとなく、今の体調不良は燃え尽き症候群的なものもあるのかもという気もします。春節以降、あちこちから情報かき集めながらごく短時間で今回の一連のゲーム記事を準備しており、ちょっとやる気を出しすぎた気もするし。

2019年2月24日日曜日

100年に一度レベルで雨の多い上海

 前回、前々回の記事同様、この記事も2/19に書いている溜め記事ですが、これ書いている最中も外では昨日に引き続き雨が降っています。

 既にこのブログでも今冬の上海における異常な雨の多さについて何度も言及していますが、真面目に鬱っぽくなるくらい悪い天気が多い、っていうか太陽が見られずいい加減にしてほしいくらいです。せめて幸いだったのは、先週末はわずかとはいえ晴れたので洗濯物を無事乾かせましたが。

 中国でもこの異常気象について報じられており、それら記事によると昨年末から今年1月にかけての上海の雨量は記録開始以降史上二番目、前にこれだけ降ったのは1919年くらいで、実質的に100年に一度の異常気象だと書かれていました。
 真面目に今年の雨の多さは異常極まりなく、寒さには強い私とはいえ湿気も高いもんだから柄にもなく寒いと感じる日々が多いです。しかも雨の降り方も大体どれも激しく、昨日もお昼に出ようとしたらまだ弱めだったのでなんとかなるだろうと出て、弁当屋回ったところで急に強くなり、オフィスに戻った時には周りがみんな振り返るくらいびしょ濡れになりました。まぁ甘く見た私が悪いんですが。

 ただ、雨が多いとは言いながら雪は全く降ってきません。降ったのも去年11月に一回あっただけで、気温も多分その11月の降雪日が最も低かったような。そうした時期の点でも、今年の冬の天気は色々おかしいです。

2019年2月22日金曜日

書評「ドキュメント単独行遭難」、「山岳遭難の教訓 --実例に学ぶ生還の条件--」

 普段から企業の内部統制とかリスクマネジメントに関わる仕事をやってますが、その自分をして究極のリスクマネジメントとはなにか問われるならば、それはまさしく登山におけるリスクマネジメントだと思います。

  

 上の羽根田治氏の本はどちらもつい最近買って読んだ本ですが、前々からチェックしておりいつか買って読んでみようと思っていた本でした。どうしてここに至って最終的に手にとったのかというと、山岳遭難に関する後述するウェブ記事を読んでいたところ、その記事の著者がまさにこの本の作者である羽根田氏だったということに気が付き、この人の本はやはり買いだと思い立って即購入し、先週の土日に一気に読み上げました。

 ネットで見る限りですが、なんか最近ディアトロフ峠事件に関するウェブ記事をよく見ます。なんでもTV番組の「アンビリーバボー」で最近特集されたことがきっかけとなったようですがこの事件自体は前から知っており、というかこの事件に限らず山岳遭難事例に関する記事や報告書は以前からよく読みふけっていました。

 一体何故そんなに山岳遭難に執着するのかというと、単純に物語として面白いのがその最大の理由です。ふとしたきっかけや不運、準備不足などから一瞬で生死の狭間に放り込まれるのが山岳遭難であり、そうした生死をかけた場面で遭難者がどのような決断や行動をとったのかという記録はどれも非常に臨場感に富んでおり、下手な小説やドラマを見るよりずっと興味を惹かれます。何よりも、これら遭難記録は全てノンフィクションということも大きいです。
 そうした物語としての楽しさもさることながら、「一体何故遭難したのか」、「どうして生還できたのか」、「どうすれば生還できたのか」という分析はどれも示唆に富んでおり、自分を含めたヒトの行動判断傾向を考える上で知的好奇心が強く刺激されます。

 この辺はぜひとも実際に遭難記録を読んで感じてもらいたいのですが、多くの山岳遭難はほんの些細な判断ミスや準備不足で発生し、生き死にが分かれたりしています。ある携行品が持ってきたか否かで救助までの時間が変わったり、また天候のちょっとした読み違えと行動判断ミスで引き返せなくなったりと、山とは関係ない実生活においても思い当たるところがあるような単純なミスがほぼすべての遭難のきっかけとなっています。

