なんでこんなに自分が自我について固執するのかというと単純に自分が日本人としては異様なほど自我が強いゆえです。子供のころからこの傾向ははっきりしており、異口同音に周囲の考えに染まることを良しとせず、自分が納得しないものには徹底的に拒否することが多くありました。そのためよく頑固だなとと指摘を受けることが多いですが、私個人としてはむしろ人の意見に耳を傾ける方であり、また自分の決断を変えないのも自分なりに変えない理由を確実に持っているため、そうした変えない理由が合理性を持たないことをきちんと説明できずに頑固だと批判する人間の方に問題があるといつも考えています。
なお自分の自我が強く育ったのは先天的なものが強かったと思いますが、後天的な影響としては周囲に極端に理解者が少なく、周りから否定されることが多かったため防衛反応的に自我が強くならざるを得なかったせいだとも考えています。そういう意味ではいわゆる差別階級に属すグループほど自我を強く持ちやすいとも考えています。
話を戻しますがそんな風に自我について長年考えてきましたが、そもそも自我とは何かということについても長く考えてきました。試しにネットでこの問いについて検索してみると自己認識とか欲求規範とかやたら難しく書く人が多く一見して理解し辛いものが多いのですが、私に言わせればその説明は一言で事足ります。もったいぶらずに述べると、自我とは究極的には「不文律」において他ならないと考えています。
わかりやすいたとえを一つ出すと、自我のない子供は万引きなど盗む行為を悪いことだとは思わないとよく言われます。一方、自我が成熟して分別のある大人は盗みは悪いことだと認識して実際に窃盗行為を働く率で言えば万引きする子供に比べれば低くなるでしょう。この自我のない子供と自我のある大人を分けるものは何かといえば、「盗んではならない」という、ちょっとやそっとでは変わらない価値観や判断基準があるかないかという一点以外にないと思います。
もちろん大人でも餓えや借金などのっぴきならない事情があれば窃盗を行う確率は高まります。ただそうでない場合に窃盗行為を抑えているのは「盗んではならない」という価値観や意識がそこに存在するからで、多少の欲求や周囲の誘いがあっても影響されずにこの価値観が守られ続けるという状態が「自我のある」状態と言えるでしょう。
上記の例はわかりやすく社会倫理にもとった価値観を出しましたが、これに限らず「周囲が何と言おうと、どんな状況だろうと影響されずに貫かれる価値判断基準」となる各人における不文律こそが、その人が持つ自我を形成する構成要素であり、それらの集合体が自我だと私は考えています。言い換えるなら、こうした不文律が多ければ多いほど自我が発達している人と言え、逆に少ないほど自我が弱く、周りに流されやすい人になるということになります。
もう少し自我と呼べる不文律の例を挙げると、目玉焼きにかける調味料について誰に何と言われようと醤油を選ぶ嗜好のような価値観も当てはまります。また仏像を粗末に扱ってはならない、地球は反時計方向に自転する(絶対的科学知識)、緊急時は弱い女性や子供の安全を優先するなど、周囲の意見に左右されずに一貫して持ち続ける嗜好や価値観、こういったものが多ければ多いほど個性というものははっきりしてきて、自我というのも形成されていきます。
最も根源的な不文律はやはり生存欲求で、誰しも自分が死ぬような選択肢よりは生存につながる選択肢を選ぼうとします。こんな具合に、実際の選択や価値判断に際して優先する、または絶対に曲げようとしない不文律というものが自我の正体で、それがどのようなラインナップになっているかによって各人の個性も分かれ、個別の性格も生まれるるものだという風に考えています。
以上の観点に立ったうえで述べると、一般的に自我が強い集団はなにかというなら、一番はっきりしているのは信仰者こと特定の宗教を信じている人です。宗教というのはいわば不文律のハッピーセットであり、神は正しいとか世界はどのようにできているかなどの不文律を信者にまとめて与え、また信者もそうした教えを周囲に否定されようがそうそう簡単には曲げないため、宗教をやっていない人に比べたら確実に多くの不文律を抱えていて自我が強い人が多い傾向があると言えます。
この影響なのか、実際海外勤務において強いのも宗教やっている人だという統計結果がはっきり出ており、私の目から見ても中国で活発に活動する人はキリスト教徒の人が多い印象があります。不文律が多くて自我が強い分、周囲の環境や雑音に流されず自分を保っていられるため、これまでとは価値観の異なる環境においても自我の弱い人と比べあまりストレスを受けないのだと思います。
なお日本人においては無宗教者だと自認する人が多く、だから他国と比べても自我が弱い傾向にあるのかなとも穿ってみています。
注意として書いておくと、不文律が多くて自我が強い人間が必ずしも優れているとは限りません。男性に比べ女性は劣るとか陰謀論などの偏った価値観を持ち続けるのは周囲のみならず当人も不幸にすることが多く、また前述の通り不文律は価値判断基準とも言え、それが無数にあることで優先すべき基準を見失って誤った判断に至ることも十分考えられます。不文律がなさすぎるのも問題ですが多すぎるのもまた問題であり、優れた自我というのは優先すべき価値判断基準(不文律)を必要十分に持っている状態だと私は考えます。
敢えて最重要となる不文律を挙げるなら、私はやはり合理性だと思います。自分にとっての合理性と集団のための合理性のどっちを優先するかでまた変わってきますが、個人か集団か内容が変わるものを除くと、単純にどっちが長期視点でプラスなのかという判断基準が一番安定的且つ害がないと考えます。
具体例を挙げるとさっきの盗みで言えば、短期的にはノーコストで物を得られますが長期的には信用を無くす、前科がつく、賠償に迫られるなどでマイナスとなり、このプラスかマイナスかの計算をちゃんと長期視点で行うという不文律こそ一番重要な気がします。もちろん盗まなければ飢え死にするような状況においては短期的にも長期的にも盗む一択であり、盗んででも生きるべきだと考えますが。














