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2017年4月4日火曜日

ソーテックのパソコンの思い出


 中国は一昨日土曜日が出勤日となった代わりに、昨日から清明節という中国版お盆(墓参りに行く日)の祝日と絡んで三連休です。連休中日の今日、朝10時半に起きてから頭痛がやまなかったので1時から再び寝込み、起きたのは夕方5時でした。先週はセーブ気味に働いていたつもりでしたがやっぱり疲労が来てたようで、昨日一日挟んでから一気に疲れが今日来たような感じでした。
 昨夜からの睡眠時間は15時間となる計算ですが、なかなか16時間の壁を越えられない。っていうかさっきから眠い。

 話は本題に入りますが、以前にも少し書きましたが今使っているノートパソコンのNEC Lavieは2011年に購入したもので、既に7年目に突入することからいつクラッシュするかわからない時期に入ってきたこともあり新たに買うノートパソコンを色々物色していました。でもって昨夜、最終的にNECの最新ノートと比較した上で、デザインはどっちも正直言ってダサいと感じたことからマウスコンピューターのLuvBook Fシリーズを購入することにして注文も済ませました。
 決め手はこちらの方が価格が安いこと、またメモリ8GB以上のラインナップでNECのスタンダードノートPCはCPUがCorei5が標準ではなく、「インテル® Celeron® プロセッサー 3855U」というあまり聞いたことないCPUだったためです。性能比較サイトでクロック数見てみたところ、Corei5の半分程度だったし。

 そんなわけでマウスコンピューターにして、SSD搭載、Office付き(Home and business)にした上で、メモリに関しては+1万円弱で16GBに増設できるということだったのでこちらも増設し、さらに外付けブルーレイディスクもつけて計13万6千円(送料、税込)でハンマープライスしました。そこそこのお値段ですが、性能的にはかなりのモンスターマシンだと思います。それとこの値段を見ていて、「ソーテックの10万円パソコン懐かしいな」と急に思い出しました。

ソーテック(Wikipedia)

 ソーテックとはかつて日本に存在したパソコンブランドの名称です。元々パソコンのOEM事業を行っていましたが生産委託先の韓国・三宝コンピュータによって1997年に買収されると、ちょうどパソコンが個人へ普及していた時代でもあったことから安売り路線で個人向け販売を強化していきました。
 その最たる例といってはなんですが、1999年に新聞広告にて10万円を切るデスクトップパソコンの販売を公表した際は当時中学生であった私も大いに面喰らいました。当時、一般的なパソコンの価格は30万円前後、安くたって20万円を切るか切らないかという水準だったところを一気に10万円の壁を切る値段で売り出したため、これ以降は他社も競って価格競争に転じたためパソコン市場の価格は大きく下落することとなります。もっとも、ブロードバンド共にそれで一気に普及したのでまあありだったなという気はしますが。

 ソーテックはデスクトップだけでなくノートパソコンでも安売り路線を展開し、当時は安価でパソコンを購入できるブランドと言ったら真っ先にここの名前が挙げられるほどでした。ただ安いからには裏があるというか、Wikipediaにも書かれている通りに品質面では当時から酷評されており、壊れやすいことを前提にして「最低限パソコンが欲しい人向け」という具合で私も中学、高校の仲間内で話していました。
 知名度は非常に高かったもののそれだけに品質面の問題はブランド力を一気に失墜させるほどの時代を引き起こし、結局経営はほとんどうまくいかずに何度かの再生ファンドを経由した後、最終的には2008年にオンキヨーに買収されて解散に至りました。

 多分今でもそうでしょうが、パソコンの値段で10万円を切るか切らないかは一つの大きなボーダーだと思います。最近だと5万円を切るようなパソコンも珍しくありませんが、ブランド価値と品質の事を考えるならやはりこの10万円がメーカーにとってもルビコンに当たり、値段設定しているような節が見られます。
 このボーダーを初めに作ったという意味では私の中ではやはり上記のソーテックが浮かんできます。高校時代、自分用のパソコンを敢えて購入するとしたらやはりソーテックしかないと思って家電屋のチラシを睨んでいたのを今でもよく覚えていましたが、結局当時には購入せず、私が初めて自分で購入したのは大学生だった2004年にソフマップで買った格安5万円のバーガーパソコンでした。

