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2010年7月29日木曜日

信頼性なき日本財政

 あまり世の中で取り上げられる事は非常に少ないのですが、小泉政権は世界的にも非常に珍しい偉業を一つ達成しております。その意業というのも、財政出動なしでの景気の回復です。

 小泉氏が総理になる前の自民党総裁選で小泉氏が公約として掲げたものの一つに、「国債発行高を30兆円以下に収める」というものがありました。その後見事総理に就任して小泉氏でしたが作った予算は結局30兆円からすこし足が出て、あの有名な、「この程度の公約違反、大したことではない」という発言が飛び出すこととなったのですが、それでも自らを「平成の借金王」とまで言った前小渕政権と比べると国債発行高は非常に抑えられ、全体の予算額もそれ以前から大きく縮小されました。

 この小泉氏、というよりは経済産業担当大臣だった竹中平蔵氏ら主導の予算案に対し野党議員、評論家、並びに身内の自民党議員からも、「不況期にどうして財政出動(公共事業)を減らすのだ(#゚Д゚)」と、当時の私が覚えている限りでもどこを見回しても肯定的な意見はありませんでした。小泉氏も小泉氏で、

「経済は竹中君に任してるから(´∀`)」
「えっ、全部俺!?(;´Д`)」

 てな感じで責任転嫁をしたので竹中氏が国会中で総叩きを食らう羽目となってしまいましたが、その数年後の9.11選挙で小泉氏が勝利した後に東証株価などが飛躍的に伸びるなど、リーマンショックが起きるまで一時的とはいえ日本の景気は回復傾向が起こりました。
 この景気回復に対しては今でも議論が行われており、格差を無理矢理広げた上での偽りの景気回復だった、それ以前の小渕政権までの財政出動が時間が経ってようやく効果がでたものだ、などという意見がありますが、失われた十年にあれだけ馬鹿みたいに財政出動して何の効果もなかった事、五年間の運営実績を考えるとやはり小泉政権の功績と取るべきだと考えております。

 さてここで経済学の話になりますが、中学校の公民の時間でも教わるくらい、一般的に不況期には政府は財政出動をして公共事業を行うことがよいとされていますが、これは20世紀のケインズが提唱した政策でフランクリン・ルーズベルトが採用してニューディール政策と呼ばれた事でも有名です。しかしそもそもの話、ニューディール政策自体が現在その効果が疑問視されており、また先にも述べた通りに日本も失われた十年の間に小渕政権を筆頭として財政出動を繰り返したもののはっきり関連が見える効果は何も生まれず、私自身本当にただの無駄遣いだったという評価をしております。

 では逆に財政出動を切り詰める所まで切り詰めた小泉内閣はどうして一時的な景気回復に成功したのでしょうか。それについては昔に書いた「竹中平蔵の功罪~陽編~」に詳しく書いていますが、最近これとは別に、かえって財政出動を減らしたこともよかったのではないかと思うようになってきました。

 こう思うようになった一つのきっかけはうちの両親の会話で、仮に親父が60歳で定年を迎えるにしろ年金をもらえるようになる65歳まで生活するのに平均で2,000万円以上の貯金が必要だとテレビか雑誌かで言われていると話し合い、現行の貯金額と受け取るであろう退職金額を予想した上ですでにリストラ候補となっているうちの親父がいつまで会社のリストラ要求を突っぱねて給料をもらい続けるかというシミュレーションを立てていました。またその会話で仮に現行の年金制度が維持されるならともかく、今後給付額が減らされる可能性もあることから実際にはシミュレーション以上の貯金が必要になってくるかもしれないとも話し合っていました。

 実際に日本の年金制度がこのままでは破綻するのは簡単にシミュレーションできることで、将来的には受給世代の給付額が減って現役世代の納付額が増やされる事は自明と言っていいでしょう。また年金に限らず今の借金漬けの日本の財政を考えるにつけ、医療費を含めた社会保障費はどんどんと減らされていくことも考えられ、そんな時代では消費よりも貯蓄の方に頭が行ってしまうというのも自然な話です。

 久々に大分前置きが長くなりましたが、要するに日本の財政、年金に信頼がないからこそ現代の日本人は消費意欲が低いのであって、それが景気に悪影響を及ぼしている最大の原因ではないかと私は言いたいわけです。
 小泉政権は確かに切捨てと言われるような厳しい政策を採ったものの曲がりなりにも財政再建に真正面から取り組んでいましたが、それ以降の政権では徐々に予算を拡大化させ、前鳩山政権に至っては税収以上の国債を発行する甲斐性なしの男性のような予算まで組みました。

