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2014年9月18日木曜日

二次大戦下のフィンランド 後編(継続戦争)

 前回記事でフィンランド対ソ連の第一ラウンドに当たる冬戦争を取り上げましたが、今日は第二ラウンドの継続戦争を取り上げると共に、大国に立ち向かう小国の外交というものを自分なりに解説します。どうでもいいけど今マジで眠い(-.-)zzz
継続戦争(Wikipedia)
 前回の記事で書いたようにフィンランドはソ連に因縁をつけられるような形で侵攻を受けたものの、「白い死神」を筆頭とした民兵などの活躍によって見事撃退を果たしました。ただ戦争継続能力がなかったことからフィンランドはソ連に対して大幅な妥協を迫られ、国土の10%に当たる領土の割譲を余儀なくされ、失地回復の機会を虎視眈々と狙っていたことでしょう。
 そんな冬戦争から約1年後の1941年6月、フィンランドとソ連を取り巻く環境は前年とは大きく変わっていました。何が起きたのかというとバルバロッサこと独ソ戦が始まり、ドイツがソ連領内へと攻め込んだためです。
 当時のフィンランドはソ連との関係悪化から「敵の敵は味方」とばかりにドイツの関係が強くなっていました。この独ソ戦でも当初は中立を宣言していましたがその中立だった期間中もドイツ軍はフィンランド領内を通過してソ連に攻め込み、またソ連側もフィンランド領内へ空爆を行ったことからすぐにソ連へ宣戦布告を行い、ドイツ軍と共にソ連へと攻め込みます。
 フィンランド側はこの参戦について、ドイツとの軍事同盟によるものではなく前回の冬戦争の延長上だとして「継続戦争」という言葉を用いました。何故このような主張をしたのかというとドイツと同じ側に立つことによって国交のあった米英から枢軸国と見られたくないとの思惑があったためですが、そのような主張は残念ながら通じずに米英からは間もなく国交断絶の通知を受けることとなります。
 こうして始まった継続戦争ですが、フィンランドの戦略目標としては一にも二にも失地回復にあり、真っ先に冬戦争でソ連に割譲を余儀なくされたカレリア地方を奪い返し、冬戦争以前の国境線まで領土を再占領します。しかしその後、ドイツ軍のソ連領内での進軍にブレーキがかかるとともにフィンランドも進軍を止め、早いうちから防衛へと方向を変えます。これは元々失地回復が目的であってソ連への侵攻、特にドイツ軍と同じにされてはまずいとの外交判断からの方針だったのではないかと見ます。
 このようにフィンランドはこの戦争では控え目な態度を見せたものの、周囲の状況が「控え目な結果」には終わらせてくれませんでした。1943年にドイツ軍が有名なスターリングラードの戦いで敗北するとソ連軍は一気に反撃へ打って出て、フィンランド領内へと逆攻勢をかけてきます。
 フィンランド政府は早くにドイツ軍の敗北は濃厚と見てソ連など連合国に対して単独講和を行おうと動き出しますが、こうしたフィンランドの動きに対してドイツが真っ先に反応し、脅しとしてフィンランドへの食糧輸出を止めてしまいます。心ならずも枢軸国側に立ってしまったフィンランドとしては主要物資をドイツ一国に頼っている状況もあり、結局単独講和は放棄してドイツ軍と共にソ連と当たることでドイツも物資輸出を再開します。
 ただこの時のソ連軍はかつての冬戦争時とは全く異なり、激しい戦闘を潜り抜けたこともあって兵卒や士官の質が大きく向上していました。冬戦争時は見事撃退したもののこの継続戦争ではフィンランド領内の奥深くにまで攻め入るほどでしたが、対するフィンランド軍も要所要所で一斉反撃に成功しており、この戦争の最終的な戦傷者数では今度もまたソ連軍がフィンランド軍を大きく上回っています。
 しかしそれは一時的なもので、フィンランドにとって長引けば長引くほど不利になることに変わりはありませんでした。またソ連としても戦後秩序を睨んでドイツ領内への進撃を優先したいという思惑があり、またフィンランドの懐を鑑みて講話に応じる態度を見せていました。両者の思惑は「ともかく早く戦争を終わらせること」にあり、この点で一致したことからフィンランドは大統領のリュティが辞任し、冬戦争、継続戦争を指揮したマンネルハイム元帥が代わりに大統領に就任。ソ連との間で下記の条件を守ることで講和を結びます。
・フィンランド領内にいるドイツ軍の排除
・国境線を冬戦争後の状態に戻す
・賠償金の支払い
 どれもフィンランドにとって非常に厳しい内容で、特に領内にいるドイツ軍の排除は下手すれば内戦にもなりかねないような内容であったために前大統領のリュティは呑み込むことが出来ませんでした。もっとも講和後、ドイツ軍もそれまでフィンランドと一緒に戦ってきた仲でもあったことから勧告に従い比較的すんなりとドイツへ帰っていったそうです。
 結果論から言うとフィンランドはこの継続戦争で失地回復を達成できなかったばかりか、戦争に伴う消耗、そして賠償金の支払いを負うこととなり事実上、敗北と言っていい結果に終わりました。しかし私としてはフィンランドが失地回復を求め、それが望めるような状況に行動を取ったというのはおかしい判断だとは思えず、またドイツ軍の敗退という状況の変化に合わせ不利な条件を呑み、すぐ講話に動いたというのは国家として素晴らしい判断だったように思えます。
 これと好対照だったのは言うまでもなく日本で、どうあがいても勝利を得ることが不可能な状況になりながらも講話へと全く動かなかったばかりか、追い詰められた後にはあろうことか今も約束を守ることのないソ連を仲介して少しでもいい条件で講和に持ち込もうとするなど、こういってはなんですが敗北する際の覚悟が全く足りません。それこそドイツが完全な敗北を無かる1945年4月以前、ないしは1944年の間にも講話へと動いていれば、戦後の日本の状況は史実と大きく異なっていたことでしょう。
 もう一つこの時のフィンランドについて触れると、よく日本は中国や米国という大国に挟まれるという地政学的に恵まれない国だという意見をたまに目にしますが、少なくともフィンランドとは違って陸続きで大国に接していない、しかもわけわかんないソ連とは陸続きでない点で相当恵まれている気がします。なんだかんだ言って日本はどの国とも海峡に挟まれて陸続きじゃないので、地政学的には結構楽な方に見えます。もっともそのせいでやや保守的なきらいがあるが。