 やはり当時、買いたくても買えなかったという悔しさがあったことから、今でもパソコンを購入するのは素直に楽しいです。それ以降購入したパソコンは2010年にダイナブックのネットブック、2011年に現在使っている15.6インチノートのNEC Lavie、2012年にエプソンのネットブック、2014年にエプソンの14インチノートですが、エプソンのは人に上げたりサブ用としておいていたりであまり活用せずなんとなく申し訳ない気がします。エプソンのはデザインはいいけど、中の電池が膨らんで筐体の一部にヒビ入るのはいただけない。
 新しく購入するパソコンは来月の一時帰国時に受け取る予定ですが、果たしてどんなパソコンになるのかそこそこ楽しみです。なるべく長く使いたいけど、耐久性とかどうなんだろうな。

2017年4月2日日曜日

トランプ政権が真に相対するもの


 過去二代のブッシュ、オバマ政権が相対していた相手を挙げるとすれば、それは間違いなく中東のイスラムテロリスト達だったでしょう。ブッシュの場合はこれにフセイン政権が含まれますが、テロリストは国家の枠組みを越え、それこそジハーディジョンのように先進国からも参加者が現れるなど敢えて言うならイスラム原理主義を旗頭にした思想集団であるため、「どこにでも敵は介在する」ということもあって国家体制を揺らがす存在でありました。もっともそれ言ったら、IRAなんかは昔から活動しているので今に始まる存在というわけでもないでしょうが
 ただこうしたイスラム原理主義テロリストは多方面の努力もあって、確実にその勢力を衰退させてきています。アルカイダはビンラディンが既に死に、ISISもイラク国内の拠点をほとんど失いもはや消滅の瀬戸際に立っています。石油利権を奪われたのが効いているのか、金のない所にはあんま人も来ないというか前ほど西欧から参加者が集うというのは見なくなってきた気もします。

 こうした前提のもと、米国の新たなトランプ政権はある程度テロリストとの戦いがひと段落した状態で政権についたと言えるでしょう。そんなトランプ政権は今後どのような相手と相対するのかと言えば私個人としては中国でもメキシコでも移民でもなく、案外グローバル企業なのではないかと考えています。

 トランプ政権が標榜している政策はある程度皆さんもご存知でしょうし、米国だけの利益を追求する米国第一主義と呼ばれていることも知っておられるでしょう。ただ彼の主張をつぶさに見ると、米国の企業を応援や優先しているのかといったらそうでもなく米国内で雇用を生む企業の立場に立っているというか、米国以外の活動で荒稼ぎしている企業に対して厳しい態度を取っているのではと思う節があります。具体的には米自動車メーカーで、海外に工場を作らず米国内で工場を作り米国の雇用を創出するように半ば強制しています。
 このような観点からすると中国など米国にとっての貿易赤字国に対して厳しい批判を繰り返していることも、やはり雇用という観点がキーなのではないかと見えてきます。言うまでもなく中国で作られる製品が米国内で数多く消費されることからこうした貿易赤字が生まれるわけですが、恐らくトランプ大統領の考え方としては、「値段が上昇するとしても、米国人が米国で作った物を消費すべきだ」という考え方で、「値段が低いが米国の雇用につながらない消費はするべきではない」という風にも言い変えれるかもしれません。

