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2014年1月1日水曜日

阿修羅像祀ってみた

 かねてからこのブログでは買ったものを写真に撮って公開する際、親父と親父の従弟のいい年こいたおっさん二人がガシャポンで獲得した阿修羅像を大きさを比べる材料として一緒に写真に撮っています。一昨年の「中国製タブレットPC購入」の記事で詳しく紹介していますが、この阿修羅像は未だに手元に置いているのですが、何を思ったのかいつも窓際に置いています。
 私が今住んでいるのはアパートの1階で、しかも道路側に一番近い部屋です。このアパートでよくわからないのは道路に面した窓が曇りガラスとなっていないため、カーテンを開けていると部屋の中がまる見えとなってしまい、しかもその道路側の窓は部屋の壁から突き出ており、突き出た部分にはカーテンがかけられない構造となっています。

 仕方ないので突き出た部分の外側というか壁沿いにいつもカーテンをかけているのですが、突き出た部分が棚みたいになっているので、何も置かないのもあれだと思って何故か、「阿修羅像を置こう」ってことになり、私の家の前を通る人は洩れなく阿修羅像が見えるような配慮をしています。そんな配慮、誰もいらないだろうが。

 そんなみんなの崇望集める阿修羅像ですが、なんか今日は元旦だし儀式めいたことをしてみたいなぁと考えていたところ、アロマかと思って間違って100円ショップで買ってしまった普通のキャンドルがあることに気が付き、せっかくだからこのキャンドルと阿修羅像を組み合わせてみようと思い立ちました。恐らく普通の人なら思い立つだけでしょうが、実行力に関しては定評のある自分なだけに即実行しちゃいました


 これがその写真です。「その」って言うのもなんかおかしい気がしますが。
 手前の下部分に窓の桟があると思いますが、この構図はばっちり道路からも見ることが出来ます



 フラッシュをたいたバージョンです。右のキャンドルの炎が小さいのが残念。後ろに見えるカーテンを開くと自分のプライベートが見たい放題です。



 斜めの構図からのショット。なんでこんなことを真冬に路上で、しかも風呂入った後にパジャマ姿でやっているんだろうという疑問が頭をよぎります。相変わらず右の炎が小さい。



 ちょっと時間をおいてから、室内の電気をつけた状態で再撮影。光が露光しているのは間に窓ガラスを挟んでいるからです。右のキャンドルもこの時点はこうこうと光ってた。

 なんでこんなことをしようと思って本気で実行してしまったのか我ながら理解に苦しみますが、こうした自分の信仰心を汲んでかなりハードだった去年よりはいい一年にしてくれたらいいなとか思います。
 あとこの記事書いている最中に家の前で「すげぇ」って子供の声がしましたが、これ見て言ってくれたのかな?好評なら定期的にやってみようかなという気もしますが、こんだけ阿修羅像に対して信仰する元キリシタンも珍しいでしょう。

正月とグランツーリスモ6と自転車

 このブログの早期からの読者なら恐らく覚えているのではないかと思いますが、五年前の2009年の正月に私はなぜか自転車での房総半島一周を企図していろいろと痛い目に遭いました。詳細は「房総半島自転車一周地獄の旅」の中で書いていますがこの体験のせいか、正月を迎える度によくもまぁあんなアホなことをしたもんだとよく思い出します。ちなみにある友人はこのブログで一番おもしろい記事がこのネタだったとよく言ってくれます。

 話は現在に戻しますが私はここ数年中国で生活していたこともあり、日本で正月を過ごすのは実に2010年以来となります。向こうで生活していて日本の生活を懐かしむことなんてほぼ皆無でしたが、この正月のシーズンだけは向こうで日本のサイト見ていていっつもさびしい思いをしていたので何が何でも今年は日本で年越そうと思っていました。この辺は海外駐在者じゃないとわからない感覚じゃないかな。

 そのように待望していた今日の元旦ですが、特にやることもなく朝起きてからは普通にゲームしてちょっとぼんやりしてました。一人暮らしなせいでおせち料理や飾りつけを準備する気も起きず、昨夜も夜中まで年末に買っておいた「グランツーリスモ6」で遊んでたくらいで、ちょっともったいない過ごし方しているなぁ等と感じてました。
 ちなみにこの「グランツーリスモ6」とはPS3のレースゲームですが、日本では希少な親子二代揃っての三菱党である私はこのゲームでも三菱自動車の車ばかり動かしてます。ただ今回のこの6に登場する三菱の車種だと「FTO」と「GTO」がグレードや年代別に細かく分かれて登録されてますが、こんだけこの二車種を数多く登場させるくらいならハッチバックの「ミラージュ」とか「八代目ギャランVR4」を出してくれよと贅沢な文句が出てきます。まぁ三菱の車の中でもFTOが一番好きだから別にいいんですが。
 もう少しこの話を続けると、ランエボの中では「ランサーエボリューションⅧ MR」が一番好きです。他のメーカーについても触れると、スズキの車で「スイフトスポーツ」が入っている一方で市販されている「SX4」が入っていない(WRCに出した特別車は出てくる)のは残念でした。スズキの中ではあれが一番好きなのに。

