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2015年10月24日土曜日

横浜高校野球部監督の教育論

 また今月の文芸春秋からの引用記事ですが、甲子園で幾度もの優勝をかっさらった横浜高校野球部を50年に渡って引っ張った渡辺元智前監督のインタビュー記事がなかなか面白かったので紹介しようと思います。

 渡辺氏は24歳で同高校野球部の監督に就任し、今年5月に引退するまで甲子園で春夏優勝5回を経験し、また松坂大輔選手をはじめとして横浜高校出身のスター選手を日本プロ野球界へ数多く送り出しており、名実ともに名監督と呼び声の高い人物です。そんな渡辺氏ですが部員の指導方法については「ひとつの指導方法でやってきたわけじゃない」と、冒頭から述べております。

 監督就任当初の渡辺氏は昔のスポ根ドラマよろしく、鉄拳制裁を当たり前のように行って指導してきたそうです。この指導方法について渡辺氏は当時の世相というか戦後は軍隊出身の指導者が多かったため誰もが殴られて教育されてきており、また他校でも当たり前のように行われてて練習試合でも野球そっちのけで双方のベンチで監督が選手を殴り飛ばしていたそうです。
 しかしそうした鉄拳制裁も次第に通用しなくなってきたそうです。通用しなくなった理由について渡辺氏は、若い当時は優勝実績がつくとともに周囲からちやほやされやや浮かれた生活を送ってしまい、そんな姿を部員たちが見透かしていたせいではないかと分析しています。ただそうした事態に至ってから立ち直りは早かったというか、一方的にこうしろという指導をやめて選手との対話を重視した指導へと切り替え、これが功を奏して1980年には愛甲猛氏を擁するチームで夏の甲子園優勝を達成できたと述懐しています。

 しかしこうした「対話路線」もそう長くは続かず数年でまた勝てなくなり、仕方ないので今度はアメリカの野球チームを参考に「伸び伸び野球」を打ち出したところチーム内に「甘え」が蔓延して余計に勝てなくなるという余計に悪循環となってしまいました。転機となったのは松坂世代が入ってきたころで、この世代は松坂選手を筆頭に後藤選手、小池元選手、小山元選手など後にプロ野球でも活躍する人材が大量に入ってきた年代だったため、彼らをきちんと使いこなせば必ず優勝できると確信が持てたそうです。
 しかしこう言った才能ある部員たちは渡辺氏によると「往々にして我が強い」とのことで、ひとまとめな指導ではとても対処できないと考え部品一人一人に合わせた指導を採用することにしました。具体的にはある選手には厳しく指導する一方で別の選手には誉めることを重視したり、またほかの人には体調管理の重要性を説いたりと、現代では当たり前とされる指導方法ですが98年の段階でこれを実践していたということはやはり渡辺氏には先見の明があるように感じられます。

 直近の指導方法については現在ロッテで活躍している涌井選手を引き合いにして、「メールでのコミュニケーション」をしたことが書かれています。なんでも松坂選手はどれだけ厳しく叱っても後でフォローすればきちんと彼も応えてくれたそうなのですが、涌井選手は一回叱ったら俯いて、誰とも話をしなくなってしまうため渡辺氏も、「叱り過ぎたのかな?」と度々感じたそうです。そこでマニュアルを必死で見ながら涌井選手の携帯にメールでフォローした所ようやく「わかりました」と返事が来てほっと一安心できたと書いてあり、それ以降はまめにメールで選手たちと頻繁に連絡を取り合うようにしていたそうです。ってかほんとマメだなこの人。

 自分の指導について渡辺氏は、選手に成長してもらいたいという信念だけは変わりはなかったものの、その指導方法は時代と共に常に変化していた。むしろそういう信念があったからこそ変化できたとまとめており、さすがベイスターズより強いのではと言われるくらいに横浜高校を牽引してきた監督だと感じるほど読み応えのあるインタビュー記事でした。

 本題とは少し外れるかもしれませんが、戦争指揮において参謀が将軍に優越する指揮システムを確立させた人物として、ドイツのモルトケという軍人がおります。彼の時代のプロイセンでは「戦争論」を著したクラウゼヴィッツなどが活躍しており戦争を学問体系的に分析する動きが強かったのですがモルトケはこうした動きに反発し、「戦争に不変の原則などないという事実のみが不変である」と述べ、従来の概念からは考えられないような鉄道や無線を活用した戦争指揮システムを導入し、ビスマルクと二人三脚でプロイセンを強国化させました。
 私自身もこのモルトケの意見というか概念を日頃から重視しており、不変なシステムなどほとんどなく時代とともにシステムはどんどん変えていくべきだと考えており、この渡辺氏もそうした価値観だったからこそ名監督足り得たと今回感じた次第です。

  おまけ Wikipediaに載っている渡辺氏の指導を受けた主だったプロ野球選手
青木実
永川英植
愛甲猛
高橋建
鈴木尚典
紀田彰一
多村仁志
松井光介
松坂大輔
成瀬善久
後藤武敏
小池正晃
荒波翔
涌井秀章
石川雄洋
筒香嘉智

大学ランクの壁、そして下剋上

 先日、日本から中国へ戻る飛行機を待っている間、空港の売店でかなり久しぶりに文芸春秋を購入しました。元々私は文芸春秋を購読していたものの姉妹雑誌の週刊文春で不必要と思うくらいに橋下大阪市長へのバッシング記事が続いたことに反感を持って数年前に購読をやめていたのですが、そろそろ過去は忘れてもいいかなと思ったのと、今月号(11月号)の特集が教育関連議論でその中に池上彰氏と佐藤優氏の対談が入っていたので、衝動買いの様にして買って持ってきました。

 掲載されていた記事や対談はどれも面白くこれからまた少しずつ記事化していく予定ですが、先ほど挙げた二人の対談では日本の大学の役割、そして改革案が中心となって語られており、自分は全然その存在を知らなかった「ビリギャル」という慶應大学の入試に合格した女の子について佐藤優氏が、「彼女は受験科目として使用した小論文と英語だけが合格水準にあってその他の科目は恐らく一定の水準に達していないだろう」的なことを指摘して、こうした偏った学力の学生を入学させることは問題があるとさりげなくディスっていました。
 なおこの佐藤氏の指摘を友人に話したところその友人は、ビリギャルが自分の受験体験をまとめた本の表紙に自分自身ではなくモデルの女性を使用したことについて、「結局女は見た目で決まるというようなことを自分でやっておいて何がビリギャルだよ。自分の実績をピーアールしたいなら自分が表紙に出ろ」とこっちもディスっていました。まぁ私もこの友人のいわんとしていることに同感なのですが。

 話は本題に入りますがこうした大学関連の改革話を聞いていてふと、「何で日本で最高峰の大学は東大なんだろう?」という妙な疑問がもたげました。こんな風に考えたのもちょっと前に戦前で本当のエリート校だったのは東大ではなく陸軍大学校だとか、エリート養成校として真に優れていたのは陸軍中野学校(佐藤優氏の主張)だったとかそういう内容を思い出しており、どうして現在では東大が一番なのか、否、どうして東大が一番に固定されているのかという点について疑問を覚えました。

 そりゃ東大は官制学校として一番金もつぎ込まれているだけでなく入試難易度でも文句なしにトップクラスです。しかし米国の大学ではアイビーリーグというトップクラスの大学ランクは存在するもののその中の順位や価値は常に変動していると聞き、特にハーバード大学を未だにありがたがっているのはアジア人だけで実は外国人留学生が学生の大半を占めているという噂も聞きます。
 大学の価値を推しはかる上で伝統は確かに重要な要素であるものの、真にその価値を見定める指標としては輩出した卒業生の質と、学内での研究ではないかと思えます。何が言いたいのかというと本来なら大学のランクというものはもっと変動があるべきで、この辺の競争システムが日本国内の大学業界では上手く働いていないのではと考えたわけです。

 先ほども言った通り日本でナンバーワンの大学と言ったら東大、次いで京大というのは戦後ずっと変わりがありません。国立大なんかは予算や教員などの面で政府も絡んでいるだけあってこのように順位が固定されるのは多少はしょうがない気がします。では私立大学はどうか。全く変動がないわけではないもののあるとしても同じ大学ランク内の優劣の逆転程度で、大学ランクを飛び越えた変動となるとほとんどあり得ないといっても問題ないでしょう。

 日本の私立大学のランクとなると最上位は言うまでもなく早慶こと早稲田大学と慶応大学です。以前はこの二者の実力は伯仲していたそうですが現在は私の見る限り明らかに慶應の方が上回るようになり、実際につくば市の風力発電機事件や小保方騒動とその対応を見ていると早稲田の水準は世間が見ているより実は低いのではと思うところもあります。もっとも、今思うと早稲田の凋落の始まりはスーパーフリー事件からだったのかなという気もしますが。

 関東圏内だとこの早慶に上智大学を加えた「早慶上智」という言葉もありますが、実は私はこの言葉にあまりピンと来なかったりします。というのも関西圏だと早慶のネームバリューは依然と高いものの上智大学についてはその存在すら知らない人間も少なくなく、高校時代までは関東にいたものの進学後は関西で過ごしてた私からすると「早慶上智」はいまいち実感の湧かない言葉だったりします。はっきり言えることは上智大学は早慶ほど全国的なネームバリューはなく、上智OBの方には申し訳ないですが早慶よりは一段劣るだろうというのが私の見方です。

 その早慶上智の下となると、今後はMARCH(+学習院)というランク層になり、その下は今度は日東駒専が来たりします。私の見る限りだとこれらも同ランク内での変動はあってもランクを越えた変動は数十年なく、なんていうか面白みに欠けます。
 では関西私立はどうか。こちらは最上位ランクにあたる「関関同立」というグループがあり、関西学院大学と立命館大学で2~3位の変動がたまにあるものの基本大きな変化はありません。ただその下の「産近甲龍」の中では近年大きな変動が起こっており、具体的に言うと近畿大学が目覚ましいばかりの躍進を続けています。

近畿大、志願者数で連続トップに 私立大の一般入試(朝日新聞)

 かつて大学入試の志願者数と言ったら早稲田大学か明治大学がトップの座をいつも争っていたのですが、なんとこの二大学を抑えて2014年と2015年は近畿大学がトップに躍り出てきました。近畿大学は関西圏にあることから東京の大学と比べ「上京への憧れ」という面でハンデを抱えておりますが、そのハンデを抱えながらトップに出たというのは控え目に見ても素晴らしい偉業と言っていいでしょう。

 何故近畿大学がトップに出たのか多方面で分析がされているものの、ほぼ一致した意見として「近大マグロ」ことマグロの完全養殖に成功した実績が世間に評価されたものとされ、私もこれに同感です。本人らもそれを自覚しているのか、「近代ってマグロだけだと思ってない?」という言葉が書かれた全面マグロの大学PRポスターを作ってたりしていて、見ていていいセンスを感じます。
 実際に近畿大学がどれほど躍進してるのかなと偏差値ランキングを少し見てみましたが、偏差値レベルでは同ランク内で明らかに最上位に入っており一部学部では関関同立をも上回っているところもあるほどで、もしかしたら絶対不滅と見られていたランクの壁をも超えるんじゃないかと思うくらいの勢いぶりです。

