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2008年12月26日金曜日

多様性を壊す存在

 私がよく人にする話に、アッシリア帝国とアケメネス朝ペルシアの対比があります。
 どちらも古代オリエント地方を統一した王国ですが、アッシリアは異民族に対して圧政を敷いて統一後まもなく反乱を招いて崩壊した王国で、後者は逆に異民族に対して融和的な政策を取り自治も認め、マケドニアのアレクサンドロス大王が責めてくるまで数百年もの長い間維持した王国です。

 この話で私が何を言いたいのかというと、歴史的に民族同士の異文化や違いに対して寛容な社会ほど安定し、長持ちするという事実です。何もこの例に限らず歴史的に国民や異民族、異宗教に対して圧政や弾圧を行った君主(ローマのネロや秦の始皇帝など)は批判され、逆に宥和政策を取った君主(アイユーブ朝のサラディンなど)は高く評価される傾向があり、社会的にも後者の宥和政策を取る国の方が反乱も少なく、また治世と呼ばれるほど安定した社会を築いていることが多いです。

 このブログでも私はあれこれ社会問題などをよく取り上げていますが私がそうして訴えていく中で社会や読者に何を一番求めているのかというとずばり、「社会を安定させることへの重要性」で、私は安定した社会において初めて人間は自身の幸福を追求、実現できるものだと考えております。
 ちょっと話が抽象的なのでいくつか例を出すと、たとえば戦争や紛争、法律の形骸化が起きてしまえば大抵の人間は人生設計を行うことが出来なくなります。戦争に至っては、学校で勉強して好きな職業につきたいと若者が願っても男性の場合は無理やり徴兵されたり、女性でもいろいろな面で生活で苦労を強いられることになり、このように社会が安定しなければ人間は自らが望む行為を一切実現出来なくなります。まぁぶっちゃけ、社会が安定していることに越した事はないと考えてください。

 では社会をどのように、またはより安定させるにはどうすれればいいかですが、政治や啓蒙活動をしっかり行うのはもとより個人単位でそれを最も大きく左右させるものはといったら私は「慣用性」、つまり自分とは違うものに対してどれだけ許容できるかという腹の太さが一番影響すると考えています。
 根拠は、と言われたら実は結構曖昧で、先ほどの歴史的事実の例くらいしかありません。ただ皆が皆して似たような人間ばかりで構成される社会に対して、いろんな人間がいろんな意見を持ち合い。共有するといった社会の方が傍目にも活力があるように思え、またそんな社会ほど幸せそうな気がします。

 ちょっと力の入った説明を行いましたが、要するに私は様々な意見、文化を持ついろんな種類の人間が相互に認め合って協調していける社会を理想としており、その理想の社会のことを「多様性のある社会」と称して日々周囲の人間へとその社会の有用性と実現方法の啓蒙活動を行っております。

 この「多様性のある社会」に何故先ほどの「慣用性」が関わってくるのかというと、たとえば日本人の感覚からしたら韓国人が食事中に肘を突くのを「無礼だ」とか思うかもしれませんが、韓国人、もしくは韓国の文化からするとそれはごく自然な行為です。こうした差異に対して、「相手は相手なんだし、自分は自分なんだ」と互いに軽く流し、食事中にそれぞれのマナーを認め合っていられることこそ多様性があると言え、相手に対して自分のマナーや文化を押し付けず、逆に許容する慣用性が必要となるからです。
 まぁさすがに、あからさまに周囲に対して実害を生みかねず、社会に対して害しか生まない「生贄」や「報復」といった文化、悪習までは許容する必要はないですが。

 私が何故こんな社会を目指すのかというと、一つには絶対多数の幸福の実現で、もう一つは私自身が周囲とははっきりとわかるくらいに毛色の違う人間ゆえにこれまで様々な面で差別されてきたと認識しており、自分が有利に生きれる社会に実社会を持っていくためと、自分のように変わっているだけで辛い思いをする人間をこれ以上出したくないとの願いから来ています。

