本日トヨタ自動車が今年の役員賞与を全額廃止する方針を発表しました。今回削減される役員賞与は総額約十億円との事でこれも景気の悪化を受けてのことらしいですが、皮肉にもトヨタは役員報酬は大企業の中でも非常に少ない会社(確か社長で三千万だったと思う)であるので、削減したところでどれほど節約になるかといったらすこし心もとない気はします。それでも、やるだけえらいと思うけど。
そんなかんだで、今の日本はどの企業もあっちこっちで経費削減の嵐です。特にトヨタやソニーといった輸出に過剰に依存している企業だと先週末で88円台をつけた急激な円高を受け、確か今年の前半にトヨタは110円、ソニーは100円で社内レートをつけていたと思うから、当初の業績予想で言うとトヨタは9000億円、ソニーは500億円もこの為替だけで予想損益がマイナスを喰らうのですから、そりゃ必死にもなるでしょう。
そのためさきほどのトヨタを筆頭にして今後もあちこちで役員給与や報酬の返納や見直しが行われることは確実ですが、それ以前に既に実行されているものとして、派遣社員の契約打ち切りなどの下部労働者の解雇も急激に広がり、ニュースなどでも報道されているように社会問題化しております。
この労働者の解雇について不況の度に私は毎回思うのですが、一体何故日本にはレイオフがないのかいつも不思議に感じます。あんまり実態を把握してないで言うのもなんですが、金の論理で企業を動かすアメリカ企業がレイオフを行うのに対し、人の論理で企業を動かす日本がしないというのにはどうにもギャップを感じます。
このレイオフ(layoff)というのはリンクに貼ったウィキペディアの記事を読んでもらえばわかりますが、敢えて日本語に直すとしたら「一時解雇」という意味の言葉です。このレイオフが具体的にどういう風に使われるかというと、今みたいに景気の変動を受けて事業を縮小せざるを得なくなった際に抱えている従業員に対して一旦は解雇を申し渡すのですが、その際に再び景気がよくなってきたら再雇用する旨を契約する条件として用いられます。そのため不景気が去って企業がまた事業を拡大するようになると、また新規に従業員を募集するのではなくかつて雇用していた従業員を優先的に呼び集めて人員が補充されます。また好条件だと、一時解雇中も労働契約が続くとしてわずかながらですが給料も支払われ続ける場合もあります。
このレイオフ制度の強みは何かというと、不景気後に再び事業拡大を図る場合にまた一から従業員を教育しなおす必要がなく、かつてその企業で業務に携わっていた人間を再び雇用できるので建て直しがはかりやすい点にあります。また一時解雇の条件として先にあげたように減額された給料を支払う条件であれば、解雇されていきなり無収入になるということは避けられるので社会保障の点でも大きい効果が狙え、企業としても円滑に人員削減による経費削減が行えます。
日本でこの制度が運用されている例としては、産児一時休暇制度等に代表される出産をする女性社員への一時休職制度がこれに当たります。これも失われた十年に社員数を大幅に厳選した企業が業務に熟知した女性社員を出産などでみすみす手放すより、一時休職させてその後に復職してもらったほうが都合がいいとの事で、私の見ている限りでは以前からは想像も出来ないほど日本企業に普及しているように見えます。
さすがに大メーカーなどでは抱えている労働者全員にこのレイオフを行うことは事実上不可能というのはわかるのですが、熟練工や正社員の削減時にも一切この制度が使われないというのは、やっぱり日本企業にとってマイナスなのではないかと思う時があります。何故日本でレイオフが行われないか、そういった背景についてはあまり詳しくないのでもし誰か知っている方があれば是非コメントをしてもらいたいのですが、こんな時代だからこそ、如何に不況を乗り切る知恵をみんなで出し合うべきだと私は思います。
ついでに言うと、たとえば語学留学や一年間羽を伸ばしたいというような、貯金はあるが時間がない社員に対しても結構有効な制度だと私は思っています。レイオフによって自由な時間を与えることによって最終的に、日本全体で消費の向上も望めますし、消費する側も復職する希望があれば動きやすいでしょう。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年12月14日日曜日
2008年12月13日土曜日
私の好きな野球選手
最近めちゃ堅い内容ばかりが続いているので、ちょっと気を抜くがてらに私の好きな野球選手の話をします。
まず往年の選手の中で私が誰が一番好きかと言うと、元ヤクルトのブンブン丸こと池山選手が一番好きです。当時はよく神宮球場に行ってヤクルトの試合を見ていたのもあり、そこでまた全盛期だった池山選手の活躍をよく見ていたので、多分今でも家には当時に買った池山選手のマグカップがあると思います。
この池山選手というとひょうきんな性格でも有名で、現役時にはチームメイトに対して様々ないたずらをよくやっていたそうです。また試合後の発言も面白く、確か今でも最長試合時間として記録に残っている延長に延長が続いた試合で、池山選手が二本のホームランを打った事によって無事試合に勝った後のインタビューにて、
「いやー長い試合で、最初のホームランがまるで昨日のように思えます」
といったところ、この時既に時刻は午前零時を回っていたことから、実際に最初のホームランは昨日のことだったというエピソードがあります。
この池山選手と同じく往年の選手だと、こちらはまだ新しいですが、元巨人の桑田投手も非常に大好きな選手です。
実はこの桑田投手が現役だった頃、今と違って私は逆にこの人が大嫌いでした。その嫌いな理由というのも当時の桑田選手はしょっちゅう怪我をしてはあまり試合に出ないにも関わらず、毎年すごい額の年俸をもらっていてなにかおかしいんじゃないかという風に考え、当時は目にするのも嫌なくらいに嫌ってました。
しかし現役晩年にすでに選手として高年齢に入っていたにもかかわらずメジャー挑戦を表明し、二軍からスタートしてオープン戦にて実績を残し、もしかしたら本当にメジャーの舞台で投げるのではと思っていた矢先、守備中に審判と激突して怪我をしてしまったところから見方が変わってきました。
実は当時、私も外せない日程がたくさん詰まっていたにもかかわらず自然気胸という、肺に穴が空く病気を起こしてしまって一週間ほど入院せざるを得なくなり、実際にこれで大きなチャンスを逃してしまいました。この時はすっかり精神的にも参って、それから数ヶ月ほど苦しい時期が続いて体重もめっきり落としてしまったのですが、桑田の方はというと見事に怪我を乗り越え、二軍での試合で実績を残し、数試合ではありましたがとうとう実際にメジャーのマウンドに立ちました。
当時の私はこの桑田選手の活躍に本当に勇気付けられました。
それから興味を持って桑田選手のことをいろいろ調べてみたところ、日本での現役時にも肘を怪我して選手生命の危機に追い込まれながらも手術を行い見事に復活し、その後成績が低迷して引退を考えたこともあった後に原監督に励まされプレイを続行し、2002年に元阪神の井川と最後まで争った挙句に最優秀防御率を取るなど、文字通り不死鳥のごとく逆境から何度も蘇っている姿を見て、当時にかなり打ちひしがれていた自分と比べて再び頑張ろうという気持ちになり、どうにかその時の苦境を乗り越えることが出来ました。
