・迂回献金 先物会社が与謝野氏、渡辺喜氏に ダミー通じ(YAHOOニュース)
本日自民党の与謝野馨、渡辺喜美議員に対して上記のリンクに貼ったニュースで報道されているように、政治団体としながらも実態は複数私企業のダミー団体であった「政経政策研究会」より献金を受けていたと、事実上小沢一郎氏が民主党代表を辞任するきっかけとなった迂回献金を受けていたことが明らかになりました。なおかつこの両氏に迂回献金を行っていたのは「オリエント貿易」をはじめとした先物取引をやっている会社とのことで、いかにも迂回献金をやってくれそうな会社だったそうです。
結論から先に言うと、今回のこの報道を受け私が思ったのは当たり前の事実が明らかになっただけで何を今更、ってところです。
私は先の西松建設事件の際にもこのブログにて何度もこの様な迂回献金はどこもやっているもので、もし小沢氏をこれで追及しようものなら政治献金自体をすべてなくさなければならなくなると主張していましたが、ようやく今回こうして別のケースが見つかったのでさもありなんと思ったのがさっきの感想につながりました。元々日本は政治家への個人献金が非常に少ない国で、政治家がたくさんお金がかかる政治活動をしようものなら企業からの政治献金に頼らざるを得ない環境にあります。これは逆に言えば有志個人が運営する政治団体が数百万もの献金を毎年行える力はほぼ無いということで、政治家へと献金している政治団体は基本的にはどっかの企業なり何なりの下部組織と見て間違いないということで、つまりは国会議員クラスでは大半の政治家がこうした迂回献金をもらっていて当たり前だということです。
まぁ共産党はその辺の規定がいろいろ細かいのでもしかしたら本当に一銭たりとも企業献金は受けていないのかもしれませんが、筆坂秀世氏によるとその分政治家、党員揃ってやっぱり貧乏だそうです。
なので西松建設事件の際に一部の週刊誌が、「それなら議員すべてを検察は逮捕する気なのか」という記事を書いていましたが、言われることその通りでもし小沢氏の秘書をあの程度の証拠と容疑で逮捕するというのなら恐らくほぼすべての議員が国会からいなくなるでしょう。
今回のこの報道を受けて与謝野氏は正統な手続きを経て行われた献金だから問題ないと発言しましたが、小沢氏とまんま同じ言い訳だったのでいろいろと笑わさせられましたが、選挙前のこの時期に民主党らがどれだけこの問題を追求できるか、検察の恣意的な捜査を国民に認知させらるかが一つの争点でしょう。
ちなみに私は企業の政治献金は別にあったっていいと思います。もちろんそれが利権や談合に絡むのなら話は別ですが、佐藤優氏が大分前の著書にて彼と共に逮捕された商社社員に逮捕される前にこう話しております。
「自分たち外交官が外国の人間と交渉する時に何が一番武器になるかといったら、それはやっぱり日本の経済力なんです。外国の譲歩を日本が引き出すのは経済援助なり技術提供なりといった日本企業が持っているものがほとんどで、いわば企業によってこの国の外交は作られているといっても過言じゃありません。だからそうして日本に貢献している企業が自分らの思惑に近い政策を持っている議員を応援するのはごく自然なことだと思いますよ」
確か「国家の罠」の中でこんな内容の言葉があったと思いますが言われてみるとそんな気がして、日本が先進国であるのは私はやっぱり政府の力というより民間企業の努力によるものだと思います。そんな企業が一方的に国に税金を取られるくらいならまだ応援する政治家に、たとえその政治家が世間一般で悪人とされる政治家といえども献金するのをさえぎるべきではないのではないかと、この佐藤氏の言葉で思うようになりました。
ちょうど西松建設の事件でも先週に動きがあったので、明日その辺りを書こうと思います。ちょっと今週金曜に資格試験があるのでさすがに勉強しなきゃいけないのでまとめてかけませんが、その分土曜から大型連載を今準備しております。その連載は絶対にいい内容になる自信があるので、土曜以降にまた期待してください。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年6月24日水曜日
2009年6月23日火曜日
保健室のおじさんは成り立つのか?
・保険師(ウィキペディア)
保健室のおばさんというと、昼ドラでは探偵だったりトレンディドラマではセクシーなお姉さんだったり、果てにはSFものでは魔法使いだったりと実に八面六臂の活躍をしてくれるキャラクターです。この保健室のおばさんの正式名称は上記のリンクに張ってあるように「保険師」といって、小中高校に限らず自治体などの診療所や保健所などでも活躍なされる職業です。
ただこの「保険師」という職業、元の名称が「保健婦」というだけあって昔から女性に多い職業で、最近では男性でも取れる資格となったようですがそれでも大半が女性で占められております。なんでこの職業に女性が多いのかこの前一人で考えたところ、やっぱり小中高校では女子生徒が多くいて非常にナイーブな年頃ゆえにその健康相談は同じ女性がやった方がいいというのが理由なんじゃないかと勝手に考えました。実際に生理などで体調不良となった女子生徒を男性がカバーするのは大変そうですし、女子生徒の側も抵抗感を覚えることが予想されます。
そんな風に考えてたら、不意にある発想が閃きました。
「そうだ、ならオカマの保険師だったら問題ないじゃん」
なんでこんな発想になったのかわかりませんが、きちんと専門知識を持っていればオカマの人なら保険師として女子生徒の対応もやってけて、これまでの「保健室のおばさん」に対して「保健室のおじさん」というキャラが立つんじゃないかと思って早速うちのお袋にも話をしてみたのですが、
「オカマの保険師だと、今度は男子生徒の方が危ないじゃない」
と言われて、確かにその通りだと納得させられました。
この過程をこの前友人に話したところ、その友人はおもむろに、「実際保険師はともかく、オカマの介護士はすごい活躍が期待できるんだけどなぁ」と返してきました。その友人が言うにはオカマの方なら男性並の筋力でなおかつ女性の細やかさを持っていることから介護の現場にまさにうってつけなんじゃないかと考えているそうです。
なんていうか、性のハイブリッドは実現するのか難しい問題です。
保健室のおばさんというと、昼ドラでは探偵だったりトレンディドラマではセクシーなお姉さんだったり、果てにはSFものでは魔法使いだったりと実に八面六臂の活躍をしてくれるキャラクターです。この保健室のおばさんの正式名称は上記のリンクに張ってあるように「保険師」といって、小中高校に限らず自治体などの診療所や保健所などでも活躍なされる職業です。
ただこの「保険師」という職業、元の名称が「保健婦」というだけあって昔から女性に多い職業で、最近では男性でも取れる資格となったようですがそれでも大半が女性で占められております。なんでこの職業に女性が多いのかこの前一人で考えたところ、やっぱり小中高校では女子生徒が多くいて非常にナイーブな年頃ゆえにその健康相談は同じ女性がやった方がいいというのが理由なんじゃないかと勝手に考えました。実際に生理などで体調不良となった女子生徒を男性がカバーするのは大変そうですし、女子生徒の側も抵抗感を覚えることが予想されます。
そんな風に考えてたら、不意にある発想が閃きました。
「そうだ、ならオカマの保険師だったら問題ないじゃん」
なんでこんな発想になったのかわかりませんが、きちんと専門知識を持っていればオカマの人なら保険師として女子生徒の対応もやってけて、これまでの「保健室のおばさん」に対して「保健室のおじさん」というキャラが立つんじゃないかと思って早速うちのお袋にも話をしてみたのですが、