 私はいくら今が不況だからって、借金がない状態ならともかくすでに借金漬けの現状で財政出動を行うのは余計に国民から財政への信頼を失わさせ、景気悪化を引き寄せる事になるのではないかと思います。それであれば弱者切捨てとなろうとも、まだ未来が持てるような政策を取った方がまだ最終的な犠牲者は少なくて済む気がします。弱者切捨て以前に、まず真っ先に切るべきは子供手当てでしょうが。

2010年7月28日水曜日

千葉景子法相の死刑執行署名について

 かなり以前に佐藤優氏がその著作において、日本で法務大臣の権威が低すぎるのは問題だという指摘を行っていました。佐藤氏によると米国では大統領が突然死した場合、ピンチヒッターで次の大統領に就任する優先順位は第一位に副大統領で、確か二位か三位に法務大臣が来るそうで、法治国家において国の根幹となす法律を管理する最高責任者はその職務を全うするに足る相応の人物がならなければいけないと重く見られているそうです。それに対し日本では、国土交通大臣や厚生大臣と比べると利権が少ないという理由で権威が非常に低いのは異常だと佐藤氏は指摘していました。

 佐藤氏は検察から国策捜査を受けた事があるゆえになかなか説得力があるのですが、確かに近年私が確認するだけでもこの法務相という職には首を傾げざるを得ない人選がことごとくなされており、それまでの経験で法務に全く携わってこなかった人間や、失言を繰り返す人間がなるなど、どこかお飾りというかマスコット的な大臣職にしか扱われていないだろうと感じていました。
 幾つかそういった法務大臣経験者を出すと、まず第一に挙がってくるのは第二次小泉内閣での南野知惠子氏です。国会での質問に度々窮してついに出てきた言葉が「何分、専門家ではないもので」という発言で、法の素人がどうしてその最高責任者になれるんだよと見ていて呆れさせられました。

 次に問題性があると私が感じたのは麻生内閣での森英介氏です。森氏は不法入国していたフィリピン人家族の処置に対して曖昧な態度を取り続けた上に、あまりニュースでは取り上げていませんが冤罪だった可能性が未だ濃く残る飯塚事件の犯人の死刑執行署名にサインしております。

 簡単に飯塚事件について説明するとこの事件は検察と警察が冤罪だったと完全降伏するに至った足利事件と全く構図が一緒で、警察が犯人を特定するに至ったのは現場で見られたと証言のあった車と同じ車を犯人とされた人物が持っていたことと、当時の技術レベルの低い不正確なDNA鑑定の結果だけでそれ以外の物証は何もありませんでした。
 しかも犯人とされた人物は終始無実を訴えていたのですが、死刑執行の優先順位が100人中61番目だったにも関わらず、再審請求が行われていたにも関わらず刑が執行されました。この異例ともいえる執行が何故行われたかについてはいろいろいわれていますが、事件の舞台となった飯塚市がある総理経験者と同じ選挙区だったことが影響していたのではという意見があるとだけ申しておきます。

 この他第四次小泉内閣での杉浦正健氏も如何な人物でしたが、そんな法務大臣職に民主党が政権交代して誰がなるかと思っていたら、杉浦氏同様に就任するや、「死刑執行の署名は行わない」と言い出す千葉景子氏でした。いい大人だったら本当にやるやらないは別としてこういったことは口には出さないでいるべきだと思うのですが、弁護士出身とはいえまたも不安な人間がなったなぁとかねてから思っていました。そうしたら、

千葉法相、2人の死刑執行 「見届けることが責務」と立ち会い(産経新聞)

 なんとかつての自分の発言はどこいったのか、千葉氏は今日になって突然二人の死刑受刑者の刑執行を行ったと発表してきました。
 そもそも千葉氏は前回の参議院選挙で落選しており、現在はいわば民間人大臣であります。小泉政権の頃の竹中平蔵氏みたいに民間人ではあれども経済学者出身として専門分野に直結する経済産業担当大臣を務めるというのならば分かりますが、何度も言いますが法治国家において法を管理する最高責任者が選挙の洗礼を受けない、っていうか洗礼を受けて落選し、国会議員でもなくなった一民間人が法務大臣を務める事には前々から批判がありましたが、まさかそんな人間が死刑執行を決めるなんて私もさすがに唖然としました。