 話を今日やったことに戻しますが、午前中はゲームしながらボーっとしてたので午後は外出しようと思い、先ほど話した房総半島一周の悪夢を思い出し、「今回は距離を控えて白井まで行ってみよう」という結論に至りました。
 隠すことないので明かすと現在は千葉県松戸市のやけに横揺れの激しいアパートに住んでます。で以って今回目標の白石は同じ千葉県内で、昔予備校講師が「毎年あそこではセミが集団自殺する」と語るほど自然にあふれた場所だと聞いてたので、今まで行ったことないし自転車で行ってみようと思い立ったわけです。

 京成線の白井駅まで私の家から直線距離で約5キロ、往復で約10キロの距離です。軽く地図で見て行ってみましたが、京成線の沿線というか千葉県内は都市部以外だと入り組んでいることが多く、行くまでに結構道に迷ってかなり遠回りした挙句に到着しました。しかも千葉県内は沿岸部を除いて丘(形状からしてその多くが古墳)が多く、自転車での移動だと昇って下りての繰り返しになるため、正直な感想としては走っててスゴイつまらなかったです。途中の鎌ヶ谷大仏の近くでは狭い道に車が渋滞して先進めなかったし。
 京都とかだと道も走りやすいし風景もいいからそういうことないけど、千葉県というか関東は自転車で走ってても面白味が少ないです。まだスピードの出せる河原沿いならともかく都市部や都市間に至ってはイライラが増すだけであんまこういうところ走るのはもうやめようかなと思います。

 自転車で走ってたのは午後一時前から三時までの二時間ですが、ずっと走ってて疲れたので家に戻った後は漫画喫茶行って真冬にもかかわらず清涼飲料をがぶ飲みして、友人おすすめの「電波の城」と「自殺島」という漫画を読んでました。でもって家に帰った後、何をトチ狂ったのか妙な行為をおっぱじめるわけです。

2013年12月31日火曜日

今年体験した嫌な出来事(´;ω;`)

 恐らくこれが今年最後の記事となります。今年は何気に投稿本数が多く293本に上り、2010年以降としては最高の投稿数となりました。まぁ贅沢言えば300本に載せとけばよかったかもしれません。そこで最後となる今回は、心情的にも体力的にもハード打た一年を振り返って今年に自分が体験した様々な嫌な出来事を一気に暴露しようと思います。年末にこれだけ後ろ向きな人物も珍しいだろうな。

今年嫌なこと第5位:円安による為替損(´;ω;`)
 二月ごろの記事に書いていますが、私は今年になって日本で起業するために中国での勤務を辞して帰国しました。起業するための資金はそれなりにためていたのですが、過去二年間は中国での勤務が続いていたために人民元で貯金を持っていたのですが、起業するともなると見せ金が必要なため、アベノミクスで為替が円安に動くことがわかっていながらもある程度まとまった額を換金せざるを得ませんでした。
 その結果というか、仮に二月ではなく現時点で日本円に換金していたらどのくらいの日本円を得ていたのか大雑把に計算した所、ざっと約40万円くらい損している計算となります。40万円あったらあんなこと、こんなことをドラえもんがいなくたってできるじゃん、もう……(ノД`)

今年嫌なこと第4位:スマイルサーバー(´;ω;`)
 詳細は以前に語った通りです。詳しくは「スマイルサーバーに対する不満と不信」を閲覧ください。ちなみに今、Googleで「スマイルサーバー」と検索をかけるとこの記事が1ページ目に来てくれるのでなんだかうれしいです。

今年嫌なこと第3位:自分の会社の清算(´;ω;`)
 知ってる人は知っていますが、このブログでは初公開の情報です。
 上にも書いていますが私は今年二月に起業しようと日本に帰ってきましたが、まさに会社登記を終えた直後、ある身内から根も葉もない言いがかりをつけられたことにより、当初事務所代わりに使用しようとしていた実家から出て行かざるを得なくなりました。既に登記で会社登録地、並びに税務登録として実家の住所を入れていたというのにこっからどうしようか、それどころか外に事務所を借りるとなると家賃、光熱費、通信費がかかり、手持ちの資金では1年も戦えないぞなどと非常に悩まさせられましたが、最初はそれでもバイトを始めるなどしても会社を続けるつもりでありました。

