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2019年4月20日土曜日

自我を削ぎ落とす教育

 先日知人と話をした際、日本の教育について話題が及びました。知人からは日本の、特に学校現場の教育は従順な子供を作ることが強調されているような気がすると、中国での学校と比較して述べたのですがそれに対し私は、「従順な子供を作るのは目的であってそれは正しいと思いますが、では手段は何だと思いますか?」と尋ねました。一思案したあとすぐ降参した知人への答え合わせとして私は、見出しに掲げた「自我を削ぎ落とす教育手法こそがその手段で、日本の教育の根源的な哲学は個々にあると思います」と話しました。

 自我を削ぎ落とすとはどういうことかというと、端的に言えば個性を認めずむしろ排除する、個人的欲求を認めず集団に従うことが最上であると教える、周囲の人間と同じ価値観を持つと信じ込ませるなどなどです。この中でも一番理解されやすいと思うのは、「集団に従うのがベスト」という点だと思え、日本の学校だと小中校のどこでも集団に溶け込むことこそが最大の美徳であることが強調されているのは事実以外の何物でもないでしょう。
 逆を言えば集団に溶け込めない、いじめによって排除されたり、身体的・出身的特徴で差別されたりすると途端に学校には居場所がなくなるわけで、真面目に全人格を否定されかねないような事態すら招きます。何故こうなるのかと言うと、私自身はやはり集団の価値観が強すぎることと、集団への服従強制が異常過ぎることが大きな要因ではないかと考えています。

 もちろん人間が社会で生活していくためには集団性を持たなければならず、集団生活やその価値観を教える必要性までは否定しません。ただ日本の場合は、それでもやはり集団の価値観が強すぎるきらいがあるように思え、ちょっとこの方面の教育ではやりすぎと思えるところがあります。

 次に個性を奪うという点ですが、一番わかり易いのは制服と丸刈りでしょう。髪型とかに関して私は本人の自由だと思うので気にしませんが、一定の髪型を校則で強制したり、部活動などで丸刈りに統一するといった行為は、強制する側がどのような意図で行っているとしても確実に個性というか自我が薄れ、他の同一集団内のメンバーとの差異が減少します。制服も同様ですが、自我を削るには何が一番いいかと言うと、周囲の他の人との区別をなるべくできない環境に置くことが手っ取り早い方法であり、そういう意味ではこういった行為は実に理に適っています。
 なお中国の学校では制服はあまり見られません。

 この他にも、英語の授業とかで実際には正しい発音してるのに、他の未熟な生徒の発音と異なっていれば笑われたりする(教師も黙認)のは、ある意味日本の教育の賜物かもしれません。私自身はあまり気にせずに発音してよく授業中に笑われていましたが、あの時教室にいた誰よりも今英語が上手であるという自身はあります。

 他にも細かい点をあげたらキリがないですが、私から見て日本の教育は生徒の自我を削ぎ落とすことに全力を注いでいるように見えてなりません。「個性を伸ばす教育」などという標語をたまに謳いますが、これは真に受けたが最後、空気が読めないやつだと思われ確実に教師にマークされますし、現実に日本人で個性に溢れた人材が生まれるのは稀な方でしょう。少なくとも自分より個性が強い人はあまり見ないし。
 他の国とかでも多かれ少なかれこういった自我を削ぎ落とすプロセスはあるでしょうが、それにしても日本のやり方はやや強すぎるように思え、なおかつ私が子供だった頃よりも今のほうが更に程度が増しているのではと思う節があります。具体的に言えば、生徒だけでなく教師も学校内で更に個性を削がれているような。