 この千葉氏の民間人という地位について枝野幹事長は執行の署名はまだ千葉氏が参議院議員資格のある24日に行ったとフォローを入れていましたが、これはこれで企業で言うなら退任間近の社長が人事に介入するような行為と変わらず、少なくとも死刑執行の署名をするに適当な時期ではなく問題があるように私は思えます。

 今回の死刑執行の一件は、言ってしまえば任命されれば誰でも死刑受刑者を好きに処刑できるという事を証明してしまったと思います。死刑という制度についていろいろと議論する余地はありますが、今回の一件はどこをどうみても評価できる点を見つける事は多分出来ないでしょう。これを期に法務大臣職にはもう少しまともな人物がなるようになればまだいいのですが。

2010年7月27日火曜日

刑事罰における責任の捉え方

 昔、確か六年前に友人とテレビでニュースを見ていると、線路に自転車を投げ込んだとして中学生が捕まったというニュースが報じられていました。そのニュースを見て私は友人に、

「この中学生、もう死刑でいいよね」
「せやろなぁ。こいつも自転車投げ込んだら脱線するかもしれへんことくらいわかっとるやろしなぁ」

 自分でも本当に自分は死刑廃止論者なのかと時々疑わしく思いますが、この事件について言うならば私は投げ込んだ中学生は少年法とかそういった物を一切無視してもいいとこの時思いましたし、今でもそう考えております。

 そもそも何故少年法があるのかと言うと、善悪の判断がつかない、何が犯罪になるのか分からない子供は罪悪感を持つ事が出来ないため、罰を与えるよりはしっかりと教育を行っていくほうが当人にも、社会にもよいという考えから存在します。しかし先ほどの線路に自転車を投げ込むという行為については友人の言の通り、中学生であればそれがきっかけで電車が脱線する可能性も、それによってたくさんの人間が死ぬ可能性も容易に予測できるはずです。
 もしこの行為で少年法が適用するのであれば、私は本当に右も左もわからない小学校の低学年くらいまでの子供であればまだ仕方がないと思いますが、いくらなんでも中学生でこんなことも分からないで実際に行動に移すというのであれば先が思いやられるにも程があります。

 近年、著名な刑事裁判においては少年法、もしくは心神耗弱などといった理由によって弁護側より減刑を求めるという主張がほぼ確実になされていますが、そもそもの話としてこれらの適用があまりにも幅広すぎないかという気がしてなりません。報道される裁判を見ていても心神耗弱にしても善悪の区別がつかない状態というにはあまりにも程遠い容疑者ばかりで、それこそ先ほど私が言った「小学校低学年くらいまでの子供」のような状態なんてまずないでしょう。

 今日何を思ったのか三年前に起きた「渋谷区短大生切断遺体事件」をまた調べなおしていたのですが、この事件の一審では被告人に多重人格が認められて求刑17年に対して判決は懲役7年へ一部減刑が認められていました。言っちゃなんですが殺害後にバラバラに切断し、家族に対して知らない素振りを見せて遺体を隠匿しようとする行動を見るにつけてとても被告がそのような精神状態であったとは思えません。
 そしたら案の定二審では多重人格は否定されて懲役12年になったそうですが、いい加減、こういうくだらないことを裁判で言い合うのはもうよして、認められなかった場合には弁護側に明確なペナルティをつけるとかした方が裁判も効率化していいような気がします。

2010年7月26日月曜日

私の好きな白鵬について

 昨日、終始波乱に満ちた名古屋場所が何とか無事に終わりました。開催前にはあーだこーだ言われていながらも終わってみれば観客数は前年度の一割減に止まり、当初予想されていたほどの落ち込みもなくNHKの中継がなかったとはいえまずまずの結果でした。
 そんな名古屋場所で最初から最後まで大きな貢献を果たしたのは、誰の目から見ても優勝した横綱白鵬にあることは間違いないでしょう。先場所、先々場所に続く全勝優勝を果たしただけでなく、力士としての連勝記録も単独で三位、平成に入って以降ではついに過去最高の記録にまで至りました。恐らくこの白鵬の存在と活躍がなければ、今頃相撲協会は公益法人格を取り下げるべきだという声が公然と出ていたかと思います。

 そんな白鵬ですが、力士としての取組ぶりはさることながら以前から私はその個人としての人格も高く評価しておりました。そこで今日は優勝記念とばかりに、白鵬のサクセスストーリーとに彼について私の知っている事をここで紹介しようと思います。