 そんな気持ちが吹っ飛んだのはまた例の身内で、有り得ない言いがかり、ぶっちゃけ自分が「野菜炒めを食べたい」と言ったらそれが非難の言葉だと罵ってきて私が折れる形で家を出て行くことになったのですが、あろうことかほかのありとあらゆる親戚に対して自分が暴言を吐いたなどと悪評をばらまいていたことがわかり、元からそんなタフな方じゃないけどなんかもう馬鹿馬鹿しくなってきて会社を続けるというか挑戦する気力が全部なくなってしまいました。
 前からその身内の頭がおかしいのはわかっていたことだし、内心、会社を潰すことになるとしたらきっとその身内が起こす騒動からだろうと去年から想定していましたが、まさか何も始める前に面倒起こされて潰されるとは思っていませんでした。もっともそう言いながら、最大のリスクであると認識しておきながら自分が折れればきっと何とかなるだろうなどという甘い考えを持っていたこと自体に我ながら反吐が出る。

 その身内とは既に距離を置いており、運が良ければもう浮世で会うことはないでしょう。惜しむらくは上記の理由上、その身内の血縁とも理解が得られる見込みがないため全部絶縁せざる得ず、この年で准天涯孤独となったことです。ただ繰り返しになりますが、何故5年前の時点でこうしなかったのか、甘い考えを持っていた自分に対して何より腹が立ちます。

今年嫌なこと第2位:苦しい就活(´;ω;`)
 上の様な顛末があり、自分の会社をやめるのであれば早く心機一転して再就職した方がいいだろうと清算を進めながら再就職活動を始めました。いくら不況の世の中とはいえ貿易も出来るし中国語も得意だし何とかなるだろう、なんて自分の気持ちを落ち着かすために言い聞かせていましたがこれがなかなかうまくいきませんでした。それでも活動を始めて約一ヶ月後、中国への進出を考えているというとある空調機器メーカーの正社員職を得ました。職種は営業でしたが自分なら何でもできるだろうということと、精神的にかなり堪えてきてたので条件とかそういうのは度外視で入社を決めました。

 結果論から言うとその会社は二ヶ月でさよなライオンしました。というのも職種は営業というもの、やることは設計事務所、並びに介護施設などへの電話セールスしかなかったからです。しかも電話セールスを始めるに当たってネットのタウンページから電話番号を探せというので探してリスト作ったら、「なんでこんな少ないんや」とかいうので東京都の建築士組合のサイトから数百件のリストを持ってきて見せたら、明らかにそのサイトの存在を知らない反応を見せました。電話セールスをもう十年以上やってるというのに、基本となるリストすら作っていないしこういうサイトの存在も知らないことに対して、「真面目に商売やる気あるのか?」という感慨を素直に持ちました。そもそも電話セールスじゃ売れるわけないし。
 それと介護施設、具体的には老人ホームなどへですが、ここへも一日中電話かけろと指示され、夕方とか明らかに職員が夕食の準備とかで忙しい時間帯にもかけさせられ、電話口でも慌てているのがわかるだけに内心相手に悪いなぁって罪悪感でいっぱいでした。一応拾ってもらっといて悪口ばかり書くのもあれですが、入社一か月後に正式採用手続きを取ってその際に給与額について改めて相談すると入社前に説明受けてましたが、あっさりスルーされたので「もう辞めます」と伝えたわけです。

 なもんだからまた夏頃から再び転職サイトに登録してあれこれ探し、面接に行ったら募集条件とは明らかに異なる待遇や仕事内容を説明されたりと腹立たしいことでお腹いっぱいな日々を過ごしましたが、また約一ヶ月後に今度は部材メーカーの内定採って、現在はそこでお世話になってて来年にもそこの中国法人へと出向く予定です。ちなみに会社には「起業してた」ってことはもちろん今も内緒です(∀`*ゞ)エヘヘ

今年嫌なこと第1位:PSPの盗難被害(´;ω;`)
 栄えある第1位は、自分と苦楽を共にしたPSP、そうソニーが販売しているプレイステーションポータブルという携帯ゲーム機の盗難です。
 本当に盗難されたのかという証拠はありませんが、実家のリフォーム中にソフトを残し、突然本体と電源コンセントだけなくなったので、施工業者の誰かが盗んだんだろうと思います。この手のゲーム機って換金しやすいので地味に盗みがいあるし。

