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2019年11月17日日曜日

中国語の動詞の見分け方の重要性

 最近自分語りが多いような気がするから、たまにはフラットな話題として中国語学習のポイントについて触れようと思います。なお前文を呼んで、「最近じゃなくいつもじゃん」とか思った人は私のことをよく理解してくれている人な気がします。

 さて単刀直入に結論から述べると、少なくとも日本人における中国語学習において最大の課題と言えるのは中級から上級への指導方法、テキストが極端に少ないという点にあると断言できます。初級から中級レベルの中国語学習テキスト(中国語検定4~3級、HSK1~4級)は非常に豊富であり、一般向け学習サービスもたくさんあるものの、こっから上に行くとなるとまずテキストが少なく、なおかつ指導方法もあまり確立されていないように見えます。
 それでも中国のドラマ見るのが好きだったり、私のように業務上で中国語使う必要ある人なんかは時間とともに上達していくのですが、日本国内にとどまっている人となるとなかなか中級からのステップアップが難しく、効果的な手段としては留学くらいしかないのが現状な気がします。

 その上で、私の場合は文章処理がメインということもあるので中国語の高難度な文章を読むテクニックをここでいくつか紹介すると、一番のポイントとしては「まず最初に動詞を見つけること」に尽きます。
 そんなの当たり前だろと思う人も多いでしょうがもう少し説明すると、中国語は言うまでもなく漢字ですべて構成されており、そのため動詞と名詞の区別が困難な言語に当たります。適当に拾ってきた文章で一例を用いると、

「动画动漫等行业迎来爆发式增长」

 上記文章には「增长」という言葉があり、これはそのまま「増加、増える」と訳されがちですが、実際には「成長」という意味です。「増加」と間違えるのは「增」という漢字の印象に引っ張られているだけで、明確な間違いです。なおひどい場合には常用漢字に直すだけで「増長」と訳す人もいますが、これだと完全に別の意味になります。
 話は戻りますが、「成長」と訳せる単語があるからこれが動詞だと思って、「動画アニメなどの業界が爆発的に成長するのを迎える」という風に訳す人もいるかも知れませんが、大きく間違いではないものの、これだと10%くらい少しずれた訳し方です。何故かというとこの文章の動詞は「增长」ではなく「迎来(迎える)」で、先程の「增长」は名詞として訳さなければならないからです。その為正しい訳は、「動画アニメなどの業界が爆発的成長を迎え……」という風になります。

 確かに「增长」という単語を「成長する」という動詞として扱うこともないわけではなく、むしろ結構な頻度で動詞として使われます。しかし上記の文章のように、普段動詞として使われる単語がそのままの形で動名詞(「~こと」)として出てくるパターンが中国語には多く、本来名詞として扱わなければならない単語を動詞として読んでしまって、全体の訳が崩れるパターンが多いです。
 それこそさっきの例文だと、「動画アニメなどの業界を迎え、爆発的に成長する」みたいに、動詞を二つつけて訳してしまうケースも散見されます。

 こうしたミスを避ける上で最も効果的なのは、最初に挙げた通り「その文章の中の動詞を見つける」ことです。同一対象に複数の動作を及ぼす(「調べ、分析する」みたいな)場合を除き、基本的に一文において動詞は一つだけです。そのため、まず何が動詞なのかをしっかり見つけ出し、その動詞を中心に前に名詞、後ろに目的語をつけてく具合に訳していくとミスが少なく訳せたりします。そのため読解、翻訳においては文章の腰に当たる動詞を特定することが重要だとよく周りにも言っています。

 その動詞の見分け方で敢えてもう一つポイントを挙げると、「并」という単語があります。これは接続詞なのですが、同じく接続詞の「和(及び)」と同一視して「及び」と訳されている事が多いですが、実際には順接として、「~し、」みたいに訳すとすんなり行きます。というのも「和」は「名詞+和+名詞」のように名詞同士を並列させるのに対し、「并」は「動詞+并+動詞」のように動詞同士を並列させます。
 そのため例えば「观看大熊猫幼仔,并拍摄视频」という文章だと、「パンダの赤ちゃんを観察するとともに、動画を撮影する」という風に訳せます。もっとも私はさっき書いたように「并」は順接の方が美しいと思うので、「パンダの赤ちゃんを観察し、動画を撮影する」と訳すでしょうが。

