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2010年11月24日水曜日

中国から見た日本の若者の状況

 今現在、今後の日本の景気について聞けばサラリーマンはもとより評論家らも異口同音に不況で先行きは暗いという見通しを話します。私自身もつい先日までそのように考えていたのですが、先日に中国にしばらく滞在して新ためて日本を外から見るのと、中国を中から見て以前とはやや違った考え方を持つようにこのところなってきています。結論を先に述べると私は日本人が将来を悲嘆しているのは甘えもいいところで、まだ随分余裕を持て余しているようにしか現在は考えていません。

 上海に滞在中、街中を歩いているとそれまであまり気にしていませんでしたがふとあるレストランの入り口に掲げられていた看板に目を留めてみたところ、ちょっと気になる数字が書いてありました。

「ホールスタッフ募集 月給2,000元」

 もちろんオリジナルは中国語で、「招聘洗碗工 RMB2,000」と書かれていましたが、改めてこの数字を見てみると日中での為替格差と生活の差をまざまざと見せ付けられました。この2000元という数字、現在の日本円は円高の影響もあって1元=12円ですがそれで計算すると、その上海にあるレストランではホールスタッフの給与は24,000円という事が分かります。

 日本円で月給24,000円だととてもじゃないですが暮らしていくには厳しい額ですが、中国ならば物価も安くてそれ程でもないのではと皆さん思われるでしょう。確かに中国の物価は日本と比べて非常に安く、コーラなどは1缶2元(24円)、食事も10元(120円)も払えばチャーハンなりラーメンなりそこそこ食べることが出来ます。ただこうした費用が安いからといって他のも何でもかんでも安いわけではなく、これは中国人の友人にも確認しましたが上海市内で部屋を借りる場合はどんなに狭くとも2000元以上は必ず取られるそうで、その他の細かい生活費用も上海では日本並みに取られる事も少なくありません。
 となると家賃が2000元では先ほどのホールスタッフは月収を丸ごと大家に取られる事になり普通では生活できません。ではそんなホールスタッフの募集に応じる、主に田舎から出稼ぎにやってきた若者らはどうやって生活するのかと言うと、大抵は一つの狭い部屋を数人で一緒に借りて共同生活をして働き続けるのです。

 念のため言っておきますが、上海は中国で最も物価が高い地域である一方で最も給料の高い地域です。確かに地方によって細かい事情は変わってくると思いますが大抵の都市部では多かれ少なかれこのような状況で、元からその土地に住んで定住している人間ならともかく、出稼ぎに来た若者らは数人で共同生活をしながらわずかに残った給料を貯めて地方に送る事でぎりぎりの生活を続けています。
 こうした中国の苦しい状況は田舎出身の若者に限らず、大卒の若者ですらも当てはまるのではないかと現在私は睨んでいます。細かくまだ確認が済んでいなく企業ごとにも違うでしょうが、私の予想だと中国のホワイトカラー職の大卒初任給は約5,000元前後で、しかも最近は日本同様に大卒の就職状況が悪いために卒業したにもかかわらず職にあぶれる若者が後を絶ちません。

 翻って日本の状況ですが、就職氷河期を越えるほどの低い率で戦後最低を更新するほど昨年度の大卒内定率は悪かった物の、地方ならばともかく東京や大阪といった都市部であれば20代ならばまだアルバイトで働く事は可能だと思います。仮にアルバイトの身分で正社員同様にフルタイムで働けば月収20万円を稼ぐ事も難しくなく、この収入であれば部屋を借りて一人で生活することも不可能ではないでしょう。
 もちろん日本の雇用慣行上、新卒で就職できなければその後もずっと就職の機会がない、アルバイトでは雇用経験として認められない上にスキルが身につかない、三十代になればアルバイトもし辛くなるため、この低い内定率の状況を私も問題視しており早く対策を打つべきだと考えてはいますが、それでも中国の若者(大卒高卒を含めて)の状況と比べるならばまだまだ日本の若者は恵まれた環境にあると思います。厳しいことを言えば、たとえ就職にあぶれたとしても日本の若者ならばアルバイトをしながらお金を貯め、ある程度溜まった所で資格の勉強をしてスキルアップに繋げてその状況から抜け出す可能性もありますが、中国の若者にはそんな可能性すらありません。

 よく中国は上り調子、景気がいいとあちこちで言われていますが、そこで生活する人間達のミクロな生活を比較すれば今の日本人はまだ遥かに恵まれており、これで「日本の将来は暗い」、「一度チャンスを逃したらもう立ち直れない」などと言うのはどこか浮世離れした感が私にあります。

 もちろん言うは安しで行なうは難しの如く、実際に厳しい状況に置かれた事のない私がこんな事を言うべきではないのかもしれませんが、それでも敢えてこのように文章にして主張したのは自分を含む今の日本の若者に必要以上に世間の暗い雰囲気を真に受けるなと言いたいからです。
 たとえ正社員になれなくともまだ生きていける、生活できる、おまけに今はデフレで安い金額でそこそこ娯楽も楽しめる。将来が厳しいと予想されるとしても必要以上に暗くなる必要はありません。これは多分、近年中国に行ったことのある人なら皆わかると思いますが、日本の若者と比べて中国の若者は実に明るい表情を皆でしています(北方の人はあまり笑わないけど)。将来性はともかく現行の生活状況は中国の若者の方が明らかに苦しいにもかかわらず、彼らはまだ若者らしいと言ってはなんですが明るい表情で楽しそうに暮らしています。