 無くなった当日は京都の方に出向いていたため自分は留守にしており、自室の目立つところに置きっぱなしにしてました。というのもリフォームで自分の部屋も壁紙とかはがす予定だったから特に弄らない物置に入れといたところ、例の身内が自分の部屋は後で施工するのだから勝手に物置に物を置くなと一方的に言ってきたので戻したところ、自分の部屋が真っ先に施工されてPSPも消えてしまいました。
 たかがゲーム機、しかも後継機のPSVitaも既に発売されているのでありますが、このPSPは私が中国へ働きに行く前に購入したもので、向こうでの苦しい日々を慰める最大の娯楽として大活躍してくれてました。しかも杭州、上海、香港と結構距離のある土地を転々とする間に肌身離さず持っており、プライベートにおける相棒と言ってもいいくらいに愛用していた品です。こいつで遊んだモンハンP2Gの日々(インザ香港)は忘れない。

 ソニーのゲーム戦略はこのところあれこれ批判されたり、なんでPS4の日本発売を遅らせるんだなどという声もありますが私個人として言わせてもらうと、素晴らしいゲーム機を提供してくれてありがとう。そしてそれをなくしてしまって本当に申し訳ないということを声を大にして言いたいです。
 ってことで、来年の中国凱旋に備えてPSVitaを買っとかないとなぁ……。

今年うれしかったこと
 よくもまぁこんだけ暗い内容を年末に書くもんだと自分でも思うので、最後にポジティブなことも書いておくことにします。まぁ見方を変えれば、上に書いた暗い内容はこうしてネタにできるくらい整理就いたってことでもあるんだけど。
 今年うれしかったこととしてはこのまえ記事にも書きましたが、中国語の資格であるHSK6級に受かったことが真っ先に浮かびます。飽きっぽい自分ながら一応意識してずっと鍛え続けた中国語でギリギリとはいえ最上級を取得し一つの区切りを迎えられたのは感慨深く、なんか書いてて言葉が出てきません。

 あと今年、このブログの読者数人と直接お会いして知り合いになれましたが、どの方も自分から見て「スゴイ∑(゜∀゜)」と思う人ばかりで、こういう人たちに自分の書く、かなり癖のある記事を毎日読んでもらえているんだと考えるだにタイプ打つ指が震えてきます。友人にもたびたび言われていますが、このブログは文章量が長いし書いてることもわかり辛いのばっかなので明らかに読者を選ぶブログとなってますが、その分だけいい読者に恵まれてると思います。シャレ抜きでしんどかったこの一年を乗り越えられたのもそういった読者の方の励ましがあってこそで、来年はまだ気持ちに余裕もあると思うのでもっといい記事書いて娯楽の足しになれればと、来年の目標を書いて結びとします。

寒かった北京

 これまでにアップしているため記事にも書いていますが、昨日まで北京に友人と旅行に行っていました。私にとっては実に6年ぶりの北京訪問で、いろいろとカルチャーショックも受けてきたのでその有様を写真と共に解説していこうと思います。


 まずこちらの写真ですが、ここは北京一の繁華街である王府井(ワンフーチン)です。12/25を過ぎていますが細かいことは気にしない中国なだけに、クリスマスムード一色なライトアップで、あちこちのショッピングセンター内にもツリーが飾られていたままでした。でも逆に言うと、12/25を過ぎたら一斉に撤去し始める日本が神経質すぎるのかもしれません。



 こちらは同じく王府井の中にある、「全聚徳」という名前の北京ダック料理店です。ここは数ある北京ダック屋の中でも最も知名度が高い上に店舗数も多く、王府井に限らずとも北京市内ならどこにだってあるお店です。同行した友人は今回が北京初訪問だったので、有名どころに連れて行った方がいいだろうとの判断からここに来ることにしました。
 で、実際の料理の方ですが大手なだけにやはりちゃんとしていておいしかったです。しかし中華レストランなだけに出される量が桁違いに多く、二人向けコースに大の男でかかったのに結局全部食べきれず一部残しちゃいました。



 続いてこちらの写真はお馴染みの万里の長城。 写真を見てもらえばわかりますが、PM2.5を期待していったのに滞在中の北京の空気は有り得ないくらいに綺麗で、ご覧の通りに青い空が満面に広がっていたし、実際に空気吸ってておいしかったです。これはこれで期待外れだ。



 で、この万里の長城ですが、本当に寒かったです。北京にいる知り合いの中国人にこの日に行ったことを話すと、「凍死するほど寒かったんじゃない?」と言われましたが、実際に投資するんじゃないかと何度か思いました。
 北京のこの時期の気温は一日中氷点下を下回っており、なおかつ風も強く吹きます。北京市内ならまだしも、山の上のこの長城は市内よりもさらに気温が低くて風も体ごと持ってかれるほど強くて、移動に使ったタクシーから降りるや「マジやべぇ!」と、渋谷のギャルみたいな言葉が友人と共に口を突いて出てきました。

