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2009年12月20日日曜日

どうでもいい英文

 本当はこういうネタはツイッターとかでやるべきなのでしょうが、このまえふと思いついてYAHOO翻訳で作ったので折角だから公開します。

The Asura man sang Pajna-para-mita sutra to oneself pleasantly while licking the candy while chewing gum.
訳:そのアシュラマンはキャンディーを舐めながら、ガムを噛みながら般若心経を心地よく口ずさんだ。

 顔が三つあるんだから、こういうことも可能だろうなと思って作りました。なんか最近、疲れているのだろうか……。

2009年12月19日土曜日

書評「日本辺境論」

 今朝は予定通りに七時半から自転車に乗って十数キロ先の街まで走ってきました。戻ってくる途中で銭湯で朝風呂するなどブルジョア全開でしたが、出発時はあまりの寒さで肺が冷えて呼吸するのも辛かったです。

 そんな私事は置いといて本題に入りますが、今日はこの前にもちょこっとだけ紹介した内田樹氏の「日本辺境論」(新潮新書)の書評+αです。ちなみに「にほんへんきょうろん」とキーボードで打つといつも「日本偏狭論」と変換されてしまうのですが、あながち本の内容からも遠くない変換です。

 まずこの本の概要を簡単に説明すると、日本人と日本文化というのは言わばアメーバのように本質がなく、常に変化をし続けていて何一つ全く変わらない価値観というものがない、ということが全体を通して書かれています。
 そうは言っても日本の伝統建築や茶道といった文化、武士道という価値観があるではないかと思う方もおられるかもしれませんが、ここで言うのもなんですが実はこれらの文化もこれまでに結構変わりまくっています。

 まず伝統建築については確かに法隆寺みたいにずっと残り続けているものもありますが、日本の家屋の形態は木造建築が主ではあるものの時代ごとに流行があり、仏寺の構成も決して一定ではありません。そして茶道も一見すると千利休によって成立以後は決まった作法がずっと続けられているかと思われがちですが、当初の形態だとお茶を飲む時は現在のように正座ではなく胡坐だったそうです。
 そして極め付けが武士道ですが、新渡戸稲造なんかはこれが日本の伝統的倫理観だと強く主張したもののこれも時代ごとに影響を受けて変わり続けており、いわばその時代の理想形をなんでもかんでも武士道と言い張る所が日本人にはあるように私は思えます。こんなこと言うと、藤原正彦氏には悪いんだけど。

 こんな具合で内田氏は日本人は根っことなる概念、いわば自ら作り出して保持し続ける概念がこれまでも現在もないと主張しており、それは以前に書いた「日本語のマルチな特徴」にも取り上げているように漢字を使う一方で平気で勝手に平仮名などを作ってしまった日本語にも現れていると述べています。

 それがため国際概念についても基本的には自前で組み立てる事は出来ず、いつも他国の枠組みの上で日本と言う位置を決めたがる所があるとなかなか重要な指摘をしております。具体的にこれはどういうことかというと、自分(=日本)を主人公として世界をどのような方向に持って行くのか、そのためにはどのような外交をすればいいのかという組み立て方をせず、他国の世界戦略の中で日本をどの位置に持っていくのかと考えるという事です。

 具体的な例をいくつか出すと、まず明治時代においては日本を如何に西洋列強と同じ位置に持っていくかということだけを考え、その後の昭和前期は日本をかつての中国の柵封体制の概念において首領たる中国の位置に置こうとして、そして冷戦時代になるとアジアにおけるアメリカの橋頭堡であり続けようという外交方針が立てられています。このどれもが言ってはなんですが主体性は低く、日本のオリジナルな世界戦略というものが見えてきません。ついでに書くと石原莞爾の「世界最終戦総論」も実際には当時世界で流行していた考え方らしく、決して石原の完全オリジナルな戦略というわけじゃなかったそうです。

