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2014年11月22日土曜日

漫画レビュー:惡の華

 このブログ書いてて一番受ける質問ときたら何よりも「どうしてネタが尽きないの?」という質問です。私本人からするとなんでネタが尽きないのかというよりは書きたいと思う内容を思いついてもなかなか全部書き切れないというのが今の状態でして、この数日書いた記事も原案は大体二週間くらい前に思いついた話ばかりです。中には時間が経ち過ぎてネタごと没にすることも多いのですが、今日書く久々の漫画レビューはネタが腐らないということもあって先延ばしにされ続けた上での執筆です。書こうと考えたのは確か9月頃だし。
 
惡の華(Wikipedia)
 
 私がこの漫画を手に取ったのはなんかネットでやたら見るタイトルだったことと、巻数が少ないから漫画喫茶で余った時間を消化するのにちょうどいいからと思ったことからでした。そんな軽い気持ちで手に取ったのですが一読してなかなかに凄い衝撃を受け、過去にこれだけ衝撃を受けた漫画を上げるとしたらパッと思いつく限りですと「エルフェンリート」くらいしか思い浮かびません。
 
 この「惡の華」がどんな漫画なのか簡単にあらすじを書くと、主人公はどこにでもいるような中学生の男子生徒(春日高男)なのですがお年頃もあってか中二病がやや入っており、タイトルにもなっているボードレールの「惡の華」を始めとした海外の文豪の小説を父親に勧められるままに読み耽り、「俺はほかの男子とは違う」などと気弱な性格ながらに考えています。そんな春日君ですがある日、ふとしたきっかけからクラスで密かに憧れていた女子生徒の体操着を盗んでしまうのですが、そこは気弱な春日君のことだからすぐさま後悔し、誰かにばれないうちにどこかへ捨てに行こうとして自転車に乗りながら捨て場所を探している最中、ばったり会ったクラスメートの女子生徒こと仲村佐和に、私見てたんだよ 。春日くんが佐伯さんの体操着盗んだところ」 と、めっちゃいい笑顔で言われてしまいます。
 この仲村佐和こと仲村さんがこの漫画のヒロインに当たるのですが実質こっちが主人公と言ってもよく、「惡の華=仲村さん」みたいな感じで世間にも認知されている気がします。そんな仲村さんですがどんな女の子なのかというと、テストを白紙で出した挙句に教師に咎められると「うっせークソ虫」と吐き捨てるという、非常にエキセントリックな性格しています。ちなみにこのシーンがこの漫画の冒頭です。
 
 話はあらすじに戻りますが、仲村さんは春日君に対して体操服の件を黙っていてあげる代わりに自分の言うことを聞くようにと要求します。さっきも書いたように仲村さんは非常にエキセントリックな性格をしているだけにどんな要求を出すのかというと、一言で言えばドS極まりない要求ばかりで、最初でこそ河原に来いとか面白い話をしろとか大人しいものでしたが、ひょんなことから春日君が盗んだ体操着の持ち主であるクラスのマドンナとデートすることになると、「お前、今着ている服の下に盗んだ体操着着てデートしろ」と命令してきます。しかも何とかばれずにうまいことデート出来ていたら、突然後ろからバケツの水ぶっかけてスケスケにさせてくる始末です。春日君はすぐ逃げ出したので相手にはばれなかったけど。
 
 こんな具合でこの漫画の前半は仲村さんのドSっぷりを楽しむ漫画ですが、中盤からやにわに趣が変わり、徐々に世間体にどうして甘んじなければならないのかというような疑問を投げかけてきます。先程にも書いたように仲村さんは全く周りを気にせず自分の言いたいことを言うしやりたくないことははっきりと拒否しますが、そんな仲村さんがどうして春日君に執着するようになったかというと「もしかしたら自分を理解してくれるのでは」という期待があったからだという風に見えます。作中でも仲村さんは度々、春日君に本心をもっとさらけ出せ、周りのカスどもに同調する必要はないなどということを繰り返し述べ、その上で「春日君は変態の豆野郎だが自分もきっと同じ変態なのだろう」ということを口にします。
 この辺りが自分も凄い共感したのですが、小学生の頃ならまだともかく、中学生くらいから本心ではやりたくなくても周りに合わせて興味がないこともさもあるように話を合わせたり、周りがやってるからという理由で自分も同じ行動を取ったりなどと、本心を押し殺して実体のない空気に身も心を合わせるようになります。それこそ周囲に置いてかれないよう必死になって。
 
 私自身、同じような疑問を中学生頃に持ち始め、周囲と同じ行動を取ることに価値があるのか、それが本当に自分自身の幸福につながるのだろうかと仲村さんほど過激ではないものの疑問を覚えました。その挙句、自分のやりたいこと、なりたいものに対して一直線に進むべきだと思って高校には行かずに小説家目指して修行したい、同時にプロレタリアートみたいに現場で働きながら大検受けて大学行きたいと申し出ましたが、親に拒否されたので親の顔を立てて黙って学校に通い続けました。今現在も中学生の自分が考えた通りに無理して通うほど高校に価値はなかったなと考えてますが、上記の申し出をただの一度しか言ってないにもかかわらず「あの時高校に行きたくないとか抜かしやがって」と、その後ずっと親が自分を責める口実にさせられたことは失敗であったと思うと同時に今でも強い憎悪を覚えます。
 
 話は戻りますが仲村さんはこういった思春期における周囲の同調圧力に対してはっきりとノー、関西弁で言うならええかっこしいと拒否しており、そんな自分を理解してくれるかもしれない存在として春日君に執着したのではないかと自分は解釈しています。もっとも話の途中で仲村さんは春日君はやっぱり普通人間だと述べ一旦は見放しますが、距離を置かれたことで何故仲村さんが自分に執着していたのか気が付いた春日君が逆に歩み寄り、仲村さんを理解するため変態的な行為に手を染めていくことになります。
 以上までが中盤までの内容ですが、後半は中学生から高校生へ年代ジャンプすると共に登場人物が一新して、なんか普通の青春ラブコメのような展開が続きます。作者はこっちの後半こそメインだと考えているようですが他の人のレビュー同様、私も読んでてあまり面白くなかったし印象に残るようなシーンもほとんどありませんでした。唯一、満を持して数年ぶりに春日君と仲村さんが再会するところは読んでてこっちもドキドキしてくるほど面白かったですが。
 