 特にこの本を読んでて非常に胃がキリキリするという点として、正常性バイアスに関する言及です。正常性バイアスというのは、「多分なんとかなるだろう」みたいな感じで現実に置かれた状況以上に物事を楽観的に判断してしまう認知行動を指すのですが、山岳遭難ではこれが非常によくみられます。具体的には、

「なんか道間違えてる気がするけど、そのうちちゃんとした登山道に出られるだろう」
「登山届出すところ見つからないけど、普通に登って帰ってこられるだろう」
「なんか天気悪いけど、すぐ往復できるから問題ないだろう」

 自分で書いてて如何にも死亡フラグの立つようなセリフばかりですが、実際にこういった判断に基づく行動から発生した遭難事例が本の中では数多く紹介されています。特に2番めのセリフの事例なんか、山の中で動けないまま14日間のサバイバルに突入することとなっています。
 こうした正常性バイアスですが、山岳遭難と比べると半端なくレベルの低い話ものの、私自身も自転車で遠出している際にしょっちゅう体験しています。具体的には、

「なんか道間違えてる気がするけど、思い過ごしだろう」→方角自体間違ってた
「そろそろ休憩取りたいけど、もう少し走ってからでもいいだろう」→休憩場所が見当たらなくなる
「初めていく場所で地図ないけど、なんとかなるだろう」→案の定山の中で迷う
「予定到着時刻から遅れそうだからショートカットしよう」→行き止まりに突入して余計に時間ロス

 自分でも不思議なくらいにこうした判断を実際にやってしまうのですが、やはりどれも正常性バイアスが働いているという自覚があります。本の中の山岳遭難事例もまさに上記のような、一瞬立ち止まって考えれば無謀だとすぐわかるような誤った判断から、取り返しのつかない事態を招く例が多いです。
 そういう意味で、ヒトは何故正常性バイアスを働かせて誤った判断を下してしまうのかを考える上で、山岳遭難事例は追体験材料として格好の資料だと私は考えており、他に人にもそうした追体験をぜひとも勧めたいからこそこんな文章を書いています。

 そうした追体験を経た上で述べるなら、「ヒトは追い込まれれば追い込まれるほどリスクが目に入らなくなり楽観的且つ大胆になる」と断言できます。賭博で負ければ負けるほどのめり込むのなんかまさにその格好事例ですが、この現実を普段から意識しているか否かが正常性バイアスを抑える上では重要となるでしょう。
 このように、企業活動におけるリスクマネジメントにおいても応用できるというか、なまじっか生死のかかったサバイバル事例でインパクトも強いだけに、遭難事例を学ぶことはリスク管理上でも非常に有益だと普段から感じています。もっとも、さすがに企業の内部不正リスクに関してはいくら遭難事例を学んだところで追体験することは難しいでしょうが。できたら逆にすごい。

2012年ゴールデンウィークの遭難事故を検証する(日本山岳救助機構合同会社)

 大分話が脱線しましたが、今回紹介する本の作者である羽根田氏が書いたウェブ記事を紹介します。非常に長いコラムですが読み応えがあり、このコラムを読んで面白いと感じられたら最初に紹介した本も手にとることを強くおすすめします。
 最後にお断りというべきか、私自身は登山はおろかハイキングもほぼ全くやりません。もとより縁がないのもさることながら、さしたる訓練も受けていないのでやるべきではないのですがそれ以前に、こうした遭難事例の本を読むと「自分には向いていない」と強く感じます。

 そういえばこの前の記事で紹介した叔父さんも、大学入学直後に山岳部に行ったと話していました。歓迎会でしこたま酒飲まされた後、「じゃあこれ登ってみよう」とポルダリング強要されてヤバイと思ってすぐ逃げたと言ってましたが。