 自分がここで強調しておきたいのは、私の考えるトランプ大統領の最大優先事項は「米国の繁栄」ではなく「米国の雇用」だということです。雇用が減少するから移民も減らすべきだし、貿易赤字国にはいくらでもいちゃもんをつける(でもって黒字国には何も言わずに輸出し続け稼ぎ続ける)。勝手な想像ですが、トランプ大統領とその周囲はもしかしたら米国内での生産を優先することによって製品価格が上昇したとしても、国内雇用が増加すれば個人所得も増加するため経済競争力は落ちず、むしろ市場規模が大きくなると考えているのかもしれません。
 こうした価値観は必ずしも的外れというわけではないと私には思います。グローバル企業の立場からすればアジアやアフリカなど労働力の安い海外で生産して市場の大きい米国や日本で販売した方が利鞘が大きくなりますが、国家単位で考えれば海外産の安い製品によって国内生産品は価格競争によって値段を落とし、また海外で生産される分だけ国内雇用も減少します。しかし、日本のように国内労働力が不足している場合は上記デメリットはなく、また企業が海外で稼いだ分だけ本国で税金を納めるのであれば、国としてもこうした海外生産を推進する立場でいられるでしょう。

 私の考えるトランプ政権の姿勢はこうしたグローバル企業の戦略と相容れません。さすがに鎖国とまではいきませんが国内生産国内消費を第一に、企業に対し米国で物を売るなら米国で物を作るように求めているように私には見えます。だからこそ私は、トランプ政権にとっての最大の敵はグローバル企業で、たとえ企業に損をおっ被せてでも米国に貢献するよう求めているのだと思います。企業側からしたら鬱陶しい意見のように感じるでしょうが、私個人としては企業側にも全く負い目がないわけではないと断言できます。
 というのもグローバル企業はあまり大きく発展しなかったパナマ文書やAmazonの様に、タックスヘイブンに拠点を置いて国家への納税義務を回避することが最近では当たり前になりつつあります。またSFの世界の様に一部グローバル企業は一面において国家を凌ぐほどの影響力を持っており、実際にサムスンなどは韓国政府以上の力を持っているのではないかと私には思います。そうした国家を凌がんばかりに増大するグローバル企業の影響力に、ある意味ではトランプ政権は歯止めをかけようとしているという風にもみえないこともありません。

 ただこの見方で何が一番面白いのかというと、それこそ最初に上げたイスラム原理主義テロリストの様に国家の枠組みを越えて拡張しつつある企業に対し歯止めを掛けようとしているのが、企業家出身のトランプ大統領だということです。もっとも彼の出身業種は不動産業(プロパティ)で、ある意味ローカル色が一番強い業種でもあることからこうした価値観や姿勢を持つに至ったのかもしれませんが。実際、プロパティは国内のインフレによって財を成すしなぁ。

 久々に真面目な記事を書いてみましたが、割と日本のトランプ政権の報道を見ていて感じるのはこうした世界経済的な観点が抜け落ちてるように見えます。トランプ政権が何をして、どのように貨幣や物品の流れを変えようとしているのか、それによって価格はどうなるのかを言及せずに「米国第一主義」とまとめるのはやや強引であるように私には思います。
 また補足的に述べるとこれまでは如何に国際分業を進めるかという経済学がブームでしたが、今後はどこまでを海外からの輸入に頼って、どこまでをデメリット覚悟で国内生産で持たせるかという塩梅議論が重要になってくると予想します。この議論で敢えて私から言うならば、日本食は9割方しょうゆなしでは成立しないことから、大豆だけはどんなに値段が高かろうと全国産化を目指すべきだと言いたいです。輸入していい大豆は節分の時に鬼に向かって投げる豆だけでいい。

2017年3月31日金曜日

外務省とゴルゴ13の謎のコラボ


「ゴルゴ13の中堅・中小企業向け海外安全対策マニュアル」(外務省)

 先ほどメールを開いたところ「【上海総】ゴルゴ13の中堅・中小企業向け海外安全対策マニュアル」というタイトルのメールが入っており、「なんやこのスパム?」と一瞬疑いました。よくよく発信元を見ると、私も登録している上海総領事館からの中国に関連する安全情報を発信するアドレスから発信されており、中身を開いたところ上記リンク先のページを開設したのでよろしくぅ的な内容が書かれてありました。その内容というのも、海外安全情報について外務省とゴルゴ13がコラボしたという身も蓋もない内容でした。

