以前に私が「内部進学についておもうこと」で取り上げた区立九段中高において高校への内部進学の際、学力の足りないとされる十八人の生徒に他の高校への転学を進めたということを報じた朝日新聞の記事に、その続きとも取れる記事がまたも同じく朝日新聞に載せられておりました。記事の題も「公立中高一貫校は必要か」です。
記事の内容は教育に関わる三人の識者に対し公立校における中高一貫教育の是非を問うている内容なのですが、結論から言えばつまらなかったです。三人ともどれも似たり寄ったり、というより公立の中高一貫教育が絶対的に必要だという観念が初めからもたれており、九段区立中高の例など現状の中高一貫教育はこれから私立の一貫校と違いをつけていかねばならないという結論でびっくりするくらい一致しています。こんなことくらいなら、誰だって言える気がするのですが(´ー`)y-~~
その中でも個人的にちょっと私の癇に障ったというか、気になることを言っていたのは渋谷教育学園幕張のの理事長の田村哲夫氏の意見です。この人は開口一番に、「子供が自我を確立する時期は、中学2年から3年にかけての時期だといわれている」とした上で、日本の大半の子供はその多感な時期に高校受験の勉強に追われるのに対し中高一貫校の子供はそうした受験がなく、のびのびとした環境で育つことが出来ると述べています。何故この点に私が反応したのかというと、そのような私立の中高一貫校に進学する子供は小学四年生頃から塾に通わねばならず、多感な時期に受験に追われるという意味では時期が違うだけでそれほど差はないのでは、それどころか遊びたい盛りの小学生の年齢を考えると高校受験時より中学受験時の子供の精神的負担は重いのではないかという気がします。
かくいう私も何度もこのブログで書いていますが、そんな塾通いを小学校四年生から始めて私立の中高一貫校に進学した口です。はっきりいって中学、高校時代はあまり面白くなく、現在の自分を形作っているのは学外で受けた影響の方が強かったです。
また私自身がこの中学受験で何が一番嫌だったかといえば、同じ小学校である地元の友達らと別々の中学に進学しなければならないことでした。それこそ小学校に入る前からの幼馴染らと全員別れて全く知り合いのいない中学に進学したようなもので、本当に仲のいい友人らを除くとその後地元との結びつきは随分と薄くなってしまいました。やっぱり小学校から中学校へ上がると周囲を取り巻く環境というものは大きく変わるものですし、できることならそういう場面に昔から気心の知れた者がいてほしかったのが私の本音です。
この中高一貫教育については私が見ている限りどうも肯定的な意見しか見当たらず、テレビに出てくる塾通いの子供もちゃんとした学校に行く方がいいなど、反対する意見を述べる場面を見ることがありません。しかし私の親戚、知り合いの子供らから直接話を聞くとみんな嫌々塾通いをしており、むしろ「ドラクエをやる時間が欲しい」などという意見ばかり聞こえます。この報道と実情のギャップの差に時々気になるのですが、近年学校法人からの広告料が伸びているという噂を聞くと、なにか関係しているんじゃないかと疑ってしまうわけです。週刊朝日なんて、受験偏差値ランキングでメシ食ってるような雑誌だしなぁ。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年9月27日日曜日
2009年9月26日土曜日
片山善博氏について
ダムのことについて書いたばかりなので、ちょっと関連するかどうかは微妙ですが私が一目置く政治家であり大学教授である片山善博氏について一本記事を書いておきます。
この片山氏というのは一昨年まで鳥取県知事を二期八年やっており、現在は鳥取大と慶応大の教授をなさっている方です。知事在任中は常に高い支持率を維持し、地方分権派の知事として中央に長く働きかけ続けてその手腕、行動力についてはかねてから高く評価されておりました。
そんな片山氏を、四年位前の私が初めて知ったのはあるエピソードからでした。
現在東京と副知事を務める作家の猪瀬直樹氏が自身のエッセイにて、まだ猪瀬氏が若かった頃、本格的に作家として身を立てようと決意したものの先立つものがなく、悩んだ挙句に彼が向かったのはなんと政府系金融機関だったそうです。詳しい名前は失念しましたがそこは中小の企業家向けに起業資金を貸し与える金融機関だったそうで、猪瀬氏はそこの窓口の職員に向かって、
「自分はこれから作家として身を立てていく。ここは起業家に起業資金をくれる場所なのだから、当分生活するだけのお金を自分に貸してくれ」
はっきり言ってこうして文面にすると、やくざか何かが金をせびっているようにしか見えませんね。実際に猪瀬氏も内心では無理だろうと考えていたそうなのですが、その職員はしばらく席を離れると、わかりましたと言ってなんと本当に猪瀬氏にお金を融通してくれたそうです。そのお金がどこまで役に立ったかまでは分かりませんがその後猪瀬氏は念願かなって作家として生活できようになり、ある日テレビで討論番組を見ているとあの時に何も言わずにお金を貸してくれた職員こと片山氏が、鳥取県知事として出演しているのを見つけてびっくりしたそうです。
このエピソードだけでも片山氏は相当な人間だと思わせられるのですが、以前に読んだ本人の知事在任中の話として、こんなものもありました。
なんでも片山氏の知事在任中、鳥取県内のある地域の治水対策のためにダム建設か堤防工事をしなければならない案件が出たそうです。そこで両工事の費用を見積もったところ、ダム建設の方が堤防工事より安いと出てきて、ダムであれば発電も出来るし安いのだからそっちの方が良さそうだとまとまりかけたそうなのですが、片山氏はその出てきた見積もりを見ていてどうもおかしいと感じ、県庁内の担当職員を呼び出してこう言ったそうです。
「今ならまだ怒らないよ」
こうして書くと、随分と恐ろしい殺し文句に聞こえてきます。多分こんなこと言われたら、身に覚えがあったら大抵は白状してしまうかもしれません。
そしたら実際にこの時の担当職員は白状し、実はダム建設の見積もり費用は大分以前の基準で出した見積もり費用であって、現在の基準であれば堤防工事の費用を上回ってしまうということを明かしたそうです。それを受けて片山氏は、安くで済ませられるというのならと堤防工事を選んだそうです。
このエピソードのまとめとして片山氏は、予算一つでもいろいろな思惑の元に方針が歪められることもあり、それを如何に持って行きたい方向に持っていくべきかとしていましたが、このエピソードを聞くと非常にリアリティを感じられます。
こうしたエピソードから名前を覚え、その後テレビ出演時の片山氏の話を聞くにつけて私は片山氏を現在も高く評価するように至りました。このブログでも何度も書いていますが、私も鳥取の日本海自動車学校で全く不快感を感じることなく自動車免許を取得し、なおかつ境港出身の水木しげる氏のファンということもあって可能ならば今すぐにでも鳥取に住みたいと考えておりましたが、何も元知事にまで肩入れしなくともと思いますが、せっかくなのでこうして記事にまとめておきました。
この片山氏というのは一昨年まで鳥取県知事を二期八年やっており、現在は鳥取大と慶応大の教授をなさっている方です。知事在任中は常に高い支持率を維持し、地方分権派の知事として中央に長く働きかけ続けてその手腕、行動力についてはかねてから高く評価されておりました。
そんな片山氏を、四年位前の私が初めて知ったのはあるエピソードからでした。
現在東京と副知事を務める作家の猪瀬直樹氏が自身のエッセイにて、まだ猪瀬氏が若かった頃、本格的に作家として身を立てようと決意したものの先立つものがなく、悩んだ挙句に彼が向かったのはなんと政府系金融機関だったそうです。詳しい名前は失念しましたがそこは中小の企業家向けに起業資金を貸し与える金融機関だったそうで、猪瀬氏はそこの窓口の職員に向かって、
「自分はこれから作家として身を立てていく。ここは起業家に起業資金をくれる場所なのだから、当分生活するだけのお金を自分に貸してくれ」