 先ほども書いたように大学の質を測る上でもっとも重要な指標は卒業生の指標、そして研究実績の二つです。近畿大学はこのうち後者で見事な成功を収めて躍進しており、今後もこう言った方面での競争が進んでランクの壁が破られて行けば日本の教育界も全体的な底上げが起こるのではないかと思っており、近畿大学には密かに期待していたりします。
 逆を言えばほかの私立大学についても小手先の改革に頼らず、学生の質向上に取り組みながらいい研究実績を作るなどといった、まともな方面の努力でもって大学ランクの壁を破るような下剋上を達成してもらいたいものです。なんでも競争に巻き込むことは私も反対ですが、真に競い合うべきところは競い合うに越したことはなく、そうした切磋琢磨によって世の中よくなってほしいものだというのが今日の私の意見です。

2015年10月2日金曜日

大衆の捉え方

 連休二日目で部屋の掃除以外特にやることなくまたたらったらとパズドラやりつつ過ごしておりましたが、左肩と右わき腹をやや痛めている状態なのでなんか中途半端にやる気出ません。明日くらいは少し気合入れ直して外出るようにしよう。
 そんなわけで本題ですが来週に会う予定の知り合いに対する講義内容として取っておきましたが、ちょうどこの記事が2500本目の記事になるので折角だから出し惜しみせずにここで私の大衆に対する見方というか視点というものを紹介しようと思います。と言っても興味を持つ人間がどれだけいることやら。

 私の大学での専門は社会学なのですがよく人からは、「社会学って何をする学問なの?」という質問を非常に多く受けます。実際これは社会学をやっている人間たちですらよくわかっておらず、敢えて言うなら「入りやすく極め辛い学問」であって、これが社会学だといったらなんでも社会学になってしまうほど専門性が低い学問です。取り扱う分野も経済学から法学、政治学、心理学、文学と文系自然科学の分野すべてを内包しており、私なんかはそういうオールマイティさにあこがれて社会学を選んでほかの専門領域も法学を除けば大体手を出しましたが、それでも未だに社会学ってなんやねんと思うことの方が多いです。

 そんなよくわからない社会学ですが、一般的に言うなら心理学に近い学問というのが正解な気がします。社会学も心理学も人間の心理行動を第一に着目して観察する学問ですが、異なっている点としては心理学が個人の心理により強く着目するのに対して社会学は集団の心理により深く着目し、また大きな前提として「集団の心理は個人の心理とは乖離する」と考え、個人の考えが合わさることで集団の考えとなるのではなく、個人の考えとは切り離されて集団の考えは形作られると考えます。
 こうした立場でものを考えるよう教育を受けてきた身であることから、私自身も個人の心理とかそういうのには全く興味がなくむしろ集団の心理の方が見ていて楽しいです。その上で述べると何か他人を分析する際はその他人が取る行動に対して「動機」から攻めるようにしており、どうしてそのような行動を取ろうとするのかその背景にある動機をまず推測して、「動機―行動」のつながりを解き明かそうとします。私見ですが心理学の場合だと、動機よりもその人の生い立ちや経験といった背景をより重視して分析の対象としてみているように見えます。

 そういうわけのわからない社会学の価値観は置いといて、このブログではよく日本人論を載せることが多いですが、こうした記事を書くに当たってやっぱり重要になるのは大衆の捉え方です。一言で大衆と言っても定義の仕方は様々ですが、大衆を分析するに当たってまず第一に考えなければならない点として挙がってくるのは「自分は大衆に含まれるか否か」です。
 自分と、これから分析する大衆は同じ構成員なのかどうか。地味にこれを考えるのは重要で、自分は大衆とは異なる異分子と前提して一歩離れた距離から観察するのか、それとも自分は大衆の中の一要素と前提して内部から観察するのか。一見すると前者の方が観察者として理想的な立場に見えますが、全否定するつもりはないものの、一歩距離を置いてしまうと自分を特別な位置に置いてしまうためか初めから持っていた仮説を当てはめようとするようになり、実際いくつかの社会学の論文を見ていると最初に作った仮説を無理やり結論として当てはめようする者が少なくありません。

 では大衆の中から観察するのがベストなのか。これにもメリットとデメリットはあり、メリットは最初から持っていた既存の考えを当て込み辛くなること、デメリットは逆に大衆の中でそうだと考えられている意見をそのまま結論にもって来ようとすることです。ちょうどさっきの逆みたいな感じです。

 それでは私はどっちの立場を取っているのかというと、基本的には自分は大衆の一部だという前提で物を考えています。ただちょっと他の人と比べ特別なのは、自分は大衆の一部ではあるものの、影響力の度合いはほぼ全くないものの、その大衆の思考を変え得る変数であるという前提を常に持っています。つまり私の行動や活動次第では大衆は考え方や行動を変えることもあり得るとして、では何にすれば大衆は変わるのか、逆に何があるせいで大衆は変わらないのかという点を重点的に考えて傾向なり法則を見出そうとしています。
 なかなか我ながら変なことを言いますが、大衆は常に変化を続けておりその変化点をどのように掴むのかが重要であるように思え、これらを掴むことによって大衆というものを把握できるのではと私は考えています。逆を言えば大衆というのは決まった形を保持しているわけでなく、徐々に変化を続けておりその変化を追うことによって現在の状態を見れると思うわけです。

 もうさっきから読者置いてけぼりで好き勝手書いていますが、こうした視点の工夫によって恐らく自分の見方なり視点はほかの人と異なってて、それがこのブログの読者にも評価されているのではないかと思います。私自身は日本人ではありますがもう価値観や概念で言えば確実に一般の日本人とは大きな隔たりがあるものの、それでも日本人という枠の中で大衆を考えてるのが不思議と言えば不思議です。

2015年7月23日木曜日

家庭で親から受ける精神的影響

 昨日は負の連鎖を避けるためにも教育において家庭と学校の距離をしっかりと置いて、学校は独立した立場で子供に教育をしなくてはならないという持論を勝手に展開しました。物のついでなので今日は、家庭で親から受ける精神的な影響についてまたかってな主張を述べていくこととします。

 私は教育学を学んでいないのであくまで社会学の目線でこのテーマについて語っていきますが、社会学において個人の心的発達を考える場合、両親のことを「重要な他者」という言葉で表現します。この言葉の表現する通りに子供が親から受ける精神的影響は計り知れないほどに大きく、人格形成において一般常識通りに無視してはならない存在だと考えます。
 何もここで私がもったいぶって言わなくても、子供というのは多かれ少なかれ親の影響を受けて、その性格も多少なりとも親に似てくるところがあるのは周知の事実でしょう。ただこれだけを語るのであれば芸がないのでここで一工夫したことを書くと、子供が親のことを慕っていようが憎んでいようがその性格は似てくる傾向がある、と私は考えております。

 仲のいい親子で性格が似てくるというのは素直に想像できるでしょうが、仲の悪い親子同士でも性格が似てくると言っても疑問に持つ方もおられるかと思います。しかしこれまでの私の経験から言うと案外この傾向はあり、口汚く片方を批判する姿がもう片方が同じように批判する姿と非常にそっくりだなとみて、「なんだかんだ言いながらよく似てやがる」とほくそ笑んだことも少なくありません。

 では一体何故仲が悪くても似てくるのか。やや極端な例ですが、暴力の激しい家庭なんかがこれを考える上でいいモデルケースじゃないかと思えます。父親が激しく暴力を振るう家庭に生まれ、小さい時から散々に抑圧されてきた子供が成長して同じように子供を持つと何故かかつての父親のように激しく暴力を振るう親となる、このようなケースを耳にしたことのある人は少なくないでしょう。とある教育本で、「暴力で教えられた子供は暴力で解決しようとして、会話で諭された子供は会話で解決しようとする」と教える内容があるそうですが、社会学的にこの過程を分析するなら説得手段がただ単に暴力や会話だったからではなく、単純に親の性格を受け継いだからではと私なりには考えます。

 仮に嫌う人間がいたとしたらそのような人間になりたくないと思うのが普通です。しかし実際には部活動の上級生から下級生へのしごきのように、理不尽な行為を受けた人間が長じて同じような理不尽な行為を課すことは珍しくはないでしょう。
 昔、哲学科出身の友人にこういう事例を話題にしたところ、「恐怖というのは憧れと紙一重だ」といったような内容を教えられました。曰く、暴力に晒されている間は恐怖を感じて強いストレスを覚えるが、その一方で自分もこのような強い人間になりたい、他者をねじ伏せたいという憧れに似た願望が芽生えるそうです。この説明を聞いてなんとなくそうかもしれないと思うと同時に、虐待とまで行かなくても仲の悪い親子間で「こんな人間になるもんか」と思いつつも案外、そのような立場に取って代わりたいという憧れに似た感情を持つ人も少なくないのではと思え、なんかいろいろな疑問が氷解したのをまだ覚えてます。

 何が言いたいのかというと、親子間で仲が良かろうが悪かろうがどうあがいても親からの影響を子供は免れ得ないと言いたいわけです。下手すれば憎悪という感情が強い分、仲のいい親子より仲の悪い親子の方が案外似た者親子になるかもしれません。

 ただもしそうだとすると虐待を受けた子供は将来虐待を必ず行うということになりかねず、人文主義者でもある私の立場からするとそれは認めることができず、必ず後天的な教育によって人間は真っ当に生まれ変われるはずだとして最初に述べた学校の独立性を担保することで矯正を行う価値を強調したいわけです。
 学校で矯正できるとはいっても、親からの影響を100%排除することはやっぱり難しいでしょう。それほどまでに親からの影響は半端なく強いだけに、だからこそ虐待するなどといったおかしな価値観を持つ親からはもっと積極的に子供を隔離させるべきだと思え、子供は社会で育てるものとして行政にもそのような強い権限を持たせるべきではないかと個人的に思います。

 最後に逆の話として、親からの精神的影響をほとんど受けない人間とはどういう人間なのかを考えてみます。勝手な推論ながら結論から言うと幼少時から自我が相当強い人間、言い換えるなら人の話を全く聞かないアナキン・スカイウォーカーのような人間がそれに当たると自分を省みながら思います。
 人の話を聞かないことに関しては周囲から定評がある私ですが、これも周囲から言われますがほとんど親から性格的な影響を受け継がずに今日までやってきてしまいました。なんで昔から自我が強かったのかというともはや先天的としか言いようがありませんが両親と比べても性格的に一致する部分はほとんどなく、価値観に至っては完全に正反対と言っていいほど異なっています。
 もっとも冷静に考えると別に両親に限らなくても、自分みたくハイリスキーな性格が一致する人間というのが周囲に誰もいないように思え、親からの影響云々を議論する以前なような気がします私に関しては。

 なお名古屋に左遷された親父とは趣味は合ってても性格なり行動原理は全く逆と言っていいほど違ってますが、アルコールに弱いという身体的な特徴は完全に遺伝してどっちも甘党です。辛い物は自分の方が親父よりやや耐性が強く、上海で一回火鍋屋に連れて行ったら途中から親父は何も食べなくなりました。

2015年7月22日水曜日

家庭と学校を隔離する必要性

 先日知り合いにちょっと妙なことを吹き込んだので、それとやや関連するネタとして家庭と学校を隔離する必要性について今日は書くことにします。結論から言って、学校は家庭とは隔離するというか一種独立した立場を維持しなければならないと私は考えており、みだりに保護者の意見を聞いたりしてはならない上にむしろ家庭に対して口出しするべき立場を取るべきじゃないかと思います。