 私の評価としては先ほどにも書いた通り、思春期特有の悩みとともに何故本心を押し殺さなければならないのかという疑問を呈示をする点が良く描けており、一読に値する漫画だと見ております。特に、よくもまぁこれほど暴力的な言葉を次から次へと浮かぶものだと思えるくらいに過激な仲村さんを通してそういったものを描いているので強い印象を残すと共に、思想というのは一種の暴力性を含んでいるのだなと再認識させられました。
 
 しかし漫画としてみる上では見逃せない欠点もあり、レビューを書いているほかの人が誰も指摘していないので今回自分が書こうと思った点なのですが、致命的なまでに主人公の春日君に魅力が感じられません。優柔不断な性格の持ち主として描かれているため情けなく見えることは仕方ないにしても、ほかの人は知りませんが自分はこのキャラに何にも共感できませんでした。優柔不断なキャラでも描き方によってはいくらでも魅力的に描くことはでき、いい例としてはまさに冒頭で挙げた「エルフェンリート」の主人公で、優柔不断であることは共通しながらも中盤で明かされる裏設定によって一気に印象が変わり非常に生き生きとしたキャラクターに化けています。
 作者の押見修造氏に対して苦言を呈すと、私はこれまで押見氏の漫画をほかにも「ぼくは麻里のなか」、「漂流ネットカフェ」の二作を読んでおりますが、「惡の華」を含む三作とも魅力あふれるヒロインにやや優柔不断な男主人公が引っ張り回されるというストーリーで共通しています。しかもどれも男主人公は見ていて全く魅力がなく、ヒロインを引き立てるためとはいえこれだけ傾向が共通するのは後々飽きられるなど致命的になるのではないかと他人事ながら心配しています。まぁ人のやり方にあれこれケチ付けるのはよくはないと思いますが。
 
  おまけ
 「惡の華」の前半部の終わり間際で春日君と仲村さんと体操服盗まれたクラスのマドンナ三人が対峙する場面がありますが、この場面にて仲村さんが言い放った、「春日君はオメーとゴミデートしてたときもカス告白したときも、匂い嗅ぎまくり擦りつけまくりのオメーのクソ体操着体にまとわりつかせてズクンズクンしてたんだよ!」というセリフが個人的に一番お気に入りです。

2014年11月21日金曜日

いかりや長介から志村けんへ最後の手紙、というデマ

 いつも通り本題と関係ありませんが、上記のパワプロの新垣投手の能力値評価はちょっとひどいと思いつつも校としか設定できないというのもちょっと理解できちゃいます。真面目な話、過去最低の能力値なんじゃないかなこれ……。
 
 そういうわけで本題に入りますが最近ネット上で、「いかりや長介さんから志村けんさんへの最後の手紙」という話があることを知りました。これはいわゆるコピペの一つで、ある定型の文章があちこちの記事に引用され回っているのですが該当のテキストをそのまま下記に引用します。(芸名であることを考慮して敬称はこの記事では省略します)
 
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志村へ

この手紙をもって俺のコメディアンとしての最後の仕事とする。
まず、俺がこの世からいなくなるという悲しい事実を笑いへと昇華ために
葬式をコントのネタにするようお願いしたい。
以下に、コントについての愚見を述べる。
コントを考える際、第一選択はあくまで「笑いを取れば勝ち」という考えは今も変わらない。
しかしながら、現実には若手芸人の多くがそうであるように、他人をバカにして笑いを取ったり、
素人にツッコミを入れるだけで内輪受けに走っている事例がしばしば見受けられる。
その場合には、企画段階から綿密な計算と準備が必要となるが、残念ながら未だ満足のいくコントには至っていない。
これからのコントの復活は、綿密な企画立案、それとライブの復活にかかっている。
俺は、志村がその一翼を担える数少ない芸人であると信じている。
能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある。
志村にはコントの発展に挑んでもらいたい。
遠くない未来に、素人いじりや他人をこき下ろすコメディがこの世からなくなることを信じている。
ひいては、俺の葬式をコントにした後、計算された笑いの一石として役立てて欲しい。
リーダーは活ける師なり。
なお、最後に、 お笑い芸人でありながら、多数の人を泣かせて旅立ったことを、心より恥じる。
 
いかりや長介
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 この文章ですがさすがに晒しちゃうとかわいそうなのでリンクとか貼ったりしませんが、あちこちのブログやFacebook、果てにはYoutubeに動画まで作られていて結構な数の人間が感動話として取り上げています。しかし私はこの文章を一読してすぐ違和感を覚え、果たして本物だろうかと疑問に感じました。
 
 違和感を覚えた点を挙げていくとまず一つ目は、「他人をバカにして笑いを取ったり、素人にツッコミを入れるだけで内輪受けに走っている事例がしばしば見受けられる」と書かれたテキストで、こうした「弄り芸」が流行った時期といかりや長介が逝去した時期は微妙にずれるのではと感じました。次にいかりや長介は医者から家族には余命が宣告されていたものの本人には知らされていなかったようで、そんな状態で果たしてこのような遺書をきちんと書くことが出来たのか。そして何よりも、逝去した2004年当時にこのような手紙があったなどという報道を私本人が全く記憶していないということです。逝去当時は各メディアがこぞって大きく取り上げており、他のドリフメンバーに対してもたくさん取材がされていたにもかかわらずこの手紙について全く記憶にないというのは私に限っては有り得ないのではと考えました。
 
 そんなわけでこの手紙が本物かどうか確かめようとざらっと調べ、まず最初にどこが初出なのかを探りました。初出を探るに当たっては引用しているブログなりの更新日を追って行くのが一番なのですが、調べていくとどうも2014年の今年に入ってから引用される回数が増えていることがわかり、それ以前となると2012年に引用している記事が一件あった後はほぼ皆無であった中、2004年に掲示板の書き込みらしいものを引用しているサイトが見つかりました。
 この時点でうすうす勘付いてきましたが続けて調べていると、あっさり答えが出ました。
 
 
 結論から言うとこの手紙はダウトことデマで、偽物です。上記リンク先を見れば一目瞭然ですがこの手紙は「白い巨塔」のラストシーンで主人公の財前が同僚に送った手紙文を下地に、さもいかりや長介が志村けんに送ったように改編するという言葉遊びの一種だったようです。しかもこの元となった財前の手紙ですが、このサイトを見るとほかにも多種多様に改編されているようでそこそこ有名なベーステキストの様で、面白がって探してみたらマツダ地獄について書かれたこちらの知恵袋がなかなかツボにはまりました。
 恐らく年代などから察するに、こちらの引用しているサイトに書かれている日付の2004年が初出ではないかと思います。書かれた当時はそれほど脚光を浴びなかったものの10年経った2014年にレトリックであることがわからないまま、というより財前先生の手紙文が忘れ去られたため引用され始めたのが今の実体でしょう。確信犯かどうかまでは詮索しませんが……。
 