 この「并」という接続詞が実は動詞の特定で非常に役に立ち、さっきも書いたようにこの文字は動詞同士をつなぐ役割を果たすため、前後にある単語が確実に動詞であると特定できます。また基本的に「并」が使われるのは構造の複雑な複文であるため、複文文章構造を解き明かすのにもすごい使えます。先の例文だと「并」の直後に来ている「拍摄(撮影する)」が動詞と判断できます。
 なおこの単語も動名詞化することが多く、その際は「撮影」と訳します。

 問題は対となるもう一つの動詞の特定です。もっともここまで来ていたら文脈からすぐ「观看(観察する)」が対の動詞で、「大熊猫幼仔(パンダの赤ちゃん)」が目的語だとすぐ読めるでしょう。この例文はまだ状況がわかりやすい文章ですけど、法律や契約関係の文章だと状況がわからず、何のお金がどっちからどっちへどう動くのかとイメージしづらく、そういう際にこうした接続詞と動詞から主語や目的語を特定するやり方が効果を発揮したりします。

 もう一つこの動詞の特定がいかに中国語で重要であるかという理由を説明すると、中国語には漢字一文字の単語も珍しくありません。何が厄介なのかという、漢字二文字の単語1個を漢字一文字の単語2個にも読めてしまうことがあるからです。
 それこそさっきの「观看大熊猫幼仔」の「观看」も「观(観察する)」と「看(見る)」の二つの単語に分けて読むこともできます。その場合、「パンダを見る動物の赤ちゃんを観察する」という風に訳せないこともなく、意外とこうした単語の識別ミスでえらいことになるパターンが多いです。これを防ぐ上でも最初の段階で、「观看」二文字で一つの動詞と見分けなければなりません。

 以上のポイントは私が一定度中国語を学んだ状態で身につけた技術で、中級クラスの時はあまり意識していませんでした。そういう意味で上級クラスに踏み入る上で重要なテクニックとなりうると考え、ここで紹介することにしました。

2019年11月14日木曜日

10 years ago

 今日通勤中ふと、10年前の自分は何してたんだっけとか思いました。試しに十年前の今日このブログに書いた記事を見てみると、スーパーファミコンの「エキサイトステージ95」について熱く語っていました。近い日付ではPS3の「ガンダム戦記」のクソっぷりについても解説していて、なんかゲームレビュー記事が多いような気がします。

 話は戻りますが十年前の状況を軽く語ると、当時はまだ日本国内でサラリーマン、それも今とは全く関係のない物流関係の業務に携わっていました。新卒で入った会社で内定をくれた恩は感じてはいたもののやるべき仕事がまったくなく、一日中椅子に座って終わるだけということも珍しくない毎日で、当時も感じていましたがリアルに「髀肉の嘆」状態でした。
 挙げ句、その次の12月に会社側から頼まれて休日出勤してオフィスの引越を手伝うことになった際、恐らく本人も何もわからず無自覚に休日出勤する私と一緒に作業する同僚の批判を始めたある女性社員に抗議したところ騒ぎ出され、周囲がとりなすために私に対し向こうへ謝ってくれと言ったことから退職を決意しました。

 実際に年が明けてすぐに転職サイトに登録し、中国への海外転職に向けて動き始めています。もっともしばらくは本気で行けるのかなという不安もあったことから激しく行動しなかったものの、その後も同じ会社でやはり今考えても理不尽な目に遭わされ、会社に対する失望というよりは「このままここにいたら不要な責任を負わされるかもしれない」という危機感から転職先も決まらないうちに2010年の9月には退職し、中国へ渡ることとしました。

 改めて当時を振り返ると、「自分の才能の無駄遣い」という印象が強いです。このブログではJBpressの連載を始めとした執筆関連活動ばかり書いていますが、実際の私の企業内における能力については事務処理能力が際立っており、以前にデータ入力処理作業を任された友人からは「細かなミスが多いけど処理速度が桁違い」と言われましたが、実際どの会社に行っても文書はデータの処理作業、並びにそういったものの管理運用作業が周りと比べ異次元レベルで早かったりしていて、本来の業務作業能力以上に評価される事が多いです。
 今いる会社でも本来の業務は別なのに、最近はむしろ事務関連管理作業を頼まれることが多く、この前もある同僚から、「ネットでの情報収集作業は花園さんが強いと聞いたので……」と言われ、特定トピックの情報収集作業をやりました。はっきり言って自分の専門分野でない情報の収集だったのでこれでいいのかなと思いながらまとめて出したところ、割と向こうの意にかなってたようで「さすが(゜o゜;」と言われました。

