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2009年2月22日日曜日

派遣制度の有効性について

 私はこれまでこのブログでは一貫して労働者派遣制度に対して批判的な姿勢を取って来ましたが、実はその裏では本当に派遣制度を完膚なきまで全廃していいものだろうかという疑問が頭をもたげていました。この疑問の端緒となったのは確か2007年にNHKにて派遣制度について是非を問う討論番組があり、派遣労働者に1000人にアンケートをとったところ、確か率にして55%ほど、過半数の方が派遣はいい制度だと思うと回答したことがきっかけでした。
 まさか過半数が派遣を肯定的に取るなんてと正直面食らったのですが、よくよくその番組を見ているとアンケート対象の方がコメントを寄る際に簡易プロフィールが出るのですが、その大半が30代以上の女性ばかりだったのでようやく合点がいきました。

 実はこれ以前からもお袋の知り合いで派遣労働をやっている方から話を聞くと、下手なアルバイトより全然収入も大きくまた仕事もオフィスでのお茶汲みや簡単な入力作業ばかりで非常に助かっていると、先ほどの番組同様のコメントを私は聞いていました。そうした話を聞いていると、なんだかんだいって現在の派遣制度は一家の家計を養う男性、特に既婚者の方にとっては非常に迷惑な制度ではあるのですが、逆に結婚を期に職場を離れた既婚女性が再就職する際には非常に有効な制度なのではないかという気がするのです。

 知っての通り現在でこそ出産のための一時休暇などが日本でも大分認められてきましたが、それでも未だに出産を期に職場を離れることが多いために日本の女性就職率はいわゆるM字カーブといって、30歳前後で就職率が谷のように急激に落ち込んで40歳前後でまた上昇するという、欧米と比べると非常に偏った形を毎年とっております。出産のために職場を離れなければならないというのはまだわかるにしても、キャリアや実力のある女性労働者がその後再就職するには非常に大きな障害があると言われており、育児が終わったり家計のために働きたいと願っても、なかなかいい仕事が見つからないという話は今に始まるわけでもなく昔から言われてきました。労働力が不足しているといわれるこの日本で。

 それに対し現行の派遣制度であればこうした既婚女性、特にオフィスワークを相応にこなすことが出来る方などは再就職が容易でかつ条件にあった職、それこそ最初に言ったアルバイト以上正社員未満くらいの職ならば簡単に見つけることが出来、こうしたことが影響してNHKの番組で肯定的な意見が多かったのだと思います。
 不安定な雇用環境や伸び悩む収入(収入についてはまだ議論の余地があるが)など、日本で家族を養っていくにはやはり派遣では限界がありこうした雇用制度に問題があるのは間違いありません。しかし先ほどの既婚女性の例や、男性でも独身で音楽活動など自分の時間を有効に使いたいという方にとっては見方によれば非常に有意義な制度となる可能性もあり、やはり勢いに任せて全廃すべし制度のようには思えません。

 ほかの議論などでもよく出てきますが、やはり派遣という制度は残して問題のある箇所、社会保険や労働保険、そして派遣会社のマージン率の公開などそういった面で改正していくのが派遣制度に必要なのではないかと思います。

2009年2月21日土曜日

日本の教育における想像性の問題

 昨日に引き続き日本の教育制度への批判記事です。
 去年にノーベル賞を受賞した益川氏がよくセンター試験などの現在の試験制度には、子供の想像性を問うような問題がないなどといって激しく批判していたことは恐らく読者の方も記憶に新しいと思われます。実は益川氏の主張は現実に確認されていることで、国際学力テストなどで日本の子供は定理や公式などの知識はあるものの、それを応用する力が非常に低いということがテスト結果で現れています。
 一例を出すと、平行四辺形の面積を「底辺×高さ」で出す問題については正解率が高いものの、街路地図を見せて平行四辺形の形となっている部分の面積を求めたところ、街路の区画などから底辺と高さの長さが簡単に類推できるにもかかわらず、先ほど正解した日本の子供の多くが解答できなかったという結果が報告されています。

