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2009年12月21日月曜日

谷口ジロー氏のフランス漫画書き下ろしについて

・谷口ジローさん 仏語で書き下ろし作品 “漫画化”のベテラン、新境地(産経新聞)

 何かとタイムリーなニュースだったので、ちょっとここでも取り上げる事にしました。
 ニュースの内容は漫画家の谷口ジロー氏がフランス語の漫画を新たに書き下ろしたことについて報道しているニュースです。日本で出版された漫画が海外で翻訳されるという事は今の時代ではそう珍しくないのですが、今回のように日本の漫画家が初めから海外で作品を書き下ろして現地で出版されるということはこれまでほとんどなく、海外での日本漫画の高い評価とともにそのような需要があるというフランス事情を伺わせるニュースです。

 この漫画家の谷口ジロー氏というと、ネット上でよく画像ネタや台詞回しの引用が多い「孤独のグルメ」という作品が一番知られているかと思います。私もそのようなネットでの改変ネタからこの作品を知ったのですが、一言で言って一回見たら癖になる絵柄と言うか、緻密でありながら漫画らしさを失わっていない写実性のある絵で、詳しい内容は知らないくせに以前から興味を持っていた漫画でした。ちなみに、最近一番ツボにはまったのは以下のサイトでの改変です。

【ネタ絵】孤独の冒険(DLab.)

 実は私は先月にこの谷口氏の作品を折角だからこの際購入して読んで見ようか思い立ち、購入する前に私より歳下にもかかわらずやけに趣味が古い友人にこの話を振ってみた所、案の定谷口氏の漫画をよく読んでおり、谷口氏の傑作と呼ばれる「坊ちゃんの時代」も読むように薦められました。その友人の言う事なのだからきっといい漫画に違いないだろうと「孤独のグルメ」と合わせてまとめて買いましたが、結論から言えば確かに面白い内容でした。全体的には事実に基づいて書いているもののフィクションの部分も多く、もしかしたら読者が事実だと誤認してしまうような箇所も多いとは感じましたが、それでも作品全体の完成度は高く、谷口氏の緻密な絵柄が明治時代の情景を深く表現しているのにはため息が出ました。「孤独のグルメ」でもそうですが、街並みという背景表現において谷口氏の描く絵がこれまで見てきた中で最も上手に思えます。

 またもうひとつ、この「坊ちゃんの時代」を改めて読んだことで意外な発見、というより再会を果たす事が出来ました。実はこの「坊ちゃんの時代」の第二部、森鴎外が主人公の「秋の舞姫」を私は以前にも読んだ事がありました。今回改めて読むまであの時に読んだ漫画がこの「坊ちゃんの時代」だとは全く覚えておらず、確か読んだのはそれこそ十年近く前だったとは思いますが作品の内容はしっかりと覚えており、森鴎外の名を見るたびに昔にあんな漫画を読んだなと思い出すほど印象深い作品でした。
 思えば私が森鴎外を贔屓にしだしたのも、この作品からだったような気がします。

 なお谷口氏は鳥取県の出身だそうですが、鳥取には他にも私が尊敬してやまない「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげる氏、「名探偵コナン」の青山剛晶氏の出身地でもあります。人口が少ない割にはやけに漫画家を輩出しているわけですが、私自身鳥取とは縁があるのでこのままの勢いで島根に負けず頑張ってもらいたいです。あとどうでもいいけど、鳥取県はカレールーの消費量が全国で一番高いのも不思議です。

2009年12月20日日曜日

北京留学記~その二五、NEC中国人社員①

 また大分時間が空いての北京留学記です。このところ時期的に急いで書かないといけない内容が多くてなかなか取り掛かれてませんが、このまま年末にラッシュをかけてなんとかこの連載を今年中に終わらせたいものです。

 それでは早速本題ですが、前回の連載記事では私が旅行の帰途であった青島のサラリーマンとの会話を紹介しましたが、今回も同じくサラリーマンで、NRCの中国法人に勤める中国人社員との会話です。
 何故NECの社員と会話する機会ががあったのかというと、留学も終わりに近づいた2006年7月に、私より一足先に日本に帰るある日本人留学生仲間から自分のかわりにバイトに出てくれと頼まれた事がきっかけでした。そのバイトというのもNECの中国人社員と日本語で会話して、彼らに日本語のレッスンを行うというバイトでした。

 このバイトでやる事はそれこそ日本語で適当に話すだけで、会話する中国人社員らも日本での研修を一年近くやってきているのでみんな辞書さえ間にはさめば問題なく会話できるレベルです。一回のレッスンで日本人一人に対して四、五人の中国人が入り、夕方六時から一回約二時間で私は二回ほど代理で出る事にしました。