 ではこんなに確固たる価値概念が少なくて、現代でも流行に振り回されて婚活ビジネスにお金を巻き上げられるのが多いくらいふにゃふにゃした日本人は一体どうやって物事の正否を決めているのかというと内田氏は、こちらも私が以前に「空気の読み方、呑まれ方」で触れましたが、いわば場の空気によって決めてしまうと述べています。
 いくら理不尽な事でも周りがそれを当然だと思えば平気で受け入れてしまうところが日本人にあり、そのため自分の行動が正しいかどうか日本人は常に周りをきょろきょろしていると指摘した上で、それがゆえに先ほどの国際外交のように自分で概念を作れないのだと内田氏は主張しています。

 ただ内田氏はこのような日本人の特徴を決して悪いと批判せず、逆にそれだからこそ大きな利点があるとも述べており、特にそれが出ているのが学びの姿勢にあるとしています。日本人は師匠やら先生から教えを受ける際にその教えが一体どのような効果を持って、またどれほど効率的なのかを一切尋ねませんし、たとえ自分が他に効率的と思える訓練を知っていても黙っててくれます。このような学ぶ姿勢は教えに疑問を抱く者に比べて吸収がよく、ひいては日本人全体の適応力にもつながっているというわけです。

 実際にこれは私からの付け足しですが、内田氏の言うように私も日本の適応力、というよりはキャッチアップする力は相当高いと見ています。明治時代の日本を含むアジア諸国を比べてみると、日本は自分達より西欧諸国の方が優れていると見るや自分からちょんまげを切り落としてぱっぱと変わっていったのに対し、中国(当時は清)や韓国はなかなか自国文化への信頼を捨てきれず、西欧式に改めようとする傍から反動派が巻き返しを図って、結果論ですがほぼすべての改革が水泡に帰してしまっています。そういった例と比べると、この明治の時代といい昭和の戦後といい、日本人の引き返して追いつくという力は素直に評価していいと思います。その分、キャッチアップ後には迷走し始めるところが少なからずある気がしますが。

 とまぁこんな感じの本でそこそこお薦めなのですが、内田氏はこの本で日本人の本質のない性格をアメーバのようにと言いましたが、私は以前から徳川慶喜のような人間を背骨(バックボーン)のない人間と呼んでいたのでこれからの表現はこっちに切り替えます。ちなみにこの表現は溥傑氏が兄を表現した時に使った言葉で、初見で気に入って今でもよく使っています。

 話は戻ってこの背骨のない日本人の性格についてですが、実は内田氏以前にもこれをはっきりと認識していたばかりか相当に研究をしていた連中がいて、何を隠そうアメリカ政府でした。アメリカ政府は太平洋戦争末期になると終戦後の日本の統治方法についてかなり早くから日本の専門家を集めて研究をしており、この様な日本人の特徴も掴んでいたそうです。逆にわかっていたがゆえに、一体どうやってこんないい加減な連中を従わせればいいのか、下手すれば一気に社会主義に流れてしまうのではないかといろいろ悩んだそうなのですが、作家の佐藤優氏によるとある一点において日本人は大昔から現在に至るまで特有ともいえるある民族性を持っていることにアメリカは気がついたそうです。その民族性というのも、日本人の天皇への崇拝です。

 よく昭和天皇がマッカーサーを訪問した際の謙虚な態度にマッカーサーが感動し、天皇の戦争責任を問わないと決意したと言われていますが、断言してもいいですが天皇制の保護は終戦前の時点で決まっていたことでした。アメリカは日本人が天皇に対してのみ歴史的にも一貫した態度を取っている事から天皇制の保護が占領政策で一番重要になると考え、ソ連を始めとした処罰論を封じ込めて保護し、自らの統治に利用したわけです。

 何故背骨のない日本人は歴史的にも天皇制に対してずっと同じ態度を貫き続けているかについて佐藤氏は、まさに日本独特ともいえる、権威と権力の分離を行うという知恵を用いたからだと説明しています。
 この権威と権力の分離というのは、天皇というのはいわば権力に対してお墨付きを与える権威であって、実際に政策を決めて実行する権力は藤原氏、鎌倉幕府、室町幕府、徳川幕府、明治政府と変わることはあっても、以前の勢力を倒して新たに実権を握ろうとする新規勢力は自らの権力に正当性を持たせるために権威である天皇を利用しなければならず、それがために天皇制を廃止しようとする勢力はほとんど現れなかったと佐藤氏は主張しています。なんだったら、明治政府の後にはアメリカ政府と付け加えてもいいかもしれないなぁ。