 その上で言えば、やはり世界で戦っていく上では一定度の個性こと自我が必要不可欠です。周囲にいる誰もが敵となる状況下で自分を保ち闘い続けるためには、周りが否定する言葉を浴びせたとしても自ら信じ続けるような頑固さが時には求められます。全く周りを省みないのはもちろん問題ですが、周りしか見ていない人間なぞ最初から役には立ちません。
 そういう意味で、今日本の教育下では突然変異的な無駄に自我が強い人間か、自我を保ちつつそれを表に出さずうまくまわりとに合わせる振りができる人間しか、使い物になる人材が生まれてこないのではとまで考えています。自分の場合は圧倒的に前者ですが、言い訳をすると少年期はやはり今考えても圧倒的に理解者がおらず、そのため自分の方針が正しいということを認めさせるためにやや躍起になっていましたが、一人くらいちゃんとした理解者がいれば牙を隠すこともできた気がします。

 自我を育てる教育、なんていうと一歩間違えるとテロリストを生む可能性があるだけに、私個人としては自我を潰さない教育あたりが標語としては有りなんじゃないかと思います。少なくとも、名前と成績以外で他者との違いを認識把握できない人間は作るべきではないというのが人文主義ゆえの立場です。

3 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

自我というか、個性は人それぞれ日本人だろうが、外国人だろうがあるもので、いくら協調性重視の教育をしようが、消せるものではないでしょう。しかし、日本の教育は仰るとおり没個性的な教育をしており、目立たないのを美徳とするような感じがありますよね。それにより、大人になっても自己評価できている人が少なく、自分の個性を正しく認識できない、客観的に自分を見れない人が多い気がします。また、会社では上司が部下の評価をするときに仕事ができる人間を基準に考えて、あいつは技術がないからダメだとか、コミュニケーション能力がないから駄目だと減点法で部下をみてしまい、部下が持ついい面を見落としがちだと思います。人を活用するときはいい側面をみないと、こういうやつがいればなとか、こういうことが出来たらなと欠点を嘆きがちになり、ネガティブ思考に陥ってしまいます。なので、こいつのここが使えるとか、長所を伸ばしていけば、そのうち欠点に気づいて自分から直してくれるかもしれないし、今のメンバーでどうやってやっていくかを考えるのが建設的な意見だと思います。

サカタ さんのコメント...

長くなったので改行しますが、 上司は今の人材をどう使うかを判断するのに各々の個性を認識する必要があるし、部下は自分の個性が回りにどう影響を与えるか理解するために個性を認識する必要があると思います。つまり、どちらの場合でも個性を認識する必要があり、それが不得意な日本人は海外などの違う文化圏へ行ったときに苦戦しやすい人種になってしまっているような気がします。また、僕のの回りでは海外に5年赴任した人をみてると、確かに没個性的で、なぜ耐えられたか考えたときに、決して主張せず回りの人が解決するまで影に隠れて逃げ回っているからだと思います。それで解決した人の機嫌をとって乗りきるタイプでした。確かにそれでも事は収まりますが、その人自身の人間的な価値は低いと言わざるをえないでしょう。決断力は乏しい上に、問題が表面化してようやく動き出すタイプで大きな成功もなければ失敗もないような人です。5年間そうしてきたせいか、日本に帰ってきてもリーダーシップを発揮できず、人望もありません。また、上役の言いなりで自分の課の内情すらデータでしか知ろうとしません。問題は蓄積されるばかりです。

一方で日本人の割に個性をよくみている人は、海外でも人脈を築いてやっていて、日本にいても人望があり決断力があった感じがあります。性格的には、人の好き嫌いはあったにせよ、自分の指示した仕事をやる人は誉めて、やらない人は疎遠になるという明確な基準があるように思えました。また、一度信頼してもらうと色々な仕事を任され、そのフォローや労いの言葉もよくありました。仕事をたくさん任されてきついことはきついですが、やりがいがあり、部下が嫌にならないようにうまくコントロールしているような人でした。そういう人がいる組織の方がいいと思いますね。長々とすいませんでした笑

花園祐 さんのコメント...

 コメント見て思ったこととして、日本人は全体的に変化に弱いのかなという気がしました。部下への指導方法も固定的というか変化が少なく、個別対応も苦手で、あと社会全体で制度変更への反応が鈍いように見えます。
 じゃあ個性があれば変化に強くなるのか、この辺はまた別に考えてく必要がありそうです。
 にしてもなんか上司関係で悩んでそうだね(;´Д`)