 将来を懸念する事、対策を作る事は非常に大事ですが、そのために今現在を無駄に台無しにしては意味がありません。日々のニュースや年配の世代が暗い事ばかり言っているからといって真に受けず、まだ日本は頑張れば先進国の生活を送れるのだと考えてもっと前向きになってくれればと、一人の若者として切に願います。

 次回はもうちょっとマクロな日中経済比較を行います。そこそこ自信のある内容を用意してます。

プレステVSサターンの次世代機争い

 先日、中国人の友人と日本のゲームの話をした際、日本でもあったプレイステーションとセガサターンの次世代機争いが中国でもあったという話を聞いたので、あの時代をリアルに生きていた一人として後世に歴史を語り継ぐために今日はこの次世代機争いについて書こうと思います。

ソニープレイステーション
セガサターン

 上記二機種のゲームハードはほぼ時を同じく1994年の年末に発売し、当時スーパーファミコン全盛だった時代に次世代の主要ゲームハードの座を賭して激しく争いました。発売当時の私は小学生でしたがゲーム屋、電気屋に置かれた試遊台にて両者のゲーム画面を見てそのグラフィックの良さに驚いたのをよく覚えています。

 まず簡単に発売当時の状況を説明すると、当時は持たないものは小学生男子にあらずと言われるまでに普及していたスーパーファミコンでしたが発売から大分年数が経っていたこともあってゲームハードとしての機能に限界が徐々に見えていました。そんな次世代機が徐々にほしいなぁと思われていた矢先、日本ではともかく海外市場ではメガドライブというハードで成功を収めていたゲーム会社のセガが日本市場の奪還のためにセガサターンを開発して市場に投入したのですが、その一方で家電会社のイメージの強かったソニーが任天堂との共同開発を行っていたものの途中で破綻したCDドライブ型ゲームハードを独自に開発しており、そうして完成したプレイステーションを揃って投入しました。両者はどちらもクリスマスの年末商戦に合わせて発売したのですが発売当初の両者の値段はプレイステーションが39,800円、サターンが44,800円で、物の分からない小学生とはいえ親にねだるには高すぎるなぁと私は感じました(スーパーファミコンは最初、25,000円だった)

 そんな感じだったので発売当初は遊んでみたいと思うめぼしいソフトもなく、値段の高さと相まってどちらかといえば子供ではなく大人が遊ぶゲームハードなんだろうと思ってあまり欲しいと感じませんでした。ただ市場では物凄い綱引きがあった様で、どちらも赤字覚悟で再三の値下げ合戦を繰り広げてはスーパーファミコンから離脱するサードパーティことソフト開発メーカーの抱きかかえ合戦が行われていたそうです。

 ちなみに確証は持てない情報ですが当時の業界関係者によると、当時ほぼゲーム市場を独占していたスーパーファミコンでゲームを発売するに当たって任天堂がソフトメーカーに任天堂に支払うよう課していたロイヤリティことマージン率は異常に高かったらしく、メーカーらも任天堂と対抗する他社の新ハードの登場を待望していたそうです。実際にスーパーファミコンの後期発売ソフトは定価が9,000円台後半で当たり前、中には10,000円を越すのまであったので現在のソフトと比べても異常に高いものだとわかります。一説によると、定価の約半分が任天堂へのロイヤリティ分だったという噂まであるし。
 逆をいえばこうした殿様商売をやっていた隙を突かれたこともあってこの次世代機争いの途中に任天堂が発売した「Nintendo64」は普及が進まず、現在に至るまで据え置き機で任天堂は王座に帰り着くことが出来ずにいます。消費者としてはソフト価格が安くなって助かったんだけど。

 話は戻ってプレステとサターンの話です。そんなこんだで94年の年末に発売して95年からがっぷり四つになって販売争いが行われるようになったのですが、当初はサターンの方が優勢でプレステ側が「目指せ100万台」と言っている最中に先にサターンの方が100万台を達成したくらいでした。この要因を私なりに分析するとサターンは販売元がゲーム会社のセガなだけにゲームセンターに置いて認知度の高かった「バーチャファイター」など人気ゲームを早くに移植したが故だと考えています。また私見ながら初期プレステのソフトはサターンと比べるとやや子供っぽいというか、対象年齢の低いゲームが多いように思えてハード本体の値段が子供には手の出し辛い価格だった事を考えるとそうしたソフトの差がモロにでたとおもいます。
 ちなみに95年、うちの親父が取引先から騙したのか脅したのかは分かりませんが、日立製のHiサターンというサターンのちょっと変わった機種をもらってきたので、私はこの次世代機争いではサターン派に属しました。

