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2010年7月20日火曜日

大手生保四社、不払い問題対処に政界工作

 今を遡ること五年前、日本の各大手生命保険会社できちんとした契約があるにもかかわらず、本来支払うべき保険金を敢えて受取人に告知しなかったり、間違った情報を教えるなどして払わないという不払い問題が続出しました。

保険金不払い事件(Wikipedia)

 詳しくは上記のWikipediaのページを見てもらえば分かりますが、私はこの事件を知った際に保険会社はなんてクズの集まりなんだ、絶対にこんな所には就職しないぞと北斗七星に誓ったもんです。しかも北京で。
 この保険金不払い事件ですが、先日思わぬ所からまたこの名が持ち上がってきました。

大手4生保、自民・民主に接待攻勢 不払い処分めぐり(朝日新聞)

 上記記事は7/18日付けの朝日新聞朝刊一面に載ったニュースですが、これを朝六時から群馬榛名山へ向けて出発しようとする私と広島に左遷されたままの家の親父が見つけると互いに、これで朝日新聞から生命保険の広告が消えるなと言い合いました。

 記事の内容を簡単に説明すると、五年前の不払い事件が発覚した年、日本生命、第一生命、明治安田生命、住友生命の生命保険大手四社が自民、民主両党の金融関係の委員となっている議員やその秘書らに対して接待攻勢をかけていたという事実が報じられています。しかも第一生命に至っては07年に政治家のパーティ券を1000万円超も購入するなど、不払い問題の処理を巡って政界工作を行っていたと朝日は断じています。

 実際に当時、明るみになった不払いだった生命保険料の支払いのために各生命保険会社の経営は悪化しており、2005年以降に急激に増加したこれら接待費、献金は国政側に寛大な処置を求めるという意図あっての行為と見て間違いないでしょう。
 しかも今回朝日新聞が報じたこの記事を見ていて呆れてくるのは、一連の接待の中でなんと15回もこの大手四社の幹部が顔を合わせる接待を行っており、その接待における費用負担もそれぞれで決めていたようです。これが何を意味するかと言うと、この大手四社は不払い問題が起こるや互いに連絡を取り合って、手を取り合って政界工作を行っていたという事です。

 以前に朝日新聞はキャノンと松下の人件費の偽装請負を報じた事により未だにこの二社から広告を一切出してもらえていませんが、恐らく今回のこの記事でも生命保険会社から広告が引き上げられる事となることが予想され、いわば朝日は大口の収入源を失う覚悟でもって今回の記事を報じたと思います。
 ネット上で朝日新聞はよく赤新聞などと叩かれる対象であり、実際に私も過去にしょうもない記事を何度かこのブログで批判しましたが、今回のこのニュースは文句なしによく書いたと思わせられる記事です。惜しむらくはこうしたよい報道に限ってあまり別メディアに取り上げられず、ざっと見回した所、まだ東京新聞紙しか追随していません。

 こんな小さなブログですが、何かしらこの記事がもっと注目されればと思い、こうして私は取り上げる事にしました。

2010年7月16日金曜日

かつて呼ばれた私の異名

 最近濃い内容の記事を連発していていささか食あたり気味となっているので、今日はなにか緩いネタを書こうと思います。

 前に一度、これまでにあった野球選手のニックネームをまとめた記事を書いた事がありますが、ニックネームことあだ名というものはないよりもあった方が世の中いいと思います。具体的に何がいいとかそういった細かい理由まで詳しく書きませんが、やっぱり人となりや大まかな性格を理解する上で通しがいいし、初めて会った人に覚えてもらうのにもいい気がします。

 かくいう私はこれまで何か特定のあだ名をもらった事はこれまでにないですが、その代わりに異名というか、「○○した人」というようなニックネームは何度か友人らからもらった事があります。せっかくの機会ですので、幾つかここでそれを紹介しようと思います。

1、花園~変態と呼ばれた漢
 これは当時マガジンで連載していた「哲也~雀聖と呼ばれた漢」という漫画のタイトルからもじられたあだ名です。ごく一部の友人の間で、しかも使われた期間も少なかった異名ですが、もじりかたがうまいなぁといわれた本人が感心する名前でした。