 しかも友人はともかく私は普段のノリで行ってしまったため、周囲が全員ダウンジャケットを着こんでいた中、ただ一人だけGジャン一枚で長城を駆け廻りました。呆れるくらいに寒さに強い自分もこの日はさすがに参って、長城手前の入り口で慌てて20元の帽子を買ったくらいでした。なお散々寒い思いしてホテルに帰ると入り口手前でタクシーの手配をするボーイにも、「そんな恰好じゃさすがに寒いでしょ」とツッコまれてしまいました。

 もう少しだけ万里の長城について書くと、この上の写真で見える範囲はすべて昇り降りしています。私はこれまでにこの長城を2回訪れていますが、三回目の今回でもその高低差の激しさ、あと微妙に滑りやすい床、そして油断したら吹っ飛びかねない横風に難儀して、息も絶え絶えになりながら全行程を踏破しました。
 写真で見るとそうでもなさそうですが、体力に自信のない人は真面目に万里の長城を訪れるべきではありません。軽いコースを通るにしても傾斜が急で、下り坂で転ぼうものなら大怪我を負ってもおかしくありません。今回同行した友人は比較的体力自慢な輩でありますが、そいつですら「マジやべぇ」を繰り返しつつなんとか踏破を完遂出来たくらいだし。



 この写真は万里の長城に併設してある「熊楽園」にいた熊です。なんか座り方が様になっていたので撮りましたが、そもそもこの時期に熊は冬眠しているというのに働かされてて「熊も大変だなぁ」としみじみ思います。



 所変わってこの写真は地下鉄構内に置かれた広告の写真ですが、ロックフックがリラックマとコラボしていたことに驚いたので写真に収めました。決して「熊楽園」との関連はありません。ロックフックについて知ってる人はそのままで、知らない人はいい機会なのでググってみましょう。ついでにチョウサンサンも覚えておけば香港通です。



  続いてここは北京市内にある「天壇」という世界遺産です。いまいち写真だと伝わり辛いですが桁違いにでかくて高い建物で、友人と一緒に「中国は何でも十倍サイズだよなぁ」と言いながら見学してました。



 最後はお馴染みの天安門の故宮博物館(紫禁城)前です。中央に毛沢東の写真が貼られていますが、そろそろこれも3Dにしないと駄目だよなぁと友人と話してました。さらには、「毛沢東はグッズといいこの写真といい、中国の観光収入にどれだけ寄与しているんだろうか」などと経済チックな話でも盛り上がってました。
 それにしてもこの日も青空がやけにまぶしかった。こうしてみるとPM2.5で大気汚染がと映している映像は、暗い空の日を選んで撮影してるんじゃないかとすら思えてきます。

 この旅行で得たインスピレーションについてはまた別の機会に詳しく書きます。

2013年12月29日日曜日

長平の戦いについて

 この冬の歴史まつりも三日目ですが、日本史、西欧史と来たもんだから今日は中国史だなと考えていいネタはないかと考えたところ、過去二日間が戦争に関する話題だったのでこの際それに合わせ、中国の戦国時代における最大規模の野戦である長平の戦いについて私なりに紹介しようと思います。

長平の戦い(Wikipedia)

 この戦いは元々有名だし、このところ人気で私も読んでいる「キングダム」という漫画でも簡単に説明されているので知ってる人も多いかもしれません。

 この戦いがあったのは古代中国紀元前260年。当時、中国は各地に国々が乱立してそれぞれが覇権を争う戦国時代だったのですが、時代の趨勢は後に中国を初めて統一する秦が徐々に勢力を増し、敢えて例えると現代の米国の様にほかの全世界の国々が束になってかかっても抑えきれないほど強さを増しておりました。そんな秦に対して唯一対抗できるというか、対抗せざるを得なかったのが秦と国境を接する隣国の趙という国です。この国は元々は晋という国でしたがお家騒動から韓、魏、趙の三国に分かれたものの、比較的強い勢力を保ちながら戦国末期まで影響力を持ち続けておりました。

 この趙が大きく躍進したのは長平の戦いに至る数十年前の武霊王の時代です。武霊王は当時、蛮族が着る衣装と蔑まれていた胡服という、現代のズボンのような衣装を兵士の服として採用します。当時の漢民族の衣装は裾の長いもので騎馬に乗るのには向いていなかったのですが、武霊王は国内の反対を押し切り胡服を取り入れたことによって軍事力の大きな向上に成功します。この軍事改革によって最強国の秦も趙にはなかなか侵攻することが出来なかったそうです。

