ページ

2009年7月29日水曜日

北京留学記~その八、北京の歴史

 今日は簡単に、北京の都市としての歴史を紹介します。

 現在でこそ中華人民共和国の首都として名だたる国際都市の一つとなっている北京ですが、中国史の大部分においては一地方都市としてであった時代の方がずっと長くありました。都市として成立したのは紀元前の春秋戦国時代で、当時の燕国の首都として成立したのが初めてでした。その当時の北京は「薊」という名称でしたがその次の秦の時代になると「北平」(発音はペイピン)と変わり、しばらくはその名で主に北方の対異民族部隊の中心基地のような役割でその後数世紀を経たところ、その当の対抗相手の異民族であるモンゴル民族が建てた元の時代になると「大都」と改名された上、歴史上初めて中国の首都となりました。その後、何度も壊されてはいますが、現在の紫禁城も元の時代に作られています。

 そして元の次の王朝である明の時代になると成立当初は首都は南京へと移ったのですが、なんとも皮肉というか、初代皇帝が逝去して二代目皇帝の時代に入るや北平にいた皇族がクーデターを起こして政権を奪い、明の三代目皇帝として即位したのです。この皇帝は「永楽通宝」で日本でも有名な「永楽帝」なのですが、彼は即位後に首都を南京から自分の本拠地へ移し、その際に「北平」という名を「北京」に初めて改名したのです。その明が滅んだ後もの清の時代も引き続き北京は首都として置かれ、現在にまで引き続かれております。

 なお現在の北京の都市としてのデータはというと面積は日本の四国程の広さで、人口は東京都の在住人口とほぼ同じ1300万人だそうです。
 余談ですが台湾に政府のある中華民国では首都は「南京」としており、大陸の中華人民国政府も台湾を「台湾省」として一地方だとそれぞれ勝手に主張しあっています。

2009年7月28日火曜日

休日の私の服装

 八時から見たい番組があるので、今日は久々に気楽に読める記事を書こうと思います。

 前にどこかで「日本人から見たアメリカ人の変な行動」という内容の掲示板のログを見たのですがその中に、「アメリカ人はほとんど服装に気を使わない」というコメントも含まれていました。そのコメントに下には同感だという内容で、「あいつらは本当に服装に無頓着だよな。普段は平気で販促用のTシャツとかを着て街中を歩いているよ」という風に続いていました。

 このやりとりを見てどう思うかは人それぞれだと思いますが、私の感想はと言うと「やっぱり日本人は服装を気にしすぎるなぁ」というものでした。実は私も休日、ってか家に帰ってきてくつろいでいる今も、胸にでっかく「燃焼系 トルネードステッパー!」と書かれた通販会社の販促用のTシャツを着ていますし、休日ともなるとこのTシャツに加えて下にハーフパンツという組み合わせで自転車を乗り回しております。何気に以前にこのTシャツを着て友人と東京の街中を歩いていると、

「花園さん、なんか僕らジロジロ周りに見られますね」

 と友人が言うほどで、特に女子高生からは「ありえない……(゚Д゚;)」ってな顔して凝視されました。

 別にこの販促用のTシャツに限らず、私本人は気にしていませんが周りからはよく派手な格好を平気でしていると言われます。Tシャツシリーズだと一番多く着るのはうちのお袋が世界各地から買い付けてきた「HARD ROCK CAFE」のTシャツですが、キワモノだと中国で買ってきた「作好漢」と胸に描かれた真っ赤なものとか、毛沢東がでっかく描かれているTシャツでも着たりします。
 でもって昔から暑いのが苦手なので六月ごろから下には絶対に長ズボンは履かず、ハーフパンツ一筋で九月まで過ごすもんだから陰で「短パンの花園」と呼ばれていたそうです。

 冬場はこれらに比べればまだ大人しい格好を自分ではしていると思うのですがどうしてこれほどまでに周りからは割と引かれる格好でも私が平気でしていられるかというと、変な格好だと変な目で見られると日本人は思いがちなのかもしれませんが、私は変な格好だろうと何だろうと周りはそんなにいちいち気にしないだろうという風に考えているからです。考えても見れば真夜中の比叡山の山道に自転車押して一人で上り続けていれば確かに変に見られるかもしれませんが、休日に人がたくさんいる中で一人くらいちょっと変わった格好をしても誰も気にも留めないし、記憶にも留めないと思います。