「オカマの保険師だと、今度は男子生徒の方が危ないじゃない」
と言われて、確かにその通りだと納得させられました。
この過程をこの前友人に話したところ、その友人はおもむろに、「実際保険師はともかく、オカマの介護士はすごい活躍が期待できるんだけどなぁ」と返してきました。その友人が言うにはオカマの方なら男性並の筋力でなおかつ女性の細やかさを持っていることから介護の現場にまさにうってつけなんじゃないかと考えているそうです。
なんていうか、性のハイブリッドは実現するのか難しい問題です。
東国原知事の出馬要請に対する返答について
・衆院選出馬要請に東国原知事「自民総裁にするなら」(YAHOOニュース)
リンク先のニュースにあるように、本日自民党の古賀議員がお茶の間にも有名な元そのまんま東こと東国原知事へ次期衆院選へ自民党候補として出馬を打診したところ、知事は次期総裁選の候補にしてくれるのであれば出馬すると返事をしました。知事のこの大胆な発言に、今日はたまたま夕方は家にいたので六時からニュースを見ていましたが、全局揃ってこのニュースをトップに持ってきておりました。
で、この知事の発言に対する全局の報道はというと、私の見た感じ「総理にでもしてくれるのであれば自民党の候補として出てやるよ」と東国原知事が言ったなどとして、一体いつから総理の座を狙うようになったのかなどと知事の野心をあれこれ言うような解説が目立ちましたが、私のこの発言の解釈はというとちょっとこういったものとは違っています。
では私の解釈はどんなものかというと、自分でもやや好意的過ぎる解釈かもしれないと思いつつも恐らく東国原知事は自民党に対して変革を迫ったのだと思います。自分がただの人気取りのタレント候補ではなく自身が持つ政策や実行力といった政治家としての資質で候補にしろということを言うために、実際に選ばれて総理になるかどうかは別として自民党総裁選の候補をやらせろと言ったのだと思います。なおかつ仮に選挙に出て当選したところで数合わせの議員では意味が無く、自分が持つ政策をきちんと反映、実行する担保としてもこの発言につながったのではないかと見ております。
逆を言えば、数合わせのタレント候補として出馬させるの願い下げで、なおかつきちんと自分の政策を実行するという確約をしてくれないのであれば出ない、派閥の論理で決まるような現在の状態からそのような政党へと自民党は変わらないともう駄目だよということを言わんがために、東国原知事は無理難題を言うような形を取って出馬要請を断ったのじゃないかというのが、私の解釈です。
となると気になるのが次の選挙で東国原知事が出馬しなかった場合、どの政党を応援するかです。橋本大阪府知事などは選挙前に支持政党をはっきりと宣言すると言っておりますが、東国原知事もその人気を考えればどの政党からも応援要請がくるでしょう。もっとも今回の騒動を見る限り、大体予想がつきますが。
リンク先のニュースにあるように、本日自民党の古賀議員がお茶の間にも有名な元そのまんま東こと東国原知事へ次期衆院選へ自民党候補として出馬を打診したところ、知事は次期総裁選の候補にしてくれるのであれば出馬すると返事をしました。知事のこの大胆な発言に、今日はたまたま夕方は家にいたので六時からニュースを見ていましたが、全局揃ってこのニュースをトップに持ってきておりました。
で、この知事の発言に対する全局の報道はというと、私の見た感じ「総理にでもしてくれるのであれば自民党の候補として出てやるよ」と東国原知事が言ったなどとして、一体いつから総理の座を狙うようになったのかなどと知事の野心をあれこれ言うような解説が目立ちましたが、私のこの発言の解釈はというとちょっとこういったものとは違っています。
では私の解釈はどんなものかというと、自分でもやや好意的過ぎる解釈かもしれないと思いつつも恐らく東国原知事は自民党に対して変革を迫ったのだと思います。自分がただの人気取りのタレント候補ではなく自身が持つ政策や実行力といった政治家としての資質で候補にしろということを言うために、実際に選ばれて総理になるかどうかは別として自民党総裁選の候補をやらせろと言ったのだと思います。なおかつ仮に選挙に出て当選したところで数合わせの議員では意味が無く、自分が持つ政策をきちんと反映、実行する担保としてもこの発言につながったのではないかと見ております。
逆を言えば、数合わせのタレント候補として出馬させるの願い下げで、なおかつきちんと自分の政策を実行するという確約をしてくれないのであれば出ない、派閥の論理で決まるような現在の状態からそのような政党へと自民党は変わらないともう駄目だよということを言わんがために、東国原知事は無理難題を言うような形を取って出馬要請を断ったのじゃないかというのが、私の解釈です。
となると気になるのが次の選挙で東国原知事が出馬しなかった場合、どの政党を応援するかです。橋本大阪府知事などは選挙前に支持政党をはっきりと宣言すると言っておりますが、東国原知事もその人気を考えればどの政党からも応援要請がくるでしょう。もっとも今回の騒動を見る限り、大体予想がつきますが。
2009年6月22日月曜日
刑罰の正義
ちょっと今日は時間がないので簡単な記事にまとめようと思っているのですが、高校時代にクラスで授業の一環としてスピーチを行ったことがあり、その際にある男子生徒が中国で揚げパンに毒を入れて十人以上が死んだ事件の犯人を捕まえてから約二週間で死刑を執行した中国に対して、「なんかいいなぁって思いました」と、数十秒のスピーチがありました。
私はこのブログで何度も書いているように死刑に対しては一応は廃立派なのですが、この男子生徒の言わんとすることもなんとなくわかる気もします。これなんか以前から問題視されていますが日本の裁判は明らかにその容疑者が犯人だとわかっていながらも、オウム事件の麻原死刑囚のようになかなか刑が執行されないばかりか裁判も遅々として進みません。これでは一体なにが制裁になるのか、こうした裁判に意味があるのかと思うことがあり、それでおきながら足利事件のように冤罪を生んでしまう日本の裁判は江戸時代の大岡裁判にすら劣るのではないかという気がします。
なお死刑事件における唯一の例外ともいえるのが、大阪府池田小での事件を起こした宅間守の例です。これは本人の希望もあって異例とも言えるスピード執行でしたが、この事件に対して以前に友人と、どんなに厳しい刑罰を以ってしてもこの宅間のように犯人に開き直られたら法というものはとても無力だと、何度も考えさせられた事件でした。
私はこのブログで何度も書いているように死刑に対しては一応は廃立派なのですが、この男子生徒の言わんとすることもなんとなくわかる気もします。これなんか以前から問題視されていますが日本の裁判は明らかにその容疑者が犯人だとわかっていながらも、オウム事件の麻原死刑囚のようになかなか刑が執行されないばかりか裁判も遅々として進みません。これでは一体なにが制裁になるのか、こうした裁判に意味があるのかと思うことがあり、それでおきながら足利事件のように冤罪を生んでしまう日本の裁判は江戸時代の大岡裁判にすら劣るのではないかという気がします。
なお死刑事件における唯一の例外ともいえるのが、大阪府池田小での事件を起こした宅間守の例です。これは本人の希望もあって異例とも言えるスピード執行でしたが、この事件に対して以前に友人と、どんなに厳しい刑罰を以ってしてもこの宅間のように犯人に開き直られたら法というものはとても無力だと、何度も考えさせられた事件でした。
2009年6月21日日曜日
「真相報道 バンキシャ」が何で続くの?
