ページ

2009年6月21日日曜日

「真相報道 バンキシャ」が何で続くの?

 最近私がとみに不思議に思うこととして、今日もやっていた毎週日曜に放送される日本テレビ系テレビ番組「真相報道バンキシャ」が何故未だに放送されるのかという疑問があります。この番組はこれまでにも何度も、しかも報道番組としては致命的ともいえるような不祥事を引き起こしており、にもかかわらず放送打ち切りにならないのかが不思議でしょうがありません。

 この番組のこれまでに起こした不祥事は先ほどリンクに貼ったウィキペディアの記事を読んでもらえればざっと一覧できますが、その中でも最も新しくかつ問題性の大きい不祥事として去年の十一月に放送された岐阜県内の裏金疑惑の誤報事件があります。これは岐阜県庁が架空の道路工事を発注して裏金を作っていたという証言を紹介してそのまんま岐阜県を裏金疑惑で告発するような番組内容だったのですが、結論から言うとこの裏金疑惑はすべてがすべて垂れ込んだ人間の報酬目当ての虚言であり、証言者の証言内容や経歴を一切調べないまま放送して岐阜県に対してあらぬ疑いを作ってしまったという不祥事です。
 元々この証言者は過去にも似たようなことを何度もやっており放送前のチェックで如何様にもこの様な事態は避けることが出来たはずなのですが、そのような最低限のチェックすら報道番組でありながらできていなかったようで、問題の重大さから今年三月に謝罪放送を行ったばかりかそのまま日テレの社長が引責辞任をすることとなりました。

 また今回の事件に限らずウィキペディアの中に載っていない過去の不祥事として、男子ゴルフ界の期待の新星の石川遼選手がテレビに出始めた頃、何を思ったかこの番組の取材班はゴルフ大会にて石川選手と同じ組となった選手にマイクをつけさせてもらって石川選手の発言を録音しようとして見つかった事件もありました。この取材では被取材者である石川選手には何の許可も取っておらず言うなれば隠し撮りともいえる問題性の高い不祥事で、司会の福澤朗氏も場合によっては自分が責任を取る(司会を降りる)とまで言ったのですが、私にすればその後も何の反省も見られないほど不祥事が連発されております。

 それで何が一番不思議なのかというと、この番組は先ほどの岐阜県の裏金疑惑誤報事件の際の責任として日テレの社長の首まで飛んでいるのですが、何故だが問題を起こした番組自体は打ち切りになる気配も見せずに未だに放映され続けている点です。普通あれだけの不祥事を起こせば中身はともかく見てくれだけでも番組改変をするようなものなのですがこのバンキシャには一切そういうものがなく、状況的に言うのならこの番組を潰すことよりも日テレの社長の首のが軽かったという様にも見えます。一体この番組のどこにそれだけの力があるのか、それががわからないのです。

 もしかしたら社長の首を切ってまでも維持したいほどの視聴率を取っているからかもしれませんが、かと言ったってそれなら石川選手の事件の際の福澤氏の発言はどうなるのとか思ってしまいますし、いろいろ考えたら切りがなくてバラエティにほとんど出演しなくなった菊川怜がまだ出続けているからそれ関係のコネとか、誰かの肝いりが働いてるのか考えてしまいますが、私としたらこの番組は早くに潰すべきだと思います。でなければまたこういう不祥事を起こす可能性があると思いますし、なにより番組内容自体が前からつまらなかったので出来ればもっと面白い番組をあの時間帯に個人的に入れてもらいたいものです。

2009年6月20日土曜日

琵琶湖自転車一周苦行の旅

「オッス、オラ悟空。いっちょやってみっか!」

 冗談のように聞こえるかもしれませんが、本当にこんなノリで私は琵琶湖一周に挑戦するのを決心しました。
 今から二年前の七月中頃、当時に抱えていた厄介事が一段落してしばらく予定らしい予定も無かったことから、前々からやりたかった関西地域の自転車乗りにとってひときわ大きなステイタスとなっている琵琶湖一周にこの際挑戦してみようと思ったのです。以前に書いた「房総半島自転車一周地獄の旅」の記事が意外に好評で昨日に友人からもこの琵琶湖一周についても書いてみた方がいいと薦められたので、昨日休んだ分を取り返すつもりで今日はこの時の事を書こうと思います。

 さてこの琵琶湖一周ですが、自分で自転車乗りとか言っておきながら実際にはペーペーの素人の私なもんだからこの時の計画もかなりの無茶振りでした。もっともそれまでの一日の総走行距離の最高記録は京都から信楽までの片道30キロ、往復で60キロだったのに対し、この琵琶湖一周は簡単にネットで調べてみると諸説入り乱れながらも約180キロとの事で、これまでにない長距離だったこともあって一応やれる程度の準備は行っていました。