2、Tシャツをハーフパンツに入れている人
 これは言われている本人が全く知らない所で、同じ学科内では相当知れ渡っていた異名です。この異名の由来は今でもこの時期はそうですが、夏となると私は毎日ハーフパンツにTシャツ、しかもTシャツを外に出しているのが嫌だから絶対にハーフパンツの中に入れて平気で外出しています。あんまりにも私がこの格好であちこち歩き回るもんだから、たまたまTシャツがハーフパンツから出ているとそれだけでニュースになっていたそうです。

3、洗濯物を取り込む男
 在学中のある日、今にもやばいくらいの夕立が降ってきそうな天気なのに同じアパートに住んでいる後輩が外に布団を干していたので取りこむように言おうと尋ねた所、その後輩は当時外出していました。後輩と言ったって赤の他人、しかし布団が夕立に晒されてずぶ濡れになるなんて本当に最悪もいい所です。そうやって悩んだ結果、その後輩の隣の部屋に住んでいる別の後輩の部屋に行き、その部屋からベランダを移って勝手ながら布団を部屋に放り込んでおきました。
 その後布団を放り込んでおいた後輩からは勝手な事をしてきながらもお礼を言ってもらえたのですが、取り込む際に部屋に入らせてもらった別の後輩がまたも学科内でこの話をばらしまくって、私と友人になると洗濯物を取り込んでくれると噂になってました。

4、ミスターHard Rock
 別に私は音楽バンドとかをやっているわけじゃないのですが、うちの旅行狂いのお袋が世界中にある「Hard Rock Cafe」というレストランに各地で訪れて、私へのお土産に胸にでっかく「Hard Rock Cafe」と書かれたTシャツやらセーターを買ってくるので、夏場なんか毎日それを着ているもんだからいつの間にか「Hard Rock Cafe」が私の代名詞になっていました。今度何着持っているかをこのブログで数えてもいいけど、恐らく20着は超えているだろうな。

 緩いネタをと思って書いたものの、想像以上にまた濃い内容になった気がします。

2010年7月15日木曜日

児玉源太郎の政治観

 前からよく、日露戦争について日本は乃木稀典よりも今日取り上げる児玉源太郎をもっと取り上げるべきじゃなんじゃないかと私は思っていました。

児玉源太郎

 知っている人には説明無用ですが、この児玉源太郎という人物は日露戦争において陸軍を実質的に切り盛りしていた人物で、戦費の調達から海軍との折衝、米国への和平仲介依頼から戦争指揮まで、どんだけ万能なんだよと言いたくなるほどの八面六臂の活躍を見せました。
 特に有名なのは乃木と共に参加した二〇三高地での戦いで、現在もその評価を巡る議論が激しく行われていますが、日本軍で最も多くの戦死者を出したこの戦いはどう見たって乃木が無謀な突撃を繰り返して徒に損害を大きくしたのに対し、援護砲撃を加えての攻撃で見事陥落させたのは児玉の力による所が大きい気がします。

 そんな児玉ですが、あくまで私の見方ですが、どうもこの人は自分のことを軍人というよりは政治家と見ていたような節がある気がします。実際に彼の経歴を調べると西南戦争中に熊本城で防衛を見事に果たすなど軍人らしい活躍も多いのですが、台湾総督として現地で施政を行ったりしているなど政治家としての働きも非常に多い事が分かります。
 極め付けが彼自身の発言で、これは昔に「その時、歴史が動いた」で見た話ですが、政治ということについて以下のように述べたそうです

「政治というのは大鉈を振るうような仕事で、細々とは決して行ってはならない」

 この児玉の発言を私なりに解釈すると、何もかもを見通せて万事問題なく政治を運ぶ事など不可能であり、またそうした細かいことにいちいち対応していては課題が山積みとなって行く一方。それであれば細かい事に逡巡して方向性を間違えないよう、対極観を持って大きく政策を動かしていくべきだ、という風に受け取りました。