はっきり言ってこうして文面にすると、やくざか何かが金をせびっているようにしか見えませんね。実際に猪瀬氏も内心では無理だろうと考えていたそうなのですが、その職員はしばらく席を離れると、わかりましたと言ってなんと本当に猪瀬氏にお金を融通してくれたそうです。そのお金がどこまで役に立ったかまでは分かりませんがその後猪瀬氏は念願かなって作家として生活できようになり、ある日テレビで討論番組を見ているとあの時に何も言わずにお金を貸してくれた職員こと片山氏が、鳥取県知事として出演しているのを見つけてびっくりしたそうです。
このエピソードだけでも片山氏は相当な人間だと思わせられるのですが、以前に読んだ本人の知事在任中の話として、こんなものもありました。
なんでも片山氏の知事在任中、鳥取県内のある地域の治水対策のためにダム建設か堤防工事をしなければならない案件が出たそうです。そこで両工事の費用を見積もったところ、ダム建設の方が堤防工事より安いと出てきて、ダムであれば発電も出来るし安いのだからそっちの方が良さそうだとまとまりかけたそうなのですが、片山氏はその出てきた見積もりを見ていてどうもおかしいと感じ、県庁内の担当職員を呼び出してこう言ったそうです。
「今ならまだ怒らないよ」
こうして書くと、随分と恐ろしい殺し文句に聞こえてきます。多分こんなこと言われたら、身に覚えがあったら大抵は白状してしまうかもしれません。
そしたら実際にこの時の担当職員は白状し、実はダム建設の見積もり費用は大分以前の基準で出した見積もり費用であって、現在の基準であれば堤防工事の費用を上回ってしまうということを明かしたそうです。それを受けて片山氏は、安くで済ませられるというのならと堤防工事を選んだそうです。
このエピソードのまとめとして片山氏は、予算一つでもいろいろな思惑の元に方針が歪められることもあり、それを如何に持って行きたい方向に持っていくべきかとしていましたが、このエピソードを聞くと非常にリアリティを感じられます。
こうしたエピソードから名前を覚え、その後テレビ出演時の片山氏の話を聞くにつけて私は片山氏を現在も高く評価するように至りました。このブログでも何度も書いていますが、私も鳥取の日本海自動車学校で全く不快感を感じることなく自動車免許を取得し、なおかつ境港出身の水木しげる氏のファンということもあって可能ならば今すぐにでも鳥取に住みたいと考えておりましたが、何も元知事にまで肩入れしなくともと思いますが、せっかくなのでこうして記事にまとめておきました。
八ッ場ダム建設問題に対する私の意見 その二
この記事は前回の「八ッ場ダム建設問題に対する私の意見 その一」の記事の続きで、前回の記事を読んでいない方はまずそちらをご覧になってからこちらの記事をお読みください。
前回の記事ではダム建設の目的がどうも実情に即していないという点から私はこの八ッ場ダム建設に反対だと主張しましたが、この記事では主に予算面とダム建設による弊害の観点から私が反対する意見を紹介いたします。
まず予算面についての議論ですが、パッと見で一番わかりやすいため以下の記事から紹介します。
・【金曜討論】八ツ場ダム 小渕優子氏、嶋津暉之氏(msnニュース)
このリンクを張った記事では自民党の小渕優子議員と学者の嶋津暉之氏がそれぞれ八ッ場ダム建設賛成、反対の立場で意見を主張しあっている議論なのですが、比較的争点も整理されていて分かりやすい内容なのでこの問題に興味がある方は是非ご覧になることをお勧めします。
それでまず小渕氏の建設賛成の意見なのですが、まず治水、水源確保について国交省の主張通りに「今後、気候変動でどうなるかわからない」という曖昧な主張です。確かに小渕氏の言うとおりに将来に起こりうるかもしれない事態に対策を行うのが政治の仕事ですが、大金使う建設計画なのだからせめて根拠となる統計を出してから言ってもらいたいものです。
そして肝心の予算についてですが、これは言うなれば今中止するのと建設を実行するのではどちらが無駄なのかという議論なのですが、小渕氏はもちろん中止した方が無駄遣いが多くなると主張しており、ちょっと長いですがその辺について全部元の記事から引用させてもらいます。
--中止した場合、支出した負担金の返還を求める自治体がある
「利益享受を前提に、これまで6都県が約1980億円を負担してきた。返さなければならないのは当たり前の話。建設継続の場合は、あと、長野原町の生活再建関連費用約770億円とダム本体工事関連費用の約620億円の計1390億円ですむ。7割の工事が終わっているのに、ここで建設中止となると負担金の返還だけでなく、新たな治水整備費用、別の生活再建費用が必要になり、確実に中止した方が費用はかかる」
この小渕氏の意見に対し建設反対を掲げる嶋津氏の意見は、こちらもまた全文引用させてもらうと、
--建設を中止した場合、国費支出は増えるのでは
「国交省の調査で、貯水域周辺の22カ所で地滑りの可能性があるが、うち対策を行うのは3カ所だけ。川原湯地区の上湯原などに住民移転地があるが、この周辺は最大の地滑り危険地域で本当に不安だ。大滝ダム(奈良県・吉野川)では水をため始めた後、大変な地滑りを起こし、38戸が移転、対策費に308億円、工期を10年延長した例がある。また、八ツ場ダムに水をためると、吾妻川沿いの発電所への送水量が減り発電量が減ってしまう。その分を補償するのが『減電補償』で、それに数百億円かかる」
「さらに、これまで事業費の7割は使っているが、事業全体の進捗(しんちょく)が遅い。3月末時点で、着手は6~8割だが、完成した国道、県道は数%、鉄道は75%。代替地の造成も1割だ。総合すると、ダム本体工事の約620億円以外に1000億円規模の支出増が見込まれる」
「これらを踏まえたうえで、継続か中止かを検討すると、継続した場合には実際2390億円必要だ。中止した場合には、自治体が負担した利水負担金を返すと仮定して、利水負担金890億円と生活再建関連の770億円の計1660億円が必要となるが、やめた場合のほうがはるかに安上がりだ。よく利水負担金は1460億円といわれるが、その4割(570億円)は国庫補助金であって、これは自治体への返還の対象にはならない」
さすがにこんな引用だけだと手抜きなので、双方の主張を以下に簡単にまとめておきます。
★小渕氏の主張
・すでに工事進捗は七割も済んでいる。
・今後必要な費用は生活再建関連費の770億円とダム本体工事関連費620億円の計1390億円だけだ。
・中止すると建設費を一部負担してきた6都県に直轄負担金の1980億円を返さないといけない。
・中止の場合、負担金の返還に加え別の治水、生活再建費が必要だ。
・1390億円<1980億円+αで、中止した方がハイコストだ。
☆嶋津氏の主張
・現在事業費予算の七割を使っただけで、工事進捗が七割済んだというわけじゃない。
・実際の進捗具合から、本体工事費用は追加で1000億円以上必要で、継続するのに計2390億円必要。
・中止した場合でも、自治体に返す費用のうち570億円の国庫補助金は返す必要はない。
・そのため、自治体への返還費用合計は1460-570=890億円。
・中止した場合は生活再建費用の770億円と上の返還費用890億円で、計1660億円必要。
・2390億円>1660億円で、工事を継続した方がハイコストだ。
見てもらえば分かりますが、嶋津氏の費用計算に対して小渕氏の費用計算はなんと言うか非常にアバウトで、私が見る感じでは嶋津氏の主張の方が正しいような気がします。それにしても、生活再建費用はどっちにしろかかるんですね。
私からこの議論に関連する情報を付け加えると、工事の進捗についてはどうも嶋津氏の主張通りにそれほど進んでいるとは言えないらしく、工程の中で非常に大規模となる底部補強工事がまだ済んでいないそうです。この底部補強というのはダムの水が貯まる箇所の底を水圧に耐えられるように補強する工事なのですが、この工事を実行するためには現在水が流れている川から水をすべて抜かねばならず、お金の方も相応にかかって来るそうです。