 何がいいたいのかというと、そりゃ自分としては元記者とあって取材力や文章作成能力が一番評価されたいという欲求はあるものの、実際に会社の中で私が最も評価されるのは事務関連作業全般だったりします。私自身も周りと比べた場合は目立つくらい自分がこの方面に強いという自覚もあり、役に立てるのならこの能力を存分に活かしたいとは思っていますが、逆を言えば今までなんでこれだけどこでも必要とされ応用もききやすい能力を持っているのに、日本国内では一切評価されなかったのか、発揮できなかったのかが不思議でなりません。
 少なくとも単純な事務処理作業、それこそデータ入力作業で自分の右に出る人間はまずお目にかかれないと断言できるのですが、日本国内ではそうした作業が恒常的に割り振られることはほとんどなく、ある意味メインとなる技能の文書作成力も新聞社以外ではどこも評価していなかったでしょう。どっちの能力も、かなりわかりやすい面だと思うのですが。

 それらを振り返って出てきたのが最初の「自分の才能の無駄遣い」で、私自身がある程度自覚して実際にアピールもしていたのに、何故か日本国内では誰も私の才能と能力を使うこともなく、逆に無意味としか思えない作業や面倒事に私を巻き込むだけでした。そういう意味では早くに日本を出てこっちに渡ってきて正解であったでしょう。
 なおこの私の才能がこれまで活かされなかったことについては、どうも周りから私は「不器用なタイプ」と誤解されやすいことが原因ではないかと自他共に考えられています。実際、企業業務において私は比較的器用な方で、溶接から切断、マクロの組立からデータベース作成までこなせるのですが。

 このように考えると、10年前は失うものなぞ何もないとばかりに中国来ましたが、実際は自分の才能を埋もれさせるか否かの瀬戸際であったように思え、改めてそう考えると寒気が走ります。
 それにしても今の年齢になってみると、二十代そこそこの若造が何も持たずにいきなり中国来て働こうとするなんて、その勇気には感心するも若干呆れるような感傷も覚えます。気がついたら中国滞在は累計10年近くに及んで周りからベテラン扱いされるような年となりましたが、滞在歴なんて1年と3年では大きな差があるものの、3年と10年ではそんな大した差はないと考えており、無駄に長くいるだけと自分では考えています。それ以上に、平日普通にフルタイムで働きながら、未だ2週間に1回のペースでJBpressのコラム連載を継続する体力のほうが我ながらすごいと思います。

2019年11月13日水曜日

桜を見る会への批判について

桜を見る会中止 首相「私の判断」 「国会で説明を」の問いには答えず(毎日新聞)

 これまであまり言及しませんでしたが例の桜を見る会に対し、野党が連日批判を繰り返し、且つメディアがそれを報道し続けることに疑問を感じていました。何故疑問を感じていたのかというと、批判に対するトーンがやや強すぎるというか感情的に見え、批判すること自体は別としてここまで大騒ぎすることかという風に見ていました。

 仮に私がこの件で批判をするならば、公費を使った宴会であるのに参加者の選定がやや恣意的になりやすい傾向があるから、公平を期すために来年からは中止にしたらどうかという具合で行きます。これに抵抗するとしたら参加者をきちんと公平に選び、利権とかにつながらないようにしなければガバナンス面で問題があると付け加えるでしょう。
 然るに野党の批判とかを見ていると、これまでの参加者に誰が選ばれていたのかばかりやり玉に挙げ、なんとなく安倍首相周辺の個人批判をするための材料としか使っておらず、公平性、そして何よりも今後この会の扱いをどうするかについては言及が少なかったように思えました。

 また上記点のほか、自分が一番気になったのはなんでこの程度の問題でこんなにも大騒ぎしているのかという点です。この程度と言ったら変に反応する人もいるかも知れませんが、花見の宴会程度に費消する公費なんてたかが知れています。また花見に誘われたからと言ってものすごい恩義に感じる人もそんないるとは思えず、相手に対する影響力もそこまで発揮するかと言ったらまず発揮しないと断言できます。
 であれば、少なくとも公費の無駄遣い的な話をするならばもっと大きな問題とかにどうして切り込まないのか。批判するならするで、何故こんな小さな問題に全力を傾けるのに、本当にメスを入れるべき問題を無視するのかという点で野党、メディアともに激しく疑問に感じました。