 実際に予備校で講師をしている友人にこの件で話を聞くと、最近の子供は本当に書かれている文章の内容が読み込めない人間が多いと聞きました。それこそ算数や数学の文章問題となると、図形の角度を求めているのに解答欄に長さとか、ひどい場合には変な四角形の図を書き込んだりする子供もいるらしく、一昔前のCMみたいに何から教えていいのかわからなくなる時が多々あるそうです。

 ここで話は変わって私の体験談ですが、一応私の時代からも日本の子供には想像(創造?)性が低いという指摘がよく教育界でされており、またもそういった言質を真に受けた当時の私は何を思ったのか、数学などならともかく何かを説明する国語の記述問題などは誰も思いつかないような、突飛な回答にこそ真の価値があると信じ込んで、今思うとものすごい答案を毎回提出していました。
 そんなもんだから、中学校の頃の成績というのはひどいものでした。当時は大体180人中160番台くらいだった気がします。

 しかし中学三年生位になった頃、ちょっと思うことがあってあることを実験しました。
 それまで私は前述の通りに自分で物を考えてオリジナルな回答を出した方が評価されると思っており、教師が授業中に言っていること、それこそ国語なんかは先生が授業中に説明した解釈とはなるべく異なる回答を出すように心掛けていたのですが、ある日試しにテストの回答に教師の授業中の解釈そのまんまを書いてみたのですが、そしたら自分でもびっくりする位に正解率が上がっていきました。

 そのあまりの成果に私も驚き、それ以降授業中に私は理科や数学といったほかの科目でも教師が言う言葉を細かくチェックするようになり、授業中のちょっとしたアクセントや表現の違いからどこがテストに出るのかを予想しては当てることによって当時に成績はぐんぐんと上昇して行きました。あんまりにもどこが問題に出るのかを当てるもんだから、高校に入った頃なんかは予想屋として友人らの得点上昇に一役買っていました。
 しかしこうして成績を上げることについて、私自身は素直に喜べませんでした。言ってしまえば自分が考える余地をなくして教師の言う事通りにテストの回答に書くことが、果たして自分の能力の向上につながるのか疑問だったからです。そうはいっても成績を上げねば親からもにらまれるし、これは本意ではないと自分に言い聞かせながら高校時代のテスト期間を過ごしていました。

 そんなもんだから、益川氏の教育制度についての話を聞いたときには私も素直に納得しました。数学だって問題を工夫すれば解答に至るアプローチが複数あるものが作れるのですが、試験には単一のアプローチしかないようなものほど使われている気がしますし、国語の問題に至っては解釈なんて人それぞれなのに問題作成者の意図に沿ったものを出さないと正解が得られない。こんな試験で、どんな人材が育つのか私は不安です。
 更に言えば、国語の記述式解答で50文字など制限してあるのは、45文字以上書かないと正解にならないという暗黙のルールにも不愉快さを覚えます。私は文章というものは短く表現できるに越したことはないので、20文字であろうと30文字であろうと核心をついていれば正解を与えるべきだと思うのですが、そんなことしてたらすごい点数になってしまいます。

 以上のように、日本の教育にはたくさんの問題がありますが、試験制度それ自体にも問題があるというのが今日の私の意見です。

2009年2月20日金曜日

個性が強いゆえに日本で起こる問題

 このブログを読んでいればわかると思いますが、私は基本的に反権力的な思考の人間です。それでなんで私がこんな風になったかと思い起こすと、きっかけはやはり日本の教育に反感を持ったのが原因だと思います。
 私が日本の教育に始めて疑問を感じたのは、我ながら呆れますが小学生四年生くらいの頃でした。自分で言うのもなんですが私は傍目にキャラが濃い人間らしく、友人からも「一度会ったら忘れられない」、「夢に出てくる」などといったことをほぼ知り合った人間全員に言われながら今まで生きてきましたが、それだけの強烈な個性というのは日本の社会の中ではやはりマイナスに働くことの方が今までの人生で多かった気がします。