 まず一回目のレッスンについてですが、この時はNEC側から話題のテーマが「熟語」とあらかじめ決められていたので、私は「完璧」や「矛盾」といった中国発祥の故事成語の一部は日本語にも完全に定着している事を話し、その故事成語がことわざや慣用句とはどう違うのかというのを説明していました。ただこういう熟語ネタだと話すネタもすぐ尽きてしまい、最後の方は何故だか日本の大学制度について説明したりしてました。案外わかりそうでわかりづらい内容なためか、向こうも向こうで真剣に聞いているようでした。

 また最後には三国志の話題に及び、日本では曹操が人気だと教えたところ思った通り、「何で?」と彼らから聞き返されました。そこで私は日本人は自分で意思決定をするのが苦手で、歴史の上では織田信長のような独断専行型の人間を割と好む傾向があるのではと説明したところ、「ああ、なるほど」というような表情をしたように私は見えました。そしたら一人の方がおもむろにノートを取り出し、

「中国ではこの人が人気ですよ」

 と言って、「馬超」とノートに書いてくれました。聞いてはいたが、やはり人気であったか「錦馬超」。

 そしてこのバイトの二回目、かねてから好不調の波の激しい私ですがこの二回目のレッスンの日は非常に調子がよく、レッスンを受けた中国人社員からとても面白い内容が聞きだすことが出来ました。もうすでにこの会話をしてから三年もの月日を経過しておりますが、ここで書き出す内容は現在においても中国を知る上で非常に役に立つ情報だと自信を持って自負できます。

 前回通りにレッスンは六時から始められたものの、彼らも本業の仕事があるために開始当初のテーブルについていたのは三人だけで、後から一人加わって合計四人でした。なお前回は一人女性社員が入っていたものの、今回は全員男性でした。この二回目のレッスンでは前回戸は違って議題は自由とされ、最初はそれこそ何から話したものやらとお互いに手間取ったものの無難に私の自己紹介から始めることにしました。

「私は日本の大学生で、中国語だけを学ぶためにこちらへ留学に来ました。ここ数年のうちに中国語は日本人にとって非常に魅力的な語学科目になり、韓国人と一緒になって今も通っている北京語言大学に毎年たくさん来ております」

 というような感じだったと思います。すると向こうから、中国人にとっても日本語は需要の高い外国語で、たくさんの人間が学んでいると返ってきました。そこで部外者というか第三者というか、中国での韓国語の需要はどうよと私から聞いてみると、やはり中国人に人気はないそうです。
 韓国も近年は中国との取引が急増して中国語の需要は高いものの、日中と違ってその需要は生憎片思いだそうです。日本ほど貿易額が大きくないという経済的な問題もあるものの、それ以上に中国ではかつて満州のあった東北部にいくと今でもたくさんの中国籍の朝鮮民族が住んでおり、韓国人との会話は彼らがやってくれるために韓国語の需要は低いとのことです。

 こうして語学の需要について簡単に話した後、先ほど私が大学生なんて言うもんだから専攻は何かと続けて聞かれ、隠す必要もないので社会学だと答えたついでにレッスン参加者にも聞き返してみると、みんな異口同音にプログラミングだと答えました。
 NECに勤めているんだから当たり前といえばそうですが、これは私の印象ですが、日本ではそうそう専攻がプログラミングだと答える人はあまりいないように思います。今に始まるわけではありませんが中国では投資資金が少なくて済む事からIT分野、とくにプログラミングを筆頭とするソフトウェア産業に力を入れていると聞いており、現に日本のNECがこうして中国人社員を採用してこうして日本語も教育しているのをみると中国のこの方面は相当なレベルなのではないかという気がしました。

 話は戻り、専攻の話をしたのだから日本の大学生についても簡単に話をしました。多少私の偏見も入っていますが、日本の大学は入るのは大変だが入ってしまえば遊んでいるだけで卒業できてしまうと教えて、中国はどうだと聞いてみたところ、そっちは日本と違って勉強が大変だったとこちらも口をそろえて言っていました
 そんな風に話していると、一人が口を挟んでこのような質問を出してきました。

「日本人はいつもすごい真面目で、どんな時に羽目をはずすんですか?」

 なかなか面白い質問が来たと思い、私も俄然力を入れて以下の通りに返答しました。

「よく、日本人とドイツ人は性質が似ていると言われますよね」
「はい」
「ドイツ人も普段はすごい真面目だと言われていますがお酒を飲むとすごいだらしなくなるそうで、日本人も同じく酒の場では多少の無礼も許されます。逆に中国では酒の席といえど一時でもだらしない素振りを絶対に見せてはいけませんが、私が思うにドイツと日本ではその辺が緩いように思えます。これは恐らくドイツ人も日本人もやる時はやる、羽目をはずす時ははずすという切り替えが徹底されているからで、一見真面目そうに見えますが羽目を外す時に思い切り外してバランスを取っているのではないでしょうか」