 話を長平の戦いに戻しますが、この当時の秦は優秀な将軍が綺羅星の如く集まり、特に当時、というより戦国時代を通して最強の司令官とも言われる白起が文字通り縦横無尽に暴れ回り領土を拡張し続けておりました。この時代に秦と趙は領土争いのもつれから秦側が攻め込む形で戦争となるのですが、趙側は「刎頸の交わり」で有名な廉頗を防衛の将として送り込みます。
 秦の強さもさることながら老練な廉頗の指揮も見事で秦側はたちまち攻めあぐねてしまいます。この時代に白起は打開策を練り、まずは面倒な廉頗を遠ざけるため趙の首都で「秦は相手が年寄りの廉頗であることに安心している」という噂と、「逆に若くて才能高い趙括がやってくることを恐れている」という噂を流しました。

 趙括という人物は父親が有名な将軍で、本人も幼いころから軍学を学んでいた青年でした。彼は若い頃から軍学にかけては右に出るものがないほど賢く、議論でも父親をしばしば打ち負かせるほどで評判が高かったのですが、その父親と母親は息子は自惚れが強く大将としては大成しないと早くから予言していたそうです。

 話を戻すと、趙の国王は秦が流したその噂を真に受けて廉頗に変えて趙括を総大将として長平へ送り込みます。なお趙括にとってこの時初めて軍の指揮を任されたのですが、いきなり大将は無理だとこれまた「刎頸の交わり」のエピソードにおけるもう一人の主人公である蘭相如は、病床からわざわざ国王に総大将の交代をやめるよう諫言しています。そして夫に先立たれた趙括の母親も、息子は総大将の器ではないからと国王に諫言した上で、どうしても総大将にするのならば趙活が敗北したとしても親類を連座で罰しないよう約束を取り付けました。

 そうしてやってきました長平の戦い。両者の兵力は趙が40万以上だったのに対して秦は数万程度だったと言われ、総大将に着任した趙括は兵力で勝っているのだから一息に飲みこむべきだとして、廉頗が城から一歩も出ずに防戦をし続けたのとは逆に全兵力で一気に打って出ました。仮に相手が並の将軍だったらこれでもよかったもしれませんが、秦軍には秘密裏に白起が将軍として着任しており、趙が打って出るのを虎視眈々と待ち構えていました。

 結末は本当にあっさりと出ました。数を頼みに趙軍は城から打って出ましたが、秦軍は巧みにこの攻撃を防ぐと別働隊が趙軍の退路を塞ぐことによって趙軍を食料や予備の武器といった補給物資のない状態で包囲してしまいます。この包囲を打ち破ろうと趙軍は何度も攻撃を仕掛けるもののその攻撃はすべて白起が先読みし、適切に部隊を配置されていたためにすべて失敗に終わりました。
 こうして数十日間包囲された趙軍の中から餓死者も現れたため、最終的に趙軍は全滅覚悟で最後の突撃を敢行します。この突撃によって司令官の趙括は戦死し、残った兵士は全員が降伏します。

 ここからがこの戦争のハイライトなのですが、降伏した趙軍の兵士は約40万人いたとされ、白起はこれほど大量の捕虜となると連れ帰ろうにも食料がなく、かといって無傷で趙に戻してはこの戦争で勝利した意味がなくなると考え、なんと一部の少年兵を除き全て生き埋めにして殺してしまいました。
 私の考えとしては当時の中国の人口で40万人も兵士を動員できるかと言ったら疑問で、また戦争で戦ってるのにほとんどの兵士が戦死せずそのまま降伏するってのはさすがに有り得す、この数字はさすがに盛っているように思えます。ただ大量の兵士が降伏したにもかかわらず生き埋めにされたのはどうやら事実だったらしく、なんでも近年にこの戦いの戦場だったと思しき場所を発掘した所、有り得ないくらいに大量の人骨が出土したそうです。軽いホラーだ。

 この戦いの故事から趙括の名前はいわゆる「論語読みの論語知らず」という、「勉強はできるけど実戦はからきしな頭でっかち」という意味を表すようになりました。そしてこの戦いで勝利した白起ですが、この戦争の後の戦後処理に不満を持って出仕せず自宅に引きこもるようになり、この態度に腹を立てた秦の国王によって自害する様にと命令されこの世を去っております。
 たった一つの戦いとはいえあまりの敗戦ぶりによって趙の勢力はガクンと落ち、その滅亡を早めたと言われております。天下分け目の戦いとまではいきませんが、実にドラマチックな展開で結局の勝者は誰だったのかと考えさせられるエピソードです。