 まず何でもってこんなことを言うのかというと、中国で普段目にする子供があまりにもバーバリアンばかりだからです。そりゃ子どもなんだからと自分でも思うものの、中国の子供の身勝手さは日本の子供とは次元が違い、温厚な自分ですらたまにハッサンの様に「とびひざげり」とか「せいけんづき」を全力でかましたくなることがあります。
 どれくらいひどいのか具体例を出すと、これなんか昨日ケンタッキーのレジ前に並んでいたところ、前列が子連れの親子でしたが子供の方は常に動き回ってて、レジの乗ってあるテーブルに飛び乗ったり、飛び降りたりを繰り返し、私がオーダーする版になっても横で飛び乗ったり、飛び降りたりしていて何やねんと思いつつ母親を見ると、そ知らぬふりして携帯を見ているだけでした。

 こういう例は中国にいると本当に多く、電車やバス内を全力で走り回って他人とぶつかってもやめなかったり、金切り声をやたらめったら上げ続けたり、所構わず5秒ごとに唾を吐いたり(これは大人も)と、ガチで文明がない状態とはこういう事かと見ていてつくづく思い知らされます。しかもこのように子供が好き勝手やっている横でその親は大抵はニコニコ見守ってたり携帯見てたりしていて、一向に注意する雰囲気がないのが見ていてほんと腹が立ってきます。
 数少ない例ですが、中にはちゃんと注意する大人もいます。自分が見たのは一回だけですが、高速鉄道の中で大きな声を上げる子供に対して、「電車の中だから静かにしなさい」と、教養のありそうなお父さんが注意したのを目撃しています。逆を言えばマジでこれっきりなんだけど。

 こうした中国のバーバリアンを見ていて思うこととしては、親が親だから子も子なんだろうというのが何よりも大きいです。こうした無作法を無作法と思わない親だからこそ子も無作法とは思わずバーバリアンとなる、いわばバーバリアンの再生産が際限なく繰り返されているからこそ中国は大人も至ってマナーが悪い人が多いと言っても間違いないでしょう。
 ではこうした負の連鎖を止めるにはどうすればいいのか。やはり一番重要な役割を期待できるのは学校教育で、家庭では常識であることを一般社会では常識ではないと突っぱね、きちんとした価値観を子供に培ってもらうことが文明化への第一歩でしょう。実際明治期の日本における学校教育はこうした面を多分に含んでおり、日本という国家意識を植え付けると共に地域ごとの妙な悪習やら迷信を取っ払い、「日本人としての常識」を全国統一的に作り出す役割が大きかったと思います。もっともその過程で妖怪が隅に追いやられた感もありますが。

 翻って現代日本。いじめによる自殺があれだけ大きく騒がれたにもかかわらず私の予言通りにやっぱりまた繰り返されるなど学校教育に対する信頼感がやや薄れてきていると共に、家庭の一般的な価値観をもっと学校にも反映すべきだというような声も高まっているようにこのところ思います。しかし私の意見はというと学校はやはり家庭とは一線を画した立場を保持するべきで、学校があくまでまともな常識を持っていることが前提ですが、家庭の常識の介入を排した独立した概念をしっかりと子供に伝える役割を持つべきだと考えます。何故なら明らかに社会の常識から逸脱した親も今もってな多いので、そうした親による負の再生産を食い止めるためにも学校は家庭の声を必要以上に聞いてはならないと考えるからです。

 このように考えてみると、いじめ問題のアプローチもちょっと方向性が変わった見方が出てきます。よくいじめ自殺が起こると自殺した生徒をどうして守れなかったのか、どうすれば守れたのかというのが議論となりますが、逆のアプローチをかけるとならば、いじめっ子をいじめることのない無難な人物に変えることはできなかったのか、この点についてももう少し議論があってもいいような気がします。
 私が何を言いたいのかは薄々読んでてわかるでしょうが、報道されている話を見る限りだと案外いじめっ子の家庭というや両親も「ちょっと……」と思わせられるような人が多いようにみえます。そうした親から悪い因子を受け継がせないような教育、繰り返しになりますが負の連鎖を断つ教育法についての議論もあってもいいのではと個人的に思うわけです。

  おまけ
 昔、ある友人に「子育てをしないライオン」の話をしたことがあります。どういう話かというと子育てをしないライオン(♀)は子供を生んでも子育てをしないので、結果的にその子供は死んでしまってそのライオンの遺伝子は後世に伝わず、一種適者生存のような形でちゃんと子育てをするライオンの遺伝子だけが後世に伝えられるというわけです。この話に友人、「うんうん、そりゃそうだね」と納得してたので続けて私は、

「子育てをしないライオンの子供は死んでいく。しかし、人間社会の場合だと行政とかが介入するので……」
「よせ、それ以上言っては駄目だ!」

 と、友人にガチでそれ以上話を続けるのを止められましたが、改めて思い返すにつけ当時も感じましたがいい友人を持ったなと思います。しかし現実問題として虐待を受けた子供は長じて自分の子に虐待を行う確率が優位に高いのは事実であるため、だからこそここで述べた「家庭と隔離する教育」というものをある程度確立させる必要があると案外昔から考えているわけです。

2015年4月10日金曜日

教育におけるインプット、アウトプット

 このブログでは政治から歴史、文化に渡って結構幅広い内容を取り扱っていますが、これだけあれこれ書いているだけあって日常生活でもよく知識の豊富さを周りから誉めてもらえることが多いです。その際、「花園さんって頭いいんですね」って言葉もよくかけてもらえるのですが、本音を述べると実はあんま頭はいい方ではない、というより理解力は存外低いのではないかという自己分析しております。

 自分が進学した大学はそこそこレベルの高い大学で、模試ではずっとE判定だったにも関わらず問題の相性が良かったのかC判定の所には落ちたくせして何故だか受かり、私は運良く通うことが出来ました。しかし多少分不相応というか、大学でできた友人らと話していると明らかに周囲とのレベルの差を覚え、特に何かを暗記したり内容を理解したりする速度で歴然とした差がありました。具体的な数値で上げると、一般人が3ステップで理解する内容を大学時代の友人は1ステップで理解してしまっており、文字通り周りは通常の三倍の速度で動くような連中でした。
 なお自分の理解する速度を先程の数値で表すと、よくて3ステップで下手すりゃ4ステップか5ステップ、換言すれば一般レベルよりも理解速度が遅いのではとも考えています。実際妙な所でどんくさかったり、物覚えが悪くて同じミスを繰り返したりする傾向があり、この辺は改善しようと思ってもなかなか効かないのが苦しい部分です。

 だったら何故、理解する速度が遅いにもかかわらずそこそこ豊富な知識を私は持ち得たのか。私の勝手な推測としては、理解する速度は遅いものの頭の回転速度が極端に早いため、なんとか補っているのではないかという仮説を立てています。たとえば暗記ですと、何の脈絡も傾向性もない単語や配列を暗記できるまでには通常7回覚えて、忘れてを繰り返す必要があるそうなのですが、理解度の早い人はこれの繰り返しを3回程度で終わらせてしまうのだと思います。で、人より理解の悪い私はというと暗記するまでこの過程を10回くらい繰り返しているのかもしれませんが、そのかわり覚える速度も忘れる速度も通常の2倍くらい早く、他の人が5回覚えて忘れてを繰り返す間に10回こなしてしまっており、結果的にはほかの人よりやや早く暗記を達成できているのではなんて考えています。

 もちろんこれは勝手な憶測であってるかどうかは全く保障できませんが、知識を頭にインプットする「理解する力」というのは極論すると下記のような数式で成り立つのではと思えます。

  理解速度×回転速度=理解力

 なのでただ単に理解力を高めようとするのではなく、理解速度と回転速度のどっちを高めるのかを意識して取り組むと教育的に面白いのではないかと思います。もっとも、案外この二つとも鍛えるのは難しいような気もしますが。

 ここで少し話題を変えますが偏見かもしれない意見を述べると、理解速度の速い人は概して他人に物を教えるのが下手だとも私は考えています。

 このように考えるようになったきっかけは二つあり、一つは幕末の新撰組にいた沖田総司は剣の腕は隊の中でもナンバー1だったものの、こと指導に当たっては全く下手で誰も教わりたがらなかったというエピソードで、沖田に限らず天才型の人間は指導が下手だということをよく聞きます。野球の長嶋茂雄氏も、「ここをガーッと行って、クワっとこうして」などと言いながら指導するので聞いてる方はよくわからないらしいし。
 もう一つのきっかけは私の友人で、明らかに理解速度は常人を遥かに凌いでいるものの、何かを説明してもらったり解説させてもいまいちピンとこないというか聞いてて核心が掴めないことが多かったからです。

 先ほどの数式を用いてこの理由を説明すると、一般の人が理解するまで3ステップ必要な内容を上記の天才型の人間は恐らく1ステップで理解してしまうとします。なので天才型が他人にその内容を教えようとすると、一般人は3ステップを踏まないといけないのに結局1ステップ分の説明しかしようとせず、というか1ステップで理解するやり方しか知らないため聞いてる方はそれだと上手く理解できず、「常人には理解できない領域」というものが出来上がってしまうのではというのが私の憶測です。
 なもんだから先程の大学時代の友人に対し私はよく、「俺は君に理解する速度では逆立ちしたって敵わないが、他人に物を教える指導力で君はどうあがいても俺には勝てないよ」とよく言ってやったもんです。実際、指導するという意味では回り道を多くしている人間というか理解速度の遅い人の方が案外うまいのではとも考えています。ヤンキー出身の先生を持ち上げるわけではないですが……。

 ただもう一つ、指導において重要な要素に表現力というものがある気がします。表現力というのは読んでそのままの言いたいこと、伝えたいことを言葉にしたり文章に書く力ですが、この表現力の優劣というのは指導力に対してダイレクトに影響を与えると断言します。
 ちょっと自慢をすると私は人に指導する事に関してはそこそこ自信があり、これまでも割と隙のない作業マニュアルを多数作ってたりすれば、直接での指導でもうまく相手に理解させられている手応えを感じます。なんでうまく教えられるのかは理解速度がやや遅いこともあるでしょうがそれ以上に、中学生時代からほとんど絶やさずに続けている日々の執筆によって表現力が鍛えられ、何をどう言えば相手がどのように受け取るかということを周囲よりもやや把握出来ていることが大きいように思えます。逆を言えば理解速度が極端に速い人でも、表現力の高い人は指導も案外上手だったりするし、逆に理解速度が遅くても表現力のない人の指導は聞いてて全く分からない気がします。

 というわけで最後に、教育におけるアウトプットこと指導力について、インプットこと理解力と同じように数式を立てると以下のようになるのではとここで提示します。

  表現力÷理解速度=指導力 (理解速度≧1)

 よく理解力や指導力をどう上げるかという議論を見ますが、これらを構成する要素に着目して議論した方が面白いのではないかと思え、暇な時なんかこういう数式作って遊んでたりします。