2014年9月17日水曜日

二次大戦下のフィンランド 前篇(冬戦争)

 この頃密かなマイブームとして北欧史にはまっています。なんでこんなのにはまっているのかというと米国、西欧とは明らかに異なる文化県で現在も「福祉国家」に代表される独特な国家運営の仕方などから一体どういう歴史やパーソナリティがあるのかなと興味を持ったことに端を発します。あとどうでもいいけどパズドラのヴァージョンアップが出来なくて今遊べません(´;ω;`)ウッ
 話は戻りますがちょっと比較研究を兼ねて二次大戦期において恐らく北欧で一番苦しんで、なおかつ伝説を残したフィンランドの戦争について解説します。フィンランドは二次大戦下に二度、二度ともソ連とぶつかり合っているのでそれぞれで一回ずつ開設するという形で、今回は1939年12月から1940年3月まで続いた冬戦争を取り上げます。
冬戦争(Wikipedia)
 当時の世界状況から説明を開始しますが、1939年9月にドイツはポーランドへ侵攻し、またそれによって英仏がドイツに対して宣戦を布告したことから第二次世界大戦は幕を開けます。この時にドイツはソ連との間で不可侵条約を結んでいたのですが、この条約は1941年に破棄されるだけあって独ソ双方で一時的な取り決めという認識が始めから持たれており、ドイツが英仏を相手にしている間にソ連も勢力を拡大する事があらかじめ視野に入っており、そんなソ連のターゲットとなったのがほかならぬフィンランドでした。
 ソ連はフィンランドに対して領土の割譲、軍港の無条件での租借などといったあんま今と変わらない無茶な要求を繰り返し、これに対して明らかに小国であるフィンランドは拒否し続けます。こうしたフィンランドの態度を見たソ連はフィンランドとの国境でフィンランド側から銃撃を受けたと偽装し(崩壊後にその記録がばれてる)、フィンランドに対して一方的に宣戦布告を行い軍を派遣します。その兵数はなんと45万人で、最終的には100万人を派遣したと記録されています。
 この奇襲とも言えるソ連の行動は世界から批判され国際連盟からも追放を受けますが、あんま今と変わらず気にしないソ連はフィンランド領内に突き進みます。しかもフィンランドにとって不運だったのはスカンジナビア半島の先端に位置するノルウェーがドイツの圧迫を受けていたことから中立に回らざるを得ず、英仏などの支援物資、義勇兵の輸送を妨害したことです。事実上この時のフィンランドは孤立無援と言っていい状態で、ソ連に対して何の援助もないまま自国だけで立ち向かわなければなりませんでした。
 そんなフィンランドですが結果から言うと、ソ連に対して有り得ないくらい大勝しています。ウィキペディアの記述を引用すると下記のとおりです。
  フィンランド軍:ソ連軍
  歩兵戦力=25万:100万
  戦死・行方不明者数=2万6000:12万7000
  戦傷者数:4万:26万5000
 実に4倍の兵力差、兵器でもソ連に劣っていたと思われるのに堂々たる戦果ぶりです。
 一体どうしてフィンランドはこれほどまでにソ連軍を打ち負かせたのかというといくつか理由があり、最大の原因と考えられているのは当時のソ連の最高権力者であるスターリンが赤軍将校を片っ端から粛清していたためまともな士官がおらず、ソ連の指揮系統や戦術があまりにも不甲斐なかったせいだったためと指摘されています。実際に当時のソ連の国防大臣がスターリンに面と向かって、「お前が殺し過ぎたせいでまともに戦えないんだろっ!」と痛罵しており、さすがのスターリンも責任を感じたのかこの国防大臣を左遷こそしますが処刑まではしませんでした。
 このほかソ連側の敗因としては、一ヶ月ほどで片が付くと思っていたらずるずると戦争期間が延びてしまって補給に綻びが生まれたことと、それにより冬将軍の備えが出来ず大量の凍死者を出してしまった点が挙げられます。後の独ソ戦でドイツが辿ったような失敗をこの時はソ連が経験しています。
 逆にフィンランド側の勝因としては、少ない兵力をカバーするために決戦を避け、森林などで待ち伏せするゲリラ戦のスタイルを徹底的に貫いたことと、開戦前にソ連の侵攻に備えマンネルハイム線という防御陣を敷いていたこと、その防衛陣の名前の元で元帥として戦ったマンネルハイムという将軍のリーダーシップなどが挙げられます。ただこうした要因以上に祖国を守ろうとするフィンランド人の高い士気、そして民間人から最低限の訓練を経て採用された民兵が恐ろしいまでに強い兵隊だったという事実も見逃せません。
 もともとフィンランドは狩猟の盛んな地域でこの冬戦争時にはハンターを中心に民兵の狙撃部隊が組織されたのですが、多くのメンバーが氷点下何十度という厳しい環境下でも高い狙撃能力を発揮しており、特にソ連側から「白い死神」と呼ばれたあのシモ・ヘイヘがこの民兵の中にいたということはソ連にとって悲劇以外の何物でもないでしょう。
シモ・ヘイヘ(Wikipedia)
 知ってる人には有名ですが、狙撃による射殺数が確認されるだけで505人、実際には1000人を超すのではと言われるのがこのシモ・ヘイヘです。彼の狙撃にまつわるエピソードはどれも人外じみており、上記の射殺記録は冬戦争中のわずか100日間で打ち立てただけでなく、300m以内なら確実にヘッドショットを決められたとか、1分間で16人を射殺したなど、連邦の「白い悪魔」もびっくりです。実際に彼が配属されていたコッラという地域は終戦までフィンランド軍がソ連軍を押し返しており、さらにはシモ・ヘイヘを含む32人が防衛した丘では押し寄せるソ連軍4000人を撃退するというフィクションのような話まであります。
 ただソ連軍相手に善戦したフィンランド軍でしたが他国からの支援がない中で武器弾薬の不足は否めず、戦争の長期間継続は初めから不可能でした。一方のソ連も余りの損害の多さから早くから講話の道を探っており、両者の思考が一致したことから講和条約成立へと至ります。
 この講和条約でフィンランドはソ連側の多くの要求を受け入れざるを得ず、重要な工業地帯を含む国土の10%をソ連に割譲することとなります。とはいえ祖国の危機から独立を守り切ることはでき、フィンランドにも束の間の平和が訪れます。もっともこの時のソ連へのフィンランドの怨みはくすぶり続け、一年後の1941年に勃発するフィンランド対ソ連の第二ラウンドに当たる継続戦争が起こることとなるわけです。
  おまけ
 この冬戦争には英国からの義勇兵として、「ロードオブザリング」のサルマン役、「スターウォーズ」のドゥークー伯爵役で有名なハリウッド俳優のクリストファー・リーが参加しています。非常に強いキャラクターのある俳優ですが、あの迫力はこうした経験が背景にあったのかと妙に納得しました。