国保料引き上げの真犯人、「ムダな医療費」を貪る人々の正体(ダイヤモンド)

 一例を上げると、上記記事にまとめられている精神疾患医療に対する公費支出に対しては私もかねてから疑問に感じていました。記事中でも「日本人は精神疾患にかかりやすく重症化しやすい」と書かれてある通り、治療費と入院期間が世界的にも桁外れに高く、実際に過去に深刻な疾患でないにもかかわらず入院処置を取り、保険料を国からせしめる病院がいくつも出ています。
 ただでさえ日本の財政は火の車であり、医療費に関しても今後の高齢化とともに急増することがほぼ確実な分野で、費用が急増することは仕方ないにしてもその急増の中に無駄がないかについて今だからこそ検証が必要な時でしょう。にもかかわらず花見一つでこれだけ長く大騒ぎしているというのは、呆れるを通り越してこの程度の水準かとつくづく思えてきます。

2019年11月11日月曜日

メガネフレームによる頭痛、失調、疲れ

また韓国人がいやがる!実は激しかった中国人の嫌韓(JBpress)

 本題と関係ないですが一応今日配信された記事なので紹介しておきます。元々、この記事は出すつもりではなかったものの韓国関連記事のフィーバータイム中なので、日本帰国時に編集部に「こういうネタもあるにはあるけど」と紹介したところ、ぜひ書いてほしいと言われたので書いただけです。アクセスもよくヤフコメも非常に伸びていますが、上記のような背景からあまり思い入れはなく、同じく今日配信された藤岡氏の「特報! 関西電力の調査委員長が積水ハウスでも暗躍」の記事のほうが読むべき価値が高いのにと思えてなりません。
 敢えて内容に一点だけ述べると、一番伝えたかった内容は「日本人客は『お触りが多いけど、お金をきちんと払ってくれるのでまだ許せる』」という下りです。前々から他の人にも聞かせてやりたいと思っていた下りで、「時は来た……」とばかりにうまく放出できてまじ嬉しいです。なおこの話を中国人女性から聞いた際、周りには他にも日本人男性がいましたが誰一人笑うことはなく、「まぁそうだろうな」とウンウン頷く程度の反応でした。そしてその中には、嫌がられずにうまくお触りする方法をよく熱弁するおじさんも含まれていました。

 話は本題ですが先々週末に自転車からダイブして怪我を負った私ですが、この際にまだ買ってから二週間も経ってなかった眼鏡を少しぶつけ、レンズは傷つかなかったもののフレーム右側に少し擦ったような痕がついていました。機能的には問題なく、また擦った痕も数日経って初めて気づくくらい小さなものだったのは良かったのですが、ぶつけた瞬間に眼鏡の鼻当て部に少し衝撃が伝わったのか、この部分がやや曲がってしまいました。
 曲がったものはしょうがないと思って自宅で私自ら鼻当て部を捻じ曲げて調整しましたが、これが結果的にはあまり良くありませんでした。それからしばらくして視界のバランスが目に見えて悪くなり、平日の仕事中も画面に向かって作業していて少し首を動かそうとしたらリアルに「ビキッ」って音が聞こえるような痛みが側頭部から首筋にかけて走るようになり、「もしかして転んだ時に神経傷つけたのでは?」と、少し心配になる症状を起こしてました。

 薄々、自分で調節したメガネフレームが合っていないのではとわかっており、あれこれまた捻じ曲げ直したりして調節していましたがこれがなかなか合わず終いにはメガネを掛けるだけで眼球が固まるというかストレスを感じて硬直するようになり、それに合わせて視界もどんどん合わなくなっていきました。
 もうこりゃ自分の手に負えないと思ってようやく今日眼鏡屋(Zoff)に行ってフレーム調整を頼んだたら非常にぱっぱとやってもらい、自分が気になっていた曲がり具合の箇所も何も言わずにきちんと直してくれて、ご機嫌な感じにしてくれました。