 思うに近年の日本の政治はこのような大原則というものがなく、言ってしまえば非常に小さな話題に必死こいて多くの時間だけが割かれているようにしか見えません。そういうどうでもいいような国会議論を見るたびにこの児玉の言葉が思い出され、村山富一氏もちょっと前に言っていましたが今の政治家は本当にちっちゃい連中ばかりになったんだなぁという気がします。

 そんな政治家としての児玉ですが、彼の政治的功績でいえばなんと言っても台湾総督時代の施政でしょう。熱帯地域に属する台湾では現在もデング熱など様々な疫病がありますが、当時は今以上にインフラも衛生も整っていなかったために結構ひどい状況だったそうです。そんな台湾に乗り込んできた児玉は自らがヘッドハンティングして来た、こちらも後の日本に大きな影響を残す後藤新平と見事なコンビネーションを見せて台湾の衛生環境を劇的に改善する事に成功しました。
 この後に後藤は児玉から日露戦争後に日本が得た満州地域の開発のために満鉄総裁就任を依頼されますが、最初はこの依頼を断ったそうです。しかしその直後に児玉が突然死したため、運命だと自分に言い聞かせて初代満鉄総裁に就任して辣腕を振るう事になります。

 その後藤の格言ですが、折角なのでこれも引用しておきます。

「金を残して死ぬ者は下。仕事を残して死ぬ者は中。人を残して死ぬ者は上だ」


 なんとなく、児玉と後藤の関係を見ていると感慨深い言葉に私は聞こえます。

 おまけ
 Wikipediaの児玉のページにてこんな面白い逸話がありました。
 日露戦争後に東京で日露戦争にまつわる展示会があり、その場で若い陸軍将校二人が児玉のことを褒め称えていると、
「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ(‐ω‐)」
 と、ボソリとした声がしたので何を言うかと将校らが振り返ると、なんとそこには児玉本人が立っていたので大いに驚いたそうで。

  おまけ2
 本当にどうでもいいですが、二〇三高地は私も去年に登ってきました。日露戦争の写真で見るとはげ山ですが、現在では結構緑も茂っており、夏に行ったので無性に熱かったです。

2010年7月14日水曜日

口蹄疫、韓国人研修生原因説について

 ちょっと批判が来そうな内容ですが、前から気になっていたのもあるので思い切って書いちゃいます。

 一時期よりは大分落ち着いたものの現在も完全に終結しきっていない宮崎県の口蹄疫問題ですが、この口蹄疫が発生した当初から妙な噂がネットで飛び交っていました。その噂というのも、今回の宮崎県の口蹄疫は発症一例目の水牛が出た農場が口蹄疫発生前に同じく口蹄疫が発生していた韓国から研修生を受け入れ、その研修生に付着していたウィルスから感染が広がったのだという説です。しかも最初その農場は韓国人研修生の受け入れを拒否したものの民主党の道休議員が強権を持って無理矢理ねじ込ませたとして、いわば口蹄疫発生の原因は民主党と韓国にあった、もしくは意図的に感染が広げられたというような内容があちこちで見受けられました。

 この噂を初めて見た時に私は、口蹄疫が確認されてすぐに何が原因だったかどうかはっきり分かるはずもなく、ある程度騒動が落ち着いた段階でなければこの噂の真偽も確かめられないだろうと考えてきちんと検証が行われるまでは静観の立場をとる事にしました。特に外国人が原因だという説はいつどの国でも過熱する傾向があるのでなおさら慎重さが必要だと感じ、ブログには一切取り上げませんでしたが注視をし続けておりました。

 ここからが本題ですが、この口蹄疫が発生した当時の宮崎県について今月の文芸春秋にて作家の高山文彦氏が「宮崎口蹄疫禍現地ルポ」という記事を寄稿しております。私も今日この記事を読んだのですが、口蹄疫発症一例目の水牛が出た農場について詳しく時系列にまとめられています。