 こんなわけで自分の予感が当たって一安心。明日は土曜日だしゆっくり眠れると言いたいわけですがもうちょっとだけオチをつけると、2004年に作られたコピペが10年の年月を経てあちこちに引用されるようになるというのはなかなか稀有なことのように見えます。何故このような稀有な事態が起こったのかと推察するにやはりいかりや長介に対して思い入れを持つ人間が、その死から10年経った現代においても数多くいたからだと思えます。無理矢理いい感じに話をまとめるならば、こうしたデマがそこそこ拡散すること一つとっても彼が偉大なコメディアンだったことが偲ばれます。

2014年11月20日木曜日

九州丸ごと特区化の提案

 またどうでもいい内容をほざきますが、女性の忍者は「くのいち」と呼ばれますがオカマの忍者は「くのいち」と呼んでいいのか今日ずっと悩んでいました。ちなみに忍者ゲームだと「忍道2」が一番好きで、遊んでた頃は食べると爆発する寿司を投げつけては拾い食いする敵忍者を見て大笑いしてました。
 話は本題に入りますが、先日Yahooニュースに載った下記ニュースがちょっと目に留まりました。
 
 
 この記事を一読して感じたのは変わった信号があるということではなく、神奈川県内に「さがみロボット産業特区」という特区があったのかという驚きでした。そこそこ経済ニュースは人並み以上に呼んではいると自認しておりますがこの特区の存在は今の今まで知らず、なんで知らなかったのだろうと思うと同時にこの特区の広報は何やってるんだと疑問にも思いました。控え目に言ってもこの特区の存在は一般人は地元民でなければまず知らないでしょう、ましてや外国人は確実に知らないと思います。
 特区というのは定義にもよりますが、基本的には国内外を問わず特定業種の企業を集積し、発展を図る地区を指すと思います。中国などはまさにこの特区方式で世界中から投資金を集めることに成功した代表例ですが、そうした中国にある数多くの特区を見ている私からすると同じ日本人にすらほとんど認知されていないこの神奈川県のロボット産業特区は意味があるのか、そもそも進出企業にはどのような恩恵があるのかとか全く分からず、やるんだったらアトムの信号なんてどうでもいいからもうちょっと真面目にやれよと言いたくなります。
 
 このように私がマジになって怒るのも日本国内の各都市は国内企業はおろか外資系企業の誘致に対してあまりにも不熱心だからです。広報戦略はもとよりどのような業種の企業を集めようとするのか、どんな優遇措置を用意するのかすべてにおいて中途半端で、こういってはなんですが中身を伴わずポーズだけとって「はいやりましたよ」と言い逃れしてるようにしか見えません。構想倒れで終わったものの非常に期待していた最低賃金特区は結局流れちゃうし、同じ神奈川県の川崎市に去年出来た医療機器の産業特区の存在なんて普通の人は知らないでしょうし、やるんだったらもっと本気でやってもらいたいものです。
 
 そうした私の不満をつらつら述べた上で敢えてここで提案しますが、現在のこうした日本国内の特区は結局都市単位の狭い範囲でしか行われていません。そのような狭い範囲こそがすべてにおいて中途半端になってしまう要因を生んでいるように思え、やるんだったらもっとでっかく、大規模に、猿でもわかるような単純な構造にして内外に訴えかけるべきであって、それだったらいっそのこと九州地方を丸ごと経済特区にしてしまってはどうかとこの頃友人と話しています。
 
 何故九州地方を丸ごと特区化しようと主張するのかというと大きく分けて三つ理由があります。一つ目は私が記者だった時代、九州地方の数多くの中小企業関係者らが海外進出、海外販路の開拓に向けて非常に熱心な姿勢であったことを見ているからです。やはり距離的な近さもあってか中国や香港、韓国、台湾などといったアジア各国に対する視野は東京の人間より格段に強く、ほとんど人材も資本もないにもかかわらず徒手空拳で挑もうとする姿勢には強く感銘を受けました。何気に長崎県は昔から出島があっただけに現代でもパスポート所持率が全国ナンバーワンな国際的な県民性があり、国際取引を推進する特区としてはうってつけだと考えております。
 知らない人もいると思うので書いておくと、長崎県は自治体自身が独自に動いて上海へ毎日鮮魚を輸送する航路を開拓しています。ほかの九州各県の自治体も、割と自分たちで率先して動いてきます。
 
 二つ目は一つ目の理由にもあげていますがアジア各国との絶対的な距離の近さです。特に中国からだと飛行機での移動時間が短いこともさることながらフェリー便も出ており、商取引などの面で有利な点がいくつもあります。中国に限らなくてもタイやシンガポール、カンボジアなどにも距離的に近い上に、外国人がやけに喜ぶ温泉地も豊富にあることから接待関連でもやりやすい環境にあるのではないかと見ています。
 
 三つ目。これが一番大事なのですが、地元民からしたらそうでもないかもしれませんが私の目から見て九州在住者はまだ「同じ九州人」という共通するアイデンティティを持っているのではないかと感じます。各県によって県民性はもちろんあって考え方にも相違はあるでしょうが、本州とは陸続きでないことに加え文化的な共通性もいくつか見られることから、県の垣根を越えて一地方一丸になってまとまるという方針の下では九州が現状で一番適しているのではないかと思えます。
 こっからがある意味私の真骨頂ですが、私は九州全体で丸ごと経済特区となるついでに、ほかの地方に先駆けて道州制の導入を吸収単独でやってもらいたいという考えを持っております。
 