 具体的にいうと、左側の鼻当てがどうも根っこのところからやや右側に湾曲していたように思え、これのおかげで右目にかかるレンズの角度がおかしくなっていた気がします。最初しばらくはまだ気にせずいられたものの、日が経つにつれて前述の通り日常生活でも調子がおかしくなってきたので、やっぱメガネフレームでマジ大事だなと感じました。

 また転倒から一週間経ち、これ以外の怪我についても概ね回復しました。切った左耳の付け根はこのまま切れたまんまで、「あの千切れた左耳……奴は上海の花園だな」などとトレードマーク化することも危惧していましたが、ほっといたらかさぶたできてきちんとくっつきました。
 同様に強打して最初は動かすと痛かった右肩も、転倒から三日目くらいで動かす分には痛みはなく、寧ろ表面にできたかさぶたが服にこすれるのが痛かっただけで、今じゃかさぶたも剥がれて何も痛みなく動かせます。ただ割と肩に筋肉ついている自分だから皮膚を傷つけただけで済んだけど、下手すれば確かに骨とかに影響出てたような転倒だったと今は思います。

 まとめると、事故後一週間を経てようやくあらゆるバッドステータスが完治した気分です。今日出た記事よりも次回はもっとずっと大きくて内容のある記事ネタ取り扱うだけに、調子のいい状態に持ってこれたのは幸いです。

2019年11月9日土曜日

広告業に見る日本の金の循環

 大分書くまでに時間かかってしまいましたが、日本滞在中にテレビCMを見ていて感じたこととして、ネット関連企業、特にスマホゲーム関連のCMが多いなと感じました。
 他の人はどうだか知りませんが、「広告にお金かけれる→業界的に好景気」という図式をかねてから私は持っており、毎回日本に変える度にどの業界のテレビCMが多いのか常にチェックしています。一例を上げると2000年代前半のグレーゾーン金利が廃止されるまでは圧倒的にサラ金屋のCMが多く、その後の2010年前後は家電エコポイントの余波を買って家電メーカーのCMが極端に多い時代でした。

 ただ、昨今はテレビCMに対しスポンサー側も「お金をかけたほど効果が出ない」ということを認知し始め、費用対効果がはっきりとしたデータとして出てくるネット広告に力を入れるようになってきています。実際、ネット広告の表示技術も上がってきていることから最近はごく普通のブログとか見ていても、以前のポップアップ広告のような不快なものは減りながら、表示される広告数は増えてきている気がします。特にスマホ向けサイトの広告表示は微に入り細に入るようになってきており、2012年にアドウェイズに取材したときに「もうスマホ向け広告抜きには考えられない」と言われて当時ポカーンと聞いてたのを恥ずかしく思うくらいです。

 話は戻りますが、テレビCMもそうですがネット広告でも、単に私が漫画やゲーム関係のサイトに入り浸っているせいかもしれませんが、ネットゲーム関連広告がやたら多く見るような気がします。ちなみに会社のパソコンでは無駄に新規PCと奈良の物件サイトばかり見ているため、パソコンメーカーと奈良の不動産情報サイトの広告ばかり見ます。
 前置きが少し長くなりましたが何が言いたいのかというと、なんとなく金の流れがネットを中心にしながらネット関連業界内で完結しているような気がしました。具体的には、

ゲームなどネットサービス企業→ネット広告企業→ウェブサイト運営企業→消費者→ネットサービス企業

 こんな具合に、「ウェブサイト運営企業」は外れてくることもあるでしょうが、消費者を含む金の流れがこんな具合にネット内での完結が前より激しくなっている気がします。もっともこのサイクルが拡大するにつれて、通信量で儲けるドコモをはじめとする通信キャリアの儲けも大きくなる外部周辺効果ももちろんありますが。

 無論、情報やサービスの流れがネットを中心となることは自然の流れですが、逆を言えばネットに係れない業者は、実態としては社会に必要とされつつ需要もあるもののの、金の流れによる影響を今後受けてくるかもしれません。その上で、広告を主体とするマスコミなどの業界は、今後ネットに対する「従化」がより激しくなるでしょう。ネット業者がなければまともな商売にならなくなり、且つスポンサーも物やサービスによっては、広告業者を介さず自ら直接CM番組を作ってYoutubeなどで流したり自社展開することも考えられ、広告代理店は今ただでさえ厳しいですが今後はもっとさらに厳しくなると予想します。