 実はこの会話文にはいくつか鎌を掛けた箇所があります。それは最初の私の切り出し箇所で、中国人は日本人とドイツ人を一緒に真面目な民族と見ているかどうかです。
 よく日本人は自分でクラフトマンシップとか真面目さとかで自分達をドイツ人と比較する所がありますが、果たして外国の人間はどう思っているのか前から気になっており、ちょっとそれを確認する意味を込めて切り出したところやっぱりすぐに肯定してくれました。

 そして質問に対する返答の本論ですが、これから中国に行こうと言う方にはぜひ知っておいてもらいたいのですが、中国では宴会においてもはっちゃけた行為は一切許されず、大声をあげたり女性にセクハラをかますものなから物凄い非難を浴びる事になります。皮肉な事ですが、これを理解していないのが日本人と韓国人の留学生で、向こうでも留学生のマナーとして一部問題化しております。

 それを踏まえたうえで日本人の切り替え方の大きさを説明したのですが、この説明で理解してくれるのか少し不安ではあったものの概ね向こうも納得してくれているようでした。まぁこのレッスン参加者全員が約一年程度の日本の研修があったことを考慮すれば、決して無理な説明ではないでしょうけど。
 すると今度は別の方から続けてこの関連で質問を受け、私もまた下記の通り答えました。

「(・ω・)/あの、日本人は……どんな風にお酒でだらしなくなるのですか?」
「(´∀` )そうですねぇ。私が以前にアルバイトをしていた喫茶店では、こういったテーブルの上で突然横になって寝始める人がいました」
「(;´Д`)えぇ……(本気で驚いていた)。その、日本人は切り替えというか、羽目をはずす時とそうでない時を分ける、そういう風な教育を受けているのでしょうか?」
「多分、日本人も意識はしていないでしょうが、私が小学生の頃などは先生がよく、遊ぶ時は遊ぶ、勉強する時は勉強するというようなことをよく言われており、他の日本人もこういった言葉を社会で使う事があります。そう考えると、子供の頃からこういった切り替えを知らず知らずに学んでいるのではないかと思います」


 あくまで上記の私の返答は私個人の考えですが、このところ書いている記事といい、つくづく日本人は節操がないなという気がします。中国人は欲望に対して素直すぎるけど。

 ここまで話したところで、ふと気がついて自分の日本語を話すスピードは聞き取りに問題はないかと尋ねた所、少し話すのが早いものの発音ははっきりしているのでまだ聞き取りやすいと返って来ました。同じ日本人からもよく早口と言われるなのでさもありなんですが、外国人に聞き取りやすい発音と言われるとやはりうれしいものです。

「ところで、卒業後はどんな仕事をするのですか?」

 ここで唐突に、仕事の話へと移りました。
 
 本音ではジャーナリストになりたいとこの時から志望を持っていたものの進学先が関西の大学だったと言う事でほとんどあきらめており、わからないけど中国語が役に立つ所と来ればメーカーだからそこで営業の仕事でも探そうと思うと伝えた所、多少は覚悟していたものの、「文系なのにメーカー?」と聞かれてしまいました。
 ここでまた以前から確認したいと思っていた事を思い出し、もののついでに日本の会社トップ、及び政治家はみんな文系だと教えたところ、案の定レッスン参加者はみんなして驚いてくれました。しかもただ「そうなんだ(´・∀・`)ヘー」っていうレベルじゃなく、「マジっΣ(゚Д゚;)」っていうくらいの驚きようだったので、見ているこっちが面白かった程です。

 何故彼らがこれほどまでに驚いたのかと言うと、中国と関わっている方なら当然の事実ですが、中国の各界のトップというのはみんな揃って理系出身なのです。かつての日本でもそうだったように現在の中国では技術職系の人材が尊敬される傾向があり、現在の中国首相の温家宝氏は私が通っていた北京語言大学の正面にある中国地質大学の出身で、主席の胡錦濤氏も日本で言えば工学部卒のダムの設計士でした。そんなもんだから、中国人が文系に進学するといろんな意味で後々大変になります。
 この話題に対する彼らの食いつきようは凄まじく、私が一言発するたびに子供のように何も言わずにうんうん頷きながら聞いているのが見ていて微笑ましかったです。

 そんなわけで書く前から想定していましたが、続きはまだあるもののすでにかなり長くなっているので今日はここまでにします。次回も彼ら二回目のレッスンに参加したNEC社員との会話を紹介しますが、次回で紹介する内容ははっきり言って普通の中国解説本には絶対に載っていない、物凄いレアな情報を公開します。必ずしも役に立つわけではありませんが、中国の歴史とか政治が好きな人には非常に重要な内容なので知っておいてお損はないと保証します。