こういう話を聞くと、すでに工事は七割方終わっているというのはどうも冗談にしか聞こえません。第一、日本の行政工事が予算内で完了することなんてほとんどなく、現状での見積もり費用にある程度上乗せをして考えなければならないでしょう。
そして中止した場合にかかる費用についてですが、これについては一部、費用比較の議論に加えること自体に疑問を思う箇所があります。それはどこかというと、自治体への直轄負担金の返還です。
返還にかかる負担金の費用額は両者でそれぞれ異なっていますが、私が思うに、この負担金の返還は確かに国の支出で見れば明らかなマイナスですが、何も返したからといって突然空中に消えるお金というわけじゃなくそのまんま自治体にて使えるお金です。目的も用途もよく分からない八ッ場ダムに使われず自治体に返されるのなら社会全体で見ればプラスもマイナスもなく、無駄金のような計算に使うのは不適当なのではないのかと考えています。もっとも30億円も裏金を使っていたことが発覚した千葉県に返還しても、まともに運用されないのではないかという疑念こそありますが。
こうした予算面からもやはり八ッ場ダム建設は怪しいものなのですが、これに加えて私個人が考えるダム建設の弊害を考えるとなおさらその気持ちが強くなるわけです。何気にダムについては以前に勉強会にも参加したことがあるのですが、どうもいろいろ話を聞いていると、ダムというのはそのその機能以上に環境に与える負荷が非常に大きい代物だそうです。
まず一番基本的なことですが、ダムというのは作ってしまえば後は半永久的に使えるものではありません。上流から下流へ水を流すという役割上、年月とともにダムの底には土砂が溜まって行き、それとともに治水、発電機能は低下していきます。この土砂を取り除けばもちろん機能はある程度回復するのですが、深い水底にある土砂だけを除去するのは並大抵のことではなくその分の費用をランニングコストと捉えれば、シムシティみたいに安価で無害な発電施設ではありません。ちなみにシムシティで自分はバカスカ原発を作るけど。
そしてここが肝心ですが、一旦土砂とともに水の流れをせき止めてしまうため、ダムを作ってしまうとほぼ例外なく下流では水中の栄養素が減少してしまいます。それまで均質に保たれていた水中の栄養素がダムの建設によって変化するため川の生態系に与える影響は少なくなく、また川周辺の森林にもあまりよくありません。
90年代までダムというのは、治水と発電の両方を一挙に行え、かつ公共事業によるバラマキが経済成長のために非常に重要だと考えられた時代ゆえにあちこちで建設が行われてきました。しかしこの八ッ場ダムでも建設に反対する住民がいるように、実態的には建設地から立ち退かねばならない人間もいる上に目には見えない環境への負荷も大きく、決して得るものに対して犠牲が少なくはありませんでした。こうしたダム建設の負の面に初めて社会が目を向けたのは現新党日本代表の田中康夫氏が2000年の長野県知事選に出馬し、当選した際に主張した、「脱ダム宣言」からです。
現在でこそ私は田中氏の主張にはどうかなぁと思うところもあるのですが、この脱ダム宣言は日本の公共事業、ダム計画を大きく見直す第一歩となった点では田中氏を高く評価しております。そうした影響もあり、あくまで素人の意見として前回の記事と合わせてこの八ッ場ダム建設に対して反対意見を述べた次第です。
前回の記事ではダム建設の目的がどうも実情に即していないという点から私はこの八ッ場ダム建設に反対だと主張しましたが、この記事では主に予算面とダム建設による弊害の観点から私が反対する意見を紹介いたします。
まず予算面についての議論ですが、パッと見で一番わかりやすいため以下の記事から紹介します。
・【金曜討論】八ツ場ダム 小渕優子氏、嶋津暉之氏(msnニュース)
このリンクを張った記事では自民党の小渕優子議員と学者の嶋津暉之氏がそれぞれ八ッ場ダム建設賛成、反対の立場で意見を主張しあっている議論なのですが、比較的争点も整理されていて分かりやすい内容なのでこの問題に興味がある方は是非ご覧になることをお勧めします。
それでまず小渕氏の建設賛成の意見なのですが、まず治水、水源確保について国交省の主張通りに「今後、気候変動でどうなるかわからない」という曖昧な主張です。確かに小渕氏の言うとおりに将来に起こりうるかもしれない事態に対策を行うのが政治の仕事ですが、大金使う建設計画なのだからせめて根拠となる統計を出してから言ってもらいたいものです。
そして肝心の予算についてですが、これは言うなれば今中止するのと建設を実行するのではどちらが無駄なのかという議論なのですが、小渕氏はもちろん中止した方が無駄遣いが多くなると主張しており、ちょっと長いですがその辺について全部元の記事から引用させてもらいます。
--中止した場合、支出した負担金の返還を求める自治体がある
「利益享受を前提に、これまで6都県が約1980億円を負担してきた。返さなければならないのは当たり前の話。建設継続の場合は、あと、長野原町の生活再建関連費用約770億円とダム本体工事関連費用の約620億円の計1390億円ですむ。7割の工事が終わっているのに、ここで建設中止となると負担金の返還だけでなく、新たな治水整備費用、別の生活再建費用が必要になり、確実に中止した方が費用はかかる」
この小渕氏の意見に対し建設反対を掲げる嶋津氏の意見は、こちらもまた全文引用させてもらうと、
--建設を中止した場合、国費支出は増えるのでは
「国交省の調査で、貯水域周辺の22カ所で地滑りの可能性があるが、うち対策を行うのは3カ所だけ。川原湯地区の上湯原などに住民移転地があるが、この周辺は最大の地滑り危険地域で本当に不安だ。大滝ダム(奈良県・吉野川)では水をため始めた後、大変な地滑りを起こし、38戸が移転、対策費に308億円、工期を10年延長した例がある。また、八ツ場ダムに水をためると、吾妻川沿いの発電所への送水量が減り発電量が減ってしまう。その分を補償するのが『減電補償』で、それに数百億円かかる」
「さらに、これまで事業費の7割は使っているが、事業全体の進捗(しんちょく)が遅い。3月末時点で、着手は6~8割だが、完成した国道、県道は数%、鉄道は75%。代替地の造成も1割だ。総合すると、ダム本体工事の約620億円以外に1000億円規模の支出増が見込まれる」
「これらを踏まえたうえで、継続か中止かを検討すると、継続した場合には実際2390億円必要だ。中止した場合には、自治体が負担した利水負担金を返すと仮定して、利水負担金890億円と生活再建関連の770億円の計1660億円が必要となるが、やめた場合のほうがはるかに安上がりだ。よく利水負担金は1460億円といわれるが、その4割(570億円)は国庫補助金であって、これは自治体への返還の対象にはならない」
さすがにこんな引用だけだと手抜きなので、双方の主張を以下に簡単にまとめておきます。
★小渕氏の主張
・すでに工事進捗は七割も済んでいる。
・今後必要な費用は生活再建関連費の770億円とダム本体工事関連費620億円の計1390億円だけだ。
・中止すると建設費を一部負担してきた6都県に直轄負担金の1980億円を返さないといけない。
・中止の場合、負担金の返還に加え別の治水、生活再建費が必要だ。
・1390億円<1980億円+αで、中止した方がハイコストだ。
☆嶋津氏の主張
・現在事業費予算の七割を使っただけで、工事進捗が七割済んだというわけじゃない。
・実際の進捗具合から、本体工事費用は追加で1000億円以上必要で、継続するのに計2390億円必要。
・中止した場合でも、自治体に返す費用のうち570億円の国庫補助金は返す必要はない。
・そのため、自治体への返還費用合計は1460-570=890億円。
・中止した場合は生活再建費用の770億円と上の返還費用890億円で、計1660億円必要。
・2390億円>1660億円で、工事を継続した方がハイコストだ。
見てもらえば分かりますが、嶋津氏の費用計算に対して小渕氏の費用計算はなんと言うか非常にアバウトで、私が見る感じでは嶋津氏の主張の方が正しいような気がします。それにしても、生活再建費用はどっちにしろかかるんですね。