 アメリカでは大統領が権威と権力を兼ね備えますが、日本はイギリスと同じく両方が分離しています。そしてそのような権威という役割を世界最長といってもいいくらいの千年以上も持ち続けたがゆえに、いい加減な日本人でもここだけは譲れない一点になったのでしょう。

 現在、習近平中国副主席との会見問題にて民主党の小沢幹事長の発言がよく取り上げられていますが、見ようによってはあれは菊の尻尾に触れてしまったと見ることも出来ます。私も日本人であるゆえに完全に中立的にはこの問題を語れませんが、ちょっと相手を間違えたなと今回ばかりは思います。

2009年12月18日金曜日

ゲームレビュー、「パチパラ13」

 書きたいネタはあるけど明日は早起きして自転車に乗るつもりなので、またも気軽に流せる記事です。このところ固いネタばかりだったし。

 さて今日私が紹介するゲームと言うのは、アイレムから出された「パチパラ13 ~スーパー海とパチプロ風雲録~」というゲームです。タイトルからわかるとおりに所謂パチスロを題材にしたゲームで、一応は今も後継シリーズがパチンコホールで唸りを上げている「スーパー海物語」のシミュレーターゲームなはずなのですが、おまけ、というよりもすでにこっちがメインディッシュとなっているアドベンチャーパートの「パチプロ風雲録」が凄まじい内容となっております。

 この「パチプロ風雲録」はひょんなことからパチプロとなってしまった主人公が様々なライバルと戦いながら住んでいる街を舞台にしたドラマを体験するという内容なのですが、まず特筆するべきはゲーム内の自由度です。このゲームは「グランドセフトオート」に代表される「箱庭ゲーム」の一種で、ゲーム内の街の中で主人公を自由自在に動かしつつイベントを進めるのですが、その自由度が国産のゲームとしては半端ないほどの幅広さを持っております。

 好きな所を好きな風に移動できるのはもちろんの事、服装を変えることで髪型から靴に至るまで自由にキャラグラフィックを変える事も出来ます。さすがに女主人公のバストは初期設定からはいじれないけど。
 その上、街の中の造形も見事なものです。現代的な都市から昭和臭さを残した古い町並み、果てには明日のジョーに出てきそうなドヤ街みたいな場所まで用意されてあります。さらにはそういった街の中にあるお店も実に多種多様で、食事を取る場所で言ったら高級レストランからファミレス、ファーストフード店、果てには牛丼屋や屋台のたこ焼きやまで登場してきます。

 この様な自由度は街の中の移動や行動に限らず、イベントでの主人公の行動にもよく現れております。よく「アイレムの作る選択肢は想像の斜め上を行く」と言われていますが、このゲームではそれが遺憾なく発揮されており、一体どこからこんな選択肢が出てくるのかと唖然とさせられる場面が数多くありました。
 いくつか例を出すと、後ろから柄の悪い男にぶつかられて因縁つけられた際に出てくる行動の選択肢として、

1、下手に出て謝る
2、「何をするんだ」と言い返す
3、突然地面を舐める


 もちろんこの時私は3を選びましたが、これ以外にも放火で自宅兼工場が燃えてしまってうなだれるヒロインに対し、

1、慰める言葉をかける
2、何も言わず肩を抱く
3、こういうときは黙っている
4、「こんなに間近で火事を見たのは初めてだよ!」と言う


 4番目を選ぶとヒロインもさすがに泣き出してしまいます。それでも私は選んだけど。

 終始こんな具合で、ここに挙げた選択肢は私が覚えているものだけですが、実際には一回の選択肢で六個とか七個も出てくる事がざらです。中にはサブイベントでヤクザを使って立てこもっている人間を追い出すというイベントもあるのですが、その際にも、

「合図を出したら飛び込んできて、一斉に踊ってくれ!」

 というのがあり、これを選ぶと本当にヤクザたちが追い込みの最中に踊ってくれます。

 現在このゲームは廉価版も出ていますが、多分6000円以上の新品で買っていても私は後悔しなかったと思います。ややロード時間が長すぎるのが欠点ですがそれを補って余りある面白さがあり、パチンコを実際に一度も打ったことのない私でもクリアできたのですから気にせず是非手にとって遊んで欲しいゲームです。