 上記のYoutube動画は今回のコラボのいきさつについて外務省職員の方が直々に説明するというのもので、より効果的に中小企業関係者へ渡航地の安全情報を伝える「たびレジ」というサービスと、ゴルゴ13のキャラクター性がマッチしていると考えたためだと話されています。曰く、ゴルゴ13は作中でも自分が臆病であると度々述べており、そのような慎重な姿勢こそが渡航地での危険から逃れる上で大事な姿勢だと考えたそうです。深くツッコんだら負けだろうけど、後付けじゃね?
 既にコラボは始まっており、リンクを付けた外務省のページからゴルゴ13が外務大臣から依頼を受ける場面や、パキスタンでの爆弾テロをテーマにした漫画が公開されています。ほかのコラボでもそうですけど、こと解説役であればゴルゴ13はよく機能するなぁって気がします。

 ただそうしたこと以上に私が着目したのは、上の動画に出てくる外務省職員の方の話し方です。普通に聞き取りやすい話し方なのですが、ゴルゴ13の作者であるさいとうたかを氏の言葉を引用する時だけ何故か関西弁になります。しかもめっちゃうまい。
 最近語学関連の仕事すること多くて周りにもその筋の方が多くいるのですが、そうした影響からかイントネーションとかそういうものに敏感になっており、ちょっとした発音の違いとかがかなり気になるようになっています。そんな私からしても見事な関西弁、どっちかっていうと上品な方の大阪弁の様に聞こえ、外務省にもいい人材はいるんだなぁと変に感動しちゃいました。

 一応最後によいしょというか真面目な話をすると、各国の領事館なり大使館サイトへ行けば現地の危険情報とかを自動で配信するメールサービスの登録を受け付けています。また同じサイトで出国登録をしておけば万が一現地で行方不明になった際に身元の確認が迅速に行われるので、数ヶ月単位で海外に滞在するという方はきちんと登録しておいた方がいいです。もちろん私も登録していて、記者時代はここからの配信メールを元に記事とかも書いてました。意外といいネタ元になるんだよなぁこれ。

2017年3月30日木曜日

教育支援の選択と集中の必要性

 最近年を取ったせいか、生まれ変わるならエビルマージになりたいと思うことが増えてきました。エビルマージになって、バラモス城にやってくる勇者たちにマヒャド唱えたり、火を吹いたりしながらのんびり暮らしたいなと思うのですが、そもそも年齢を重ねることとエビルマージの関連性が自分でもよくわかりません。

こども保険はパチンコ代バラマキ現金支給より口座引落しにすべき(じじろぐ)

 こちらのサイトは最近よく見るブログでその更新数の多さには私ですら舌を巻くのですが、上記記事では教育費のバラマキに対して批判しています。言ってる内容それ自体にも深く賛同するのですが、この記事を読んでて私が考えたことというのも、そもそも国が教育費への支出なり支援を高めたところで果たして教育レベルは上がるのだろうかという点でした。結論から述べると、一定額までなら確かに上昇するだろうがある段階で支援先や額を絞らないとある所で頭打ちし、下手したらレベル下がるんじゃないかと私は思います。

 このように思う理由というのも、教育費の増額によって教育水準が高まったという検証報告を一度も見たことがないからです。そもそも日本は諸外国に比べてGDPに対する教育費支出が極端に低いにもかかわらず欧米各国を凌いで国際学力テストで上位に入っており、大学の研究費とかなら話は別ですが初等、中等教育レベルではそこまで金額は関係ないんじゃないかと思います。金額というより、カリキュラムや指導教員の質の方が左右しそうな気がするし。
 また上記リンク先の記事の様に、教育費として配った所で果たしてそれがきちんと子供のために使われるのか使途についても不明瞭な点が多いです。直近の話でも子ども手当が出されるようになってもう何年も経っていますが、これで出生率が上がったとか、子供の教育レベルや福利がよくなったというような効果の検証は何も聞いたことがなく、子供が多い家の家計が楽になってその分を子供のいない家庭が負担しているという話しか聞きません。