私からこの議論に関連する情報を付け加えると、工事の進捗についてはどうも嶋津氏の主張通りにそれほど進んでいるとは言えないらしく、工程の中で非常に大規模となる底部補強工事がまだ済んでいないそうです。この底部補強というのはダムの水が貯まる箇所の底を水圧に耐えられるように補強する工事なのですが、この工事を実行するためには現在水が流れている川から水をすべて抜かねばならず、お金の方も相応にかかって来るそうです。
こういう話を聞くと、すでに工事は七割方終わっているというのはどうも冗談にしか聞こえません。第一、日本の行政工事が予算内で完了することなんてほとんどなく、現状での見積もり費用にある程度上乗せをして考えなければならないでしょう。
そして中止した場合にかかる費用についてですが、これについては一部、費用比較の議論に加えること自体に疑問を思う箇所があります。それはどこかというと、自治体への直轄負担金の返還です。
返還にかかる負担金の費用額は両者でそれぞれ異なっていますが、私が思うに、この負担金の返還は確かに国の支出で見れば明らかなマイナスですが、何も返したからといって突然空中に消えるお金というわけじゃなくそのまんま自治体にて使えるお金です。目的も用途もよく分からない八ッ場ダムに使われず自治体に返されるのなら社会全体で見ればプラスもマイナスもなく、無駄金のような計算に使うのは不適当なのではないのかと考えています。もっとも30億円も裏金を使っていたことが発覚した千葉県に返還しても、まともに運用されないのではないかという疑念こそありますが。
こうした予算面からもやはり八ッ場ダム建設は怪しいものなのですが、これに加えて私個人が考えるダム建設の弊害を考えるとなおさらその気持ちが強くなるわけです。何気にダムについては以前に勉強会にも参加したことがあるのですが、どうもいろいろ話を聞いていると、ダムというのはそのその機能以上に環境に与える負荷が非常に大きい代物だそうです。
まず一番基本的なことですが、ダムというのは作ってしまえば後は半永久的に使えるものではありません。上流から下流へ水を流すという役割上、年月とともにダムの底には土砂が溜まって行き、それとともに治水、発電機能は低下していきます。この土砂を取り除けばもちろん機能はある程度回復するのですが、深い水底にある土砂だけを除去するのは並大抵のことではなくその分の費用をランニングコストと捉えれば、シムシティみたいに安価で無害な発電施設ではありません。ちなみにシムシティで自分はバカスカ原発を作るけど。
そしてここが肝心ですが、一旦土砂とともに水の流れをせき止めてしまうため、ダムを作ってしまうとほぼ例外なく下流では水中の栄養素が減少してしまいます。それまで均質に保たれていた水中の栄養素がダムの建設によって変化するため川の生態系に与える影響は少なくなく、また川周辺の森林にもあまりよくありません。
90年代までダムというのは、治水と発電の両方を一挙に行え、かつ公共事業によるバラマキが経済成長のために非常に重要だと考えられた時代ゆえにあちこちで建設が行われてきました。しかしこの八ッ場ダムでも建設に反対する住民がいるように、実態的には建設地から立ち退かねばならない人間もいる上に目には見えない環境への負荷も大きく、決して得るものに対して犠牲が少なくはありませんでした。こうしたダム建設の負の面に初めて社会が目を向けたのは現新党日本代表の田中康夫氏が2000年の長野県知事選に出馬し、当選した際に主張した、「脱ダム宣言」からです。
現在でこそ私は田中氏の主張にはどうかなぁと思うところもあるのですが、この脱ダム宣言は日本の公共事業、ダム計画を大きく見直す第一歩となった点では田中氏を高く評価しております。そうした影響もあり、あくまで素人の意見として前回の記事と合わせてこの八ッ場ダム建設に対して反対意見を述べた次第です。
八ッ場ダム建設問題に対する私の意見 その一
昨日は金曜に加えて給料日ということもあって、このブログも休んでわざわざお金を下ろしに行きました。別に昨日に焦ってやる必要はなかったのですが、給料日ぎりぎりに財布の中身がからになるよう仕組んでいたら本当にそうなったので、なるべく早く補給した方がいいだろうと判断したわけです。それにしてもこのごろは程ほどに涼しいので、夜のサイクリングが非常に気持ちがいいです。
それでは本題に入りますが、今日はちょっと力の入った記事として現在もニュースをよくにぎわせている、八ッ場ダムの建設問題について私の意見を紹介いたします。結論から先に申し上げると、私はこの八ッ場ダムについては建設に反対です。
・八ッ場ダム(ウィキペディア)
・八ッ場ダム工事事務所(国土交通省)
この八ッ場ダムの問題は前原国土交通相が中止発言を行って以降、どうも問題の全体像が私にはなかなかつかめずにいました。来る日も来る日もテレビで放映されるのはマニフェスト通りに中止を実行しようとする与党民主党に対し、水源確保を何だと思っていると主張する石原都知事と関係各県知事、そしてここまで来て何故途中でやめるのだという賛成派現地住民ばかりで、具体的にこのダムの何が問題なのか、また賛成派、反対派はそれぞれどういった意見を持っているのかといった整理された報道がなかなか見当たらず、今回この記事を書くにあたっていろいろ苦労しました。
そんな中でいろいろと私なりに調べてみたわけですが、まず第一に目に付いたのがこのダムの建設計画が出来た時期とその目的です。
なんとこのダムの構想が出来たのはまだ日本がアメリカの統治下であった1949年で、具体的な建設計画は1952年に出来たそうです。何故そんな大昔に計画されながら未だに実現に至っていないかというと、元々観光保養地として有名であった建設地における住民の反対運動が根強く、「東の八ッ場、西の大滝」と謳われるまでに地元との合意が出来ず、長らく建設がストップしていたからです。
ではそれほどまでに長い間地元に反対され続けながらも建設計画が潰されなかった建設目的は何かというと、一つは首都圏における水源の確保と、もう一つはこちらは私が非常に疑問に感じた治水のためです。
首都圏における水源の確保については先にリンクを張った国土交通省のホームページに詳しいですが、東京を含めた関東一円に対する水源として、利根川水系の一端を担う役割としてこの八ッ場ダムは期待されているわけですが、まぁ見てもらえば分かるとおりにこれは明らかな国土交通省のブラフでしょう。
国土交通省は夏季に少雨となれば首都圏で水が不足する事態があるなどとこのホームページで主張しているわけですが、何故か引用している降雨量のデータは連続した直近年のデータではなく、また今後降水量が減少する傾向などについては何の言及もありません。この点は首都圏に在住している方なら分かるでしょうが、近年の首都圏ではいわゆるゲリラ豪雨と呼ばれる集中的降雨の発生増加など、むしろ降水量は増加している傾向にあります。何気にこれは地球規模の環境問題ともリンクするのですが、現在世界中で降雨の起こる地域が二極化しており、日本は全体としては以前より降雨量が増えるとされております。
また住人の水の使用量増加についても高度経済成長期なら多少はその言い分も分かるのですが、現在も東京に人口が集中して増加しているのは確かなもののその増加量は以前と比べて大分緩やかになりつつあり、なおかつ今後は少子化によって人口減少も視野に入ってきているのでそこまでして新たな水源を確保する理由があるとは私は思いません。
そして今回私が非常に疑問に感じた二番目の治水目的についてですが、これについてはテレビなどでも情報を入手していた通りで、なんと八ッ場ダムが目標とする治水レベルというのは1947年に発生して大規模な被害を残した、カスリーン台風だと国土交通省も主張しております。
このカスリーン台風についてはリンクを貼ったウィキペディアの記事を読んでもらえば分かりますが、確かにその災害規模は文字通り前代未聞ではありますが、このレベルまでの対策を行うとなると私は疑問です。というのも国土交通省はこのカスリーン台風を「100年に三回起こる可能性のある災害」としておりますが、それだったら1947年から60年以上経つ現在においてあと二回くらい同じのがあってもいい気がしますがそれは置いといて、それくらいなまでに頻度が少ない超規模災害に備える必要があるのかということです。