 道州制の議論はこのところさっぱりで、特に維新の会の橋下市長が大阪都構想を出して以来は明確に後退しつつあります。しかし兵庫県の号泣県議を始めとして日本の地方議会の腐敗は国会の汚職事件など霞んで見えるほど深刻でなおかつ議員になる連中も文字通りカス揃いです。
 こうした現状を打破するにはどうすればいいか。各地方の議会の現況をマスコミが徹底的に報じたとしても有権者がそれに反応できるかと言ったらはっきり言って無理です。ならとばかりに私は一気に粉砕した上で新しいものを作ろうと考えがちなのですが、この際県議会とかは全部廃止した上で、九州議会のように道州制の導入によって範囲の大きい自治体を新設した上で政治浄化を図る方が手っ取り早いと言いたいわけです。仮に九州単独でも道州制を導入できればより大きな予算枠で政策が決められる上、必要な人材も集めやすい上に海外への広報も福岡県などが単独でやるより「九州」という大きな地方名で宣伝した方が進めやすいでしょう。
 
 先程にも言った通りに道州制の議論は現在凍結に近い状態です。しかし私としては導入するに価値ある政策案だと考えているのですが、この道州制がいまいち盛り上がらない理由として大きいのは区割りをどうするかでいっつも揉めてしまい、具体的には中部地方をどこからどこまでを東海、北陸に分けるのか、長野県はどっちなのか、三重県は近畿なのか東海なのかという点で暗礁に乗り上げてしまうからです。
 それに対して九州は本州と陸続きでないこともあって道州制の区割りでは何の問題点もなく、恐らく争おうという人間もいないでしょう。それであればこの際、ほかの地方は置いといて九州だけ先に道州制を導入し、この政策のメリットやデメリット、改善点を測る上での試金石になってもらった方が九州にとってもほかの地方にとってもいいような気がします。こういってはなんだけど、九州の人の方が危機感強いからこうした案に対しても肯定的になって割と賛成してくれるような。
 
 なお仮に九州だけ単独で道州制を導入するとしても、沖縄県は九州には入れず別枠に置いた方が良いと個人的に思います。理由は二つあり、一つは距離的にも文化的にも九州と沖縄では離れており同じ枠内で動いてもあまりメリットが見えないということ。二つ目はさすがにこのブログ上では書けないような内容のため、興味のある方は個人的に私にメール送ってくれれば答えます。
 今日調子悪いからあまりいい文章になりませんでしたね。内容もやや描き辛い内容ですが、かといって短くまとめたらしょうもない完成度になっちゃうしなぁ。

2014年11月18日火曜日

トヨタの燃料電池車とそれに関わる雑多な報道

 今日はラーメン屋で晩飯食べてましたが、店内で猫が座ってたので手招きしたらすぐやってきて、撫でてたらすぐ膝の上に載ってきて、結局ラーメン食べ終わるまでずっと膝の上で寝てました。えらく人懐っこい猫だったなぁ。
 話は本題に入りますが、本日トヨタが新開発した燃料電池車「MIRAI」を正式発表しました。この件について先日、友人に簡単な講義を行ったのと今日出た報道を見ていて物足りなさを覚えるので、素人ながら生意気にも報道関係者にちょこっと苦言を呈そうかと思います。
 
 
 まず燃料電池車とはそもそも何なのかというと、何らかの化学反応を起こすことによって電気を発生させ稼働する充電する電池を搭載し、その電力で走る車を指します。名称を英語にすると「Fuel Cell Vehicle」となり、頭文字を取って「FCV」と表記することがマスコミの間でもう出来上がっており、友人にはこの略称と由来を確実に覚えるようにと伝えています。
 今回トヨタが出したミライは水素を外部燃料としていて空気中の酸素と化学反応を起こすことによって電力を発生させる仕組みで、この過程で二酸化炭素(CO2)は生まれず後に残るのは酸素と水素が結合してできる水だけです。
 なお先に注意しておくと、水素を燃料とする車としては過去にマツダがRX-8をベースに「水素自動車」というものを出しておりますが、これはミライとは異なり水素をそのまま燃やして走るという全く異なる車で、技術的にもエコ的にも何も残らない車だったらしく完全に消え去っています。間違って同系列で語ると恥ずかしいので注意しましょう。
 
 話は戻りますがトヨタのミライは走行中、排出するのは理論上は水だけです。その水から再び水素を取り出せれば完璧なエコ循環が出来て素晴らしい車だ、なんて書く記者もいますが、そんなうまい話有るわけねぇだろと突っこむ記者は私が見る限り少ないようです。
 まず現時点で言えることとしては、燃料電池車のコストは非常に高いです。原因は燃料電池を作るのにレアメタルが結構いるためで、今回トヨタが出すミライの車両価格は税込で約720万円、購入に際して国から200万円の補助金が出ますがそれでも500万円以上で、これだけあればプリウスは二台買えます。コストが高いのは販売価格だけではなく、環境負荷も決して低くありません。
 
 私が今日いくつかの記事を見ていて非常に気になった点として、どこも燃料となる水素の生産方法を熟知していない点があります。水素というのは空気にも含まれているためメジャーな作り方としては空気を極低温にまで下げる過程で蒸留するというやり方なのですが、これだと温度を下げる過程で電力をバンバン使うため、最終的なCO2排出量で見たらFCVは間違いなく電気自動車はおろかハイブリッド自動車にすら劣ると見られています。一応、水素を作るにはほかにもやり方があって重油などといった化石燃料の精製過程に発生する水素を集めるというやり方だとコストも比較的抑えられますが、これだと実質化石燃料の量によって取れる量が決まるため、完全循環型とは言い切れないのかあまりトヨタも紹介してません。
 
 あと肝心なこととして、事故った時はどうなるのかという不安が私の中にはあります。水素というのは言うまでもなく簡単に爆発するアセチレンに次ぐくらい危険な気体でもしも車体に搭載する容器から洩れたりしたらどうなるのか、そういった事故対策についての言及が今日までの発表に少ないのは残念です。
 それとともに、今回ミライに搭載される水素貯蔵容器には700気圧分の水素を入れられるのですが、参考までに日本で使われる一般的なガスボンベの貯蔵容量を述べると、こちらは大体500気圧です。500気圧のガスボンベでもほんの少し穴が空いたら百キロくらいあるボンベは内部気体の噴出で確実に吹っ飛び、数十メートル先にまで飛ぶことがあります。もし走行中にミライの貯蔵容器に穴でも開いたら、確実に車両ごと宙に舞うでしょう。もっとも、ミライの貯蔵容器はマグネシウム合金使ってるかと思ったらFRPなので穴空くことは確かに少なく丈夫ってことは間違いありません。
 
 以上まではミライの悪口ばかり書いてきましたがフォローポイントを書くと、航続距離などの面においては先行の電気自動車を確実に凌駕する性能を持っております。以下に簡単にまとめたのでご覧ください。
 
