2026年9月3日木曜日

「みいちゃんと山田さん」のアニメ化を巡る物議についての意見

 なんか中国でも人気を得ているというアニメ放映中の「スーパーの裏でヤニ吸う二人」のタイトルを見るたびに、「スーパーの裏でカニ食う二人」という作品を出したら売れるのではという妙な期待を毎回抱きます。なんかセリフが極端に少ない作品になる気がするけど。

 話は本題ですが過去にこのブログでも何度か書いた「みいちゃんと山田さん」という作品についてですが、こちらアニメ化が発表されたところ障碍者を題材にした作品であるがゆえ議論となっており、障碍者団体からは知的障碍者に対する誤解を広げる可能性があると声明が出されるなど賛否両論が出ています。
 やや皮肉な言い方をすると、この作品は先日公開された最終話の結末があまり評判がよくなかったのですが、それ故にこうしたアニメ化に反対であったり懸念を示す声に抵抗するようなアニメ化を推すファンの声が若干少ないような気がします。もし結末がよければもうちょい肯定派も多かったように思うものの、締まりの悪さから「このままアニメ化されなくてもいいんじゃね(´・ω・)」的に反応する人も少なくない気がします。

 なお私自身もあの結末を面白いとは感じず、中盤までの目覚ましい表現力が何故こうなったと残念に感じました。ぶっちゃけ漫画太郎氏がやるようなオチで、ギャグマンガならともかくこの漫画のジャンルでやるオチじゃない気がします。「チェンソーマン」第二部もそうだったけど、最近結末が悪くてそれまでの作品全体の評価すら落としてしまう作品が多いです。

 話を戻しますが上記の通りみい山のアニメ化についてはやや否が多めの賛否両論となっていますが、結論から言えば自分はアニメ化すべきではという立場を採っています。何故この立場を採るのかというと、一に表現の自由、二に人を傷つけずして名作なしという観念があるからです。

 一つ一つ説明していくと、まずこの作品の否定派における最大の主張は知的障碍者に対する差別を助長するというものです。知的障碍者という機微なテーマ故に避けられない議論ではあるものの、仮にこの主張を通してしまうなら、周りに迷惑をかける知的障碍者のキャラクターは一切描けなくなる気がします。もちろん出てくる知的障碍者キャラ全員がトラブルを起こすような性格最悪なキャラクターに描かれているなら話は別ですが、すくなくともみい山では温厚な知的障碍者キャラも出ており、知的障碍者全員が社会にとって害をなす存在とまでは描いていません。
 加えて言うなら健常者であろうと知的障碍者であろうと、周りに迷惑をかけまくるトラブルメーカー的な人間は現実に存在します。そうした現実に存在するという事実がありながらそのようなキャラクターを描いてはならないとするのは現実を否定するような行為であるし、表現の自由も大きく制限してしまう価値観です。みい山をみて知的障碍者はみんなトラブルメーカーだと誤解する人が出てくるかもという人もいるかもしれませんが、そんな人間は何にだって誤解するでしょうし、いちいちそんなのに付き合っていたら何の創作も行えなくなります。

 仮に知的障碍者は社会にとって害悪で淘汰すべしみたいな主張を作品を通して出されていたら、私もアニメ化とかするのに反対の立場を採ります。しかしみい山はそこまでのレベルではなく、また実際に存在するレベルの人間像を描いているように見え、現実を描写することを否定するというのは上記の誤解を防ぐよりも危険なことのように見ます。アニメ化について望ましくないという意見を主張することは自由だし何も問題ないとは思いますが、絶対に放映してはならないといった差し止めを求める主張は逆に行きすぎであるように思います。

 第二の意見に話を移しますが、こちらに関しては誰か言う人が出てくるだろうと思ったものの誰も出てこなかったので言えば、さっき口に出した「チェンソーマン」作者が書いた「さよなら絵梨」に出てくる主張です。この作品で自作映画を公開して「傷ついた」、「むかついた」などと観衆から不評食らった主人公についてその父親が、