 また単純に学校現場とかを見ても、いわゆるFランク大学が氾濫したりこのまえの森友学園やこども園などふざけた幼児施設が補助金かすめ取ったりする話を見ていて、金かければいいって問題じゃない気がしてなりません。特にFランク大学については、そもそも勉強する気のない人間を大学に放り込んだところで彼らの学力なんて上がるわけがなく、それであればむしろ定員割れしている大学を廃校にし、まともな大学に予算を振り分けたりした方がそこに通う学生や教員のためになるし、Fランク大学に通う学生らも早くに社会へ出して職業訓練させた方が将来的にもいいように思えます。

 そうした観点から見出しに敢えて「選択と集中」という言葉を掲げたわけですが、中途半端に教育費を国が負担するよりももう少し突き放したりして、予算の振り向け先をもっと絞らないと意味がないと言いたいわけです。それでもバラマキをやりたいというのであれば、最低限そうした教育費のバラマキでどれだけ教育レベルの向上につながる、つながったのかという効果の検証報告を出してもらわなければ私個人としては納得することはないでしょう。

 もっともこんなこと言っておきながらなんですが、現在私は日本にほぼ全く税金を納めていないので偉そうに言える口でもないでしょう。ただ中国で日系企業の海外事業の維持運営において、多分ほかの現地採用者より、下手したら日本に残っている人よりはかなり貢献はしているという自負はありますが。

2017年3月29日水曜日

進学校教師の笑えない指導力


 今夏公開予定の「スパイダーマン ホームカミング」の予告第二弾が出ましたが、これこそまさに自分が見たかったスパイダーマンという気がしてならず、期待感も非常に高いです。これまでのスパイダーマンと違って、きちんと相談できる大人がいるっていう設定がいい。

 さてさて本題ですが、昨日の朝まで高校時代の友人が私の家に遊びに来てたことは既にお伝えした通りです。滞在中はお互いの高校時代の話に及び、「あの時、君がこんなに面白い人だとは思わなかった」と言われましたが、「お前らが当時、俺の凄さを理解できなかっただけだ。俺はあの頃から十分面白い」と妙な感じで否定してたりしましたが、そうした内容と合わせて中学、高校時代の教師陣についても話が及びました。

 私とその友人はいわゆる中高一貫の進学校の出で、生徒は「日本の子供は大学進学して当たり前。大学に行かない奴はクズだ」と、決して誇張ではなく信じて疑わないくらい視野の狭い人間ばかりでした。もっとも一応用意されている入学試験をパスしてくるだけあって地頭はいい人間は多く、並の公立校の生徒たちと比べればそりゃ学力では遥かに勝っていました。
 ただ、学力の高い生徒たちがいるとはいうものの、その学校の教師陣の指導力は果たして高かったのかというと非常に疑問です。以前にも同じテーマで記事を書いていますが、結論から言えば私と友人が通った学校の教師たちはお世辞にも指導力は高いとは言えず、むしろ地頭のいい生徒たちを相手にしていることもあって、教え方がそれほどうまくないのに生徒たちの優秀さに助けられて仕事をこなしているように見えてしまっていたと思えてなりません。