  車種/航続距離/充電(充填)時間
トヨタ・ミライ/650km/約3分
日産・リーフ/228km/約8時間(200Vで)
三菱・i-MIEV/120~180km/4.5~7時間(200Vで)
 
 この表をどっかのメディアは作ってくるかなと思ったらどこも作ってないので自分でまとめました。これで見ると新型エネルギー車の中でミライは利便性が頭一段抜けていることがわかります。もっとも電気自動車も急速充電器使えば数十分程度で満タンにできますが、そういう設備が街中では少ないことに加え、ユーザーのレビューを見ていると航続距離は上記のカタログスペックの約半分くらいが実情だというのであまりフォローになりません。
 
 今後の展望として述べると、恐らくFCVは流行らないと思います。トヨタも国に要請されて一応やってるような態度に見えますし、環境負荷や生産コストと見比べると現行のエコカーに対して不利な点が多すぎる気がします。何気に新型デミオが燃費でアクアに肉薄する上、燃料が軽油だから距離当たりの燃料費ではアクアを上回るという事実をもっとメディアは取り上げるべきだと思います。
 
 
 最後に気になった記事として、上記のニュースがいろいろとツッコみたくなります。今日日の内容から言ってトヨタの話かと思ったらホンダのFCVの取組についてまとめた記事で、
 
「『ホンダはFCVのリーディングカンパニー。水素社会の一翼を担う技術開発にチャレンジし続ける』。伊東孝紳社長は15年度発売予定のコンセプトカーを前に力強く語った。」
 
 というホンダの発言に対して、トヨタが今日から販売を開始するというのに何を以って「FCVのリーディングカンパニー」などとほざくと、どうして記者はツッコミを入れないのか不思議に感じます。更におかしな点を突くと、
 
「FCV普及のハードルは価格だ。高価なプラチナを使う燃料電池の製造にコストがかかり、販売価格は700万円程度。政府は約200万円の補助金を出す方針だが、それでも消費者には手が届きにくい。」
 
 この引用に出ている700万円という販売価格についてなのですが、ホンダは現時点で来年発売するとしている(どうせ延期するだろう)FCVの予定価格を一切明らかにしていません。にもかかわらずどうして700万円という具体的な数字を出せるのか、ってかこれトヨタの販売価格だよねと言いたくなりますがこの記事ではトヨタの名前は一切出てきません。折角FCVの特集なのにホンダより先行しているトヨタの現況について何故触れないのか、触れないくせに参考価格だけは黙って引っ張ってくるのはどういう心境なのかと問い詰めたくなります。
 仮に自分が前の会社でこんな記事書いて出してしまったら、確実に上司から「この数字の根拠はどこだ、てめぇぶっ殺すぞ!」と怒鳴られていたと思いますし、怒鳴られても仕方ない記事だと私には思えます。第一、ホンダはこういう提灯記事を書かせる暇あったらリコール減らせという気になります。ハイブリッド技術でもプリウスが出る直前まで、「うちがリーディングカンパニー」とか抜かしてたけど。

高倉健に対する中国の反応

 今日は安倍首相の解散宣言といい介助犬はフォークで刺されたのではなく皮膚病だったのではなどとビッグニュースが目白押しな日ですが、何よりも国民にとって大きな衝撃と共に受け止められたのは俳優の高倉健氏の逝去報道で省。すでに各所で報じられているのでニュースリンクは貼りませんが、昼ごろには中国でも大きく報じられて友人なんかは真っ先にメールを送ってきたくらいでした。
 
 中国に高倉氏の人気と知名度については過去にも記事にしておりますが、さすがに若い世代くらいになると知らない人が増えているものの一定の年齢以上の層には未だに圧倒的な認知度を誇ります。高倉氏が主演した映画は改革開放政策に移った中国で初めて公開された海外映画で(確か「幸せの黄色いハンカチ」)、当時の中国の状況を考えると農村部にいた人間からすれば生まれて初めて見る動く映像に映った主演男優が彼だったようで、その影響もあってか私もこれまで中国人が「男の中の男」と呼ぶ人間として高倉健氏の名前が挙げられるのを何度も聞いています。
 ちなみにもうひとり「男の中の男」として挙げられた人物には何故か「聖闘士星矢」の「フェニックス一輝」がいます。基本的に男臭いのが中国人の好みっぽい。
 
 そんな高倉氏の逝去報道は日本の報道開始とほぼ同時に中国でも流れ、今日帰りに立ち寄ったラーメン屋のテレビで見た夕方のニュースでも過去の出演映画の映像と共に長い時間、かなり大きな扱いでもって報じられていました。ではネットではどうかと見てみたところ、ちょっと自分でも驚くくらい大きく取り扱うメディアが多いです。
 たとえばこちらのサイトは東方網というサイトの一ページですが、なんと高倉氏の死去に合わせてわざわざ特集ページを独自に組んでおり、これまでの経歴や主要な出演作品、国内外の評価などについて細かくまとめられており、アクセス数も相当高いようで関連する記事複数本がランキング上位に入ってます。
 
 
 またこちらの記事では高倉氏の結婚と離婚、そして離婚後に再婚をしなかったという経歴についていい具合で記事にまとめています。またマニアックな内容と思いつつもこれに対する閲覧者のコメントも、「再婚しなかったなんてなんて清廉な人だったんだ」とか、「どうか安らかにお眠りください」などと、読んでるこちらも感情を感じるような内容が数多く並んでいます。
 
 かつて三船敏郎が逝去した際、日本国内以上に欧米メディアが大きく取り上げ一部のテレビニュースに至ってはトップニュースで報じられたと聞いております。さすがに高倉氏の場合は日本国内の圧倒的な人気から海外報道が勝ることはないと思いますが、それでもこうして中国メディアが大きく報じる点を見るにつけその影響力の大きさを改めて覚えます。それと同時に、本当に偉大な人が亡くなってしまったのだという強い喪失感も覚えます。果たして今後、彼のような俳優が日本に現れるのか、そもそも映画の中とは言え彼のような日本人が出てくるのか、考えは尽きません。
 