その後再び二軍に落ちて、翌年に桑田選手が引退を発表した際には本当に大泣きしました。今でも思い出すたびに涙が出そうになるのですが、当時に自分が苦しかった分、今でもその支えになった桑田選手には感謝する気持ちが絶えません。
以前にある解説者が、野球というのは本当に見ていてつまらないスポーツで、二時間以上ある試合の中で面白いシーンやプレイというのは一回、あるかないかだと言っていました。これは実際にその通りですが、一試合にとどまらずに長く見ることで、本当に人をひきつけるヒーローというのは見えてくるのだと思います。
まず往年の選手の中で私が誰が一番好きかと言うと、元ヤクルトのブンブン丸こと池山選手が一番好きです。当時はよく神宮球場に行ってヤクルトの試合を見ていたのもあり、そこでまた全盛期だった池山選手の活躍をよく見ていたので、多分今でも家には当時に買った池山選手のマグカップがあると思います。
この池山選手というとひょうきんな性格でも有名で、現役時にはチームメイトに対して様々ないたずらをよくやっていたそうです。また試合後の発言も面白く、確か今でも最長試合時間として記録に残っている延長に延長が続いた試合で、池山選手が二本のホームランを打った事によって無事試合に勝った後のインタビューにて、
「いやー長い試合で、最初のホームランがまるで昨日のように思えます」
といったところ、この時既に時刻は午前零時を回っていたことから、実際に最初のホームランは昨日のことだったというエピソードがあります。
この池山選手と同じく往年の選手だと、こちらはまだ新しいですが、元巨人の桑田投手も非常に大好きな選手です。
実はこの桑田投手が現役だった頃、今と違って私は逆にこの人が大嫌いでした。その嫌いな理由というのも当時の桑田選手はしょっちゅう怪我をしてはあまり試合に出ないにも関わらず、毎年すごい額の年俸をもらっていてなにかおかしいんじゃないかという風に考え、当時は目にするのも嫌なくらいに嫌ってました。
しかし現役晩年にすでに選手として高年齢に入っていたにもかかわらずメジャー挑戦を表明し、二軍からスタートしてオープン戦にて実績を残し、もしかしたら本当にメジャーの舞台で投げるのではと思っていた矢先、守備中に審判と激突して怪我をしてしまったところから見方が変わってきました。
実は当時、私も外せない日程がたくさん詰まっていたにもかかわらず自然気胸という、肺に穴が空く病気を起こしてしまって一週間ほど入院せざるを得なくなり、実際にこれで大きなチャンスを逃してしまいました。この時はすっかり精神的にも参って、それから数ヶ月ほど苦しい時期が続いて体重もめっきり落としてしまったのですが、桑田の方はというと見事に怪我を乗り越え、二軍での試合で実績を残し、数試合ではありましたがとうとう実際にメジャーのマウンドに立ちました。
当時の私はこの桑田選手の活躍に本当に勇気付けられました。
それから興味を持って桑田選手のことをいろいろ調べてみたところ、日本での現役時にも肘を怪我して選手生命の危機に追い込まれながらも手術を行い見事に復活し、その後成績が低迷して引退を考えたこともあった後に原監督に励まされプレイを続行し、2002年に元阪神の井川と最後まで争った挙句に最優秀防御率を取るなど、文字通り不死鳥のごとく逆境から何度も蘇っている姿を見て、当時にかなり打ちひしがれていた自分と比べて再び頑張ろうという気持ちになり、どうにかその時の苦境を乗り越えることが出来ました。
その後再び二軍に落ちて、翌年に桑田選手が引退を発表した際には本当に大泣きしました。今でも思い出すたびに涙が出そうになるのですが、当時に自分が苦しかった分、今でもその支えになった桑田選手には感謝する気持ちが絶えません。
以前にある解説者が、野球というのは本当に見ていてつまらないスポーツで、二時間以上ある試合の中で面白いシーンやプレイというのは一回、あるかないかだと言っていました。これは実際にその通りですが、一試合にとどまらずに長く見ることで、本当に人をひきつけるヒーローというのは見えてくるのだと思います。
2008年12月12日金曜日
現代日本のアノミー現象
・「生きた証し残すため」小泉容疑者が供述…強い自己顕示欲(YAHOOニュース)
上に貼ったニュースによると、厚生次官連続殺傷事件の犯人の小泉容疑者は今回の事件の動機として、「自分が生きた証を残したかった」などという内容の供述をし始めているようです。率直に言って、これを聞いて私もなんとなく納得した気持ちを覚えました。
この事件では小泉容疑者が無職だったり、エリート街道から脱落したことなどが犯行の原因ではないかと、昨日に書いた「最近の格差問題への報道について」で書いたように安直に格差を動機に結びつける報道が多くされていたのですが、私としてはこの事件で犯人は犯行前からクレーマー的な行動を繰り返したり逮捕時に主張した「愛犬の仇」の証言から、ただ単に犯人が特殊な人物であったということからこの事件が起きたと私は見ていましたが、今日のこのニュースを見て、犯人が特殊な人物であるが故に事件が起きたという事には変わりませんが、その犯人の特殊性がやや落ちて少しは普通の人間っぽいところもあったのだなと思い直すようになりました。
社会学を学ぶ者ならまず絶対に知らなければいけない人物と概念として、「エミール・デュルケイム」と彼の提唱した「アノミー論」というのがあります。このアノミー論が展開されたのは「自殺論」といって社会学の古典の中の古典に入る傑作からですが、この本では極論すると、「社会的な拘束が緩い自由な社会であるがゆえに、自殺者も多くなる」という主張がなされており、私もこの意見について異論を持ちません。
もう少し細かく説明すると、人間というのは自分に対して必ず自分の人間像を持ちます。それこそナルシストであれば自分はかわいいとか格好いいとか思い、武士の家の者なら誇りを持って恥ずかしくないように生きるべきというようにです。
しかしこうした自分像で一番大きな幅を占めるのはなんといってもやはり、お金に関するものでしょう。たとえば周りが皆バンバンお金を使っているのに自分にはお金がなくて貧しい暮らしを強いられるとすると、「あいつらはあんなにお金があるのに、何で自分にはないんだ」というように、周囲と自分との差異を感じることによって精神的にプレッシャーを覚えるものでしょう。
概して自分像というのは周囲との比較によって生まれるもので、「周りの人と比べて自分は……」といった具合に作られるもので、そうして周囲の人間の環境から作られる「本来、自分はこうあるべき」と思っている自分像と「現実の自分の状況」に違いがあれば人間は不安を覚える、というのがこの「アノミー」という状態です。
ではこのアノミーがどのようにこの事件に関係しているかですが、私が見るに近年の日本は生活的な環境や富については以前ほど価値観を見出さなくなり、その代わりに「社会的に認められる、注目されること」に異常に執着心を持つようになったと思えます。言ってしまえば先ほどの武士的な価値観で、最近の日本人は自らが幸せを感じる条件として豊かな生活を送ることよりも、社会的に認められたい、注目されたいという気持ちの方が強くなってきていると私は見ています。
何気にこの辺は今、私が手伝っている後輩の卒論にも関係しており、このように富から名誉へと欲求が移り変わっていくのもマズローって人が「欲求段階論」で説明しています。