 明けて96年、すでにサターンを持っていたことからバリバリのサタニストだった私ですが、この年の初期に初めてプレステユーザーがうらやましくなる事件がありました。それは何かと言うと、今もシリーズが続く「バイオハザード」の一作目がプレイステーションから三月に発売されたのです。元々ホラーゲームが好きだった私なだけにこのゲームは発売前から興味があり、どうしてサターンじゃできないんだと歯噛みするような思いで店頭に置かれたデモプレイを眺めていたのを覚えています。

 そしてこの頃から両者ゲームハードにおいて性能差が徐々にはっきりでるようになり、聞くところによると当初はサターンの方が高性能だったものの元の設計が当時主流になりつつあった3Dゲームにあまり向いておらず、逆にこの分野に強かったプレステがソフトメーカーに頼られるようになっていったそうです。さらに発売当初は気にならなかったものの、ゲームの途中経過を記憶するのにプレステでは別売りの「メモリーカード」といって外付けの端子媒体を使うのですが、サターンの場合は内蔵のメモリが初めからついていました。サターンはメモリが最初からついてあるからなにかと便利だと思ったら運の尽きでこのメモリは定期的に電池を交換しないと機能しなくなり、しかも電池を交換した際はそれまでのデータがすべてすっ飛ぶという優れもの、さらには電池交換のタイミングは全く確認できないという三拍子ものでした。この次のドリームキャストといい、セガは記憶媒体についてなにか考え方がイカれているとしか思えない。
 一応サターンにも外付けの大容量記憶媒体こと「パワーメモリー」があったのですが、これも最初はいいけど使い出して大体二年くらい経つとびっくりするくらいにハードが認識してくれなくなり、私もサターン本体を殴り壊さんばかりにこのパワーメモリーを外しては挿入してを繰り返した事が何度もあります。

 そういった元もとの性能の差に加え、両者とも徐々に描画機能や開発機能などに改造を行っていましたがこれもプレステの方が進んでいました。唯一プレステで問題だったと私が感じたのは、サターンと違ってテレビなどとの接続端子がすぐに痛むところがありました。サターンは各部品ごとにメーカーがちがったもののプレステの場合はすべてソニー内の部品を使っていたためこうした細かい所ではサターンに軍配が上がります。とはいえ、プレステ2ではこういった接続不良はきれいさっぱりなくなったけど。

 そうして徐々にプレステが勢いづく中で最後の決定打となったのは96年の後半に発表された「ファイナルファンタジー7」がプレステから発売されるという一撃でした。まさに関ヶ原における小早川秀秋の裏切りのように、当時ブランドイメージとしてはゲーム会社中最強であったスクウェアのプレステへの参陣はサタニストの私も、「もはやこれまでか」と思わせられたほどでした。事実それからはどちらも持っていない子供はプレステを、サターンを持っている子供もプレステを買い漁る始末で、97年以降になるとサターンで発売されたゲームはセガ製以外はほぼすべてプレステに移植されるという、悲しい結果になりました。そんな下り坂まっさかさまの時代にあってサターンの最後を輝かせたゲームソフトをいくつか挙げると、

・街(チュンソフト)
・スーパーロボット大戦F(バンプレスト)
・ブラックマトリクス(NEC)

 私の記憶が確かなら、最後の「ブラックマトリクス」が他のゲームハードのソフトも入った週間売上げランキングにてサターンソフトでありながら一位になった最後のゲームだったと思います。まぁ三つとも、後にプレステに移植されているけど。

 このサターンとプレステの争いからもう十年以上経ちますが、その後も「プレイステーション2 VS X-box」や「プレイステーション2 VS ゲームキューブ」、「プレイステーション3 VS X-box360」、「Nintendo DS VS PSP」などと一応ハード争いを見ることはありますが、この時のハード争いほど熾烈なものは私は未だ見たことはありません。96年まではカプコンを筆頭に片っ方でゲーム出してもしばらくすればすぐもう片っ方に移植されて当たり前でしたし、他メディアとのタイアップも全然勢いが違いました。

 その上でサターンの敗因を私なりに言わせてもらうと、やっぱりセガの販売戦略が根本からおかしかったと言わざるを得ません。前ハードのメガドライブで人気だったソニックシリーズをなかなか出そうとしなかったり、小中学生には敷居の高い「大戦略」などといった戦略シミュレーションばかりだしたり、挙句にキラーソフトである「バーチャファイター」が3D格闘ゲームなのにハード性能を2D描画に偏らせるなど、言い方は悪いですが本気で売るつもりがあるのか疑問に感じるほど穴が多かったです。
 しかも残念なことにセガはこの次の「ドリームキャスト」でも大ポカを連続し、前述の記憶媒体では「ビジュアルメモリ」という、発売する前に誰か止めなかったのかと思うくらいの不良品を出してくる始末でした。この時期のセガはあの悪名高き「パソナルーム」を使って社員を退職に追い込むなど常軌の逸した行為をしており、末期だったんだろうなぁと個人的に思います。私もサタニストだっただけにセガを応援してたけど、「パソナルーム」のこと聞いてからはこの会社が大嫌いになりました。