 まずこの記事で重要なのは、発症一例目の水牛を見ていた獣医師である池亀康夫氏が名前入りでインタビューに答えている点です。ただでさえあらぬ風評被害を受けかねない取材にもかかわらず取材に応じた池亀医師には頭が下がる思いがするのですが、発症一例目の水牛が出た農場というのはこの池亀医師がかかりつけの臨床医をしていた農場だったそうです。
 さてあんまり細かく内容を書いてもしょうがないので、時系列ごとに口蹄疫確認までの推移を簡単にまとめます。

3/26 牧場主から牛の調子が良くないと連絡があり、池亀医師が二頭の水牛を診察。口蹄疫の症状と言われるよだれや泡は確認されず、熱があった事から風邪と診断し治療。

3/29 最初に調子の悪かった牛とは別の九頭も発熱をしたので、同じように風邪の治療を行う。翌日にはどれも熱は下がったが便の状態は悪いままだった。

3/31 中毒症状を疑った池亀医師が家畜保健衛生所から別の獣医師三人にも来てもらって診断。牛が暴れるため蹄の裏(口蹄疫なら発疹が出る)を確認できなかったものの、三頭から検体(血液)を採取。なお口周りの泡は確認されず。

4/5 牛の熱は平熱に戻ったが、保健衛生所からは診断結果がこないため問い合わせた所、問題症状は特にない「陰性」と言われる。この時保健衛生所は口蹄疫かどうかを日本で唯一調べられる東京の動物衛生研究所に検体を送っていなかった。

4/14 依然と牛の乳の質と量が悪いため、牧場主が再度池亀医師と保健衛生所に診断を依頼。またも牛が暴れるため二頭だけから検体を採取。またも診断結果が保健衛生所からなかなか送られてこない。

4/20 この牧場の近くの和牛農家で牛三頭が初めて口蹄疫と確認される。14日の診断結果を再度保健衛生所に尋ねるとまたも「陰性」の返事。

4/21 保健衛生所がこの牧場に聞き取りに訪れ、水牛五頭から検体を採取して動物衛生研究所に送る。

4/22 研究所から水牛に「陽性」反応が出たと連絡が来る。口蹄疫が確認された順番ではこの牧場は六例目であったが、何故か3/31に採取した検体から口蹄疫が確認されたこととなって発症一例目に繰り上げられて認定される。

 ざっとまとめるとこんな具合です。
 この口蹄疫韓国人研修生陰謀説を唱えるサイトなどではこの発症一例目とされた牧場は水牛が口蹄疫に罹っていると早い段階でわかったものの当初事実を隠蔽し、口蹄疫の感染拡大を招いた等と批判する意見も載せている所もありますが、少なくとも上記の池亀医師の証言を見る限りですと何度も外部の保健衛生所の医師を呼ぶなど隠蔽しているようにはとても思えません。むしろ4/14、4/21にも検体を採取しておきながらも、どうして口蹄疫確認に3/31の検体が採用されたのかが不可解です。

 そして記事では肝心の韓国人研修生の噂についても触れていますが、池亀医師の証言によるとそもそもこの牧場主は韓国人研修性に見学を許した事などないそうです。この記事を書いた高山氏は当初この牧場主にも会う予定だったそうなのですが、ちょうど取材する予定だった日に週刊誌記者に「一例目を出したのだから世間に説明する義務がある」と押しかけられてしまい、結局取材を取る事が出来なかったそうです。

 高山氏によるとこの牧場主の方は単身でイタリアに農場経営を学びに行き、東京都出身にもかかわらず宮崎県にて牧場を開いたそうです。それが今回の口蹄疫で事実上財産をすべて失ったばかりかその上一部マスコミから謂れのない非難に晒されてしまうなど、高山氏もそのようなマスコミに対して記事中で逆非難を行っています。

 最後に、私は高山氏の記事を信用して韓国人研修生陰謀説は間違っているのではないか、根も葉もないデマではないかと主張しているわけですが、私が直接取材しているわけではないのでこの高山氏の記事の方が逆に偽者という可能性もゼロではありません。それにもかかわらず何故私が高山氏の記事を取るかと言うと、