 まず使用自転車ですが、これは当時に京都市内を飛び回るのに使っていたシティサイクルをそのまま使うことにしました。この自転車は価格にして約24,000円でギアも上中下の三段ではっきり言って琵琶湖一周をやろうとするには明らかに貧弱な自転車でしたが、乗りなれていることもあってあまり気にせず決定しました。
 次にルートですが、当時私は京都市内に住んでいたこともあってなによりもまず滋賀県へ行くルートを考えねばなりませんでした。京都から滋賀へは基本的にルートは二つだけしかなく、まずポピュラーなルートとして京都駅から東へ行って山科を越えていくルートと、京都市北区から比叡山を乗り越えていく通称山中越えといいうルートの二つでした。当時私が北区に住んでいたこともあり、また自動車でなら山中越えを何度かしている事もあってほぼ迷わずに後者のルートを選ぶことにしました。

 そして実際の琵琶湖一周ルートですが、これはここで言うのもなんですが一切何も考えずに行きました。というのも琵琶湖に沿って走ればいいだけだし、それでも道がわからなければコンビニで地図を立ち読みすればいいだろうと甘く考え、後の悲劇を生むこととなったのです。

AM 6:00
 起床と共に朝食を取り、早速ナップザックを背中に出発する。この日は平日ではあったが早朝ということもあり人通りも少ない朝もやの京都を前途洋々に走り抜ける。

AM 7:00
 銀閣寺のやや北にある国道30号線ルート、通称山中越えに入る。道こそアスファルトで舗装されていながらも急な勾配に運送屋のトラックがビュンビュン前後を走り抜ける中、ただ一人自転車に乗って踏破を目指す。時間こそかかるものの、これを越えたら後は平野を走り抜けるだけだと言い聞かせて登る。

AM 8:00
 見事山中越えを達成し、大津市に突入する。突入するや近くの小学校に登校する小学生の列と鉢合わせ、狭い歩道だったために自転車にまたがったまま脇に寄って小学生らが横を通り抜けるのを待ったが、不思議なことに多くの小学生が全く避けようともせずに動きを止めている私の自転車向かってまるで体当たりするかのように次々とぶつかってきた。これは私の主観だが、あの時にぶつかってきた小学生が私を見る目は、「なんでよけないの?」というような感じで、もはや私にはよけるスペースが一切残っていないにもかかわらず自分に向かって相手がよけて当たり前かのような視線で、はっきり言って非常に不気味に思った。

AM 8:30
 近くを通ったことで、そのまま大津の三井寺に参拝する。前から行きたかったもののまだ一度も言ったことが無かったので、山中越えも終えて気も緩んでいたからゆっくりと参拝する。後で参拝する時間があったらその分しっかり走っとけばよかったのにと後悔する。

AM 9:30
 琵琶湖沿いの道路へと移動し、順調に走行を続ける。

AM10:30?
 草津市突入。位置的には琵琶湖の南端を通過した所にあるので、対岸に先ほど走ってきた大津市が見えてなかなか気持ちが良かった。

AM11:30
 野洲市突入。そろそろ昼時だがいい感じに走れているのでもう少しおなかすいたら食事しようとそのまま走る。

PM 0:30
 すこし記憶が曖昧だが、確か近江八幡市に入った辺りから何故か琵琶湖沿いだと自転車で走りづらい道になったので少し距離を置いた道路に入ったらやけに何もない道が続きだした。自転車に乗っている人ならわかると思いますが、さっきまで元気だったのに急におなかが減ることがよくあります。まさにこの時がそうで、何もない状況だというのに猛烈におなかがすきだしてやや血走った目で、「飯屋はどこだ」とつげ義春ばりに走行を続ける。

PM 1:30
 ようやく道路沿いの小さな食堂を見つけ、そこで何かの定食を食べる。ただそれでも全然おなかがすいていたので追加でクリームソーダも頼んで一服する。

PM 3:00
 ここまで順調に走ってこれて、確かこの時間位に彦根市に入った気がする。ちょうどこの頃はひこにゃんが大活躍していた頃だったので寄って行ってもよかったが既に何度か来ているので、軽くスルーしようかと思ったら親父からメールが来て、「今、彦根にいる」と返信して再び走行を再開する。

PM 5:00
 順調に走り続けていて確か高月町を走ってた頃だったと思う。突然後ろから「パンッ」という破裂音がし、はっとして自転車を停めて振り向くと案の定後輪がパンクをしていた。情けない話だが本来なら出来て当たり前なのに、自転車のパンク修理をすることが出来ない私はこの時ももちろん修理用具を持ってきていなかった。しかしこの時、普段なら絶望するような状況だったと思うが何故かこの時は腹が座っていて、「やった、今日はついてる」などと思ってしまった。
 というのもパンクをしたのがちょうど市街地を抜けたばかりのところで、何もない道路の真ん中ではなく自転車屋が探しやすい位置にいたということに自らの強運を感じたのが先ほどのセリフに結びついた。そういうわけで急いで自転車を降りて引きながら歩き、途中の交番で自転車屋を教えてもらってまた長々と30分くらい歩いてみつけた自転車屋に入ってそのままパンク修理を依頼した。夕方ということもあって店が閉まってはいないかが心配だったが六時前だったのに開いており、運良くそのまま修理をしてもらって再び走り出した。