2013年11月26日火曜日

部活動での拘束の是非

 昨日は緊急的に中国の話題を記事に書くこととなったので、当初予定していた一昨日の記事の続きを今日書きます。
 おさらいをすると一昨日の記事では公立中学校での朝練の廃止を長野県が検討していることを取り上げ、日本の部活動はやや勝利至上主義に走りすぎていてかえって青少年の心身の成長、ならびに学業に悪い影響を与えているのではないかという私の意見を紹介しましたが、今日はさらにアクセル踏んで日本の部活動に対して私が不満に思う悪口を書いてこうと思います。ちなみに「迷ったらアクセルを踏め」というのはコリン・マクレーというレーサーの言葉ですが、この言葉をベストカーという雑誌で引用した山路徹氏は二年前の不倫騒動を振り返って、「この言葉を思い出してアクセルを踏みました」と述べています。いい意味で懲りない人です。

 話は本題に入りますが、まず率直に言って私は日本の部活動文化が自分自身が中学、高校生だった頃から嫌いでした。その理由というのも単純に拘束が多いという一言に尽き、どうして課外活動であれやこれやといちいち細かく指示されないといけないんだよと不満で仕方なく、結局週三日だけ放課後の練習に出ればいいという緩さから中学校時代と高校の始めまで水泳部に所属しました。

 その過剰と思える部活動の拘束ですが、やや凝った言い方をすると文化系の部活ならともかく、運動部系の部活だと入部した時点で学校生活が部活動中心になってしまうというのが腑に落ちません。月から金のウイークデイの放課後は必ず練習に参加。そして土日も練習のため登校せねばならず、日常生活の大部分の時間を部活動に取られることとなってしまいます。
 もちろんその運動部で行っているスポーツ種目が大好きで仕方のない人はいいでしょうが、みんながみんなそうというわけでもなく、本当はサボりたいけどそのスポーツ種目をやるためには仕方ないからいやいや参加しているという子も少なくはない気がします。下手すればそのように練習づめにされて拘束されるのが嫌で、そのスポーツ種目自体は大好きなんだけど部活には参加しないって子もいるかもしれません。

 厳しいことを言えば、日本の運動部の部活動は多少は体を鍛える効果があるかもしれませんが、少なくとも生徒の競技に対するやる気を伸ばしているかといったら全く伸ばしていないと言っても過言じゃないでしょう。少し興味はあるんだけど必死こいてまでやりたくないという生徒は最初の段階で切り捨ててしまっており、その切り捨てによってもしかしたらその競技に非凡な才能を持っていたかもしれない人間の多くを無駄にしてしまっているのかもしれません。
 仮定の話が続きますが、最初は週二日くらいの練習でいいやと思って練習に参加しているうち、どんどんとやる気が湧いてきて最終的には週五日フルに参加してくる生徒もいるかもしれません。しかし日本の現在の部活動は週二日しか参加しない奴なんて初めから相手にせず入部を認めない可能性もあり、そう考えるとなんかもったいない指導しているなという気がしてなりません。

 私が何を言いたいのかというと、少なくとも中学までの部活動に関しては学校側は練習を強制せず、あくまで生徒の自主参加という形で指導するべきだということです。月から金の放課後練習には参加するが土日の練習には来ない生徒もいれば、土日も含めて全参加、はたまた逆に土日だけ参加するっていう生徒があってもいいような気がします。また一つの部活だけで活動するわけでなく月火水は陸上部、木金は水泳部の練習に参加するという選択肢もあっていいと思うのですが、こんなやり方を認める学校なんて私の知る限りではありません。
 恐らくこういうやり方を提案したところで多くの指導者並びに関係者からは、それじゃ団結力が生まれないだとか生徒によって運動能力にばらつきが出て指導し辛くなるとかいう意見が飛んできそうですが、私としては一緒に長く運動すれば必ずしも団結力が生まれるとは限らないと思うし、普通の部活でも生徒個人個人によって運動能力にばらつきは出るのだから、練習メニューを工夫すればどうとでも対応できる気がします。

 もちろん試合などに参加できるのは熱心に練習に参加している生徒でいいと思いますが、私自身がそうだったのですが試合とかに出なくてもいいから自分のペースで練習したいという生徒のニーズをもうちょっと汲んでもらいたいと思います。また同時に、一つのスポーツだけでなく複数のスポーツを楽しみたいという生徒もいるのであればなるべくしてその希望を叶えるように動くというのが本来あるべき学校の形じゃないでしょうか。
 少なくとも中学校の部活動に関しては、進学できる学校を生徒自身が選んでいることはほとんどないため、試合で勝つことを目的としてはならずあくまで生徒のスポーツに対する興味を育てることに重点を置くべきでしょう。ただ高校は生徒も進学先をある程度選べるし、熱心にスポーツやりたい子はそういうスポーツが盛んな学校に向かうことを考えると、多少は勝利を優先して部活動での拘束もあっていいとは思いますが。

 結論をまとめると、日本の部活動はやや硬直的で幅がなく、それがために高いポテンシャルを秘めている生徒を無駄にしてしまっているのではないかというのが私の意見です。こういう風に思うのも私自身が生来から協調性がないのが最大の要因ですが日本の部活動になじめず、同じような友人と一緒に「好きな時に好きなだけ運動したいよねぇ」とよく語っていたからというのと、サッカーは異常なほど大好きだけど部活の練習が嫌でサッカー部に入らなかった友人が身近にいたからです。

 それにしてもというか、また日本人批判になってしまいますが日本社会はどこを見回しても幅の狭い人生しか送れない仕組みになっているような気がしてなりません。この部活動一つとっても最初に書いたように日常生活が部活動中心になってしまう可能性が高く、また社会人も仕事を取るなら家庭を捨てなければという概念が未だに半端なく強いです。まるで「何か一つを選択するならほかのすべてを投げ捨てろ」と言わんばかりの価値概念で、何の根拠もなくこういう事を平然と要求してくる日本人のカビの生えたような思想が大っ嫌いです。「あれもしたい、これもしたい」というのは一見贅沢に見えるかもしれませんが、見方を変えればあらゆることにチャレンジしようとする心の表れでもあり、そうした可能性を摘み取るろうとする日本人は本当に自分の敵だと思います。

2013年11月24日日曜日

部活動での朝練の是非

長野県「朝練廃止」 中学生部活動 「睡眠不足、成長に弊害」(産経新聞)

 上記はちょっと古いニュースですが個人的にかなり目を引いたニュースなので記事内容の紹介と共に私の見解をつらつら書いていきます

 記事の内容は見出しそのままで長野県県内の公立中学校行われている部活動朝練こと早朝練習の廃止を検討しているとのことです何故朝練廃止しようとするのかというと朝練をすることによって生徒睡眠不足を引き起こ学業成長悪影響が起こるだけでなく過度な練習による勝利至上主義走りかねないという理由からです
 私の結論を先に述べると、実にまともな提案であり是非そのまま朝練を廃止するべきでしょう。

 前もって言っておくと私はスポーツ科学に造詣が深いというわけでもなくただの素人ですが、その素人の目から言っても朝起きてすぐにきつい運動するのはどう考えたって体にいいわけないとしか思えません。特に冬場だと寒さから体の動きが鈍くなり怪我する可能性も高く、軽めのジョギングやストレッチなどにとどめるのならともかく、今日び日本の部活動で実施されているような練習量は明らかに度が過ぎている気がします。
 なおかつ今回の提言でも書いてある通り、朝6時に起きて7時から8時まで練習し、それから授業に出ると言ってもそりゃあ集中力が落ちるに決まってます。勉強だけが学校生活だけじゃないですが、効率が悪いとしか思えない朝練をしてまで集中力下げるってのは不毛以外の何物でもないでしょう。

 そして何と言っても大事なのは、学校の部活動は心身の教育が最重要であり試合に勝つことではありません。大阪の桜宮高校の体罰事件も最近は語られることが少なくなってきましたが、健康が学業に影響を及ぼしかねない練習を行うのはやっぱりこの勝利至上主義が背景にあるような気がします。いくら上から指導しても現場が従わないというのなら、この長野県の様に原則廃止するという手段を講じることが一番に思えます。
 こうした考えと関連するというか、同じくスポーツ教育で気になるニュースがもう一つあります。

甲子園を目指さない野球部」とは?(R25)

 上記のニュースによると、芦屋学園中・高校が来年にも高野連に加入せず予選を含め甲子園に出場しない野球部を作るそうです。高野連に加入しないことで引退したプロ野球選手などからの指導が受けられたり、地方リーグのチームとの対戦が出来るということがメリットだそうですが、それと共に必ずしも甲子園で勝つことを目的とせずプロを目指すような選手を育成することが目的だと書かれてあります。

 率直に言ってこの構想は非常に面白く、実に先行きが楽しみな話です。そもそもの話、日本の部活動は試合に勝つことが目的とされていることが非常に多く、芦屋学園みたいにプロになることを見越した教育がなかったり、あときつい練習してまで試合に勝ちたくないけど自分のペースでその競技を練習したい、楽しみたいという人に門戸があまりにも開かれていない気がします。
 まとめて書こうと思ったけどちょっと話題が逸れていくので、また次回にでも日本の部活動に対して私が疑問に思っていることを書きます。

2013年10月22日火曜日

私立校教師の指導力について

 何度もこのブログで書いているので知っている方も多いでしょうが、私は中学受験をして私立の中高一貫校に通った経歴を持っております。そんな私の個人的な意見として、進学校とされる私立校の教師は世間で見られるほど指導力が高くはないのではないかという気がします。

 私の経験談で話すと確かに通った中学、高校には熱心な教師もいて教え方も上手な人もいましたが、それは必ずしも全員ではなく、教科によってははっきり言って教え方が非常に悪い教師もいました。なんでそんなことが言えるのかというと、同じ学年内でたとえば数学なら数学、理科なら理科でクラス別に指導する教師が異なってて、ある教師のクラスだけが極端に平均点が低く大きな差がついたことがあったり、あと私自身の体験としては進級して指導教師が変わるや途端にその科目の点数が伸びたりすることもありました。まぁこれは相性が良かっただけかもしれませんが。

 はっきり言って私の通った学校は世間一般では進学校として通っておりましたが、ただ教科の進捗スピードが速いだけで教師の教え方が上手いかどうかでみると結構微妙だったと思います。先程の様に一部の教師が極端に教え方が悪いというのもありましたが全体で見ても、「進学校だから教師の指導がいい」とはとても言えない学校でした。
 このように考える根拠としては実にシンプルな理由が二つあり、一つは校内の成績上位者はみんな学外の予備校なりに通っている人間だったことと、勉強について行けず落ちこぼれる生徒は果てしなく成績が落ち込んで行ったからです。かくいう私も中学時代の成績は下から数えればすぐに数えられる水準だったのですが、高校進学後に予備校に通うや一気に成績が跳ね上がって、自分で「学校通う意味あんのかこの結果は?」などと自分でツッコんだくらいです。単純に予備校教師と比べても授業時間数は少ないにもかかわらず理解度は予備校のが勝ってたし、成人して中学校時代の授業を思い出すにつれてなんであんな妙な教え方してたんだあの教師はと思う事すらあります。

 それでここからがミソなのですが、何故教師の指導力がそれほどでもないのにその学校は進学校と呼ばれたのか、結論から言うと選抜試験が難しくて倍率が高く、いい素材というか学力の高い子供が入学してくるからじゃないかと勝手に睨んでいます。