私は本来、自然災害というものは防ぎようのないもので、対策すべてを否定するつもりはありませんが災害被害をすべてなくすことは不可能だと考えております。ましてやこのカスリーン台風級ともなると100年に三回程度発生する可能性で、いくら規模が大きいからといってそんな低い可能性の災害まで高い費用をかけて対策を行う必要があるのかと疑問に思います。それであれば必要最低限な対策を施した上で、今後そのような大規模災害が起こりうる予測が立った時に住人を素早く避難、保護できる態勢を整えることの方がずっと建設的で、費用的にもずっと安上がりなのではないかと思います。
こうして私なりに建設目的やその成り立ちを整理すると、やはりこの八ッ場ダムを差し迫って建設する必要はないのではないかと感じます。こうした点に加え、予算面とダム建設による弊害についても考えると、あくまで素人の立場ではありますがやはり建設には反対せざるを得ません。すこし長くなったので、予算とダム建設による弊害は次回の「八ッ場ダム建設問題に対する私の意見 その二」の記事に回します。
それでは本題に入りますが、今日はちょっと力の入った記事として現在もニュースをよくにぎわせている、八ッ場ダムの建設問題について私の意見を紹介いたします。結論から先に申し上げると、私はこの八ッ場ダムについては建設に反対です。
・八ッ場ダム(ウィキペディア)
・八ッ場ダム工事事務所(国土交通省)
この八ッ場ダムの問題は前原国土交通相が中止発言を行って以降、どうも問題の全体像が私にはなかなかつかめずにいました。来る日も来る日もテレビで放映されるのはマニフェスト通りに中止を実行しようとする与党民主党に対し、水源確保を何だと思っていると主張する石原都知事と関係各県知事、そしてここまで来て何故途中でやめるのだという賛成派現地住民ばかりで、具体的にこのダムの何が問題なのか、また賛成派、反対派はそれぞれどういった意見を持っているのかといった整理された報道がなかなか見当たらず、今回この記事を書くにあたっていろいろ苦労しました。
そんな中でいろいろと私なりに調べてみたわけですが、まず第一に目に付いたのがこのダムの建設計画が出来た時期とその目的です。
なんとこのダムの構想が出来たのはまだ日本がアメリカの統治下であった1949年で、具体的な建設計画は1952年に出来たそうです。何故そんな大昔に計画されながら未だに実現に至っていないかというと、元々観光保養地として有名であった建設地における住民の反対運動が根強く、「東の八ッ場、西の大滝」と謳われるまでに地元との合意が出来ず、長らく建設がストップしていたからです。
ではそれほどまでに長い間地元に反対され続けながらも建設計画が潰されなかった建設目的は何かというと、一つは首都圏における水源の確保と、もう一つはこちらは私が非常に疑問に感じた治水のためです。
首都圏における水源の確保については先にリンクを張った国土交通省のホームページに詳しいですが、東京を含めた関東一円に対する水源として、利根川水系の一端を担う役割としてこの八ッ場ダムは期待されているわけですが、まぁ見てもらえば分かるとおりにこれは明らかな国土交通省のブラフでしょう。
国土交通省は夏季に少雨となれば首都圏で水が不足する事態があるなどとこのホームページで主張しているわけですが、何故か引用している降雨量のデータは連続した直近年のデータではなく、また今後降水量が減少する傾向などについては何の言及もありません。この点は首都圏に在住している方なら分かるでしょうが、近年の首都圏ではいわゆるゲリラ豪雨と呼ばれる集中的降雨の発生増加など、むしろ降水量は増加している傾向にあります。何気にこれは地球規模の環境問題ともリンクするのですが、現在世界中で降雨の起こる地域が二極化しており、日本は全体としては以前より降雨量が増えるとされております。
また住人の水の使用量増加についても高度経済成長期なら多少はその言い分も分かるのですが、現在も東京に人口が集中して増加しているのは確かなもののその増加量は以前と比べて大分緩やかになりつつあり、なおかつ今後は少子化によって人口減少も視野に入ってきているのでそこまでして新たな水源を確保する理由があるとは私は思いません。
そして今回私が非常に疑問に感じた二番目の治水目的についてですが、これについてはテレビなどでも情報を入手していた通りで、なんと八ッ場ダムが目標とする治水レベルというのは1947年に発生して大規模な被害を残した、カスリーン台風だと国土交通省も主張しております。
このカスリーン台風についてはリンクを貼ったウィキペディアの記事を読んでもらえば分かりますが、確かにその災害規模は文字通り前代未聞ではありますが、このレベルまでの対策を行うとなると私は疑問です。というのも国土交通省はこのカスリーン台風を「100年に三回起こる可能性のある災害」としておりますが、それだったら1947年から60年以上経つ現在においてあと二回くらい同じのがあってもいい気がしますがそれは置いといて、それくらいなまでに頻度が少ない超規模災害に備える必要があるのかということです。
私は本来、自然災害というものは防ぎようのないもので、対策すべてを否定するつもりはありませんが災害被害をすべてなくすことは不可能だと考えております。ましてやこのカスリーン台風級ともなると100年に三回程度発生する可能性で、いくら規模が大きいからといってそんな低い可能性の災害まで高い費用をかけて対策を行う必要があるのかと疑問に思います。それであれば必要最低限な対策を施した上で、今後そのような大規模災害が起こりうる予測が立った時に住人を素早く避難、保護できる態勢を整えることの方がずっと建設的で、費用的にもずっと安上がりなのではないかと思います。
こうして私なりに建設目的やその成り立ちを整理すると、やはりこの八ッ場ダムを差し迫って建設する必要はないのではないかと感じます。こうした点に加え、予算面とダム建設による弊害についても考えると、あくまで素人の立場ではありますがやはり建設には反対せざるを得ません。すこし長くなったので、予算とダム建設による弊害は次回の「八ッ場ダム建設問題に対する私の意見 その二」の記事に回します。
2009年9月24日木曜日
鳩山首相の訪米報道の違い
ちょっと準備しているネタがあるので、今日もまた手軽な記事でまとめておきます。
現在も訪米中の鳩山首相ですが、先日のオバマ大統領との日米首脳会談について各紙それぞれ記事を書いているのですが、どうも読んでいて産経だけ妙に浮いた記事を書いているように感じました。そういうわけで各紙の特徴と産経の主張を比較しながら紹介いたします。
まずどの新聞にも共通している報道内容として、鳩山首相とオバマ大統領は北朝鮮の核問題、核軍縮、環境問題について一致した見解を示し互いに日米同盟の強化に取り組むことを表明したものの、現在日米間で懸案となっている沖縄のグアムへの基地移転問題などについてはほとんど言及がなかったと、まるで判を押したかのように前段は同じような文章の組み立てで報じられています。恐らく共同通信の記事をみんなちょこっといじったんだろうな。
こうした各紙共通した前段の記事内容の上で朝日新聞は後段にどんなことを書いたかといえば、やはりお家柄というべきか核軍縮についての記述が多いような気がします。一応これ以外にもアフガニスタンの復興支援などについても言及がなされており、優等生らしくオーソドックスな報道内容に見えます。
なお朝日はこの記事以外にもこの会談を聞いた被爆者の方のメッセージを載せた記事も書いており、この辺の扱いは他紙を圧倒して多い気がします。
それに対して読売新聞は、朝日新聞以上にシンプルで会談の骨子をさらりと流して書いております。もっとも読売に限らず日本国内でもあまりこの日米首脳会談は盛り上がっておらず、むしろ前日の日中首脳会談のほうが扱いが大きかったことを考えるとこの読売の扱いも多少はしょうがない気もします。