 ちなみにこのゲームの中盤のイベントで、高校卒業後に一流企業に入った同級生にパチプロなんかしてフラフラしていると笑われ、テーマソングが流れながら雨の中で主人公が一人すすり泣くシーンがあるのですが、その時の私の主人公の髪型は辮髪で、しかも上半身には何も着ないで水泳パンツだけを身につけ、靴は何故か革靴という男が雨の中泣いているのでえらい笑えました。

2009年12月17日木曜日

内戦状態の日本 その三、抵抗する価値

 少し日が空いてしまいましたが、この一連の記事も今回が最後です。
 前回に書いた「反応と期待」の記事にて私は、現代の日本人は過剰に相手のことを気にしすぎたり、また要求が高すぎるために非常にストレスのかかる社会になっているのではないのかと主張しました。前回に引き続きまたここでも一例を出すと、ちょっと前に流れていたCMで外人が、「日本人は(商品に対して)うるさい」と言うものがありましたが、実際に商品の品質や食品の衛生管理に対しては世界的に見てもうるさい方です。

 だからこそ日本ブランドが高く評価されることにもつながったのですが、前回にも書いたように高水準の品質価値を作る一方で品質に対する要求もエスカレートしてゆき、商品を作る側も買う側同じ日本人であるのにどっちも気が遠くなるまで対応して、気が遠くなるまで文句を言うものだから住み辛い社会になったのではないかと以前から感じていました。
 現実に恐らく以前からも多少は存在してはいたでしょうが、所謂モンスターペアレントのような理不尽な要求を学校や企業、官公庁に行うクレーマーが運営に支障を及ぼすほど発生し続けております。この前もまたこんなニュースがあり、私も唖然とさせられました。

保護者が「迷惑料」10万円要求、校長は鬱病で休職…学校で理不尽続発(産経新聞)

 さっき私は以前にも恐らくは多少はいたと述べましたが、現在に至ってはこうやって報道されるのはごく一部で、実態的には計り知れないほどこのようなわけのわからない人間が溢れているとも言われております。

 我ながら強引な考え方とも思いますが、こうした人間が何故現れるようになったかという理由を問われるなら私はやはり、日本の社会が過剰に社会や個人の要求に答えてきたからだと思います。蛇口をひねれば安全に飲める水が簡単に出てくるものだからいつしか水のありがたさを忘れてしまうように、人間というものは基本的に環境によって考え方や振る舞いが変わるものだと私は考えております。ですので水と同じように懇切丁寧に細かい要求を日本人同士で叶えようとした事が、現在のように自殺やうつ病患者を大量に出す社会、特に三年以内に新卒就職者が半数は辞めていくという異常な労働環境を生んでいるように思えます。

 ではこうした負の連鎖ともいうべき反応と期待のエスカレートを止めるにはどうするかという私案ですが、私以外にも何人か主張していますが、よく言われる方法はやはりもっと自分勝手な生き方を日本人が自覚して行う事です。確かにこうすることで過剰な反応は抑える事は出来るのですが、その一方で自分勝手になるため期待を強く行う新たなクレーマー生んでしまう可能性がこの方法にはあるように思えます。
 これに対する私の案はというと、副題にあるようにもっと抵抗という行為を社会で奨励する事だと思います。

 なんかこんな風に書くと一時の社会主義者みたいですが、私は現代の日本人、特に若者についてはもっと激しく過激に抵抗する姿勢をとってもいいと思っています。就職機会が奪われているだけでなく国の一時しのぎのために国債を乱発され、おまけに労働環境はさっきも言った通りに短い期間でどんどんと辞めていく。前にも書きましたがこれは現代の若者が以前と比べてわがままになったからだという理由だけでは到底説明のつかない数字で、私も以前とは考え方が変わって若者がフリーターやニートになる事に対してもはやしょうがないのではないかと思うようになりました。