 最後に、先ほど「映画の中とは言え」という表現を用いましたが、映画の外ことプライベートでも高倉氏は非常に生真面目で誰からも親しまれる人物だったと聞いております。かなり昔に坂東英二氏がテレビ番組で語っておりましたが、男やもめの高倉氏に坂東氏が冗談で、「何だったらうちの娘でももらってくれませんか」と言ったら後日、非常に丁寧な言葉でもって坂東氏の申し出をお断りするという直筆の手紙が送られてきてびっくりしたそうです。また同じ番組で、ある晩に突然高倉氏が坂東氏の自宅に一人で現れ、映画か何かで共演した記念として腕時計のプレゼントを持ってきたそうです(高倉氏は度々共演者にこうしたプレゼントをしていた)。
 坂東氏からしたら高倉氏ほどの大物がこうも真剣に接してくれることにひたすら恐縮だったようで、「心臓に悪いのでどうかやめてください。お心遣い、本当に感謝していますから」とテレビを通して伝えていましたが、本当に映画の中の様に生真面目だったという人柄うかがえるエピソードです。

2014年11月17日月曜日

シベリア出兵とイワノフカ事件

 前回記事に続いてシベリア出兵中のある事件を取り上げますが、その前にロシアの村で起こったある出来事を紹介します。その年、日本の代表団がシベリア抑留者の慰霊碑を建立しようとその村へ訪れたのですが、その村の住人らはやってきた日本人代表団らに対して、「昔、日本人がこの村で行ったことを知らないのですか」と尋ねたそうです。その村こそが今日の見出しに掲げたイワノフカ村です。
 
イワノフカ事件(Wikipedia)
 
 シベリア出兵の概要については前回記事に書いた通りで、日本は明確な領土的野心の下に他の参加国が繰り出した数倍の兵力をシベリア地域に送りこの地で傀儡政権の樹立などを企てたものの、結果としては何も得ることがなく列強各国にその野心を疑われたことと兵力の損失だけを生みました。このシベリア出兵中に日本はモスクワを占領したレーニン率いるボリシェビキ政権(社会主義政権)と対立していた白軍を支援しておりましたが、シベリア出兵中における最大の敵は赤軍本軍ではなくパルチザンでした。
 
 一体どうして社会主義というか左巻きの人は同じ意味で一般的にも認知されている語があるのにわざと小難しい単語に置き換えようとするのか気がしれませんが、この「パルチザン」というのは言うなればゲリラです。政権が直接命令、指示する軍隊ではなく一般市民(多くは農民)が自発的に赤軍に協力したり、武器を取って敵軍と戦う兵士、集団、軍隊を指すのですが、日本にとってシベリア出兵はこのゲリラ(もうパルチザンなんて言葉は使わないぞ)との戦いだったと言っても間違いないでしょう。
 社会主義革命戦争中のロシアでは都市部はともかく農村部ではボリシェビキへの支持がきわめて高く、白軍が占領したとしてもすぐにゲリラが活動を行って妨害するので占領地を放棄することも頻繁にありました。また一般市民との区別も難しいことから、簡単な例えを用いるならベトナム戦争下の米軍などの様にいつどこで襲われるのか、現地の兵士たちにとっては非常にナーバスにさせられる存在だったのだと思います。
 
 そうした「見えない敵」であるゲリラに対し白軍や日本軍は神経を尖らし、ゲリラを匿った、協力したとみた村落を頻繁に襲撃し焼き尽くしていたそうです。これは当時の軍内部の報告書にもしっかり記されている事実で、件のイワノフカ村の事件も海外の調査隊が生存者の証言をまとめていることから否定はできないでしょう。言ってしまうなら、ベトナムで米軍や韓国軍がやったことを日本軍はシベリアでやっていたというわけです。
 
 話はイワノフカ事件に焦点を絞ります。このイワノフカ村もボリシェビキの影響力が強かったことから日本軍は村民から武器の押収やゲリラと見られる人物の処刑を行っていたところ、思わぬゲリラの反撃を受けて一個大隊が全滅するという被害を受けました。このゲリラに対する攻撃の報復として日本軍は村を包囲した上で、集中砲火を浴びせた上に家々をもやし、老若男女の区別なく殺害したわけです。殺害者数は約300人と見られていますが、この村が現代にまで存続していることを考えると皆殺しまでには行かなかったようです。
 その後日本軍はこの虐殺の事実を隠すどころか宣伝にも使っていたようで、「抵抗すればイワノフカ村の二の舞になるぞ」という脅しをほかの村にもかけていったそうです。
 
 こうした行為はイワノフカ村に限らずほかの多くの村落においても程度の差こそあれ行われていたとみられます。というのも当時の日本軍内の報告書には著しい軍記の乱れが内外から日本の司令部に報告されており、指揮官幹部らは安全なウラジオストックで砲塔を繰り返しているのに対し現場では何の攻略目的や作戦計画のないまま零下何十度という厳しい環境下に放り込まれ、略奪や強姦、虐殺が日常的に行われているなどと生々しい証言が残っています。
 また私個人にとってちょっと面白いと感じる報告として、当時出兵していた部隊では「歩兵隊式」という、末端の兵士による士官へのリンチが頻繁に起こっていたそうです。士官が少しでも横柄な態度や妙な要求でもしようものなら兵士同士が結託し、前線であることをこれ幸いにとばかりに暴行して服従させていたというもので、中には、「殴られるくらいはまだいい。戦場だったらどこから弾が飛んでくるのかもわからんのだし」という証言を残した帰還兵までもいたそうです。こうした状態であったことから前線の指揮官は略奪や暴行する兵士を止められなかったばかりか、彼らに気兼ねして期限を取るといった行動も見られたことが報告されています。
 
 このような事態を招いた理由はいくらでも挙げられるし中には戦場では仕方のないことだという人もいますが、私としてはやはり無計画な派兵こそが最大要因だと見ます。前回記事でも述べたように日本は明らかに下心を持ってシベリア出兵を行っており、しかも出兵の大義名分であるチェコ軍団が無事に帰還しても、白軍が完全に粉砕されても、明確な攻略目標などないまま長期間大兵力を派兵し続けました。戦うべき理由もなければ目的もなく極寒の地に派遣され続ければそりゃ現場もおかしくなるのは当たり前で、何故ほかの国と同時期にすぐ撤兵しなかったのか強く理解に苦しみます。
 