ちょっと話がそれましたが、そんな具合に日本人は幸福追求をするため豊かな生活を得ようと遮二無二に働くことをあまりしたがらなくなり、その代わりになにかしらこう、自分の生き方や価値観に意味があったのだという意味づけを行いたがるようになっていきました。
そのような価値観の変化が起きた為、今の日本では職がなかったり人との交流がない人間にとってすれば、食うに困らない環境で生活していたとしても幸福を感じることがなく、楽観的に今の自分はいい身分だと考えることが出来ずにどんどんと気が滅入っていきます。
そういった人間は一体どうしたいかというと、ちょっと厳しい書き方になりますが、「それでも自分は生きていたのだ」と強く主張したがっているように私は思えます。実は数年前に集団自殺について調べたことがあったのですが、この集団自殺の数多くの例で自殺の決行直前に、「自分はこれから死ぬ」といった内容のメールを知人に送っている者がいました(それがきっかけで、救助が間に合った例もある)。
言ってしまえばなにもメールなんて書かなければそのまま目的通りに自殺が達成できるにもかかわらずこうした行動をとることについて、ある心理学者がこうした自殺志願者は生活の苦しさから開放されたいがためというより、注目されたいがために自殺を選ぶからだと指摘していました。つまり、練炭自殺や塩化水素自殺などが流行する背景には、それが世間に注目される自殺方法だからだという風に私は考えています。
ここでようやく元の話題に戻ります。
今回のこの厚生次官連続殺傷事件も犯人の証言通りに「生きた証が残したかった」というように、愛犬が保健所で処分されたのは所詮は口実で、実際には自らの名誉心を最後に満足させたいがために起きた事件だったと私は今回の報道で解釈しました。皮肉な話ですが、そういう犯人にとって何が一番うれしいのかというと、自分の起こした事件が大々的に報道されることに他なりません。
無論こういったことは間違ったことで繰り返されるべきではなく、忘れろとは言いませんが犯人も無事捕まったこともありますし、今後はあまり話題に出すべきではないかと私は思います。なのでこの記事も本来なら書くべきではないのですが、現代日本のアノミー化現象と異常犯罪の背景を説明するにいい好例と思い、反省しながらも書いた次第であります。
上に貼ったニュースによると、厚生次官連続殺傷事件の犯人の小泉容疑者は今回の事件の動機として、「自分が生きた証を残したかった」などという内容の供述をし始めているようです。率直に言って、これを聞いて私もなんとなく納得した気持ちを覚えました。
この事件では小泉容疑者が無職だったり、エリート街道から脱落したことなどが犯行の原因ではないかと、昨日に書いた「最近の格差問題への報道について」で書いたように安直に格差を動機に結びつける報道が多くされていたのですが、私としてはこの事件で犯人は犯行前からクレーマー的な行動を繰り返したり逮捕時に主張した「愛犬の仇」の証言から、ただ単に犯人が特殊な人物であったということからこの事件が起きたと私は見ていましたが、今日のこのニュースを見て、犯人が特殊な人物であるが故に事件が起きたという事には変わりませんが、その犯人の特殊性がやや落ちて少しは普通の人間っぽいところもあったのだなと思い直すようになりました。
社会学を学ぶ者ならまず絶対に知らなければいけない人物と概念として、「エミール・デュルケイム」と彼の提唱した「アノミー論」というのがあります。このアノミー論が展開されたのは「自殺論」といって社会学の古典の中の古典に入る傑作からですが、この本では極論すると、「社会的な拘束が緩い自由な社会であるがゆえに、自殺者も多くなる」という主張がなされており、私もこの意見について異論を持ちません。
もう少し細かく説明すると、人間というのは自分に対して必ず自分の人間像を持ちます。それこそナルシストであれば自分はかわいいとか格好いいとか思い、武士の家の者なら誇りを持って恥ずかしくないように生きるべきというようにです。
しかしこうした自分像で一番大きな幅を占めるのはなんといってもやはり、お金に関するものでしょう。たとえば周りが皆バンバンお金を使っているのに自分にはお金がなくて貧しい暮らしを強いられるとすると、「あいつらはあんなにお金があるのに、何で自分にはないんだ」というように、周囲と自分との差異を感じることによって精神的にプレッシャーを覚えるものでしょう。
概して自分像というのは周囲との比較によって生まれるもので、「周りの人と比べて自分は……」といった具合に作られるもので、そうして周囲の人間の環境から作られる「本来、自分はこうあるべき」と思っている自分像と「現実の自分の状況」に違いがあれば人間は不安を覚える、というのがこの「アノミー」という状態です。
ではこのアノミーがどのようにこの事件に関係しているかですが、私が見るに近年の日本は生活的な環境や富については以前ほど価値観を見出さなくなり、その代わりに「社会的に認められる、注目されること」に異常に執着心を持つようになったと思えます。言ってしまえば先ほどの武士的な価値観で、最近の日本人は自らが幸せを感じる条件として豊かな生活を送ることよりも、社会的に認められたい、注目されたいという気持ちの方が強くなってきていると私は見ています。
何気にこの辺は今、私が手伝っている後輩の卒論にも関係しており、このように富から名誉へと欲求が移り変わっていくのもマズローって人が「欲求段階論」で説明しています。
ちょっと話がそれましたが、そんな具合に日本人は幸福追求をするため豊かな生活を得ようと遮二無二に働くことをあまりしたがらなくなり、その代わりになにかしらこう、自分の生き方や価値観に意味があったのだという意味づけを行いたがるようになっていきました。
そのような価値観の変化が起きた為、今の日本では職がなかったり人との交流がない人間にとってすれば、食うに困らない環境で生活していたとしても幸福を感じることがなく、楽観的に今の自分はいい身分だと考えることが出来ずにどんどんと気が滅入っていきます。
そういった人間は一体どうしたいかというと、ちょっと厳しい書き方になりますが、「それでも自分は生きていたのだ」と強く主張したがっているように私は思えます。実は数年前に集団自殺について調べたことがあったのですが、この集団自殺の数多くの例で自殺の決行直前に、「自分はこれから死ぬ」といった内容のメールを知人に送っている者がいました(それがきっかけで、救助が間に合った例もある)。
言ってしまえばなにもメールなんて書かなければそのまま目的通りに自殺が達成できるにもかかわらずこうした行動をとることについて、ある心理学者がこうした自殺志願者は生活の苦しさから開放されたいがためというより、注目されたいがために自殺を選ぶからだと指摘していました。つまり、練炭自殺や塩化水素自殺などが流行する背景には、それが世間に注目される自殺方法だからだという風に私は考えています。
ここでようやく元の話題に戻ります。
今回のこの厚生次官連続殺傷事件も犯人の証言通りに「生きた証が残したかった」というように、愛犬が保健所で処分されたのは所詮は口実で、実際には自らの名誉心を最後に満足させたいがために起きた事件だったと私は今回の報道で解釈しました。皮肉な話ですが、そういう犯人にとって何が一番うれしいのかというと、自分の起こした事件が大々的に報道されることに他なりません。