 そんな私にとって、今回の記事の題となっている「多様性を壊す人間」というのは不倶戴天の最大の敵であります。
 この多様性を壊す人間というのは具体的にどのような人かというと、単純に言って些細な違いすらも認めず自らの流儀や価値観を他者に強制的に押し付けようとする人間です。たとえば特定の地方や学校の出身者であるだけでほかの人間と差別したり、特に実生活に影響を及ぼすことでもない意見の違いから徹底的に相手を批判したり実力行使を行う人間のことです。
 私の体験だと、高校生の頃の学級会で文化祭に何を出すのかと案を皆で募集していたので私が一つの意見を出すと、「お前なに言ってんだ!」と怒鳴られたことがあります。これなど、意見を決定する段階でもないにもかかわらず他者の考えを否定する典型的な例でしょう。

 細かい根拠までは言いませんが、このような人間こと固定した価値概念を持ち他者の意見や価値観を認めない人間が増えればまず間違いなく多様性は薄まり、非常につまらなくてまた安定性のない社会になると私は確信しています。そのため、相手の価値観や違いを出来るだけ認めろと言っておきながら我ながらやや矛盾したような意見となるのですが、私はこのような人間を可能な限り排除することこそ自分の使命だと考えています。

 ここでようやく前回の記事の話に戻ります。前回の記事で私はしつこく私に自らの入っている宗教に入信しろという元友人に絶交をしたと書きましたが、私は元友人と最後に会った段階で、「彼はきっと、彼の宗教に入信しないでいる私の存在を許容出来ないのだろう」と認識しました。言ってしまえば、彼は彼の信じるものを信じ、私は私で信じるものを信じ続けることが、お互いの付き合いになにも影響を与えるように思えませんし、この程度の相手の価値観を認め合うことはそれほど難しいことではないと思います。
 しかし元友人はそれが出来ませんでした。こんな瑣末な意見や価値観の違いすら認められず、あくまで自己の宗教を相手に押し付けようとする行為はまさに多様性を壊す存在でしかありませんし、会う度に自己の宗教の正当性を怒鳴られ続けて私ももはやこれ以上相容れることは出来ないと感じ、絶交するに至りました。

 私は別に宗教が何でもかんでも悪いというわけではありませんし、勧誘することも宗教の存在理由上からあってしかるべきだと思っています。
 今はどうだかわかりませんが、京都の東本願寺では門の前に大きな看板に、
「バラバラで一緒」
 という文字が長い間書かれており、私の理想はまさにこの通りです。極論を言えば、宗教家にとって何が重要なのかといったら相手の宗教をきちんと認める態度です。相手の宗教を認めた上で自分の宗教ではこんなだが、もしよければやってみないという具合で勧誘が出来ないのであれば、それは相手の価値観を根本から見下した態度ではないかと思います。元友人に私は、それを感じました。

2008年12月25日木曜日

失われた十年とは~その十四、フェミニズム~

 さていよいよ中盤の山場というか、書いてて敵ばかり作りそうなフェミニズムの項目です。結論から言うと、私は失われた十年に当たる90年代こそ日本で最もフェミニズムが強く、また暴走した時代だったと考えています。

 まずこのフェミニズムですが、スタート的にはやはり女性の権利獲得運動から始まりました。今でも活躍なされている田島陽子氏もこの時期からテレビに出るようになり、90年代初頭は男女同権運動の元で女性の権利、地位向上の名目でフェミニズムの正当性が強く叫ばれ、私自身も小学校時代にその辺を強く言い含められた記憶があります。
 誤解しないでほしい点として、私は当時の女性の権利運動は意義深かったと考えています。というのも確か90年ごろですがヨーロッパでテレビコマーシャルの品評会があり、どっかの国が作った明らかに日本人と思しき飛行機の乗客がスチュワーデスにセクハラをする映像のコマーシャルが大賞を取り、日本のどっかの団体がこれに抗議したところ他国から、「いや、実際によくあることじゃないか」と一蹴されたようです。この例のように、当時はよく文物でも描写が書かれていたようにセクハラが日常的に行われていたと私は考えています。そしてもしそうだとしたら、少なくとも私の目の前で現在セクハラが行われなくなっただけ当時の女性運動は実を結んだといっていいでしょう。

