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2019年8月3日土曜日

本能寺の変の家康黒幕説について

 今日ご飯食べながら大分昔に書いた「Zガンダム風、幸村と家康の対峙」を思い起こしていましたが、我ながら面白いもの書いた気がします。個人的には、

「脇から見ているだけで→脇から天下を狙っているだけで」
「ジ・O、動けジ・Oっ!何故動かぬ!?→旗本、戻れ旗本っ!何故戻らぬ!?」

 の改変が気に入っています。

 さてこの記事では徳川家康をZガンダムに出てくるパプテマス・シロッコになぞらえていますが、その点について考えていると、「なんかシロッコが上司のジャミトフを暗殺したように、信長も家康が実は暗殺してたりして」などという考えがよぎりました。

 信長の暗殺ときたら言うまでもなく本能寺の変ですが、一応実行犯は明智光秀であることに疑問を挟む余地がありません。ただ光秀が暗殺を実行した理由については未だはっきりせず、そのためか光秀に暗殺を指示した、またはそそのかした黒幕がいるとして、本能寺の変黒幕説は古今絶えません。
 具体的な黒幕候補としては、足利義昭や天皇家、漫画「へうげもの」以降からやけに耳にすることが増えた豊臣秀吉説などいっぱいありますが、どれも決め手にかけるというか根拠はなく講談の域を出ることはありません。中には、今回上げる「徳川家康黒幕説」も挙げる人もいますが、これはどちらかと言うと他の黒幕と一緒に並べ立てる一人物として、その根拠や推測理由すら出されないことのほうが多いです。

 では何故家康黒幕説は弱いのか。最大の理由は伊賀越にあるでしょう。
 本能寺の変当時、堺を見物中だった家康は現地で信長が暗殺されたことを知り、明智軍に狙われないよう急いで本拠三河へと帰国します。この際、主要道路はすでに封鎖され発見される恐れが高かったことから、艱難辛苦な伊賀の山道を越えてへろへろになりつつ無事脱出したことは神君家康伝説に盛り込まれています。

 このように、明智軍に狙われ、実際命からがら逃げ出した被害者であるということは、家康が黒幕であるという説を否定する大きな材料となります。ただ今回敢えてちょっとひねって考えたとした場合、「あいつがいるな」と思ったのは穴山信君です。
 信君は武田家を裏切って織田に付いた功績から、この本能寺の変の当時に家康ともども信長の歓待を受けて一緒に堺を見物中でした。各資料でも信長の死を知った際は家康一行と一緒だったと記されているのですが、家康とは別行動を取って逃げている最中、明智軍に追手を差し向けられ自ら自害したか、明智軍に殺害されたか、落ち武者狩りみたいに農民にやられたりしたかでとにもかくにも死んでしまい、家康のように本拠地への帰国はかないませんでした。

 何故この点に着目したのかと言うと、どうして家康と信君は一緒に行動を取らなかったのかというのが少し疑問に感じるからです。帰路はほぼ共通しており、どちらも一緒に明智軍に狙われる身です。さらには信長の死を知ったのも同時だったとされ、にもかかわらず両者は別行動を取った挙げ句、信君だけが死んでいます
 敢えて陰謀論っぽくいうなら、家康が信君になにか吹き込んだ、もしくは明智に信君の帰路を匿名を装って内通したのではないかと考えられなくもないです。こうすることで、明智軍の追手は信君の方に集中することとなり、家康一行としては追手の数を減らせて自らの安全をより高められることが出来ます。

 実際にと言うか、そうだったんじゃないかと伺わせる点もまったくないわけではありません。勘のいい人ならもう分かるでしょうが、信君を殺害した明智軍は信君を家康と勘違いしていたとか、家康を追っていたら信君だったというエピソードがいくつかの資料に残されています。信君を狙って信君を殺したならともかく、家康と誤ったのは何故なのか。それこそ古狸な誰かさんに、「家康はあっちの方に逃げましたぜ」なんて聞かされていたのかもしれません。

 またこの家康=被害者説のポイントを無視した場合、実質的に家康は本能寺の変によって大きな恩恵を受けています。いわゆる天正壬午の乱って奴ですが、信長の横死を受けて織田家が切り取ったばかりの信濃、甲斐、上野では織田家の家臣が地元の反抗などを受けて追われ、支配者不在のような形で突然大きな空白地が生まれました。この空白地をここぞとばかりに吸収したのが徳川家と北条家で、両家ともにごく短期間で支配地域を一挙に拡大させることに成功しました。
 仮に信長が本能寺で暗殺されなかった場合、家康の領土拡大戦略はこの時点で既に頭を抑えられていたに近いです。既に滝川一益を始めとした織田家家臣が北条家討伐に動いており、織田軍単独での制圧も不可能ではなく、下手したら家康の領土は三河と駿河止まりでそれ以上の拡大は望めなかった可能性があります。

 何がいいたいのかと言うと、領土拡大戦略的には信長を暗殺するメリットが家康にはあったということです。現実に信長の横死によって家康は短期間での大きな領土拡大に成功しています。
 仮に家康が光秀を唆したと考える場合、地味に京都や大阪近くにいたというのも工作面では好材料でしょう。直接的にしろ間接的にしろ、光秀や現地勢力と接触したり、自ら動いたりするチャンスは距離的には近くなるわけですし。

 無論、以上に挙げた主張は敢えて陰謀論に仕立てるならと考えて作った私の推測に過ぎず、私自身もそんなに家康黒幕説を信じているわけではありません。敢えてここまで書きませんでしたが、天正壬午の乱勃発直前、具体的には家康の三河帰国直後、家康は当初は明智討伐とばかりに西へと軍を動かしており、これは家康黒幕説を否定する有力な材料となるでしょう。
 もっとも、信長亡き後の政治的空白地における領土切り取り対象が当初は信濃方面ではなく、尾張を始めとする京方面というガッツリスタイルだったと考えることも出来ますが。

 でも仮にこの黒幕説を掲げてお話を作るとしたら、やっぱり家康ってシロッコなキャラがピタリと当てはまるように見えてきます。本多忠勝とかも、「落ちろ、カトンボ!」とか言ってたのかな。

2 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

シロッコとは違い、戦いで死ぬことはなかったですが歴史の立会人でいたいといいつつ、世の中を牛耳ろうとした様は家康とシロッコは似ているかもしれませんね。

花園祐 さんのコメント...

 豊臣政権時の家康のポジションってほんといい立場な気がします。直臣でない外野でありなあら、政策に口出しできるという。そう考えると、譜代と外様をしっかり区別した徳川幕府の政策は的を得ていたのかもしれません。