「ゲオルギー・ジューコフって知ってる? (´・ω・)」
「知りませんけど、なんか強そうな名前っすねヽ(・∀・ )ノ」
という素直な回答が返って来ました。実際に強かった人だから名前だけの印象も馬鹿にならないものです。
では一体ジューコフはどんな人かと言うと、二次大戦におけるソ連軍元帥で、実質的にナチスドイツを粉砕した軍事指揮官です。
・ゲオルギー・ジューコフ(Wikipedia)
ジューコフは1896年に帝政ロシアのモスクワ近郊に生まれますが、生家は貧しく十分な教育も受けられないままモスクワで労働者となります。しかし19歳の頃、第一次大戦で徴兵されたところ一兵士として勇敢な活躍が認められ下士官となり、続くロシア革命で共産党率いる赤軍に加入するや軍功を重ね、昇進を重ねて軍団長の地位にまで上ります。この出世の背景には貧困階層出身という彼の経歴も影響したと言われていますが、階級を否定する共産党内で階層がきっかけに昇進するというのもつくづくな気がします。
その後、時代はレーニンからスターリンの時代へと移り、1930年代後半にはソ連内で軍属の大粛清が起こったもののジューコフはこの禍に巻き込まれず、極東地域の司令官に就任します。そこでは、彼の転機となるハルハ河が待っていました。
個人的にこの「ハルハ河」という音が好きなのでよく多用するのですが、歴史に詳しい人であればこの言葉の意味するところをすぐに思い浮かべられることでしょう。このハルハ河というのは長いれ式上で中国とモンゴルの国境線に使われた河のことで、この境界線を巡り1939年に勃発したのが俗にいうノモンハン事件、日本とソ連が干戈を交えた戦争です。
<ノモンハン事件>
満州国を設立した日本とソ連の間ではかねてよりこのハルハ河周辺の国境線をめぐり小規模な紛争が起こっておりましたが、両者ともに強い一撃で以って国境線を有利に画定させたいという意図の下、正式な宣戦布告なしに小競り合いから大規模な戦争へと発展したのがこのノモンハン事件です。この戦闘で日本の関東軍はかつての満州事変の勢いよろしく、拡大を望まない軍中央部の意向を無視してぐいぐいと進軍していき序盤はソ連軍を圧倒してハルハ河の対岸にまで追い込みますが、そこからのジューコフ指揮による反撃は文字通り戦況をひっくり返すようなものでした。
かねてからジューコフは軍隊の機械化、簡単に言えばこれまで歩兵が中心となってトラックや戦車を随行させるという形態から、戦車やトラックに歩兵を随行させるというような、兵士から兵器を中心とした軍隊改革を主張していました。ただノモンハン事件勃発当初においてこうした機械化部隊はまだ実現してはいなかったものの、序盤の日本軍の攻勢を受けたジューコフはひたすら防戦に徹する一方、反撃に必要な兵士や資材を次々と戦場に送り込んで準備するとともに兵站線の拡充に努め反撃の機会を待ちます。
勘のいい人ならわかるかもしれませんが、こうしたジューコフの戦略は後に二次大戦初期にナチスドイツが実行した「電撃戦」における軍隊思想そのものです。機械化により軍の攻撃力、進軍速度をかつてないほど高めた上で、進軍を支えるための補給の拡充に努めるというプランをドイツに先んじて部分的にジューコフは行っていました。後のポーランド進撃でこの機械化部隊の有用性は証明されることとなりますが、目の前で見ていたこれを見ていた日本軍はどうやら何も学ばなかったようです。
話しはノモンハンに戻りますが、反撃に必要な軍備と兵員を揃えたと判断したジューコフは一気に反転攻勢へ出て、まずは左右から一気に進軍すると残った中央を覆い込むかのように包囲して日本軍を撃滅することに成功します。これにより日本側は一個師団が確か壊滅した上に大幅な後退を強いられ、国境線交渉においてほぼソ連側の言い分を飲まざるを得なくなりました。
このハルハ河の一戦を以ってもジューコフは名将と呼ぶに十分ですが、彼がその名を真に歴史へ刻み込んだの二次大戦における独ソ戦の、スターリングラード包囲戦でしょう。
<スターリングラード包囲戦>
独ソ戦序盤、ナチスドイツが好調に進軍してくる中でレニングラードの防衛司令官だったジューコフはこの地でドイツ軍の進撃をついに止め、続くモスクワ防衛戦にも部隊を派遣してこの首都の防衛にも成功して戦争を膠着状態へ持ち込みます。
