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2017年5月7日日曜日

「良質な記事」と「稼げる記事」のジレンマ

 別にわざわざ言うまでもないのですが現在私がJBpressで書いているコラムは基本月二回のペースでやっています。ただ、2月から4月は仕事が忙しいので月一本にしてほしいと要求して受諾してもらいましたが、結果的に言うと、何かしら取材するネタがあってこともあってこの間もほぼ月二本ペースで記事を出稿していました。そのかわり、内容は以前にこのブログで書いたものに肉付けしたり、パッとかける経験則や知識に頼ったものばかりで、初期の住宅価格やEV関連のようにしっかり取材したものではありませんでしたが。

 ただ、結果論から言うときちんと取材した記事より、こうした私の身近な中国ネタの記事の方が明らかにアクセスがいいです。理由ははっきりしており、きちんとデータに基づいた経済取材記事は一般受けしないというかその内容の価値をわかってくれる人がそれほどおらず、逆にそこまで深い内容でない中国ネタの方が大衆受けしてしまうからです。
 この辺、このブログで書いている記事でも同じような傾向があるのですが、執筆している側からすると結構なジレンマがあります。本当に中身があって価値のある「良質な記事」を書くべきなのか、それとも単純に閲覧数を稼ぐために中身の薄い「稼げる記事」を書くべきなのか、どっちに軸足を置くべきかで本気で悩みます。

 はっきりと願望を述べれば、多少投稿ペースが少なくなったとしても私としては良質な記事を書いていきたいです。というのもそうした記事は一般受けしなくても、本当に情報を届けたくなるような良識ある人たちに読んでもらえることが多く、現実にこのブログで知り合った人たちはそうした価値ある記事を評価してくれた人たちばかりでした。
 しかしその一方、やっぱりアクセスを稼ぎたいのも本音です。また理想主義者と言われる一方で変な所で現実主義的な価値観を持つ私なだけに、「評論家に評価されるよりも、一番売れてる物を書いた奴が一番偉いんだ」という梶原一騎みたいな意見も持っており、アクセス稼げないで果たしていい記事なのかという疑問も持ち合わせています。なおさっきのセリフは川端康成に向けて行ったとされる言葉だそうです。

 理想はもちろん、中身もあってアクセスも稼げる記事です。そういう意味では大江戸温泉の取材記事はその両方を成立させたので評価されたのだと思いますが、なかなかああいうおいしいネタはそこらへんに転がっておらず、あんな記事を毎回書くなんてそれこそズルでもしない限り不可能です。となるとやはり、上記の二つのどちらかに軸足を置かないといけないってこととなります。

 ひとまず仕事(最近どっちが本業かわからなくなってきた)の方が落ち着いてきたこともあり5月からはまた月二本ペースに戻すこととなったので、これまでよりかはじっくり取材した記事をもっと増やそうとは思っています。つっても5月も結構予定でいっぱいいっぱいですが。
 先日も仕事の方で連休明けとあって変にハッスルしてしまい、会社にいる間は全く疲れを感じなかったのですが、家帰ったらリアルに左目の視点が全く合わず、ほんとに見えなくなってマジビビりました。っていう今でも時たまグリグリって感じで痛みだしますが、疲れているということがわからなくなるほど怖いものはありません。

2017年5月5日金曜日

漫画レビュー「怨み屋本舗 巣来間風介」

 先日、毎日頑張っている自分へのご褒美(もう死語?)として、「怨み屋本舗 巣来間風介」の全6巻をまとめ買いしました。この漫画自体は既に読んだことがある作品でしたが、手元に取っておいて何度も読みたいと思っていたことから今回の一括購入に至りました。

怨み屋本舗(Wikipedia)

 この漫画はもう十年以上も連載が続いている復讐代行業を描いた「怨み屋本舗」シリーズの第2シーズン的な作品で、シリーズを通して主人公である女性の「怨み屋」ではなく、横浜支店ナンバー2の「巣来間風助」を主人公とした外伝的作品です。怨み屋本舗シリーズ自体は最新作を除いてほぼ全部読んでおり、こちらも十分にお勧めできる作品なのですが、個人的にはこちらの「巣来間風助」の方がまだ短く、また内容も面白いのでこのシリーズの入門としてはこっちの方をより薦めたいところです。

 具体的な内容を簡単に書くと、本編同様に怨みを持つ人間から数百万円で復讐を代行する怨み屋に所属する面々を描いた作品です。復讐には社会的抹殺、実質的抹殺(=殺人)の二つがあり、怨み屋の面々はそれぞれの特技を生かして直接的にではなく間接的にこの二つの復讐を果たしていきます。
 本編の主人公である怨み屋はどちらかといえばビジネスライクな性格をしており、自分たちの事を必要悪だと述べた上で、ただ依頼(=需要)があるから処理を行うとおった態度を取ることが多く、過去に被害を受け怨みを持つ人間たちにも突き放すように全く同情したりすることがありません。それに対し外伝の主人公に当たる巣来間はどちらかと言えば脆い性格をしており、悲惨な目に遭った依頼人に同情しては依頼料を負けたり、話を聞くだけで流すなどこれまでと比べて優しい性格をしたキャラとして描かれています。もっとも復讐対象に対しては全く容赦なく、敢えて苦しむやり方で殺害することにも躊躇しません。