では毎日はどんな風かというと、こういうと元も子もありませんが読売と同じくシンプルに報じています。オリジナルティーがある場所はといえばせいぜい、「この会談には岡田克也外相、クリントン国務長官が同席した。」と書いてあるくらいです。あと不思議なことにほとんど読売と同じ内容なのですが、こころなしか毎日の記事は読んでてつまらなく感じます。今に始まったことじゃないけど。
そして今回私がちょっと不審に感じた産経の記事が、これです。
・気まずさ漂う日米首脳会談、鳩山首相は「基地」「対等」一切触れず
題を見て分かるとおり、他紙が割りと事務的な報道をしているのに対して産経のみが今回の会談をやや否定的に報じております。具体的な内容はリンクを貼った記事を読んでもらえれば分かるのですが、やはり基地移転問題などについて言及がなかったことを問題視し、「忍耐のオバマ政権がいつ態度を硬化させるかはわからない」とまで書く力の入れ込みようです。オバマ政権が忍耐を持っているなんて初めて知ったけど。
これだけだったら私もあまり気にしなかったのですが、この日米首脳会談の報道とともに出てきたのがこの今日の産経抄です。この産経の社説は読んでもらえれば分かるとおりに、鳩山首相の外交デビューについて、「そんなに甘くないぞ」と言った論調で書かれています。槍玉に挙げられているのはあの「CO2を25%削減目標」で、国内の公約みたいにやれなかったで済まないぞと主張しているのですが、私はというとどうせ他の国、特に欧州諸国もCO2の削減にそれほど熱心じゃないんだから、実際にできなくとも表向きは「やってみようかな」という態度を示しただけでよかったんじゃないかと、それほど問題視しておりません。お金さえ無駄にばら撒かなければね。
それにしても先の記事と比較しても、産経は鳩山政権がそんなに気に入らないのかとばかりに何か否定的な記事ばかり書いているような気がします。これに限らずロシア外交の記事でもやっかみに近い内容を書いているし、外交を行うにしては政権が出来たばかりで不安だなどと書いていますが、私からすると麻生前首相の外交の方が見ていてずっと危なっかしく思えてなりませんでした。
少なくとも今回の訪米で鳩山政権は日米同盟に否定的という見方は現地米国で多少は払拭できたので、その点だけはまだ評価してもいいと思います。もっとも東シナ海のガス田問題は桜井よしこ氏の言う通りに中国のペースに乗るのは非常に危険なので、安易に妥協すべきではないというのは私も見ていて思いましたが。
最後にロシア外交について、なんでもロシア本国においてプーチン首相とメドベージェフ大統領の間に隙間風が漂い、二頭政治に変化が起き始めているという噂を聞きます。今回鳩山首相はメドベージェフ大統領と会談を行いましたが、先の事実の真偽をしっかりと確かめた上で交渉相手をしっかりと選ぶことがこれからロシアとの間では重要になってくるかもしれません。
現在も訪米中の鳩山首相ですが、先日のオバマ大統領との日米首脳会談について各紙それぞれ記事を書いているのですが、どうも読んでいて産経だけ妙に浮いた記事を書いているように感じました。そういうわけで各紙の特徴と産経の主張を比較しながら紹介いたします。
まずどの新聞にも共通している報道内容として、鳩山首相とオバマ大統領は北朝鮮の核問題、核軍縮、環境問題について一致した見解を示し互いに日米同盟の強化に取り組むことを表明したものの、現在日米間で懸案となっている沖縄のグアムへの基地移転問題などについてはほとんど言及がなかったと、まるで判を押したかのように前段は同じような文章の組み立てで報じられています。恐らく共同通信の記事をみんなちょこっといじったんだろうな。
こうした各紙共通した前段の記事内容の上で朝日新聞は後段にどんなことを書いたかといえば、やはりお家柄というべきか核軍縮についての記述が多いような気がします。一応これ以外にもアフガニスタンの復興支援などについても言及がなされており、優等生らしくオーソドックスな報道内容に見えます。
なお朝日はこの記事以外にもこの会談を聞いた被爆者の方のメッセージを載せた記事も書いており、この辺の扱いは他紙を圧倒して多い気がします。
それに対して読売新聞は、朝日新聞以上にシンプルで会談の骨子をさらりと流して書いております。もっとも読売に限らず日本国内でもあまりこの日米首脳会談は盛り上がっておらず、むしろ前日の日中首脳会談のほうが扱いが大きかったことを考えるとこの読売の扱いも多少はしょうがない気もします。
では毎日はどんな風かというと、こういうと元も子もありませんが読売と同じくシンプルに報じています。オリジナルティーがある場所はといえばせいぜい、「この会談には岡田克也外相、クリントン国務長官が同席した。」と書いてあるくらいです。あと不思議なことにほとんど読売と同じ内容なのですが、こころなしか毎日の記事は読んでてつまらなく感じます。今に始まったことじゃないけど。
そして今回私がちょっと不審に感じた産経の記事が、これです。
・気まずさ漂う日米首脳会談、鳩山首相は「基地」「対等」一切触れず
題を見て分かるとおり、他紙が割りと事務的な報道をしているのに対して産経のみが今回の会談をやや否定的に報じております。具体的な内容はリンクを貼った記事を読んでもらえれば分かるのですが、やはり基地移転問題などについて言及がなかったことを問題視し、「忍耐のオバマ政権がいつ態度を硬化させるかはわからない」とまで書く力の入れ込みようです。オバマ政権が忍耐を持っているなんて初めて知ったけど。
これだけだったら私もあまり気にしなかったのですが、この日米首脳会談の報道とともに出てきたのがこの今日の産経抄です。この産経の社説は読んでもらえれば分かるとおりに、鳩山首相の外交デビューについて、「そんなに甘くないぞ」と言った論調で書かれています。槍玉に挙げられているのはあの「CO2を25%削減目標」で、国内の公約みたいにやれなかったで済まないぞと主張しているのですが、私はというとどうせ他の国、特に欧州諸国もCO2の削減にそれほど熱心じゃないんだから、実際にできなくとも表向きは「やってみようかな」という態度を示しただけでよかったんじゃないかと、それほど問題視しておりません。お金さえ無駄にばら撒かなければね。
それにしても先の記事と比較しても、産経は鳩山政権がそんなに気に入らないのかとばかりに何か否定的な記事ばかり書いているような気がします。これに限らずロシア外交の記事でもやっかみに近い内容を書いているし、外交を行うにしては政権が出来たばかりで不安だなどと書いていますが、私からすると麻生前首相の外交の方が見ていてずっと危なっかしく思えてなりませんでした。
少なくとも今回の訪米で鳩山政権は日米同盟に否定的という見方は現地米国で多少は払拭できたので、その点だけはまだ評価してもいいと思います。もっとも東シナ海のガス田問題は桜井よしこ氏の言う通りに中国のペースに乗るのは非常に危険なので、安易に妥協すべきではないというのは私も見ていて思いましたが。
最後にロシア外交について、なんでもロシア本国においてプーチン首相とメドベージェフ大統領の間に隙間風が漂い、二頭政治に変化が起き始めているという噂を聞きます。今回鳩山首相はメドベージェフ大統領と会談を行いましたが、先の事実の真偽をしっかりと確かめた上で交渉相手をしっかりと選ぶことがこれからロシアとの間では重要になってくるかもしれません。
2009年9月23日水曜日
猛将列伝~趙匡胤
中国史と来ると日本人は「史記」、「三国志」の二大史書の影響からか、春秋戦国時代から後漢末期まではよく知っている方がおられるものの、その後の晋朝から五胡十六国時代以降となると途端に認知度が低くなってしまいます。ただこの時代以後の中国史を扱っている歴史書はないわけではなく、ポピュラーなものとして「十八史略」という中国史入門者用の歴史書があります。
この十八史略はその名の通りにそれ以前に成立した史記や三国志を含む十八の歴史書を簡単にまとめた本で、十二世紀までの中国史を一通り扱っている史書です。私が読んだのは陳瞬臣氏の「小説十八史略」という、陳氏のオリジナルな記述が多くて本編とはやや異なる内容の本なのですが、それでもこの本を読んだことによって三国時代にとどまらず幅広く中国史を学ぶいいきっかけとなりました。