 これは予備校で働いている友人が言ってたことですが、やっぱり子供によって理解力には差があり、理解力が高い子どもの方が教える側としては楽だそうです。私自身も大学時代に後輩を指導した際、その理解度の差というか反応速度の違いは人によってはっきりと感じます。
 思うに、自分の通った中学、高校はそこそこ県下で知名度があって人気だったことから優秀な生徒を集めやすく、その優秀な生徒の上に胡坐をかくというか、教師の教え方が悪くても生徒はきちんと理解して、そこそこいい大学に進学する人間も出てくることから進学校として成立してたんじゃないかという、かなり不届きな考えを持っています。

 敢えて学力を料理にたとえると、生徒自身の理解力なり才能は素材で、教師の指導というのは調理技術に当たります。極論を述べると素材さえよければ調理技術が如何に未熟でもそれなりの料理は出来てしまいます。素材が悪いにもかかわらずまともな料理に仕立て上げる、またはいい素材を存分に活用して上等な料理をこしらえてこそ一流の料理人であって、教師にも同じことが言えるのではないでしょうか。

 なんでこんな愛校心の欠片もない記事を書こうとしたのかというと、前述のある中学校教師の授業中の言葉を何故か突然思い出したからです。そのセリフというのはその教師の担当科目でテストの平均点が悪かった際に、「なんでお前たちは上の学年よりこんなに出来が悪いんだ」というものでした。単純に上の学年より素材が悪くて申し訳ないとしか私としては言えないのですが、さっきのセリフは悪い素材じゃもうお手上げだと言ってるようなもので、わざわざ自分の無能ぶりを棚に上げなくてもという気も今更ながらします。ここまで言えばわかるでしょうが、学力の低い生徒を引っ張り上げてくる教師こそ指導力のある教師だと私は考えているわけです。

2013年10月9日水曜日

父性意識の強い所にオカマは多いのか?

 また関係ない所から話を始めますが、先程シャワー浴びている最中に郵便が来ました。私がシャワーを浴びる際はまず最初に体を石鹸で洗い、そしてそのまま髪をシャンプーで洗い、最後に一気に水を浴びて頭も体も一緒に流すことで水代とガス代をケチっています。でもって、さっき郵便が来た時はちょうど髪洗って水を流そうとする直前の満身創痍という状態でした。しょうがないから腰にタオル巻いて玄関先出ましたけど、頭も体も全身泡だらけの姿の登場に配達員も驚いただろうな。まだおじさんの配達員で本当によかった。

 それでは本題に入りますが、まず個人的な意見ですが「男とはこうあるべき!」っていう具合で父性意識の強い地域ほど、オカマ系タレントをよく輩出しているのではないかという仮説を前から持っています。日本の地域で具体的にそれはどこかというと北海道と九州で、両方とも「男は黙ってサッポロビール」みたいに口数少なく亭主関白であるほうがいいという文化が強い地域です。
 それで早速、この二つの地域出身のオカマタレントを調べてみたので下記に列記します。

・KABAちゃん(福岡)
・IKKO(福岡)
・IKKO(福岡県)
・美輪明宏(長崎)
・カルーセル麻紀(北海道)


 正直に言って、思ってたより少なかったというのが本音でです。それにしても芸能人輩出率が高いだけあって福岡は多いな……。

 一体なんで私がこんな仮説を持ったのかというと、かなり昔に笑っていいともで、「○○なのに××」という企画があり、経歴に比してギャップの強い素人を募集する企画がありました。その規格である日、「九州男児なのに××」というテーマで募集があったところ、スタジオに出てきたのは全員オカマで、「こういう企画だったのかよ!」ってタモリも吠えておりました。
 この番組を見ている際に思いついたのが先ほども言った通り、「父性意識の強いところほどオカマが生まれるのでは」という概念で、要するに「男はこうであれ!」と強く言い過ぎると逆コース(オネエ)に発展していく可能性もあるのではということです。

 考えてみればサブカルチャーにも同じようなネタが数多くある気がします。ヤクザの家でただ一人の男の子だから厳しく育てようとしたところ逆にオカマになるとか(「ストップ!!ひばり君」)、資産家の家に生まれた娘をレディにしようと教育したらお転婆になっちゃったっていう展開は少女漫画では鉄板です。まぁ「ベルサイユの薔薇」ではオスカルは初めから男として育てられて見事に期待に応えたけどさ。

 実際にあるかどうかわからないしあくまで仮説であることに変わりはありませんが、教育において一方向の方針を指し示すと、その方向に成長する(順コース)一方で逆方向にも成長する(逆コース)要素があるんじゃないかという気がします。それこそたとえば勉強を強制させすぎたら逆に大嫌いになったり、警官の家なのに息子はグレてたりとか。
 じゃあどんな風に教育すればいいのかですが、そこらへんは教育専門家に聞いてと投げたいところですが敢えて私の口から言わせてもらうと、「北風と太陽」じゃないですけど直接的にではなく間接的に方向を指し示すくらいがベターじゃないかという気がします。たとえばなってもらいたい人物像に近い偉人の伝記をさりげなく読ませるなどという方法がありますが、タレントの中川翔子氏のお父さんは幼児だったしょこたんにいきなり楳図かずおの漫画を読ませたらしく、実際に娘がそっち方向に行ったことを考えるとやっぱ効果あるんじゃないかな。

2013年6月16日日曜日

大卒内定率データは正しいのか

 コメント欄でちょこっと聞かれたのと前から興味があったので、日本の大卒内定率について思うことを書いて行こうと思います。

平成24年度「大学等卒業者の就職状況調査」(平成25年4月1日現在)(厚生労働省)

 まず現状で最新となる2013月卒の学生の内定率データですが厚生労働省によると前年同期比0.3ポイント増の93.9%だったそうですこの数値から言えば、大学生100人中94人が内定を取得していたという計算になるのですが、果たして額面通りに受け取っていいものか疑問に感じます。というのもそんなに内定率が高ければ就職状況は非常にいいと言ってもいい状況だというのに、報道を見る限りだと今年も例年通り、学生は内定取得に苦労しており卒業間際になっても進路の決まっていない学生が多いように見えます。

「内定率」カラクリ 実際は60~70%? 留年組は「就職希望者」に含まれず ブランド校もずらり(産経新聞)

 そんな私の疑問に答えてくれるかのように、「内定塾」の創業者である宮川洋氏は上記リンク先の記事を書いてくれております。この記事によると、厚生労働省が発表している内定率調査は偏差値の高い大学の学生しか対象としておらず、言うなれば実態を反映した数字ではないそうです。では実際の内定率はどの程度かというと見出しにも書かれている通り、60~70%くらいが実態ではないかと予想しております。
 あくまで私の肌感覚ではありますが、宮川氏の言う通りに半数にあたる50%よりやや多い、60%くらいが適当な数字だと私も思います。ただそれにしたって厚生労働省の統計発表とは隔たりがあるようなという気もするのですが、改めて厚生労働省のレポートを仔細に見てみると確かに妙な記述が目に入ります。

 一番気になるというか諸悪の根源に当たる調査対象の項目ですが、そのまま引用すると下記の通りです。

「調査対象は、全国の大学、短期大学、高等専門学校、専修学校の中から、設置者や地域などを考慮して抽出した112校、6,250人です」

「調査校112校の内訳は、国立大学21校、公立大学3校、私立大学20校、高等専門学校10校、専修学校20校。調査対象人員6,250人の内訳は、大学、短期大学、高等専門学校併せて5,690人、専修学校560人」

 この説明でおかしなところは、調査対象校を「無作為抽出(ランダムサンプリング)」で選んだとは書いていない点です。はっきり言いますが(はっきり言わないことの方が珍しいブログではありますが)このような統計調査ではランダムサンプリングで調査対象校を選ぶのが当然で、仮に地域を考慮するのであれば人口比から換算して九州は10校、関東は50校と学生数に比例して調査対象校の数を決め、その上で各地域ごとにランダムに対象校を選ぶ層化抽出法を取るのが自然です。しかしそういった調査手法を取っているとは全く書いておらず、やはり宮川氏の言う通りに恣意的に内定率が高く出る学校を選んでいるのではないかという気がしてなりません。

 その上でこちらは決定的に数字がおかしい点ですが、調査対象校の区分内訳として「国立大学21校、公立大学3校、私立大学38校」という数字を出しておりますが、ナレッジステーションのデータによると日本の大学数は783校で、区分内訳は、

  国立:公立:私立=86:92:605(実数)

 となっており、1の位を切って大まかな比率を求めると「8:9:60」という計算になります。この数字に対して厚生労働省の調査対象校の数は「21:3:20」(実数ベース)という具合に、実数的には7倍超も開きのある国立大学と私立大学がほぼ同数という奇妙な選ばれ方がされています。いうまでもなく国立大学は一般的に私立大学より高く評価されやすい面があるため、同じ偏差値でも国立出身の学生の方が内定率は高くなると予想されます。

 もうここまで来たら厚生労働省は確信犯的に内定率を高く見せるためにデータを弄っていると言わざるを得ません。どうも日本や中国といったアジア人というのは何かと統計データに感情をこめたがる傾向があり、実態を正しく理解するための統計数字を歪ませることが多いのですが、こんなことやって誰が得するのか非常に疑問です。というか、この調査を主導した責任者は明らかに能力に問題があるのだから早めにクビを切るべきでしょう。

 最後にもう一つ参考になるデータとして、下記の記事を紹介しておきます。

新卒ニート3万人は本当か、内定率改善も依然厳しい就職戦線(日経BP)

 こちらの記事は2012年10月に出されたやや古い記事ですが2012年3月卒の大卒就職率について、厚生労働省はは93.6%と発表したのに対し文部科学省は63.9%と発表したと報じております。この数字の開きは厚生労働省は就職希望者を母数にしているのに対して文部科学省は卒業者数を母数にしているためだとしていますが、それにしたって開きすぎもいい所ではという気がします。
 その上で文部科学省の調査では、

「(文部科学省の)学校基本調査によれば大学を今春卒業した約56万人のうち、進学も就職もしていない人が8万6000人(15.5%)を占める。そのうち5万3000人は進学準備や求職活動を行なっており、残りの3万3000人余りが分類では『その他』となっている」

 と書かれているようで、「その他」というのはニートに当たるのではと日経BPは書いております。この辺りの方が社会実態をよく表しているのではないかと私自身思います。それにしても今日の記事は引用ばかりであまり気分良くないな。

2013年3月10日日曜日

大学の統廃合について

 今日は国公立大学の前期試験の合格発表日だったらしいのですが、なんでも今年の東大文Ⅰは志願者数が少なかったためにセンター試験の結果による足切りが行われなかったそうです。近年は手の届きやすい大学に志望が集まる傾向があることから東大が敬遠された結果とも言えますが、それと共に少子化による影響も見逃せないでしょう。確かセンター試験の受験者数もこのところは年々減少していると言いますし。

 そんな受験者数が減る時代、個人的に大学教育で進めるべき改革は統廃合ではないかと思います。既に定員割れを起こしているFランク大学は数多く存在しておりますし、より学生数を絞り重点的な教育が行えるよう大学数を減らすことは私が主張するまでもなく重要です。ただ大学を減らすことによって弊害ももちろん生まれ、真っ先に思い付くのは大学教員のさらなる募集減少です。現状でも理系のポストドクターが仕官(就職)先もないまま不安定な立場に置かれていると言いますし、文系でも研究者を目指す立場の方々には逆風となるでしょう。更に言えば、廃校になる大学の教員なんかその次の日から職がなくなるからもっと深刻でしょう。