 またこれは私の高校時代の女性教師の話ですが、その先生は生徒時代に勉強もよく出来て本人としては京都大学に進学したかったものの、先生の両親が女性は勉強するべきではないという観念の元に結局御茶ノ水女子大に進学させられたという話をしたことがあり、当時と比べて現在では女性でも好きな職業に就けるのだからもっと女子生徒は挑戦をしてほしいという話をしたことがありました。実際に一昔前の女性は職業選択の面で大幅に制限を受けており、現在でも女性は一般的に男性と比べて就職に不利だとは言われておりますが、それでも当時に比べれば随分と前進をしたと言えるでしょう。

 それが何故、最初に私が表現したように暴走するようになったのでしょうか。
 一つは前回の言葉狩りの記事で書いたように、途中からわけのわからず観念的なものに対して言いがかりのような平等の押し付けが行われるようになったからです。この平等の押し付けですが、一番大きく問題となったのは表現上の問題で、作家の筒井康隆などは自身の小説が癲癇患者の差別に当たると言いがかりをつけられ一時断筆宣言を行っております。
 このように一部の障害者、被差別団体が中心になり文物に対して表現規制を訴えてきました。また出版社の側もこのような社会的批判を恐れ、自主規制の名の元で様々な表現に対して封印を行うという事例も数多く報告されています。

 ここでちょっと注意してもらいたいのは、先ほど一部の障害者、被差別団体と私は表現しましたが、私の見方だとこれらの団体の多くは真っ当に活動を行っていると思いますが、やはり中には自分たちが差別の被害者であることを錦の御旗のようにして不当な要求を行ってきた団体も少なくありません。一例を上げると数年前に発覚した奈良市の被差別団体に属していた市職員が不当な要求を何度もし側に対して行っていた事件があり、非常に悲しいものですがこういった事例は何も奈良市に限らず、全国あちこちで多かれ少なかれ行われているという話を私も聞きます。

 一見すると明らかに不当かつ横暴な要求が何故このように通ったりしたのか、一言で言えば前にも少し書きましたが当時の日本には被害者であれば何をしても許されるというある種ずれた観念が強く渦巻いていたことが原因でしょう。こうした空気が何故醸成されたかですが、厳しい意見、もとい安直な結論かもしれませんがやはり当時のマスコミが何でもかんでも弱者(とされるもの)を祭り上げて不当な要求であろうと被害者側をなんでもかんでも強く応援する姿勢があったことに尽きます。恐らく見ている視聴者の側も内心では、「こりゃこっちの方が悪いんとちゃう」とか思うような報道もあったと思いますが、マスメディアを持つマスコミがある程度情報を押さえつけていた時代であったのでそういった声はあまり出てこなかったのでしょう。

 最初に挙げた女性運動も、90年代の後半に至る頃には当時の私からしても首をかしげるようなおかしな要求を掲げる団体が現れるようになりました。いくつか挙げるとしたら、社会で女性は虐げられているのだから公共施設の使用料を女性には安くしろ無料にしろだとか、母子家庭は大変なのだから現状以上に自治体からの財政補助を増やせなどという要求が公になされているのを私は見ています。後者の要求に至っては、現在も母子家庭には補助がありますが父子家庭にはないという問題があり、明らかに的を外した意見だと考えています。

 何故フェミニズム運動がこのように暴走していったのか根本的な原因を言うとすれば、それはやはり被差別、不平等の是正すべきだという空気を一部の邪な団体が利用し始めたに尽きます。そして社会の側、といってもこれはマスコミとかそういった団体を応援していた左翼政党だけだったかもしれませんが、それらの要求が真に正当性があるのかを考えずに応援し続けたのが更に助長させていったのだと思います。いうなれば、「被害者は何をしても許される」という何度も私が使っているこの観念がこうした物を作ってしまい、自分が被害者を装うことで好き勝手するのフェミニズムが格好の化けの皮と認識されたがゆえに、本来の目的から外れた不当な要求を行う手段となってしまったのでしょう。