PM 6:00
 既に日も暮れかかっていたが先ほどのパンクという最大のピンチを乗り越えたせいもあってテンションは下がらなかった。しかし好事魔多しとは言うが、まさにこの時に最大のミスを犯してしまう。
 そのミスというのも、単純にルート間違いであった。滋賀県の地図を見てもらえばわかると思うが高月町は位置的には琵琶湖の北端にある地域であとはここから西へ行って南に向かえば元の大津に着くだろうと思っていたら、何故か途中の道路上の案内板には大津に行くには東へ向かうようにと書かれていた。方角的には明らかに逆方向だがもしかしたら自分の知らないルートがあるのかと思ってその案内にしたがって東へ走るが、明らかにこれまで走ってきた道を戻っているルートにしかなっていなかった。
 心配になってコンビニで地図を見てみるが、やはり逆方向である。ここはどうするべきかと悩んだが、この際また戻った道を戻りなおして案内を無視して自分の信じる方角と道を突き進むことにした。結果的には私の考えるルートが正しかったのだが、案内板が何故逆方向を指示していたかというとその方角には大津にもつながっている高速道路のインターチェンジがあり、いわば自動車向けの案内板だったのだ。はっきり言って非常に紛らわしいので滋賀県にはこういう表示は避けてもらいたい。なおこの時に誤走した距離は10キロ以上はあった。

PM 7:00
 完全に日が暮れるが、まだ距離的には半分しか来ていないことにちょっと焦りだす。しかしその焦りもぶっ飛ぶ位に、眼前の道に途方にくれてしまう。というのも高月町を抜けた先にある西浅井町に入るや、道に勾配、言い換えるなら登りの山道に突然入ったからだった。それほどきつい傾斜ではないもののずっと琵琶湖沿いの平地を走っていけるだろうと高をくくっていたのと、そろそろ疲労が体に回りだした事もあってショックが大きかった。しかも山道に入るので琵琶湖が視界から消えるので、夜道で方角も正しく走っていけるかなどの不安もあったが腹をくくって突き進む。案の定、死にそうな位に疲れた。

PM 8:30
 山道の途中のコンビニでルート確認も込めて休憩する。現在位置と確認して高月町以来不安だったルートが正しかったことが確認できてほっとするも、残りの距離を見比べてため息も出る。それこそ体力十分の状態であれば山道を降りれば後は一気に南へと下っていけそうなのだが、既にひざが痛み出してて最後まで走りきれるか不安があった。あとこの分だと十時前のNHKのスポーツニュースは見られないだろうとそろそろ観念する。

PM9:30
 高島市突入。西浅井町の山道を越えて残りは正真正銘の平地一直線ということもあって希望が出てくるが、既に体の疲労が半端じゃないところまで来ているのと中途半端に外灯が少ないのが不安だったが、不思議と心細さはあまり感じなかった。普段の自分なら結構うたれ弱いところもあってこういうときにへこたれがちだが、この時は自分でも驚く位の精神的なタフさを維持できた。
 もっとも、十五時間以上も自転車で走り続けて真っ暗な道に一人でいればうたれ弱くなくとも大抵の人はへこたれると思うけど。

PM11:00
 ついに大津市に突入する。ちなみにこの時は早く帰りたくてしょうがなかったので夕食はとらず、ちょこちょことコンビニで菓子パンを食べるに留まっていたせいか疲労が文字通りピークに達していた。
 この大津市に着いたところで一つの問題が持ち上がる。その問題というのも、京都への帰りのルートをどうするかということだった。既に何度も書いているようにこの時点で疲労がピークで足はガクガクだし、両手の握力も怪しいところまで来ていたので、行きの時と同じように山中越えを出来るかどうかが不安だった。しかしここで山科ルートを通るにしても一度も通ったことの無い道を通ることになり、なおかつ山中越えと比べて京都市内についてから自宅までの距離が離れることもあって、進むも退くも地獄ならばとばかりに山中越えルートを決心する。それにしても、この時にファミレスかどっかで休憩をとりゃいいのにと思わずにはいられない。