無論こういったことは間違ったことで繰り返されるべきではなく、忘れろとは言いませんが犯人も無事捕まったこともありますし、今後はあまり話題に出すべきではないかと私は思います。なのでこの記事も本来なら書くべきではないのですが、現代日本のアノミー化現象と異常犯罪の背景を説明するにいい好例と思い、反省しながらも書いた次第であります。
なぜ大麻に手を出すのか
最近大麻所持や吸引で捕まる人のニュースが増えており、特に先月には各有名大学の学生がそれこそ全国で次々と逮捕される事態まで起こりました。もっとも今回の場合、大麻を自分で吸う人間よりもむしろ生育し、常習者にネットなどを介して販売していた人間の逮捕が多かったのが特徴で、以前はこういう話だとよくイラン人とかが違法テレホンカードなどと一緒に「密着警察24時間」とかでやってたのですが、その時代と比べると日本人もいろいろやるようになったもんです。
さてそれでは本題ですが、何故これほどまでに社会で大麻に手を出してはならないとあちこちで注意されているにもかかわらず、日本人は大麻に手を出して常習するようになるのでしょうか。それこそ一度吸引して快感を覚えて常習化するならまだわかるとしても、これだけ危険視されているにもかかわらず最初の一回目の吸引をしてしまうのは何故なのでしょうか。
これはあくまで極論であって自分で言っててもやりすぎじゃないかと思うのですが、やっぱり大麻が「禁止されている」ものであるがゆえに、手を出してしまう人もいるんじゃないかと私は思います。
報道などで見ていると過去の常習者がよく、「当時の仲間が吸っていたから」とか、「友達に勧められたから」という風にきっかけを話すことが多く、こういうものは日本人お得意の盃の交換や集団いじめなどに代表される「同一儀式の実行による親睦強化」によるものです。こうしたものともう一つ、私がにらんでいる大きなきっかけとなるものは先ほどの、禁止されているがゆえにやってみたいという、いわゆるタブー欲求です。
タブー欲求については心理学などでよく研究されている題材で、たとえば恋人がいるのに浮気をしてはいけないと考えると自然と浮気の何がいけないのか、どこからどこまでが浮気なのかという風に意識が浮気のことばかりに集中してしまい、何故だか逆に浮気をしたくなるようになる現象を言います。なおこの場合、「絶対にしてはいけない」と考えれば考えるほどどつぼにハマるので、「今の相手が嫌になったらやろうかな」という具合に、禁止態度を緩めることがかえってタブー欲求を回避にはするいい方法のようです。
私が見ていると、特に中高生から大麻に手を出す連中にはまさにこういうのが原因でやり始めたのも少なくないんじゃないかと思います。第一未成年がタバコに手を出すのも、煙を吸いたいというよりも大人が吸うなと言うから逆に吸いたくなったというのが大半でしょうし、この大麻もその延長線上にあるような気がしてなりません。
じゃあどうすればいいのかで、大麻を吸うな吸うなと厳しく言うべきじゃないのかという風に思われる方もいるかと思いますが、私としてはそんなことを言うつもりは毛頭ありません。というのも先ほど大麻はタバコの延長線にあるのではないかと言ったように、大麻もまた更に害のある刺激物の通過点になりかねないからです。
先ほどに説明したタブー欲求ですが、言ってしまえばこれは「禁止されている」がゆえに覚える快感も大きくなります。よく背徳は最大の幸福だと説明する人もいますがタブー欲求に限ればまさにその通りで、逆にその行為が大手を振って皆で行っている、行える行為になってしまうと、身体に感じる快感も急激に少なくなってきます。よく不倫恋愛の末に結婚した人間同士が互いに元の伴侶と離婚をして、大手を振って結婚した途端に不仲になるという話がありますが、これなんかまさにこのクールダウンの好例でしょう。
私は大麻もタバコも、やっぱりそういうところが少なくないんじゃないかと思います。私は喫煙をしませんが現に喫煙者の方に聞くとその大体が本音ではやめたいと、なんだか中途半端な快感を求めて吸っているようにしか聞こえません。まぁタバコの場合は中毒性や常習性があるがゆえですが、大麻の場合はよくタバコより中毒性は低いと言われますが、先ほどのタブー欲求に照らすと吸い始めた当初は高い快感を覚えても、慣れてしまうとそういったものがだんだんと薄れます。そうなるとどうなるかですが、いちいち言うまでもなくもっと刺激の強い薬物を求めていくという風にどんどんとエスカレートしていく恐れが高くなります。
そういった先のことを考えると、いやむしろそのような先のことを考え、今以上の快感を求めたところでどんどんと得られるものは逆に少なくなっていく。それならむしろ今合法的に許されるものの中で満足していくべきだと言うように、荀子の「唯、足るを知る(現状に満足できるようになればよい)」を行っていく、指導していくことも薬物対策の上で一つの手段になるのではないかと私は思います。
追伸
私はイギリスのロンドンに一ヶ月ほど語学研修に行ったことがありますが、イギリスでは大麻は室内で吸引する分には合法で露店とかでもよく吸引機が売っていました。
そんなある日、私が相部屋の先輩格の日本人と話をしていると相手の携帯が鳴り、何でも日本人仲間の一人が大麻を吸ってオチてしまい、今大変だと別の日本人仲間から連絡が来ました。
よく大麻はタバコより身体に害がないと考える人が多くいるようですが、その先輩格の友人によると、何でも大麻を吸った直後は気分的には非常にハイになるのですが効果が切れると急激にテンションが落ち、物事を悲観的に考えたり自傷行為を行ったり、ひどい場合にははずみで自殺までしてしまうことが起きるそうです。そのような猛烈な気分の落下のことを「オチる」といい、こうした影響を考えると決して大麻は無害ではないそうです。
一応付け加えておくけど、私はイギリスだろうが日本だろうが中国だろうが、こうした薬物には一切手を出していませんからね。
さてそれでは本題ですが、何故これほどまでに社会で大麻に手を出してはならないとあちこちで注意されているにもかかわらず、日本人は大麻に手を出して常習するようになるのでしょうか。それこそ一度吸引して快感を覚えて常習化するならまだわかるとしても、これだけ危険視されているにもかかわらず最初の一回目の吸引をしてしまうのは何故なのでしょうか。
これはあくまで極論であって自分で言っててもやりすぎじゃないかと思うのですが、やっぱり大麻が「禁止されている」ものであるがゆえに、手を出してしまう人もいるんじゃないかと私は思います。
報道などで見ていると過去の常習者がよく、「当時の仲間が吸っていたから」とか、「友達に勧められたから」という風にきっかけを話すことが多く、こういうものは日本人お得意の盃の交換や集団いじめなどに代表される「同一儀式の実行による親睦強化」によるものです。こうしたものともう一つ、私がにらんでいる大きなきっかけとなるものは先ほどの、禁止されているがゆえにやってみたいという、いわゆるタブー欲求です。
タブー欲求については心理学などでよく研究されている題材で、たとえば恋人がいるのに浮気をしてはいけないと考えると自然と浮気の何がいけないのか、どこからどこまでが浮気なのかという風に意識が浮気のことばかりに集中してしまい、何故だか逆に浮気をしたくなるようになる現象を言います。なおこの場合、「絶対にしてはいけない」と考えれば考えるほどどつぼにハマるので、「今の相手が嫌になったらやろうかな」という具合に、禁止態度を緩めることがかえってタブー欲求を回避にはするいい方法のようです。