 私がそれをはっきりと認識し始めたのがまさに小学四年生くらいの頃で、多少の自意識過剰も入っているかもしれませんがこの頃から周りから思いもよらないやっかみを受けたり、なんの根拠のない陰口などが言われるようになってきたと思います。そしてその原因が隠し様のない私の個性が原因だということも、当時からなんとなく気がついていました。
 私としても原因がわかっているのだから何も対処をしてこなかったわけじゃないのですが、多分それでも隠しきれなかったと言うべきか、その後中学から高校へと進学しても周りからの言われのない評価に困らされて続けてきました。

 別に私はなにか犯罪をやったり、周囲に対してなにかしら妙な干渉をしてきたつもりはないのですが、恐らく周囲を気にせずに自分が正しいと思うことを自分自身に行ってきたのが周りからは目に付いたのか、むしろ私と何の関わりもない、それこそ一言も話したこともない人間ほど私に対していろいろと言っていたようです。後年に話すようになった中学の友人に言わせると、やっぱりその友人の周囲で私は「変な人間」という風に言われていたそうです。
 それこそなにかの拍子に殴り合いとかした相手にいろいろと悪口を言われるのならともかく、今まで何も話したことも接したこともない人間から悪し様に陰口を言われていたというのは今でもよく不思議に思います。

 その原因は一体なんなのだろうと、恐らく一番頭使って考えたのは徐々に周りから孤立し始めてきた小学校四年生の夏休みくらいでした。確かその時はそれこそ朝から夕方くらいまで一人で外を自転車で走りながら(友達が本当にいなかったから)あれこれ自分の状況について考えていましたが、その結果思いついたのが日本の教育のせいじゃないかという結論でした。
 すでにその頃辺りから、「日本人はもっと自分だけの個性を大事にするべきだ」という教育方針がアメリカから輸入される形で入ってきており、小学校などでも先生がそんなことを言っていたのですが、恐らく大概の日本の子供は、「そうは言っても、周りに合わせないとやっぱハブられるだろ」、と悟っていたところ私だけがアホだからその方針を真に受けて、出来るだけ周りと自分を差別化させるように行動していたので、なんというか右を向けと言われて私一人だけが右向いちゃったような状態だったんだと思います。

 現在の私としてもモンスターペアレントの問題のように、何でもかんでも個性として認めるべきではないということは重々承知ですが、集団に流されず自分で自分の行動を思考する独立した自己という意味の個性は未だ日本人には必要だと考えています。ですが既に述べたように日本の教育下ではそうした個性ほど摘み取ろうとする傾向があり、過剰に集団性を強化するところがあるのでいじめ行為や集団万引きといった、冷静に考えるのなら異常な行為が学校現場などで起こっているのだと私は思います。
 大体こんな感じの結論に小学校四年生で達した私はどうしたかというと、前述の通りにいくら周りがみんなしてやっている行為とはいえ、明らかに間違っていると自分が思う行為に対してはたとえ自分ひとりになっても一緒にやってはならないという変な原則を作ってしまい、その後の人生で浮いた存在のまま今に至っております。中学高校時代も、制服のYシャツの第一ボタンは必ず留めていたし。

 私は別に日本人の集団性が強いことが悪いと言うつもりはありません。中国人の日本人観の一つに、「あいつらは一人一人だと弱っちいが、集団になるととてもじゃないが敵わなくなる」というのがあるように、日本人の団結力はそれはそれでたいしたもんです。
 しかし私のように恐らく先天的に個性が強い人間、もといキャラが濃過ぎる人間というのは日本には本当に居場所がありません。今でこそ必死になって猫かぶって自分の個性を抑えながら何とかやりすごして生きてきていますが、知り合いの中でも別にそいつが何か悪いことをしたわけでもなく、むしろ周りに対して思いやりもあって向学心のある人間ほど周囲から奇異の目で見られることによって悩まなくていいことで悩まされてきた人間を数多く見てきています。