PM12:00
 眼前に広がる急な山道。そう、ここが始まりの地であり終わりの地でもあるんだと、「この先比叡山」という看板の前で一人で思う。
 そんなわけでついにまた山中越えの入り口こと、国道30号線にたどり着いた。この時点で琵琶湖一周は完全に達成されたが何故だかこの時に小学校の校長が言っていた、「遠足は、帰るまでが遠足です」という言葉を思い出しつつ最後の大仕事だと自分に言い聞かせて、既に登り道で自転車のペダルをこぐ力が残っていなかったので自転車を降りて押しながら一歩、また一歩と、足を冗談じゃなく本当に引きずりながら登り始めた。
 なおこの時、夏場と言うこともあって夜とはいえ水分が不足し始め、なんか自動販売機を見つけるごとにスポーツドリンクか水を悉く買ってぐいぐい飲んでいたのだが、そのうちの一つの自販機の前にはヤンキーのカップルが真夜中にもかかわらず座り込んでいたが喉が渇いてしょうがないので買おうと近づくと、「なんだこいつ?」と、わざと私に聞こえるような嫌味を男の方が言ってきた。「てめぇらみたいなチャラチャラした奴らに、俺のこれまでの苦労がわかってたまるか」と心の中で念じつつ、無視して飲み物を買ってまたフラフラとゾンビの如く登頂を続ける。

AM 0:30
 足が本当に限界に来ており、それこそ震えながら前に一歩ずつ外灯など一切無い真っ暗な比叡山への山道を登り続けていました。もうこの時の気分は「母を訪ねて三千里」のマルコで、ここを越えたら母さんならぬ家に帰れるんだと何度も言い聞かせながら登っていたその時でした。突然自分の見上げる視界から地平線のように道路が途切れたのです。ここまで言えばわかると思いますが、このルートの最頂点こと登り道をついに終えたのです。おっかなびっくりその道路の上で自転車に乗ると、「こいつ、動くぞ」とばかりに自転車がひとりでに前に走り出します。そう、下り道に入ったのです。
 もうそっからは非常に爽快でした。外灯が一切無くて真っ暗で幽霊でも出てきそうなのは変わらなかったものの、ペダルをひとこぎもせずにハンドルとブレーキ操作だけで自転車が前へと進んで行き、一挙に京都市内へと入ることができました。そっからはまた平地でしたが勝手知った京都の道ゆえ、気分も上々のまま走り続けてついに夜中の一時過ぎ、下宿へと無事帰還を果たせました。


 とまぁこんな感じで琵琶湖一周を達成したわけです。ここには書いていませんが他にも細かくルートを間違えたところもあって、総走行距離は恐らく200キロは確実に越えています。相変わらず自分の無計画さには呆れるのですがこの時の自分のタフさには本人でありながら驚くものがあり、今までうたれ弱い方だと思っていたのを意外と精神的にはタフな方なんじゃないかと思い直すきっかけになりました。今考えても、あんな夜中の山中越えを敢行するのは尋常ならざる精神力な気がします。
 翌日は疲れは多少あったもののそれほど長引かず、翌々日にはまた元気に動き回っていました。この後に行った今年の一月に敢行した房総半島一周と比べるとやっぱりまだ琵琶湖一周の方が楽だった気がします。まぁ向こうはもっと計画が杜撰だったし自転車も壊しているからなぁ。

2009年6月18日木曜日

猛将列伝~木村昌福~

 前回の猛将列伝のコメントで誉めてもらって調子に乗っているので、またこの関係の記事です。今日は久々に近代の軍人で、通にはよく知られているものの一般にはやや知名度が低そうに見える木村昌福氏を取り上げます。

木村昌福(ウィキペディア)

 あまり歴史に興味がないために私と私の親父、果てには福岡出身の嫁さんがいる親父の従兄弟揃って「これだから九州の女は……」と言われる鹿児島出身のうちのお袋ですが、不思議なことにこの木村昌福氏についてはよく知っていて、どのような人物でどんな業績をあげたのかまでも詳しく知っていました。というのもお袋が子供だった頃にこの木村昌福氏をモデルにした映画が三船敏郎氏主演で公開されており、その影響を受けてかお袋らの世代は彼の業績である、あの伝説のキスカ島撤退作戦を知っている人が多いようです。逆にその世代に対して私くらいの世代だとあまり知らない方も多いと思うので、そこそこいい記事にはなる気がします。

 この木村昌福氏というのは旧日本海軍の軍人で、はっきり言ってしまえばそれほど出世街道を歩んだ人物ではなくどちらかというなら叩き上げの軍人タイプな人物でした。旧日本海軍ではハンモックナンバーこと海軍兵学校や海軍大学校時代での成績がそのまま後年の出世順につながったため、大学校に行くことはおろか兵学校で118人中107位の成績だった木村氏はそもそも大した出世は望める立場ではなかったものの、駆逐艦の艦長として長い間勤務するも水雷の戦闘知識や指揮においては周囲からも一目置かれていたため、最終的には実力で中将という地位にまで昇っております。

 そんな木村氏が一躍戦史に名を轟かしたのは既に述べた、俗に言う「キスカ島撤退作戦」からです。
 1943年、ミッドウェー海戦を経て既に防戦側に立たされていた旧日本海軍はこの年に太平洋上にあるアッツ島を米海軍によって攻め落とされてしまいます。このアッツ島は太平洋の上で日本の支配地域からポンと突き出た位置にある島であったため補給もままならず、米軍の激しい攻撃によって守備隊員2650名は全員が玉砕した上に占領されてしまうという悲劇的な結末に終わってしまいました。
 そこで困ったのがこのアッツ島以上に日本から離れた位置にあったキスカ島です。当初日本海軍は米軍が攻めてくるとしたら先にこっちを落とすだろうと守備隊もアッツ島より多い約6000名を擁していたものの、米軍は日本の裏をかいてキスカ島の先にあるアッツ島を先に落とすことでこの島を孤立無援の状態へと追い込んだのです。