  おまけ
 ちなみに私の中国人の友人は、「鉄拳(プレステ)かバーチャファイター(サターン)かで悩んだけど、僕は鉄拳を取ったよ」と言ってました。鉄拳も面白いしね……。

2010年11月23日火曜日

新聞を読まなくなったのはネットニュースのせいか

 別に隠すほどの事ではないのでもう書いてしまいますが、先週の金曜から日曜まで関西に赴き、お世話になったかたがたに中国へ行く前の挨拶回りに行っていました。夜行バスで行ったけど、自分が学生だった頃より本数が多くなったと思う。

 それはさておき今回の挨拶回りの最中に以前の恩師から誘いがあり、京都某所で行われた研究報告会にも参加してきました。報告会のテーマは今時の大学生ということで各専門の先生がそれぞれのまとめた内容を報告し合っていろいろと面白く、取り上げられたデータの中から面白かったのをいくつか抜粋すると、

・下宿生の支出は食費や娯楽費などほぼすべて下がっている中、家賃代だけは上がっている
・仕送りが減る一方、アルバイト収入も減少傾向
・一日一時間以上授業以外の自主勉強、読書を行えば統計上勉強している方になってしまう
・就職活動に苦しむのに男女ではあまり差がなく、どちらも真面目なタイプが苦労している

 ざっとこんなものなのですが、敢えて大きく取り上げようと思うのにこの記事の題となっている新聞とネットニュースの関連の研究報告でした。結果を先に言うとよく、「インターネットでニュースを見る習慣ができたので、新聞は読まれなくなった」と言われつつも実際に学生を調査してみたらインターネットでニュースを良く見る人ほど新聞も読む人が多くなったという内容で、私の感想を述べるとまぁそうだろうなと気がしたわけです。

 私自身も他の人間より人一倍ネットでニュースを見ますが新聞もほぼ毎日読んでて、購読ということになると学生時代はお金が惜しくて取りませんでしたがそのかわりに図書館や喫茶店でこれまたほぼ毎日チェックしていました。よく広告業の企業に勤めている人から最近はネットのせいで誰も新聞を読まなくなったという愚痴を聞きますが、確かにネットの影響は少なくないまでも今回のデータ報告といい、私は日本で新聞が読まれなくなっている本質はネットというより基礎学力の低下が原因ではないかと今回感じたわけです。

 日本にいるとあまり気がつきませんが、他国と比べると日本は相当な活字大国です。日本人全員が難しい漢字交じりの文章を読める識字率の高さはもとより多種多様な本が毎日出版され、そこそこの世帯では毎日新聞が配達されるなどということは他の国ではまず考えられません。他国で滞在した経験がある方なら分かるでしょうが他の国では本の紙質も悪ければ日本みたいに娯楽関係の書籍は異常に少なく(中国はビジネス書ばかり)、本を読むのは知識人くらいで本屋という店の形態もどことなく日本とは違っています。言ってしまえばこうしたブログが成立するのも日本人が活字を読むことに抵抗がなく、ユーザーが多いが故に草の根でも通用するからだと言えるでしょう。

 そんな日本はこのところ出版不況だと各所で騒がれていますが、それを推しても未だに日本は読書大国だと私は言い切れます。ただ以前の水準からは落ちているのは事実でそれがこのところの新聞購読者の低下にもつながっており、その主原因はネットだと言われているもののそれについてはかねてから反論もあり、私自身もネットでニュースは見るが新聞も見るのでなかなか腑に落ちていませんでした。
 そんなところへ上記の報告があったわけですが、結論を述べると私はネットでニュースを見るようになったのも全く影響がないわけじゃないもののそもそも新聞を読む人間が減った、言い換えるならば新聞を読むほど知識や好奇心を持つ人間が減ったのが原因じゃないかと思うわけです。

 日本の基礎教育力の低下はあちこちでも言われており、私も先日二年下の大卒の女の子から「チェルノブイリってなんですか?(´・д・`)」と言われてリアルに焦った経験がありますが、やはり私の目から見て勉強している人はネットだろうが新聞だろうがとにもかくにもニュースに対して貪欲であるのに対し興味のない人はネットニュースも新聞も読んでない気がします。荘考えるとネットニュースの配信が新聞の購読者を減らしたというより、日本の人口減もありますがそれまでの日本の基礎知識レベルの低下が主原因ではないかと感じるようになりました。

 基礎教育というとあまりイメージがしにくいですが、私なんか先日中国へ行ってこういったものが非常に大事なんだと思うようになりました。前にも書いた自動改札、券売機が使えない中国人といい、基礎教育レベルが高ければ当たり前に使える技術もレベルが下がって使えないということも十分に考えられ、今後日本も本というものは勉強する人しか読まないものになってしまうかもしれません。読書離れをどう防ぐかではなく基礎教育をどうするかという点に新聞社は着目すべきというのが、今日のまとめです。