・現地で取材がなされている。
・発症一例目とされる牧場の獣医師が実名で取材に応じている。
・保健衛生所の診断など、追跡取材できる材料がある。
・一例目認定の不可解な経緯について書かれている。


 逆に韓国人研修生陰謀説について私が疑問に思う点として、

・何人研修に来たのか、人数がどこにも書かれていない。
・議員を通して牧場研修に来るというルートが不可解。
→JICAとか言われているが、議員が介入するメリットが見当たらない。
・宮崎と韓国で発生した口蹄疫ウィルスの型が一致したと言うが、韓国ではA型とかO型とか、複数ある。


 あくまでこれは私個人という素人の意見です。ただ前にも書きましたが、日本人は割と陰謀好きな所があるように思えますが、現実にはそんなに世の中陰謀に溢れているわけじゃないような気がします。

2010年7月13日火曜日

猛将列伝~信陵君

 中国戦国時代において軍事、内政それぞれの分野で並々ならぬ才能を持つ人物は数多くおりますが、その中でも屈指の人材ともなると私の中でまず挙がってくるのはこの信陵君です。

信陵君(Wikipedia)

 信陵君というのは通称で本名は魏無忌ですが、彼はかつて私が書いた「孟嘗君と馮驩」の記事にて取り上げた孟嘗君と同じく、戦国時代後期において高い評価を受けたことから並び称された「戦国四公子」と呼ばれた四人の一人です。この信陵君は魏王の弟でしたがかねてからその優秀さは群を抜いており、それゆえに王位を奪いかねない人物だとして実の兄からは警戒されておりました。

 そんな魏王を恐れさせた信陵君のエピソードに、信陵君が魏王と碁を打っていると隣国から軍団が近づいているとの報告があり、すわ戦争かと魏王が慌てたのに対して信陵君は隣国が狩りに出かけているだけなので慌てる必要はないと全く動じませんでした。果たしてしばらくするとまた新たな報告があり、信陵君の言う通りにその隣国の軍団は獲物の狩りのために出撃していたことがわかり、どうしてわかったのだと魏王が尋ねると信陵君は、自分は独自の情報網を持っており今日隣国が狩りに出かけるとすでに報告を受けていたからだとこともなげに答えました。

 終始こんな感じなので王である兄は信陵君を常に警戒していたのですが、ある年に魏の隣国の趙が秦に攻めこまれて首都を包囲されたため救援を求めてきました。趙には信陵君の姉が嫁いでいたために信陵君は王に救援を志願しますが、勢いのある秦に真っ向からぶつかるのは危険だとして魏王はこれを却下しました。
 やむを得ず信陵君は自分のわずかな手勢のみで救援に向おうとした所、門番の身分ゆえに誰も相手にしなかったものの信陵君だけが賢者だとして慕っていた侯嬴という老人から助言を受け、その助言に従って信陵君は魏の正規兵を指揮下に納める事に成功しました。そしてその兵を率いて趙を訪れるやあっという間に秦を撃退し、趙の救援に成功したわけです。

 ただ信陵君が正規兵を率いるに当たり兄である魏王の命令に逆らって行動したため、信陵君は兵だけを魏に帰すと自分は帰国せずにそのまま趙に止まりました。信陵君はその趙でもあまり身分がよくないものの賢者と呼び声の高い毛公と薛公という二人の人物とまた親しく交際するようになり、信陵君は身分を問わずにその才能で相手を見てくれるとますます人気が高まりました。

 しかしその一方、信陵君の去った魏では恐れていた信陵君がいなくなった事から逆に秦に何度も攻め込まれるようになり、年々その勢力を弱体化させていました。この危機的な事態に魏王は信陵君に何度も帰国を促しますが、暗殺が横行していた時代ゆえ、信陵君は謀殺されるのを恐れてその要請になかなか応じませんでした。
 そんな信陵君を見て、先程の毛公と薛公がこのように諭しました。

「あなた(信陵君)は魏あっての人物なのです。今諸国があなたを評価して競って求めるのは魏という母国があってのもので、仮に母国が滅亡しましたらあなたの正義はなくなり、誰もついてこなくなるでしょう」