 さてここまで言えば察しのいい人ならわかるように、個人が直接情報を発信できるインターネットの登場によってこの流れはせき止められました。前述したようにやっぱり私のように見ていておかしいと思っていた人間は潜在的に多かったのか、今ではネット上で「フェミニズム」という言葉が出てくると中には激しい批判が集まるサイトも数多く、またこれに「左翼」という言葉がついたりすれば大抵は荒れに荒れます。そして実社会上でもフェミニズムへの関心は非常に薄れ、私が見ているところ元々のフェミニズム団体も名前を「ジェンダーフリー」に鞍替えしてこうした批判を避けようとしているように見えます。くれぐれもいいますが、真っ当な団体は真っ当な活動を至極真面目に行っていると私は考えています。

 また同様に、ってかこの辺は前にも書いた私の「ネット右翼」の論文で詳しく分析されているのですが、マスコミの側でもこうした動きに対応してこのような話題を近年はほとんど取り上げなくなった気がしますし、先ほどの奈良市の市職員の事件など、逆に公然と批判や取材をするところも増えてきています。結論としてはやはり、間違ったことをすればいずれ返ってくるといった所でしょうか。

2008年12月23日火曜日

企業内における少子高齢化

 以前に恩師と会った際、こんな話を聞きました。

「よく学部生とかは卒業論文で非常に悩むでしょ。そういう時には教授があれこれ指導をするよりも、ほんの一年や二年前に同じように悩んだ大学院生が指導してあげる方が体験も近いからずっといいんだよ」

 言われて見るとなるほど、確かに人から何かを教わる際には大先輩と呼ばれるような年齢の離れた人よりもまだ年齢の近い人間の方が教わりやすい気もしますし、逆に自分が教える際も、小学生に勉強を教えるのなら自分が中学生だった頃の方がうまく教えられたような気がします。
 実際に今月初めから後輩の卒業論文を私もあれこれ指導しましたが、やっぱり教えてて「自分もここで詰まったなぁ」とかいろいろ思い当たったり気づく点も多かったと思います。

 ここで話は変わりますが、現在の日本企業はどこも社員全体割合で年齢別ピラミッドを作ると、見事に三十台社員の層だけがぽっこりと穴が空くように薄くなります。これはなぜかというといわゆる就職氷河期の間にどの企業も採用を絞ったせいで、この氷河期時代に学校を卒業した世代の多くが企業社会に入ることが出来なかったせいです。 
 そして氷河期が去った現在ですが、再来年度の就職戦線は早くも不安視されていますがそれでもここ数年は売り手市場とまで言われるほど就職率が高まった年代でした。それにもかかわらず新卒就職者の五割は三年以内に辞職してしまうという、なんだか聞いててアンバランスな話がよく出てくるのですが、最初の話を聞いた時にもしかしたらこれが影響しているのではないかと素直に思いました。

 つまりどういうことかというと、現在どこの企業も三十歳前後の社員が不足しているため、いざ新人が入ってきたとしても新人ゆえの悩みを共有、相談できる直近の先輩社員がいないため、そのような悩みが解消されずに若者は辞職してしまうのではないかということです。しいて言うとしたら、これは企業組織レベルにおける少子高齢化問題といったところでしょうか。

 やはり何にましても年齢別人口バランスというのは整っていることに越したことはありません。こうした企業内における少子高齢化の問題を解消するにはやはり、企業体験こそもっていないものの三十歳前後の社員を企業は率先して雇っていくことだと思います。まぁなにも、こんだけ派遣切りが行われている今に言うことではないのですが。