 具体的にどのように抵抗するかと言えば、それは言うまでもなく過剰な要求に対してです。この前私が知り合いから聞いた話では会社で電話を取るなり名乗る事すらせずにいきなり、「いつもの」と言ってきて、詳しく注文内容を確認しようとしたら怒鳴られたそうなのですが、こんなのこちらから怒鳴り返してやるべきですし、また彼を雇っている会社もいくら売上げが落ちるからといってこんな変な客を相手にしてはならないでしょう。そっちより、こんな理不尽な要求に絶える社員の方が大事なはずなんだし。
 理想論かもしれませんが、いくら客商売だからといって人としてのプライドを投げ打って対応することに私は反対です。そうやって対応する事が上記の負の連鎖を生んでしまうこともさることながら、そこまでプライドを捨てなくとも普通のまともな人間ならちゃんとわかってくれるでしょう。どうせいくら対応した所で過剰な要求をする人間は要求を吊り上げるだけなので、この際とっとと社会から排除した方が世のため人のためです。

 では一体どの辺からが過剰な要求になるかなのですが、そのラインを私なりに定義すると、無条件で何かしらの強制を行う、というのが過剰な要求だと思います。比較的簡単な例は運動部内で年齢が一個か二個上かだけで無用なしごきやらいじめを行うとか、会社内で一切口答えを許さないとか。
 多少喧嘩になってもいいから、もっと日本人はお互いに怒り合うべきだというのが、私の意見です。

2009年12月16日水曜日

英語の特殊性と日本の英語教育について

 前回の記事にて私は日本語のマルチ言語という特殊性について書きましたが、今回は英語の特殊性について書こうと思います。確かこの内容の記事は以前にも書いたことがあると思うのですがいくら検索しても見つからないため、もしかしたら再掲載になってしまうかもしれませんがしょうがないです。

 まず何故英語が特殊な言語なのかです。国際標準語としてこれだけ世界中でも使われているのだから一見合理的で覚えやすそうな言語として捉えられがちですが、英語は文法としてみるならともかく発音にいたっては実際には例外法則が異常に多い言語です。一例を出してみますが、例えばアルファベットの「I」という文字が含まれる以下の二つの単語を発音してみてください。

「Ice」 「Internet」

 両方とも頭に「I」が来ていますが、前者はカタカナにすると「アイス」という発音になるのに対して後者は「インターネット」という発音になります。英語というのはこの「I」のように単語によって「アイ」と読んだり「イ」と読んだり、実は発音方法が複数あることが非常に多い言語なのです。しかもまだ「I」なんてかわいいもので、「P」に至ると、

「Pink」 「Phone」

 と、「ピンク」と「フォン」がどうして同じ文字から始まるんだよと言いたくなってきます。

 何故英語がこの様に同じ文字でも複数の発音方法がされるようになったのかと言うと、これは以前にどっかの本で読んだ内容なのですが、英語発祥の地のイギリスには元々ブリテン島にはウェールズやスコットランド、アイルランドの人たちが居住していたのですが、それが北欧から来たバイキングに所謂ノルマンコンクエストこと征服されてしまいました。しかもその時期にフランス側にいた民族も一部移住してきて、今のアメリカじゃないですけど相当な民族が混在して住むこととなったわけです。
 ところが彼らの言語は全く同じものではなかったものの、「あれ」とか「それ」とか言っている間にそれなりに通じてしまう程度の違いだったそうで、そんなもんだから各民族の言葉がそれこそごちゃ混ぜになっていき、ある単語ではノルマン人の発音、ある単語ではウェールズ人の発音、そしてまたある単語ではフランス人の発音がなされるという形で英語は整備されていったそうなのです。

 いわば日本語とは別の意味でのコングロマリットな言語なのが英語で、こうした点は現在に至るまで同じ英語話者の間でも意思疎通の妨げを生んでおります。最も代表的なのはブリティッシュイングリッシュとアメリカンイングリッシュの違いで、これに限らなくとも発音方法がきちんと定まっていないせいで世界各地地域ごとに好き勝手に発音が為されてしまっております。

 そんな言語として多少不便さを感じてしまう英語ですが、実はこれがまた日本人には相性が最悪ともいうべき言語であるから始末に終えません。
 これは私のロシア語の教師が言っていた言葉なのですが、英語というものはその用法から文法の組み立てに至るまで日本語の精神性とはかけ離れており、日本語の思考で使おうと思っても必ずうまくいかない言語だそうです。だからまだ日本語に近いロシア語を使うロシア人とはうまくやれるんだと、その先生のいつもの講釈に続くわけなのですが。ロシア語を専攻したのも、アメリカ憎しからだったとも言ってたしなぁ。