 この言葉を受け信陵君はついに魏に帰国し、救援に来た他国の軍勢をすべてまとめ上げるやまたも一人で強国秦を見事に撃退して見せました。この恐ろしいまでの信陵君の活躍に恐れをなした秦は信陵君の存命中は二度と魏に攻め込まなくなったのですが、その代わりに信陵君を政治的に抹殺しようと、魏国内で信陵君が謀反を企てているなどといった噂を流布させて元々警戒していた魏王をさらに警戒させるという手段に出ました。この秦の策にはまった魏王は信陵君を暗殺こそしなかったものの政治からなるべく遠ざけるようにしたため、失意ゆえに信陵君はその後すぐに病気で死んでしまいました。

 この信陵君のエピソードを昔に読んで私が強く印象に覚えたのは、括弧書きで書いた毛公と薛公の、「如何に能力のある人物であっても、寄って立つものがなければ誰も信用しなくなる」という説法です。要するに背中に何を背負っているかという事ですが、なんでこんなエピソードを今日ここで引っ張ってきたのかと言うと、今の枡添要一氏と与謝野馨氏を見ているとつくづくこれがよくわかるなぁ思ったからです。

 この二人はどちらも選挙前に自民党から離脱して新たな党に入り、今回の参議院選挙にてそれぞれの党を実質取り仕切りましたが、自民党時代の名声や人気はどこいったのかと思うくらいに選挙中はおろか選挙の終わった今でも全くメディアに取り上げられませんし、人の噂にも上ってきません。特に桝添氏なんて自民党時代は総理にしたい候補ナンバー1だったのに、多分今このアンケートを取ったらランク外になる可能性すらあるんじゃないかと思うくらいの低落ぶりです。
 私は桝添氏が自民党離脱を発表した際にこのブログで、自民党あっての桝添要一であって、ただの桝添要一に有権者は反応しないだろうと書きましたが、この評論はまさにこの信陵君のこのエピソードから引用したものでした。多分先ほどの総理にしたい候補アンケートなんかあったもんだから、桝添氏は自分という個人が人気があると勘違いしちゃったのかな。

2010年7月12日月曜日

今後の政局について

 昨日一昨日とまたブログの更新をしませんでしたが、決してサボっていたわけでなくまたちまちまとしたある作業をやっておりました。うまくいけば多分、来週までにはその作業の成果をお見せできるかと思います。
 それはさておき全く盛り上がりませんでしたが、ようやく民主党が与党についてから初めて行われた参院選も終わりました。議席数を大幅に減らした民主党に対して大敗と書く新聞が多かったですが、私の感想はというと「勝者なき選挙」だったというのが結論のような気がします。

 唯一今回の選挙で良い思いをしたのは10議席を獲得した渡辺嘉美氏率いるみんなの党くらいで、一番多くの議席を獲得できた自民党ですらもあれだけ死に体だった民主党を追い詰める事も出来ず、また選挙前に数多くの離党者を出した事から本人らもどうにも勝利風を吹かしているようには見えません。それに対して民主党では今回の選挙での敗北責任を誰が取るのかで早くも揉めているなどという報道がなされており、選挙中に無闇な消費税議論をぶち上げた菅首相か、選挙区を取り仕切った枝野幹事長かなどと言われていますが、普通に考えるなら菅首相に変わるまで選挙準備を行っていた挙句資金管理問題で足を引っ張った小沢氏だと思うのですが。

 そういったおさらいはおいといて、ちゃちゃっと今後の政局について私の意見を紹介します。
 まず結論から言って、与党民主党が衆参でねじれ状態に陥った事からただでさえ惰弱な政権基盤が今後ますます弱まる事になり、不安定な政権が続く事によって今後ますます政治的混乱が続くと思います。すでに海外メディアなどは今回の選挙結果を得て、「また日本で首相が変わるのでは」と意見を載せているそうですが事実その通りで、同じねじれ状態でも安部、福田、麻生政権と違って衆議院で三分の二以上の議席を占めていない事から、このままの状態だと国会での法案成立にかつてないほどの時間がかかり政治が停滞する事は必至でしょう。