2014年9月15日月曜日

自衛隊について

 友人からリクエストを受けたので、今日は自衛隊について自分の知っている内容と見解をたらたら書いてこうと思います。ただ先に言い訳をしておきますが、私は軍事関連の領域は専門としておらず、せいぜい「ニューナンブを作ってるのはミネビア」とか言うどうでもいい知識しか持っていません。じゃあ何が専門なのかと言われると変な意味で答えに詰まってしまいますが、あくまで今回の記事は一素人の意見としてみてもらえば助かります。
 
 まず最初に自衛隊成立の歴史について簡単に触れますが、二次大戦の敗北後、日本を占領した米国を中心とするGHQは一次大戦後のドイツの様に日本でも徹底的に非軍事化を推し進めます。その目的は二度と米国に反抗しないようにすることが主眼であり、元軍人たちに対しても公職から追放するなどして社会から徹底的に排除します。
 そうした非軍事化の流れから潮目が変わったのは、個人的な見解だと1949年の中華人民共和国の設立です。米国は恐らく中国大陸は蒋介石が勝つだろうと踏んでたように見えますが、予想とは違ってソ連の支援を受けていた毛沢東率いる中国共産党が勝利し、中国大陸を握ります。更に翌1950年には朝鮮半島で朝鮮戦争が起こり、米国としてはこれ以上の東アジアの共産化を食い留めるためにも日本における軍事的プレゼンスが非常に重要となってきました。なおちょうどこのころのGHQでは「右旋回」といって、本国の赤狩りと軌を一にして社会民主主義的思想のメンバーが排除された一方でタカ派が勢力を伸ばしていた時期でもありました。
 
 ちょっと古い記憶(小学生の頃に読んだ歴史漫画)なので年号間違っているかもしれませんが、確か1950年の元旦における挨拶でマッカーサーは、「日本もそろそろ自営する力が必要だ」と話したそうです。この発言の裏には既に日本の再軍備化が始まっており、同年には旧軍人を多く採用した「警察予備隊」が組織されます。この警察予備隊は二年後の1952年には「保安隊」と改称し、さらにその二年後の1954年に現在の「自衛隊」という名前へと至ります。
 米国が何故ここまで日本の再軍備化を推し進めた原因はなんといっても朝鮮戦争で、朝鮮半島に米軍を派遣する事で日本国内の防衛が疎かになる可能性が出始め、また日本を防衛するための米国の軍事費削減も喫緊な課題だったからです。要するに、米軍を後方支援するという役割として自衛隊が設立されたとみていいでしょう。
 
 何はともあれ結成された自衛隊は旧日本軍の軍人が主に教官などで再雇用され、主旨こそ違えど事実上、日本軍の再建と言ってよかったと思います。未だに日本国内では自衛隊を「自衛軍」という呼称に切り替えるべきか否かでグダグダ議論していますが、海外では英語で「SDF=Self Difence Forces」とモロに「軍」だと言っているのだから、もうどうでもいいじゃんとか内心思ってます。まぁ自衛隊という呼称がかなり定着しているから無理して変える必要もないかな。
 話は戻りますが結成当初の自衛隊はお世辞にも日本国民からは支持されておらず、特に憲法で謳った戦力の不保持に違反するとしてどちらかと言えば「いない方が良い存在」としてみられていたように私には思えます。実際に自衛隊員が殺傷される事件もあれば吉田茂には「君たちは日陰者として歩まなければならない」などと言われたりしてて、肯定派もいなかったわけじゃありませんが反対派も近年までは確固として存在し続けておりました。
 