最近私がとみに不思議に思うこととして、今日もやっていた毎週日曜に放送される日本テレビ系テレビ番組「真相報道バンキシャ」が何故未だに放送されるのかという疑問があります。この番組はこれまでにも何度も、しかも報道番組としては致命的ともいえるような不祥事を引き起こしており、にもかかわらず放送打ち切りにならないのかが不思議でしょうがありません。
この番組のこれまでに起こした不祥事は先ほどリンクに貼ったウィキペディアの記事を読んでもらえればざっと一覧できますが、その中でも最も新しくかつ問題性の大きい不祥事として去年の十一月に放送された岐阜県内の裏金疑惑の誤報事件があります。これは岐阜県庁が架空の道路工事を発注して裏金を作っていたという証言を紹介してそのまんま岐阜県を裏金疑惑で告発するような番組内容だったのですが、結論から言うとこの裏金疑惑はすべてがすべて垂れ込んだ人間の報酬目当ての虚言であり、証言者の証言内容や経歴を一切調べないまま放送して岐阜県に対してあらぬ疑いを作ってしまったという不祥事です。
元々この証言者は過去にも似たようなことを何度もやっており放送前のチェックで如何様にもこの様な事態は避けることが出来たはずなのですが、そのような最低限のチェックすら報道番組でありながらできていなかったようで、問題の重大さから今年三月に謝罪放送を行ったばかりかそのまま日テレの社長が引責辞任をすることとなりました。
また今回の事件に限らずウィキペディアの中に載っていない過去の不祥事として、男子ゴルフ界の期待の新星の石川遼選手がテレビに出始めた頃、何を思ったかこの番組の取材班はゴルフ大会にて石川選手と同じ組となった選手にマイクをつけさせてもらって石川選手の発言を録音しようとして見つかった事件もありました。この取材では被取材者である石川選手には何の許可も取っておらず言うなれば隠し撮りともいえる問題性の高い不祥事で、司会の福澤朗氏も場合によっては自分が責任を取る(司会を降りる)とまで言ったのですが、私にすればその後も何の反省も見られないほど不祥事が連発されております。
それで何が一番不思議なのかというと、この番組は先ほどの岐阜県の裏金疑惑誤報事件の際の責任として日テレの社長の首まで飛んでいるのですが、何故だが問題を起こした番組自体は打ち切りになる気配も見せずに未だに放映され続けている点です。普通あれだけの不祥事を起こせば中身はともかく見てくれだけでも番組改変をするようなものなのですがこのバンキシャには一切そういうものがなく、状況的に言うのならこの番組を潰すことよりも日テレの社長の首のが軽かったという様にも見えます。一体この番組のどこにそれだけの力があるのか、それががわからないのです。
もしかしたら社長の首を切ってまでも維持したいほどの視聴率を取っているからかもしれませんが、かと言ったってそれなら石川選手の事件の際の福澤氏の発言はどうなるのとか思ってしまいますし、いろいろ考えたら切りがなくてバラエティにほとんど出演しなくなった菊川怜がまだ出続けているからそれ関係のコネとか、誰かの肝いりが働いてるのか考えてしまいますが、私としたらこの番組は早くに潰すべきだと思います。でなければまたこういう不祥事を起こす可能性があると思いますし、なにより番組内容自体が前からつまらなかったので出来ればもっと面白い番組をあの時間帯に個人的に入れてもらいたいものです。
この番組のこれまでに起こした不祥事は先ほどリンクに貼ったウィキペディアの記事を読んでもらえればざっと一覧できますが、その中でも最も新しくかつ問題性の大きい不祥事として去年の十一月に放送された岐阜県内の裏金疑惑の誤報事件があります。これは岐阜県庁が架空の道路工事を発注して裏金を作っていたという証言を紹介してそのまんま岐阜県を裏金疑惑で告発するような番組内容だったのですが、結論から言うとこの裏金疑惑はすべてがすべて垂れ込んだ人間の報酬目当ての虚言であり、証言者の証言内容や経歴を一切調べないまま放送して岐阜県に対してあらぬ疑いを作ってしまったという不祥事です。
元々この証言者は過去にも似たようなことを何度もやっており放送前のチェックで如何様にもこの様な事態は避けることが出来たはずなのですが、そのような最低限のチェックすら報道番組でありながらできていなかったようで、問題の重大さから今年三月に謝罪放送を行ったばかりかそのまま日テレの社長が引責辞任をすることとなりました。
また今回の事件に限らずウィキペディアの中に載っていない過去の不祥事として、男子ゴルフ界の期待の新星の石川遼選手がテレビに出始めた頃、何を思ったかこの番組の取材班はゴルフ大会にて石川選手と同じ組となった選手にマイクをつけさせてもらって石川選手の発言を録音しようとして見つかった事件もありました。この取材では被取材者である石川選手には何の許可も取っておらず言うなれば隠し撮りともいえる問題性の高い不祥事で、司会の福澤朗氏も場合によっては自分が責任を取る(司会を降りる)とまで言ったのですが、私にすればその後も何の反省も見られないほど不祥事が連発されております。
それで何が一番不思議なのかというと、この番組は先ほどの岐阜県の裏金疑惑誤報事件の際の責任として日テレの社長の首まで飛んでいるのですが、何故だが問題を起こした番組自体は打ち切りになる気配も見せずに未だに放映され続けている点です。普通あれだけの不祥事を起こせば中身はともかく見てくれだけでも番組改変をするようなものなのですがこのバンキシャには一切そういうものがなく、状況的に言うのならこの番組を潰すことよりも日テレの社長の首のが軽かったという様にも見えます。一体この番組のどこにそれだけの力があるのか、それががわからないのです。
もしかしたら社長の首を切ってまでも維持したいほどの視聴率を取っているからかもしれませんが、かと言ったってそれなら石川選手の事件の際の福澤氏の発言はどうなるのとか思ってしまいますし、いろいろ考えたら切りがなくてバラエティにほとんど出演しなくなった菊川怜がまだ出続けているからそれ関係のコネとか、誰かの肝いりが働いてるのか考えてしまいますが、私としたらこの番組は早くに潰すべきだと思います。でなければまたこういう不祥事を起こす可能性があると思いますし、なにより番組内容自体が前からつまらなかったので出来ればもっと面白い番組をあの時間帯に個人的に入れてもらいたいものです。
2009年6月20日土曜日
琵琶湖自転車一周苦行の旅
「オッス、オラ悟空。いっちょやってみっか!」
冗談のように聞こえるかもしれませんが、本当にこんなノリで私は琵琶湖一周に挑戦するのを決心しました。
今から二年前の七月中頃、当時に抱えていた厄介事が一段落してしばらく予定らしい予定も無かったことから、前々からやりたかった関西地域の自転車乗りにとってひときわ大きなステイタスとなっている琵琶湖一周にこの際挑戦してみようと思ったのです。以前に書いた「房総半島自転車一周地獄の旅」の記事が意外に好評で昨日に友人からもこの琵琶湖一周についても書いてみた方がいいと薦められたので、昨日休んだ分を取り返すつもりで今日はこの時の事を書こうと思います。
さてこの琵琶湖一周ですが、自分で自転車乗りとか言っておきながら実際にはペーペーの素人の私なもんだからこの時の計画もかなりの無茶振りでした。もっともそれまでの一日の総走行距離の最高記録は京都から信楽までの片道30キロ、往復で60キロだったのに対し、この琵琶湖一周は簡単にネットで調べてみると諸説入り乱れながらも約180キロとの事で、これまでにない長距離だったこともあって一応やれる程度の準備は行っていました。
まず使用自転車ですが、これは当時に京都市内を飛び回るのに使っていたシティサイクルをそのまま使うことにしました。この自転車は価格にして約24,000円でギアも上中下の三段ではっきり言って琵琶湖一周をやろうとするには明らかに貧弱な自転車でしたが、乗りなれていることもあってあまり気にせず決定しました。
次にルートですが、当時私は京都市内に住んでいたこともあってなによりもまず滋賀県へ行くルートを考えねばなりませんでした。京都から滋賀へは基本的にルートは二つだけしかなく、まずポピュラーなルートとして京都駅から東へ行って山科を越えていくルートと、京都市北区から比叡山を乗り越えていく通称山中越えといいうルートの二つでした。当時私が北区に住んでいたこともあり、また自動車でなら山中越えを何度かしている事もあってほぼ迷わずに後者のルートを選ぶことにしました。
そして実際の琵琶湖一周ルートですが、これはここで言うのもなんですが一切何も考えずに行きました。というのも琵琶湖に沿って走ればいいだけだし、それでも道がわからなければコンビニで地図を立ち読みすればいいだろうと甘く考え、後の悲劇を生むこととなったのです。
AM 6:00
起床と共に朝食を取り、早速ナップザックを背中に出発する。この日は平日ではあったが早朝ということもあり人通りも少ない朝もやの京都を前途洋々に走り抜ける。
AM 7:00
銀閣寺のやや北にある国道30号線ルート、通称山中越えに入る。道こそアスファルトで舗装されていながらも急な勾配に運送屋のトラックがビュンビュン前後を走り抜ける中、ただ一人自転車に乗って踏破を目指す。時間こそかかるものの、これを越えたら後は平野を走り抜けるだけだと言い聞かせて登る。
AM 8:00
見事山中越えを達成し、大津市に突入する。突入するや近くの小学校に登校する小学生の列と鉢合わせ、狭い歩道だったために自転車にまたがったまま脇に寄って小学生らが横を通り抜けるのを待ったが、不思議なことに多くの小学生が全く避けようともせずに動きを止めている私の自転車向かってまるで体当たりするかのように次々とぶつかってきた。これは私の主観だが、あの時にぶつかってきた小学生が私を見る目は、「なんでよけないの?」というような感じで、もはや私にはよけるスペースが一切残っていないにもかかわらず自分に向かって相手がよけて当たり前かのような視線で、はっきり言って非常に不気味に思った。
AM 8:30
近くを通ったことで、そのまま大津の三井寺に参拝する。前から行きたかったもののまだ一度も言ったことが無かったので、山中越えも終えて気も緩んでいたからゆっくりと参拝する。後で参拝する時間があったらその分しっかり走っとけばよかったのにと後悔する。
AM 9:30
琵琶湖沿いの道路へと移動し、順調に走行を続ける。
AM10:30?