2010年11月22日月曜日

中国で転職するには

 またしばらく家を空けていたので久々の更新となってしまいました。やる気はあるからまたばりばり書くぞ。
 あと今日からカテゴリーに新たに「中国のはなし( `ハ´)」を追加しました。今日の記事といい、これから中国の事もいろいろ書くので独立したカテゴリーを設けて臨もうと思います。

 すでに過去の記事でも書いていますが、先日私は日本で勤めていた会社を辞めて中国の企業に就職しました。現在私は中国での就労ビザの発行を待っている段階ですが今後中国での転職を考える方に対してなにかしら参考になるかもしれない、もとい検索に引っかかってアクセスが増えるように、今日はどうすれば中国の企業に転職できるのか私の経験を簡単に説明しようと思います。

 海外転職というと難しいのではと構えてしまう方が多いかも知れませんが、少なくとも今現在の中国に私のように日系企業への転職であれば不況真っ只中の日本よりは転職がし易いかと思います。ほかにも方法はあるでしょうが私は今回の転職にはオーソドックスな人材会社を通して探すというやり方を行いましたが、人材会社への登録はともかく本格的に企業を捜して大体二週間で無事就職先を決めております。

 具体的な流れはというと、まずはなんといっても人材会社への登録です。人材会社はいろいろありますがそれぞれ得意とする業種や分野があり、あらかじめ自分の目的に合った人材会社を選ぶ事をお勧めします。私の場合は中国で勤務する事が最大条件だったので海外転職を専門とする「パソナグローバル」と「テンプスタッフ上海」に登録して活動を行いましたが、両社とも担当者は中国での就労経験を持つ方だったので相談を含め非常に懇切丁寧に対応してもらえました。

 人材会社に登録すると登録時に作った条件に照らして担当者の方から募集企業の紹介があり、求職者はその紹介される企業の中から面接を受けたい企業を連絡し、担当者に面接の可否を企業側に尋ねてOKが出れば面接日時を設定してもらいます。
 私の場合は中国の滞在予定を作った上で担当者に相談し、その滞在日程の中で条件に合う募集企業の面接日程を作ってもらいました。こうした海外転職(現地採用)の場合は当然ですが面接は現地で行われるため該当する国に直接足を運ぶ必要があり、私のように会社を辞めて一ヶ月くらいの滞在をしながら捜す人もいますが元の企業に止まったまま、有休などを使用して現地での面接日にだけ渡航して面接を受けるという、働きながら転職先を捜す人もいるそうです。

 そうやって中国での面接日程を決めると、後は指定された日時に会社を訪問して面接を受けるだけです。私が受けたのは主に日系企業だったので面接担当者は皆日本語が上手な人で特に中国語で志望動機などを語る必要もなく、ざっくばらんな面接で控えめに言っても楽しかったです。
 面接後は日本での転職同様に人材会社から結果を聞くのですが、この結果の連絡は日本企業と比べて中国の企業は日系でも非常に早いです。私が受けた会社はどこもその当日中、もしくは次の日にすぐ合否の連絡があり、わざわざビザまで取って一ヶ月の滞在予定を立てましたが結果から言えば訪中から一週間で就職先が決まったほどです。そういう意味では無理して会社を辞めてから捜さなくても良かったような気がします。これはこれで手続き上は楽でいいんだけど

 ではそうした就職先の捜し方は置いといて、具体的に中国で仕事を捜すには何をしておけばいいかということを私の経験から話します。
 まず必要なのは中国語の技術で、日系企業で日本人を相手にするにしても生活する場が中国なだけに中国語はできるに越した事はありません。ただ本当に日本人ネイティブであれば誰でもいいという募集企業もあるので中国語が出来なくとも捜せない事はありませんが、中国語のハンデは給料にも反映されますし、中国に語学留学するのはそれ程難しくもなくお金もかからないため、中国語ができないなら現地で学校に入って勉強しながら捜す方がいいと私は思います。

 そうした語学以外に必要となってくるのはちょこっと意外かもしれませんが大学の卒業証書、あとすでに退職しているのであれば離職票です。というのも最近の中国は職にあぶれた日本人が私以外にも結構やってきているそうで、中国当局も以前と違ってこの頃は就労ビザの発行審査が厳しくなっているようです。実際に私が人材会社から受けた説明によると、以下の様な書類や履歴の有無を確認してくるそうです。

・中国語の成績書(HSKや中国語検定の証明書、留学中の成績書など)
・四年制大学の卒業証書
・無職である事の証明書(離職票)
・日本での勤務実績(約二年以上)

 私は全く意識してなかったのですが、中国でも最近は大卒の就職事情が悪いために勤務経験のない外国人には就労ビザがなかなか下りなくなってきているそうで、私のように日本で働いた経験があるとないとで結構扱いが変わるそうです。余談ですが日本食、それも寿司職人の場合だとどこも人材が不足しているため、どの国でもほぼ無条件でビザがもらえるらしいです。
 就労ビザは現地の当局に採用する企業が必要な書類(病院での健康診断書を含む)を提出し、地方にもよりますが提出から約一ヶ月ほど登録に必要な書類が採用先に届けられ、求職者はその書類を持って日本の中国大使館、領事館へ赴き、就労ビザの発行を受けるそうです。