ヴァンパイアハンターとヴァンパイアセイヴァーについて

 前に書いた「ゲームのヴァンパイアシリーズについて」の記事の中で書いたように格闘ゲームのヴァンパイアシリーズが全部入った「ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション」を私は買ったのですが、この記事の中でも書いた様にこのシリーズで私は「ヴァンパイアハンター」をセガサターン版で昔に買って一番やりこんでいるのですが、何故だか当時はその後に出た次回作の「ヴァンパイアセイヴァー」にはあまり食指が伸びませんでした。何度かゲームセンターではやったものの、家庭用とかで買ってやろうとかそういう気持ちにはなりませんでした。
 そうしたら案の定、今やってみてその理由がわかりました。

 結論から言うと、「ハンター」と比べて「セイヴァー」は非常に面白くありませんでした。リリスとかバレッタとか魅力的な新キャラが入っていてなんで当時にハマらなかったんだろうとか思ってたのですが、改めてやってみるとやっぱり全体のゲームバランスが「ハンター」と比べてとてつもなく低下しており、なんというかとても同じゲーム会社が作ったとは思えない出来になっています。

 私自身は格闘ゲームについてそんな語れるほどやりこんでいるわけではないのですが、あくまで素人の側からの意見としてどうも「セイヴァー」は「ハンター」と比べてバランスが悪いように思えて仕方ありません。元々このシリーズ自体が各キャラのクセが強くて使い慣れるのに非常に手間取るゲームですが、まだ「ハンター」の時だったらどのキャラでも使い慣れればそこそこ戦っていけるようになったのですが、「セイヴァー」だとこのキャラごとのクセが前以上に強くなり、使えるキャラと使えないキャラの差が歴然としてきています。敢えて例えて言うなら、「セイヴァー」は初代ストⅡのザンギエフのようなキャラばっかで占められて、リュウとかガイルのような万能キャラがほとんどない格闘ゲームということです。

 その上、これはあくまで私の実感なのですが、どうもボタン操作の反応がハンターより鈍い気がします。パンチボタンを押しても即座にパンチを出さず、パンチを出すまでのモーションが遅くて隙が多く、見ていてスローモーションを再生しているような感じで、相手もそんな感じだから見ているこっちの反応からするとイライラします。まだ「ハンター」だったらこういうこともなかったのに。

 そんなわけで、今日ちょっとバレッタというキャラでプレイしていたら滅茶苦茶てこずり、しこたま不平不満を怒鳴ったせいでまだ声が枯れています。あとタンスの角を八つ当たりで思い切り殴ったせいで手首の辺りが裂けて、なんか刃物で切ったような血のにじんだ痕まで出来てしまい、自業自得ですが散々な一日になりました。大体、あのベレッタが使い辛いんだよ。

 でまぁ、最終的にどうしたかですが、ここが一番のミソなのですがどうも「セイヴァー」の対コンピューター戦で一番の攻略法は何かというと、ただ相手の動きに合わせて強キックを出すだけなのです。フェリシアというキャラを使った時なんてほんとにこの強キックだけで全部ストレート勝ちしちゃったし、下手にあれこれ動かすよりよっぽど確実に勝てます。

 なんていうか、2D格闘ゲームが衰退していったのがよくわかったような気がします。

男女が異性に求める理想像のすれ違い

 昨日、一昨日と久々にブログをサボっていました。理由は忘年会が続いて帰宅時間が遅くなり書く暇がなかったのですが、昨日はリンクを結ばせてもらっている「フランスの日々」のSophieさんとゆっくり話す機会があり、非常に有意義な一日を過ごしていました。

 さて本題に戻りますが、今もし仮にお金があるのなら私がやってみたい調査の一つに、「男女は異性に対してどんな理想像を持っているのか?」という調査テーマがあります。何故こんなものを調べたいのかというと、どうも私が見ている限り、男女間で異性にモテる同性像、または好みの異性像というイメージにすれ違いのような隔たりがあるように思えて仕方がないからです。

 この疑問を最初に持ったのは知り合いに勧められて斜め読みしてみた、確か「小悪魔な女の子になる方法」というそこそこ女性に売れた本からでした。この本によると「小悪魔な女の子になって、好きな男の子をめろめろにしちゃえ、キャハッ」ってな感じで小悪魔系ギャルとやらにになる指南が書かれているのですが、その中に書かれている一つの指南に、