私が見ていると、特に中高生から大麻に手を出す連中にはまさにこういうのが原因でやり始めたのも少なくないんじゃないかと思います。第一未成年がタバコに手を出すのも、煙を吸いたいというよりも大人が吸うなと言うから逆に吸いたくなったというのが大半でしょうし、この大麻もその延長線上にあるような気がしてなりません。
じゃあどうすればいいのかで、大麻を吸うな吸うなと厳しく言うべきじゃないのかという風に思われる方もいるかと思いますが、私としてはそんなことを言うつもりは毛頭ありません。というのも先ほど大麻はタバコの延長線にあるのではないかと言ったように、大麻もまた更に害のある刺激物の通過点になりかねないからです。
先ほどに説明したタブー欲求ですが、言ってしまえばこれは「禁止されている」がゆえに覚える快感も大きくなります。よく背徳は最大の幸福だと説明する人もいますがタブー欲求に限ればまさにその通りで、逆にその行為が大手を振って皆で行っている、行える行為になってしまうと、身体に感じる快感も急激に少なくなってきます。よく不倫恋愛の末に結婚した人間同士が互いに元の伴侶と離婚をして、大手を振って結婚した途端に不仲になるという話がありますが、これなんかまさにこのクールダウンの好例でしょう。
私は大麻もタバコも、やっぱりそういうところが少なくないんじゃないかと思います。私は喫煙をしませんが現に喫煙者の方に聞くとその大体が本音ではやめたいと、なんだか中途半端な快感を求めて吸っているようにしか聞こえません。まぁタバコの場合は中毒性や常習性があるがゆえですが、大麻の場合はよくタバコより中毒性は低いと言われますが、先ほどのタブー欲求に照らすと吸い始めた当初は高い快感を覚えても、慣れてしまうとそういったものがだんだんと薄れます。そうなるとどうなるかですが、いちいち言うまでもなくもっと刺激の強い薬物を求めていくという風にどんどんとエスカレートしていく恐れが高くなります。
そういった先のことを考えると、いやむしろそのような先のことを考え、今以上の快感を求めたところでどんどんと得られるものは逆に少なくなっていく。それならむしろ今合法的に許されるものの中で満足していくべきだと言うように、荀子の「唯、足るを知る(現状に満足できるようになればよい)」を行っていく、指導していくことも薬物対策の上で一つの手段になるのではないかと私は思います。
追伸
私はイギリスのロンドンに一ヶ月ほど語学研修に行ったことがありますが、イギリスでは大麻は室内で吸引する分には合法で露店とかでもよく吸引機が売っていました。
そんなある日、私が相部屋の先輩格の日本人と話をしていると相手の携帯が鳴り、何でも日本人仲間の一人が大麻を吸ってオチてしまい、今大変だと別の日本人仲間から連絡が来ました。
よく大麻はタバコより身体に害がないと考える人が多くいるようですが、その先輩格の友人によると、何でも大麻を吸った直後は気分的には非常にハイになるのですが効果が切れると急激にテンションが落ち、物事を悲観的に考えたり自傷行為を行ったり、ひどい場合にははずみで自殺までしてしまうことが起きるそうです。そのような猛烈な気分の落下のことを「オチる」といい、こうした影響を考えると決して大麻は無害ではないそうです。
一応付け加えておくけど、私はイギリスだろうが日本だろうが中国だろうが、こうした薬物には一切手を出していませんからね。
2008年12月11日木曜日
雇用・能力開発機構の廃止について
・雇用能力機構を廃止=職業訓練機能は別組織へ-政府(YAHOOニュース)
既に今年の前半において当時の渡辺元行革相が廃止を訴えたにもかかわらず一度は流れたあの雇用・能力開発機構の廃止がとうとう政府で決められたそうです。
話せば大分古くなりますが、この雇用・能力開発機構はかねてより何かと問題に上がっては槍玉にされていた行政法人で、最初に大きく取り上げられたのはここが運営していた、年金財源を元に作られた「私のしごと館」でした。この「わたしの仕事館」には以前に住んでいた場所から近いこともあって私も行ったことがありますが、まずなんといってもその施設の豪華さに目を見張りました。それこそ柱から装飾に至るまで一級品の材料で作られており、果たしてここまで豪華に作る必要はあったのかという疑問を持ちました。
しかし施設内の講習で私は「マーケティングリサーチャー」を選んで受けたのですが、講習の内容は非常によく、また講師の方も私からの個人的な質問に付き合ってくれるなど熱意もあり、施設はともかくその機能においては評価するものがありました。
しかし知っている方はわかるでしょうが、この施設の運営に毎年非常に多くの税金が投入されており、同じような内容のこちらは民間が運営している「キッザニア」は黒字を出しているのに比べると、やはり問題のある施設という結論に至ります。
そういう背景からこれまで何度もこの「わたしの仕事館」とその運営母体の雇用・能力開発機構の廃止が取りざたされてきたのですが、天下り先を失いたくないために厚生官僚やそれを支援する族議員によってその動きは阻止されてきたのですが、どうやら今回ばかりは形だけになるかもしれませんが、廃止が本格的に行われそうです。
実はこの雇用・能力開発機構については田原総一朗氏も私が以前に行った講演会にて言及しており、なんでも元々はエネルギー革命によって主要エネルギー源が石炭から石油に移ることによって、仕事にあぶれる大量の炭鉱労働者の再就職の支援を行う目的で作られた行政法人だったそうです。田原氏によると既に現在において元炭鉱労働者というのは皆無に等しく、雇用・能力開発機構はその役目を終えており本来ならもっと早くに廃止すべきだったと述べていましたが、言われるとおりだと私も思います。
それが今回ようやく遡上に乗ったということで一安心なのですが、以前に知り合いの上海人から、
「日本の政治はなんに関しても決断が遅いね。中国だったら上がやるといった時には既に政策が行われているよ」
という風に言われ、私も素直にその通りだと言い返しました。
中国はそれこそ裁判においても死刑判決から二週間後に即執行などと、共産党一党独裁の強みとも言うべきなくらいに行政のスピードが早い国で、その分間違った政策もどんどんと行ってしてしまうという弱点も持っています。
その分日本は議論にゆっくり時間をかけて確実に成果の期待できる政策だけを実行している……と言いたいのですが、この雇用・能力開発機構一つとっても、日本は最初に政策を作るのに延々と長い議論の時間をかける割には実行されてみるとやっぱり間違った政策だったということも珍しくなく、また間違えた政策だったとわかっても今度はそれの改善や廃止をするのにまた延々と長い議論が必要だという、きわめて不効率な政治環境といえます。
私の意見としては、政治の世界というのは前例があるのならともかく基本的には未知の領域に対してどう対応するかということの連続で、全く議論しないというのは論外ですがたとえ長い時間議論をして政策を作ったとしても、それが正しい政策となるかどうかは常に世の中が変動する影響から確率的には非常にランダムなものだと思います。
それならば物は試しとばかりにどんどんと小規模に政策を打ち出し、その政策の実効果や反省を元に改善を素早く加えてから大規模に実施するという方がよっぽど確実だと思います。そしてもしこれをやるとしたら何が肝心かというと、それはやはりスピードになります。