 オチらしいオチがありませんが、中国への転職ですと人材会社に相談すれば結構スムーズに出来るという事が私の言いたい内容です。私自身が質問に答えてもいいですが、もしなにか中国での転職で聞きたいことがあれば人材会社に聞くのが一番かと思います。
 最後に昨今の日本人の中国転職状況を人に聞いた範囲で説明すると、上海万博が終わった事で以前より男性性社員の募集が減っていて、事務などの女性社員の募集が増えているそうです。先日の尖閣諸島沖の衝突事故の影響で日系企業は中国のカントリーリスクを持つようになった、撤退が相次いでいるという報道が日本でよくなされていますが、カントリーリスクはともかく撤退はそれほど行われているようには思えません。ですが以前ほどの水準となるとやや目減りしているのは事実です。その一方で依然と工程管理や技術開発などの経験者の募集は広く行われており、理系技術者については中国語が出来なくとも高い給料の仕事は保証されているように見えます。

2010年11月18日木曜日

昨今の与党と野党について

 いろいろ用意しているネタがあるものの書き始めるとしばらくはまた連載みたいな形になるので中々書き出せず、それ以外のねたとなるとちょっと浮かばなくて最近また更新が遅れ気味です。なもんだから無理して特定の記事を書くよりも曖昧な雑感を書こうと開き直り、今日は最近の日本政治の状況について思うところがあります。

 まず与党民主党についてですが、あちこちでも取り上げられているように尖閣ビデオ流出問題を筆頭に危機管理の面でいろいろとボロを出しております。最近でも柳田法相が今時まだこういう勘違いしているのが生き残ってたんだなぁと思う失言で早晩辞職もやむをえない状況にまで追い込まれていますが、こうした危機管理について民主党は以前から問題視されていながらもとうとう克服は出来なかったのだと感じています。
 ただこうした民主党の状況からすぐにでも政権から引き摺り下ろされてまた野党に転落するだろうという意見をいくつかのブログで見ますが私の見方は少し違い、自民党も似たり寄ったりなんだからまだ民主党政権は続くと考えています。

 自民党も一から上げていっては長くなりますが、ナントカ還元水発言で物議をかもした松岡元農水相をなかなか罷免できず、外交においても福田元首相のパンダレンタル契約(私は支持するけど)中国詣でを繰り返していただけで決して上手いやり方が出来ていたとは思えません。恐らく今の政権が自民党政権だったとしても、尖閣諸島沖の漁船衝突事件では民主党同様に情けない対応になっていた気がします。
 その上で今の自民党が最も情けないのはいちいち民主党を批判する問題が蓮舫議員の国会内撮影など矮小でどうでもいいものばかりで核心を突いておらず、傍目にもミスってばかりの民主党を攻撃しきれずにいる点です。今月の文芸春秋で安藤優子氏に、「自民党の谷垣総裁は見た目からしてサラリーマンにしか見えず、とても野党の党首の風格がない」とまで言われる始末で、他の人は違うかもしれませんが今の自民党を与党にするくらいならまだ民主党政権が続いていた方が政権も変わらなくていいのではないかと私は思います。

 話が急展開しますがよく民主党政権を批判する人は数多いものの、私は結局は民主党、自民党のあまりにも情けない議員らを国会に送り込んだ有権者自身が最も反省するべきだと思います。民主党を与党にさせた以前に、対抗馬となるべき自民党議員にも一般人としてどうかと思う人が多く、そんな人を議員にしてしまったがゆえに安倍政権以降から続く政治的混乱が収まらないのではないかと考えています。まぁそれを言ったら復活当選のある比例代表制がガンになりつつあるということになるのですけど。

 この点について私と考え方が同じとは言いませんが、共感する意見として意外に人気が出てきた小泉進次郎氏の意見があります。小泉氏は先日行われた時事通信の取材に対していろいろと答えており、いくつか抜粋すると、

(民主党の支持率が下がりながらも自民党の支持率が中々上がらない事について)
「自民党は野党である今のうちに劇的に変わらなくてはいけないのにすぐに支持率が上がってしまってはこれくらいの変化でいいと勘違いしてしまう。そういう観点から僕は以前から支持率が上がらなくてよかったと言っている」

(政権奪回のタイミングは?)
「自民党が将来の日本の役に立つ提言や政策を作る事が出来れば必ずしも与党になる必要はない。自民党=与党でなくて、日本のためになるのであれば自民党は今後も野党であってもかまわないと思っている」
注:上記の小泉氏の発言はインタビュー記事を私なりに整理したものなので全文抜粋にあらず

 私が今現在で日本の政治に一番期待するのは、換骨奪胎の如く野党に転落した自民党が旧来の使えない議員を放逐した上でいい意味で変わってくれることです。そういう意味では上記の小泉氏も入りますが親の地盤を受け継いだだけで実力も何もない谷垣氏を始めとした二世議員が一番自民党にいてはならないのですが、比例制の今だとなかなかそれも期待できないかもしれません。
 与党民主党にはしばらく変化が期待できないだけに、自民党の今後の変化に私は期待を持ちます。