 私が言いたいのはただ一つ、自分たちにも居場所をくださいということです。個性の強い人間の一人や二人、直接的な迷惑が起こらない限りは追い出そうとせず、こんな奴もいるんだなというくらいに普通の人には見てもらいたいです。

当てにならない評論家たち

 友人になにかブログに書くネタはないかと先ほどメールしたら、「無駄な予想をするなと(世の中に)言いたい」という返信が来ました。正直、私自身もこのブログで最近外しまくっている予想ばかり書いているのでドキッとしちゃいました。
 この友人の言を私がもう少し解説すると、恐らく世界は不況だ不況だと言われる中でそれこそ二年後には景気は回復するとか先々週あたりに各週刊誌で書かれていた、「二月十三日の金曜日、世界株大暴落」などと根も葉もない、しかもどちらかといえば不安を煽り立てるような予想や評論について、現在は全く先が読めない状況なのだからわざわざそんな不安を煽るような行為はやめろと言いたかったのだと思います。

 私としてもちょっとどの記事に書いたか忘れましたが以前に、当たり外れは多少運の要素が絡むので仕方ないが、いい予想というのはきちんと筋道立って説明がされているから外れたとしても状況の理解に役立つものだと言いましたが、そういう目で見たら世の中に氾濫している予想というのはどれも筋道から外れた、それこそ先ほども言いましたが人の神経を煽るようなものばかりで、友人が怒るのも仕方がないことでしょう。
 まぁこんなえらそうなことを言っている私もくだらない予想ばかりして周りに迷惑かけていますが、以前に読売テレビで放映されている「たかじんのそこまで言って委員会」という番組にていまや石を投げれば評論家に当たるというくらい、テレビでチャンネルを回すといくらでも素性のわからない妙な評論家が登場していることはいかがなものかというテーマで討論がされていました。

 この問題提起がされると番組内では登場しているゲストたちに、「あなたが評価する、もしくは良くないと思っている評論家は誰だ?」という質問がされ、それぞれのゲストがフリップを持ち上げて思い思いに名前を挙げていましたが、確か三宅久之氏と宮崎哲弥氏の二人が揃って、すぐ目の前にいる勝谷誠彦氏の名前を挙げていました。理由は二人とも、勝谷氏はきちんとしゃべればいいのにすぐに下品で過激な話に持っていくとして、さすがにこの二人に言われては勝谷氏も返す言葉がありませんでした。
 そして三宅氏は逆に評価する評論家として櫻井よしこ氏と屋山太郎氏を挙げていましたが、この二人については私も話を聞いてて非常に参考になることが多く深く同感しました。

 とまぁこの番組で取り上げられていたように、最近は本当に評論家というかコメンテーターがありえないほど溢れている状況です。確かに中には学識もあって立派な方もいるのですが、やはり大半は聞いててあきれるような事を言うばかりか、恐らくテレビ受けさせるために大した信条もないくせにわざと過激で人の不安を煽るようなコメントをする人間も少なくありません。前に愛弟子に進められて「ラストニュース」(原作:猪瀬直樹)というテレビ業界を舞台にしたマンガを読みましたが、この中でもテレビ業界にはカメラの前では威勢のいいことを言うくせにテレビ裏になると急にすぼんだ態度になる人間が出てきますが、やっぱり現実もそんなものなのではないかと思います。