 こんな状況下では反撃など望めるべくも無く、司令部も守備隊の救出を最優先事項として早速救出部隊を編成して第一陣として潜水艦の部隊を送るものの米軍のレーダー網にあっさりと見つかり、何百人かを救出するものの少なくない損害も出してしまいました。そこで第二陣として大人数を輸送できる駆逐艦部隊の派遣を決め、その指揮官として木村昌福氏が選ばれました。
 木村氏はこの地域特有の濃霧に隠れて救出作戦を行おうとじっと天候を眺めてチャンスをうかがい、七月十日に一度出撃するもこの時はキスカ島に近づくにつれて霧が晴れてきたために結局途中で引き返してしまいます。この際には米軍と戦闘したわけでもない上に誰も救出してこなかったことから上層部より激しい非難を受けますが、当の木村氏はあまり気にせずすぐに再出撃するようにとの中央の命令を無視しつつ、平然と現地で釣りをしながら次のチャンスをうかがっていました。

 そして来る七月二十二日、再び濃霧発生の予報を受けたことにより木村氏の艦隊は救出のために基地を出撃します。その濃霧予報は見事に当たり、キスカ島に行く途中に同じ日本の艦隊内で沈没にまで至らなかったものの衝突事故を起こすほどの濃霧だったようで、米軍のレーダーも霧によって誤認を起こし、誰もいない海域に向かって延々と攻撃をかけてしまったほどだったようです。
 しかも奇跡的というべきか、米軍はその後も一向にレーダーがうまく機能せず、先にレーダーで誤認した敵艦隊をすでに全滅させたと勘違いして七月二十八日に一旦補給をするためにキスカ島を包囲していた艦隊を撤退させてしまいます。そのまさに一瞬とも言うべき米軍が包囲を解いた間隙に、木村氏の艦隊は七月二十九日にキスカ島に上陸を果たしたのです。

 もちろん敵軍なんていないものだから一切妨害を受けないばかりか迅速な輸送によって5000名を越える人数をわずか55分で収容し終えて、そのまま米軍に見つかることなく基地への撤退を見事完了しました。当初、この救出作戦は状況の圧倒的不利さから不可能とまで呼ばれたほどの作戦だったのですが、終わってみると被害は全くといっていいほど無く、しかも一切の戦闘を行わずにこれほどの大人数の撤退を成功させた例は世界戦史上でも全くないといっていいでしょう。なお七月二十八日に包囲を解いた米軍は七月三十日に再び包囲を行いますが既にその時の島はもぬけの殻で、わずか一日の差で米軍は日本兵を逃してしまったのです。

 濃霧といい米軍の誤認といい偶然が重なった要素が多いのは事実ではありますが、一回目の出撃で救出が不可能と見るや批判を恐れずに撤退し、二度目の出撃がドンピシャのタイミングだったことを考えるとその後の強運とも言うべき状況を引っ張ってきたのは木村氏の高い決断力によるものとしか言いようがありません。そのため当時の旧日本軍だけでなく戦後は米軍からも木村氏は高く評価されたとのことです。

 その後木村氏は終戦時まで生き残り、戦後は故郷の山口県で元部下らと共に商売をして天寿を全うしたそうです。豪放磊落な人柄で部下からもよく慕われ、その上冷静な決断を上からの命令にものともすることなく忠実に実行する様はまさに軍人の鑑で、何もこのキスカ島のエピソードだけでなく米国の民間輸送船を撃沈させた際も乗組員がしっかり脱出するまで待ってから沈没させたとのことで、軍人としてだけでなく一私人間としても尊敬させられる人物です。特に出撃に至る決断は見事なもので、中途半端な妥協を一切許さなかったこの決断なくしてこの奇跡はありえなかったでしょう。

 ちなみにこの脱出時にはもう一つ小さなエピソードがあり、キスカ島の守備隊が脱出時に悪戯で「ペスト感染患者隔離所」という嘘の看板を島に残して行った為、守備隊のいなくなった後に上陸した米兵はペスト菌に感染するのではないかと大いに慌てたそうです。

2009年6月17日水曜日

公務員の金銭感覚について

 もうあんまり会わなくなってそこそこ時間が経っていますが、以前に俳優を夢見て活動している友人がいました。その友人は物を貸したらなかなか返してくれないルーズな奴でしたが基本はいい奴で、下宿が隣同士ということもあって当時に二人で結構むちゃくちゃなことをやっており、今でも覚えているので片道25キロかけて一緒に自転車で京都市内に突入した挙句、そのまま自転車で市内を一日中観光し回ってまた25キロを走って帰ってきたのはいい思い出です。