 その上で今回のイワノフカ村事件について述べると、恐らく私と同世代であればこの事件を知らない人間の比率はフォーナイン(=99.99%)を確実に超えるでしょう。一方で、前回記事で紹介した「尼港事件」は認知度はこちらも確実に低いでしょうが一応高校レベルの日本史の教科書には確実に載っています。何が言いたいのかって、殺られた事実だけ教えて殺った事実には触れないってのはアンフェアじゃないか、この一点に尽きます。
 別に朝日新聞みたいに「日本人はもっと他国に謝罪し、反省すべきなのかもしれない(いつも末尾は推量系)」なんていうつもりは全くないしことさら大きく取り上げようというつもりは全く有りませんが、同じ「朝日」繋がりで言うと歴史というのはスーパードライなくらいに感情を全く持たず、淡々と事実のみを直視する視点こそが大事だと私は思います。私なりのこうした視点で述べると、片一方側の事実は取り上げておきながら同じ傾向を持つ事実は無視するなんて以ての外だし、そもそもこのシベリア出兵自体を日本の教育界はあまり教えたがらないなと内心思います。
 
 私自身、大学受験時にシベリア出兵という単語と概要は覚えましたが、そもそもチェコ軍団って何、現地でどんな活動したのといったことは全く以ってちんぷんかんぷんでした。日本史科目に関しては今も昔も並外れた成績だったことを考えると、私以外の人間に至っては全く理解せず「シベリア出兵→米騒動」という脊椎反射的なワード繋がりを覚えられれば御の字だったでしょう。
 しかし成人になってから改めて一次大戦を勉強し直したついでに勉強し直すと、やってることはまるきり米軍のベトナム戦争と変わりがないように思えてきました。ベトナム戦争についてはその悲惨さを学校では学びましたが、もっと身近な日本がやった例については細かく教えずにスルーするってのはちょっともったいないと思うついでに何らかの意図があるのではないかと勘繰りたくなります。中には規模が同たらこ歌らという人もいるかもしれませんが、人が何人死のうが自分は全く興味がありません。やったかやらないか、何やったか、これだけが重要です。
 
 繰り返して述べると、シベリア出兵と関連して尼港事件だけ取り上げてこっちのイワノフカ事件を始めとする現場の乱れをスルーするというのは、あれこれ理由を述べるまでもなく私個人として気に入らないというか癪に障ります。朝日新聞みたいに、ってか従軍慰安婦や南京大虐殺は取り上げるがこっちをスルーする朝日をちょっとどうかとも思うけど、参考書位には一言書いた方が良いのではというのが私からの提言です。
 あと最後に蛇足ですが、明確な目的がないまま戦争に兵を派遣して無駄に浪費するという構図、なんかどっかの国で見たようなとデジャビュを覚えます。思えばこの時から日本の軍隊はいかれてたのかもしれません。

2014年11月16日日曜日

シベリア出兵と尼港事件

 尼港(にこう)事件と聞いて何のことかすぐに言えるような人は私と同じで恐らくどこか頭のおかしい人でしょう。私自身ですら復習しなければすぐに記憶から飛ぶような事件だし、一応大学受験の参考書にはちょこっとだけ書かれているけど実際の入試に出題された例は見受けません。
 
尼港事件(どちらもWikipediaより)
 
 尼港事件とは、第一次大戦期に日本が行ったシベリア出兵中に起きた虐殺事件のことを指します。この事件について解説する前にまず、シベリア出兵について話をしましょう。シベリア出兵とは何か端的に述べるなら、一次大戦の末期に社会主義革命が起きたロシア(ソ連)に対する列強による干渉戦争、いわば社会主義革命を潰すために行われた侵略と言ってもいいでしょう。
 
<ロシア国内の革命戦争>
 一次大戦末期の1917年、ロシアでは十月革命が起こりレーニン率いるボリシェビキこと共産主義勢力が政権を握りました。こうした動きを懸念したのはほかでもなくイギリス、フランスをはじめとした列強各国というか連合国側で、彼らは対戦中のドイツとボリシェビキ政権が単独講和して東部戦線が解消されたことと、社会主義革命が他国に広がるのを恐れ、まだロシア領内でボリシェビキと主導権争いを続けていた勢力こと白軍を支援しようと企図しました。
 ここでまた二度説明ですがレーニン率いるボリシェビキ勢力は「赤軍」と呼ばれ、これに対しボリシェビキに抵抗していたロシア国内の勢力をまとめて「白軍」と呼んでました。何故この白軍は「まとめて」というのかですが、実態としては「反ボリシェビキ」を掲げていた勢力を一括してこう呼んでいたため実体としては同床異夢な民主党のような存在だったらしく、共和制主義者、王政復古主義者、反レーニンな社会主義者などごった煮な状態で、説明するまでもなくまとまった行動が取れず歴史では結局赤軍に敗北することとなります。もっとも、勢いに乗じた赤軍が何故かフィンランドに攻め込んできたのですが、それに対して祖国防衛のために動いたフィンランド軍も白軍に数えられ、この中には二次大戦で活躍するマンネルハイムも指揮官として参加しており、一時は首都ヘルシンキを奪われたものの最終的には見事赤軍の撃退に成功しています。
 
<チェコ軍団>
 話は本題に入りますが、このシベリア出兵が行われた理由は一に連合国による対戦国ドイツへの牽制、二にロシアの社会主義革命の粉砕でしたが、さすがにこんな理由を正直に出しては大義名分が立ちません。そこで取られたのが、ロシア領内で孤立していた「チェコ軍団」の保護、救出でした。
 当時のチェコ(スロバキアを含む)はオーストリアによって統治されていて独立を果たせていませんでした。そこに目をつけたロシアは国内にチェコ独立を目指す義勇兵組織を起ち上げ、主に戦時中にオーストリアとの戦闘で捕まえたチェコ人、スロバキア人の捕虜を組み入れ、オーストリア軍との戦闘に出兵させていました。しかし十月革命の後、このチェコ軍団は所属先はおろか行先も決まらず、そもそも祖国もまだなかったことから行き場に困りシベリア地方で孤立することとなりました。
 
 モスクワのボリシェビキ政権はこのチェコ軍団の取り扱いについて当初、武装解除の上でウラジオストクからアメリカへ移動することを認めますが、チェコ軍団の兵士が移動の過程でハンガリー兵と乱闘事件を起こしたことによりボリシェビキ政権は態度を硬化させチェコ軍団の移動を一時中止させます。これに対してチェコ軍団も現地に指揮官、最高責任者がが存在していなかったこともあって苛立ち、ボリシェビキ政権に対して蜂起し、再武装を始め、結果的に赤軍との戦闘を始めることとなりました。
 このようにシベリア地方で孤立しながら赤軍と戦うチェコ軍団を英仏は「連合国の一員」であり救助の対象でもあるとし、ボリシェビキ政権へ干渉戦争を起こすいい口実になるとして兵士の派遣を決断します。しかしチェコ軍団のいるシベリアは欧州からみれば地球の反対側にあり、なおかつドイツとの戦争もまだ続いていたことから、地理的にシベリアに派兵しやすい位置にある日本と米国に対して出兵を要請します。
 