2013年12月28日土曜日

欧州の騎兵の歴史

 最近興味を沸いたことから、ウィキペディアの「騎兵」の項目をやけに調べていました。日本で騎兵というと武田騎馬軍団がすぐ出てくるでしょうがこれは実際にどれほど運用されていたのかがやや不明瞭であるのに対し、サラブレッドの本場である欧州ではかなり面白い使われ方というかごく近い時代まで主力の舞台として使われていたようです。

 騎兵は騎士道が発達した中世、具体的には十字軍の時代には早くも戦場の花形となっており、重装騎兵隊による突撃は当時最強の戦術の一つに数えられました。しかし重装騎兵は十字軍以降はどうも鳴りを潜めたようで、火砲の発達とともに徐々に軽装、というより機動力を重視した騎兵隊が編成されるようになり、騎兵自身が火砲を持つ銃士や竜騎兵というものも登場してきます。
 騎兵が全盛となるのは近世から近代、具体的にはドイツ30年戦争が行われているあたりからナポレオン戦争の時代までです。この時代になると騎兵は胸を覆うプレートを付けるくらいで完全に機動力重視となり、またサーベルを持って突撃したりするなどとどめの一撃などに主に使われたようです。

 で、実際に騎兵がどれほど戦場で活躍したのかというと、ナポレオン旗下で騎馬隊率いりゃ当時の欧州一と呼ばれたミュラなどは敵軍が鉄砲を撃ってくる中でも果敢に突撃し、しょっちゅう敵陣を崩したり敗走する敵軍を散々に打ち負かしていたと言われます。当時の鉄砲はまだマスケット銃もいい所で、一回撃ったら弾込などタイムラグが必要なため、200メートルくらいの距離であれば相手が打ち終わった隙に一気に間合いを詰めて突撃することが出来たようで、勝敗の趨勢を決める一撃として各軍で温存し、活用されていました。

 この騎兵突撃なのですが、その効果は馬の圧力による威力と共に心理的な効果も非常に高かったと言われます。冷静に考えてみると、でかい馬に乗ってサーベルや鉄砲持った人が猛スピードでこっちに向かってくるわけですから、実際に向かい合った兵隊からすると恐怖以外の何物でもないでしょう。また仮に向かい合えるだけの勇気を持っていたとしても、隣の兵士が恐怖に臆して身を引こうものならあっという間に自分だけ踏みつぶされるわけですから、騎兵が近づいてくることでばたと陣が崩れていくというのもよくわかります。
 そのように19世紀初頭まで普通に活用されていた騎兵ですが、その退場の歴史は鮮やかだったというかあまりにも突然でした。きっかけは機関銃の登場で、どれだけ突撃をかけても突破することのできない兵器によって騎兵はあっという間に衰退していきます。

 これは最近知ったのですが、一応今でも騎兵は警備隊みたいな形で残っているのですが、第二次大戦の頃のポーランド軍には普通に騎兵が編成されており、ナチスドイツの戦車部隊に突撃していたという話がまことしやかにネット上で出回っております。これはポーランド人は馬鹿だということを示すエピソードとしてよく使われるそうですが、実際に当時騎兵が編成されナチスドイツの機甲部隊と戦闘したことは事実であるものの、真正面から突撃したわけではなく側面や後方から攪乱したりなどして上々の戦果を挙げたというのが事実だそうです。とはいえ、現代においてはもはや通用しないだろうな。

 最後に騎兵が退場することになった機関銃のエピソードを見て思ったことなのですが、それ以前の戦争はあくまで人間同志が武器を用いて戦う戦争だったのに対し、機関銃の登場からは兵器同士がぶつかり合う戦争となり、むしろ人間はその兵器を取り回す部品みたいに変わってしまった印象を覚えました。現代においてはむしろその傾向が顕著で、兵数は補給など後方部隊ならともかく、もはや戦争の勝敗を決する要因としては非常に小さく、どれだけ質の高い兵器を保有しているかどうかの方が大きな要因となっています。そのうち兵器はどんどん無人化するでしょうが、チャーチルが言った、「二次大戦はもはやナポレオンが戦った頃の戦争とは異なる。今の時代の英雄は戦場で指揮するものではなく、会議室でミサイルの発射を許可する人間だ」と話したのもうなずける話です。

2013年12月27日金曜日

日本海軍のラッキーシップ「瑞鶴」

 今日から30日まで友人のクーロンズゲートと共に北京へ取材旅行に出かけるので、このブログの更新が出来なくなります。更新が出来ないと言っている傍からなんでこの記事が出ているのかというと、記者時代に培ったため記事放出の技術を使い、予約投稿をあらかじめセットしておいたからです。今この記事は12/24に書いておりますが、せっかくため記事を数日間連続で出すんだから何か一つのテーマで書いてみようと思い、真冬の歴史まつりと称して歴史ネタを連続で書いてくことにします。そこで一発目の今日は、私が大好きな航空母艦こと瑞鶴について触れていきます。