 だからといって統廃合をためらう必要はないでしょう。大学の統廃合を進めることによって一行当たりの学生数を増やすことで大学経営に当たっての資金問題も改善が期待できますし、また多くの学部・学科の学生が同じ学内で学ぶことによって得る経験も少なくないように思えます。

 最後に一つ雑談を入れますが、昨日にうちの親父から大学に戻る気はないかと問われました。私自身は勉強自体は好きですがあの大学のアカデミックな雰囲気というか、やんちゃしちゃいけない空気はどうにも好きになれずに研究者とかそういったものには一切憧れたことがないので「お断りだっ( ゚Д゚)」と拒否しました。大学生時代の恩師からも、「君からそう言う話が全く出てこないのが不思議に思ってた」と言われてましたが。

2012年10月10日水曜日

大学受験のセンター試験について

 あまり時間がないので簡単にまとめられる話というか前から言いたかったことを書こうと思います。
 センター試験と聞いて何のことかわからない人は多くないでしょうが、このセンター試験は日本の受験制度にかなり根付いてはいるものの未だに批判する声も多いです。具体的な批判点を挙げると、

1、マークシート方式のため数学などで解答幅が狭まる
2、統一的な試験のため大学の個性が出ない
3、思考、読解を問う問題が少ない

 上記の3つの批判点は私も理解できなくはないのですが、しいて言うと2番目の「大学の個性が出ない」というのは無視してもいいかと思います。この批判というのはどの大学も受験問題を独自に作成してこそ入学する学生に校風というか個性が出来るという主張で、センター試験のように統一的な問題ではそういった個性が出ず、入学する学生にも学校にもよくないという奴です、私個人的な意見としては、確かに大学ごとに試験内容が異なれば、たとえば思考力を問う問題が多い大学と素早く解いていく必要が多い問題が多い大学とでは個性が多少変わるでしょうが、それにしたってそれほど大きく違いは出ないかと思います。試験よりもやはり伝統というか学生の間にある空気というものが個性を作るのであって、試験ではないと思います。

 とまぁこんな具合でとにもかくにもいろいろ議論の種になっているこのセンター試験ですが、率直に言って私としては存続させるべきだという立場を取ります。確かに1番目、3番目のような試験方式上の欠点はあると認めますが、それを推しても地方の高校生らの負担を考えるとやはり恩恵の方が大きいと考えています。
 私自身は東京駅まで電車で一時間以内という比較的恵まれた場所に実家があったからよかったものの、地方の学生は東京の大学を受験するに当たってその度に上京しなければならず、滞在費用や移動費用を考えると受験費用でただでさえお金がかかっているというのに余計な負担が多すぎます。一部の大学は地方にも試験場を設けて対応していたりしていますが、センター試験による併願方式を使えばそうした移動を全くせず私立大学などを受験することができ、地方の高校生からしたら非常に助かるのではないかと思います。

 逆を言えば東京近辺の高校生はこういった地方の苦労をまるで理解していない節があるように見えます。私自身は極端に珍しいタイプで関東出身の癖に関西の大学に行きましたが、進学先で地方の高校生の話を聞いていると受験一つとっても都心部と地方部では大きな差があると強く実感させられました。
 なお私は進学した大学の試験を東京に設けられた試験場で受験しました。仮に東京に試験場が設けられなければ受験していなかったかもしれず、そう考えると進学先が肌に合ってたこともありますがよくぞ東京に試験場を設けてくれたと大学運営関係者に強く感謝したくなります。なお関西の私立大なんかこうして地方試験場をあちこちも受けますが、関東の私大はまだあまりそうしたことはしておりません。そのため私の大学の恩師なんか、「関東の大学が地方試験場を作らず王様商売をやってくれているからうちも受験者集まるけど、もしやられたらこっちも困るな」と話しておりました。

2012年7月31日火曜日

格差と教育

 教育とは何のためにあるかといえば一義的にはやはり全体の知識水準の向上ですが、副次的な要素として国家の力となる人材の育成と格差の是正があります。国家の力となる人材というのは代表的なのは官僚でそのほかとなると科学者や芸術家が挙がってきますが、これは裏を返すと国家の反逆者も同時に作ってしまうという面もあります。たとえば古来中国で行われていた官僚採用試験こと科挙を例にとると、確かに出自に関係なく優秀な人材を行政指導者に採用できた一方、大体どの王朝も科挙に落第した秀才止まりの人間が反乱起こして滅亡に追いやられてます。
 話は移って格差の是正ですが、これも科挙を例にすると「出自を問わない」というのが大きなポイントです。学力、いうなれば実力さえあれば金持ちだろうと貧乏人だろうと出世することが出来、機会の均等とも言ってですが貧困脱出の手段としても教育は大きな役割を果たしております。ただこの格差の是正に対する反論として、教育がさらなる格差を生んでいるという逆説的な意見もあり、今日はその辺と現状を簡単に解説します。

 まずこれまでの話として日本は諸外国と比べてよく、「東大にさえ入ればいくらでも成り上がれるから平等だ」と評されてきました。たとえどれだけ貧乏で有力者とのコネがなくとも、東大にさえ入れば官僚になりやすく、また民間企業でも出世しやすいという点で機会の均等は保たれていると言われてきました。ただこの東大に入るということについて近年、そもそも受験段階で格差が影響してきたという意見が強まってます。
 恐らく知っている方も多いでしょうが各大学に通う学生の両親の収入を調べたところ東大の学生は平均で一千万円を越すなど、他を突き放して断トツトップでした。この結果を取って有力者の子弟ほどまた有力者になりやすいとして、格差拡大に繋がっていると主張する人もおります。

 まず両親の資産が東大入学に影響するか否かといったら、相関しているとしか私も言いようがありませんしそれは事実です。では有力者の子息ほどまた有力者になりやすいのかについてですが、これは見方にもよって意見が分かれるかと思います。
 こっからは個人的な意見となりますが、最初の前提として東大が以前ほどブランド力を持っていないということ考慮に入れなくてはならないと思います。日本は少子化の影響で子供人口は減る一方で大学の定員は増えていき、かつては希少だった大学卒業生が今や多数派と言ってもいいくらい増加しております。東大単体を取ってしても、前は数万人に一人の割合だったのが大げさ位に言うと今だと数千人に一人くらいという具合に割合は確実に減少しており、以前ほどレアでなくなった分、社会での取り扱いも変わってきているでしょう。加えて最近は留学も一般的となり、「東大に入る価値」というものは軽くなっていると私は見ております。

 ただ東大に限らずとも、子供の学力はよく親の資産に影響するという意見も耳にします。これに関しては概ね同意で、毎月数万円の月謝を払って予備校に通えるか否かは教育指導要領の内容が大幅に削減されている今の学校社会だと明確な差となって跳ね返ってきます。また関東首都圏や学区制の如かれている京都や大阪などでは公立高校のレベルが私立高校に比べて低い傾向があり、自然と私立校に通えるほど余裕がある家の子弟が有利となる傾向があります。
 ここで唐突に結論を出しますが、よくいう大学の入学には親の資産が影響云々という議論は大学は関係なく、むしろその一歩手前の高校レベルでの公立と私立の差が影響しているのではというのが私の意見です。簡単にまとめると一部都道府県では公立校のレベルがあまりにも低く、私立校出身者が大学受験で有利となるために資産のある家が有利になる……といった具合です。

 公立公立とさっきから自分でも馬鹿にしてるんじゃないかと思うくらい悪く書いておりますが、これはあくまで学区制のある一部都道府県レベルの話です。逆に学区制のない地方、自分が知っている中だと愛知、岐阜、奈良の公立高校は下手な私立高校より受験体制がえげつなく、事実ある奈良の高校では日本史受験者に対し本来は一定度授業を受けさせないといけない世界史を一切教えずに日本史だけ教えるということを平気でやってました。でもってこの三県の上位公立高校出身者は明らかにものが違いました。
 ちょっと地元トークをすると実家のある千葉県の公立高校は大まかに学区が分かれていますが、それでも上位校と下位校ははっきり分かれてあり京都とかと比べるとまだ競争原理が働いています。ただ上位の公立高校はどうもブランド力で学生を集めている節があり、ある高校なんか数学のベクトルを高三から教えるなど明らかに受験体制になっていない授業を組んでて浪人率が異常に高くなってます。だからといって私立が優れているというわけでもありませんが。

 話を戻すと日本の教育における格差拡大効果を是正したいというのならば、大学をどうこうするとか授業料を下げる以前に、公立高校のレベルを引き上げることが最善ではないかというのが私の意見です。せめて大学進学を考えている人間に塾に通わなくともある程度戦える程度でいいのですから。
 最後にどうでもいい小話ですが、二年前に雑誌の企画で東大と京大の総長が対談してましたがどっちか片っ方が、「正直、今の大学受験のレベルで自分所の大学に入ってこれます?」と聞いたら、

「絶対ムリ(・ω・` )」
「だよね(・ω・` )」

 と話しており、お前らぶっちゃけトークも過ぎやしないかと思いましたがなんだか妙に好感を持ちました。

2012年2月9日木曜日

続、大学の秋入学検討について

 今日の中国の朝刊には、「日本で聖闘士星矢の新シリーズテレビ放映が4月から始まる」ってのがでっかく載ってました。なんで日本での放映に対してここまで反応するのかいろいろ突っ込みたくなりますが、同僚の中国人の奥さんは、「フェニックス一輝こそ、男の中の男だ」と言ってはばからないくらいにこっちでも浸透しているらしいです。

 話は本題に入りますが、東大が入学時期を現在の春から秋へ移行する案を検討していることについて以前にも取り上げたことがありますが、今日見たニュースにこの話題について非常によくまとまった記事を見かけたので紹介します。

【日本版コラム】『大学秋入学』の落とし穴 議論の迷走と状況悪化が危惧される理由(ウォール・ストリート・ジャーナル)

 はっきり言って私のブログなんかより上の記事見てもらった方がずっといいと断言できるのですが、いくつか重要なヶ所を引っ張ると、この記事を書いた尾崎氏は「入学時期を秋に変えるだけでは留学生も増えず、学生も起業も混乱するだけと」指摘しています。

 一つずつ詳しく解説していくと、東大をはじめとした国立大学などは入学時期を国際的に標準な秋(春入学は日本と韓国しか私も知らない)にすることで、日本にやってくる留学生も増える効果が見込めるとしています。これに対して尾崎氏は、そもそも世界の大学ランクは在籍する教授の論文の発表数などで決まるために英語を使用する欧米の大学が初めから有利で、入学時期が変わったくらいでは留学生を引っ張る上ではあまり効果がないと主張しており、私もこれを支持します。その上で今実際に日本位やってくる留学生はどんな学生かというと、やはりアニメや漫画といったサブカルチャーに関心の強い短期留学生らが主で、こうした留学生をもっと受け入れやすくするために春でも秋でもいつでも入学して授業を受けられるカリキュラムを整備する方が価値が高いと言っています。