 実際に私も英語を使ってて、日本語の文章の形だとまず成立しないなと日々感じます。日本語では目的語が先頭にきてから主語や述語が後に続く形も少なくないのですが、英語だとこの用法はまずほとんど使えず、また単語の活用も少ないので言いたくともなかなか言えない構造になりがちです。

 まぁこんだけ英語の悪口書くのも私が英語を苦手としているからだからですが、中学高校と六年間も同じ言語を勉強しておきながら私同様に大半の日本人が英語を苦手とするのはやっぱり相性が悪いのも大きな理由だという気がします。もちろんそれ以上に日本の英語教育のカリキュラムが良くないというのもあり、前にも書いたと思いますが未だに中学生に向かって、「is=です」という教え方をしているのは本当に不思議に思えます。私なんかこれを真に受けちゃって、be動詞のない文章だと語尾がなくなるじゃないかとえらく悩まされました。
 作家の佐藤優氏も近年の外務省職員の英語のレベルの低下は激しく、以前からそうだったらしいですが外務省は日本の大学における英語教育には何も期待しておらず、入省後に自分のところで職員に英語を教えなおすそうです。

 ちょうどタイミングよく日本の英語教育について外国人が討論するという記事を見つけたので、リンクを貼っておきます。

「ここがヘンだよ日本の英語教育」を外国人が語るスレッド(誤訳御免!!)

 言ってははなんですが、英語というのは現在の状況から必要最低限は学ぶ必要はあるかと思いますが、日本人とは相性が悪そうなので必死こいてまでやる必要はないかと思いますし、やるのなら全く効果を上げていない今の教育システムを根本から作り直す必要があると思います。またよく英語が苦手だったから語学は向かないのだろうと敬遠する人も居ますが、英語が苦手でも別の言語では波長が合う事もあるので、英語だけで変に苦手意識を持たないように意識する必要もあるでしょう。現に私も、中国語は肌に合ったし。

 そういう意味で最低限の英語教育は中学までにして、高校からは生徒みんなが好きな言語を選択して勉強するというやり方もあってもいいかと思います。みんなが英語が出来なくとも誰かが出来ればいいのだし、また多種多様に言語を覚えている人間がそこらかしこに居るという事は国家全体にとっても無駄ではない気がします。まぁこんなの、誰も賛同しないと思うけど。

日本語のマルチな特徴

 なんか妙な題になりましたが、ちょっといつもと趣向を変えて言語としての日本語について最近知った事を紹介します。

 最近友人に薦められて内田樹氏の「日本辺境論」(新潮新書)という本を読んだのですが、この本自体の日本人にとって確固たるものがないということが確固たる特徴というテーマについても面白く、今度それについても一本書くつもりなのですが、後半にて書かれている日本語の特徴についてなるほどと思わせられた一説があったので今日はその話です。

 内田氏はこの本の中で日本人は過去の自分にこだわらず現在の自分にとって有利だと思えば平気でそれまでの姿を捨てられる特徴があると全体を通して主張しているのですが、その一例として後半にて日本語、それも漢字と平仮名について大きく一節を設けて説明しております。言うまでもなく日本には元々文字はなく、奈良時代の遣唐使らによって中国より持ち帰られた漢字によって初めて文字文化を持つに至りました。
 ただ中国との国交が少なくなった平安時代に至ると元々の日本語の発声をその意味の漢字に当てはめて使うようになり、更には勝手に平仮名やカタカナといった、日本の発音に即したオリジナルな文字まで作ってしまいます。そのため現在に至るまで日本語の漢字には音読みと訓読みがあり、「東」という字を一つとっても「とう」という読みと「ひがし」という全く脈絡のない二種類の読み方が存在し続けているわけです。

 内田氏はこの平仮名やカタカナと漢字という明らかに性格の異なる文字を一緒に使う点に日本人としての特殊性があると主張しているわけなのですが、その特殊性が発露している場面として、なんていうか又聞きの又聞きみたいになってしまいますが、養老猛司氏の話を引用しながら日本におけるマンガの発達に触れています。