 では、また次回にて。

どうでもいい英文

 本当はこういうネタはツイッターとかでやるべきなのでしょうが、このまえふと思いついてYAHOO翻訳で作ったので折角だから公開します。

The Asura man sang Pajna-para-mita sutra to oneself pleasantly while licking the candy while chewing gum.
訳:そのアシュラマンはキャンディーを舐めながら、ガムを噛みながら般若心経を心地よく口ずさんだ。

 顔が三つあるんだから、こういうことも可能だろうなと思って作りました。なんか最近、疲れているのだろうか……。

2009年12月19日土曜日

書評「日本辺境論」

 今朝は予定通りに七時半から自転車に乗って十数キロ先の街まで走ってきました。戻ってくる途中で銭湯で朝風呂するなどブルジョア全開でしたが、出発時はあまりの寒さで肺が冷えて呼吸するのも辛かったです。

 そんな私事は置いといて本題に入りますが、今日はこの前にもちょこっとだけ紹介した内田樹氏の「日本辺境論」(新潮新書)の書評+αです。ちなみに「にほんへんきょうろん」とキーボードで打つといつも「日本偏狭論」と変換されてしまうのですが、あながち本の内容からも遠くない変換です。

 まずこの本の概要を簡単に説明すると、日本人と日本文化というのは言わばアメーバのように本質がなく、常に変化をし続けていて何一つ全く変わらない価値観というものがない、ということが全体を通して書かれています。
 そうは言っても日本の伝統建築や茶道といった文化、武士道という価値観があるではないかと思う方もおられるかもしれませんが、ここで言うのもなんですが実はこれらの文化もこれまでに結構変わりまくっています。

 まず伝統建築については確かに法隆寺みたいにずっと残り続けているものもありますが、日本の家屋の形態は木造建築が主ではあるものの時代ごとに流行があり、仏寺の構成も決して一定ではありません。そして茶道も一見すると千利休によって成立以後は決まった作法がずっと続けられているかと思われがちですが、当初の形態だとお茶を飲む時は現在のように正座ではなく胡坐だったそうです。
 そして極め付けが武士道ですが、新渡戸稲造なんかはこれが日本の伝統的倫理観だと強く主張したもののこれも時代ごとに影響を受けて変わり続けており、いわばその時代の理想形をなんでもかんでも武士道と言い張る所が日本人にはあるように私は思えます。こんなこと言うと、藤原正彦氏には悪いんだけど。

 こんな具合で内田氏は日本人は根っことなる概念、いわば自ら作り出して保持し続ける概念がこれまでも現在もないと主張しており、それは以前に書いた「日本語のマルチな特徴」にも取り上げているように漢字を使う一方で平気で勝手に平仮名などを作ってしまった日本語にも現れていると述べています。

 それがため国際概念についても基本的には自前で組み立てる事は出来ず、いつも他国の枠組みの上で日本と言う位置を決めたがる所があるとなかなか重要な指摘をしております。具体的にこれはどういうことかというと、自分(=日本)を主人公として世界をどのような方向に持って行くのか、そのためにはどのような外交をすればいいのかという組み立て方をせず、他国の世界戦略の中で日本をどの位置に持っていくのかと考えるという事です。

 具体的な例をいくつか出すと、まず明治時代においては日本を如何に西洋列強と同じ位置に持っていくかということだけを考え、その後の昭和前期は日本をかつての中国の柵封体制の概念において首領たる中国の位置に置こうとして、そして冷戦時代になるとアジアにおけるアメリカの橋頭堡であり続けようという外交方針が立てられています。このどれもが言ってはなんですが主体性は低く、日本のオリジナルな世界戦略というものが見えてきません。ついでに書くと石原莞爾の「世界最終戦総論」も実際には当時世界で流行していた考え方らしく、決して石原の完全オリジナルな戦略というわけじゃなかったそうです。

 ではこんなに確固たる価値概念が少なくて、現代でも流行に振り回されて婚活ビジネスにお金を巻き上げられるのが多いくらいふにゃふにゃした日本人は一体どうやって物事の正否を決めているのかというと内田氏は、こちらも私が以前に「空気の読み方、呑まれ方」で触れましたが、いわば場の空気によって決めてしまうと述べています。
 いくら理不尽な事でも周りがそれを当然だと思えば平気で受け入れてしまうところが日本人にあり、そのため自分の行動が正しいかどうか日本人は常に周りをきょろきょろしていると指摘した上で、それがゆえに先ほどの国際外交のように自分で概念を作れないのだと内田氏は主張しています。