「創作って受け手が抱えている問題に踏み込んで笑わせたり泣かせたりするモンでしょ?作り手も傷つかないとフェアじゃないよね」

 というセリフを言いますが、これは本当に創作における肝といえる部分で「さよなら絵梨」においても核心的なテーマだと私は考えています。

 みい山についてその知的障碍者の描き方に不快感や傷ついたと感じることを理由にアニメ化に反対する声も見られますが、この点に関してはそれは違うように思います。上記のセリフのように創作で人の心を打つためにはそかなり深く踏み込まなければならず、人によっては作品に触れたことで傷つくと思うくらい心を抉る必要があります。逆に人の心を全く傷つけない無害な内容というのは基本駄作で、その後記憶にも全く残らないでしょう。ある意味で賛否両論となるのは、それだけその作品が優れている証拠でもあります。
 過去の名作と呼ばれる作品、それこそダンテの「神曲」なんか当時の宗教関係者からすれば腹立たしいことこの上ない内容だったでしょうが、だからこそ名作となっています。またドリフの番組も俗悪番組などと大人から言われましたが、現代において否定する人は逆にいなくなっています。

 前述の通り、みい山を見て面白いか以前にその描き方に「傷ついた」という人はそこそこいるようで、そうした人たちがさっきの「さよなら絵梨」のセリフのように作者を批判したりするのも自由だし、それもまた必要なことだと思います。しかし傷ついたことを理由にアニメ化差し止めを求めるというのはちょっと飛躍しすぎであるようにもみえるし、人を傷つけない作品ばかりを見て何が楽しいのかと私には思え、「人の心を傷つける作品」だからという理由でその作品を全否定してはならない気がします。
 もっとも、先日の小学館のマンガワン問題はさすがに別です。あれは明確な犯罪行為による被害者がいるにもかかわらず、その事実を隠したうえで被害者の意向を完全に無視し、社会的制裁からも回避しようとするような行為であり非難されて連載打ち切りとなったのも当然だと思っています。

 以上がみいやまアニメ化についての自分の大まかな意見で、いろいろ意見はあるし全く理解できないないわけではないものの、アニメ化を差し止めるほどの問題とまでは感じないため、アニメが売れるというのならアニメ化すればいいのではという風に考えています。ただ自分の中でもこの作品について否定的な見方がないわけでもなく、それは作者の亜月ねね氏の過去問題です。
 アニメ化否定論者の意見の中でも大きな部類に入ると思いますが、この漫画の作者は以前にツイッターで水商売万歳などといったやや過激な主張をしており、知的障碍者を差別しているという意見もこの時のツイッター漫画が主な槍玉となっています。私としてはこういう意見が出ても確かに仕方ないかもと思ってみていましたが、作者の意見もまた一つの意見だとみて、そこまで否定的には見ていませんでした。当初は。

 そしたら作者と編集部の方が上記の意見に怯んだか、過去のツイッター漫画で作者は作画だけしかしておらず、原作者は別にいるなどと責任回避ともとれる発表をしてきました。この主張はそれまでの発言とも整合性が取れておらず、はっきり言ってしまえば嘘としか思えない内容で、責任を回避するため咄嗟に言いつくろった虚言だと私は思っています。この発表を見て、どうしてこんな誰も信じるわけでもない虚言をここにきて弄すのか、また自分自身の過去を否定するというのはどういうことかと感じ、批判に耐える度胸がないというのなら目立たぬようアニメ化もやめたらどうだというような感情を覚えました。
 前述の通り知的障碍者の描き方について私はそこまで気にしませんでしたが、上記の作者と編集部の対応には呆れたというか根性のない連中だと思え、この点に関しては私もみい山について否定的に見ています。また「さよなら絵梨」のセリフを引用しますが、いい作品を描こうとしたら多少なりと観衆を傷つけることとなりますが、その傷つけた観衆から来る批判に耐えられないというのなら初めから創作なんてするなと言いたいです。

 最後にちょっとベクトル違うかもしれませんが、上記の通りみい山は作品そのものより作者の人間性に対する批判も大きい、っていうか多分こっちのが強いです。これを見ていて思ったのが漫画家の平野耕太氏で、彼の作品もよくアニメ化されていますが以前に平野氏はよく「江川達也が死刑にならねぇかな」といったことを平気で何度も口にしていましたが、アニメ化に際して彼の人間性を問う声は全く聴かれませんでした。なにゆえ(´・ω・)

2026年8月31日月曜日

突き詰めると、自我とは何か?