「相手のまつげを触りながら話すと、相手の男の子は好感度アップ!」

 という記述があり、なんていうか一見してこんな女は相手にしたくないと私は思いました。普通にまつげなんて触られたら、目をえぐられそうで怖いだろ(;゚Д゚)

 とまぁこんな風に疑問を持って以降、やはり巷で聞いている、言われているいわゆる「モテるイメージ」というのは男女間、ひいては同性間でも大きな隔たりがあり、それが現在のような晩婚少子化を引き起こしているのではないかというわけです。たとえば男性の側に属しますが一般人とはかなりずれている私に言わせると、好みの女性のタイプはやはり地味、素朴、素直の三拍子が揃って浪費癖のない女性で、外見面では化粧の濃い女性など以っての外です。また性格面では素直で優しい性格に越したことはないのですが、いざマウンドに立つと内角をえぐるシュートをガンガン投げ込むような大胆な面もあればなおよいです。実際にシュートが投げれなくともいいから。

 更に言うと、やはり男性陣はネットの掲示板などを見ていると女性に対して純粋さを求める割合が強いと思います。私で言うと先ほどの素直さなどで、逆に言うと最初の小悪魔系は逆に嫌われるタイプのように思えて仕方ありません。にもかかわらず小悪魔系は一つのジャンルとして成立し、先ほどの本も古本屋に並ぶ程度には売れるというから不思議です。

 という具合の内容を昨日にSophieさんに話したら、こうした異性に求めるイメージのずれが起きる原因の一つとして、ファッション系商業界の影響があるのではと指摘がありました。言うまでもなく、化粧品会社は化粧品を使ってもらって売り上げ増やして何ぼです。では使ってもらうにはどうすればいいかといえば単純に、「化粧を多く使えば相手の男性は振り向く」と言うに決まっています。また服のファッションや先ほどの本でも、たとえ男性人の女性に求めるイメージの実態からかけ離れているものであっても、「こうすればモテる」と言って販売促進が行われることは大いに考えられます。もちろんこういった現象が起きるのは女性に限らず、男性の側でも十分に起きていることでしょう……といっても、やっぱり女性の方がこういうプロモーションが強いけどね。

 また、再び男性の側である私の意見を言わせてもらうと、一体どんな男性像を女性が求めているのか、どうも情報が錯綜しすぎてわからない気がします。どうも私が聞いていると、女性が男性に求める条件としてまず年収が一千万あるとか、スポーツをやっているとか、家事をするとかいろいろありますが、中には現実離れしたものもあり一体本当にこんなイメージ像を持っているのか、また何を一番重要視しているのかも判断しづらいです。

 こうした男女間で「モテるとされる同性像」と「求める異性像」に大きな隔たりがあり、言っちゃなんですが互いにちぐはぐなことをやり合って恋愛が生まれず、ひいては社会問題となっている少子化までもが起きているのだと思います。そのすれ違いを起こさせている主犯は先にも言ったとおり、わけのわからないものを流行らせようとするファッション業界の各企業で、こうしたイメージのずれを是正するためにも少子化を解消するためにも、「何をすれば異性にモテるのか」を測る調査というものをやってみたいものです。金のある研究所とかやらないかな。

2008年12月20日土曜日

派遣難民の住居対策について

 既に報道でも皆さんご覧の様に、先月から各企業で派遣社員や期間従業員の契約打ち切りにより、これまでのネットカフェ難民という言葉にかわり突然社員寮から追い出されて住居や生活を一挙に失うという、派遣難民の出現が大きな社会問題化しています。
 この問題の具体的な内容は報道されている通りなのでここでは深くは語りませんが、結論から先に言うと、この派遣難民への一部の自治体などの対策については私は激しい疑問を感じます。

 まず冷静になってきたのか一部でもぼつぼつ言われ始めてた意見で、報道にて突然雇用を契約を切られたために無一文で実家に帰るお金もない、といった内容を述べる方がよくインタビューなどで出てくるのですが、なにも働き初めて一ヶ月目にいきなり追い出されるというわけでもなかろうし、また住居も多少の自己負担はあろうとも社員寮に住まわせてもらっていたことを考えると、何故その人たちは貯金がないのかという疑問を私は感じずには得ません。