 巣来間風助版の魅力を敢えて挙げるとしたら、やはりその主人公の特徴につきます。上記の通り優しい性格をしているため全編を通して観世懲悪的な始末屋物語が展開されるため見ているこっちとしても社会で正当に処罰されない悪人たちがバッタバッタと打ち倒されるのは溜飲が下がり気持ちいいです。また復讐の手段として巣来間は、元来がマジシャンという職業を生かして様々なマジックを生かして意表を突くようにして相手を追い込み、昼間は公務員という設定もあって非常にニヒルなキャラクターが確立されています。

 惜しむらくはこの外伝以降、本編において巣来間が登場するシーンが非常に少なくなっていくという点です。理由は主人公を食ってしまう魅力を持つこと、あと被ってしまうキャラが本編にいることが原因ではないかと思うのですが、私個人としては定期的に巣来間の外伝をもっと展開してほしいとすら願っています。


    
    

2017年5月4日木曜日

日本料理の歴史は何百年?

 先日、仕事帰りの地下鉄に乗っていた所、社内のモニターに醤油の歴史を特集する番組が放映されており、それほど長い時間ではありませんでしたが見入っていました。というのも、実家が野田に近く、キッコーマンの工場も身近にあって休日には工場見学するほど割と醤油には入れ込むバックグラウンドが自分にはあったからです。
 音声もなく短い時間とあってそれほど詳しく見てはいなかったものの、醤油発達の歴史では日本の製法改良なども取り上げられ、その中では件のキッコーマン(中国名:亀甲萬)の名前も登場するなど、あんま詳しく中国の醤油の歴史は知りませんが相応に日本の醤油の影響を受けているようです。

 この番組を見た翌日、また同じように地下鉄に乗りながら内容を思い返しているとまたふと突然に、「醤油の歴史を考えると、日本料理の歴史の長さはどのくらいなのか?」というまた妙な疑問がもたげてきました。一体何故こんなことを思ったのかというと、私個人の意見として日本料理は8割方成立しなくなるほど必須と言える調味料で、「醤油がない=日本料理も存在しない」との判断から、「醤油の成立=日本料理の成立」と言えるのではないかと思ったからです。

 早速資料なしで自分の頭の中だけで考え始め、まず醤油なしで成立する日本料理としては何があるかと考えたところ、パッと浮かんだのは天ぷらでした。後から調べたところ、天ぷらは安土桃山時代に西洋の文化が伝わったことにより生まれたとのことで、大雑把に16世紀頃に成立したと予想されています。これ以外の日本料理となれば餅系、あとは精進料理などで、後者に関しては余りメジャーではないものの日本全国で仏教が盛んとなった鎌倉時代以降は成立していたのではと思われ、ある意味最も長い歴史を持つ日本料理とも言えるかもしれません。

 ではこのほかの代表的な日本料理はとなると、寿司、刺身、そば、すき焼き、カレーとなれば、カレーは別格として他のはやはり醤油なしでは語れません。また味噌を使わない場合は煮物料理にも欠かせず、この辺りから醤油の重要性が高まってきます。
 調べたところ味噌はそこそこ歴史が長く、室町時代には一般にも普及して各地で頻繁に作られていた模様です。その味噌の副産物として醤油も徐々に作られ始め、江戸初期でこそ関西周辺でしか消費されなかったものの、江戸中期には野田などで大量生産が始まり、江戸や大坂などの大都市では比較的一般的に消費されたとのことです。

 実際にそばは江戸時代から、年がら年中ではないものの庶民のファーストフードとして成立しており、めんつゆに醤油が使われることを考慮したらこの時代には醤油が一般的に使われていたと考えて間違いないでしょう。
 このように考えると、現在代表的とされる日本料理の多くはやはり江戸時代を通して成立していったと言えるのかもしれません。寿司などもやはり江戸時代からだそうですし、醤油があって初めて成立するものは江戸時代の普及と相まって出来ていったのでしょう。となると日本料理の歴史は江戸中期くらいと考えて、大体約三百年くらいというのが私の計算です。

 もっとも江戸時代にすべての日本料理が出そろったというわけではなく、牛や豚を食べるようになった明治期にも上記のすき焼きのほか海軍食から発展したカレーや肉じゃがなどが生まれ、昭和期には中国から伝わったラーメンが独自発達を遂げるなどしており、ひとくくりに三百年というべきではないのでしょうが。

 なお「日本料理」というカテゴリーではなく、「和菓子」というカテゴリーで考えれば、恐らく日本料理より歴史は長くなると思います。和菓子は京都を中心に非常に長い間に独自の発達を遂げ、甘味料は当初は砂糖が高価だったため主にでんぷんが使われていましたが、室町時代にはそこそこ現代にも並ぶような代物が作られていたのではないかと思う節があります。
 ちなみにガチな話、京都の和菓子組合に加入するための最低条件は「創業百年以上」で、百年程度では「まだ新参やね」と平気で言われます。ほかの地域は知りませんが、京都の場合はどれだけ歴史が長いかがものすっごいステイタスに化けます。