 まず最初に平仮名と漢字の違いですが、これは単純に言ってその記号がどんなものを表しているのかという点が異なっております。平仮名と言うのは発声の仕方を表す表音文字であるのに対し、漢字はその意味を表す表意文字です。日本にいるとあまり気づきませんが、日本語というのは世界においても非常に珍しい、表音文字と表意文字を一緒に使用しているマルチ言語です。
 それこそ日本語を除くとマルチ言語と呼べるのは漢字を使用していた頃の韓国語と同じくベトナムくらいなもので、どちらもすでに文字をハングルとアルファベットに統一している現在だと先進国においては日本ただ一国です。

 この表音文字と表意文字を同時に使用するマルチ言語が何故マンガに関わってくるのかというと、養老氏によると同じ脳の中でも画像を認識する部位と文字のような記号を認識する部位はそれぞれ異なっており、脳に損傷を受けたとしても日本人は平仮名だけ読めなくなったり、漢字だけ読めなくなるという二種類の難読症患者がいるそうなのです。
 通常、他国では表音文字か表意文字の片方だけしか使用しないのに対して、日本は両方を使ってるもんだからそれぞれを同時並行で処理できる力が外国人に比べて必然的に高く、その絵と文字の両方で表現されるマンガの読解力が高かったからこそ世界でも評価される水準にまで持ってこれたのだろうと内田氏はまとめております。

 言われてみると確かになるほどという気がします。日本語が表音、表意文字を操るマルチ言語だとは前から知っていましたが、それが画像と記号を同時処理できる力につながっているとは今まで考えた事がありませんでした。
 なおこれに関連するのかすこし微妙ですが、なんでも映画に字幕をつけて見るのは日本しかないという話を以前にどこかの掲示板で見ました。この映画の字幕もある意味マンガと同じマルチ言語ゆえの特徴かともとることが出来ますが、欧米はどうかまでは知りませんが、中国においては同じ中国国内のテレビ番組で字幕をつけて中国人は見ています。というのも中国は地域によって発音方法に隔たりが大きいために同じ国内の番組でもほぼ例外なく中国語の字幕がついており、なおかつ日本のテレビ番組などといった違法動画でも字幕がついているそうなので、映画の字幕はあまり関係ないのかも知れません。

 ではこうした日本語に対して他の国の文字は表音か表意のどっちなのでしょうか。中国は「魚」と書いたら海で泳ぐあの生物を表すといった具合に表意文字の代表格とも言うべき漢字で、韓国は発声する時の口の形をもじったというほどの表音への入れ込みが強いハングルです。欧米については間詞が多かったり接頭の「H」は読まないという規則が多いもののフランス語のアルファベットは表音文字らしく、また日本人にはなじみの薄いロシアのキリル文字は日本の平仮名同様にはっきりと発音が定まっている表音文字です。

 となると現在国際語としてつかわれている英語のアルファベットは少なくとも表意文字ではないから表音文字かという風に捉えられがちですが、確かに普通に見るなら表音文字ですが私は厳密にはそうは言い切れないのではと私は考えております。何故英語のアルファベットが表音文字ではないのかというと、その英語の特殊な成り立ちに原因があり、次回は英語の特殊性とともに日本の外国語教育について書いてみます。

2009年12月15日火曜日

中国副主席との天皇特例会見について

 昨日から「リュウマの独り言」様と相互リンクを結ぶ事となりました。政治系の話題について詳しい解説が為されているサイトなので、陽月秘話ともども今後もよろしくお願いします。


小沢氏、改めて宮内庁長官批判 宮内庁には応援メール殺到(産経新聞)

 それでは本題ですが、本日、中国の副主席である習近平氏が天皇との会見を行いました。この会見に至るまでの経緯については各報道にて皆さんも知っての事だと思われますが、通常外国要人の天皇との会見は予定調整や天皇の健康上の問題といった関係から一ヶ月以上前に連絡を受ける事が慣例となっているところ、今回の習近平氏との会見はその期限を切っているにもかかわらず、「会見相手が外交上、重要な人物である」という政府の強い要求に押し切られる形で行われたと報じられております。