草津市突入。位置的には琵琶湖の南端を通過した所にあるので、対岸に先ほど走ってきた大津市が見えてなかなか気持ちが良かった。
AM11:30
野洲市突入。そろそろ昼時だがいい感じに走れているのでもう少しおなかすいたら食事しようとそのまま走る。
PM 0:30
すこし記憶が曖昧だが、確か近江八幡市に入った辺りから何故か琵琶湖沿いだと自転車で走りづらい道になったので少し距離を置いた道路に入ったらやけに何もない道が続きだした。自転車に乗っている人ならわかると思いますが、さっきまで元気だったのに急におなかが減ることがよくあります。まさにこの時がそうで、何もない状況だというのに猛烈におなかがすきだしてやや血走った目で、「飯屋はどこだ」とつげ義春ばりに走行を続ける。
PM 1:30
ようやく道路沿いの小さな食堂を見つけ、そこで何かの定食を食べる。ただそれでも全然おなかがすいていたので追加でクリームソーダも頼んで一服する。
PM 3:00
ここまで順調に走ってこれて、確かこの時間位に彦根市に入った気がする。ちょうどこの頃はひこにゃんが大活躍していた頃だったので寄って行ってもよかったが既に何度か来ているので、軽くスルーしようかと思ったら親父からメールが来て、「今、彦根にいる」と返信して再び走行を再開する。
PM 5:00
順調に走り続けていて確か高月町を走ってた頃だったと思う。突然後ろから「パンッ」という破裂音がし、はっとして自転車を停めて振り向くと案の定後輪がパンクをしていた。情けない話だが本来なら出来て当たり前なのに、自転車のパンク修理をすることが出来ない私はこの時ももちろん修理用具を持ってきていなかった。しかしこの時、普段なら絶望するような状況だったと思うが何故かこの時は腹が座っていて、「やった、今日はついてる」などと思ってしまった。
というのもパンクをしたのがちょうど市街地を抜けたばかりのところで、何もない道路の真ん中ではなく自転車屋が探しやすい位置にいたということに自らの強運を感じたのが先ほどのセリフに結びついた。そういうわけで急いで自転車を降りて引きながら歩き、途中の交番で自転車屋を教えてもらってまた長々と30分くらい歩いてみつけた自転車屋に入ってそのままパンク修理を依頼した。夕方ということもあって店が閉まってはいないかが心配だったが六時前だったのに開いており、運良くそのまま修理をしてもらって再び走り出した。
PM 6:00
既に日も暮れかかっていたが先ほどのパンクという最大のピンチを乗り越えたせいもあってテンションは下がらなかった。しかし好事魔多しとは言うが、まさにこの時に最大のミスを犯してしまう。
そのミスというのも、単純にルート間違いであった。滋賀県の地図を見てもらえばわかると思うが高月町は位置的には琵琶湖の北端にある地域であとはここから西へ行って南に向かえば元の大津に着くだろうと思っていたら、何故か途中の道路上の案内板には大津に行くには東へ向かうようにと書かれていた。方角的には明らかに逆方向だがもしかしたら自分の知らないルートがあるのかと思ってその案内にしたがって東へ走るが、明らかにこれまで走ってきた道を戻っているルートにしかなっていなかった。
心配になってコンビニで地図を見てみるが、やはり逆方向である。ここはどうするべきかと悩んだが、この際また戻った道を戻りなおして案内を無視して自分の信じる方角と道を突き進むことにした。結果的には私の考えるルートが正しかったのだが、案内板が何故逆方向を指示していたかというとその方角には大津にもつながっている高速道路のインターチェンジがあり、いわば自動車向けの案内板だったのだ。はっきり言って非常に紛らわしいので滋賀県にはこういう表示は避けてもらいたい。なおこの時に誤走した距離は10キロ以上はあった。
PM 7:00
完全に日が暮れるが、まだ距離的には半分しか来ていないことにちょっと焦りだす。しかしその焦りもぶっ飛ぶ位に、眼前の道に途方にくれてしまう。というのも高月町を抜けた先にある西浅井町に入るや、道に勾配、言い換えるなら登りの山道に突然入ったからだった。それほどきつい傾斜ではないもののずっと琵琶湖沿いの平地を走っていけるだろうと高をくくっていたのと、そろそろ疲労が体に回りだした事もあってショックが大きかった。しかも山道に入るので琵琶湖が視界から消えるので、夜道で方角も正しく走っていけるかなどの不安もあったが腹をくくって突き進む。案の定、死にそうな位に疲れた。
PM 8:30
山道の途中のコンビニでルート確認も込めて休憩する。現在位置と確認して高月町以来不安だったルートが正しかったことが確認できてほっとするも、残りの距離を見比べてため息も出る。それこそ体力十分の状態であれば山道を降りれば後は一気に南へと下っていけそうなのだが、既にひざが痛み出してて最後まで走りきれるか不安があった。あとこの分だと十時前のNHKのスポーツニュースは見られないだろうとそろそろ観念する。
PM9:30
高島市突入。西浅井町の山道を越えて残りは正真正銘の平地一直線ということもあって希望が出てくるが、既に体の疲労が半端じゃないところまで来ているのと中途半端に外灯が少ないのが不安だったが、不思議と心細さはあまり感じなかった。普段の自分なら結構うたれ弱いところもあってこういうときにへこたれがちだが、この時は自分でも驚く位の精神的なタフさを維持できた。
もっとも、十五時間以上も自転車で走り続けて真っ暗な道に一人でいればうたれ弱くなくとも大抵の人はへこたれると思うけど。
PM11:00
ついに大津市に突入する。ちなみにこの時は早く帰りたくてしょうがなかったので夕食はとらず、ちょこちょことコンビニで菓子パンを食べるに留まっていたせいか疲労が文字通りピークに達していた。
この大津市に着いたところで一つの問題が持ち上がる。その問題というのも、京都への帰りのルートをどうするかということだった。既に何度も書いているようにこの時点で疲労がピークで足はガクガクだし、両手の握力も怪しいところまで来ていたので、行きの時と同じように山中越えを出来るかどうかが不安だった。しかしここで山科ルートを通るにしても一度も通ったことの無い道を通ることになり、なおかつ山中越えと比べて京都市内についてから自宅までの距離が離れることもあって、進むも退くも地獄ならばとばかりに山中越えルートを決心する。それにしても、この時にファミレスかどっかで休憩をとりゃいいのにと思わずにはいられない。
PM12:00
眼前に広がる急な山道。そう、ここが始まりの地であり終わりの地でもあるんだと、「この先比叡山」という看板の前で一人で思う。