 最近書くことは減っていますがこのブログではこれまで自我に関する記事をたくさん量産してきました。主に教育関連の内容で、エリートには膨大な知識だけでなくそれをどう運用するかという判断力こと自我も育成する必要があるとか、日本の教育の究極目的は個人の自我を叩き潰すことにあり組織に埋没する人間を育成することが大方針などと、やたら物騒なことも書いていました。
 なんでこんなに自分が自我について固執するのかというと単純に自分が日本人としては異様なほど自我が強いゆえです。子供のころからこの傾向ははっきりしており、異口同音に周囲の考えに染まることを良しとせず、自分が納得しないものには徹底的に拒否することが多くありました。そのためよく頑固だなとと指摘を受けることが多いですが、私個人としてはむしろ人の意見に耳を傾ける方であり、また自分の決断を変えないのも自分なりに変えない理由を確実に持っているため、そうした変えない理由が合理性を持たないことをきちんと説明できずに頑固だと批判する人間の方に問題があるといつも考えています。

 なお自分の自我が強く育ったのは先天的なものが強かったと思いますが、後天的な影響としては周囲に極端に理解者が少なく、周りから否定されることが多かったため防衛反応的に自我が強くならざるを得なかったせいだとも考えています。そういう意味ではいわゆる差別階級に属すグループほど自我を強く持ちやすいとも考えています。

 話を戻しますがそんな風に自我について長年考えてきましたが、そもそも自我とは何かということについても長く考えてきました。試しにネットでこの問いについて検索してみると自己認識とか欲求規範とかやたら難しく書く人が多く一見して理解し辛いものが多いのですが、私に言わせればその説明は一言で事足ります。もったいぶらずに述べると、自我とは究極的には「不文律」において他ならないと考えています。

 わかりやすいたとえを一つ出すと、自我のない子供は万引きなど盗む行為を悪いことだとは思わないとよく言われます。一方、自我が成熟して分別のある大人は盗みは悪いことだと認識して実際に窃盗行為を働く率で言えば万引きする子供に比べれば低くなるでしょう。この自我のない子供と自我のある大人を分けるものは何かといえば、「盗んではならない」という、ちょっとやそっとでは変わらない価値観や判断基準があるかないかという一点以外にないと思います。
 もちろん大人でも餓えや借金などのっぴきならない事情があれば窃盗を行う確率は高まります。ただそうでない場合に窃盗行為を抑えているのは「盗んではならない」という価値観や意識がそこに存在するからで、多少の欲求や周囲の誘いがあっても影響されずにこの価値観が守られ続けるという状態が「自我のある」状態と言えるでしょう。

 上記の例はわかりやすく社会倫理にもとった価値観を出しましたが、これに限らず「周囲が何と言おうと、どんな状況だろうと影響されずに貫かれる価値判断基準」となる各人における不文律こそが、その人が持つ自我を形成する構成要素であり、それらの集合体が自我だと私は考えています。言い換えるなら、こうした不文律が多ければ多いほど自我が発達している人と言え、逆に少ないほど自我が弱く、周りに流されやすい人になるということになります。

 もう少し自我と呼べる不文律の例を挙げると、目玉焼きにかける調味料について誰に何と言われようと醤油を選ぶ嗜好のような価値観も当てはまります。また仏像を粗末に扱ってはならない、地球は反時計方向に自転する(絶対的科学知識)、緊急時は弱い女性や子供の安全を優先するなど、周囲の意見に左右されずに一貫して持ち続ける嗜好や価値観、こういったものが多ければ多いほど個性というものははっきりしてきて、自我というのも形成されていきます。
 最も根源的な不文律はやはり生存欲求で、誰しも自分が死ぬような選択肢よりは生存につながる選択肢を選ぼうとします。こんな具合に、実際の選択や価値判断に際して優先する、または絶対に曲げようとしない不文律というものが自我の正体で、それがどのようなラインナップになっているかによって各人の個性も分かれ、個別の性格も生まれるるものだという風に考えています。