2019年11月7日木曜日

佐野SAストライキ問題について

 先日、ニンテンドースイッチライトを自分が購入したという噂を聞きつけ同僚が話しを聞きに来たので、直接現物を持って見せて(=自慢)きました。その際、「何か最新のゲームを見せて(・∀・)」と言われたので、今年発売されたばかりの「伊勢志摩ミステリー案内 偽りの黒真珠」を見せたら、「え?(´・ω・`)」って顔されました。
 リンク先を見てもらえば早いですが、このゲームは徹底的にファミコン時代のゲームをモチーフに作られたゲームで、正真正銘最新のゲームソフトですが、中身は骨董品級な画面とシステムで作られた疑似レトロゲームです。

佐野SA、ふたたびストライキ決行へ「前回のストを正当な争議行為として認めて!」(弁護士ドットコム)

 話は本題ですが、今年夏よりストライキが行われようやく労使妥結したかと思いきや再びこじれにこじれている佐野SAのストライキ問題についてです。
 経緯については他の記事に譲るとして、この問題についてまず言えることとしては、佐野SAという目立つ場所だったから世間の注目が集まっていくらかの進展は得られたということです。仮に他の企業や目立たない売り場であればそもそも報道もされず、注目も世論の支持も得られずに経営側の一方的勝利に終わっていたと思われ、そういう意味では夏場における騒動関連報道は労働側にとっては追い風となりプラスに働いたと考えています。

 しかしそれだけの追い風があった、というより明らかに経営側が無能で問題あることがはっきりしているにもかかわらず、未だにこの問題が続いて労使対立が起こっていることには疑問を覚えてなりません。それこそ、融資を行っている金融機関などが間に立ち、つなぎ融資の条件として経営の沈静化を図ったりしないものなのか、それ以前に仮に私が銀行担当者であれば、経営陣の完全総退陣を要求すると思います。
 銀行以上に理解できないのは、件のケイセイ・フーズに発注をしているネクスコ東日本です。夏場の重要な時期にストライキという問題を発生させた上にその後の対応も疎かで、それ前に取引先との決済問題なども引き起こしているケイセイ・フーズに対して必要な是正措置を何故取らないのか。それこそ銀行以上に率先して仲裁に立つべき立場であり、サービスエリアという公共性の高いテナントを運営する立場からもどうしてもっとしっかり問題解決に動かないのか、はっきり言えば頭おかしいのではと思います。

 この問題に関して他ではこのように報じていませんが、内心で私は、ケイセイ・フーズの無能な経営陣以上にネクスコ東日本態度の方が疑問に感じます。これほど大きくなった問題に対してもこんな態度なのだから、案外ほかでもいろんな問題を抱えているのではないかと訝しむくらいです。

2019年11月5日火曜日

高度な理性とは

 理性的な人物だと言われれば、恐らくまず褒め言葉として受け取られるでしょう。では理性的な人物とは、どんな人が当てはまるのか。
 恐らくこうした問いかけをした場合、一番多く帰ってくると思う答えとしては「常識的な人物」ではないかと思います。しかし私に言わせると、常識というのは時代や場所によって変わるものであり、それこそ貧困国や戦地において日本の常識を維持する人間が「理性的な人物」として取られるかは果たして疑問です。

 では単純に「理性」が多い人間だったらどうか。そもそも理性とは何かというメタな議論へと発展していきそうですが、要するに論理的に考える人のことを指していると私は考えており、その意味で言えば「感情に流されない人」こそが理性的と言えるかもしれません。この場合の「感情的」とは、特に現代日本だと「めったに怒らない人」がそうした代表として扱われると思え、確かにこういうタイプの人なら「理性的な人」と言われても自然ではないかと思います。
 でも、敢えて嫌な言い方をすれば、いついかなる時も怒りを見せない人間が果たして理性的なのかという逆説を問うこともできます。それこそ目の前で親や子供が殺されながらも怒りを見せない人間は理性的と言えるのか、という風に問うこともできます。ただこうしたケースであれば、「怒りではなく悲しみを出すことが自然」として、怒りを見せずとも涙を流すという感情を出しさえすれば、怒りを抑えつつも親類への情をきちんと備えているとして合格、晴れて理性的な人物に認定されるかもしれません。