 先にこの習近平氏について簡単に説明しておくと、現時点でポスト胡錦濤こと未来の中国共産党総書記職の最有力候補とも言うべき人物で、数年前の時点で同じく現在常務委員である李国強氏とともに有望視されていた人物です。2008年の全人代にて常務委員入りしてからはそのライバルの李国強氏に対して功績面で徐々に差をつけ出しており、最早レースの勝敗はついたと評論家からは見られております。

 そういう意味でこの習氏が重要な人物であることに間違いはないのですが、それでも今回の特例会見を私は支持する事が出来ません。その理由としてまず、天皇自身の健康問題が挙げられます。
 すでに高齢の現天皇は数年前にも手術を行っており、もし何かあったときのことを考えるならば会見を行う一ヶ月前に連絡をしなければならないという宮内庁のルールは至極適切なものかと思われます。また今回の一件にて急な会見に当初難色を示した宮内庁を強く批判している小沢氏は習氏が総書記になる前に会見する必要性を強く主張しましたが、中国の総書記職は通常十年を任期としており、そこから逆算するなら習氏が総書記に就くには早くとも後三年強ほど猶予があり、本日に会見を行わなければならないほど急ぐ理由ははっきりいって見当たりません。あるとしたら、民主党が政権についている間に行う必要がある……といったところでしょうか。

 そして今回、一番槍玉に挙がっているのがこの一件に対する先ほどの民主党幹事長である小沢氏の一連の発言です。
 小沢氏は今回の特例会見について上記の様に相手が重要人物であるということに加え、宮内庁が勝手に決めたルールに何故従わなければならないのかと連日口角泡を飛ばしております。また天皇を政治利用する事になるのではないのかという記者の問いに対して、憲法を知らないのかと言い返した上で、天皇の国事行為は国民の選挙によって選ばれた内閣の輔弼によって行うと書いてあり、この特例会見が駄目だと言うのであれば議会の開会や解散宣言などはどうなのだと主張しました。

 しかし、私はこの意見にも納得する事は出来ません。仮に小沢氏の意見が成り立つのであれば天皇は内閣の要求すべてを言われるままに行わなければならないという事にもなりかねず、やはりそれとこれとでは話が違うように思えます。第一、この問題で憲法を持ち出すこと自体が私にとってはナンセンスに感じます。
 更に言えば、これは各所でも言われておりますが、そもそもの話として小沢氏は与党民主党の幹事長であって内閣の一員ではありません。それにもかかわらず内閣がいいというのだから何故やってはならないのかと主張するのはいささか無理があるでしょう。

 こんな具合で今回の特例会見は小沢氏の意向が強く反映されたのだろうと思っていた所、なんか妙な情報が飛び込んできました。

中国副主席との特例会見、「元首相が要請」=前原国交相が指摘(時事通信)

 これは国土交通大臣の前原氏による発言ですが、今回の特例会見は自民党の元首相からの要請によって実現したと報じられております。前原氏は一ヶ月前というルールを破ったのは民主党ではなくその元首相だとしながらも実名は避け、頼りなさならピカイチの平野官房長官もいつもどおりにこの件についてコメントを避けました。

 となると要請をしたその元首相とは一体誰なのかという犯人探しになるのですが、結論から言ってしまえば最有力候補は在任中にガス田の共同開発を約束したりパンダを年間一億円でレンタルすると取り決めるなど、中国に対して非常に接近しようとしていた福田元首相であると私は見ております。麻生元首相と森本首相だと今回のような腹芸が正直できるとは思えず、天皇制の強い擁護者である安倍元首相と日中関係を冷やせるまで冷やした小泉元首相に至っては論外です。

 とはいえこの前原氏の発言も本当に正しいかどうかがわからない状況ですが、仮にそうだとすると、今回の特例会見は小沢氏と福田氏が揃って実現に向けて力を合わせていたのではないかという疑いにもつながります。元々この二人は福田元首相の在任初期にいきなり大連立を行おうとするなど妙な所で歩調を合わせようとするところがあり、私自身もこの二人ならやりかねないという気もします。
 今後この前原発言がどうつながっていくのか、しばらく注視する必要があるでしょう。

 それにしても、忘年会から帰った後に書く記事じゃないな。