そんなわけでついにまた山中越えの入り口こと、国道30号線にたどり着いた。この時点で琵琶湖一周は完全に達成されたが何故だかこの時に小学校の校長が言っていた、「遠足は、帰るまでが遠足です」という言葉を思い出しつつ最後の大仕事だと自分に言い聞かせて、既に登り道で自転車のペダルをこぐ力が残っていなかったので自転車を降りて押しながら一歩、また一歩と、足を冗談じゃなく本当に引きずりながら登り始めた。
なおこの時、夏場と言うこともあって夜とはいえ水分が不足し始め、なんか自動販売機を見つけるごとにスポーツドリンクか水を悉く買ってぐいぐい飲んでいたのだが、そのうちの一つの自販機の前にはヤンキーのカップルが真夜中にもかかわらず座り込んでいたが喉が渇いてしょうがないので買おうと近づくと、「なんだこいつ?」と、わざと私に聞こえるような嫌味を男の方が言ってきた。「てめぇらみたいなチャラチャラした奴らに、俺のこれまでの苦労がわかってたまるか」と心の中で念じつつ、無視して飲み物を買ってまたフラフラとゾンビの如く登頂を続ける。
AM 0:30
足が本当に限界に来ており、それこそ震えながら前に一歩ずつ外灯など一切無い真っ暗な比叡山への山道を登り続けていました。もうこの時の気分は「母を訪ねて三千里」のマルコで、ここを越えたら母さんならぬ家に帰れるんだと何度も言い聞かせながら登っていたその時でした。突然自分の見上げる視界から地平線のように道路が途切れたのです。ここまで言えばわかると思いますが、このルートの最頂点こと登り道をついに終えたのです。おっかなびっくりその道路の上で自転車に乗ると、「こいつ、動くぞ」とばかりに自転車がひとりでに前に走り出します。そう、下り道に入ったのです。
もうそっからは非常に爽快でした。外灯が一切無くて真っ暗で幽霊でも出てきそうなのは変わらなかったものの、ペダルをひとこぎもせずにハンドルとブレーキ操作だけで自転車が前へと進んで行き、一挙に京都市内へと入ることができました。そっからはまた平地でしたが勝手知った京都の道ゆえ、気分も上々のまま走り続けてついに夜中の一時過ぎ、下宿へと無事帰還を果たせました。
とまぁこんな感じで琵琶湖一周を達成したわけです。ここには書いていませんが他にも細かくルートを間違えたところもあって、総走行距離は恐らく200キロは確実に越えています。相変わらず自分の無計画さには呆れるのですがこの時の自分のタフさには本人でありながら驚くものがあり、今までうたれ弱い方だと思っていたのを意外と精神的にはタフな方なんじゃないかと思い直すきっかけになりました。今考えても、あんな夜中の山中越えを敢行するのは尋常ならざる精神力な気がします。
翌日は疲れは多少あったもののそれほど長引かず、翌々日にはまた元気に動き回っていました。この後に行った今年の一月に敢行した房総半島一周と比べるとやっぱりまだ琵琶湖一周の方が楽だった気がします。まぁ向こうはもっと計画が杜撰だったし自転車も壊しているからなぁ。
冗談のように聞こえるかもしれませんが、本当にこんなノリで私は琵琶湖一周に挑戦するのを決心しました。
今から二年前の七月中頃、当時に抱えていた厄介事が一段落してしばらく予定らしい予定も無かったことから、前々からやりたかった関西地域の自転車乗りにとってひときわ大きなステイタスとなっている琵琶湖一周にこの際挑戦してみようと思ったのです。以前に書いた「房総半島自転車一周地獄の旅」の記事が意外に好評で昨日に友人からもこの琵琶湖一周についても書いてみた方がいいと薦められたので、昨日休んだ分を取り返すつもりで今日はこの時の事を書こうと思います。
さてこの琵琶湖一周ですが、自分で自転車乗りとか言っておきながら実際にはペーペーの素人の私なもんだからこの時の計画もかなりの無茶振りでした。もっともそれまでの一日の総走行距離の最高記録は京都から信楽までの片道30キロ、往復で60キロだったのに対し、この琵琶湖一周は簡単にネットで調べてみると諸説入り乱れながらも約180キロとの事で、これまでにない長距離だったこともあって一応やれる程度の準備は行っていました。
まず使用自転車ですが、これは当時に京都市内を飛び回るのに使っていたシティサイクルをそのまま使うことにしました。この自転車は価格にして約24,000円でギアも上中下の三段ではっきり言って琵琶湖一周をやろうとするには明らかに貧弱な自転車でしたが、乗りなれていることもあってあまり気にせず決定しました。
次にルートですが、当時私は京都市内に住んでいたこともあってなによりもまず滋賀県へ行くルートを考えねばなりませんでした。京都から滋賀へは基本的にルートは二つだけしかなく、まずポピュラーなルートとして京都駅から東へ行って山科を越えていくルートと、京都市北区から比叡山を乗り越えていく通称山中越えといいうルートの二つでした。当時私が北区に住んでいたこともあり、また自動車でなら山中越えを何度かしている事もあってほぼ迷わずに後者のルートを選ぶことにしました。
そして実際の琵琶湖一周ルートですが、これはここで言うのもなんですが一切何も考えずに行きました。というのも琵琶湖に沿って走ればいいだけだし、それでも道がわからなければコンビニで地図を立ち読みすればいいだろうと甘く考え、後の悲劇を生むこととなったのです。
AM 6:00
起床と共に朝食を取り、早速ナップザックを背中に出発する。この日は平日ではあったが早朝ということもあり人通りも少ない朝もやの京都を前途洋々に走り抜ける。
AM 7:00
銀閣寺のやや北にある国道30号線ルート、通称山中越えに入る。道こそアスファルトで舗装されていながらも急な勾配に運送屋のトラックがビュンビュン前後を走り抜ける中、ただ一人自転車に乗って踏破を目指す。時間こそかかるものの、これを越えたら後は平野を走り抜けるだけだと言い聞かせて登る。
AM 8:00
見事山中越えを達成し、大津市に突入する。突入するや近くの小学校に登校する小学生の列と鉢合わせ、狭い歩道だったために自転車にまたがったまま脇に寄って小学生らが横を通り抜けるのを待ったが、不思議なことに多くの小学生が全く避けようともせずに動きを止めている私の自転車向かってまるで体当たりするかのように次々とぶつかってきた。これは私の主観だが、あの時にぶつかってきた小学生が私を見る目は、「なんでよけないの?」というような感じで、もはや私にはよけるスペースが一切残っていないにもかかわらず自分に向かって相手がよけて当たり前かのような視線で、はっきり言って非常に不気味に思った。
AM 8:30
近くを通ったことで、そのまま大津の三井寺に参拝する。前から行きたかったもののまだ一度も言ったことが無かったので、山中越えも終えて気も緩んでいたからゆっくりと参拝する。後で参拝する時間があったらその分しっかり走っとけばよかったのにと後悔する。
AM 9:30
琵琶湖沿いの道路へと移動し、順調に走行を続ける。
AM10:30?