中国などは70年代の改革開放期に「経済特区制度」を設けてシンセンにて実験的に資本主義経済を導入し、徐々にそれを他の主要都市から全国へと広げていった実績があり、また日本としても小泉内閣字に「構造改革特区制度」を設け、一部の地域限定で実験的な政策を素早く行えるようになり、私としてもこの動きを歓迎します。
追伸
「中国官僚覆面座談会」(小学館)によると、中国でも官僚は利権や天下り先を持っており、給料は低くても賄賂などによる副収入から優雅な暮らしが約束されているそうですが、日本の外務省に当たる外交部は一切利権がなく月々の給料の4,000元(60,000円)しか収入がないため、他の官僚たちからは「あいつらの国の忠誠心は本物だ」と誉めそやされているそうです。
既に今年の前半において当時の渡辺元行革相が廃止を訴えたにもかかわらず一度は流れたあの雇用・能力開発機構の廃止がとうとう政府で決められたそうです。
話せば大分古くなりますが、この雇用・能力開発機構はかねてより何かと問題に上がっては槍玉にされていた行政法人で、最初に大きく取り上げられたのはここが運営していた、年金財源を元に作られた「私のしごと館」でした。この「わたしの仕事館」には以前に住んでいた場所から近いこともあって私も行ったことがありますが、まずなんといってもその施設の豪華さに目を見張りました。それこそ柱から装飾に至るまで一級品の材料で作られており、果たしてここまで豪華に作る必要はあったのかという疑問を持ちました。
しかし施設内の講習で私は「マーケティングリサーチャー」を選んで受けたのですが、講習の内容は非常によく、また講師の方も私からの個人的な質問に付き合ってくれるなど熱意もあり、施設はともかくその機能においては評価するものがありました。
しかし知っている方はわかるでしょうが、この施設の運営に毎年非常に多くの税金が投入されており、同じような内容のこちらは民間が運営している「キッザニア」は黒字を出しているのに比べると、やはり問題のある施設という結論に至ります。
そういう背景からこれまで何度もこの「わたしの仕事館」とその運営母体の雇用・能力開発機構の廃止が取りざたされてきたのですが、天下り先を失いたくないために厚生官僚やそれを支援する族議員によってその動きは阻止されてきたのですが、どうやら今回ばかりは形だけになるかもしれませんが、廃止が本格的に行われそうです。
実はこの雇用・能力開発機構については田原総一朗氏も私が以前に行った講演会にて言及しており、なんでも元々はエネルギー革命によって主要エネルギー源が石炭から石油に移ることによって、仕事にあぶれる大量の炭鉱労働者の再就職の支援を行う目的で作られた行政法人だったそうです。田原氏によると既に現在において元炭鉱労働者というのは皆無に等しく、雇用・能力開発機構はその役目を終えており本来ならもっと早くに廃止すべきだったと述べていましたが、言われるとおりだと私も思います。
それが今回ようやく遡上に乗ったということで一安心なのですが、以前に知り合いの上海人から、
「日本の政治はなんに関しても決断が遅いね。中国だったら上がやるといった時には既に政策が行われているよ」
という風に言われ、私も素直にその通りだと言い返しました。
中国はそれこそ裁判においても死刑判決から二週間後に即執行などと、共産党一党独裁の強みとも言うべきなくらいに行政のスピードが早い国で、その分間違った政策もどんどんと行ってしてしまうという弱点も持っています。
その分日本は議論にゆっくり時間をかけて確実に成果の期待できる政策だけを実行している……と言いたいのですが、この雇用・能力開発機構一つとっても、日本は最初に政策を作るのに延々と長い議論の時間をかける割には実行されてみるとやっぱり間違った政策だったということも珍しくなく、また間違えた政策だったとわかっても今度はそれの改善や廃止をするのにまた延々と長い議論が必要だという、きわめて不効率な政治環境といえます。
私の意見としては、政治の世界というのは前例があるのならともかく基本的には未知の領域に対してどう対応するかということの連続で、全く議論しないというのは論外ですがたとえ長い時間議論をして政策を作ったとしても、それが正しい政策となるかどうかは常に世の中が変動する影響から確率的には非常にランダムなものだと思います。
それならば物は試しとばかりにどんどんと小規模に政策を打ち出し、その政策の実効果や反省を元に改善を素早く加えてから大規模に実施するという方がよっぽど確実だと思います。そしてもしこれをやるとしたら何が肝心かというと、それはやはりスピードになります。
中国などは70年代の改革開放期に「経済特区制度」を設けてシンセンにて実験的に資本主義経済を導入し、徐々にそれを他の主要都市から全国へと広げていった実績があり、また日本としても小泉内閣字に「構造改革特区制度」を設け、一部の地域限定で実験的な政策を素早く行えるようになり、私としてもこの動きを歓迎します。
追伸
「中国官僚覆面座談会」(小学館)によると、中国でも官僚は利権や天下り先を持っており、給料は低くても賄賂などによる副収入から優雅な暮らしが約束されているそうですが、日本の外務省に当たる外交部は一切利権がなく月々の給料の4,000元(60,000円)しか収入がないため、他の官僚たちからは「あいつらの国の忠誠心は本物だ」と誉めそやされているそうです。
2008年12月10日水曜日
最近の格差問題の報道について
今見たニュースですが、これはやりすぎでしょう。
・USEN「違法な安値」に20億賠償命令 有線業界2位のキャン社勝訴(YAHOOニュース)
もともとUSENはこれまでに何度も法律を無視して処罰を受けている会社ですから、今更あまり驚きませんが。
さて最近時事解説が少なくなってきているので、ちょっとまた短いながらもついでにやっておこうと思います。
まず経済ですが、最近あちこちで内定取消しのニュースが急激に行われるようになってきました。こうして報道が行われるようになってきた背景には派遣社員や期間従業員などのリストラがどんどんと押し進められ、昨日にはソニーも正社員を一挙に減らすと発表するなど雇用問題が内定取消し者に限らず範囲を広げて大きくなってきたことが背景でしょう。
特に派遣社員の場合は契約の打ち切りによって社宅から突然追い出されてしまうなど、再就職先を探そうにも探せなくなる上に大きなハンデを抱えてしまうなどといったことが派遣社員の側から主張され、会社側の要求に抵抗するためあちこちで派遣社員のみの労働組合が出来始めているという報道が目立ちます。
労働組合とくれば今年に入り小林多喜二の蟹工船ブームが起きたり、共産党の入党者が若者を中心に一万人も増加するなどといった報道もあり、また私が聞いた話だとドイツでも若者の失業問題が増加しているらしくまたお決まりのネオナチが増えてきたとかいうニュースが出るかと思っていたら、なんと向こうでは自国出身ということもあるのかマルクスの「資本論」がブームになっているそうです。なんていうか、蟹工船とマルクスの「資本論」とを比べると、ちょっと差を感じてしまいます。ちなみに、私は「資本論」は買ったものの途中で投げました。