 以上の観点に立ったうえで述べると、一般的に自我が強い集団はなにかというなら、一番はっきりしているのは信仰者こと特定の宗教を信じている人です。宗教というのはいわば不文律のハッピーセットであり、神は正しいとか世界はどのようにできているかなどの不文律を信者にまとめて与え、また信者もそうした教えを周囲に否定されようがそうそう簡単には曲げないため、宗教をやっていない人に比べたら確実に多くの不文律を抱えていて自我が強い人が多い傾向があると言えます。
 この影響なのか、実際海外勤務において強いのも宗教やっている人だという統計結果がはっきり出ており、私の目から見ても中国で活発に活動する人はキリスト教徒の人が多い印象があります。不文律が多くて自我が強い分、周囲の環境や雑音に流されず自分を保っていられるため、これまでとは価値観の異なる環境においても自我の弱い人と比べあまりストレスを受けないのだと思います。
 なお日本人においては無宗教者だと自認する人が多く、だから他国と比べても自我が弱い傾向にあるのかなとも穿ってみています。

 注意として書いておくと、不文律が多くて自我が強い人間が必ずしも優れているとは限りません。男性に比べ女性は劣るとか陰謀論などの偏った価値観を持ち続けるのは周囲のみならず当人も不幸にすることが多く、また前述の通り不文律は価値判断基準とも言え、それが無数にあることで優先すべき基準を見失って誤った判断に至ることも十分考えられます。不文律がなさすぎるのも問題ですが多すぎるのもまた問題であり、優れた自我というのは優先すべき価値判断基準(不文律)を必要十分に持っている状態だと私は考えます。
 敢えて最重要となる不文律を挙げるなら、私はやはり合理性だと思います。自分にとっての合理性と集団のための合理性のどっちを優先するかでまた変わってきますが、個人か集団か内容が変わるものを除くと、単純にどっちが長期視点でプラスなのかという判断基準が一番安定的且つ害がないと考えます。

 具体例を挙げるとさっきの盗みで言えば、短期的にはノーコストで物を得られますが長期的には信用を無くす、前科がつく、賠償に迫られるなどでマイナスとなり、このプラスかマイナスかの計算をちゃんと長期視点で行うという不文律こそ一番重要な気がします。もちろん盗まなければ飢え死にするような状況においては短期的にも長期的にも盗む一択であり、盗んででも生きるべきだと考えますが。

2026年8月30日日曜日

日本であんま見ない日系日用品を上海で使っている件

 最近、家のトイレ内の自ら若干変なにおいがするので便器タンクに問題があるのかと思い小林製薬の定番商品であるブルーレットを買い求めようとしました。そこで早速家の近くにある店舗が大きめのドラッグストアにサイクリングの帰りによって探したところ、どうも自分の求めているブルーレットがなかなか見つからず無駄に時間食いました。かれこれ30分近くトイレ洗剤コーナーで探し続けたのですが、そこでようやく以下の商品が現在のブルーレットだということに気が付きました。


 マジで今の今まで知らなかったのですが、最近のブルーレットはこんなクラゲ型のパッケージしてトイレの水受け皿にセットするものだということを今日初めて知りました。自分が今までブルーレットだと思っていたのはこちらの「ブルーレット ドボン」で、トイレタンクの中に放り込むこちらしか存在しないと本気で信じていました。
 何故かというと、上海ではずっとこれ使ってたからです。

 割と掃除は細かくする方なのですが、上海でトイレタンクの黒ずみがある日気になってからトイレタンクには常にブルーレットをタンク内に放り込む習慣ができていました。ブルーレット自体は日本でもなじみがあり、また上海でもニトリとかに行くと確実に手に入るしネットでも類似品がよくあるので入手には困らないのですが、上記のトイレタンクの水受け皿に設置するタイプのは今日初めて見たというか上海では少なくとも見たことがありませんでした。
 ただその理由も若干わかるというか、トイレの形状が日中で異なるせいじゃないかと思います。日本の家庭用トイレでは基本的に便器タンク上部に水受け皿があり、その上にある蛇口からタンクへ水を流す形状を採っています。しかし中国の家庭用便器にはそのような水受け皿は見ないというかタンク上部は完全に陶器製の蓋となっており、密閉される形となっています。そのため置く方のブルーレットは中国ではそもそも市場に合わないから売られず、タンクにぶち込む形式のドボンしか流通していないのでしょう。

SENKA パーフェクトホイップ(ファイントゥデイ)