 あまりに激しく批判するのも何なので少しフォローしておくと、まともな先生もいなくはなかったです。ただ友人と意見が一致したのですが、中学時代は比較的まだ頼りになる先生が多かったものの高校に上がってみるとやる気のない先生が多く、特に参考用のプリントを配るだけでまともに授業せず、完全に生徒をほったらかすような先生が多く、そうした環境もあってか外部の予備校に通っている生徒ほど成績がよく学校の授業だけではついていけないと私自身も少し感じていました。
 ほかの学校ではどうなのかはわかりませんが、私が思うに案外似たようなもんで、多かれ少なかれ進学校というのは教師やカリキュラムが優れているというわけではなく、選抜した生徒の質によって支えられているという面の方が大きいのではないかと思います。そういう意味ではこと教え方という面ではむしろ中堅校、場合によっては底辺校の教師の方が生徒に理解させるために努力する羽目になって教え方が上手であるかもしれません。

 単純に教え方が上手いか下手かを見る上では第一の前提として生徒の質が同程度でなければなりません。なればこそよくいろいろ教員研修とか組まれていますが、この際だから進学校の教師たちは底辺校に一週間くらい出向いて指導してみるといった研修をやらせてみた方がいい気がします。以下に自分が優秀な生徒たちに囲まれて楽をしているのかを、やっぱり自分の通っていた学校の教師たちにも知ってもらいたいなと本気で思います。

 かなりコテンパンに母校を批判していますがこう言う風に言うのはわけがあり、というのも大学で自分の周りにいた友人らがあまりにも優秀な人間ばかりで自分の能力がどれだけ低かったかを激しく痛感したからです。また学校内での教育も、地方の公立高校などはえげつないほど受験体制でそれほど予備校に通わずとも優秀な成績を叩きだす生徒を量産しているという話などを聞くにつれて、どうして自分はそういうところに通わなかったのかなどと本気で後悔するレベルでした。
 もっともそう言った公立高校出身の大学で出会った友人らは、当時竹中平蔵氏が進めていた金融構造改革の中身を解説する私を見て、「私立出身者って面白いのがいるな」と思ったそうですが、「こんなん話すの俺くらいなもんやで。周囲の連中は俺の事をゲームばかりする奴だと思って、たとえ俺がいました話をしても理解することすらできなかった」と、やんわりと事実を伝えてました。まぁ真面目な話、政治や外交、歴史や経済について高校時代の自分と話を合わせることができる人間は皆無でしたが。

2017年3月28日火曜日

この四日間の寝床

 特にこのブログでは書いていませんでしたが、先週金曜から高校時代の友人が上海に遊びに来ていました。それほど大したイベントがあったわけではないものの、その友人には特にホテルを取らせずにそのまま私の自宅へ泊める形で滞在させたのですが、生憎私の部屋にはベッドが一つしかありませんでした。
 上海人の友人からは、「近くのビジネスホテルでも取らせたら?」と提案を受けていたものの、私も友人もそれほど金がないこともあってその案は却下し、代わりに私の部屋の中でもう一つ寝床を作ることで対応しようと決めたわけです。もちろん友人には私が普段使うベッドを宛がったので、私が寝るのはその新たな寝床となりました。

寝床 初期型

  照明が暗いせいかなんかやたらカメラ写りが悪いですが、上の写真が第一日目に使用した寝床です。説明不要で見たまんまですが、リラックスチェアの上に座って、手前のボックス椅子に足を載せて寝るという形式で、例えて言うならばビジネスクラスの航空機座席みたいな寝床となりました。もちろん、載せてある枕は頭に使います。あと掛布団として、これも航空機みたいに毛布を上に掛けます。
 実際に寝てみた感じとしてはビジネスクラスというよりかはもはやエコノミークラスで、地味にエコノミークラス症候群とかにならないかなと思いつつ、姿勢の居心地悪さを感じながら寝てのけました。そんでもって目覚めた直後の感触としても、航空機同様にあまりよくは寝られませんでした。
  