ちょうどこの前読み終えた「論争 若者論」(文春新書)の中でこの蟹工船ブームについて金沢大学の仲正昌樹氏が寄稿しており、近年、何でもかんでも格差や派遣といった言葉に結び付けた現象と原因の因果論が多すぎると警鐘を鳴らしております。記事の中では今年に起きた秋葉原連続殺傷事件を例に挙げ、左翼側の知識人は知った振りをして犯人は派遣社員でその社会的構造から来る不満が今回の事件の遠因になった主張しているが、この犯人には両親のいる実家もあり、また派遣契約も最初の報道のように当時は打ち切られる予定もなく実際には追い詰められた状況とはほど遠い状況であることを指摘し、またその他の派遣社員についても、蟹工船の中で描かれているような逃げ場のない海の上で監視や暴力によって抑圧された状況にいるわけではなく、作者の小林多喜二の置かれた状況のような官憲による監視の目のない現代と蟹工船を比すのは土台からして間違っていると主張しています。
私自身も、派遣制度の問題や格差の現状については確かに問題だとは思いますが、言われて見ると今は何でもかんでも悪いことや問題(犯罪等)が起きたら派遣や格差がすぐに原因として持ち上がってきており、いくつかはこじつけの部分もあるのではないかという気になってきました。
先ほどの仲正氏は一部の評論家や経済学者による格差ゆえに結婚や恋愛も出来ない若者が増えているという主張に対し、子育てはともかくそういった恋愛関係まで本当に格差が影響するのかと疑問を呈し、もっと冷静にこれらの問題を分析するべきだと主張しています。
私も基本的にこの意見に同感です。たとえば内定取消しの問題についても、以前に書いた「内定取消しについて」の記事のように就職が行われる遙か以前に行われる現在の企業の採用慣行自体に問題があると睨んでいますが、この意見が正しいかどうかは別として、今日日の報道を見ているとただ内定取消しを行った企業をなじるだけの報道ばかりが目立ち、問題の根本的解決についての議論はあまり見当たりません。
私が社会学を教わる最初に、「社会に対してウォームハートを持って問題を見つめ、クールな思考で分析せよ」と教わりましたが、まさにこの通りでしょう。
・USEN「違法な安値」に20億賠償命令 有線業界2位のキャン社勝訴(YAHOOニュース)
もともとUSENはこれまでに何度も法律を無視して処罰を受けている会社ですから、今更あまり驚きませんが。
さて最近時事解説が少なくなってきているので、ちょっとまた短いながらもついでにやっておこうと思います。
まず経済ですが、最近あちこちで内定取消しのニュースが急激に行われるようになってきました。こうして報道が行われるようになってきた背景には派遣社員や期間従業員などのリストラがどんどんと押し進められ、昨日にはソニーも正社員を一挙に減らすと発表するなど雇用問題が内定取消し者に限らず範囲を広げて大きくなってきたことが背景でしょう。
特に派遣社員の場合は契約の打ち切りによって社宅から突然追い出されてしまうなど、再就職先を探そうにも探せなくなる上に大きなハンデを抱えてしまうなどといったことが派遣社員の側から主張され、会社側の要求に抵抗するためあちこちで派遣社員のみの労働組合が出来始めているという報道が目立ちます。
労働組合とくれば今年に入り小林多喜二の蟹工船ブームが起きたり、共産党の入党者が若者を中心に一万人も増加するなどといった報道もあり、また私が聞いた話だとドイツでも若者の失業問題が増加しているらしくまたお決まりのネオナチが増えてきたとかいうニュースが出るかと思っていたら、なんと向こうでは自国出身ということもあるのかマルクスの「資本論」がブームになっているそうです。なんていうか、蟹工船とマルクスの「資本論」とを比べると、ちょっと差を感じてしまいます。ちなみに、私は「資本論」は買ったものの途中で投げました。
ちょうどこの前読み終えた「論争 若者論」(文春新書)の中でこの蟹工船ブームについて金沢大学の仲正昌樹氏が寄稿しており、近年、何でもかんでも格差や派遣といった言葉に結び付けた現象と原因の因果論が多すぎると警鐘を鳴らしております。記事の中では今年に起きた秋葉原連続殺傷事件を例に挙げ、左翼側の知識人は知った振りをして犯人は派遣社員でその社会的構造から来る不満が今回の事件の遠因になった主張しているが、この犯人には両親のいる実家もあり、また派遣契約も最初の報道のように当時は打ち切られる予定もなく実際には追い詰められた状況とはほど遠い状況であることを指摘し、またその他の派遣社員についても、蟹工船の中で描かれているような逃げ場のない海の上で監視や暴力によって抑圧された状況にいるわけではなく、作者の小林多喜二の置かれた状況のような官憲による監視の目のない現代と蟹工船を比すのは土台からして間違っていると主張しています。
私自身も、派遣制度の問題や格差の現状については確かに問題だとは思いますが、言われて見ると今は何でもかんでも悪いことや問題(犯罪等)が起きたら派遣や格差がすぐに原因として持ち上がってきており、いくつかはこじつけの部分もあるのではないかという気になってきました。
先ほどの仲正氏は一部の評論家や経済学者による格差ゆえに結婚や恋愛も出来ない若者が増えているという主張に対し、子育てはともかくそういった恋愛関係まで本当に格差が影響するのかと疑問を呈し、もっと冷静にこれらの問題を分析するべきだと主張しています。
私も基本的にこの意見に同感です。たとえば内定取消しの問題についても、以前に書いた「内定取消しについて」の記事のように就職が行われる遙か以前に行われる現在の企業の採用慣行自体に問題があると睨んでいますが、この意見が正しいかどうかは別として、今日日の報道を見ているとただ内定取消しを行った企業をなじるだけの報道ばかりが目立ち、問題の根本的解決についての議論はあまり見当たりません。
私が社会学を教わる最初に、「社会に対してウォームハートを持って問題を見つめ、クールな思考で分析せよ」と教わりましたが、まさにこの通りでしょう。
呉起と商鞅
また史記の話ですが、前にも書いたとおりに史記は言ってしまえば「優秀なる敗者たちの物語」です。史記で紹介される人物のそのほとんどは当時としては非常に優秀な人物ばかりですが、最終的にはその才能が理解されなかったり周囲に妬みをもたれたために悲劇的な末路を辿る者ばかりです。
その代表格ともいえるのが今日紹介する呉起と商鞅の二人で、両者はその運命から生前に行った政策までもが全く似通っているので、最近歴史の記事を書いていないのもあるのでこの機会に私からも紹介しようと思います。
まず日本の戦国時代を題材にした本を読むとよく出てくるのが「孫呉の兵法」という言葉ですが、孫呉の孫は孫子の兵法とみんな知っていますが、後ろの呉という文字が何故入ってくるのかとなると意外に知らない人間が多いように思えます。この呉の文字こそ、ここで紹介する呉子こと本名呉起のことで、この人物は中国の戦国時代に軍略から政略に至るまで幅広く活躍した人物です。
呉起は当初いろんなところを流浪し、一時は魏の国にて活躍をしたのですが彼の後ろ盾となっていた当時の魏王が死んだことによりその地を離れ、当時、というより戦国時代全体を通して後に中国をはじめて統一する秦に次ぐ強国だった楚に行きました。そこで呉起は戦争の指揮から内政の指導に至るまで文字通り大車輪のごとくの活躍を見せ、彼がいた時代に楚は大きく躍進しています。
特に戦争についてのエピソードでは面白いものが多く、呉起は最高司令官にあるにもかかわらず在軍中は一平卒と同じ格好をした挙句、馬にも乗らずに徒歩で一緒に進軍していたそうで、更には負傷した兵士を見ると片っ端から自らの口で膿を吸い出すなどして兵士を鼓舞していったそうで、これを見た兵士たちも否応にも士気は高まり連戦連勝を繰り返して行ったそうです。