 そんな友人ですが父親は県庁で働いているという公務員一家の出身で、私も興味があったこともありいろいろと公務員の仕事ぶりなどを聞いてたりしていたのですが、その際によく友人が言っていたのは、「よく公務員は楽な仕事とか言われてるけどそんなんじゃねぇよ」という言葉でした。
 確かに一部の公務員、私がはっきり知っているのは空港などの入国審査官などは文字通り昼ごはんも食べる暇も無いほど忙しいらしくその働き振りには頭が下がるのですが、友人の父親は県庁なのでどんなものかと敢えて細かいことを聞かずに好きな風に話させ続けさせていると、給与面についてやっぱり民間と比べると公務員は少なくて家計のやりくりは大変だったと洩らすようになりました。

 その友人に言わせると確かに不況期であった当時は周りと比較しても大差は無かったがバブル期の頃は民間との給与の差が大きく大変で、その後も一貫して標準の所得世帯よりは一段低かったなどということなのですが、私はというとその友人の語る内容に対して少し疑問に思うところがありました。というのもその友人が普段話す内容がこう言ってはなんですがどこか浮世離れしているところがありまして、下宿は私と同じで家賃が三万円のアパートでしたが生活ぶりは私からしてやや華美な生活、というより金遣いでした。そこで一つカマをかけようと、何かの拍子にこんなデータを敢えて紹介してみました。

「確か2003年のデータだったと思うが、全所得世帯のうち年収1,000万円を超える世帯は全体の4.9%だ」
「えっ、マジ? 俺、年収1,000万円越えている所って結構あると思ってた」

 そう言って、案の定というか彼の家も年収1,000万円を越えているのを白状しました。

 別にその友人が嫌いでもなんでもないですし最近連絡とってはいないけど今でもいい友人だと私は思っていますが、この友人の例のようにどうも外から見ていると公務員やその一家は自分たちの収入について「少ない方だ」と本気で信じ込んでいる傾向があるのではないかと私は思います。実際には日本の公務員の収入は地方中央のどちらもバブル崩壊以降は民間の給料が一貫して下がっているのに対して逆に上がり続け、現在に至っては民間平均の数割増で当たり前というほどの超高給職となっております。にもかかわらず大阪府や大阪市、それに京都市から果てには今ブログ市長で有名な阿久根市の職員などはテレビカメラの前でも声高に、「自分たちは一生懸命働いているのに何で限界ギリギリの給与をさらに下げようとするのだ」と「それはひょっとしてギャグでやっているのか(゚Д゚;)!?」と思わせるような限界ギリギリの発言を平気でよくやっています。

 何で彼ら公務員たちは自分たちの収入を少ない方だと信じ込むのは、まぁ単純に思い浮かぶ理由としては非常に視野が狭い中で働いているからだと思いますがそれは置いといて、国と地方合わせて借金漬けの日本をどうにかするために私は彼らの給与は民間平均、場合によってはそれより一段低いところまで引き下げてでも支出を減らさねばならないと思います。そうすると優秀な人材が集まらないなどと国家官僚らは以前からよく言っていますが、社会保険庁などの問題を見ているとそんだけ金をつぎ込んでも優秀な人材が集まってきていないのは確かなのでだったら少ない給料で越したことはないでしょうし、むしろ少ない給料でも働こうとやってくる人材の方が私は公務員という職には適している気もします。

 では具体的に公務員の給料を引き下げるにはどうすればいいかですが、それはやはり情報を一般に公開した挙句、一般世帯との比較をはっきりと突きつけてやることに尽きます。現在例の阿久根市長は各部署ごとに人件費の総額を窓口に貼り付けて公開することで引き下げを現在迫っているそうですが、それによると阿久根市職員の給与は阿久根市全体の平均所得よりやはり三、四割ほど高いそうです。
 よく民主党の議員らが公務員の意識改革と強く訴えておりますが、この金銭感覚一つとっても一般人と大きくかけ離れているところが私からしても見受けられるのであながち間違いじゃない気がします。公務員なのだからデータはすべて公開、比較して、存分に有権者の洗礼を受ける時期に来ていると思います。

  追伸
 今日よく引用した阿久根市と言うのは実はうちのお袋の実家で、普通にテレビニュースでこのブログ市長が取り上げられるとお袋の知り合いもよく映ってきます。またこの前訪問した予備校の恩師もここの出身で、その恩師によると以前の阿久根市の市長の退職金は東京都知事よりも高かったそうです。元はといえば、その退職金の返納を巡ってこの竹原信一阿久根市長が暴れだしたんだけど。

2009年6月16日火曜日

猛将列伝~范雎~

 最近歴史関連の記事が少ないので久々にこの「猛将列伝」系列の記事を書こうと思います。なおグーグルアナリティクスによると、今でも私のブログは検索ワードで「宮崎繁三郎」が二位に就き続けてアクセス数を稼いでおります。件の記事は以前に書いたこの猛将列伝シリーズのこの記事ですが、なんでこんなに検索されるんだろうと書いた本人が一番びっくりしています。