 なんか最近の2ちゃんねるの掲示板を見ていると引きこもりだと自称する人らが冗談で、「外に出ようにも着る服が無い」と言っては「ファッションセンターしまむら」の話題へとつながっていくパターンがこのところよく見かけますが、外へ出るのにいちいち服装を着にするという前提なしでは成立しないパターンだと私は考えております。
 私自身があまり日本人っぽくない価値観だからかもしれませんがそんなに自分が意識するほど周りからは相手にされてないので、もうすこし日本人は服装に無頓着になってもいいような気がします。少なくとも、我慢大会じゃないんだから夏場に背広を着るのだけはとっとと根絶してもらいたいです。できれば長ズボンもオフィシャルから外してもらいたいけど。

2009年7月27日月曜日

私が大事にしている信条

 先日に久々に遠方の友人と話してこのブログについて聞いたところ、最近の記事では「Zガンダム風、幸村と家康の対峙」がよかったと褒めてもらえました。まぁあれはマニア向けの記事ですからガンダムネタのわかるその友人には受けるだろうと踏んでいたのですが、この記事とともに先月に書いた「プライドの売り方、買い方」の記事も合わせて褒めてもらったのは正直なところうれしかったです。こっちの記事はそれこそ数年前から私が漠然と思っていたことを記事にまとめた内容でそれだけに力も入っており、他の記事を差し置いてこの記事を挙げてくるあたりさすがだとその友人に感じました。

 そうした過去の記事のことは置いといて、今日は私が日ごろから大事にしている信条のいくつかを紹介しようと思います。
 人間、長い間生きていればそれこそ昔と価値観が変わったり、その場によって判断を変えたりしながら日々やりくりをしながら生きております。しかしそんな中でこそあまり変動することの無い価値観こと信条というものは個人を識別する上で非常に大事であり、また生き方を決める上でも大きな比重を占めることになります。もちろん私にもそういう信条がいくつかあり、「これだけは何が何でも変えてはならない価値観だ」と大事にしながら生きております。そうした信条をどうして持つに至ったのかを含めて、ちょっとストーリ仕立てにして今日はお送りしようと思います。

1、「周りに流されるな」
 いくつかある信条の中で最も早く私の中で固まったのは、この「周りに流されるな」という信条でした。これは私が幼稚園生だった頃、さすがに何をやったのかもう自分でも覚えていませんが何か粗相をやらかして保母さんに怒られた際に私は、「○○君もやっていたよ」と、なんでそんな粗相をしたのかという言い訳を吐いたところ保母さんは、「ほかの人がやっていることなら悪いことでも何をしてもいいの」と言い返してきました。
 この時私は幼稚園生ながら確かに言われてみるとその通りだと思い、それ以降は貫徹しているとはさすがに言い切りませんが周りの人間が何をしようと、何と言おうと、自分が間違っていると思う行動に対しては絶対に組みしたりせず、また間違っていると思うものに対しては一人でも批判するように努めてきました。言葉的には「抵抗する態度」と言ったほうが適当かもしれませんが、その後に反抗してなんぼの(決してそんなわけないけど)キリスト教の精神に触れたり、戦前の日本の軍国主義時代の挙国一致体制の欺瞞などを知ったりしてますますこういった態度が強くなっていったように思えます。
 良く言えば意思を貫き通すようになり、悪く言えば頑固になってしまった信条ですが、自分には非常に合っている信条だと思って未だに堅持しております。

2、「形より実、建前より本音」
 これは小学生の頃に固まった信条ですが、きっかけは塾で読んだある評論からでした。その評論の内容というのは、以下の通りです。

 ある冬山で遭難した男が山の中で姉妹が住む家にたどり着いたところ、出迎えた姉妹のうち妹は男に声をかけて元気付け続けたのに対し、姉のほうは男に言葉もかけずに黙々とスープだけを作って男に差し出した。この姉妹の行動を比べると一見どっちもどっちに見えるが、真に価値があるのは姉の行動である。確かに遭難して心細い男を元気付けるのは悪いことではないが、この時の男に真に必要なのは体を温め栄養を取るという行為である。たとえ元気付けようとしなくとも、男にとって必要とされるスープを差し出した姉の行動こそがこの状況では正しいのである。