 ただ内田氏はこのような日本人の特徴を決して悪いと批判せず、逆にそれだからこそ大きな利点があるとも述べており、特にそれが出ているのが学びの姿勢にあるとしています。日本人は師匠やら先生から教えを受ける際にその教えが一体どのような効果を持って、またどれほど効率的なのかを一切尋ねませんし、たとえ自分が他に効率的と思える訓練を知っていても黙っててくれます。このような学ぶ姿勢は教えに疑問を抱く者に比べて吸収がよく、ひいては日本人全体の適応力にもつながっているというわけです。

 実際にこれは私からの付け足しですが、内田氏の言うように私も日本の適応力、というよりはキャッチアップする力は相当高いと見ています。明治時代の日本を含むアジア諸国を比べてみると、日本は自分達より西欧諸国の方が優れていると見るや自分からちょんまげを切り落としてぱっぱと変わっていったのに対し、中国(当時は清)や韓国はなかなか自国文化への信頼を捨てきれず、西欧式に改めようとする傍から反動派が巻き返しを図って、結果論ですがほぼすべての改革が水泡に帰してしまっています。そういった例と比べると、この明治の時代といい昭和の戦後といい、日本人の引き返して追いつくという力は素直に評価していいと思います。その分、キャッチアップ後には迷走し始めるところが少なからずある気がしますが。

 とまぁこんな感じの本でそこそこお薦めなのですが、内田氏はこの本で日本人の本質のない性格をアメーバのようにと言いましたが、私は以前から徳川慶喜のような人間を背骨(バックボーン)のない人間と呼んでいたのでこれからの表現はこっちに切り替えます。ちなみにこの表現は溥傑氏が兄を表現した時に使った言葉で、初見で気に入って今でもよく使っています。

 話は戻ってこの背骨のない日本人の性格についてですが、実は内田氏以前にもこれをはっきりと認識していたばかりか相当に研究をしていた連中がいて、何を隠そうアメリカ政府でした。アメリカ政府は太平洋戦争末期になると終戦後の日本の統治方法についてかなり早くから日本の専門家を集めて研究をしており、この様な日本人の特徴も掴んでいたそうです。逆にわかっていたがゆえに、一体どうやってこんないい加減な連中を従わせればいいのか、下手すれば一気に社会主義に流れてしまうのではないかといろいろ悩んだそうなのですが、作家の佐藤優氏によるとある一点において日本人は大昔から現在に至るまで特有ともいえるある民族性を持っていることにアメリカは気がついたそうです。その民族性というのも、日本人の天皇への崇拝です。

 よく昭和天皇がマッカーサーを訪問した際の謙虚な態度にマッカーサーが感動し、天皇の戦争責任を問わないと決意したと言われていますが、断言してもいいですが天皇制の保護は終戦前の時点で決まっていたことでした。アメリカは日本人が天皇に対してのみ歴史的にも一貫した態度を取っている事から天皇制の保護が占領政策で一番重要になると考え、ソ連を始めとした処罰論を封じ込めて保護し、自らの統治に利用したわけです。

 何故背骨のない日本人は歴史的にも天皇制に対してずっと同じ態度を貫き続けているかについて佐藤氏は、まさに日本独特ともいえる、権威と権力の分離を行うという知恵を用いたからだと説明しています。
 この権威と権力の分離というのは、天皇というのはいわば権力に対してお墨付きを与える権威であって、実際に政策を決めて実行する権力は藤原氏、鎌倉幕府、室町幕府、徳川幕府、明治政府と変わることはあっても、以前の勢力を倒して新たに実権を握ろうとする新規勢力は自らの権力に正当性を持たせるために権威である天皇を利用しなければならず、それがために天皇制を廃止しようとする勢力はほとんど現れなかったと佐藤氏は主張しています。なんだったら、明治政府の後にはアメリカ政府と付け加えてもいいかもしれないなぁ。

 アメリカでは大統領が権威と権力を兼ね備えますが、日本はイギリスと同じく両方が分離しています。そしてそのような権威という役割を世界最長といってもいいくらいの千年以上も持ち続けたがゆえに、いい加減な日本人でもここだけは譲れない一点になったのでしょう。

 現在、習近平中国副主席との会見問題にて民主党の小沢幹事長の発言がよく取り上げられていますが、見ようによってはあれは菊の尻尾に触れてしまったと見ることも出来ます。私も日本人であるゆえに完全に中立的にはこの問題を語れませんが、ちょっと相手を間違えたなと今回ばかりは思います。