 そういうわけで本題に移りますが、本日紹介するのは中国戦国時代、西暦にすると紀元前三世紀の「范雎」という人物です。この人物が描かれている歴史書は言わずもがなの史記ですが、実は史記に登場する人物の中で私はこの范雎が一番好きな人物でもあり、中二病的なくらいにこの人物と自分を重ね合わせたりすることがよくあります。
 そんな范雎ですが一体どんな人物かというと、一言で言えばその後始皇帝の時代に始めて中国を統一した泰国の宰相です。この范雎が活躍したのは始皇帝が国王として統治する前の昭襄王(始皇帝の曽祖父)の時代で、事実上後の泰の統一を確固たるものにした国王です。

 この范雎は元々は泰の人間ではなくむしろ泰と長らく敵対してきた魏の出身でした。若い頃から弁舌に優れていてそれを評価した魏の大臣の付き人として働いていたのですが、ある日斉の国に使者として派遣された大臣に付いて行ったところ、范雎の優秀さに気がついた斉の大臣が先にコネを作っておこうと范雎個人へ贈り物を送ろうとしたのですが、それを何かしら機密情報を密告した謝礼ではないかと疑った大臣らによって激しい拷問をかけられることとなってしまいました。
 もちろんそんな事実は一切なかったようなのですが、その際の拷問は凄まじいもので散々殴る蹴るなど暴行を加えられた後に文字通り簀巻きにされて便所にまで放り投げられ、各人に小便まで引っ掛けられて嘲け笑われた程でした。

 そんな大ピンチの中、范雎は牢番に死んだことにして助けてくれと頼み、その頼みを受け入れた牢番が大臣に小便で溺れ死んだと偽ったことによって九死に一生を得ました。そうして脱出した范雎は密かに魏を脱出して泰に赴くと、「長禄」という名前に変えて当時外戚によって権力を握られて何もすることの出来なかった昭襄王に近づき、一念発起して外戚を追い出して親政をすべきだと諭して信用を得、范雎の建言を受け入れて親政を始めた昭襄王によって宰相に任命されます。
 宰相に任命されるや范雎は次々と政策を実行していき、その中でも特に際立ったのはいわゆる「遠交近攻」政策でした。これは日本の戦国時代でもよく使われた外交政策ですが簡単に説明すると国境の接していない遠くの国とは誼を結び、自国とその国に挟まれる国境の接する国を両国で攻め込んで打ち倒していくというオセロゲームのような外交戦略のことです。まぁもっとも、間の国が倒れたら今度はその両国が争うことになるんだけど。

 この遠交近攻政策が功を奏し、当時の泰に戦国時代最強とまで言われた猛将白起もいたことで泰は一挙に勢力を拡大し、隣国の韓の領土を分断して弱体化させただけでなく近隣の弱小国も次々と併呑していきました。極めつけがこれまた戦国時代において最大規模の戦争と言われる長平の合戦において、白起の名采配もあり泰に次ぐ最大国であった趙を完膚なきまで叩いて40万もの趙兵を生き埋めにするという大戦果を挙げるに至りました。

 この頃、巨大化する泰に対してその脅威を和らげるために魏から泰へ使者が送られたのですが、皮肉なことにこの時送られた使者というのがかつて范雎を拷問にかけた大臣の一人でした。その大臣が来るとわかるや范雎はわざt汚い身なりをして会いに行き、運良く生き返ったといって再会を喜んだふりをしました。大臣の方も行き違いがあったとはいえ高く評価していた范雎と再会したことを喜び、しかもその范雎が泰の宰相に今仕えていて大臣に早速明日にでも引き合わせてくれると言うもんですから疑いも無く信用してしまいます。
 その大臣は泰の宰相は長禄という人物だと信じていたのですが、既に述べたようにそれは范雎が泰に来てから名乗りだした変名で、次の日に大臣を屋敷へ連れて行って待合室で待たせていざ謁見するや、さっきまで汚い格好をしていた范雎が宰相の席に座っているもんだから大いに腰を抜かしたことでしょう。

 范雎はその大臣が再会時に汚い身なりを哀れんで上等な着物を譲ってくれたことに免じて生かしてやると伝えるものの、魏との同盟は一切認めず、また自分を拷問にかけるのを主導した公子(国王の一族)の首を持ってこない限り真っ先に魏を叩き潰すと伝えて大臣を追い返しました。その後紆余曲折はありましたが、范雎は見事復讐を果たして公子の首を送り届けさせます。