 特に私が現在最も見ていて呆れさせられるのは、さきほどのたかじんの番組でゲストの誰かが「良くない評論家」の一人として挙げていた、報道ステーションの古館一郎氏です。そのゲストの言葉を借りると、ニュースの後の彼の解説を聞くたびに彼がどれだけ勉強していないのがよくわかる、と言っていましたがこれについても私は強く同感します。なんていうか、いろいろと関連する問題があって一言で言い切れるわけがない事件や問題についても何が何でも古館氏は一言でまとめようとするので、その結果多くの関係事象が見落とされかねないコメントをするのが私にとっても頭にきますし、今までなるほどと思わせられるようなコメントは一度として彼から聞いたことがありません。

 まぁそうはいっても彼ら評論家からするとなにかしらしゃべることが生活の種なので、それこそ問題でもないことでもさも問題性があるように話さなければならないというお家事情があるのは理解できます。かといって、根も葉もない事象から人の不安を煽るような行為にまで至るともはや笑って許せる問題ではなく、報道する側のテレビ局などはそこら辺をぜひ考慮してもらいたいものです。まぁ人の不安を最も煽っている環境問題において、武田邦彦氏のコメントなんかは聞いてて別な意味でいろいろ不安になっちゃいますが。

2009年2月19日木曜日

ブログを読む側と書く側の感覚の違い

 先日友人から、
「実は俺もブログをやっていたんだよ」
 と突然言われました。
 なんでも半年くらいは続いていたそうですがやっぱり段々と書くことがなくなって続けられなくなり、そのブログは今じゃ放置状態になっているそうです。

 別にその友人がそうだと言うわけじゃないのですが、私の見ている限りまだブログを始めたことがない人なんかは他の人がやっているブログを見て、「こんな簡単そうなの、自分でも出来るだろう」と思う方が多いんじゃないかという気がします。しかし実際に始めてみると読む側と書く側では全然感覚が変わるもので、ちょっと簡単にその辺の部分で私が思うことを書いておきます。

 まず私の体験ですが、私は2007年の年末からこの「陽月秘話」をやっていますが、それ以前からもいくつかのブログは読んでいました。それで他の人のブログを見ていてよく思っていたのは、「なんでこいつらはこんなに更新が少ないんだ」ということでした。
 やっぱり定期的に人に読ませるなら最低でも一週間に一回、理想なら今の私のペース並に短くともいいから毎日更新しないとついてこないだろうとよく思い、原稿用紙一枚分の四百文字くらいで毎日更新するくらいなら自分なら余裕だろうと思って始めました。結果はとても四百文字じゃ満足できず、アホみたいに毎日長文を書くことになりましたが。

 それでこの文字数についてですが、私の感覚だと書く側が大体一時間くらいかけて文章を書いても、言ってて結構無常ですが読む側からすると五分で読まれてしまう量にしかなりません。これだと経済的に見たら文章を書く労力に見合わせるには最低でも二十人に読んでもらわないとペイできません。このように読む側からだと想像し辛いのですが、文章というのは書く側になると恐ろしい時間と労力が必要になってくるので、読んでて自分にも出来そうだと思った方は書き始めるとそのギャップに打ち負かされることが多いんじゃないかと思います。
 もちろん技術力の向上次第でその一時間を五十分、四十分にも短縮することができますが、それでもとことん突き詰めても三十分は読む側に五分読ませるのに書く必要があるでしょう。私の場合は調子や書きやすいテーマにもよりますが、やや長めの記事を書くのには一時間くらいはいつもかけています。

 ここで強く言っておきたいのですが、文章というのは意外に書けそうで書けないもので、やっぱり自分の思うまま、伝えたい内容を確実に伝えられるように書くには相当な訓練が必要です。個人的に到達段階に当たる訓練量を挙げていくと、まず原稿用紙百枚(四千字)を越える一つの文章を書くと一皮向けて、その後生涯執筆量で千枚(四万字)を越えた辺りからいろいろと面白くなってきます。
 なのでブログをやっている方は、ひとまず四万字を越えるくらいまではだらだらしてもいいから続けるべきだと思います。そうすると表現技法などが段々とわかってきて、昔の文章と比べることによっていろいろと成長する実感が湧いてくるでしょう。