草津市突入。位置的には琵琶湖の南端を通過した所にあるので、対岸に先ほど走ってきた大津市が見えてなかなか気持ちが良かった。
AM11:30
野洲市突入。そろそろ昼時だがいい感じに走れているのでもう少しおなかすいたら食事しようとそのまま走る。
PM 0:30
すこし記憶が曖昧だが、確か近江八幡市に入った辺りから何故か琵琶湖沿いだと自転車で走りづらい道になったので少し距離を置いた道路に入ったらやけに何もない道が続きだした。自転車に乗っている人ならわかると思いますが、さっきまで元気だったのに急におなかが減ることがよくあります。まさにこの時がそうで、何もない状況だというのに猛烈におなかがすきだしてやや血走った目で、「飯屋はどこだ」とつげ義春ばりに走行を続ける。
PM 1:30
ようやく道路沿いの小さな食堂を見つけ、そこで何かの定食を食べる。ただそれでも全然おなかがすいていたので追加でクリームソーダも頼んで一服する。
PM 3:00
ここまで順調に走ってこれて、確かこの時間位に彦根市に入った気がする。ちょうどこの頃はひこにゃんが大活躍していた頃だったので寄って行ってもよかったが既に何度か来ているので、軽くスルーしようかと思ったら親父からメールが来て、「今、彦根にいる」と返信して再び走行を再開する。
PM 5:00
順調に走り続けていて確か高月町を走ってた頃だったと思う。突然後ろから「パンッ」という破裂音がし、はっとして自転車を停めて振り向くと案の定後輪がパンクをしていた。情けない話だが本来なら出来て当たり前なのに、自転車のパンク修理をすることが出来ない私はこの時ももちろん修理用具を持ってきていなかった。しかしこの時、普段なら絶望するような状況だったと思うが何故かこの時は腹が座っていて、「やった、今日はついてる」などと思ってしまった。
というのもパンクをしたのがちょうど市街地を抜けたばかりのところで、何もない道路の真ん中ではなく自転車屋が探しやすい位置にいたということに自らの強運を感じたのが先ほどのセリフに結びついた。そういうわけで急いで自転車を降りて引きながら歩き、途中の交番で自転車屋を教えてもらってまた長々と30分くらい歩いてみつけた自転車屋に入ってそのままパンク修理を依頼した。夕方ということもあって店が閉まってはいないかが心配だったが六時前だったのに開いており、運良くそのまま修理をしてもらって再び走り出した。
PM 6:00
既に日も暮れかかっていたが先ほどのパンクという最大のピンチを乗り越えたせいもあってテンションは下がらなかった。しかし好事魔多しとは言うが、まさにこの時に最大のミスを犯してしまう。
そのミスというのも、単純にルート間違いであった。滋賀県の地図を見てもらえばわかると思うが高月町は位置的には琵琶湖の北端にある地域であとはここから西へ行って南に向かえば元の大津に着くだろうと思っていたら、何故か途中の道路上の案内板には大津に行くには東へ向かうようにと書かれていた。方角的には明らかに逆方向だがもしかしたら自分の知らないルートがあるのかと思ってその案内にしたがって東へ走るが、明らかにこれまで走ってきた道を戻っているルートにしかなっていなかった。
心配になってコンビニで地図を見てみるが、やはり逆方向である。ここはどうするべきかと悩んだが、この際また戻った道を戻りなおして案内を無視して自分の信じる方角と道を突き進むことにした。結果的には私の考えるルートが正しかったのだが、案内板が何故逆方向を指示していたかというとその方角には大津にもつながっている高速道路のインターチェンジがあり、いわば自動車向けの案内板だったのだ。はっきり言って非常に紛らわしいので滋賀県にはこういう表示は避けてもらいたい。なおこの時に誤走した距離は10キロ以上はあった。
PM 7:00
完全に日が暮れるが、まだ距離的には半分しか来ていないことにちょっと焦りだす。しかしその焦りもぶっ飛ぶ位に、眼前の道に途方にくれてしまう。というのも高月町を抜けた先にある西浅井町に入るや、道に勾配、言い換えるなら登りの山道に突然入ったからだった。それほどきつい傾斜ではないもののずっと琵琶湖沿いの平地を走っていけるだろうと高をくくっていたのと、そろそろ疲労が体に回りだした事もあってショックが大きかった。しかも山道に入るので琵琶湖が視界から消えるので、夜道で方角も正しく走っていけるかなどの不安もあったが腹をくくって突き進む。案の定、死にそうな位に疲れた。
PM 8:30
山道の途中のコンビニでルート確認も込めて休憩する。現在位置と確認して高月町以来不安だったルートが正しかったことが確認できてほっとするも、残りの距離を見比べてため息も出る。それこそ体力十分の状態であれば山道を降りれば後は一気に南へと下っていけそうなのだが、既にひざが痛み出してて最後まで走りきれるか不安があった。あとこの分だと十時前のNHKのスポーツニュースは見られないだろうとそろそろ観念する。
PM9:30
高島市突入。西浅井町の山道を越えて残りは正真正銘の平地一直線ということもあって希望が出てくるが、既に体の疲労が半端じゃないところまで来ているのと中途半端に外灯が少ないのが不安だったが、不思議と心細さはあまり感じなかった。普段の自分なら結構うたれ弱いところもあってこういうときにへこたれがちだが、この時は自分でも驚く位の精神的なタフさを維持できた。
もっとも、十五時間以上も自転車で走り続けて真っ暗な道に一人でいればうたれ弱くなくとも大抵の人はへこたれると思うけど。
PM11:00
ついに大津市に突入する。ちなみにこの時は早く帰りたくてしょうがなかったので夕食はとらず、ちょこちょことコンビニで菓子パンを食べるに留まっていたせいか疲労が文字通りピークに達していた。
この大津市に着いたところで一つの問題が持ち上がる。その問題というのも、京都への帰りのルートをどうするかということだった。既に何度も書いているようにこの時点で疲労がピークで足はガクガクだし、両手の握力も怪しいところまで来ていたので、行きの時と同じように山中越えを出来るかどうかが不安だった。しかしここで山科ルートを通るにしても一度も通ったことの無い道を通ることになり、なおかつ山中越えと比べて京都市内についてから自宅までの距離が離れることもあって、進むも退くも地獄ならばとばかりに山中越えルートを決心する。それにしても、この時にファミレスかどっかで休憩をとりゃいいのにと思わずにはいられない。
PM12:00
眼前に広がる急な山道。そう、ここが始まりの地であり終わりの地でもあるんだと、「この先比叡山」という看板の前で一人で思う。
そんなわけでついにまた山中越えの入り口こと、国道30号線にたどり着いた。この時点で琵琶湖一周は完全に達成されたが何故だかこの時に小学校の校長が言っていた、「遠足は、帰るまでが遠足です」という言葉を思い出しつつ最後の大仕事だと自分に言い聞かせて、既に登り道で自転車のペダルをこぐ力が残っていなかったので自転車を降りて押しながら一歩、また一歩と、足を冗談じゃなく本当に引きずりながら登り始めた。