そして内政面では、これははっきり言いますが当時としては非常に画期的なことに家臣の雇用において俸禄制を実施しています。
それまでに当時の国家は家臣を召抱え場合、功績があった際に恩賞として国王は土地を与えていました。しかし与える土地にはもちろん限りがあり、一旦上げてしまうとその土地は一族に受け継がれていくのでよほどのことがない限りはその土地を再び召し上げることも出来ず、自然と土地は国王の一族だけに独占されていくようになってよほどのことがない限り外部の人間に土地を与えることはありませんでした。これに対して呉起は家臣の土地を一旦全部召し上げて、その代わりに領土で取れる小麦などの農作物を現代の給料のような形で与える方式の俸禄制に切替え、身分の世襲から才能ある人物の活発な登用など固定した環境を流動的に変えていきました。
ちなみに、この俸禄制を日本で本格的に運用したのは織田信長が初めてです。信長はごく限られた一族の人間を除いて家臣へは俸禄で以って雇い続け、浅井、朝倉を打ち倒した後に初めて明智光秀に領国を与えています。なお信長は16世紀の人物に対して呉起は前4世紀の人物で、如何に呉起に先見性があった、もとい当時の日本の制度が遅れていたかがよくわかります。
こうして楚は優秀な人材を揃えた上に役に立たない人物は片っ端から田舎に送って開発を行わせたために強国になりましたが、呉起の後ろ盾となっていた当時の楚王が死んだことにより、かつて土地を有していた元貴族たちがこの時に恨みを晴らさんとばかりに呉起を襲って殺してしまいました。そして呉起の死後に楚は制度を元通りに戻してしまい、横山光輝氏などは呉起の取った政策を「川面に一石を投じただけだった」と評しております。
それに対してもう一人の商鞅はというと、この人は紆余曲折あった後に戦国時代で常に最強国であり続けた秦に入り、最高権力者の宰相となった後に先ほどの俸禄制へと切り替えています。
なおこの商鞅はごく初期の段階で外国人でありながら秦の宰相をやっております。このあと秦は范雎や李斯と、なかば宰相は外国人がやるものとばかりに優秀であれば誰であろうとぼんぼん秦は引き入れています。またこの商鞅は法家の祖先とも言われ、性悪説を前提にすべての人間の行動を法で以って規制しようと片っ端から細かいところまで法律を制定して行ったことで有名です。
ここまで言えばわかると思いますが、商鞅も後ろ盾の当時の秦王が死んだ後はかねてより妬んでいた重臣らに告げ口をされて追われる身となるのですが、逃げようにも自分が作った厳しい法律によってなかなか国外へ脱出できないばかりか、こちらも自分で整備した監視網によってあっさりと捕まり、最後は牛裂きにされて死んでいます。
しかし秦の場合は楚と違い、俸禄制などの商鞅が改革した制度を維持し続けました。改革者の商鞅自体は亡くなったものの、彼の作った制度の元でその後の秦は他国を遙かに凌駕するようになりついには中国を初めて統一するに至るのです。
その代表格ともいえるのが今日紹介する呉起と商鞅の二人で、両者はその運命から生前に行った政策までもが全く似通っているので、最近歴史の記事を書いていないのもあるのでこの機会に私からも紹介しようと思います。
まず日本の戦国時代を題材にした本を読むとよく出てくるのが「孫呉の兵法」という言葉ですが、孫呉の孫は孫子の兵法とみんな知っていますが、後ろの呉という文字が何故入ってくるのかとなると意外に知らない人間が多いように思えます。この呉の文字こそ、ここで紹介する呉子こと本名呉起のことで、この人物は中国の戦国時代に軍略から政略に至るまで幅広く活躍した人物です。
呉起は当初いろんなところを流浪し、一時は魏の国にて活躍をしたのですが彼の後ろ盾となっていた当時の魏王が死んだことによりその地を離れ、当時、というより戦国時代全体を通して後に中国をはじめて統一する秦に次ぐ強国だった楚に行きました。そこで呉起は戦争の指揮から内政の指導に至るまで文字通り大車輪のごとくの活躍を見せ、彼がいた時代に楚は大きく躍進しています。
特に戦争についてのエピソードでは面白いものが多く、呉起は最高司令官にあるにもかかわらず在軍中は一平卒と同じ格好をした挙句、馬にも乗らずに徒歩で一緒に進軍していたそうで、更には負傷した兵士を見ると片っ端から自らの口で膿を吸い出すなどして兵士を鼓舞していったそうで、これを見た兵士たちも否応にも士気は高まり連戦連勝を繰り返して行ったそうです。
そして内政面では、これははっきり言いますが当時としては非常に画期的なことに家臣の雇用において俸禄制を実施しています。
それまでに当時の国家は家臣を召抱え場合、功績があった際に恩賞として国王は土地を与えていました。しかし与える土地にはもちろん限りがあり、一旦上げてしまうとその土地は一族に受け継がれていくのでよほどのことがない限りはその土地を再び召し上げることも出来ず、自然と土地は国王の一族だけに独占されていくようになってよほどのことがない限り外部の人間に土地を与えることはありませんでした。これに対して呉起は家臣の土地を一旦全部召し上げて、その代わりに領土で取れる小麦などの農作物を現代の給料のような形で与える方式の俸禄制に切替え、身分の世襲から才能ある人物の活発な登用など固定した環境を流動的に変えていきました。
ちなみに、この俸禄制を日本で本格的に運用したのは織田信長が初めてです。信長はごく限られた一族の人間を除いて家臣へは俸禄で以って雇い続け、浅井、朝倉を打ち倒した後に初めて明智光秀に領国を与えています。なお信長は16世紀の人物に対して呉起は前4世紀の人物で、如何に呉起に先見性があった、もとい当時の日本の制度が遅れていたかがよくわかります。
こうして楚は優秀な人材を揃えた上に役に立たない人物は片っ端から田舎に送って開発を行わせたために強国になりましたが、呉起の後ろ盾となっていた当時の楚王が死んだことにより、かつて土地を有していた元貴族たちがこの時に恨みを晴らさんとばかりに呉起を襲って殺してしまいました。そして呉起の死後に楚は制度を元通りに戻してしまい、横山光輝氏などは呉起の取った政策を「川面に一石を投じただけだった」と評しております。
それに対してもう一人の商鞅はというと、この人は紆余曲折あった後に戦国時代で常に最強国であり続けた秦に入り、最高権力者の宰相となった後に先ほどの俸禄制へと切り替えています。
なおこの商鞅はごく初期の段階で外国人でありながら秦の宰相をやっております。このあと秦は范雎や李斯と、なかば宰相は外国人がやるものとばかりに優秀であれば誰であろうとぼんぼん秦は引き入れています。またこの商鞅は法家の祖先とも言われ、性悪説を前提にすべての人間の行動を法で以って規制しようと片っ端から細かいところまで法律を制定して行ったことで有名です。
ここまで言えばわかると思いますが、商鞅も後ろ盾の当時の秦王が死んだ後はかねてより妬んでいた重臣らに告げ口をされて追われる身となるのですが、逃げようにも自分が作った厳しい法律によってなかなか国外へ脱出できないばかりか、こちらも自分で整備した監視網によってあっさりと捕まり、最後は牛裂きにされて死んでいます。
しかし秦の場合は楚と違い、俸禄制などの商鞅が改革した制度を維持し続けました。改革者の商鞅自体は亡くなったものの、彼の作った制度の元でその後の秦は他国を遙かに凌駕するようになりついには中国を初めて統一するに至るのです。
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