ネドコ MarkⅡ

 前日の反省を生かし、二日目に新たに組んだ寝床が上記写真です。一日目と違うのは左手前にパソコンを使用する際に使う折りたたみ椅子を用意したことですがこれによってどう変わるのかというと、頭をリラックスチェアに、腰(尻)をボックス椅子に、足を折り畳み椅子に乗せることで、系統の異なる三種類の椅子の三段合体によって寝そべることができるのではと発案して作ってみました。
 枕をリラックスチェアに乗せて実際にこれで寝てみましたが、まず一切寝返りがうてない、っていうかうったら確実に落ちるという構造上の欠陥を抱えていたことと、リラックスチェアの先端(通常太腿を載せるところ)がやや反り返っていることもあって、いまいち姿勢が安定しませんでした。そして何よりも、リラックスチェアとボックス椅子の間に空間があることによって背中の一部が宙に浮く形となって、変な風に体重かかったのか寝ている最中も肩の下部付近がめちゃくちゃ痛くなりました。こちらも初期型同様にあまり気持ちよく寝ることは叶いませんでした。

ネドコ MarkⅡカスタム

 前夜の反省を生かし、今度は余ってる枕をリラックスチェアの通常臀部を載せる溝に埋め込んだのがこちらのカスタムバージョンです。溝に枕を置くことで妙な高低差を失くしフラットな感じにさせることで、先端の反り返りによる背中への圧迫を防ごうというのがこのコンセプトです。なおもう一つの枕は溝に置いた枕の上に置き、通常通りに頭を載せます。
 寝てみた感じとしては前回よりはマシになったものの、やはりボックス椅子との空間の存在感が強烈に残り、二日目とあって変に慣れたのか不安定ながらも寝返りをうてるようにはなったものの相変らず重心が不安定で、起きたらやっぱり肩の下あたり、具体的には胸の反対側付近がかなり痛かったです。

Ne-Doco WRX STI Ver.Ⅳ

 試行錯誤を重ねながら最終的に四日目で辿り着いたアルティメットバージョンがこの寝床で、ボックス椅子の位置が前回と異なりリラックスチェアとくっつけた形となっています。リラックスチェアの先端の反り返り以上にボックス椅子との間の空間に問題があると考え、この際無理に足を延ばすことはせず、リラックスチェアとボックス椅子の上で猫のように丸くなって寝てしまおうというコペルニクス的発想から生まれました。
 寝てみた感じとしては、相変わらず不安定であるものの重心はこれまでと比べてずっと安定し、また丸くなって寝ることで比較的暖かく、でもって気持ち脚を伸ばしたいときにはこれまでと同様に折り畳み椅子へ足を乗せれば適うので、確実にこれまでの寝床と比べれば進化を感じました。
 とはいえ、寝返りを打っているうちにボックス椅子の位置が段々とずれていき、最終的には結構離れたりしてしまって前夜同様に肩の下のあたり、具体的には背中の真ん中付近が起きた直後に痛みました。

 そんなこんだがあったものの、今朝友人をタクシーに乗せ空港へ送り出したことから今夜からは普通に元のベッドで寝られることが出来ます。ただ今記事を書きながら冷静に考えてみると、普通に床に何か敷いてそこで寝ればよかったんじゃないかと思えてなりません。なんで椅子三つ組み合わせた不安定な寝床で無理矢理寝ようとしたのか、自分の行動の意味不明さに改めて妙な疑問を覚えます。

 なお友人は今回の訪問中、友人の母ちゃんから中国で世話してくれる友人(=私)はどういう人なのか知りたいから写真撮ってきてくれと頼まれたそうです。ただ私は余り写真を撮られることが好きではないため、一緒に街中歩いている最中に見かけた猫の写真を友人のi-Phoneに撮らせ、「これが俺だと言っておいて」と伝言したので、恐らく友人の母ちゃんは私の事を毛深い奴だと思うことでしょう。

2017年3月26日日曜日

ロジックで考える人の希少性

 今日動画では見ていませんが怪我を押しての強行出場を続けた稀勢の里関が本日、二場所連続優勝を遂げられたとのことで、正直私も一回の優勝で横綱にさせたことについていささか不安を感じていましたが、今場所の優勝についてはその怪我の具合を考慮すると見事としかいうほかなく、日本人横綱としての名を恥ずかしくないものにした立派な功績だと感じました。

