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2009年12月5日土曜日

空気の読み方、呑まれ方

 日本で生活する上で何が一番重要になるかと仮に外国人に聞かれるのであれば、私はまず迷わず「空気を読むこと」だと答えます。この答えに他の日本人がどのように感じるかまではわかりませんが、私はそれほどまでに日本の社会では場の空気を読むことが要求されると考えており、それは小学校から会社、果てには本来自由に思考を働かせるべきであるはずの学界においても例外ではないと見ております。

 ではそんな「空気を読む」行為とはどういうものなのかというと、具体的な定義とすれば周囲の意見に歩調を合わせ、全体意見や思想から大きく外れた発言や行動をしないといったところでしょうか。日本の社会では「協調性」、というよりも「同位性」を持つことが高い価値とされるため、この空気を読むという行為は日本の日常においては実生活だろうがテレビの番組内だろうがインターネットの掲示板あろうが、それこそ場所を選ばずに「空気を読め!(#゚Д゚)」という声があちこちから聞こえてきます。
 それだけあって日本人組織の団結力は世界レベルでも明らかに群を抜いており、中国人もよく、「日本人は一人一人だとへなちょこだけど、集団になるととてもじゃないが敵わない」と、よく評しております。恐らく、自分達中国人は逆に団結力が低すぎるということがわかっての評価でしょうが。

 断言してもいいですが日本ではこの空気が読める、つまり周囲に合わせられるという事が無条件で美徳とされており、逆にそれが出来ない人間はしばしば批判の対象となってしまいます。
 こういった周囲に合わせて統率の取れた集団行動が出来る日本人の高い協調性は私も十分に評価に値すると言えるのですが、その一方で日本人はこの「空気が読める」ことのちょうど裏返しの意味に当たる、「空気に呑まれる」という危険性に対しても全くの無防備であると見ております。

 この「空気に呑まれる」というのはわざわざ説明するまでもないですが、本人の意思が知らないうちに集団の意思と同化されてしまう事を指しており、日本人も自分でそれ自覚しているのかよく、「日本人は自立性が少ない」と外人と比較して自分達を評価しています。
 「空気を読む」と「空気に呑まれる」はどちらも個人の意思が集団の意思と同化するという意味では全く同じであり、この両者を分けるの点というのは言ってしまえばその個人を取り込む集団の意思や行動がまともであるか異常であるかの一点に尽きるでしょう。簡単に例えを出すと、集団に依存を強める先が普通の企業やサークルであれば「空気が読める人間」であり、ブラック企業やカルトサークルであれば「空気に呑まれる人間」といったところでしょうか。

 ここで結論を述べさせてもらうと、現代、というより以前から日本人は空気を読むことに注力しすぎるあまりに実際には空気に呑まれていることが少なくないのではないかと私は考えております。それこそ通常の判断であれば明らかにおかしいと思える行為も、「みんながやろうとしているのだから」で片付けてしまい、わざわざ自滅の道を自ら辿ってしまうことも日本人には多い気がします。

 卑近な例を挙げるとこれは近所の知り合いの話ですが、周囲で流行っているので本人もそれがかっこいいと思ったのか彼は中学生の頃からしょっちゅう自分の髪の毛を茶髪に染め始め、その後も過度に洗髪を繰り返したためかまだ二十代にも関わらずすでにハゲが大きく進行してしまっており、現在では外出時に必ず帽子を被って出かけるようにしているそうです。また同時期に流行った日焼けサロンにて行うガングロファッションについても似たようなことが現在起こっているらしく、無理な日焼けを行っていたために皮膚がんを発症する若者がこのところ増えていると聞いております。どちらも当時からそれぞれの危険性が訴えられていたのですが、そうした声に耳を傾けず一時の流行に乗ったために将来の自分を大きく制限してしまうというのはまさに空気に呑まれてしまった結果だと思います。

 そして今度は過去の大きな例になりますが、私も大ファンの昭和史家の半藤一利氏が戦後すぐの時期に戦争遂行に当たって重要な地位についていた陸海軍の軍人らに対して数多くインタビューを行った際、一体いつ頃から対米戦を意識、決意し始めたのかと聞いったところ元軍人らは、「なんとなく、周りがアメリカとの戦争をしなければならない空気だったから」と答える人間が非常に多く、誰も明確な戦争の目標や必要性を答えることができなかったそうです。

 実際に開戦当時の状況を調べると日本が超強国アメリカと戦って勝つ見込みなど全くなく、敗戦するリスクに見合うほどの開戦する価値はほぼ皆無と言っていいものでした。よく一部の評論家はアメリカの貿易制限や最後通牒のハル・ノートによって日本は追い詰められた挙句に戦争せざるを得なかったと主張していますが、戦争によって日本が受けた壊滅的な損害とハル・ノートの条件(南部仏印、中国からの撤兵)を比べるのであれば、結果論ではありますがそれこそ比較にならない差が歴然とあります。

 では何故それほどまでに日本は危ない橋をそれこそ政府、国民揃って渡ろうとしたのかと言えば、先程の半藤氏のインタビューに対する元軍人らの答えのように「なんとなく」こと、「空気に呑まれた」ためだと私は考えます。よく国民は暴走する政府によって戦争に巻き込まれたと言われておりますが、当時において日本の戦争行動を批判していたのは石橋湛山ただ一人で、やはり大多数の国民も開戦を歓迎したそうです。

 私は日本人は過剰に空気を読もうとするあまり、空気に呑まれやすい民族になっていると見ております。どれくらい過剰に空気を読もうとするかについては明日あたりにまた疎外論の話と合わせて解説しますが、なんでもかんでも空気を読むことがいいことだと考えるのは一時やめて、周りに流されない独立した判断力を自覚して持つようにするべきだと私は思います。それこそ周囲から「空気を読め!」と言われても、「空気に呑まれるな!」と言い返せる人間が社会から弾き飛ばされないくらいに。

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