続いてジューコフが任されたのはスターリングラードを巡る戦いでした。こちらも歴史に詳しい方ならわかるでしょうが二次大戦における最大の戦闘で、「小屋一個を奪い合った」とまで称されるほどの熾烈な戦場で、欧州における二次大戦の分水嶺となったと言っても過言ではない戦いです。
スターリングラードでは同じ都市の中でドイツ軍、ソ連軍が互いに入り込み双方で都市の完全占領を目指して戦い合う中、その周辺にも双方の大部隊が山脈の様に累々と対峙し合う状態でした。こうした状況でジューコフが採用した戦術というのはかつてノモンハンと同じく、といっても規模は半端なくこちらが大きいのですが、都市丸ごとの包囲を狙う「ウラヌス作戦」でした。
この作戦の外相はスターリングラードを挟んで西側に陣取ったまま戦線が伸びきっていたドイツ軍に対し、比較的戦力の手薄なドイツの同盟軍であるルーマニア軍のいる南側から打ち崩し、そのまま北上することでスターリングラードを丸ごと包囲するという作戦で、この作戦においてもジューコフは何度も延期に延期を重ね準備を整えると、一気呵成に進軍してのけて反撃するドイツ軍を跳ね返しながら東西40km、南北50kmのエリアに20万人以上のドイツ軍、ルーマニア軍を閉じ込めることに成功します。ドイツ軍も最初は閉じ込められた部隊に空輸で補給を行いましたがとてもじゃありませんが間に合わず、最終的に閉じ込められた部隊はなすすべもなく降伏します。もっとも、降伏して捕虜となり、生きて帰って来れたのは一割もいなかったそうですが。
その後、ジューコフは元帥に昇進して独ソ戦を指揮し続け、最終的にベルリンでドイツ側から降伏文書を受け取り占領軍最高司令官にも就任しています。戦後はその活躍ぶりからぶっちぎりの人気でスターリンからも警戒されますが、暗殺されることなく軍歴を継続し、スターリンの死後は彼の懐刀で秘密警察長官のベリヤを逮捕、処刑するなどソ連の安定化に努め、1974年に天寿を全うしています。
ジューコフの戦争指揮は早くから機械化部隊の構想を持つという先進性もさることながら、「必要な兵力、必要な装備を整え必要な時期に叩く」という原則を徹底している点にあります。相手側の兵力などをきちんと分析した上で自分に必要な軍備はどの程度か、こうした点をきちんと把握して確実に勝てるという体勢になってから始めて本格的に戦うという、どちらかといえば慎重な戦法を取る人物だと見ています。
ただ彼の場合、自軍と敵軍の比較に当たって全く情け容赦がないというか、自軍の犠牲を全く恐れずに決断を下すという点がほかの指揮官と大きく違います。彼自身の回想録でも日本軍やドイツ軍と比べてソ連軍兵士の質は一段と劣るということは把握しており、敵兵一人を殺すのにソ連兵は二、三人、下手すれば五人くらい必要だという計算でもって出撃させ、案の定、勝つには勝つものの戦死傷者数では実はどの戦いでもソ連軍の方が多かったりします。
ノモンハン事件についても近年明らかになった資料によると戦死傷者で言えばソ連軍の方が日本軍より多く、また独ソ戦においてはソ連軍の死者はドイツ軍の約五倍という、一見するとどっちが勝利したのかわからないくらい戦死しています。
ただ、それでもどちらの戦いでも勝ったのはソ連です。戦死傷者数の多寡は勝利には関係なく、戦略的な勝利目標をどちらが達成したのかといえばこちらも間違いなくソ連です。そういう意味でジューコフはソ連が圧倒的に物量で優れているということを把握した上で、その物量を惜しみなく使って戦略目標の達成を愚直に追いかけたと言えるでしょう。
これと真逆なのは言ってて恥ずかしいですが日本軍で、相手兵力の分析もしっかりしていないばかりか戦略的にほぼ無意味と思える島の占領をした挙句、守る必要もないのに必死で防戦を続けて兵力をガリガリ削った上、後になって追加の防衛兵力を小出しで投入し、後半に至っては輸送する途中で船ごと撃破されたりと、何がしたくて戦争しているんだと素人ですら疑問に思う戦い方をしています。
もっとも、戦争には強いですがジューコフ将軍の下で戦いたいかとなるとこれまた頭の悩ませどころです。聞いたところによると1920~1922年生まれのソ連男性の戦後直後における生存率は3%を切っていた(ほぼ全員が勲章持ち)そうですし、実際敵より味方の方を多く殺している将軍だしなぁ。