なおこの時、夏場と言うこともあって夜とはいえ水分が不足し始め、なんか自動販売機を見つけるごとにスポーツドリンクか水を悉く買ってぐいぐい飲んでいたのだが、そのうちの一つの自販機の前にはヤンキーのカップルが真夜中にもかかわらず座り込んでいたが喉が渇いてしょうがないので買おうと近づくと、「なんだこいつ?」と、わざと私に聞こえるような嫌味を男の方が言ってきた。「てめぇらみたいなチャラチャラした奴らに、俺のこれまでの苦労がわかってたまるか」と心の中で念じつつ、無視して飲み物を買ってまたフラフラとゾンビの如く登頂を続ける。
AM 0:30
足が本当に限界に来ており、それこそ震えながら前に一歩ずつ外灯など一切無い真っ暗な比叡山への山道を登り続けていました。もうこの時の気分は「母を訪ねて三千里」のマルコで、ここを越えたら母さんならぬ家に帰れるんだと何度も言い聞かせながら登っていたその時でした。突然自分の見上げる視界から地平線のように道路が途切れたのです。ここまで言えばわかると思いますが、このルートの最頂点こと登り道をついに終えたのです。おっかなびっくりその道路の上で自転車に乗ると、「こいつ、動くぞ」とばかりに自転車がひとりでに前に走り出します。そう、下り道に入ったのです。
もうそっからは非常に爽快でした。外灯が一切無くて真っ暗で幽霊でも出てきそうなのは変わらなかったものの、ペダルをひとこぎもせずにハンドルとブレーキ操作だけで自転車が前へと進んで行き、一挙に京都市内へと入ることができました。そっからはまた平地でしたが勝手知った京都の道ゆえ、気分も上々のまま走り続けてついに夜中の一時過ぎ、下宿へと無事帰還を果たせました。
とまぁこんな感じで琵琶湖一周を達成したわけです。ここには書いていませんが他にも細かくルートを間違えたところもあって、総走行距離は恐らく200キロは確実に越えています。相変わらず自分の無計画さには呆れるのですがこの時の自分のタフさには本人でありながら驚くものがあり、今までうたれ弱い方だと思っていたのを意外と精神的にはタフな方なんじゃないかと思い直すきっかけになりました。今考えても、あんな夜中の山中越えを敢行するのは尋常ならざる精神力な気がします。
翌日は疲れは多少あったもののそれほど長引かず、翌々日にはまた元気に動き回っていました。この後に行った今年の一月に敢行した房総半島一周と比べるとやっぱりまだ琵琶湖一周の方が楽だった気がします。まぁ向こうはもっと計画が杜撰だったし自転車も壊しているからなぁ。
2009年6月18日木曜日
猛将列伝~木村昌福~
前回の猛将列伝のコメントで誉めてもらって調子に乗っているので、またこの関係の記事です。今日は久々に近代の軍人で、通にはよく知られているものの一般にはやや知名度が低そうに見える木村昌福氏を取り上げます。
・木村昌福(ウィキペディア)
あまり歴史に興味がないために私と私の親父、果てには福岡出身の嫁さんがいる親父の従兄弟揃って「これだから九州の女は……」と言われる鹿児島出身のうちのお袋ですが、不思議なことにこの木村昌福氏についてはよく知っていて、どのような人物でどんな業績をあげたのかまでも詳しく知っていました。というのもお袋が子供だった頃にこの木村昌福氏をモデルにした映画が三船敏郎氏主演で公開されており、その影響を受けてかお袋らの世代は彼の業績である、あの伝説のキスカ島撤退作戦を知っている人が多いようです。逆にその世代に対して私くらいの世代だとあまり知らない方も多いと思うので、そこそこいい記事にはなる気がします。
この木村昌福氏というのは旧日本海軍の軍人で、はっきり言ってしまえばそれほど出世街道を歩んだ人物ではなくどちらかというなら叩き上げの軍人タイプな人物でした。旧日本海軍ではハンモックナンバーこと海軍兵学校や海軍大学校時代での成績がそのまま後年の出世順につながったため、大学校に行くことはおろか兵学校で118人中107位の成績だった木村氏はそもそも大した出世は望める立場ではなかったものの、駆逐艦の艦長として長い間勤務するも水雷の戦闘知識や指揮においては周囲からも一目置かれていたため、最終的には実力で中将という地位にまで昇っております。
そんな木村氏が一躍戦史に名を轟かしたのは既に述べた、俗に言う「キスカ島撤退作戦」からです。
1943年、ミッドウェー海戦を経て既に防戦側に立たされていた旧日本海軍はこの年に太平洋上にあるアッツ島を米海軍によって攻め落とされてしまいます。このアッツ島は太平洋の上で日本の支配地域からポンと突き出た位置にある島であったため補給もままならず、米軍の激しい攻撃によって守備隊員2650名は全員が玉砕した上に占領されてしまうという悲劇的な結末に終わってしまいました。
そこで困ったのがこのアッツ島以上に日本から離れた位置にあったキスカ島です。当初日本海軍は米軍が攻めてくるとしたら先にこっちを落とすだろうと守備隊もアッツ島より多い約6000名を擁していたものの、米軍は日本の裏をかいてキスカ島の先にあるアッツ島を先に落とすことでこの島を孤立無援の状態へと追い込んだのです。
こんな状況下では反撃など望めるべくも無く、司令部も守備隊の救出を最優先事項として早速救出部隊を編成して第一陣として潜水艦の部隊を送るものの米軍のレーダー網にあっさりと見つかり、何百人かを救出するものの少なくない損害も出してしまいました。そこで第二陣として大人数を輸送できる駆逐艦部隊の派遣を決め、その指揮官として木村昌福氏が選ばれました。
木村氏はこの地域特有の濃霧に隠れて救出作戦を行おうとじっと天候を眺めてチャンスをうかがい、七月十日に一度出撃するもこの時はキスカ島に近づくにつれて霧が晴れてきたために結局途中で引き返してしまいます。この際には米軍と戦闘したわけでもない上に誰も救出してこなかったことから上層部より激しい非難を受けますが、当の木村氏はあまり気にせずすぐに再出撃するようにとの中央の命令を無視しつつ、平然と現地で釣りをしながら次のチャンスをうかがっていました。
そして来る七月二十二日、再び濃霧発生の予報を受けたことにより木村氏の艦隊は救出のために基地を出撃します。その濃霧予報は見事に当たり、キスカ島に行く途中に同じ日本の艦隊内で沈没にまで至らなかったものの衝突事故を起こすほどの濃霧だったようで、米軍のレーダーも霧によって誤認を起こし、誰もいない海域に向かって延々と攻撃をかけてしまったほどだったようです。
しかも奇跡的というべきか、米軍はその後も一向にレーダーがうまく機能せず、先にレーダーで誤認した敵艦隊をすでに全滅させたと勘違いして七月二十八日に一旦補給をするためにキスカ島を包囲していた艦隊を撤退させてしまいます。そのまさに一瞬とも言うべき米軍が包囲を解いた間隙に、木村氏の艦隊は七月二十九日にキスカ島に上陸を果たしたのです。
もちろん敵軍なんていないものだから一切妨害を受けないばかりか迅速な輸送によって5000名を越える人数をわずか55分で収容し終えて、そのまま米軍に見つかることなく基地への撤退を見事完了しました。当初、この救出作戦は状況の圧倒的不利さから不可能とまで呼ばれたほどの作戦だったのですが、終わってみると被害は全くといっていいほど無く、しかも一切の戦闘を行わずにこれほどの大人数の撤退を成功させた例は世界戦史上でも全くないといっていいでしょう。なお七月二十八日に包囲を解いた米軍は七月三十日に再び包囲を行いますが既にその時の島はもぬけの殻で、わずか一日の差で米軍は日本兵を逃してしまったのです。