 このブルーレットとちょっとジャンルが違うかもしれませんが、日本の日用品売り場を見ていてよく不思議に思うというか「なんでないの?」と思う商品として、上記のパーフェクトホイップがあります。これは上海で自分が愛用している洗顔クリームで、日本にいる間もこれがいいと思ってあちこちの日用品売り場を見て回っているのですが、現在に至るまで1個たりとも見つけたことがありません。
 仕方がないのでなめらか本舗の「豆乳イソフラボン」を今使っていますが、こっちも悪いわけではないもののやはり自分にはパーフェクトホイップがあっているような気がして、可能ならばあっちを使いたいです。でもどこにも売ってないです(´;ω;`)ウッ…

 このパーフェクトホイップも中国の日系スーパーでは定番商品のように確実にどこでも置いてあり、入手に困ることがありません。豆乳イソフラボンも同じように上海でも買えるのですが、自分はパーフェクトホイップを選んで買っています。上海であれだけどこでも見られることからてっきり日本でも簡単に手に入る商品だと思っていたのですが、想像とは異なりなんか手に入らないという事実に驚いているとともに、何故上海ではこのパーフェクトホイップがやたら売られているのかと気になり始めています。

2026年8月29日土曜日

中国の皇帝の正当性

 以前に歴史のわかる中国人の同僚と皇帝談義した際、日本では永楽通宝の影響とその事業の壮大さから明の永楽帝は認知されていると話したところ、「僕は彼嫌いですね(´・ω・)」といきなり否定してきました。なんでかと聞くと、彼には正当性がないからだと説明してくれました。

 永楽帝は明朝の二代目皇帝ですが、その継承は父の朱元璋(洪武帝)に指名されたものではありませんでした。元々、後継として指名されていたのは洪武帝の長男でしたが早世したため、洪武帝は長男の息子、つまり孫を二代目として指名していました。構図的には本能寺の変の後に信長の長男である信忠の息子である三法師が継いだような形です。
 にしても三法師は成人後の名前より幼名の方が通りがいいという稀有な存在な気がします。

 そして洪武帝の死後にその孫、永楽帝からみて甥っ子が継承したのですが(建分帝)、北京にいた永楽帝は反乱を起こしてこの甥っ子を追い出し(行方不明となったが殺害されたとみられる)、自らが帝位に就き、首都も南京から自分の本拠地である北京へ移しました。その後、明の最盛期を築くなど皇帝としての手腕は確かでしたが、以上の簒奪行為から中国人の同僚は正当性を欠くとしてあまり評価していませんでした。
 以上のやり取りを通じてたまたまその同僚だけなのかもしれませんが、意外と中国人は正当性というか大義を大事にするのだなという風に感じました。日本なんか明治維新をはじめ昔から「勝てば官軍」的なところがあり、天皇制も「南朝が正当」などと北朝系で続いた天皇家を自己否定するような主張を平気でする当たり、中国人と比べてこの辺の正当性に対する意識が緩いのかもしれません。ぶっちゃけ血筋さえつながっていれば「ヨシ!」としている気がする。

 興が乗ってきたこともありその後もその同僚と中国の皇帝について議論を重ねたのですが、その同僚が最も正当性が高くて且つ優秀だった皇帝として挙げたのは、後漢の光武帝(劉秀)でした。
 光武帝についても知ってる人には早いですが、ぶっちゃけ少年漫画の主人公みたいなキャラです。先祖は確かに漢室の皇帝の血筋ですが彼の代には完全に庶民に落とされており、三国志の劉備と同じような立場でした。それが兄貴とともに漢朝を簒奪した王莽に反旗を翻し、緑林軍という軍閥に加入したものの、実力と人気を兼ね備える兄が同じ緑林軍の幹部に謀殺されます。にもかかわらず光武帝は謀殺を非難せず黙々と働き、緑林軍で内部抗争が始まるやうまいこと出し抜いて中国を再び統一します。光武帝に関してはこのほか部下に締め出されるなど色々エピソードが多いのですが、確かに正当性という点では漢室の血筋を引き、誰も裏切ることなく世の中の混乱を正した点でピカイチでしょう。