そんな小説十八史略の中で私が一際目を引かれた人物というのが、本日ご紹介する趙匡胤です。この人物は十世紀に成立した宋朝の初代皇帝で、通称は「太祖」とされています。この趙匡胤は宋朝の前の後周朝の将軍だったのですが、英邁な君主であった世宗の死後、跡を継ぐ恭帝がわずか七歳で即位したことに不安を感じた軍人らに勝手に祭り上げられる形で、趙匡胤本人は渋々と皇帝に即位したと言われております。もっともこの即位劇には裏があり、実際にはかねてから趙匡胤が即位するよう軍内部で打ち合わせられて行ったとも言われており、恐らくはこちらの説の方が正しいと私も考えております。
ただこの趙匡胤がほかの皇位簒奪者と大きく違っていたのは、皇位を奪った恭帝を殺さず、その後彼ら元皇族の一族を手厚く保護した点にあります。三国志における献帝よろしく、皇位を奪われた皇帝とその一族の末路は惨めな例が多いのですが、趙匡胤はそういった例を踏まなかったためにこの点において後世の歴史家からも高く評価されております。
またこれ以外にも、元々軍属出身であったにもかかわらず趙匡胤は皇帝に即位するや、その後一貫して軍部勢力を解体していき、現代的に言うならシビリアンコントロール、当時の言葉で言うなら官僚による文民統制を国の形として整えていきました。実際にその後、それまで軍閥同士が激しく争った戦乱極まりない五大十国時代の騒乱は徐々に収まり、科挙を経て任官された官僚らが大いに活躍する安定した時代へと移って行きました。
もっともこの文治主義はなんでもかんでもいい結果を生んだわけではなく、軍隊が弱体化したために宋朝はその後異民族の侵入に始終悩まされ、最終的には後の満州族である女真族によって華北地域を追われることで崩壊するに至りました。とはいえ国内の騒乱を終えただけでなく、現在でも宋朝時代の絵画、書画が最も評価されるまでに安定した時代の礎を築いたことは誰もが高く評価しております。
そんな趙匡胤ですが、彼の政治姿勢とともに優れた見識があったと思わせられるあるエピソードが十八史略に載せられております。
宋朝の皇帝は即位する際、皇帝となる者以外は決して見てはならない、創業者である趙匡胤が残した宮中にある碑文を読むことが慣わしでした。この碑文は宋朝の時代にはその存在自体が秘匿されていたそうですが、先ほど述べた女真族が華北に侵入して征服した際に宮殿に入ったことでその存在が明るみになりました。その碑文には一体何が書かれていたかというと、大まかな意味でこんなことが書かれていたそうです。
「発言の門で、官僚を処刑してはならない」
あくまで士大夫である官僚に限りますが、これは言うなれば言論の自由を冒すなという意味です。実際に宋朝においては官僚らがそれぞれの持論を好き勝手に言いたい放題しており、新法旧法闘争において従来の法律を抜本的に改めるべきだと主張した王安石も一時左遷こそされども処刑されるまでには至らず、その後中央官界に復帰まで果たしております。
この言論の自由というのは案外言うは易く、守るは難い代物で、近い時代の日本においても「核保有論」や「憲法改正論」はそれを実行するかどうかは別においても、議論することすら全く許されていませんでした。最近ではこうした点も議論した上で非核を世界に訴えるべきだと大分タブー性は薄まってきましたが、それでもまだ「天皇制廃止論」ともなると口火を切るだけでいろいろと厄介なことになるのは目に見えます。
それだけに宋朝において言論の自由を守れと遺訓を残した趙匡胤の先見性は鋭く、世界史にちょこっと名前が出てくるだけにしておくにはもったいないと私に思うわけです。
この十八史略はその名の通りにそれ以前に成立した史記や三国志を含む十八の歴史書を簡単にまとめた本で、十二世紀までの中国史を一通り扱っている史書です。私が読んだのは陳瞬臣氏の「小説十八史略」という、陳氏のオリジナルな記述が多くて本編とはやや異なる内容の本なのですが、それでもこの本を読んだことによって三国時代にとどまらず幅広く中国史を学ぶいいきっかけとなりました。
そんな小説十八史略の中で私が一際目を引かれた人物というのが、本日ご紹介する趙匡胤です。この人物は十世紀に成立した宋朝の初代皇帝で、通称は「太祖」とされています。この趙匡胤は宋朝の前の後周朝の将軍だったのですが、英邁な君主であった世宗の死後、跡を継ぐ恭帝がわずか七歳で即位したことに不安を感じた軍人らに勝手に祭り上げられる形で、趙匡胤本人は渋々と皇帝に即位したと言われております。もっともこの即位劇には裏があり、実際にはかねてから趙匡胤が即位するよう軍内部で打ち合わせられて行ったとも言われており、恐らくはこちらの説の方が正しいと私も考えております。
ただこの趙匡胤がほかの皇位簒奪者と大きく違っていたのは、皇位を奪った恭帝を殺さず、その後彼ら元皇族の一族を手厚く保護した点にあります。三国志における献帝よろしく、皇位を奪われた皇帝とその一族の末路は惨めな例が多いのですが、趙匡胤はそういった例を踏まなかったためにこの点において後世の歴史家からも高く評価されております。
またこれ以外にも、元々軍属出身であったにもかかわらず趙匡胤は皇帝に即位するや、その後一貫して軍部勢力を解体していき、現代的に言うならシビリアンコントロール、当時の言葉で言うなら官僚による文民統制を国の形として整えていきました。実際にその後、それまで軍閥同士が激しく争った戦乱極まりない五大十国時代の騒乱は徐々に収まり、科挙を経て任官された官僚らが大いに活躍する安定した時代へと移って行きました。
もっともこの文治主義はなんでもかんでもいい結果を生んだわけではなく、軍隊が弱体化したために宋朝はその後異民族の侵入に始終悩まされ、最終的には後の満州族である女真族によって華北地域を追われることで崩壊するに至りました。とはいえ国内の騒乱を終えただけでなく、現在でも宋朝時代の絵画、書画が最も評価されるまでに安定した時代の礎を築いたことは誰もが高く評価しております。
そんな趙匡胤ですが、彼の政治姿勢とともに優れた見識があったと思わせられるあるエピソードが十八史略に載せられております。
宋朝の皇帝は即位する際、皇帝となる者以外は決して見てはならない、創業者である趙匡胤が残した宮中にある碑文を読むことが慣わしでした。この碑文は宋朝の時代にはその存在自体が秘匿されていたそうですが、先ほど述べた女真族が華北に侵入して征服した際に宮殿に入ったことでその存在が明るみになりました。その碑文には一体何が書かれていたかというと、大まかな意味でこんなことが書かれていたそうです。
「発言の門で、官僚を処刑してはならない」
あくまで士大夫である官僚に限りますが、これは言うなれば言論の自由を冒すなという意味です。実際に宋朝においては官僚らがそれぞれの持論を好き勝手に言いたい放題しており、新法旧法闘争において従来の法律を抜本的に改めるべきだと主張した王安石も一時左遷こそされども処刑されるまでには至らず、その後中央官界に復帰まで果たしております。
この言論の自由というのは案外言うは易く、守るは難い代物で、近い時代の日本においても「核保有論」や「憲法改正論」はそれを実行するかどうかは別においても、議論することすら全く許されていませんでした。最近ではこうした点も議論した上で非核を世界に訴えるべきだと大分タブー性は薄まってきましたが、それでもまだ「天皇制廃止論」ともなると口火を切るだけでいろいろと厄介なことになるのは目に見えます。
それだけに宋朝において言論の自由を守れと遺訓を残した趙匡胤の先見性は鋭く、世界史にちょこっと名前が出てくるだけにしておくにはもったいないと私に思うわけです。
2009年9月22日火曜日
最近のニュース番組の編成について
最近私がよく思うことで、通常のニュース番組とワイドショーの境界が段々と見えなくなってきたように思います。ワイドショーというのは言うまでもなく昼間の時間帯に放送される主婦向けのニュース番組で、取り上げられる内容は芸能人のゴシップや美味しいもの、旅行特集ばかりで、世の中に何かを訴えるという報道姿勢というよりは視聴者の求める内容に沿って報道されます。