 さてそれで本題ですが、以前にも一度書きましたが中国でコナンや金田一といった推理漫画、果てには京極夏彦氏などの小説は中国でも大人気で、特に小説の方は海外文学コーナーに行くと日本人作家の小説がずらりと並んでおり、実質「海外文学=日本文学」と言ってもいいくらいの状態です。こうした日本の文物が受け入れられる背景について中国人の友人の嫁さんが、「中国人にはあんなロジック(論理)は組めない」と分析し、だからこそ受け入れられるという見方をしめしたことがありましたが、確かに中国人に推理小説を書けそうな人ってあまり浮かばないなと思うだけに、妙に納得させられる意見でした。

 ただこうした中国人からのコメントを受けつつも、果たして日本にロジックを理解している人はどれくらいいるのだろうかという問いがこのところ頭をもたげています。この場合のロジックというのは意見や主張の論拠や合理性を筋道立てて説明、理解することを指しており、想定不可能な事態や事故による結果の変動や予測間違いは含みません。
 敢えて私流に言わせれば、「話せばわかる」というのがロジックで考えられる人の定義となります。

 こんな風な疑問を持つのも、単純にロジックが日本社会で通ることが少ないと思うからです。いくらか入る感情の余地を考慮したとしても結構無茶苦茶な、有体に言えば明らかに論理破綻していて誰もが上手くいかないと考える意見が通って、実施して、案の定うまくいかなくなるというパターンは東電の凍土壁を始め世の中いくらでもあります。そういうパターンに多いのは、「声のデカい奴の意見が通る」という情景で、要するに発言力の大きさで採用意見が決まる、意見の中身というより誰が発言したかで決まるという形態です。
 っていうか声のデカい奴が大抵どこでも無能というのが地味に大きなトピックのような気もしますがそれは今回は割愛しましょう。

 こう言う風に言えば、「いや、間違っているのはわかるんだけど相手が相手だけに反論できない」という言い訳をほぼ確実に言われますが、意見に対して何故その意見が誤っているのかなどを論理立てて説明するよう求められても案外その手の言い訳する人は説明できません。なんとなくですが、ぼんやりとその意見は誤っているとは感じつつも、それをきちんと理解するには至れていない感じです。
 こうした傾向は通常の議論でもよく散見され、私が論拠の不備や自分の意見を優位性があるとまでは言わなくとも存在する可能性はあると主張した場合、よう「でもそれは気持ち的に納得できない」などと、反論意見において感情論を主張されることが多いことからもロジックがないなと感じる人は多いです。ゲロ吐くような気持ちになろうが合理性、論理性的に正しい意見は受け入れるというような精神は、大学時代を除くと周囲の人間に感じたことはありません。

 これ以上長く述べててもしょうがないので言いたいことを述べると、案外大学教育でそうしたロジックの組み立て方や議論について学ぶべきものを学んでいないという人がこのところ多いような気がします。特に、議論で負けることを恥だと思い論理的に破綻していながらも主張を曲げないような人を見る度、議論で自分の意見を曲げることは恥ではないということすら学ばなかったのかと感じたりします。
 なお論理破綻を無視して感情論を述べる人間に対しては自分も変な手加減は要らないと考え、そこから感情論に切り替えて相手への攻撃を始めることが多いです。基本的にこの手の感情論の議論は論理を無視しての怒鳴り合い、罵り合いとなるわけですが、話せばわかる人にはもちろんこうした手段は使いません。けど使っていいと思う相手なら遠慮なく使い、でもって年齢と共に声もでかくなってきたので最低限引き分けには持ち込む自身は今の自分にはあります。無論そうした手段がいいとは思わないものの、ロジックを考えない人にむざむざ屈するよりかはという気分で私も感情論を主張するわけです。