2009年12月18日金曜日

ゲームレビュー、「パチパラ13」

 書きたいネタはあるけど明日は早起きして自転車に乗るつもりなので、またも気軽に流せる記事です。このところ固いネタばかりだったし。

 さて今日私が紹介するゲームと言うのは、アイレムから出された「パチパラ13 ~スーパー海とパチプロ風雲録~」というゲームです。タイトルからわかるとおりに所謂パチスロを題材にしたゲームで、一応は今も後継シリーズがパチンコホールで唸りを上げている「スーパー海物語」のシミュレーターゲームなはずなのですが、おまけ、というよりもすでにこっちがメインディッシュとなっているアドベンチャーパートの「パチプロ風雲録」が凄まじい内容となっております。

 この「パチプロ風雲録」はひょんなことからパチプロとなってしまった主人公が様々なライバルと戦いながら住んでいる街を舞台にしたドラマを体験するという内容なのですが、まず特筆するべきはゲーム内の自由度です。このゲームは「グランドセフトオート」に代表される「箱庭ゲーム」の一種で、ゲーム内の街の中で主人公を自由自在に動かしつつイベントを進めるのですが、その自由度が国産のゲームとしては半端ないほどの幅広さを持っております。

 好きな所を好きな風に移動できるのはもちろんの事、服装を変えることで髪型から靴に至るまで自由にキャラグラフィックを変える事も出来ます。さすがに女主人公のバストは初期設定からはいじれないけど。
 その上、街の中の造形も見事なものです。現代的な都市から昭和臭さを残した古い町並み、果てには明日のジョーに出てきそうなドヤ街みたいな場所まで用意されてあります。さらにはそういった街の中にあるお店も実に多種多様で、食事を取る場所で言ったら高級レストランからファミレス、ファーストフード店、果てには牛丼屋や屋台のたこ焼きやまで登場してきます。

 この様な自由度は街の中の移動や行動に限らず、イベントでの主人公の行動にもよく現れております。よく「アイレムの作る選択肢は想像の斜め上を行く」と言われていますが、このゲームではそれが遺憾なく発揮されており、一体どこからこんな選択肢が出てくるのかと唖然とさせられる場面が数多くありました。
 いくつか例を出すと、後ろから柄の悪い男にぶつかられて因縁つけられた際に出てくる行動の選択肢として、

1、下手に出て謝る
2、「何をするんだ」と言い返す
3、突然地面を舐める


 もちろんこの時私は3を選びましたが、これ以外にも放火で自宅兼工場が燃えてしまってうなだれるヒロインに対し、

1、慰める言葉をかける
2、何も言わず肩を抱く
3、こういうときは黙っている
4、「こんなに間近で火事を見たのは初めてだよ!」と言う


 4番目を選ぶとヒロインもさすがに泣き出してしまいます。それでも私は選んだけど。

 終始こんな具合で、ここに挙げた選択肢は私が覚えているものだけですが、実際には一回の選択肢で六個とか七個も出てくる事がざらです。中にはサブイベントでヤクザを使って立てこもっている人間を追い出すというイベントもあるのですが、その際にも、

「合図を出したら飛び込んできて、一斉に踊ってくれ!」

 というのがあり、これを選ぶと本当にヤクザたちが追い込みの最中に踊ってくれます。

 現在このゲームは廉価版も出ていますが、多分6000円以上の新品で買っていても私は後悔しなかったと思います。ややロード時間が長すぎるのが欠点ですがそれを補って余りある面白さがあり、パチンコを実際に一度も打ったことのない私でもクリアできたのですから気にせず是非手にとって遊んで欲しいゲームです。

 ちなみにこのゲームの中盤のイベントで、高校卒業後に一流企業に入った同級生にパチプロなんかしてフラフラしていると笑われ、テーマソングが流れながら雨の中で主人公が一人すすり泣くシーンがあるのですが、その時の私の主人公の髪型は辮髪で、しかも上半身には何も着ないで水泳パンツだけを身につけ、靴は何故か革靴という男が雨の中泣いているのでえらい笑えました。

2009年12月17日木曜日

内戦状態の日本 その三、抵抗する価値

 少し日が空いてしまいましたが、この一連の記事も今回が最後です。
 前回に書いた「反応と期待」の記事にて私は、現代の日本人は過剰に相手のことを気にしすぎたり、また要求が高すぎるために非常にストレスのかかる社会になっているのではないのかと主張しました。前回に引き続きまたここでも一例を出すと、ちょっと前に流れていたCMで外人が、「日本人は(商品に対して)うるさい」と言うものがありましたが、実際に商品の品質や食品の衛生管理に対しては世界的に見てもうるさい方です。

 だからこそ日本ブランドが高く評価されることにもつながったのですが、前回にも書いたように高水準の品質価値を作る一方で品質に対する要求もエスカレートしてゆき、商品を作る側も買う側同じ日本人であるのにどっちも気が遠くなるまで対応して、気が遠くなるまで文句を言うものだから住み辛い社会になったのではないかと以前から感じていました。
 現実に恐らく以前からも多少は存在してはいたでしょうが、所謂モンスターペアレントのような理不尽な要求を学校や企業、官公庁に行うクレーマーが運営に支障を及ぼすほど発生し続けております。この前もまたこんなニュースがあり、私も唖然とさせられました。