 その後范雎は屋敷にやってきた人物に、もし范雎を買ってくれた後ろ盾の昭襄王が死ねばかつての呉起や商軮のように范雎に恨みを持つ人物らによって殺されるだろうから今のうちに引退したほうがいいと説得され、まだ全然現役にもかかわらず早くに引退します。史記というのは才能があるものの悲劇的な最後を遂げる人物が多い中で、過程は壮絶ではあるものの、唯一といっていいほどこの范雎は在世中に功績を挙げただけでなく無事天寿を全うすることが出来ました。

 私がこの范雎に惹かれるのはそうした苦労をしたものの最後は報われた人物であることと、自分をあらぬ罪で追い落とした人物へ見事復讐を果たした点に尽きます。世の中才能があってもなかなか報われないとはわかっているだけに、見事それを開花して成功した話は相応の美しさがあります。

ウィキペディアのハゲのページについて

 まずは何も考えず、以下のページをご覧ください。

ハゲ(ウィキペディア)

 このページは今日発見したのですが、何があるかってまずいきなりハゲの一例として旧ソ連大統領のゴルバチョフ氏の写真が出てくることです。このゴルバチョフ氏に続いてフルシチョフ氏、そして何故か舛添要一厚生労働大臣の写真が貼り付けられており、終いにはフランシスコ・ザビエルの肖像画までついてきております。

 これらの写真はハゲ方の一例として貼り付けられていますが中身の文章とは何の脈絡もなく、恐らく貼り付けた方が冗談でこれらの写真を選んだのだと思います。それにしたって、もうすこし選びようがあるだろうという気もするのですが……。

2009年6月15日月曜日

厚生労働省職員逮捕について

 西川郵政会社社長の人事を巡って揺れに揺れた一週間が鳩山総務相の更迭によってようやく過ぎたかと思うや、この人事問題の一つの発端となったヤマダ電機による障害者団体割引不正使用問題が昨日になって急展開を見せ、なんと郵政会社に留まらず厚生労働省の次期次官候補の一人として目されていた女性職員が逮捕される事態となりました。
 事件の詳細や女性職員の逮捕容疑については他のニュース報道に譲りますが、いくら素人といっても鳩山元総務相が更迭された直後にこんな急展開を見せられもしたら、何かしら政官財の間の裏があるのではないかと疑ってしまいます。

 当の鳩山元総務相はというと本日のNHKの七時のニュースにて報道されていましたが、前回の「鳩山邦夫総務相更迭について」で私も書いた事実を記者団に対して肯定し、

今年の春に麻生首相から手紙を受け取り、その中に書いてある候補の中から西川社長の次の後任を選ぶようにとの指示を受けた

 とぶちまけ、最後の捨て台詞として「信じた私が馬鹿だった」とまで言ってくれました。この件を夕方にぶら下がり記者に問われた麻生首相は「ノーコメントです」と返答を拒みましたが、これじゃ暗に肯定しているようなもんでしょう。
 さすがに私も今までは慎重を期して敢えて匂わす程度で抑えてきましたが、要するに今回の後任人事問題は鳩山元総務相というより麻生首相の主導で行われてきた可能性が高い、というのが私の最初からの見立てです。鳩山総務相の方はというと恐らく本人も言われるがままではなく自らの考えもあって西川社長を糾弾していたのだと思いますが、ここまで派手に暴れまわったのは麻生氏の直接的か間接的かの指示を受け、もしくは阿吽の呼吸というか麻生首相の意を汲んで行っていたのだと思います。どっちにしろ、それが見事に逆の結果となってしまったのは皮肉ですが。

 私としてはこの関連の記事で何度も言っているように、障害者割引の不正使用問題が起きた際に西川社長ら経営陣が一切事態究明に取り組もうという態度を見せないばかりか、昨日に厚労省の職員が逮捕されるまでほぼこの事件はもう終わりかと思わされる位に事態が動かなかったなことに納得行かず、民営化の推進はともかく西川社長は経営責任を取って辞任すべきだと考えていました。言ってはなんですが恐らくヤマダ電機が摘発されたような行為は恐らくそこだけにとどまらず、もっといろんなところでやっているでしょう。広告代理店も絡んでいるんだし、業界内では割と公然と行われていたと予想できますし、その辺をこの期に洗いざらい摘発されることを願っております。

 なおこれは完全に根拠なしで私の勝手な妄想ですが、今回の厚労省職員の逮捕は足利事件での菅家氏の釈放が無ければ行われなかったのではないかと個人的に思います。今回職員を逮捕したのは東京地検特捜部ですが、検察はあの足利事件によって国民から総スカンを食らったので今回は汚名返上とばかりに幕引きが行われようとしていたこの事件を鳩山元総務相の更迭で注目が集まっている中で仕事してるのを見せ付けるため、急転直下で捜査をまた動かし始めたんじゃないかと疑いすぎかもしれませんが思わずにおれません。一つだけ確かなのは、今回の職員逮捕の背景には問題となった障害者団体の認定を巡りある国会議員の強い要望に職員が応じて団体の認定を行ったことが逮捕容疑となっていて、その国会議員は今日の朝日新聞夕刊によると民主党だと報じられているということです。