 そして今度は逆に読む側に伝えたいのですが、見ていて「なんだ、これっぽっちか」と、文章量が短か過ぎると思っても、書く側はその短い量を書くのに凄い労力をかけているので馬鹿にしたりはせずにきちんと見てあげてください。私の場合は自分でも長すぎる気がして、読む側がかえって負担になってるんじゃないかと心配するくらいですが。

  補足
 これまた私の感覚ですが、手書きで文章を書くとペースは好不調に関わらず一時間で原稿用紙六枚です。キーボードの場合は昔の話だと一時間に十枚くらいが平均的なペースですが、キーボードの場合は頭で文章を組み立てるより早く文字がかけてしまうのでペースが一定でなく、好調の時は十二枚とか行きますが、不調の場合は八枚くらいにまで落ちることがありました。
 今このブログで書いている内容は結構頭を使うものも多く、書きながらあれこれ調べたりするのでペース的には一時間当たり六枚くらいじゃないでしょうかね。

今後の政局

 大体材料が集まってきたので、そろそろまた政治解説でも始めようと思います。
 まず今週最大のニュースとくれば言わずもがなの中川財務相の電撃辞任です。しかもその理由が酔っ払って会見に出たという、宇野宗佑元総理並にくだらない理由ゆえに世論からも大きく批判され、前の日曜日には日テレが恐らく仕込んだ結果でしょうが内閣支持率が9%台と発表されたのを皮切りに、他の報道各社でも10%前半という惨憺たる結果が続き、ただでさえ低い支持率がそれこそ森政権以来の低調ぶりを見せ始めております。

 そこへもって小泉元首相の先週の会見です。公然の場ではっきりと、しかもきつい表現を用いて麻生内閣を批判し、その上昨日に至ってはモスクワにてもし二次補正予算案が衆議院で再投票されるのなら棄権すると明言したことにより、小泉氏に続いて麻生政権に反感を持っている自民若手議員も同調することで本当に三分の二可決ができるかどうかも怪しくなってきました。
 しかも現実に後藤田正純衆議院議員のように、若手(しかもちょっとイケメン)でありながら公然と麻生総理に禅譲を迫り、代わりの候補としてぶれないという理由から石破茂氏と野田聖子を挙げてくる人物が出てくるなど、無鉄砲さが売りの渡辺喜美氏以外でこんな声も出てくるなんて私も予想だにしませんでした。どうでもいいですが、今朝のテレ朝のニュースでは後藤田氏の発言の中で石破氏を挙げたところでVTRを切り、野田聖子の名前を敢えて出そうとしていませんでした。私もこの人は嫌いなので、思わずグッジョブと思っちゃいました。

 また先ほどの後藤田氏ほど直接的でないものの、麻生政権に元から批判的だった山本一太氏ももし選挙前に総裁が変わるのならば小池氏と石原氏を昨日のインタビューにて候補として挙げ、それを受けてか今朝のスポーツ新聞の見出しには「ポスト麻生」と書かれたリストを載せているのがたくさんあったように思えます。
 誰かは忘れましたが今年初めの段階で麻生内閣は持たなくなり、選挙前ではあるものの自民はまた総裁を変え、恐らくその際には与謝野馨氏が総理に就任して総選挙になるだろうと予想した評論家がいましたが、現実に自体はこれに近い形で推移してきています。

 こうした事態に対して麻生内閣を支える立場の自民党執行部の動きはどうかというと、脇雅史参院国対筆頭副委員長は「小泉元首相発言「笑っちゃう」 自民参院幹部が批判」の記事によると小泉氏の発言を「笑っちゃう」と非難していますが、正直この状況下で笑ってる場合かとこの人の危機意識をすこし私は疑います。
 今回の小泉発言が大きく扱われるのも、なんだかんだいって国民が小泉氏の発言に同調する部分が大きいことからだと私は考えています。特に私は小泉氏の発言の中で、