 次に正当性が高いとして挙げたのは、先ほど出てきた洪武帝です。当時はモンゴル系による元朝が支配する時代で、政治がおかしく世の中が混乱しており、そうした悪政による支配を正して漢民族による支配を復活させたという点で評価されてました。この点について私も納得で、その同僚自身は支配層がモンゴル族でも満州族でも気にしないが、閥族政治による混乱の責任があるとして洪武帝に追いやられたのはいいことだと言ってました。
 このほか自分の方から宋朝を立てた趙匡胤はどうかと聞いたら、彼も先代皇帝の遺児から簒奪しているとしてきちんと非難していました。もっとも趙匡胤はその遺児を殺さず保護していた点はちゃんと評価していましたが。

 日本、中国に限らず歴史の移り変わりは突き詰めると簒奪の繰り返しですが、改めて上のやり取りを経て正当性というのをちゃんと意識するのは大事だなと当時思っています。現在の日本の政権は民主主義で主権在民であり、特定の一族や団体に支配されているわけではないため簒奪は起こりにくいですが、やはり簒奪を認めてしまうと世の中が不安定になるような気がします。そういう意味では日本ももっと正当性という観点で秀吉、家康の行為についてもう少し議論した方がいいかもしれません。

2026年8月26日水曜日

事故や災害報道に年齢情報は必要か?

 さっきニュースを見たら交通事故の報道があり、その中で「被害者は20代の女性と70代の女性で……」と読み上げられたのですが、正直なんでそこで年齢必要なのかと疑問に覚えました。普通に二人怪我したとだけ言えばいいものをいちいち年齢まで読み上げており、果たしてそれは必要な情報なのかという疑問を覚えました。

 例えば死亡者がおり、その人の身分確認ができないような状況だったらおおよその年齢情報を出す価値はあると思います。そうした情報がきっかけで本人確認につながると思いますし、何も出さないより出した方がいいでしょう。しかし今回の事故のように怪我して意識があるような被害者の場合は本人確認は必要ではなく、またどの年齢層の人が事故に遭ったなんて情報ははっきり言って無価値です。年間での被害者数の年齢層を統計に出すっていうのなら話は別ですが、個別の事故で年齢情報を出す必要なんて皆無でしょう。
 事故報道に限らず、日本は何でもかんでも年齢情報を出し過ぎではないかという気がします。例えば遭難から救助された人に関しても男性か女性か、あと未成年(子供)であるかどうかの情報はまだ報じる価値を覚えますが、いくつの年齢の人が救出されたとかは果たして必要かと言えばこれもどうかと思います。

 以前にも書きましたが、自分は中国にいるとよく自分の年齢がいくつであったかを忘れたりします。何故かというと日常で自分の年齢を意識することがないというか、何か書類に身分情報を書く時に年齢情報を求められることはほぼないからです。
 逆に日本はちょっとしたアンケートでも細かく実年齢を書かされ、中には生年月日を聞きながら「で、あんた何歳?」と二重に聞いてくることも多く、なんでそんなに人の年齢聞きたいんだよと逆にこっちが聞きたくなってきます。でもってこういうことするから日本人は社会の中で年齢数を異常に意識し、三十路やアラフォーなどと言う言葉で無駄に年齢で階層化し、ステレオタイプも作ろうとするのではないかとみています。

 そうした延長ゆえか上記の事故報道の年齢の読み上げも、若干過剰ではないかと思うわけです。プライバシーだなんだと言いながらこうしていちいち年齢を公共の電波で飛ばしてくるのはダブルスタンダードもいい所だと思います。

2026年8月24日月曜日

風呂のパイプはたまに掃除した方がいい(ヘドロトルネード)

 日本滞在中は実家にいますが、こっち来てから地味に気になっていたのは風呂のパイプでした。うちの風呂には大分一般的となった追い焚き機能がついているのですが、その追い焚きした湯が出入りする追い焚き口がいつも明らかに汚れていました。具体的には追い焚き口付近にぬめりがあり、3日くらい追い焚きして使った後に水を抜けば赤い斑点めいたものもはっきり目視でき、明らかに中のパイプが汚れきっていると感じていました。
 なので先月に400円くらいのパイプ洗浄剤を使ってみましたが、確かに使う前より効果はあったというか汚れは減ったもののそれでも完全になくなるには至っておらず、そもそもその洗浄剤も半年ごとに使うようなものであり、10年以上もパイプ洗浄したことないうちの風呂にはさすがに効果は薄いと感じていました。