 私がこの評論を読んだ当初は額面通りに受け取らず、そうは言っても元気付けるのも大事なことなんじゃないかなぁと思ってむしろ筆者に対して逆の感情を覚えました。しかしそれから月日が経つにつれ、何故だかこの評論が引っかかってだんだんと筆者のいう通りなんじゃないかと思い直すようになっていったわけです。何でそのように考え方が反転していったのかというと、日々生活しているとみんなあちこちで「あれが必要だ」、「ああすべきだ」などと毎日のように口には出すもののそれを実際に行動に移す、もしくは移そうとする人間となるとほとんどいません。それこそ環境問題を例にとると環境保護が大事だと主張する人間はたくさんいますが、その保護のために実際にボランティアとして働いたりする人となるとほとんどいなくなってしまいます。中にはエコカーに乗り換えたと言う人もいますが、それだったら自転車に乗り変えた方がずっとエコだと言い返してやりたいです。

 こうしたことから私は、下手に周りに合わせて心配したり喜んだりする態度を敢えてとらないようになりました。そんな態度をとる必要があるのならその状況下で少しでもプラスになるような行動をとるべきと、見かけにこだわらず実をとことんまで追求し、理解に中途半端な時間をかけるなら建前を用いずとっとと本音と結論をぽんと出すべきだという風になっていったわけです。そういうのが影響しているのか、文化も質実剛健が売りな鎌倉文化が好きなわけです。

2009年7月26日日曜日

麻生首相のサハリン訪問で失ったもの

 昨日にちょっと触れたので、麻生首相が二月に行ったサハリン訪問の経緯とその意義を解説します。

麻生首相、ロシア大統領と会談 戦後初のサハリン訪問(asahi.com)

 リンクの記事は当時の朝日の記事です。生憎細かい部分までの解説がないのですが、ログを残しているだけでもまだマシでしょう。最初に言っておきますが、私はこの時のサハリン訪問は日本の外交的立場上、非常にまずいものだったと考えております。というのもこのサハリンに日本の首相がロシア側の招きに応じて訪問するということはサハリンの領土権、ならびに北方領土の領有権をロシア側にあるということを暗に認めてしまいかねない態度で、今後の領土問題に大して強い悪影響を及ぼしてしまうからです。

 本題に入る前に、日本とロシアの間にある領土問題とその経緯について説明します。話は戦後直後の1951年のサンフランシスコ平和条約にまで遡り、日本はこの条約によってアメリカの占領統治から再び独立を得ることになるのですが、その際に復帰する領土の中には戦前に日本が保有していた南サハリンと択捉島を初めとした北方四島を調印文書に含まれていませんでした。仮にこの平和条約にロシア(当時はソ連)も調印していれば北方領土の話はソ連が領有することで終わっていたでしょうが、実はこの時にソ連側は調印内容に異議を呈してこの条約に調印しませんでした。
 国際法上では通常、戦争後に対戦国同士で平和条約が結ばれることで国境と領土が画定されるのですが、サンフランシスコ平和条約にソ連側が調印しなかったのでアメリカを始めとした他国とは異なり、この時日露の間では領土画定は棚上げにされたわけです。その後日露は1956年に日ソ共同宣言によって国交こそ回復したものの平和条約は現在に至るまで未だに結ばれておらず、厳密に言えば未だに戦争状態が続いていることになるのです。

 となるとどの領土に関する条約が日露の間で最後に結ばれたものになるのかと言うと、これはサンフランシスコ平和条約よりさらに昔の日露戦争後のポーツマス条約になります。このポーツマス条約では北方四島を初めとして南サハリンも日本の領土として日露間で確認され、事実戦前までこれらの地域は日本の支配下にありました。それが何故現在ロシア側は支配しているのかと言うと、言うに及ばずですが二次大戦中にこれらの地域へソ連軍が進軍し、占領したからです。
 しかも二次大戦でソ連が日本へ進軍した時期はそれ以前に正式に取り交わされた、日ソ中立条約の有効期限内でした。ソ連が独ソ戦で非常に苦しい状況であった時期にすら日本は当時の同盟国のドイツに協力をせず中立を保ったにもかかわらず、ソ連は終戦間際になって日露の間で交わされた正式な国際条約に明確に違反をして進軍、占領をしたわけで、国際法に違反してソ連が占領しているのだからロシアは北方領土を日本に返せと日本外務省は主張しているわけです。