 言われることいちいち的を得ていて反論のしようがないのですが、この上で尾崎氏は日本の学生についても言及しています。kの秋入学議論でよく取り上げられている効果に、「3月の高校卒業から秋の大学入学まで半年間の空白の期間が生まれ、この期間を学生はボランティアや短期留学などに使える」という意見があります。これについても尾崎氏は、日本の大学生は夏休みや冬休みなどまとまった余暇があり、わざわざ半年の空白期間、それも受験前の期間に用意したところで大きな変化が望めないとした上、「学生が在学中に多様な経験をするには時間以外に精神的なゆとりも必要である」と述べてます。これについても、私は同感です。

 こうした尾崎氏の意見について基本的に賛成ではあるのですが、それでも私はこの秋入学以降に期待を持っています。一体何故期待するのかというとこれも尾崎氏が「メリット」として挙げている、「企業の新卒一括採用が多様化するきっかけとなる」という効果が強く望めるからです。
 大分自分でも色々変わったと思いますが、現状の日本を見るにつけもっと雇用は流動的にしなくてはならないと考えており、特に若年世代については新卒一括採用こそが諸悪の根源にも思えるのでどうにかこれを打破できたらと常に考えています。理想としてはそれこそ、一年間を通した授業を作りづらくなりますが、春でも秋でもいつでも入学できて授業登録も自由にでき。単位がたまればいつでも卒業できるようなシステムになれればという気持ちがします。ちなみに自分は三回生が終わった段階で卒業必要単位数をオーバーしてましたが、全く意に介さず授業を取りまくって卒業時は160単位くらい持ってました。単位認定されない授業もたくさん取ってたから、実質的には180くらいあったろうな。

2011年8月5日金曜日

中、初等教育における教員の雇用について

 何か教育関係の話をというリクエストを受けたので、前から思っていた内容を今日は紹介します。

 一つ昔話をしますが、六年前に出会った一個下の友人に対し将来は何になりたいのかと説いた際、教師になりたいとその友人は答えました。その答えに対して私は、
「悪くない選択だね。これから団塊世代が大量退職してこれまで少なった教師の口が一気に広がると言われてるし」
 しかし結果はというと、私のこの予測は間違いでした。団塊の世代に当たる教師が一気に退職して教師が各学校で不足しているというのは間違いではないようなのですが、その不足分を補うための教員の雇用は現在に至っても行われませんでした。

 現実問題として教師が全国各地で不足しているというのは間違いではないようです。そのため教師一人あたりの負担も依然と比べて遥かに高くなっており、この前も何かのニュースで教師の休職理由は精神的なものが大半と書かかれてありましたが、いろいろ病んだりして職場を離れざるを得ない教師が毎年増えていると言います。
 では不足しているにもかかわらず何故教師の数が増えないのか、教師を志望する人間が減っているのかというとこれまたそうではないようです。確かに少子化ではあるもの不景気という時代ゆえに教員免許を取る学生はそこそこおり、また教師職を志望し続けている人もたくさんいるのですが、彼らが何故教師になれないのかというと単純に教員の募集がないそうです。何故教員の募集がないのか、もったいぶっても仕方ないのでもう書きますがこれまたあちこちから話を聞く限りですとごくごく単純な理由で、教師を雇う側の自治体が財政難で新規に教員を雇う余裕がないからだそうです。

 私立学校であれば別ですが、公立学校を運営するのはそれぞれの市や県であって教員の給料などは各自治体から支払われます。それ故に具体的にどのような身分かまではわかりませんが教師というのは準公務員的な職種であるわけですが、すでに財政破綻宣言をした夕張市をはじめとして、現在全国各地の自治体では大量の借金があって当たり前と言えるほど財政難な状態が続いております。それ故に各学校で団塊世代の教師が大量に引退したにもかかわらず支出を増やすにはいかないために新規採用を凍結し、少子化で子供の数は減っているものの既存の教師数で何とか回そうとしているのが大半だそうです。

 このような状況で割を食うのは誰かというと、まずは既存の教師たちです。彼らはそれ以前に比べて担当する子供の数や授業コマ数が大幅に増えましたが給料は変わらず、というより昇給幅は明らかに以前より狭められています。もっともそれは会社員にも共通しますが。
 これら既存教師に加えて割を食うのが、教職志望だった自分たち世代の若者たちです。真剣に教育に身を捧げようとして教職を志望する人たちもいるでしょうが、現在正式に教員に採用されるのは至難の業だと聞きます。勘のいい人は今書いた「正式に」って言葉を見てすぐにピンとくるでしょうが、その逆の非正規の教員となるのだったらそれほど難しくないようです。

 非正規の教員って言ったってブラックジャックみたいに免許を持たない医師というわけじゃなく、一週間に数コマだけ学校に来て教えるようなアルバイトのような講師職で、現在これが各地で増加しているそうです。自治体は非正規の教員として雇えば社会保障などといった余計な経費を払う必要はなく、またいらなくなったらすぐに切ることもできれば一切昇給させる必要もありません。それ故に教師になりたいが一心、正式採用を夢見る人なんかは苦労を覚悟でこのような教師版の派遣職に甘んじ、ひどい例なんか月数万円の給料で働き続けていると聞きます。

 単純に経費削減という観点からみるのであればこのような採用形態が悪いとは言いません。しかし本気で教育を充実させたいと考えるのなら教師を不安定な身分にとどめておくというのは明らかに間違ってますし、ただちに対策をしなければならないでしょう。またそもそも財政難で支出が増やせないというのなら、すでに高い給料を受け取っている年齢の高い教師からリストラしていかなければ根本的な解決につながるはずがありません。
 そういうわけで漠然と予想はしてはいたのですが、調べてみると案の定そうだったのが下のリンク先です。

教員平均年齢ピークに、3人に1人が50歳以上(読売新聞)

 やはり予想通りというか教員の新規採用を渋りに渋った結果、平均年齢は過去最高をどんどん更新していて三人に一人が五十歳以上という状態にまでなったようです。この構図をあえて言い表すなら、やはり若者を犠牲にしてという言葉しか私には浮かびません。先にも書きましたが支出を抑制するのであれば新規採用を凍結するのではなく既存の人間をリストラした方が明らかに効率がいいはずでしょうし、そもそも教師なんか叩けば埃が出てくるような人間はまだまだたくさんいると思います。ひがみっぽいですがどうしてそういう人間に着手しないで我々の世代が割を食わなければならないんだと、一抹の悔しさを感じます。

2011年7月8日金曜日

東大の入学時期変更検討について

東大:入学時期を春から秋に 国際化推進で検討開始(毎日新聞)

 ちょっと古いニュースですが、先の二本の記事がかなりきわどい内容なので蓋かぶせとばかりに取り上げておきます。
 上記リンク先のニュース内容は東大が学生の入学時期を日本で一般的な春入学ではなく、国際基準に合わせた秋入学へ変更を検討しているというニュースです。仮に変更する場合でも入試時期は現在のままにしておき、入学までの半年間はボランティアや海外留学の時期として残しておくことが話されているようです。

 このニュースに対する私の意見ですが、何でもかんでも国際基準に合わせようとする日本人の態度ははっきり言って私は大嫌いですが、この東大の入学時期変更については大賛成の立場をとります。

 まず世界各国の大学入学時期についてですが、私が知る限り4月の春入学をしているのは日本と韓国しかありません。中国では9月入学で、大学入試も6月にやります。仮に東大が入学時期を変更するとどうなるかですが、まず海外の留学生が自国の学期に合わせて留学に来やすくなり、東大側もそれを狙っているようです。
 何気に私の経歴もこの件と無関係ではなく、中国が9月入学ということから本音なら三回生になった直後の4月に留学したかったもののわざわざ三回生の前期まで日本の大学で講義を受け、その年の9月から中国へ留学し、一年後に日本の大学へは三回生の後期から復学しました。もっとも、後からわかったことですが私の留学先である北京語言大学ならカリキュラムがしっかりしてるから4月入学でも全く問題はなかったんだけど。

 やはり入学時期を国際基準に合わせてもらえれば留学に来る方も行く方も助かること間違いなしでこの点だけでも支持するに足りますが、それ以上に私がこれに期待しているのは画一的な就職採用時期の打破です。私はかねがね一つの時期にほとんどの日本企業が採用時期を集中させる、また新卒学生に限定するといった行為が日本の経済に悪影響を及ぼしていると考えており、今回の検討内容通りに東大のみが入学時期をずらすことでこの慣例に一定度の衝撃を与えられるのではないかと見ております。もちろん東大一つがずらしたくらいでは効果ないかもしれませんし、これ以外の要因もいろいろあって一概に言えることではないですが、近年の日本はなにかと横並びにしすぎるところがあって、そういった均衡を敢えて崩すことが社会にいい影響を与えると私は考えています。
 といいつつも、日本の過剰な横並びを崩すために国際基準にあわせるというのは、なんだか矛盾しているような気もしますが。

2011年6月7日火曜日

役に立たない学問を勉強する価値

 このブログでは頻繁に歴史ネタを出すだけあって、プライベートでも私はかなりの歴史オタクです。そのせいか野球が好きな友人が出身地が甲子園の強い県かどうかで相手をリアルに値踏みするように、私も歴史が好きだという人間には無条件で信用してしまうところがあります。ただこれは野球や歴史に限らずとも、相似性といって似た趣味を持つ人間同士は仲良くなりやすい傾向がはっきりと確認されているので一般常識的にもおかしくはないでしょうが。
 そんな歴史について逆に歴史が苦手だった人間からよく、「そんな役に立たないこと暗記してどうするの?」と聞かれたりします。確かに歴史を知っているからといって飯の種に出来るわけでなく、人生で役に立つと言っても思想面では本家本元の哲学や倫理学を勉強したほうが遥かに効果は高いです。それにも関わらず歴史をどうして学び続けるのかと言ったら、私は役に立たない学問だからこそだと主張します。

 以前にも友人と歴史は勉強する価値があるのかというテーマで議論しましたが、結論としては、「少なくとも、歴史を勉強しようとする人は話しやすいよね」というところに落ち着きました。私が思うに歴史というのは確かに生活上何の役にも立たない学問ですが、そんな役にも立たないものに対しても興味を持てる人間というのは比較的自分から遠く離れたもの、経験したことがないものに対して抵抗が薄く、「自分とは関係ないから」といって切り捨てることなく寛容な人間が多いような気がします。同様に理系マイナー学問代表の天文学が好きな人も比較的多分野に興味を持つ人が多く、私にとってすれば話しやすい人が多いです。
 逆に自ら専門分野を狭めようとしている人は私にとってすれば会話し辛く、今までの経験からもそのような人たちから何の意図もない発言をとられて「それってどういうことだよ」と突っかかられることが非常に多かったです。高校時代にはまさにそういう人間がおり、自分の受験する大学は国語の試験に漢文科目がないことから模試で「国語1」を受け、比較的高い偏差値を取って悦に入っておりましたが、上位校を受ける大半の受験生は「国語1・2」を受けるから何の指標にもならんよと言ったらまた突っかかってくるのが目に見えていたので敢えて黙ってました。