もちろんそういう内容ですので、「ワイドショー的な~」と言えば言葉の向けられる先に負の意味がこめられており、対象を馬鹿にするような言い方となります。
ではそういったワイドショーと対極の位置にある報道番組というのは、一体どんな番組なのでしょうか。
まず一番硬派であるといえばそれはやっぱりNHKニュースでしょう。女子アナはほとんど出てこずに正面のアナウンサーが一人で番組を淡々と進行する様はシンプルそのもので、そうした変わらない姿勢が受けているのか週間平均視聴率ランキングでは七時台のNHKニュースがほぼ毎週トップを取っております。
そんなNHKニュースに対抗する民放の、主に六時台のニュースは現在どんなものかというと、こう言っては何ですがこのところはワイドショーと呼ばれる報道番組と変わらないのではと思います。こんな風に私が思うようになったきっかけというのは、察しの良い方ならすぐに想像されるかもしれませんが、酒井法子容疑者の事件からです。
この酒井法子容疑者の事件は現在進行形で何かしら動きがあるたびにどの局でもトップニュースとして取り扱われ、その報道、解説にも大幅な時間が割かれております。確かにこの事件は視聴者の気を引くニュースであることは私も認めますが、同時期のニュースの価値で言うなら自民党総裁選の行方や、失業問題などといったニュースの方が報道する価値が高いように私は思います。
そして何より、これは地方局については必ずしもそうではないのですが、このところの東京にあるキー局は何かしら長い取材を経て得た事実の報道で世の中をあっと言わせ、世論に大きな波を作ることがほとんどありません。
このようなニュースとして近年で私が高く評価しているのは、関西にある毎日放送が大阪市職員の出勤時間を長期間取材して「中抜け」や「実体のない残業代」を暴いた例で、その後全国各地の自治体の裏金や違法な労働実態が次々と取り上げられるきっかけとなりました。
しかるに近年の東京キー局のニュース番組においては、六時二十分を越えた辺りからはワイドショーと比べても何の遜色もない芸能人のゴシップや美味しいもの、旅行特集ばかりが放送され、言ってしまえば情報を何も加工せず右から左に流すような報道ばかりしかありません。
このような傾向は各局が持っている「報道ステーション」や「ニュースZERO」などの夜間帯のニュースについても同様で、私の結論を言えばもはや民放においては「ニュース番組」と「ワイドショー」の違いはないと考えております。むしろ最近はワイドショーに評論家が多く参加して社会問題などについてもよく議論するので、ニュース番組よりも内容があったりすることもありますが。
私はもう過去の話だとして今更気にしてはいませんが、戦時中に朝日新聞などを初めとしたすべての民間報道機関が日本軍の戦績を過大に誇張して報道し、誰もあの戦争の是非や行く末を問わなかったことが非常に良くなかったとよく言われております。しかし当時の記録によると、満州事変直後に朝日新聞が反戦記事を書いたところ、三重県のシェアがそれまでの50%くらいから3%に激減したのを受けて急激に朝日は方向転換をしたと言われており、言わば当時の報道機関は読者の要求に応える形で好戦的な報道姿勢に変わって行ったそうです。
本来ジャーナリズムというのは、たとえそれが読者や視聴者が求める情報だとしても価値のないもの、誤ったものは報道せず、逆にそれが読者や視聴者が求めていない情報だとしても価値のあるもの、正しいものを報道しなければならないという前提があります。無論、中にはそれが正しいかどうかはっきりしない情報もありますが、その場合には報道するに当たりどのような信念があるかどうかで決めるべきでしょう。
まだまだ報道しなければならない情報や事実を差し置いて、視聴率競争にかまける形で視聴者におもねる情報ばかり報道する現在のニュース番組の是非を、もうすこし日本は議論するべきじゃないでしょうか。
もちろんそういう内容ですので、「ワイドショー的な~」と言えば言葉の向けられる先に負の意味がこめられており、対象を馬鹿にするような言い方となります。
ではそういったワイドショーと対極の位置にある報道番組というのは、一体どんな番組なのでしょうか。
まず一番硬派であるといえばそれはやっぱりNHKニュースでしょう。女子アナはほとんど出てこずに正面のアナウンサーが一人で番組を淡々と進行する様はシンプルそのもので、そうした変わらない姿勢が受けているのか週間平均視聴率ランキングでは七時台のNHKニュースがほぼ毎週トップを取っております。
そんなNHKニュースに対抗する民放の、主に六時台のニュースは現在どんなものかというと、こう言っては何ですがこのところはワイドショーと呼ばれる報道番組と変わらないのではと思います。こんな風に私が思うようになったきっかけというのは、察しの良い方ならすぐに想像されるかもしれませんが、酒井法子容疑者の事件からです。
この酒井法子容疑者の事件は現在進行形で何かしら動きがあるたびにどの局でもトップニュースとして取り扱われ、その報道、解説にも大幅な時間が割かれております。確かにこの事件は視聴者の気を引くニュースであることは私も認めますが、同時期のニュースの価値で言うなら自民党総裁選の行方や、失業問題などといったニュースの方が報道する価値が高いように私は思います。
そして何より、これは地方局については必ずしもそうではないのですが、このところの東京にあるキー局は何かしら長い取材を経て得た事実の報道で世の中をあっと言わせ、世論に大きな波を作ることがほとんどありません。
このようなニュースとして近年で私が高く評価しているのは、関西にある毎日放送が大阪市職員の出勤時間を長期間取材して「中抜け」や「実体のない残業代」を暴いた例で、その後全国各地の自治体の裏金や違法な労働実態が次々と取り上げられるきっかけとなりました。
しかるに近年の東京キー局のニュース番組においては、六時二十分を越えた辺りからはワイドショーと比べても何の遜色もない芸能人のゴシップや美味しいもの、旅行特集ばかりが放送され、言ってしまえば情報を何も加工せず右から左に流すような報道ばかりしかありません。
このような傾向は各局が持っている「報道ステーション」や「ニュースZERO」などの夜間帯のニュースについても同様で、私の結論を言えばもはや民放においては「ニュース番組」と「ワイドショー」の違いはないと考えております。むしろ最近はワイドショーに評論家が多く参加して社会問題などについてもよく議論するので、ニュース番組よりも内容があったりすることもありますが。
私はもう過去の話だとして今更気にしてはいませんが、戦時中に朝日新聞などを初めとしたすべての民間報道機関が日本軍の戦績を過大に誇張して報道し、誰もあの戦争の是非や行く末を問わなかったことが非常に良くなかったとよく言われております。しかし当時の記録によると、満州事変直後に朝日新聞が反戦記事を書いたところ、三重県のシェアがそれまでの50%くらいから3%に激減したのを受けて急激に朝日は方向転換をしたと言われており、言わば当時の報道機関は読者の要求に応える形で好戦的な報道姿勢に変わって行ったそうです。
本来ジャーナリズムというのは、たとえそれが読者や視聴者が求める情報だとしても価値のないもの、誤ったものは報道せず、逆にそれが読者や視聴者が求めていない情報だとしても価値のあるもの、正しいものを報道しなければならないという前提があります。無論、中にはそれが正しいかどうかはっきりしない情報もありますが、その場合には報道するに当たりどのような信念があるかどうかで決めるべきでしょう。
まだまだ報道しなければならない情報や事実を差し置いて、視聴率競争にかまける形で視聴者におもねる情報ばかり報道する現在のニュース番組の是非を、もうすこし日本は議論するべきじゃないでしょうか。
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