 今でこそ力士として大成している白鵬ですが、彼が日本の相撲界に入ったのはわずか15歳の頃でした。すでにモンゴル人力士として日本で活躍していた旭鷲山を頼って来日したものの、一緒にやってきたメンバーは次々と相撲部屋からのスカウトを受けて次々と引き受け先が決まっていったにもかかわらず白鵬には全く声がかかりませんでした。このままではモンゴルに帰るしかない、そんな白鵬の苦境を知るや旭鷲山が斡旋に動きました。

 実はこの旭鷲山と白鵬には因縁があり、モンゴル相撲の祭典に16歳の旭鷲山が出場したものの貧しい家庭出身ゆえに満足な食事が取れておらずお腹をすかしていると、当時4歳だった白鵬が食事を恵んでくれたそうです。二人ともこの時のことをよく覚えていたものの、この来日した白鵬の斡旋に動いていた際は互いにその時の相手だと分からず後になってあの時の相手がお互いだったと気づいたそうです。

 そんな白鵬と旭鷲山ですが、当時背は175センチと高い身長ながらも痩せ型の体型の白鵬を引き取る相撲部屋はなかなか見つかりませんでした。そうして悩んだ末に旭鷲山は、
「そうだ、あの駄目な宮城野部屋ならなんとかなるだろう」
 と、当時弱小だった宮城野部屋に「身長が高く、将来有望な少年がいる」とほとんど騙すような形で連れて行ったそうです。そうやって白鵬は宮城野部屋につれてこられたのですが、その白鵬を見るや当時の宮城野親方(現熊ヶ谷親方)は全然話が違うと追い返そうと考えたそうですが、不安そうな表情を浮かべている白鵬を見るに見かねて内弟子としてとることにしたそうです。

 とはいえ当時の白鵬は日本語も全く分からず、しかも先ほども言った通りに非常に痩せていたため、宮城野親方は最初は稽古を一切させずにただご飯を食べて寝ろとだけしか指示しなかったそうです。当の白鵬もこれには困惑して、女将さんが言うには当時の白鵬の口癖は「何で?」だったそうです。
 またある日、白鵬が一人で写真を見ていたので女将さんが声をかけると、白鵬は家族の写真だとその写真を見せてくれたそうです。そんな白鵬をみて女将さんはモンゴルに帰りたいのと聞くと白鵬は、「いや、横綱になるまでは帰れない」と毅然と言い返したそうです。

 言葉も分からない外国で、しかも日本人ですら逃げ出すほど厳しい相撲部屋に入ったわずか15歳の少年が、ここまで覚悟を持てるものかと初めてこの話を聞いた時は非常に驚きました。多分私ならすぐに逃げ帰ってるだろうし。
 そんな白鵬も体格が出来上がってくるや、元からの高い身体能力とあいまって異例のスピードで昇進を重ねていきます。私が白鵬の取組を見始めたのは2005年頃からですが、当時からも足腰の強靭さは並外れており、なおかつ一度廻しを掴んだら絶対に離れないと言われる握力とあいまって大きく印象に残ったのを今でも覚えています。

 そうやって出世街道を走った白鵬が初めて取組で懸賞金を得ると、それを真っ先に宮城野親方と女将さん夫婦の元へ持っていって全額を渡したそうです。こうしたエピソードの数々を思い起こすにつけ、力士以前に白鵬という個人の人格に対しても尊敬の気持ちが湧いてくるわけです。

2010年7月24日土曜日

これまでの酒税率増税について

 いきなり結論ですが、私は現行の酒税率を下げてかつての水準に戻すべきじゃないかと思います。

 酒税というのは文字通りにアルコール類の飲料にかけられる税金で、飲料を製造したメーカーや酒造業者がその製造量に応じて支払うのですが、この税率はその製造された院量のアルコールの度数によって変動し、基本的にアルコール度数が高いほどかけられる税率も高くなります。
 近年、この酒税率は一方的と行っていい程に増加しており、細かい税率までは紹介しませんが財政難の国が取り易い所から取ろうと、反発の少ない酒税に的を絞っているのは衆目の一致する所です。

 確かに税収を増やすという目的であれば多少の増税は仕方ないと思うのですが、この酒税についてはちょっと話が変わってきます。というのも酒税率の増加と合わせて各飲料メーカーは比較的税率の低いアルコール度数の低い酒類、いわゆる発泡酒の製造、開発に勤しんだため、今ではすっかりこの発泡酒が世の中にも定着しました。

