上のは四半期恒例の中国自動車統計記事で、記事内容については特段語ることはありません。強いて言えば、記事中にはわざと書きませんでしたが、燃油車の販売が落ち込む中でEVの販売台数が増加しているということは、調達した半導体など不足しがちな部品をEVへ優先的に回している可能性があるのではと見ています。だとしたら面白い動きで、この辺に関してはまた次回にも取り上げる予定です。
それで本題ですが最近流行りの「親ガチャ」という言葉について、それこそ片親だったり、物凄い虐待するような親であればこうした言葉を使って自らの不遇を嘆くのもまだ理解できますが、この言葉を使ってる人の大半は割かし普通の家庭で、少なくとも親に肋骨折られるような体験談を交えつつ自らの不遇を嘆いている人は見ません。そういう意味で、この言葉はごく一部を除き社会に対する甘えを期待した言葉であるように自分は見ています。
念のため書いておくと、自分は親に肋骨折られたことはないです。ただ代々やたら骨格の細い家系のせいか小中にかけて手首などを自らの不作為により数回骨折してます。なのに自転車で空飛んだ時は一切骨折らなくって逆にびっくり(´・ω・)
敢えて自分の育った家庭についていうと、金銭的には非常に恵まれてて進学などでお金が原因で断念するといったことはありませんでした。もっともそれでいながら学生時代は明らかに他の学生より厳しい資金状況を潜り抜けており、これはバイト代でほぼ全額自分の生活費を賄っており、消費を抑える必要があったからです。あと奨学金も借りていたけどこれは就職後1年で全額返済しており、奨学金が返せない等と言っている輩は完全な甘えだとはっきり認識しています。
話を戻すと、この「親ガチャ」を筆頭に自分が上手くいかない原因をなにかと周囲のせいにする風潮がこのところはびこっています。この風潮に対する自分の意見は半分同意するももう半分は上記の通り行っている人の甘えだと考えています。ではその分かれ目はどこかというと、その状況の打開のために何か行動を採ったか否かにあるとも考えています。
例えば私のケースで言えば、最初に入った会社は楽ではあったものの仕事自体がなく、何もやることがない勤務だったので、当時の年収から半減することが分かっていながら中国に来て仕事探しました。その結果、記者にもなれたし中国語も上達してそこそこ実力つけましたが、払った犠牲で言えばあのまま最初の会社にしがみついていれば絶対楽でしたでしょう。今はかなりマシな生活しているものの、ここまで来るための犠牲は多分他の人なら普通払えないものだと断言でき、自分より挑戦している人はもっとたくさんいるものの、自分なりにはそこそこ大きなハードルに挑んできたという自負があります。
そうした、自らの生存すら危うくするような打開的行動を採ったのか。なんとなく見ていると、このままじゃ良くないと考えながら何も対策せず、案の定あかんことになった人ほど「親ガチャ」という、本質的に自分の努力の可能性を完全に無視することになる言葉にすがろうとしているように見えます。冒頭でも書いたように、激しい虐待などを行う親の元で生まれた人たちであれば確かに人生における大きなハンデと考えるのも仕方ないですが、そうでない人間が親の教育方針が悪かったとか、支援が足りなかったとかいうのは、自己努力の放棄でしかないでしょう。
その一方で、日本国内だと自己努力だけじゃどうにもならないところもあるなと内心考えています。端的に言えば日本の妙な社会習慣がそれで、能力があろうがなかろうが、経歴や見てくれなどが採用を左右したり、就職後もよくわからない習慣で不要な残業などに巻き込まれたりする点から、パフォーマンスが発揮できない面が多々あると自分は見ています。
ぶっちゃけ自分に関しても、F1マシンにコインパーキングで後ろ向き駐車させられるような働かせ方された覚えがあります。あと就活時に、村田機械製作所の人間は学生を前に「ぶっちゃけ能力なんてあろうがなかろうが関係ないんだけどね( ^ω^ )プッ」とか言ってたし。
ただ問題なのは、こうした勤務パフォーマンスを下げる悪習に対し、「誰かが何とかしてくれるのを待つ」人が多いという点です。それこそ若者同士で徒党組むなりして余計なことはやめるよう運動したりすればいいのに、そういう行動を誰も取らないので政治家とか芸能人が言及するのをひたすら待つのは見ていてなんだとか思います。派遣問題にしても、私がやるまで誰一人マージン率についてきちんと調べて問題性について訴える人なんていなかったんだし。
結論をまとめると、上手くいかないのは周りのせいだとは、行動を採った人間のみが言っていいセリフだと自分は考えます。その上で自分は、もう矯正するのは不可能だから一度全部壊した方が早いだろうという結論に至るとともに、そうした世直しはもう自分の仕事じゃないと割り切ることにしました。自分だけが大事というつもりはありませんが、どう呼び掛けても行動を採らない人たちまで救おうとする価値はあるのかという結論にもう5年くらい前に至っています。