「(自民党)執行部は若手が批判すると後ろから鉄砲を撃つなと批判するが、今の執行部は前から鉄砲を撃っているようなものじゃないか」

 と言っていたのには非常に納得させられました。こうした例のように、国民が現政権にもつ苛立ちを理解せずに小泉氏の発言を非難するあたり、やっぱりこの小泉氏の言葉の通りという気がします。

 さてこうした事態に対して野党の民主党はどんなものかというと、今日はなかなかいい論説があったのでまずそれを紹介します。

【政論探求】これぞ「小泉アンコール劇場」だ (産経ニュース)

 このところ産経はとんちんかんな事ばかり言っているかと思ったら、今回の論説は非常に内容も鋭く面白いことが書かれています。まずこの記事で小泉氏の発言力の大きさを改めて取り上げ、今回の発言によって再び小泉劇場といわれる政治状態が生まれるのではないかといい、実はそれで一番困るのはキャラ的な主導権を奪われる形となる民主党だと分析しているのには私も納得します。案の定というか、先週の小泉発言以降民主党の報道がめっきり減ってしまっています。

 それで最後に今後どのタイミングでまた政局が動くかについてですが、やはり予算案が成立するであろう四月辺りが大きく動く可能性があります。もし自民が延命策をとろうとするのならここで麻生政権を総辞職させて現段階で与謝野氏が最も可能性が高いですが、また新たな総裁を出してくるでしょう。それに対して世間や党内の批判を無視して麻生政権が任期切れまで必死で逃げ切るか、はたまた民主党や自民党内の反乱勢力が押し切り一気に解散総選挙になるか、各プレイヤーの動き次第でしょう。

 ちょっと踏み込んだ予想をすると、もし自民党執行部が報道されているように小泉氏が二次補正予算案に欠席することで何かしら党として処分を行おうとするものなら、恐らく小泉氏だったら離党をして、次の選挙で引退を宣言しているので代表にはつかないでしょうが、後見役のような立場で新党を作りかねないのではないかと思います。そうした場合は自民や民主の若手が集まるでしょうし、私としても理想的な政界再編の枠組みが作られる気がします。

2009年2月18日水曜日

中国留学生の親中嫌韓化

 何度もこのブログでも書いていますが、私は中国の北京に一年留学したことがあります。留学中はそれこそ今思い出してもおかしくなるくらい楽しく過ごしていましたが、その中で私が私と同じ日本人留学生に対して強く感じたのが今日紹介する「親中嫌韓」です。
 前もって断っておくとこの言葉は私の造語で意味はそのまんま、「中国が好きになって韓国が嫌いになる」という意味です。面白いことに、中国に留学した日本人の大半はこの傾向の意識を多かれ少なかれ持つようになって帰ってくるのです。

 以前にも「なぜ中国をかばうのか」という記事で一回書いていますが、中国というのは非常にあくの強い文化を持っている国で、例えるなら東京出身者が関西でしばらく過ごすと関西弁がその後抜けなくなるというように、外からやってきた異邦者をその文化の内側に取り込む作用が強い国であります。
 留学生に対してもほぼ同様で、日本人留学生はやってくるとまず対応の悪い学校側や学生寮の手続きなどに辟易して非常に遅れた国だと口々に批判します。しかしある程度生活に慣れる留学して三ヶ月目位に入ると、突然中国に対して「やっぱり歴史の深い国だ」、「日本なんかよりフラットな中国の感覚がいい」などと急に誉めそやすようになります。

 まぁこれは中国に限らないようで、留学経験者は大抵留学先の国のことを好きになる傾向があり、特に本国に帰った後に周囲から留学先の国を批判されることで急速にそんな態度が発現しやすくなるそうです。かくいう私は中国に行く前から中国が好きだったので、留学を終えて変わったことといえば相撲が好きになったことくらいです。