 専門家でない私が言うのもなんですが、言うこととしては確かに日本側の主張に筋が通っているように思えます。折角ですのでついでに紹介しますが、二次大戦で日本は八月十五日で終戦して戦闘行為もその日を境に終わったとよく思われがちですが、実はそれ以後もソ連軍は火事場泥棒的に領土を奪っておこうとかまわず進軍を続けてきていました。ただ当時の北方守備隊が武装解除命令を受けてはいたもののこれらソ連軍に対して反撃して撃退を続けたので大きく領土を奪われることはありませんでしたが、下手したら北海道を丸ごと奪われていた可能性すらこの時はあったと思います。

 そういうわけで日本外務省は北方領土を返還に向けて佐藤優氏などを始めとしてあの手この手でロシア側と交渉を続けてきたのですが、そうした努力をよそ目に今年二月に麻生首相はサハリンへ行ってしまったわけです。
 日本側としてはこれまで択捉島を始めとした北方四島のみの返還を要求しており、先ほどの主張ならば北方四島同様に本来領有権のあるはずの南サハリンについては返還要求をしてきませんでした。これは暗に、「サハリンはくれてやるから北方四島は絶対に返せ」という立場を示していたのだと思いますが、かといってサハリンを根っから放棄していたわけでなく、佐藤優氏によるともしロシア側が返還交渉に乗ってくる態度を見せなかったら、「じゃあサハリンも返せよ」とばかりに要求度合いを高めるための無言の脅しであったそうで、サハリンの領有権を放棄するという態度はこれまで日本は一切示してこず、日本の首相も誰一人として足を踏み入れてこなかったのです。

 それが二月、麻生首相がロシア側の招きで、しかもかつて日本に領有権のあった南サハリンに入るユジノサハリンスクに訪問したせいで、日本側が南サハリンはロシアのものだと国際的に暗に認めてしまったことになります。実際、現時点で仮にサハリンの領有権を主張しても、「あんた、前にここをロシアの地域として訪問したでしょ?」と言われてしまえばぐうの音も出ません。言わば先ほどの「無言の脅し」が事実上なくなってしまったことになります。

 私からしても誰か外務省に止める人間はいなかったのかと悔やんでならない訪問だったのですが、何故麻生首相はそれにもかかわらずこの時に訪問を強行したのかと言うと、私の見方では麻生首相が自分の外交的功績を何が何でも作りたかったからだと思います。麻生首相は首相になる以前から自分は外交通だなどとあちこちで吹いており、総裁選においても現状では何もしていないけど北朝鮮の拉致問題を解決するなどと主張していました。しかし実際のところそういう場面がほとんど無いばかりか支持率が下がり始めた頃だったので、小泉首相が北朝鮮訪問で支持率を急回復させたように、自分の功績作りと支持率回復のために何も考えずにロシア側の招きに応じてほいほいとサハリンへ訪問したのだと思います。思えばサミットの帰国直後に解散を決意したのも、せめてサミットにだけは出ておきたかったからないかとすら今では思います。
 となるとなんというか、麻生首相は外交通ではなく外交がしたかっただけということになってしまいます。ひどいと言えば、ひどいものです。

2009年7月25日土曜日

麻生首相の通信簿

 選挙も近いことで最近政治関係の記事が多いですが、今日もその関係で昨年九月に総理大臣に就任した現麻生首相の夏休み前(卒業前?)の通信簿ことこの約一年間の業績をポイントごとに評価、解説しようと思います。先に申しておくと私は次回の選挙で民主党を大勝させる事が現状で許される選択肢の範囲内で最もマシな未来だと思うので、基本的にこの記事は麻生首相への批判記事にするつもりなためにそれを前以って了解した上でお読みください。

 まず最初に本日入ってきた麻生首相と細田自民党幹事長の失言ニュースから紹介します。選挙の真っ只中でこんな発言飛ばしてくれるあたり自分らウォッチャーにはネタに事欠かなくて助かるのですが、どちらももう少し自分を大事にしたほうがいいと思えるニュースです。

麻生首相、高齢者は「働くことしか才能がない」
国民程度低い?自民・細田氏が発言撤回(どちらもYAHOOニュース)