 しかしこの発泡酒ですが、酒をよく飲む人間から話を聞くと以前と比べれば大分マシになったものの、それでもビールよりは味が悪いそうです。そういった方達に更に話を聞くと、できる事ならビールを飲みたいと思うものの先ほどの酒税率増税によってビールの値段が上がってしまっているため、昨今はやむなく発泡酒に切り替えて飲んでいるそうです。
 こうした消費者の動きにこれでは増税した意味がないと国税庁も思ったのか、ビールに続いてこの発泡酒などの税率も近年は徐々に引き上げられてきております。そしたらそしたで飲料メーカーも今度はノンアルコールビールの製造、開発に勤しんで、なんか今年はやたらとこのノンアルコールビールが発売した、伸びているなどといったニュースを見ます。

 はっきり言ってこんな「国税庁VS消費者+飲料メーカー」のいたちごっこがいつまでも続いていたら、最終的には「じゃあこの際、お酒っぽい水でもいいや」ってことになりかねませんし、少なくとも当初の目的である税収の増加は全く以って見込めないでしょう。
 それだったら私はこの際、税率を以前の低い水準に戻し、飲みたい人間には以前の価格で以前どおりのお酒を提供するべきだと思います。酒飲みからすれば日ごろの楽しみの一つなのですし、味のいい飲み物を好きに飲ませた方が国民生活的にも、文化的にもいいかと思います。

 また確かに近年の飲料メーカーに因る発泡酒の開発は大した物だと思いますが、やはり発泡酒では味に伸び代と言うか限界があるように思えます。そんな発泡酒を開発していくよりはもっとビールの製品改良を行った方が産業的にも、将来輸出できる可能性を考える上でもずっと有益な気がします。多分発泡酒やノンアルコールビールなんて、世界的にも飲む人は少なそうだし。

 ちなみにここだけの話、私は酒が飲めない人間です。何気に昨日飲み会では次がれてしまったのでビールをコップ三杯飲んで、ブログの更新もサボったわけです。何も悪酔いしたわけでもなく二日酔いもなかったのですが、何度飲んでも酒類がおいしい飲み物だとは思えないなぁ。

2010年7月22日木曜日

法人税と消費税の関連性

 もう結構前の放送ですが、「TVタックル」においてキョウデンの橋本会長が面白い事を話しておりました。一体どんな事を言ってたのかというと、赤字が続く日本の国家予算を回復させるために政府は消費税を上げるのではなく、法人税を上げるべきだと主張したのです。

 正直な話、企業経営者の方から「法人税を上げるべきだ」という意見が聞かれるとはそれまで私は夢にも思いませんでした。一体どういう理由でそんな事を言い出すのかと続けて聞いていると、まず橋本会長は現在の消費税が昔と違って外税ではなく内税になっていることが企業にとって大きな負担になっていると言いました。

 内税の現制度ですと、書籍などといったものを除いて基本的に商品の値札には消費税を含んだ金額を書かなければなりません。そのため仮に消費税が現行の5%から10%に上げられた場合、販売者側はこれまで通りの利益を確保するためには上がった消費税分だけ商品の値札価格をそれまでより上乗せしなければなりませんが商品を買っている消費者側からするとこれではただ単に物が値上がりしたようにしか見えず、橋本会長によると恐らく消費者の消費する意識が薄れて物が余計に売れなくなって販売者側もそれまで以前の利益を確保できなくなることが予想されるそうです。
 そうなると販売者側は消費税が外税から内税に切り替わった2004年時のように値札の価格はそのまま、消費税の分だけ利益を減らすという方法を取らざるを得なくなるそうです。

 この橋本会長の意見ですが、私も聞いてて大いにありうると感じました。実際に内税に切り替わった2004年時に私はほぼ毎日のようにスーパーに行って買い物していましたが、実際に物を買っていて消費税分だけ値札の値段が上がったと感じる事は殆んどありませんでした。

 その上で橋本会長は、国は税収を増やしたいのであれば敢えて消費税をもっと減税し、その分法人税を上げるべきだと主張しました。消費税を下げる事で消費者は商品の値段が安くなったと感じてより消費意識が上がり、物を売る企業の側も余計な消費税の負担も受けずに経営がやりやすくなります。その上で企業が利益を出せるようになれば法人税が少し増えた所で、元々赤字の企業に法人税は課されないのだからさほど経営に影響があるとは思えず、むしろ利益を出せる企業が増える事で社会全体が明るくなるのではと意見をまとめていました。

 私は元々消費税増税論者ではありますが、こうして実際に企業経営者側からの視点での意見を聞かされてみると改めて考えさせられました。橋本会長の言っている事は非常に筋が通っている上、どっかの死にぞこないの会長と違って企業経営者自身が法人税を上げるべきだという意見を出すその姿勢には正直頭が下がりました。