 そのような自衛隊への日本人の見方が一変、というよりむしろ逆転したきっかけは1995年に関西地方を襲った阪神大震災で、この時に自衛隊が災害救助として活躍したことと、その自衛隊の出動をためらったと見られている当時の社会党出身の村山富一首相との対比もあり、「やっぱり自衛隊は必要ではないか」という声が俄然と強まってきました。私も当時小学生でしたが、こういう大災害の救助の際には訓練された軍人が非常に重要なんだと思え、小学生の分際でそれまで自衛隊を否定していましたが一気に肯定へと考え方をひっくり返されました。
 その後、2011年の東日本大震災でも自衛隊の活動は高く評価され、当時の世論調査で日本国内で自衛隊を評価するという声は90%超にも達し、2012年に米国の調査会社が実施した調査でも89%が「自衛隊は日本にとっていい影響を与えている」という回答結果が出るに至っています。現代においてはもはや自衛隊を否定する方が圧倒的少数派になっており、仮に昔あったような反自衛隊デモでもしようものなら総スカン、下手すりゃリンチすらも喰らいかねません。やろうって団体はまだいるのかな?
 
 このように災害派遣においては圧倒的な実績と活躍を誇る自衛隊ですが、果たして軍事力となると如何か。陸上戦力に関しては主力兵器が山地の多い日本じゃまともに運用できない戦車であり、また特殊部隊の質で他国に劣るという話を聞くだけに国際的には一般的なレベルかと考えていますが、こと海上戦力となると間違いなく海上自衛隊は世界屈指、実質的には米国に次いでナンバー2くらいの実力を持っているのではないかと私は見ています。
 海上自衛隊はイージス艦を始め潜水艦を含む艦船装備で米国から技術供与を得ているだけでなく自国でも開発、整備を行っています。これらの艦船は侵略するには向いていない兵器ですが防衛線となるとあまりにも充実し過ぎているとの声もあり、隣の中国がまだまともに空母を運用できてない話を聞くと、普通に数隻の空母を保有して運用している日本は一体どんなレベルなんだとよく思います。
 残るは航空自衛隊ですが、これについてはあくまで素人目ですが、一応米国のお下がりではあるものの世界屈指の戦闘機を配備しておりパイロットも練度は高いと聞くのでまぁまぁ戦える装備ではないかと思います。ただ米国や中国と比べて訓練できる空域が海上ならともかく陸上では非常に限られている(住宅地が多く)と聞くだけに過信は禁物でしょう。
 
 以上までは割と持ち上げる話ばかり書きましたが、自衛隊にも欠点というか問題点は少なからずあります。まず第一に言えるのは最近また取り沙汰されてきた自衛隊内のいじめです。防衛大に友人が行ったという友人からの又聞きですが日本人らしくここでのいじめもやっぱり陰湿で、体力的にきついのもありますが防衛大を出ても任官を受けずに辞めちゃう学生が毎年大量に出ているそうです。ほかの国もある程度一緒でしょうが必ずしも士気も仲間意識の高い連中とは言い切れない面があります。
 
 もう一つこっちは真面目な話で、一言で言えば田母神俊雄氏です。この人は元航空幕僚長ですがその発言、思想は攻撃的であることに定評のある私の目から見ても明らかに歪で、なおかつ自衛隊員であった時代からも自身の歴史観や政治意見を声高に発言するなど明らかに分をわきまえない行動が見えました。
 「軍人が政治に口出ししてはならない」というのが日本の敗戦における最大の反省材料だったにもかかわらずそれを平気で破る人間が自衛隊幹部としていたという事実は看過できず、恐らくほかにもこの手の人間が自衛隊内の幹部にいるのではと邪推せざるを得ません。今のところは田母神氏以外では表立っていませんが、この手の人間が表に出ることで日本の国内外を問わず自衛隊にとって悪い影響が出るのではと懸念しています。
 
 最後にどうでもいい個人的意見ですが、自分のような社会学士からすると戦争というのは外交手段でもなく国家的決闘でもなく、災害の一種であるとみています。この戦争や地震などの自然災害を含めあらゆる災害に対してその被害の拡大を食い止める、こういう風な定義が自衛隊にとって無難なのでは思う次第です。
 適当に書いたつもりなのに、なんでまたこんなに長くなったんだろう。執筆時間30分だよこれ。

2014年9月14日日曜日

李香蘭の逝去と中国の反応

 
 報道で知っている方も多いかと思いますが、戦時中に李香蘭の芸名で数多くの映画に出演し人気を博した山口淑子氏が先週亡くなられていたことがわかりました。山口氏、というよりは李香蘭の名前の方が有名ではありますが、中国においても知名度の高い人物なだけあって軽くネットを見回すと速報を出す中国メディアが数多く出ています。きちんとした記事は明日の朝刊に掲載されるでしょうが、やはり現代においても中国に強い影響力を持つ人物であったことを再確認されます。
 
 今のところ中国で出ている速報ではそれほど特別な内容は書かれておらず、山口氏の経歴、特に戦時中に大スターとなったものの戦後は中国人と誤解され国家反逆罪に掛けられたが日本人であるという証明が得られ無罪となった経緯などが大まかに書かれてあります。強いて挙げれば国家反逆罪の裁判で、無知な若者だったため何もわからず日本に協力してしまったことを謝罪したということをきちんと書いてある辺りは中国だななどと思います。
 