 私などは貧乏な頃は光熱費込みでひと月の生活費を二万円以内で生活していたことがあり、その頃にはパンの枚数やお米の分量を毎日計算してはあと何日もつかということを常に考えて生活していました。当時に下宿していたアパートの家賃代は三万円なので、実質当時のひと月あたりの出費は五万円ということで、仮に私のような生活をしている場合はひと月十万円の手取りがあれば毎月五万円は貯金できます。また生活費を二万円に抑えなくとも、五万円に増やした場合でもまだ二万は残ります。報道などで見ていると社員寮の自己負担分は少なくとも四万円を越えるケースは私はまだ確認していないので、少し残酷な言い方をしますが、突然雇用契約を打ち切られたことを考慮しても実家に帰るお金がなくて困っている人というのは自業自得ではないかと思い、あまり同情する気にはなりません。

 もっとも、中には帰るべき実家が既にないという方もいるかもしれません。そのような人の場合は貯金があったとしても住居がなくなることにより非常に困窮するということも理解できるので、個人的にも強く同情します。そういった意味で、あちこちの報道や急遽作られた派遣労働者たちの労働組合が主張している社員寮の立ち退き期間の延長は必要な措置であり適切な要求だと私は思います。
 しかし、私が確認している限りで大分県内の自治体が言い出したことによってなんかあちこちで実際にやろうかと検討され始めている、社員寮に派遣労働者を住まわせ続ける企業への助成金制度というのは本末転倒な話で、やろうとしている自治体には理解に苦しみます。

解雇後も寮貸与の企業に助成金 非正規労働者の住宅確保(asahi.com)

 確か大分県のある自治体がこの制度をいい始めたのですが、リンクに貼った記事のように厚生省もなんだかきちんと法整備してやろうと言い始めているを聞いて、私は激しく怒りを感じました。
 というのも、まず企業側は今回の急激な景気悪化を受けて生産量の減産と合わせて今回の急激な派遣切りを行っているので、今後それらの社員寮に代わりの新たな労働者が入ってくることは予想されません。言ってしまえば今の派遣労働者を追い出した後は空き室になることが確実な社員寮なのだから、そのまま住まわせ続けてもいくらかの管理費がかかるくらいで大きな出費になるわけでないということになり、業務上にもそれほど大きな支障にはならないでしょう。ちょっとこの社員寮がどのように運営されているか細かい所まではわからないのですが、借り上げ社宅のようなものであれば賃貸料が企業に負担されますが、それを推しても派遣労働者をこんだけ切ってコストカットするのとしないのとに比べれば随分安い出費ではないかと思います。

 そして次に、これまで企業は散々派遣労働者を使って経費を浮かし、挙句には去年まで「過去最高利益」と声高にあちこちで主張していました。それらの利益は売り上げが急激に伸びた結果というよりも、派遣労働者の犠牲の上で成り立った利益だったとこの点について私ははっきりと主張できます。
 そんな派遣労働者を苛め抜いた企業らに対して、社員寮を貸し続けるのなら自治体や政府は助成金を出してもいいものかと私は疑問を感じます。しかもその助成金額は厚生労働省はひと月六万円、大分の自治体が最初に出した金額は四万円と、これだけの金額、自前で社員寮を運営しているところでは確実に利益が余る大きい金額です。言ってしまえば、派遣労働者の住居を守らせる名目で企業にただで金をやることになりかねません。

 むしろ私はこれまで派遣労働者から搾取し続け過去最高利益などとほざいてきたのだから、行政命令などで派遣労働者の負担はゼロで、半年なり三ヶ月なり期限を区切って住まわせ続けろと命令すべきだと思いますし、派遣労働者の方たちもそう主張してもよいと思います。少なくとも先の助成金の制度というのは、家に押し入った泥棒が家人を追い出そうとするのをお金をあげるから追い出さないでと警察が泥棒に頼むような行為のようなもので、絶対にやってはいけない制度でしょう。

液晶カルテル、再びか?