 どっちもどっちとも言えるニュースですが、麻生首相に至ってはこの一年でどれだけ失言をしたのかもはやいちいち挙げる気にすらならないほどの量でした。麻生首相の擁護派はそういった麻生首相の失言について「言葉のあや」や「たとえに使った言葉をマスコミがあげつらっている」などと弁護していましたが、確かにいくつかの発言に関しては一部のマスコミと野党が過剰に糾弾しすぎていたものだと見受けられますが、肝心なのはそういった失言が麻生首相の本心から出ているものかどうかだと私は思います。それで結論から言うと、私はこの一年の麻生首相の失言はどれも言葉のあやとかそういうもんじゃなく、はっきり言って本当に言葉どおりの認識をしていたからこそ出ていた言葉だったと考えております。

 さすがに今まで私もこのブログでは書きませんでしたが、この前の佐野眞一氏の講演会でも佐野氏が言及していたし別に麻生首相に温情をかける必要も無いのでもう紹介してしまいますが、麻生首相は首相になる以前の党内の会合において、

「野中弘務は部落出身だから、首相にしてはならんな」

 と発言したことがありました。
 これはさすがに内容が内容だけにテレビでは一切出てこない過去の発言履歴ですが、書籍などではあちこちで書かれているので政治を勉強している人間ならほぼ誰もが知っている有名な発言です。まぁ佐野氏はこの前に出たCSの番組で言ってのけたそうで講演会でも、

「首相としての資質以前に、こんな発言をするあたり麻生太郎は人間性的にも非常に疑わしい人物だ」


 と激しく批判しており、私の友人も以前にこの話を聞いたときは激昂せんばかりに怒ったことがありました。私自身もこんな考えを持つこと自体が異常な人物だと思えますが、思うばかりだけでなく口に出すところまで来るともはや理解不能です。
 こうした発言に限らず、麻生首相の失言というのは割と単純に思ったことが口に出たというような内容ばかりです。鳩山邦夫氏も麻生首相のことを、「自分にも他人にも非常に正直な人物で、それが長所でもあり短所でもある」と言っており、恐らく思ったことを正直になんでも口に出す人間なんだと思います。それゆえに私は麻生首相の今日の失言を含めたこれまでの失言は、言葉の勢いとかあやとかいうレベルではなく本心からのものだったと考えるわけです。ちなみに私の中の麻生首相の在任中の失言でMVPだと思うのは、下記の日本医師会への発言です。リンク先は当時にこの発言について私が書いた記事です。

「自分が病院を経営しているから言うわけじゃないけれど、大変ですよ。はっきり言って(医師は)社会的常識がかなり欠落している人が多い」

 そんな失言もさることながら、在任中に行った政策でもはっきり言って何も評価するものがありません。就任直後こそ世界同時株安が起こって経済的環境が不安定だったことから財政出動を行いましたが、それも自動車業界を始めとしてやはり一部の業界にしか行われず、中小企業向けの融資枠などもわざわざ大きな補正予算を組んで作りましたがこっちはなんと以前に作った予算枠が余ってしまって全然使われずに終わってしまいました。仮にその融資枠をもっと別のところに使ったり、もしくは予算枠自体設けず無駄に国債を発行しなければと思わずにはいられない結果でした。
 そして極め付けが定額給付金です。はっきり言ってこの政策が全体の景気を押し上げたというデータは何も無く、六月に与謝野財相が景気は底を打ったといいましたがその根拠も何もありませんでした。まぁこの辺はやりだすと延々と長く続くのでもうやめておきますが。

 ただこうした経済政策以上に私が麻生首相が行ったこととして一番我慢がならなかったのが、メドベジェーフロシア大統領に誘われてほいほいとサハリンに行ったことでした。この辺は北方領土問題にいろいろ絡むのでまた今度説明しますが、日本は日露戦争後に結んだポーツマス条約がロシア他との最後の領土条約で、二次大戦時にソ連軍が進軍して得た南サハリンと北方四島は不法占領だと主張して、北方領土の返還を現在要求しているのです。それがロシア側の招きに応じてサハリンに行くということは暗にサハリンの領有権をロシア側に認めてしまったと言うことに国際的になるので、そうした認識をとられないためにもこれまで日本の戦後の首相は誰一人としてサハリンに行ったことはありませんでした。それが今回麻生首相が行ってしまったので、これははっきり言ってかつてありえないほどの外交的大失敗であったと私は見ています。