 さてこの山口氏ですが、経歴については私から説明するのも野暮だと思うものの一応やっておくと、山口氏は1920年に旧満州地域であった現在の遼寧省撫順市で日本人の両親から生まれます。その後、奉天市に移ってで育ちますが、満州鉄道会社(満鉄)で日本人に中国語を教えていた父親と交流のあった中国人李際春が、山口家との親睦を図る目的で山口淑子市を名目だけの養子に迎え、この際に「李香蘭」という中国名を得ます。
 その後成長した山口氏は満州映画協会(満映)の映画に出演するのですが、その際に中国人に受け入れられるよう「李香蘭」の名前で出ます。たちまち大きな人気を得た山口氏は父親譲りの流暢な中国語(うらやましいなぁ)を使い、そのまま日本人であるという事実を隠しながら中国人として出演をし続けます。山口氏も何度か思い悩んでカミングアウトも考えたそうですが、その度に周囲から止められて、結局終戦まで隠し通し続けます。
 
 そうして迎えた終戦後、山口氏は中華民国政府から日本の宣伝映画に協力したため国家反逆罪の疑いで逮捕されます。当時の新聞には判決は銃殺刑になるだろうとも報じられ山口氏も後年の手記で「生きた心地がしなかった」と書き残している程だったようですが、幸いにも判決直前、友人が日本から戸籍謄本を取り寄せ日本人であるという証明を得たことから、「日本人対して中国における国家反逆罪は適用されない」との裁判官の判断から一転して無罪を得ます。今日の中国のニュースではこの時に山口氏は「徳を以って怨みに報いる(以徳報怨)という中国の対応に感謝します」と述べたことがやっぱ強調されてました。もっとも、中国軍はさっきの「以徳報怨」という言葉を使って終戦直後に日本軍を追撃しないよう命令を出していてくれたことに日本人は感謝すべきかなとは私も考えてます。それに比べてソ連は……。
 
 こうして無事日本の土を再び踏んだ山口氏は日本でも女優業を行い、戦後の映画界を引っ張るスターの一人として活躍します。その後、結婚、離婚、結婚を繰り返した後に一時引退しますが、ある程度年の重ねた頃に再びテレビの司会業などをこなし、また参議院選挙にも出馬して見事議員にも当選して政治活動も行っています。議員引退後はあまり表舞台に出ず、たまに自分も読んだような回想録みたいな手記を雑誌に発表するだけでしたが、今日の報道の通りに94歳での大往生を迎えたとのことです。
 
 今日の報道を見て私が真っ先に思い浮かんだのは二人の人物で、最初は森繁久彌、次に甘粕正彦でした。森繁については2009年の彼の死去時、「これで残るは李香蘭だけか」と覚え、そして今回の山口氏の逝去を受けて甘粕正彦を知る人間、ひいては満映で活躍した主だった人物は潰えたかと嘆息しました。
 知ってる人には有名ですが、関東大震災時に社会主義者の大杉栄を殺害(甘粕事件)した犯人である、当時憲兵だった甘粕はその後中国大陸に渡り、ラストエンペラー溥儀を北京から脱出させるなど007ばりのスパイ活動を担う重要人物となり、最後は満映の理事長となり「満州の陰の支配者」として恐れられていました。
 
 ただ当時の満映にいた人物、まさに李香蘭と森繁などは甘粕について好意的な証言を残しており、森繁は「満州というでかい夢をみんなに見せて引っ張っていた」と述べています。もう一方の李香蘭こと山口氏は、仕事に悩み女優業をやめたいと直接甘粕に申し出たこともあったそうですが、「気持ちはよくわかる」と親身に話を聞いてくれ、その後も山口氏は女優業を継続しています。
 このようなエピソード、いわゆる満州史についての重要な証言者がまた一人この世を去ったかというのが私の偽らざる今の気持ちです。そりゃ年月も大分経っているのだから当然と言えば当然ですが、満州という世界を知る人間が一人、また一人とされ、残された事実が歴史として今後形作られるのかと寂しいような大事なような妙な気持ちを覚えます。そういう自分もあと50年くらい経ったら、「改革開放期の中国で過ごし、やたら当時の中国について手記を書き残した人物」みたいに扱われるのかもなぁ。

2014年9月12日金曜日

雑記

 最近また真面目なことばかり書いてきているので今日は思いつくことを片っ端から適当に書いてきます。
 
 後輩にこのところこのブログはどうだと聞いたら、「愚痴は減りましたね」という答えが返ってきました。その愚痴というのも引越し前の部屋が夜中にうるさいという愚痴で、そりゃ引っ越したんだから愚痴も消えるのも当たり前ですがそれだけじゃなく前ほど文章にとげとげしさが無くなったような気がします。といってもとげとげしさ以前に私がこのブログで各意見や主張は大体どれも攻撃的で、パズドラに出てくるモンスターなら俺はきっと「攻撃タイプ」だろうななどとこの頃よく思います。なお同じ後輩からは、
 
「花園さんは小泉純一郎と似てますね」
「え、どこがやねん」
「なんていうか敵を設定するというか、自分に相対する存在を明確に打ち出して自分の立場なりを明確にしようとしてるように見えます」
 
 と言われ、思わずなるほどと自分で唸りました。
 
 何はともあれ愚痴は減りましたが生活への不満は全くないわけではなく、このところ何気に一番困っていることとしてパンツのゴムひも問題があります。普通パンツのゴムひもときたら使用と共に緩んでいくのが世の常ですが、何故か私が今使っているパンツは選択する度にどんどんときつくなってきており、このところは履いててリアルに息苦しさを感じるくらいに締め付けられてます。そんな特別なパンツを選んだつもりはなかったのに。ちなみに買った場所は松戸のイトーヨーカドー。
 