2010年11月16日火曜日

中国の自動改札と券売機

 今回中国に滞在していて一番面食らったというか中国らしさを感じたのは、地下鉄や列車の駅にある自動改札と自動券売機です。上海市地下鉄は結構前から自動改札と自動券売機が普及して入るのですが首都北京を含むそれ以外の都市となるとほとんどこういった機会は導入されておらず、実際に私が留学していた頃の北京は切符は窓口で手売りで、改札も買った切符を駅員がせっせせっせと一枚一枚ちぎって通る仕組みでした。

 これが都市内の地下鉄程度であればまだ笑って許せるのですが、都市と都市を結ぶ長距離列車となると如何な中国通と言えども苛立ちを押さえきれない物があります。何が辛いかというと駅の外にあるチケット売り場で買うのであればともかく駅構内のチケット売り場で買おう物ならさすがは人口大国というべきか、いつも窓口は長蛇の列が出来ていて一枚のチケットを買うのにも非常に多くの手間と時間がかかります。
 窓口では基本的に駅員がプラスチックの窓越しにわざわざマイクとイヤホンを使って客から行き先などを聞いて発券するのですが、この駅員というのも大抵女性ですが誰もが高慢な態度で、私は知りませんが旧国鉄は駅員の態度が悪かったといいますがこんな感じだったのかと思うくらいひどいです。

 そんな駅員の態度などもあってか、どうにもこうにも列はサクサクと進む事はありません。それだから以前から上海の地下鉄同様に自動券売機が都市間列車にもないものかと以前から感じていたのですが、今回上海虹橋駅という駅に行ってみたらなんとこれがありました。早速使ってみると外国人の自分でも簡単に操作が出来て窓口なら30分はかかるまい発券がわずか2分で済んでほっとしたのですが、なにやら気配を感じて後ろを振り向くと数人の中国人が私の操作をじっと眺めていました。
 見ると便利で簡単な自動券売機があるにもかかわらず他の乗客は依然として駅員のいる窓口に並んでおり、自動券売機には一応は見てみるものの手をつける人はほとんどいません。また自動券売機にも操作を教える駅員がついているのですが、空いている自動券売機があるにもかかわらずほとんどの中国人はその駅員のついている券売機に集中して操作を教えてもらっていました。

 上海の駅には前から導入されていると聞いているのであの時の中国人はきっと地方から上海に来たいわゆるお上りさんだったのだと思いますが、それにしたって大した操作でもないのにという感情を覚えずにはいませんでした。また万博中の期間ということもあって地下鉄の自動改札機においても、いまいち上手く通れないという人を数多く見ました。
 まぁ地方には全くないんだし、見慣れない代物だから戸惑うのはしょうがないと思いつつもついつい日本と比べてしまいます。日本は歴史を調べてみると1980年位には自動改札と券売機が大都市ではほぼ普及しており、漫画の「バキ」に出てくる烈海王じゃないですが、「ここ数年で中国が経済成長したのは認める。だが君らのいる場所(自動改札と券売機)は我々はすでに三十年以上前に通過しているッ!」というセリフが何故だか浮かんできました。

 結局の所、中国の最大のアキレス腱というか日本の経済成長期と違うのはここだと思います。日本はなんだかんだ言っても全国である程度情報や技術を共用し、地方民と都市民で中国ほど極端な差異がありません。また基礎教育のレベルも段違いで、こうした新奇の技術に対してもそれほどの時間を費やさずともすぐに操作に慣れて普及させる事ができます。携帯電話一つとっても、自分はほとんど使いませんがインターネットコンテンツなどを日本の高校生がすぐに使い慣れるのを見てどこが教育レベルの低下だなどと思いますし。

 中国は沿岸部ならまだしも内陸部は日本ではほとんど報道される事もなく、情報を入手するのも難しいほどです。私の上海人の友人などは露骨に地方出身者のことを「土人」と呼びますし、基礎教育レベルにおいても大きな差があります。今後この差が何かのてこに働くかも知れず、注視する必要があるでしょう。

征韓論とはなんだったのか

 帰国してからまだ歴史系の記事を一本も書いてないので、恐らく中国系記事と並ぶこのブログのメインコンテンツの歴史系記事を上げとこうと思います。

征韓論
明治六年の政変(Wikipedia)

 征韓論といえば中学校の歴史でも学ぶくらいポピュラーな日本の事件史ですがこの征韓論の中身とその後の展開については高校の日本史選択者くらいしか学ばず、またそうやって高校で学んだとしても他の事件との関連を教師から教えられなくていまいち理解せずに終わっている方も少なくないと思うので、ちょっと今日は気合を入れてこの事件の発端から帰結までを解説いたします。

 まずそもそもの「征韓論」の中身ですが、呼んで字の如く当時の朝鮮王国に対する外交をどうするかという論争でした。当時の明治政府内部は大きく二分しており、欧米を視察した岩倉市切断のメンバーとその視察中に政務を取り仕切った留守政府メンバーでこの征韓論の論争は行われました。なお、それぞれのグループにおける中心メンバーは下記の通りです。