保護者が「迷惑料」10万円要求、校長は鬱病で休職…学校で理不尽続発(産経新聞)

 さっき私は以前にも恐らくは多少はいたと述べましたが、現在に至ってはこうやって報道されるのはごく一部で、実態的には計り知れないほどこのようなわけのわからない人間が溢れているとも言われております。

 我ながら強引な考え方とも思いますが、こうした人間が何故現れるようになったかという理由を問われるなら私はやはり、日本の社会が過剰に社会や個人の要求に答えてきたからだと思います。蛇口をひねれば安全に飲める水が簡単に出てくるものだからいつしか水のありがたさを忘れてしまうように、人間というものは基本的に環境によって考え方や振る舞いが変わるものだと私は考えております。ですので水と同じように懇切丁寧に細かい要求を日本人同士で叶えようとした事が、現在のように自殺やうつ病患者を大量に出す社会、特に三年以内に新卒就職者が半数は辞めていくという異常な労働環境を生んでいるように思えます。

 ではこうした負の連鎖ともいうべき反応と期待のエスカレートを止めるにはどうするかという私案ですが、私以外にも何人か主張していますが、よく言われる方法はやはりもっと自分勝手な生き方を日本人が自覚して行う事です。確かにこうすることで過剰な反応は抑える事は出来るのですが、その一方で自分勝手になるため期待を強く行う新たなクレーマー生んでしまう可能性がこの方法にはあるように思えます。
 これに対する私の案はというと、副題にあるようにもっと抵抗という行為を社会で奨励する事だと思います。

 なんかこんな風に書くと一時の社会主義者みたいですが、私は現代の日本人、特に若者についてはもっと激しく過激に抵抗する姿勢をとってもいいと思っています。就職機会が奪われているだけでなく国の一時しのぎのために国債を乱発され、おまけに労働環境はさっきも言った通りに短い期間でどんどんと辞めていく。前にも書きましたがこれは現代の若者が以前と比べてわがままになったからだという理由だけでは到底説明のつかない数字で、私も以前とは考え方が変わって若者がフリーターやニートになる事に対してもはやしょうがないのではないかと思うようになりました。

 具体的にどのように抵抗するかと言えば、それは言うまでもなく過剰な要求に対してです。この前私が知り合いから聞いた話では会社で電話を取るなり名乗る事すらせずにいきなり、「いつもの」と言ってきて、詳しく注文内容を確認しようとしたら怒鳴られたそうなのですが、こんなのこちらから怒鳴り返してやるべきですし、また彼を雇っている会社もいくら売上げが落ちるからといってこんな変な客を相手にしてはならないでしょう。そっちより、こんな理不尽な要求に絶える社員の方が大事なはずなんだし。
 理想論かもしれませんが、いくら客商売だからといって人としてのプライドを投げ打って対応することに私は反対です。そうやって対応する事が上記の負の連鎖を生んでしまうこともさることながら、そこまでプライドを捨てなくとも普通のまともな人間ならちゃんとわかってくれるでしょう。どうせいくら対応した所で過剰な要求をする人間は要求を吊り上げるだけなので、この際とっとと社会から排除した方が世のため人のためです。

 では一体どの辺からが過剰な要求になるかなのですが、そのラインを私なりに定義すると、無条件で何かしらの強制を行う、というのが過剰な要求だと思います。比較的簡単な例は運動部内で年齢が一個か二個上かだけで無用なしごきやらいじめを行うとか、会社内で一切口答えを許さないとか。
 多少喧嘩になってもいいから、もっと日本人はお互いに怒り合うべきだというのが、私の意見です。

2009年12月16日水曜日

英語の特殊性と日本の英語教育について

 前回の記事にて私は日本語のマルチ言語という特殊性について書きましたが、今回は英語の特殊性について書こうと思います。確かこの内容の記事は以前にも書いたことがあると思うのですがいくら検索しても見つからないため、もしかしたら再掲載になってしまうかもしれませんがしょうがないです。

 まず何故英語が特殊な言語なのかです。国際標準語としてこれだけ世界中でも使われているのだから一見合理的で覚えやすそうな言語として捉えられがちですが、英語は文法としてみるならともかく発音にいたっては実際には例外法則が異常に多い言語です。一例を出してみますが、例えばアルファベットの「I」という文字が含まれる以下の二つの単語を発音してみてください。