 私が思うにあまり役に立たない学問を何故勉強するのかと言うと、多方面への興味を持つ訓練として必要だからだと思います。現在の大学教育においても、近年は文系でも専門化が進んできましたが、一般教養課程の重要性は大学人なら誰もが理解していると思いますし、私自身も貴重な時間だったと思います。ただ調子に乗って取り過ぎて、卒業時に160単位を超えていたのはやり過ぎでしたが。単位未認定を含めれば180単位に近かったし。
 学問に限らず多趣味であることは相手を評価する上で非常に好意的な材料だと思います。ただ最近は何か一つで大きな成果なり知見が求められ、特に就職面接では具体的なエピソードを要求されるなどして何か一つへの特化が社会的にも強く求められているような気がします。昔なんかは誰がこんな社会にしたんだと憤懣やるかたありませんでしたが、この年になると何故今になっても変えられないのだろうと、自分の無力さを感じることのが増えてきました。

  おまけ
 先週にやけに日本のサイトにつながらないと書きましたが、すっかり忘れてましたが6月初旬は天安門事件記念日があり、中国政府がピリピリしている頃で、そのせいで海外へのアクセスが制限されていたようです。

  おまけ2
 初対面の人間を相手にする際、歴史好きかどうかに加え動物好きかどうかでも結構値踏みします。動物好きな人には悪い人は少ないように感じますし。

2011年4月24日日曜日

アメリカの大学に留学する価値

 時期にして大体2005年くらいから、政財界の要人らがよくアメリカのハーバード大学の日本人留学生数が減少していると問題視する発言をよく見るようになりました。現在でも死にぞこないの自民党文教族らはそれらアメリカの大学において韓国人、中国人らと比べて日本人留学生数が減っており、日本の教育力が低下していてこのままでは両国に追いつかれるなどとよく発言しておりますが、確定的なデータも二次ソースも少ないながら、私はこの傾向がそれほど問題なのか強く疑問に感じております。

 最初のきっかけは友人から聞いた話で、何でもアメリカの大学はハーバード大学を含んで基本的に私立で、現在学生数の減少によりどこも経営難に陥っているそうです。そのためどこのアメリカの大学も授業料を得るために留学生を呼び集めているものの、ほとんどの国ではすでにアメリカの大学にはそこまで価値があるわけでないと見抜いており、まだその権威をありがたがってがっている日本人と韓国人ばかりやってきてキャンパス内もそういった留学生ばかりになっていると聞きました。
 私は学術研究者でないために実際にアメリカの大学がどれほど教育、研究機関として価値があるのか推し量ることは出来ませんが、少なくとも一般レベルで日本人が根拠なくやたらとアメリカの大学を高く評価している傾向はあるように感じます。またいくつかの角度から見ると、確かにアメリカの大学について疑問に感じる点も少なくありません。

 理系については全く素人もいいところなのでわかりませんが、文系科目についてははっきり言って留学する価値は少ないように思えます。現在の自然科学の王様は間違いなく経済学ですが、先年に起こったリーマンショックはまさに米国流の経済学によって引き起こされたものだといっても過言ではありません。一時期アメリカでMBAを取得するのが流行りましたが、そういったMBA取得者どもがリーマンショックを引き起こしたことを考えると戦犯もよいところです。そのせいか、このごろMBA取得を自慢する人もめっきり減ったし。
 またこれ以外の文系学問についても、私の専門とする社会学ではシカゴ大学が有名ではあるものの昔はともかく今は実際にどんな教育がされているのかわかりません。よくアメリカの大学を礼賛する人で疑問に感じるのは、具体的にどういった点が日本の大学より優れているのかを誰も言及しないところです。

 理系についてもあくまで素人目の意見ですが、誰も基礎学問を持っていなかった明治時代ならともかく現在の日本にはわざわざ留学せずとも世界的にも十分立派な研究環境があるように思えます。霊長類研究やES細胞については間違いなく京大が世界トップですし、またスプリング8など反則だって言いたくなるような豪華な研究設備だってうなるほどあります。もっとも航空力学についてはアメリカが上、っていうか日本では研究が制限されてますが。
 明治時代はそのような研究環境をおろか学者が全く存在しなかったために海外へ留学せざるを得ませんでしたが、今の日本では主要な学問はほぼすべて国内で指導、研究することが出来ます。これは日本にいたらさも当たり前のように見えてしまいますが、最先端の研究を母国語でできるという国は実際にはほとんど存在しません。中国なんか文化大革命でそういった学者全員を殺してしまったために文革後に学生を全員海外に送って建て直しを迫られたほどで、現在においても主要な研究者は皆国内にはおらず海外で研究生活を続けております。

 そういう意味では中国人がアメリカの大学に留学するのはまだ国内に研究環境がないという、いわば必要に迫られたものだということで理解できるのですが、日本人については確かに英語が出来るに越したことはないけど国内で研究が出来るというのであればわざわざ行かなくともよいのでは、というよりむしろもっと日本の大学に海外の研究者を呼び集めるような努力をしてもよいのではないかという気がします。

 留学生が減ったなどと嘆く発言をする政財界の人間に対して私が一番言いたいことは、アメリカの大学に行け行け言っておきなら、そういうあんたらは国内の研究を深耕させるようなことをこれまでしてきたのかということです。特に文教族の議員はまさに教育政策を決めるキャスティングボードを握っておきながら現在問題となっているような学力低下を招いており、そうした反省もなにもせずに、「日本人が留学しなくなった」などとほざくのは肥溜めにでも首突っ込んでろと言いたくなるほど腹が立ちます。

 私は留学を否定するわけでもなく行けるのであれば行くに越したことはないと思いますが、もっと日本国内の高等教育を充実させるという考えを持たずにアメリカの大学における日本人留学生数低下を懸念するというのはどこかピントがおかしいのではないかという気がします。折角ここまで日本の研究レベルを高めたのだから、舶来物をありがたがっているばかりでなく、逆に外に訴えていく努力こそが今不足しているのではないでしょうか。

2011年2月27日日曜日

国の教育レベルについて

「あと1元ありませんか?」

 中国でレジにて会計を済ます際、必ずと言っていいほどこのように聞かれます。

 たとえば購入金額が合計16元のところで20元札を渡すと上記のように1元があるかどうかを聞かれ、言われた通りに1元を追加して合計21元を渡すと5元札でおつりが返ってきます。
 何もこのようなことは中国に限らず日本でも951円の会計の際に1051円を渡すような形で日常茶飯事のように行われておりますが、中国の場合だとこれがより顕著というか店員の側が客に強く要求してくるところがあり、この前なんか私の前で会計を済ましているおばさんが小銭はないと答えたにもかかわらず、「あんたのかばんからさっきからチャリチャリ音するから、本当は持ってるんでしょ」と店員が追求してきたことがありました。おばさんもおばさんで、「ばれたか(∀`*ゞ)テヘッ」といってかばんから小銭出すし。

 このような会計時の額合わせというか簡単な暗算は日本や中国ではごく当たり前に行われていますが、実際のところこういう行為が行われている国はそれほど多くはない気がします。というのも私がかつてイギリスに訪れた際に売店で買い物時にいつものように金額を合わせて余計に小銭を足して支払ったところ、「こんなにいらないよ」といって小銭分だけ返されました。このようなことはほかの店も同様で、店員の反応を見ている限りですと、イギリスではこのように額を合わせるという習慣がないだけなのかもしれませんが、どうも瞬時の暗算が出来ないのではないかという気がします。同様のことはアメリカでもあり、このような経験から日本人というのはほかの国の人と比べて暗算をぱっとできるのかと妙な感心をした覚えがあります。

 そう考えるなら日本同様に金額を瞬時に暗算しておつりを自然にまとめる中国人も相当な計算力を持っていることになります。実際に私の目から見てもこのような計算を初めとした中国人の教育水準は決して低くなく、国際レベルでは比較的高いレベルにあるのではないかという気がします。ただこれはあくまで中国の都市部の話で、地方となるとまだ学校も整っていない地域も数多くあるということから国単位ではまだ未知数ではありますが。
 その一方、現在の日本は国全体で義務教育が徹底されててこうした生活上の暗算はもとよりかつて海外遊説中に小泉元首相が、「日本人はホームレスですら新聞が読める」と述べたように漢字が混ざる複雑な文字系統にもかかわらず識字率も世界屈指の高さを誇っております。教育崩壊が叫ばれて久しいものの、他国と比較するなら日本は未だ高い教育水準にあると言っていいと私は思います。

 聞くところによるとアメリカやフランスでは移民が多くいることからそれぞれ英語、フランス語を理解できない労働者が数多くおり、工場などではそうした労働者に対してマルチ言語で作業手順所を作ったりなどあれこれ対策が必要だそうです。それに比べると日本は移民が少ないというのもありますが誰もが皆日本語を理解でき、なおかつそこそこの計算力を持っているのですから他国と比較するなら人件費を抜きにすると日本の労働者は優秀と言えるでしょう。経営側がそれに甘えている気もしないでもありませんが。

 こういう風なことを考えるにつけ、国を支えていく上で教育というものは本当に重要なんだという気がします。今でこそ当たり前と考えてしまいますがたとえば日本人の30%程度が文字が読めない文盲だったとすると、自治体の処理から雇用現場の対策など様々な点で現在よりも手間と苦労が必要となります。またこうした基礎教育はもとより、医療や工業技術といった専門的な知識についても各分野で今よりも人材が少なくなってしまえば途端に経済が回らなくなるのも目に見えてます。もっとも医療現場は今人手不足で問題となってますが。

 私は以前の陽月秘話にて、経済を拡大させるのに何が一番必要かといったら人口以上に教育が最も必要だと主張しました。この考え方は今でも変わりがなく、むしろこうして海外に出る度に基礎教育の重要性などについて気づかされます。この点で私が非常に英断だったと思うのは明治維新期のメンバーたちの決断です。
 明治維新後の日本はお世辞にも財政状況は良いというわけでなく、国の予算のほとんどは大商人からの借金によるものでした(その代わり払い下げなど見返りがあったが)。それにもかかわらず非常に早い時期から学制を整備して全国各地に尋常小学校を作る一方、当時の最高権力者であった岩倉具視の給与以上の金額で外国人教師を招聘して高等教育も整備するなど、教育を非常に重視していたことがわかります。現代で考えてもこの時の明治政府の教育施策が後の日本の急成長に大きな貢献をしていることははっきりしており、このときに徹底させた基礎教育があったからこそ二次大戦後も急速な復興を果たすことも出来たかと思われます。

 これは京都の人から聞いた話ですが、昔から京都は戦乱が多かったために京都人は燃えて島可能性のある家や家財といった財産にはあまりお金をかけずに形のない教育にお金をかける傾向があるそうです。現実に京都は市内にかつての教育施設から発展した数多くの大学があり、また私立中高などを見ていると教育熱が比較的高いと感じられます。生憎公立校は学区制のために人気がないですが。

 国敗れて山河ありとは言いますが、教育さえしっかり施しておけば国は滅んでもすぐに建て直すことは可能なのかもしれません。逆を言えば教育が駄目になればどれだけよいインフラがあったとしても後々国は滅んでしまうかもしれません。
 自分は個人として主義主張が強すぎるために教師にはなるべきでないとかなり早い時期に考えて実際になろうともしませんでしたが、なにかしら教育に貢献できるような活動は今後しなきゃならないなぁとは思ってます。具体的に何するかまでは未定ですが、このブログから何か発展することが出来ればそれに越したことはないのですが。