  岩倉使節団
大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆

  留守政府
西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋

 当時の明治政府は朝鮮王国に対し、かねてから開国を促していました。何故日本が朝鮮へ開国を促していたのかというとまず単純に大陸マーケットの足がかりを作るのと、朝鮮を開国して自衛力を付けさせる事で欧米のアジアからの干渉を排除するという目的があったとされています。ただ後者については私はやや疑問視している所があり、一応教科書では日本は当時の清(中国)が領土を割譲させられたように朝鮮が欧米列強の植民地となると距離的にも欧米の日本に対する干渉や危険性が高まるとして、それを未然に防ぐために日本が朝鮮を援助するという目的だったとしています。この方針が引っくり返ったのは福澤諭吉の「脱亜論」発表からと言われていますが、私としては初めから清と対抗して欧米列強の如く朝鮮を日本の支配化に入れるという目的が強かった気がします。

 話は戻って征韓論についてですが、朝鮮を開国するために留守政府は西郷隆盛を特使として派遣して改めて開国を迫り、もしこれを朝鮮が拒否しようものならそれを口実に出兵してでも開国させようというのが征韓論です。
 留守政府は明治六年(1873年)に西郷の派遣を決めたものの、もうすぐ帰ってくるという事だったので岩倉ら使節団の帰還と彼らの承認を受けてから実施しようとしたところ、使節団のメンバーらは日本はまだ内政に従事するべき時期で外征を考えるべきでないと強く反対したのです。

 これによって政府は上記の使節団メンバーと留守政府メンバーに二分されて激しく対立し、最終的には使節団メンバーが天皇を動かして西郷の派遣を取りやめさせた事で決着がつきました。ただこの裁可に不満を覚えた上に記した留守政府メンバーは皆下野し、事実上その後の政府は使節団のメンバーが中心となっていきます。

 この辺までが学校でも習う征韓論のお話なのですが、実はこの後切って離してはならない事件が続々と起こります。その第一発目に当たるのがこの翌年に起きた台湾出兵です。
 この事件は1871年に数十名の沖縄の漁師が台湾に漂流した際に現地住民に殺害されたことに対して清政府に賠償を求めた所対応がなく(管轄外として拒否)、1874年に日本が兵士を台湾へ派遣した事件です。この事件を経て清側から撤兵の為の賠償金支払いがあり日本の沖縄の領有権を確定したのですが、内政を優先すると言いながら露骨な外征を真っ先に政府が行ったことに木戸は筋が通らぬと政府を下野しています。

 木戸が下野した後の明治政府は同じ使節団メンバーの大久保利通が取り仕切っていたのですが士族らによる政府への反乱が続々と起きるなど政情は不安定化さ増したことで、伊藤博文や井上馨らの仲介で行われたのが翌年(1875年)の大坂会議です。この大坂会議ではその後の政治体制をどのようにするかについて大久保、木戸、板垣の三者で話し合われ、下野した木戸と板垣はこの会議を経て政府に復帰する事となりました。

 ところがその同じ年(1875年)に日本政府はまたも、今度は朝鮮に対して江華島事件というまさに征韓論をそのまま実行したかのような外征を実行しました。まだ事件の詳細については議論がされていますが、現在伝えられている内容では日本側が朝鮮王国の砲台付近で測量をするなど挑発的行為を行い、それに朝鮮側が乗って砲撃するやあっという間に日本軍は砲台を占領したそうです。この事件の後に日本は朝鮮に賠償として日朝修好条規という、かつて日本が江戸時代に欧米と結ばされた不平等条約を結ばせます。

 この江華島事件を受けて復帰したばかりの板垣は、それ以前からも自由民権運動をしながらすぐに政府に寝返ったという批判を受けていたのもあってまたまた下野してます。また木戸もこの頃から体調を悪くして主だった政治行動を取らなくなり、大坂会議体制は早くも滅んで再び大久保独裁体制というような時代に舞い戻ります。

 このように征韓論こと明治六年の政変後の歴史を見ると、征韓論に反対した大久保や伊藤といった使節団メンバーに主導される形で日本は外征を行っていた事がよくわかり、あの論争は一体なんだったのかと言いたくなるような結果です。西郷らが征韓論を強く主張していたのは出兵する事で秩禄処分によって生活が困窮していた士族らを救う、もとい始末する目的があったためだとされますが、台湾出兵時の目的もやはり士族への対応が大きかったそうなので使節団メンバーは留守政府メンバーと価値観を共有していたように思えます。

 となると征韓論は何故あれほどの論争になったのか。
 結論を述べると私は征韓論論争とは、使節団メンバーと留守政府メンバーの単純な派閥抗争、主導権争いだったというのが実情だったように思えます。それだけに各派閥の頭領こと大久保利通と西郷隆盛の対立には運命に皮肉を感じざるを得ません。
 その後の西郷は西南戦争にて政府が処理にあぐねていた多くの士族らとともに戦死し、大久保はその施政に不満を持った石川県士族によって暗殺されます。