瑞鶴(Wikipedia)

 最近、「艦隊これくしょん」というゲームが流行って様々な二次大戦中における日本の感染が擬人化(美少女化)されており、この辺の分野に興味を持つ人も増えているかと思います。私自身はこの「艦これ」はやっていないのですが、この瑞鶴だけはどんな女の子に描かれているのかが気になって昨日(12/23)調べました。
 それほどまでに私が強いこだわりを持つ瑞鶴とはどんな艦船なのかというと、通称が「ラッキーシップ」と呼ばれるほどに圧倒的な生還率を誇り、真珠湾攻撃から事実上の日本軍最後の艦隊戦であるレイテ沖海戦まで戦い抜いた唯一の航空母艦です。

 瑞鶴は連合艦隊の一翼を担う空母として1941年9月、姉妹艦である翔鶴とともに就航します。「艦隊これくしょん」だと何故か翔鶴が姉で瑞鶴が妹設定にされていましたが、なんとなく私もわかる気がします。
 話を真面目な方向に戻すと就航からわずか三ヶ月後には真珠湾攻撃に参加し、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴の五つの空母と共にこの攻撃を成功させます。真珠湾攻撃後も瑞鶴は太平洋各地を転戦し続けるのですが、注目すべきはミッドウェー海戦を始めとする大規模な戦いにほぼ確実に参加しつつも、なんと1944年3月のマリアナ沖海戦まで一発も被弾することなく戦い抜いていることです。

 ほかの、というか普通の艦船は撃沈されるまでには至らないまでも、普通の戦闘で一発や二発の攻撃を受けることは珍しくありません。にもかかわらず瑞鶴は開戦から三年四カ月間もの間に一発も攻撃を受けることなく元気に、というかうざいくらいに戦い続けています。仮に勝ち戦だけに参加しているならまだしも、ミッドウェー海戦の様に他の空母が撃沈されるほどの敗戦でもノーダメージだったというのは有り得ないほどの強運ぶりです。その強運ぶりは戦時中にも認知されており、いつしか「ラッキーシップ」というあだ名がついたと言われています。
 ちなみに初めての被弾はさっきから何度も書いているマリアナ沖海戦ですが、この被弾では艦橋を小破する程度にとどまっており、喰らってもやっぱり強運でした。一方、姉妹艦の翔鶴はこの戦いで撃沈されてます。バイバイお姉ちゃんって感じです。

  しかしそんなラッキーシップにも最後の時がやってきます。その最後の時はマリアナ沖海戦の次に参加した1944年7月のレイテ沖海戦で、この戦いで瑞鶴は囮部隊として米軍を引き付ける役割を受けます。さすがに囮ともなればこれまでの強運ぶりも発揮できず米軍の攻撃が開始されるや散々に被弾し、囮の役割をしっかり果たした上で海へと沈没していきました。瑞鶴の撃沈によって真珠湾攻撃に参加した空母はなくなり、同時に日本海軍が運用できる正規空母も完全粉砕されることとなったわけで、仮に船が欧米の価値観の様に女性の性質を持つのであれば瑞鶴は空母姉妹の末妹だったような印象を覚えます(つД`)

 私が瑞鶴を何故こよなく愛するのかというと、その数奇な戦歴に興味が引かれるとともに、小学生の頃に読んだ従軍体験者の小説で瑞鶴がメインの舞台として登場していたからです。生憎その本の名前は失念したのですが、作者は瑞鶴航空部隊のパイロットで、戦後はテレビ界に身を置いていた人だった気がします。この小説は淡々とした内容でしたが、パイロット隊員の訓練風景を濃密に描いた上で彼らが徐々に戦死する様を描いており、戦争小説でありながらゆっくりと悲しみが満ちてくる不思議な小説でした。

 先日、NHKが「永遠の0」の映画公開に合わせたのかゼロ戦の特集番組を放映したのですが、その番組にゼロ戦搭乗者としてインタビューに答えた人物の中になんとこの瑞鶴所属の航空部隊にいた方が登場しました。もちろん話す内容はゼロ戦がメインで瑞鶴なんて一言も触れませんでしたが、私にとってはあの瑞鶴を知る人がまだ生き残られていたのかとこれまた不思議な感慨に打たれました。同時にたとえ沈んだとはいえ幸運の女神はまだこの方を見守っていたのかと思い、今年は際限なく運が悪かっただけに自分にもそういう幸運の女神が欲しいもんだなどと言うことが頭に浮かんだというわけです。
 今度プラモ買って作ってみようかなぁ、瑞鶴。