<日本の出兵と狙い>
 日本は英仏からの要請に対して当初、「アメリカが出兵するのであれば兵を派遣する」と、アメリカの顔を立てる形で答え、その後アメリカが派兵を決定すると約束通り、1918年に出兵を内外に発表します。しかし遠慮がちな態度と裏腹に日本側は当初からやる気は満々だったと言われ、狙いとしては満州、シベリア地域で新たな領土を獲得するとともに現地に傀儡政権を立てて日本本土の防衛、領土拡張を最初から狙っていました。
 事実、英仏の派兵規模が1000人前後、日本に次いで規模の大きかったアメリカが約8000人だったのに対し、日本は最終的に約7万3000人という異常な量の兵員を派遣しております。またその行動もエキセントリックというよりほかなく、当初はウラジオストックより先には進軍しないという規約があったにもかかわらず平気で破り、北樺太や満州地域はおろか、バイカル湖周辺にまで占領地域を拡大します。
 
 こうした日本の行動に派遣国はほぼすべて懸念を示します。というのも派遣をしたその年の1918年11月に連合国と戦っていたドイツで革命が起こり一次大戦が終結し、背後(東部戦線)からドイツを牽制するという目的が無意味と化していたからです。しかもチェコスロバキアもこの際に独立を果たし、英米仏はしばらくは駐留を続けてましたがチェコ軍団もロシア領内から出た1920年にはみんな撤兵したのに対し、日本は上記のような目的もあって1922年まで一人で延々と残り続けました。
 しかも日本国内ではシベリア出兵を機に需要が高まると見られた米が商人によって買占めが行われ、それ以前から高騰していた米価がさらなら高騰を見せたことによって「米騒動」が起こります。結局、日本軍はシベリア地域で動き回りましたが領土を獲得する大義も得られなければ傀儡政権の樹立も果たせず、兵員や物資の損害を生むだけ生んで何も得ることなく撤退することとなります。
 
<尼港事件>
 上記が高校で教えられる範囲のシベリア出兵の中身、と言ってもこんなに詳しくやる教師はいないでしょうが、大体が米騒動とセットで教えられます。米騒動のほかにもう一つしべリサ出兵と共に一緒に関連付けられるキーワードとしてもう一つの本題であるこの「尼港事件」があるのですが、この事件はシベリア出兵中の1920年にアムール川河口の港湾都市、ニコラエフスクで赤軍パルチザンによって起こされた虐殺事件を指します。
 
 非常にきわどい内容なので簡潔に説明することに努めますが、当時ニコラエフスクには多数の日本人居留民とユダヤ人、白ロシア人が住んでおり、ボリシェビキ政権に抵抗する白軍の部隊とシベリア出兵によって派遣された日本軍守備隊も合わせて駐屯しておりました。当時漁業事業を営む日系企業がこの町に進出しており日本人居留民(約700人)も数多く居住していたことから、日本の領事館も設置されていました。
 この街にロシア人を中心として中国系、朝鮮系を内包した赤軍パルチザン部隊約4000人が白軍を追って1920年1月に進撃してきたのですが、日本軍守備隊(約300人)は日本人居留民保護を目的に駐屯していたものの白軍司令官とともに赤軍と交渉に当たり、居留民の安全、白軍関係者に対する不当な処罰をしないこと、一定期間の移動の自由を条件にニコラエフスクを赤軍パルチザンに明け渡しました。なお開城時に白軍の最高指揮官三名が自決していますが彼らについてこの事件をまとめた記者、グートマンは「彼らは、仲間の将校や、ニコラエフスクの市民より幸福であった」と書き残しています。
 
 こうしてニコラエフスクに赤軍パルチザンが入城しますが、残っている証言によると彼らは当初の約束を守らず市民への略奪や暴行、白軍兵士への迫害や投獄、殺害を繰り返したため日本守備隊と対立を深めます。そうした最中、パルチザンの司令官は日本軍に対して武器弾薬の引き渡し(武装解除)を要求し、事態悪化を恐れた日本守備隊は引き渡す前にパルチザンに対して決起を行ったものの兵力の差は埋められず敗北し、全滅します。
 日本軍の決起後にパルチザンは日本軍に協力したとして日本領事館を攻撃しただけでなく日本人居留民を一方的に殺害し、その後事態を知った日本軍がニコラエフスクへの派兵準備を始めると日本軍の報復を恐れたのか、証拠隠滅と日本軍への進軍妨害を兼ねて今度は日本人だけでなく、中国系を除いたロシア人やユダヤ人などあらゆる街の人間の殺害を始め、被虐殺者数は街の全人口の半分に当たる6000人以上に上ったと言われています。なおこの時にパルチザン内部でも虐殺を批判する幹部がいたものの、ほかの居留民殺害に紛れて一緒に殺されたようです。
 
 この事態に日本軍は救援隊を派遣しますが、アムール河の解氷を待って到着した頃にはパルチザンは逃げ出しており、既にニコラエフスクは焦土と化していました。またソ連側でもこの時のパルチザンを監督していたハバロフスク革命員会が事態を知り、パルチザン兵士への聞き取りを行っています。唯一溜飲が下がることとしては、ハバロフスクの革命員会はパルチザン兵士と接触した上で指令をだし、虐殺時のパルチザン指揮官であるトリャピーツィン以下幹部全員を捕縛した上で処刑している点でしょう。この時の容疑は「同士、同胞に対する虐殺」だったそうです。
 
 
 以上がシベリア出兵と尼港事件に関する顛末ですが、この事件は当時の日本国内においても衝撃と共に受け止められ、時の原敬政権が部隊を派遣しながらみすみす居留民を見殺しにしたと強く批判されています。また日本側はこの事件の報復としてその後しばらく北樺太を占領し続ける行動に出ています。
 という具合でいつものようにロシアは恐ろしあという結論で片づけたいところなのですが、そうは言いきれない点がこのシベリア出兵にはまだ隠されています。この記事だけでも非常にしんどかったですが、続きはまた次回にて頑張って書きます。我ながら、歴史学者でも文化部記者でもないのによくやるよ。