「Ice」 「Internet」

 両方とも頭に「I」が来ていますが、前者はカタカナにすると「アイス」という発音になるのに対して後者は「インターネット」という発音になります。英語というのはこの「I」のように単語によって「アイ」と読んだり「イ」と読んだり、実は発音方法が複数あることが非常に多い言語なのです。しかもまだ「I」なんてかわいいもので、「P」に至ると、

「Pink」 「Phone」

 と、「ピンク」と「フォン」がどうして同じ文字から始まるんだよと言いたくなってきます。

 何故英語がこの様に同じ文字でも複数の発音方法がされるようになったのかと言うと、これは以前にどっかの本で読んだ内容なのですが、英語発祥の地のイギリスには元々ブリテン島にはウェールズやスコットランド、アイルランドの人たちが居住していたのですが、それが北欧から来たバイキングに所謂ノルマンコンクエストこと征服されてしまいました。しかもその時期にフランス側にいた民族も一部移住してきて、今のアメリカじゃないですけど相当な民族が混在して住むこととなったわけです。
 ところが彼らの言語は全く同じものではなかったものの、「あれ」とか「それ」とか言っている間にそれなりに通じてしまう程度の違いだったそうで、そんなもんだから各民族の言葉がそれこそごちゃ混ぜになっていき、ある単語ではノルマン人の発音、ある単語ではウェールズ人の発音、そしてまたある単語ではフランス人の発音がなされるという形で英語は整備されていったそうなのです。

 いわば日本語とは別の意味でのコングロマリットな言語なのが英語で、こうした点は現在に至るまで同じ英語話者の間でも意思疎通の妨げを生んでおります。最も代表的なのはブリティッシュイングリッシュとアメリカンイングリッシュの違いで、これに限らなくとも発音方法がきちんと定まっていないせいで世界各地地域ごとに好き勝手に発音が為されてしまっております。

 そんな言語として多少不便さを感じてしまう英語ですが、実はこれがまた日本人には相性が最悪ともいうべき言語であるから始末に終えません。
 これは私のロシア語の教師が言っていた言葉なのですが、英語というものはその用法から文法の組み立てに至るまで日本語の精神性とはかけ離れており、日本語の思考で使おうと思っても必ずうまくいかない言語だそうです。だからまだ日本語に近いロシア語を使うロシア人とはうまくやれるんだと、その先生のいつもの講釈に続くわけなのですが。ロシア語を専攻したのも、アメリカ憎しからだったとも言ってたしなぁ。

 実際に私も英語を使ってて、日本語の文章の形だとまず成立しないなと日々感じます。日本語では目的語が先頭にきてから主語や述語が後に続く形も少なくないのですが、英語だとこの用法はまずほとんど使えず、また単語の活用も少ないので言いたくともなかなか言えない構造になりがちです。

 まぁこんだけ英語の悪口書くのも私が英語を苦手としているからだからですが、中学高校と六年間も同じ言語を勉強しておきながら私同様に大半の日本人が英語を苦手とするのはやっぱり相性が悪いのも大きな理由だという気がします。もちろんそれ以上に日本の英語教育のカリキュラムが良くないというのもあり、前にも書いたと思いますが未だに中学生に向かって、「is=です」という教え方をしているのは本当に不思議に思えます。私なんかこれを真に受けちゃって、be動詞のない文章だと語尾がなくなるじゃないかとえらく悩まされました。
 作家の佐藤優氏も近年の外務省職員の英語のレベルの低下は激しく、以前からそうだったらしいですが外務省は日本の大学における英語教育には何も期待しておらず、入省後に自分のところで職員に英語を教えなおすそうです。

 ちょうどタイミングよく日本の英語教育について外国人が討論するという記事を見つけたので、リンクを貼っておきます。

「ここがヘンだよ日本の英語教育」を外国人が語るスレッド(誤訳御免!!)

 言ってははなんですが、英語というのは現在の状況から必要最低限は学ぶ必要はあるかと思いますが、日本人とは相性が悪そうなので必死こいてまでやる必要はないかと思いますし、やるのなら全く効果を上げていない今の教育システムを根本から作り直す必要があると思います。またよく英語が苦手だったから語学は向かないのだろうと敬遠する人も居ますが、英語が苦手でも別の言語では波長が合う事もあるので、英語だけで変に苦手意識を持たないように意識する必要もあるでしょう。現に私も、中国語は肌に合ったし。

 そういう意味で最低限の英語教育は中学までにして、高校からは生徒みんなが好きな言語を選択して勉強するというやり方もあってもいいかと思います。みんなが英語が出来なくとも誰かが出来ればいいのだし、また多種多様に言語を覚えている人間がそこらかしこに居るという事は国家全体にとっても無駄ではない気がします。まぁこんなの、誰も賛同しないと思うけど。