 私が消費税を推進する理由は第一に徴税コスト(税金を徴収するのにかかる費用。マルサの雇用費も含む)が安い事、第二に脱税抜け道が少ない事、第三に比較的平等に徴税できるからで、仮に今後の日本で消費税率を上げるのであればその代わりに徴税コストが非常にかかる所得税を大きく見直し、それこそ所得の低い世帯を救済する為に年収400万円以下にはこの際所得税は一切かけないという案を持っていたのですが、聞いててこの橋本会長の案の方が案外いいんじゃないかと思いなおすようになってきました。

 何気に「法人税」という言葉はこの陽月秘話とは縁のある言葉ですが、私は基本的に税金というのは単体で考えるのではなく、他の税金、その用途などを合わせた幅広い視野で考えなければいけないものだと思っています。
 そういえば酒税についてまだ書いていなかったので、次回辺りにちょこっとこの辺を書いて見ます。

2010年7月21日水曜日

時間が有限だと意識する事

  夏休み お盆過ぎから 本番に

 これは大分昔に作った私の俳句ですが、言わんとする事は夏休みは終盤に入って宿題に追われるという状況になればなるほど遊んでて楽しくなるという意味です。人間不思議な物で、何かに追われている状況であればあるほどやらなきゃいけない事を放って関係ない行為、それこそゲームとか掃除とかをすると強い快感を覚える物ではないかと常日頃から私は考えています。

 まぁそういった現実放棄の快感は放っといて、それこそ今日から小学生らは夏休みに入ったそうですが、私の子供時代を思うにつけて夏休みが始まったばかりの七月だとどうにも休みという実感がないのですが、終わりが見えてくる八月の後半になるにつけ一日一日がそれまでよりずっと重く、価値があるように感じられた気がします。
 これはなにも夏休みに限る事じゃなく期間の定めた時間一般にも当てはまるように思え、例えば先ほどの夏休みの宿題のような作業一つとっても日程に余裕のある間はどうせ後で出来てしまうからなどと思ってはそれほど切迫感を感じられませんが、日にちが段々と狭まっていくと徐々に切迫感が増して嫌が応にも作業への集中力が増していきます。

 もうここで結論を出してしまいますが、人間というのは基本的に終わりが見えない間は現在自分がいる時間の価値を測ることが出来ないのではないかと私は言いたいわけです。
 先ほどの小学生時代の夏休み然り、学生時代然り、若者でいる間然り、現役世代でいる間然りと、人間には人生において様々な時間の期間が存在しますが、それぞれの期間で満足に時間を使用したかと問われるならば恐らく殆んどの方が無駄な時間の方が多かったと答えると思います。その上でそれら期間の前半と後半でどちらが充実した時間を過ごしたかと問うならば、多分こちらも後半の方が濃密であったと大半の方が答えるかと思います。

 何故このようになるかというと最初に言った通りで、それぞれの期間が終わりに近づかない限りはその期間における時間の価値、言い換えるならその間にしかできない事、やれない事を上手く認識できないからで、そのために人間が時間をフルに有効に使う事は至難の業ではないかと私は思うわけです。

 で、ここで極論を突然出してしまいますが、一体何が人間にとって最後の時間かというならば、それは間違いなく死以外の何物でもありません。
 私が何故この様なことを思いついたのかと言うと、ガン宣告を受けた患者らのインタビュー記事を見ていると、自分の死を意識するようになってから世界観が変わった、一日一日に価値を見出せるようになったという話を多く見かけたからです。

 言われて見て仮に私自身がもし来週、下手すりゃ明日に死ぬとしたら、一体今自分は何を優先して行うべきなのだろうかをその時少し考えてみました。遺書を書くべきか、それとも誰かと話しているほうがいいのか、それともいっそ何もせずに外だけをじっと眺めているべきなのかといろいろ考えてみたのですが、時間が有限だと意識すると何か物の見方が変わった気がしました。

 何も常に死を意識しろとまで言うつもりはありませんが、今あるこの時間は有限であって無限でないと考えるだけでも、人間知らず知らずのうちにもっと充実した時間を送れるんじゃないかと思うわけです。
 ちなみに常に死を意識するという考え方ですが、長岡出身の河合継之介と山本五十六の二人はよく、「常在戦場」という言葉を使っていたそうです。私はここまで極端ではないものの、論語の「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」をよく使っています。