 ただ上記ケースにおける怒りにしろ悲しみにしろ、それは理性というよりかは感情があるかないかの議論であると私は捉えており、理性の有無の議論とは敢えて分けて考えた方がわかりやすいように思います。目の前で虐殺されるのを見て怒りも悲しみも見せないのはただ単に感情がないだけで、それはそれでやはり不気味な人間だと私も考えます。
 ではこの場合の理性があるかないかはどの点を見るのかというと、端的に言って大きく取り乱すか否かでしょう。怒りや悲しみを見せるとしても、「てめぇこのやろ絶対許さねぇ!」などといって戦車に向かって体当たりをかける人は情が強いことは認めるものの、私の中では理性的ではありません。怒りであろうと悲しみであろうと、無謀な行為や、論理的に明らかに逸脱した行為を見せるというのが理性的ではなく、憎い相手を殺そうとするにしても、死んだ者に涙を流すとしても、その目的に合わせて適切な行為を行い、なおかつ我を失うような慌て方をしないということが理性的であると考えるわけです。

 以上が理性的という言葉に対する私の定義ですが、ではここで、「高度な理性」とは何を指すことになるのでしょうか。要するに、取り乱さないことの程度が高いということで、どんなショッキングな場面においても取り乱さない人が、高度な理性を備えていると言えるでしょう。
 そういう意味では昔にも書いた気がしますが「罪と罰」のラスコーリニコフとナポレオンの比較が好例といえ、何百万人を死に至らしめながら平然と自らの野心を追求したナポレオンに対し、誰からも嫌われる金貸しの老婆とその妹を殺しただけで前後不覚になるラスコーリニコフでは、ナポレオンのほうが理性的だったということになります。

 この「罪と罰」の例は自ら手にかけた場合ですが、他人に手をかけられるという意味では最初の例のように、親族が殺される、知人が殺される、赤の他人が殺される、この順番でどこで取り乱すかでその人の理性が測られることとなるでしょう。
 また無理に殺人を例にしなくても、ジェイソンに会う、フレディに会う、花子さんに会う、貞子に会うというドッキリ恐怖系でも、どこで恐怖から取り乱すかでも測れるかもしれません。もっともこのキャラたちの格付は私にもよくわかりませんが。

 なんでこんな話をするのかと言うと、実は今、超ゴア系アドベンチャーゲームを買うかどうか悩んでます。ネットでチラ見しただけで戦慄というか声が出なくなり、ガチで目を背けたというか画面切ったほどの内容なのですが、「俺の理性はそこまでなのか?」と変な負けん気だして、こんなんでビビんねぇぞとばかりに逆に購入してやってやろうかという気に今なっています。もっともそういいつつ、あれ程の内容ならば触れない方がいいのでは、触ってしまうと逆に歪むのではという懸念も持っています。
 そうした妙なせめぎ合いを感じている最中ですが、少なくとも言えることとしてはやはり私は幼少より、そうしたホラーをはじめとするゴア表現系の映像やらストーリーをよく求めてきて、そうした物に触れるにつれて徐々にですが理性的になってきたという自負はあります。この前も紹介した「シークレットゲーム」でもプレイ中、少なくとも私は目を背けたり映像や表現に慄いたりすることは一切なく、ホラー耐性みたいなものは幼少時と比べると格段に強くなっています。

 ホラーやスプラッタ描写に触れ過ぎると性格がおかしくなる、残虐になるという教育論は昔から多いし私も別に否定しませんが、自分に関してはホラーやスプラッタ描写の行為に憧れるとかそういうのはなく、ただ単に「怖い、だからこそ見てみたい」という単純な興味からであり、恐怖を克服したいとかそういう気も別にあるわけではありません。しかし結果的にそうした動機や行動が「高度な理性」につながってるとしたら、意識して高めているわけじゃないけど、私は割と高度な理性を追い求めて生きてるんだなと思ったわけです。
 
 そんなわけで、そのゲームを買うかどうかマジ悩んでるわけです。本気でここ数年でかつてないくらいにドン引きしたゴア表現でしたが、だからこそ惹かれるというか、久々に高くてもやってみたいと思ったゲームです。まぁこうなったのも、「シークレットゲーム」が少なくとも自分が思ってたよりかはマイルドだったことも少なからず影響している気がしますが。