 松戸というのは千葉県にある都市ですが、中国に来る直前まではここに一時期住んでて、会社の予定管理ソフト内での役職は現在「名ばかり松戸市民」に設定しています。その松戸市に引っ越したのも去年のちょうど今頃なのですが、実はここ数年、二年間同じ場所で過ごしたことは一度もなく引っ越す回数が異常に多いです。主だったのを軽くまとめると、
 
2010~2011年 浙江省杭州市
2011~2012年 上海市
2012~2013年 上海市の別の部屋
2013~2014年 千葉県松戸市
2014年6月~7月 江蘇省昆山市
2014年7月~現在 江蘇省昆山市の別の部屋
 
 たった四年間で合計六回も引っ越してて、しかも同じ市内の移動でなければその度に家具とか買い直しているので自分はどれだけ家電業界に貢献しているのか、表彰されてもいいのではなんて思えてきます。もっとも中国の引っ越しは冷蔵庫などの大型家電は部屋についているから日本ほど手間じゃないけど。
 なお自分がこのほかに住んだことのある都市を挙げると、学生時代に京都府内にいて、さらにキャンパス移転もあってこの間に一度引越しもしています。それと北京市に留学で一年、会社の長期出張で香港に三ヶ月、免許の合宿で鳥取市に約一ヶ月といったところですが、フーテンの寅さんじゃないんだからここまで頻繁に移動しなくてもいいのに……。
 
 もっとも、「腰を落ち着けた生活」というのはやっぱり性に合わない気がします。去年見てもらったスピリチュアリストにも開拓者っぽい魂していると言われているだけに結構あちこち行くのは嫌いじゃないし、何より自分で満足できません。ある意味根っからの根無し草(よくわからない言い方だが)だったのかなとと自覚するようになってきています。
 
 話は変わりますがこのところ暇つぶしに電子書籍の漫画を買いあさっておりますが、先週はちょうど欲しい本がまとめて新刊が出たのでなんかやたら連続して買いました。その買った本はというと今度アニメ化する「監獄学園」と前にもレビュー書いた「実は私は」です。
 「監獄学園」の方は重厚そうなタイトルとは逆に徹頭徹尾なギャグ漫画ですが、最新刊の14巻も安定した面白さではありますがこの漫画で一番凄かったのはやっぱり8巻だったと思います。わかる人にはわかるでしょうが、あれほど一進一退の攻防がすごいのはそうありません。
 「実は私は」は前にもレビューした私のおすすめ漫画で、そのレビューで勢いを感じるからアニメ化まで行くのではと予想したものの、最新巻の8巻を読んでるとなんだかそろそろエンディングに向かいつつあるような展開で、遠からず連載が終了するような気配を漂わせておりました。下手に引っ張るより全然いいし今回も今回で面白かったけど、予想外しちゃうことになるなぁ……。

2014年9月11日木曜日

朝日新聞の吉田調書問題について

 こちら中国ということもありライブ映像は見ておりませんが、本日夜から朝日新聞が会見を行い、前々から問題視されていた福島原発の所長であった故・吉田氏の調書を巡る報道について誤報があったことを認め、編集担当の役員を解任するとともに現社長の木村伊量氏も今後自認する方針であることを示唆しました。
 
 
 ちょうどというか自分も吉田調書問題で記事を書こうと思っていた矢先なだけに、いいタイミングで辞めてくれたななどと内心では思っています。もっとも従軍慰安婦報道問題同様、今回も対応が遅れたことによって傷口を広げることとなっておりますが。
 
 問題の吉田調書報道について簡単に解説すると、朝日新聞は今年5月20日付の朝刊のスクープ記事として公開されてこなかった吉田氏の調書の内容を入手したとして、その調書の中には原発事故の最中、吉田氏の指示を無視して幹部を含む原発職員の9割が福島第一原発の現場から第二原発へ勝手に撤退したことが書かれてあったと報じました。結果論から言うとこれは真っ赤な誤報で、真相は外部への放射線量が高まってきたことから当面の現場作業がない人間は放射線量の少ない所へ避難するようにと指示を出したところ、多くの人間が自己判断で第二原発に移動しただけだったそうです。この第二原発への非難について吉田氏は、第二原発に行けとは指示しなかったものの当時の状況では第二が最も非難に適した場所だったと語ったことが調書に書かれていると別のメディアは揃って報じています。
 
 普通の誤報ならともかく、朝日の報じ方は現場作業員が責任を放棄して勝手に逃亡を図ったようなニュアンスで書かれてあり、そしてそのままのニュアンスで海外紙も引用記事を報じて世界各地へと拡散されていきました。しかし朝日の報道直後から当時あの現場にいた作業員や現場取材を行っていた他のメディアの記者などから事実とは異なるなどとの声が上がり、また産経新聞もどこかから件の吉田調書を手に入れて問題の個所を引用した上で朝日の誤報を指摘しておりました。
 こうして問題が広がりを見せる中、吉田氏本人の希望もあって当初は非公開とされていた吉田調書を政府は、「誤解を正すため」などの目的の下に公開することを発表。発表されたのが今日この日の9月11日であることから、誰の目にも報道と事実が異なっている点を指摘されることを恐れて朝日新聞は今日になって謝罪会見を行ったと見るべきでしょう。
 