 本人は自分が経済通だ、外交通だと主張していますが、私から見るとこの人は本当に政策の基礎すら欠けているのではないかと思わされたのがこの一年でした。おまけに政治家として、特に首相としてはアキレス腱になる政策の一貫性については言わずもがなで、かつてこのブログの記事で私は麻生首相をころころ気が変わることで「二心殿」と呼ばれた徳川慶喜と比較しましたが、結果を見るとそれでやはり間違いが無かった気がします。

  補足
 この記事で言及している、「麻生政権が設けた中小企業への融資枠がほとんど活用されずに~」の内容は二週間くらい前に私がテレビ番組で見た内容だったのですが、改めてネット上で調べてみるとどうもそれにあたる情報の裏づけが取れませんでした。お恥ずかしい限りですがもしかしたら内容を誤解、もしくは勘違いして書いてしまった内容かもしれません。一応それに近いニュースとしては信用公庫の中小企業向け融資の信用保証のニュースですが、裏づけの取れていない情報をお出ししてしまい、まことに申し訳ありませんでした。

2009年7月24日金曜日

思考力を鍛える教育

 私が小学生だったころはちょうど詰め込み型教育からゆとり教育へとゆっくりと舵が切られている頃だったので、教育関係の議論となると今日のタイトルになっている「思考力を鍛える教育」が必ず出てきました。当時は詰め込み型教育だとパターン的な思考ばかり育って応用的な力が身につかず、たとえ計算力などの力を多少落とすことになるとしても想像力を育てようなどとと、思考力を鍛える教育法が持て囃されていました。
 しかし当時からそうでしたが、一体どんな教育が想像力を鍛えることとなるのか、どんな教え方が効果的なのかということについてはきちんと検証がなされないまま、適当な教育関係者がそのような教育法を提唱する傍から一時のブームで終わっていき、現在に至っては想像力はおろかまともな学力すらおぼつかなくなってきたので前ほどこの言葉を聞く回数が減ってきたように思えます。

 では結局、どうすれば人間の思考力は鍛えられるのでしょうか。まず基本的なこととして数学や国語、あとできれば理科社会といった基礎学問の知識が私は絶対に必要だと思います。物事を考えるのに最低限の知識は絶対に必要で、逆に知識なしでどうやって応用的な思考ができるのかこっちが聞きたいくらいです。先ほどの詰め込み型教育とゆとり教育については、私は高校生までは余計なことを考えずに基本の知識を身につける期間だと思うので、やっぱり詰め込み型教育に越したことはなかったと思います。

 そうして基礎的な知識を身につけた後はどうするかですが、ひとつ思考力を鍛える教育について参考になる事例があるのでまずそれを紹介します。その教育例というのは江戸時代の薩摩藩で行われていた「郷中教育」での教育方です。
 江戸時代に薩摩藩では青年が少年を、成人が青年を地区ごとに指導する郷中教育というものがが武士の間で行われていました。指導内容は体を鍛えるものもあれば論語を教えるのもあって当時としてもなかなか厳しかったそうなのですが、中には禅問答のようにいろいろな質問をして回答を聞くものもあったそうです。ひとつここでその問いを紹介するので、折角ですから皆さんも考えてみてください。

「ある時、命の危ういところをある武士に救ってもらった。しかしその男は実は親の仇だった。さてこんなときにどうするべきか?」

 見てわかるとおりにこの問いには明確な答えは存在せず、私も何度か友人にこの問いをぶつけてみたのですが、やはり千差万別でみんなそれぞれの答えとその根拠を出してきてなかなか面白かったです。明確な答えは存在しないものの模範解答というものはありまして、その回答内容というのは、

「礼を言って、斬る」

 というものでした。これは私の解釈だと、薩摩武士なりの「恩は恩、仇は仇。決して混同してはならない」という精神を教える問いだと思うのですが、こうした教育こそが私は思考力を鍛える教育だと思うわけです。
 私は究極的には思考というものは、「何を優先するのか」という優先順位をつける行為に行き着くと考えております。何がどのような過程を経て、何を根拠にそれが選び出されるのかという過程こそが思考を指し、またそれを擬似的に行うことが思考力を鍛えることとなると思います。この場合、思考と言うよりは判断と言い換えた方がわかりやすいかもしれません。