 そのような現実を踏まえて今後の政局はどのように動くかとなると、私の希望も強く入っていますが一番良いのは民主と自民で連立、もしくは合併をするのが望ましいかと思います。

 前に私が書いた「自民、民主のマニフェストを見比べて」の記事でも書いたように両党の選挙前公約は八割方一致しており、どちらにしろ議論しなければならない実行手段をお互いで刷り合わせれば何も問題ないんじゃないかというくらい一緒です。唯一対立している意見として外国人参政権問題がありますが、はっきり言ってこの問題は経済対策、司法改革と比べれば優先度が非常に低く、連立の間は政策協議こそ行えど法案提出をしないとして棚上げにすればいいかと思います。
 またこれまで自民、民主とで異なる立場だった普天間の米軍基地移設問題も、皮肉なことに一番ややこしくしてくれた鳩山前首相が最後は自分の首とかわりに社民党を追い出して自民党案に乗っかった事で、もはや対立する理由はなくなっております。

 今の日本政治に何が一番求められているのかと言うと立派な政策や改革などではなく、安倍政権以降、というより小泉政権を除いた小渕政権以降の政治的混乱に終止符を打つかのような安定性だと私は考えております。前鳩山政権は社民、国民新党と連立を組んだものの言ってはなんですが組んだ相手が非常に悪く、かえって政治基盤を揺るがせてしまいましたが、あんなクレーマーみたいな連中とではなくちゃんと方向性を同じくする政党としっかりと期間を定め、対応策に共通した意見を持つ政治的課題を片っ端から片付けていくのが何より重要かと思います。

 ただこの大連立を行うに当たり、やらねばならない事が一つあります。それはどんな事かというと両方の政党において後々禍根となりかねない、連立を行う上で障害となるであろう人物の粛清です。
 民主党においてはすでに鳩山前首相は引退を表明していますが、その鳩山前首相を傀儡としただけでなく90年代以降の日本政治において混乱が起きるように自ら動いて私腹を肥やしてきた小沢一郎氏と、日教組のドンこと輿石東氏、マルチ商法の元締め山岡賢次氏といった小沢と不愉快な仲間達。あと外国人参政権を強硬に主張する枝野幹事長も考え方を改めようとしなければ放逐する必要があるでしょう。

 自民党においては失政の責任を取ろうともせずに居座り続ける森、安倍、福田、麻生の元総理経験者の四人です。正直な所、他の三人はともかく福田氏には残ってもらいたい気持ちもありますが、近年の自民党総裁がどうして力を発揮できずに独自色を出せなかったのかを突き詰めると、元総理経験者がでかい顔して居座っていたのが大きな原因に思えてならないからです。彼らが居座り続ける事によって彼ら自身だけではなく、その取り巻きにも新たな総裁を気を使わねばならず、一番手っ取り早い方法として小泉元首相同様にこの四人にも退場をしてもらうことが連立後の安定性を維持する上では欠かせないでしょう。
 そうして連立を組む代わりに、自民党としては次の総選挙を前倒しして任期切れの2013年ではなく二年後の2012年に前倒すといった条件を民主党に出してもいいかもしれません。

 最後に前の記事でちょっと書き忘れていましたが、あまりニュースなどで取り上げられないものの民主党は今回の選挙マニフェストにおいて、今年から始まった子供手当てを国内に子供がいる家庭に範囲を狭めると謳っておりました。今更という感じですが、やるなら早くやれというのが私の感想です。

  訂正
 自民と民主が連立するに当たって粛清する必要がある人物として民主党の枝野幹事長をこの記事で挙げましたが、これは枝野氏ではなく仙石官房長官の間違いでした。どちらも外国人参政権の導入に積極的ですが、枝野氏がまだ内容を詰める必要があると言うのに対して、仙石氏はとにもかくにも急いで導入するべきだとしていてこの人物は連立するにあたって障害になると私は判断しました。
 私自身も外国人参政権については実は賛成派ですが、今の民主党案だと今の子供手当てみたいに内容が詰められていないためにすぐに穴が空くのは目に見えており、それにもかかわらずもう実施すべきだという仙石氏の意見はちょっと奇異なものに見えます。