 なんか自分でも書いてていい加減しつこい気もするのですが、こういった事例というのは社会的影響に比べてあまり報道されない傾向にあり、また以前の情報とのパッケージも必要なので書くことにします。

任天堂DS液晶でカルテル、シャープに課徴金(YOMIURI ONLINE)

 本当は昨日に書くべきだったのですがリンクに貼った記事の内容は読んでもらえばわかる通り、任天堂のゲーム機のニンテンドーDSに使う液晶部品を任天堂から値下げ要求を受けたことに対し、シャープと日立ディスプレイズが談合を以って100円以上値下げを行わないと約束しあったことを受け、この度公正取引委員会がカルテル行為があったと断定して独禁法のもとシャープに対して追徴金を課すことを決定したことを報じるニュースです。なお日立ディスプレイズは自主的にこの談合事実を申告したため追徴課税を免れることになり、残ったシャープが貧乏くじを引いてしまった構図となります。

 液晶価格のカルテルについては私も以前に書いた「カルテル連続摘発の報道について」で、今年十一月にも米司法省が国際カルテルが行われたとして関係各社に追徴課税を行っており、その際には今回槍玉に上がったシャープも事実関係を認めています。にしても、リンクに貼ったニュース記事はもう削除されてますね。改めてこのニュースを他で調べてみると、

液晶パネルで国際カルテル シャープに罰金115億円(フジサンケイビジネスⅰ)

 ではまだ記事が残っており、なおかつすでにこの時期から今回報道されたニンテンドーDSの問題でもシャープに疑いがもたれていることが書かれてあります。詳しい捜査情報など見ていないのであれこれ言うのは野暮ですが、私個人としては前回の国際カルテルではシャープ側は事実を認めて追徴金を支払っているのに、今回のDSの問題では「独禁法違反はなかったと思っている」と言うのにはちょっと違和感を覚えます。

 こっちの液晶のカルテルもさることながら、こちらも以前に私が記事にしていた鋼板カルテルでも先週に動きがありました。

・鋼板カルテル、3社の計6人を追加告発 独禁法違反容疑(asahi.com)

 実はぶっちゃけ、あんまりこういったことをいつまでもしつこく書くのもなんなので、こっちの報道は朝日新聞紙上で先週に確認していながらも今回はいいやと記事にはするつもりはありませんでした。しかし液晶の方でも動きがあったので、乗りかかった船ということもありまとめて書くことにしました。

 さてこちらの鋼板カルテルも過去の私の記事を読んでもらえばわかるように、公正取引委員会の強制捜査が先月に行われ今回晴れて起訴となったということです。こんだけといえばこんだけで、今後の捜査の詳しい報道を待たねばあれこれまだ書くことが出来ないのですが、既に前回の記事でも書いているように先月を皮切りにカルテルの摘発ラッシュが未だに続いています。そしてこれら摘発、捜査されたカルテル事件のほぼすべてに共通することとして、リーニエンシー、通称課徴金減免制度が適用される企業の存在があります。

 このリーニエンシーという制度は要するに、カルテルをやっていたと最初にチクった、もとい自己申告を行った企業に対しては違反行為に対する追徴金を減額、免除されるという制度です。この制度の狙いはカルテル事件の全容を明らかにするために初期の段階で捜査に協力する企業を捜査機関が確保し、また協力する企業にもその代わりに恩恵を与えて申告を行いやすくさせようという目的で確か数年前から始まった制度です。
 現段階でこれだけカルテル事件の摘発が増えているのは、この制度の運用が効果を示してきたと見てもいいかもしれません。元々この制度は欧米にて目覚しい効果を出したことにより輸入する形で日本でも実施されるようになったのですが、まぁやらないよりはずっといい制度だとは思います。でもこういう談合を摘発するくらいなら、社保庁を初めとした官製談合をまずどうにかした方がいいのですが。