 先ほどの問いについて薩摩武士の思考は、「恩も仇も何よりもまず優先して行うべき行為」と考えるわけですが、以前に私がこの問いをしてみた友人は「恩の方が大きい」として仇を忘れると答えましたが、それはそれで恩を優先するという思考があったのでしょう。
 よく思考力を鍛える教育として明確な回答のない問題を与えるというものがありますが、与えるだけでなくどうしてその回答に至ったのかという過程や根拠をできれば集団でお互いに説明し合い、他人は何を優先してそう答えたのかと、何が優先順位として高いのかを考えることが結果的には思考力を鍛えることになると思います。

 今回例に出した問いでは恩と仇のほぼ二択ですが、長い人生で見れば進学から就職、結婚相手からレストランのメニューまでたくさんの選択肢の中から一つに決断しなければならない場面がたくさんあります。そうした事態において「何を選ぶのが自分にとって一番いいのか」とばかりに、優先順位付けがうまくいくならそこそこ人生を渡りきることができるんじゃないでしょうか。

2009年7月23日木曜日

2005年のヴァンフォーレ甲府のJ1昇格の感動

 なんかもう大分古い話になってしまうのですが、2005年のあるサッカーチームの話を今日はわざわざしようと思います。そのチームというのも、山梨県のプロサッカーチームであるヴァンフォーレ甲府についてです。

 このヴァンフォーレ甲府というチームは元々有志の人間らによって設立されたクラブチームで他の多くのJリーグのチームと違って特定の企業がスポンサーとして初めからついていたチームではなかったために、J2が発足した際にリーグに加入したもののほぼ慢性的に経営難の状態が続いていました。しかもそんなチーム状態ゆえに優秀な選手を集めることもできず試合でもありえないくらいに敗北を重ね、J2加入から三年連続で最下位で終わってしまうなど絵に描いたような弱小駄目球団でした。そんなんだから観客もほとんど来ず、ウィキペディアによるとなんでも一試合の観客動員数が三桁に留まったこともざらだったそうです。

 それゆえにこのまま赤字を垂れ流すのならばこの際解散するべきではと、一時は存続すら危ぶまれた時期がありました。その時のことについてもウィキペディア内の記事でよく取り上げられておりますが、有志のサポーターたちがこの経営危機の際に署名活動などで必死になって存続運動を起こし、そうしたサポーターらの行動がきっかけとなってそれまでそっぽを向いていた山梨県の人たちも徐々に球場にに足を運ぶようになり、山梨県や甲府市が存続のために球団に化した条件(かなり厳しい内容だったが)もなんとすべてクリアして存続することができました。
 それからは地元からの協力体制がしっかりと築かれただけでなく大企業もスポンサーに続々と名乗りを上げ、何故だかプリンセス・テンコーまでもがスポンサー入りして大幅な債務が未だ残っているものの経営状態が大きく改善し、それに合わせて球団も毎年徐々に成績を上げていきました。

 そして来る2005年、当時のJリーグはJ2の年間成績で1位と2位のチームが自動的にJ1の最下位、準最下位のチームとリーグが入れ替わり、さらにJ2の3位のチームとJ1の下から3番目のチームは入れ替え戦を行って先に二勝したほうがJ1に残るという入れ替え戦方式でした。この2005年、ヴァンフォーレ甲府はリーグの最終節においてその年にそれまで一勝もできないほど苦手としていた、すでにJ1昇格を決めていた京都パープルサンガを見事に破り入れ替え戦に望み、選手の年棒額に明らかに大きな差のあった柏レイソルとの入れ替え戦に望みました。
 誰もが社会人サッカー時代からの名門チームであるレイソルの残留を予想する中、結果はなんと二戦連続でヴァンフォーレ甲府が勝ち、一時は存続まで危ぶまれたこの球団がJ1に昇格を果たしたのです。

 私はこのニュースが流れた当時に中国に留学中でしたがインターネットでこのニュース知り、またその際にサポーターたちが存続運動を行っていたということも知ったので素直によかったなぁと思いました。さらにその後、下記のフラッシュを見てなおさらその気持ちが強くなりました。

AA Jリーグ2005(U-KS Loggin')

 もう作られてから大分経つフラッシュなのですが、今でも折に触れて見るたびに涙が止まらなくなることがあります。
 残念ながら現在このヴァンフォーレ甲府は現在J2に落ちてしまっているのですが、あまりJリーグに詳しくなくて試合もほとんど見ない私ですが、陰ながらヴァンフォーレ甲府の再昇格を応援している次第であります。