 そこで前から芽をつけていたのがこちらの「ヘドロトルネード」という商品。強い洗剤におなじみの「まぜるな危険」という単語が妙に目を引くのと、小売店で3000円以上もする価格から、本気で洗うにはこれくらいの洗剤使わないと無理じゃないかと考えていました。
 しかしそれでも値段は3000円。Steamのセール期間ならゲーム2本、「探偵・癸生川凌介事件譚」なら6本は買えてしまう金額ゆえになかなか決断が付かなかったのですが、昨日のマッドシティの霊感穴場スポットこと相模台公園行った帰りにヨーカドー寄ったら、なんか「広告の品」という表示とともに2700円で売っていたので迷わず購入しました。

 早速家に帰って使ってみたのですが、結論から言うと凄かったです。洗剤放り込むや工場の廃水かってくらい濁った水がどっと溢れ、予想を超えるレベルでパイプの中が汚かったのを思い知りました。元々、上海でも配管は定期的に洗浄剤を放り込むほどメンテナンスを欠かさぬ私ですが、こんな汚れまくってた配管見るのは初めてでした。
 そんでもって翌日の今日、早速風呂を追い焚きして入ってみましたが追い焚き口のぬめりは全くなく、確実に以前よりも配管がキレイになっているという実感を覚えました。確かに高い洗浄剤ではあったもののその効果は認めざるを得ず、またこういう配管はちゃんと定期的に掃除しないと駄目だなと思い知らされました。

 それで本題なのですが……このヘドロトルネードを使ったときの写真もちゃんと残してあります。ただ明らかにグロ画像なので、見たい人だけこのままスクロールしてください。










































 マジこれ見て真っ先に浮かんできたのはバイオハザードという単語でした。ヘドロトルネードは時間をおいて二種類の洗浄剤を放り込むようになっていますが、1発目はまだそうでもなかったものの、本チャンの2発目を放り込むや緑色した廃液がドバっと溢れてマジ引きました。まぁそれだけ効果が実感できるんだけれども。
 ほかの人のレビュー見ていても大体同じというか、みんなそのあまりの汚れの噴出具合にビビっています。メントスコーラ並みだよこのバズり方。

2026年8月23日日曜日

千葉のマッドシティ~相模台公園


 以前にコメント欄で「相模台公園はヤバい」というコメントが来たのと、先月入り口前を通った時に「相模台公園はヤバい」と感じたので、今日昼過ぎにまた自転車で行ってきました。


 まず相模台公園の何がヤバいかっていうと、公園の入口から公園敷地内に入るまで物凄い高低差があり、見ての通り入口にはやたら長い階段しか映りません。でもってその入り口付近ももののけ姫かよと思うくらいやたら植物が氾濫していて、この一点で以ってもただの公園じゃないと判断できます。

時間帯によって木の幹が上下して出入りできなくなるトラップにしか見えない


 マジ心臓が少し痛くなるくらいの坂を上り詰めてようやく公園本体に入ることができました。この日公園にいたのは自分以外だと中国人の親子連れだけで、写真のように殺風景な廃墟っぽい場面を簡単に撮影できました。

なんかニーアオートマタの廃墟にありそうなブランコ

ニーアオートマタのゲーム画面にしか見えない

遊具の撤去後だろうけど古墳にしか見えない

 以上の通りどれをとっても廃墟アートにしか見えない公園で、この公園に訪れる人は1日にどれほどいるのだろうかと非常に疑問でした。でもって前述の通り入口付近は植物によって密閉されたような感じで、正直に言って夜中に廃墟行くよりこの公園に行く方が自分は怖い気がします。


 改めて敷地を眺めると、入ってきた入口とは別にまた下界へと続く出入口を見つけました。こちらは写真左の団地敷地へと直通する出入り口となっていました。

長い階段

トリックアートのようにも見える階段

階段を降り切った先

 こんな感じで相模台公園を見て回りましたが、そこまで不気味さを覚えなかったもののこの公園を利用する人はいるのかと思うくらい変な空間でした。そもそもこの近くには松戸中央公園がありあっちは常に人がいるのと比べると、こっちの公園に来る人はいないという気すらします。っていうか植物が育ち過ぎなので、もう少し整理した方がいいのではないかと思いました。
 まぁ怪談スポットとしてなら今のままの方がいいんだけれど。