 こうした中国への親近感が強まる一方、中国に留学する日本人は男女ともに韓国人に対して猛烈に批判的になっていく傾向があります。私は留学中にこれといって韓国人と深く交流をしなかったのでそんなに嫌いになることはありませんでしたが、学生寮で相部屋(大抵相部屋に住まわされる。私のルームメイトはルーマニア人でした)の相手が韓国人だった方に至ってはこの傾向が顕著で、日本人留学生が三人も集まればたちまち韓国人への陰口大会がいつでもどこでも始まるほどでした。
 では韓国人のどういうところが嫌われるかですが、韓国人留学生と相部屋だった友人の話を聞くと、

・冷蔵庫にキムチを入れられ、自分の食べ物も全部キムチ臭くなった。
・テレビのチャンネル主導権を握られる。
・夜中まで平気で大音量で音楽を鳴らし続ける。
・夜中でも友人を連れてきて大騒ぎする。
・物を貸すと返す際にいろいろとついてくる。

 などで、やはり「周囲を気にしない」ということが日本人と合わず、特に夜に騒ぐことで眠れないと文句を言う人間が多かったです。
 更に面白い証言を紹介すると、「韓国人はつかなくともいい嘘を平気でついてくる」と、まるで判を押したかのように同じことを言う日本人留学生が多いので詳しく背景を探ってみると、今の証言を言う日本人留学生は皆韓国人の女の子と一時付き合い、別れた奴ばかりでした。

 この中国の留学先で韓国人が嫌われる傾向にあるのは何も日本人の間だけではなく、欧米などといった他の国の人間も同じでした。私と同級生だったフランス人の姐さんなんか、

「この前タクシーに乗ったら運転手が、お前はフランス人だからいいけど、俺は日本人と韓国人は乗せたくないんだと言いやがった。私の知っている日本人はみんな良い人ばかりなのに、本当にひどい奴だったわ。ま、韓国人はしょうがないけどね( ^∀^)」(ごついフランス人の姐さん)
「それを僕の前で言うの?('A`)」(ちょっと気弱な韓国人の男の子)

 何故これほどまでに韓国人が中国の留学先で嫌われるかについてですが、原因は単純に韓国人が留学先で圧倒的大多数派になるからだと思います。実は中国では日本以上に韓国との交易関係が強いせいもあって留学生もたくさん来ており、ちょっと細かいデータは失念してしまいましたが確か中国への留学生人口第二位の日本人の二倍もの人数が毎年来ていたと思います。この傾向は中国に限らず、私がイギリスの語学学校にいた時はブラジル人が一番多かったのですが、やっぱりここでもブラジル人が他の国の人から嫌われていました。

 なぜ多数派になると嫌われるかですが、まず一つに多数派ゆえのおごりが生じ、同胞人同士で集まると行動が横柄になるというところがあると思います。人数が多ければ行動も起こしやすくなったり、他の外国人を巻き込んで何かを実行するのでも決定力が強まり、更にはいろいろな制度的な面も多数派に合わされやすくなっていくので少数派からすると鼻持ちならなくなるのも自然な気がします。

 一応苦言を呈しておくと、この傾向は日本人留学生にも当てはまるところがあります。韓国人には負けても現在中国の留学生人口第二位は日本人で、やっぱり集団で固まっては横柄なところを見せる輩も少なくありませんでした。
 更に言えば、中国人社会においてすらも中国における韓国人留学生のマナーが段々と問題視されてきています。韓国人の国民性なのか私が先ほど説明した多数派ゆえのおごりかまではわかりませんが、留学先の大学でたびたび問題行動を起こす韓国人留学生に対して徐々に中国人の視線が厳しくなってきているのもあり、これを対岸の火とさせずに日本人留学生の方も厳に行動を慎み、日本人ばっかりで固まったりせずに中国現地でいろんな人間と交流してほしいと願っております。