濃霧といい米軍の誤認といい偶然が重なった要素が多いのは事実ではありますが、一回目の出撃で救出が不可能と見るや批判を恐れずに撤退し、二度目の出撃がドンピシャのタイミングだったことを考えるとその後の強運とも言うべき状況を引っ張ってきたのは木村氏の高い決断力によるものとしか言いようがありません。そのため当時の旧日本軍だけでなく戦後は米軍からも木村氏は高く評価されたとのことです。
その後木村氏は終戦時まで生き残り、戦後は故郷の山口県で元部下らと共に商売をして天寿を全うしたそうです。豪放磊落な人柄で部下からもよく慕われ、その上冷静な決断を上からの命令にものともすることなく忠実に実行する様はまさに軍人の鑑で、何もこのキスカ島のエピソードだけでなく米国の民間輸送船を撃沈させた際も乗組員がしっかり脱出するまで待ってから沈没させたとのことで、軍人としてだけでなく一私人間としても尊敬させられる人物です。特に出撃に至る決断は見事なもので、中途半端な妥協を一切許さなかったこの決断なくしてこの奇跡はありえなかったでしょう。
ちなみにこの脱出時にはもう一つ小さなエピソードがあり、キスカ島の守備隊が脱出時に悪戯で「ペスト感染患者隔離所」という嘘の看板を島に残して行った為、守備隊のいなくなった後に上陸した米兵はペスト菌に感染するのではないかと大いに慌てたそうです。
・木村昌福(ウィキペディア)
あまり歴史に興味がないために私と私の親父、果てには福岡出身の嫁さんがいる親父の従兄弟揃って「これだから九州の女は……」と言われる鹿児島出身のうちのお袋ですが、不思議なことにこの木村昌福氏についてはよく知っていて、どのような人物でどんな業績をあげたのかまでも詳しく知っていました。というのもお袋が子供だった頃にこの木村昌福氏をモデルにした映画が三船敏郎氏主演で公開されており、その影響を受けてかお袋らの世代は彼の業績である、あの伝説のキスカ島撤退作戦を知っている人が多いようです。逆にその世代に対して私くらいの世代だとあまり知らない方も多いと思うので、そこそこいい記事にはなる気がします。
この木村昌福氏というのは旧日本海軍の軍人で、はっきり言ってしまえばそれほど出世街道を歩んだ人物ではなくどちらかというなら叩き上げの軍人タイプな人物でした。旧日本海軍ではハンモックナンバーこと海軍兵学校や海軍大学校時代での成績がそのまま後年の出世順につながったため、大学校に行くことはおろか兵学校で118人中107位の成績だった木村氏はそもそも大した出世は望める立場ではなかったものの、駆逐艦の艦長として長い間勤務するも水雷の戦闘知識や指揮においては周囲からも一目置かれていたため、最終的には実力で中将という地位にまで昇っております。
そんな木村氏が一躍戦史に名を轟かしたのは既に述べた、俗に言う「キスカ島撤退作戦」からです。
1943年、ミッドウェー海戦を経て既に防戦側に立たされていた旧日本海軍はこの年に太平洋上にあるアッツ島を米海軍によって攻め落とされてしまいます。このアッツ島は太平洋の上で日本の支配地域からポンと突き出た位置にある島であったため補給もままならず、米軍の激しい攻撃によって守備隊員2650名は全員が玉砕した上に占領されてしまうという悲劇的な結末に終わってしまいました。
そこで困ったのがこのアッツ島以上に日本から離れた位置にあったキスカ島です。当初日本海軍は米軍が攻めてくるとしたら先にこっちを落とすだろうと守備隊もアッツ島より多い約6000名を擁していたものの、米軍は日本の裏をかいてキスカ島の先にあるアッツ島を先に落とすことでこの島を孤立無援の状態へと追い込んだのです。
こんな状況下では反撃など望めるべくも無く、司令部も守備隊の救出を最優先事項として早速救出部隊を編成して第一陣として潜水艦の部隊を送るものの米軍のレーダー網にあっさりと見つかり、何百人かを救出するものの少なくない損害も出してしまいました。そこで第二陣として大人数を輸送できる駆逐艦部隊の派遣を決め、その指揮官として木村昌福氏が選ばれました。
木村氏はこの地域特有の濃霧に隠れて救出作戦を行おうとじっと天候を眺めてチャンスをうかがい、七月十日に一度出撃するもこの時はキスカ島に近づくにつれて霧が晴れてきたために結局途中で引き返してしまいます。この際には米軍と戦闘したわけでもない上に誰も救出してこなかったことから上層部より激しい非難を受けますが、当の木村氏はあまり気にせずすぐに再出撃するようにとの中央の命令を無視しつつ、平然と現地で釣りをしながら次のチャンスをうかがっていました。
そして来る七月二十二日、再び濃霧発生の予報を受けたことにより木村氏の艦隊は救出のために基地を出撃します。その濃霧予報は見事に当たり、キスカ島に行く途中に同じ日本の艦隊内で沈没にまで至らなかったものの衝突事故を起こすほどの濃霧だったようで、米軍のレーダーも霧によって誤認を起こし、誰もいない海域に向かって延々と攻撃をかけてしまったほどだったようです。
しかも奇跡的というべきか、米軍はその後も一向にレーダーがうまく機能せず、先にレーダーで誤認した敵艦隊をすでに全滅させたと勘違いして七月二十八日に一旦補給をするためにキスカ島を包囲していた艦隊を撤退させてしまいます。そのまさに一瞬とも言うべき米軍が包囲を解いた間隙に、木村氏の艦隊は七月二十九日にキスカ島に上陸を果たしたのです。
もちろん敵軍なんていないものだから一切妨害を受けないばかりか迅速な輸送によって5000名を越える人数をわずか55分で収容し終えて、そのまま米軍に見つかることなく基地への撤退を見事完了しました。当初、この救出作戦は状況の圧倒的不利さから不可能とまで呼ばれたほどの作戦だったのですが、終わってみると被害は全くといっていいほど無く、しかも一切の戦闘を行わずにこれほどの大人数の撤退を成功させた例は世界戦史上でも全くないといっていいでしょう。なお七月二十八日に包囲を解いた米軍は七月三十日に再び包囲を行いますが既にその時の島はもぬけの殻で、わずか一日の差で米軍は日本兵を逃してしまったのです。
濃霧といい米軍の誤認といい偶然が重なった要素が多いのは事実ではありますが、一回目の出撃で救出が不可能と見るや批判を恐れずに撤退し、二度目の出撃がドンピシャのタイミングだったことを考えるとその後の強運とも言うべき状況を引っ張ってきたのは木村氏の高い決断力によるものとしか言いようがありません。そのため当時の旧日本軍だけでなく戦後は米軍からも木村氏は高く評価されたとのことです。
その後木村氏は終戦時まで生き残り、戦後は故郷の山口県で元部下らと共に商売をして天寿を全うしたそうです。豪放磊落な人柄で部下からもよく慕われ、その上冷静な決断を上からの命令にものともすることなく忠実に実行する様はまさに軍人の鑑で、何もこのキスカ島のエピソードだけでなく米国の民間輸送船を撃沈させた際も乗組員がしっかり脱出するまで待ってから沈没させたとのことで、軍人としてだけでなく一私人間としても尊敬させられる人物です。特に出撃に至る決断は見事なもので、中途半端な妥協を一切許さなかったこの決断なくしてこの奇跡はありえなかったでしょう。
ちなみにこの脱出時にはもう一つ小さなエピソードがあり、キスカ島の守備隊が脱出時に悪戯で「ペスト感染患者隔離所」という嘘の看板を島に残して行った為、守備隊のいなくなった後に上陸した米兵はペスト菌に感染するのではないかと大いに慌てたそうです。
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