 私がこの問題で気になった点をいくつか挙げると、まずなんで朝日新聞は今回のような誤報を流すこととなったのかという原因です。恐らく何らかの形で吉田調書を手に入れた、もしくは吉田調書を読んだ人間に取材をしたのだと思いますが、担当記者か証言者のどちらかが、「原発作業員は現場逃亡した」と、故意かどうかは別にして判断したことになります。今日の会見でどこでどう間違えたのかまでは恐らく言及されないでしょうから私の勝手な推論を書いていくと、産経の記者も手に入れていることから恐らく朝日の記者は吉田調書をどっかからか仕入れたのでしょう。そしてそれを読み込んだ上で読み違い、もしくは意図的な間違いを行ったのではないかと思え、このうちどちらかといえば前者の読み違えがあったと推測します。ただ読み違えといっても、記者としては現場から作業員が実は逃亡していたという方が記事として盛り上がるので、無意識的に期待するかのような読み方で以って読み間違えたのでは、なんて自分の経験から思います。
 もっとも読み間違えたからといっても許されるわけでもなく、また原稿をチェックする上司がちゃんと確認したのか、別の記者と資料を読み比べしなかったのかなどという点で、新聞社として質の低さが伺えます。なお共同通信だと、名前の読み仮名をチェックするために相手の名刺まで上司や同僚に確認されるくらい厳しかったです。
 
 次に気になったのは今回の会見のタイミングです。先程も述べたように今日になったのは政府が吉田調書を全面公開することとなったためで、逆を言えば政府が公開しなかったら朝日は誤報だと認めなかったのでは、という点が気になるわけです。今回の問題は記事掲載直後から批判があり、7月頃にはほぼ外堀も埋まってて明らかに誤報だとわかっていたというのに朝日は何の対応もしておらず、何が言いたいのかというと、こいつらは反省する気なんて始めからないのだと私は思います。
 さらに皮肉っぽいことを言うと、「機密保護法が通ると原発事故の原因究明が政府によって隠蔽される可能性がある」なんてよく毎日さんと朝日はしょっちゅう叫んでましたが、その政府が当初非公開だった原発事故の資料を公開したことによって追い詰められるなんてかっこ悪い以外の何物でもありません。むしろ自らの日を隠蔽しようとする朝日の体質の方が問題なような。
 
 最後、まだこの点について突っ込んでいる記事は見かけないのですが朝日は二代前の社長であった箱島信一氏が武富士から5000万円を受け取って辞任しており、間に秋山耿太郎氏を挟んでいるとはいえ、メディア企業の割には不祥事での辞任が多すぎやしないかと思えます。ちなみに秋山氏も自認までには行かなかったものの、就任直後に長男が大麻所持で捕まったのですぐ辞めるのではと懸念されましたが、案外長く続けてたんだね。
 
 それにしてもこのところの朝日の取り沙汰振りにはほとほと呆れてきます。自分も先日に書いておりますが従軍慰安婦問題を巡り池上氏の記事掲載を見送ったり、自社を批判する週刊誌の広告を拒否したりと、狙ってやんないとこんなに問題出てこないぞと言いたくなるくらいの量です。特に従軍慰安婦問題については誤報と認めている上にその影響は今回の吉田調書問題をはるかに超えるだけに、なんでこっちは謝罪しないのかという声は確実に大きくなるでしょう。朝日の社説みたいに最後まとめるなら、「政府を批判する前に自己をよく省みるべきではないだろうか」ってところです。

創業家列伝~小倉昌男(ヤマト運輸)

 久々のこの連載記事で今日取り上げる小倉昌男は正確にはヤマト運輸の創業者ではありませんが、今日知られる「クロネコヤマトの宅急便」を作り上げたのは間違いなくこの人物であるため、創業家としてみなして今日の記事を執筆することにします。
 
小倉昌男(Wikipedia)
 
 小倉昌男は1924年、大和運輸を経営する小倉康臣の息子として生まれます。子供の頃から成績はよかったみたいで高い倍率で知られた東京高等学校に進学後、東大にも入り戦後となった1947年に卒業した翌年には大和運輸に入社します。
 ここまではいかにも金持ちのエリート子息(といっても当時のヤマト運輸は中規模の運輸会社)といった人生を歩んでおりますが、就職から半年後に小倉昌男は一つの試練にぶち当たります。その試練とはほかでもない病で、当時は治療の難しかった肺結核でした。この時に小倉昌男は4年間もの入院生活を余儀なくされますが、大和運輸がGHQの運輸業務を担っていたことから当時は入手の難しかった結核治療薬を米軍から入手できたという幸運も重なって無事に快癒へと至ります。ただこの時の体験は本人にとっても大きかったようで、著作の中ではこれ以降の人生はおまけのようなものと思うようになったと記しています。
 
 こうして健康を取り戻した小倉正臣は1971年に父親の跡を継いで大和運輸の社長に就任します。しかし当時の大和運輸を取り巻く状況はお世辞にもいい状況とは言えないもので、関西と関東を結ぶ高速道路が開通したことによって他社ではこの区間のトラック輸送を強化していたにもかかわらず大和運輸はこの流れに乗り遅れ、荷物の取扱量なども落ち込んでいたようです。更にオイルショックとも重なり、輸送に必要な燃料費の高騰によって運輸業界全体でコストが高騰しておりました。
 このような状況で小倉昌男は何を考えたのかというと、当時郵政(現日本郵便)に独占されていた個人向け宅配事業に参入することを決意します。当時は今と違って運輸会社といったら法人向けのサービスが主で、個人向けの宅配サービスは郵政事郵便局のみが行っているサービスでした。しかも信書法という法律で、個人向けの郵便はプライバシー保護(という名を借りた検閲目的)で郵政しか行ってはならないこととなっており、この解釈が個人向け宅配サービスにも延長されて使われておりました。
 