2010年7月9日金曜日

匿名性と攻撃性

 なんかこの所、選挙が近いせいか出張所の方に記事内容とは全く関係のない、一方通行な政治主張をしつつ特定のアドレス、書籍ばかりを並び立てるコメントが多いので、最近私の気が立っているのもあるのでそれらコメントを削除すると共にコメント主をアクセス禁止にしました。言っちゃなんだけど、何が楽しくてやるんだろこういう人達。

 それはともかくとして、やっぱりこういったブログなり掲示板のコメントともなると中には日常世界で言ったらすぐに村八分になりかねないほどの過激な意見が書かれる事が多いと言われています。一体どうしてネット上では現実世界より意見が過激化、先鋭化するのかですが、原因は間違いなくネットの匿名性にあるでしょう。

ミルグラム実験(Wikipedia)

 私のような社会学系の人間にはもしかしたら「アイヒマン実験」と書いた方が通りがいいかもしれませんが、上記リンクに貼ったある実験の内容と結論を簡単に説明すると、質問者と回答者がお互いに顔が見えない様に2グループに別れ、もし回答者が質問者からの問題の答えを間違えたら質問者は罰として回答者に電圧を流すよう言われた所(実際には電圧はかけられず、回答者は痛がるような声を出すだけ)、質問者は回答者が回答を間違える度にどんどんと電圧を上げていき、最終的には実験者の大半が450ボルトという、人が死んでも全くおかしくないほどの電圧をかけるという結果になりました。

 ちょうど昨日にテレビ番組の「奇跡体験 アンビリーバボー」でこれと同じ実験をしたフランスのテレビ番組を取り上げていましたが、この実験が何を言わんとしているのかと言うと、人間は自分に責任が及ばないとわかるや直接顔の見えない相手に対してとことん冷酷になりうるということで、それゆえに上記のミルグラム実験はナチスドイツにおいてユダヤ人の大量虐殺を指揮したアドルフ・アイヒマンの名前を関するようになったわけです。

 これがネット上の意見とどう関わるかというと、いちいち言うまでもありませんがネット上では言い合う相手の顔も見えなければ個人の特定も難しく、まさに先ほどのアイヒマン実験のような環境にあります。それゆえに日常生活上では言えないほどの攻撃的な言葉や批判が行われ、それに対して言われた側もカチンと来てより激しく言い返して加熱して行くという現象があるとインターネット黎明期より指摘されていましたが、政治系の内容を扱う上は自分のブログもそうなるのかなと危惧していましたが今の所はまだそうはなっていない気がします。今回削除したのも、どちらかと言えば宣伝目的のものだったし。

 よくうちの親父から、このブログでの記事内容やコメントに対する私の対応が普段の私の姿からは想像も出来ないほど落ち着いているので意外だと言われます。実際に書いている自分でも、日常生活ではほぼ毎日、「死ね、ボケっ(# ゚Д゚)カス!!」とリアルに言っている自分がどうしてネット上だと攻撃性が低まるのかよくわかりません。なんていうか、むかつく相手の顔を見ている方が私の場合はイライラするのかな。

 ただ敢えて無理な解釈をすると、私はこのブログで自分のメールアドレスも公開していますし、通常のプライバシーを保てる範囲内では出来るだけ自分の匿名性を下げようと意識しています。政治系の主張をする以上は自分の発言に責任を持たねばならないと考えているがゆえの意識ですが、それゆえに私はかえってネット上の方が「人に見られている」と強く感じます。

 ここで言った「人に見られている」という意識ですが、これこそが日本人の行動に影響を与える意識の中では恐らく最も強いものでしょう。また暇があったらこれ単体で記事を書きますが、ネット上でも見られていると思うか見られていないと思うか、この意識の違いが結局はその日本人の潜在的攻撃性を図る上で一つの指標になるんじゃないかと今日バスに乗りながら考えていたわけです。