 それでも小倉昌男が個人向け宅配事業に参入した理由としては、一つはこのままの事業を続けていてもジリ貧だと考えたことと、新たなサービスを始めることによって市民の生活が便利となり支持を受けられれば必ず業績に結びつくはずだという考えでもって決意したといいます。
 
 ここまでであればよくある熱血経営者の成功譚で終わるのですが、小倉昌男の真骨頂は事業立ち上げまでの綿密な計画作りにあります。個人向け宅配サービスを始めるに当たり小倉昌男は具体案を練るわけですが、こういってはその過程が非常に面白いです。この過程は彼の著書である「小倉昌男経営学」に詳しく描かれてありますが、サービスエリアを北は北海道から南は沖縄まで全国でやる、というか全国でやらないと意味がないとまず設定し、全国に配送するに当たって離島などを除き1日で配達するためにはどうすればいいかを綿密に計算します。
 個人宅配ともなると膨大な荷物を裁かなければならないため集荷センターが必要となり、それを全国に何か所作る必要があるのか。その週箇所を作るに当たり土地の取得費用はどの程度となるのか、そして配達するトラックとドライバーはどれくらいいるのかを事細かに計算して積み上げていったそうです。最終的に二年目まで赤字となるも三年目から採算が望めそうだという結論に至り、じゃあやろうかと本格的に事業立ち上げへ着手することとなります。
 
 事業立ち上げに当たり小倉昌男が仕掛けた取り組みにはほかにも面白いものがたくさんあります。代表的なのはサービス名を「クロネコヤマト」として例の黒猫親子のロゴを配達トラック全てに大きく描かせた点です。小倉昌男によるとこれによってトラックが街中を走るだけでああいうサービスがあるのかと市民は知ることが出来て、最高の宣伝になったと自画自賛しています。
 また荷物の集荷を請負う営業所として、全国にある酒屋事業者に委託した点も見逃せません。一軒一軒荷物を受け取りに行くのではなく各地域の酒屋にお願いして荷物を預かってもらい、その荷物を大和運輸が酒屋に受け取りに行くことでコストも手間も省けるという一石二鳥の仕組みに仕立てています。
 
 このような準備を経て1976年、個人宅配サービスの「宅急便」がまずは関東地方に限定して始め、その後サービスエリアを全国へと拡大しています。当時の配達費用ですが確か標準のサイズで500円に設定したとのことで、これはワンコインにこだわったと著作の中で述べられています。
 こうして開始された宅配事業ですが、スタート当初から比較的追い風は多かったそうです。小倉昌男によると、利用者が配達を依頼して1日で荷物が届いたことなどを近所などに伝えるという口コミがどんどん広がって利用者が増えていき、営業所として委託された各酒屋も、荷物を持ってくるついでに何かしら買って帰るお客が多かったことから大和運輸に対してどんどんと協力的になっていったそうです。そのため、三年目を待たずして二年目で早くも黒字を達成し、その後現在に至るまで事業は拡大を続けることとなりました。
 
 ただ大和運輸の成功を見て他の運輸業者でも個人宅配事業に参入する業者が当時相次いだそうです。しかし小倉昌男に言わせると、「彼らには私と違って綿密な方程式に基づいた計画がなかった」とのことで、実際にいくつかの会社を除き多くの会社で事業参入に失敗したそうです。実際に成功させた人間が言うもんだから、なかなか迫力あるもんです。
 
 このように個人宅配という新規の事業を起ち上げた点でも有数の経営手腕といってもいいのですが、小倉昌男の魅力はこれだけにとどまらず、相手を恐れず自己の正当性を強く主張し続けた点もあります。まず最初に戦った相手はほかでもないあの郵政省で、先ほど説明した信書法を盾に個人宅配事業から引くように言われても一歩も引かず、トップである自身が先頭に立って市民の生活の利便性を訴えるなどして押し切っています。また創業以来から取引のある百貨店の三越が「何故だ」で有名な岡田茂が社長だった頃、無茶なコストダウン要求や映画のチケットの強制購入を繰り返してきたことに耐え兼ね、取引を停止するという決断も下しています(岡田の追放後には再開している)。
 
 確か小倉昌男が死去した前年の2004年だったと思いますが、当時の小泉改革の郵政事業改革で郵便事業を民間にも開放するという案について小倉昌男が、「そんな細々とした改革はせず、信書法を廃止すればそれですべて済む」という文芸春秋のインタビュー記事を読んで、初めてこんな人がいるんだと私は知りました。それから彼の著作も読み始めたのですが、さきほどのインタビュー記事もさることながら著作を読んでて「この人って言うべきことは必ず言う直言居士だなぁ」なんていう印象をそっちょに覚えました。もっともその言うべきことというのは小倉昌男の信念に基づいており、人生全体を通しても首尾一貫とした概念で語っているように見えます。
 
 改めて述べますが、日本の個人宅配事業はこの小倉昌男とヤマト運輸(1982年に改称)によって切り開かれたと言っても過言ではありません。もしあの時に切り開かれなければ、今の中国みたいに国営の運輸会社が独占で質の悪いサービスだけを提供していたかもと思うと、その功績は計り知れないと考えています。
 私は以前の記事で日清食品の創業者である安藤百福を取り上げてやたら賞賛しましたが、仮に昭和時代の名経営者を挙げるとすれば私の中では一に安藤百福、二に今回の小倉昌男を挙げます(三は土光敏夫かなぁ)。普通、昭和の名経営者ときたら松下幸之助とか本田総一郎、などが挙がってくるでしょうが、自分の感覚はなんかほかの人とは違って打たれ強い人間を贔屓にする傾向があるようです。
 
  参考文献
・小倉昌男経営学 1999年 日経BP社(といっても読んだのかなり前だが)