2017年5月2日火曜日

鯖デ―ナイトフィーバー

 中国は昨日はメーデー(労働節)のためお休みで、土日を加えると三連休でしたが先週も仕事が忙しかったというか神経ガリガリ削られてたのでほぼずっと寝ていました。微妙に気温も高く、自転車こいでどっか行こうっていう気にもならなかったし。
 そしたら日曜になぜか魚を食いたくなり、近くのスーパーで鯖買ってきて家で焼いて食べたりしました。ただその際、包装に使われていたパックを何の気なしに洗うこともせず、そのままゴミ箱に放り投げていたのがそもそも始まりでした。

 翌日、つまり昨日月曜日、その四日くらい前から右側顎関節部が痛かったので何かしらの菌に感染しているとは自覚していましたが、案の定というかこの日になって発熱を催してきました。それでも午前中、またなんか急に火がついて日系企業の海外拠点データ集めに数時間没頭し、一旦昼に外出てカレーチャーハン+エビフライを食べて帰ってきた辺りになると熱でふらふらし始め、ちょっとまずいと思って床に入ることにしました。
 ベッドに寝っころがって呼吸を止めて数秒、何か臭うっていうか魚臭い。現在私が住んでいる部屋は京都の住宅の様に長細い構造をしており、入り口部に厨房があって、その次に食卓部屋、でもってベッドルームと細長く続くのですがその分風通しはよく、厨房のゴミ箱に入れた鯖の包装パックの臭いももれなくベッドルームにまで侵入してきていました。

 直ちにごみを捨てればそれまででしたがこちとら熱であまり動きたくないし早く寝たかったので我慢していましたが、寝ている最中ずっと「魚臭い」と思い続け、既に記憶が飛んでて曖昧ですがなんか鯖関連の夢も見ていた気がします。夕方に起きてようやくゴミを捨てて臭いも遮断できましたが、しばらくは鯖食べるのはよそうと思います。

  おまけ
 さっき自宅に帰った際、部屋の大家のおばちゃんも玄関前にいたので、このまでパソコン用デスクを買っていらなくなったそれまで使っていた机をいるかと聞いたら速攻でいるというのでそのままあげました。本当に中国はリサイクル精神にあふれた国だという気がしてなりません。

2017年4月30日日曜日

最近のカープの好調ぶりについて



 上の画像はYahooから引っ張り出してきた本日午前時点におけるセリーグの順位表です。野球データは順位表しか見慣れていない人からすればやや珍しいかもしれませんが、上記の様に勝率から得失点、そしてチーム打率や防御率なども日々こうしてデータ化され表示されます。
 上記票の通り、現在セリーグは昨年優勝した広島カープが抜きんでて首位を独走しており、一時は勝率が八割近くあった序盤と比べるとややペースを落としているものの、それでもあらゆるデータで他チームを平均的に上回り首位を維持するなど調子の良い状態が続いています。

 それにしてもこうして改めてみると、地味に本塁打と得点、盗塁、チーム打率がトップなんだな。得点に至っては二位以下をぶっちぎっており、記事の趣旨と外れてまうけど面白い。

 さてそんな今年のカープですが、日々の報道を見ていて思うこととしては先発投手陣が実にしっかりしているという印象があります。完投すること自体はほとんどありませんが序盤に最少失点でしっかり試合を作ってからリリーフにバトンを引き渡しており、見ていて大崩れすることがほとんどありません。またこれは私がカープファンでないからかもしれませんが、これまであまり見なかった先発投手の名前をニュースで見ることが多く、昨年から続くエースたちではなく新たに戦力となる投手が続々と登場している印象を覚えます。
 一体どうしてこのような好循環が続いているのか。身も蓋もない言い方をすればカープファンからも「クラッシャー」と呼ばれた大野氏が投手コーチを降りたからということもできないですが、さすがにこの理由は置いといて他の理由を挙げるとすると、一つはカープのスカウトの目が非常に的確であるからでしょう。

 ほかのチームではドラフト一位で獲得した選手が必ずしも芽が出ず埋もれてしまうことが多い中、カープの場合はドラフト上位陣が高い確率でその後チームを支えるスタメンメンバーに入ることが明らかに多いです。きちんと各選手の伸び代を把握した上でドラフトで獲得している印象があり、かねてから外国人スカウトはヤクルトと並んで定評があったものの、国内スカウトにおいても目下、「育成の日ハム」、「地元九州のソフトバンク」と並んで堂々たる実績を作っていると言えるでしょう。

 そうしたスカウト面での成功に加え、やはりここ数年で大きかったのは昨年、「減俸100%だったよ」と冗談を言いながら惜しまれつつ引退した黒田博樹投手の存在ではないかと思います。というのも現在活躍しているどの選手も「黒田さんの影響」という言葉を述べており、降板せずに最後まで投げ切ろうとする姿勢だけでなく、ピッチングや緩急のつけ方などでマウンド上で影響を受けたと話す人が多いからです。
 実際に私も上記証言の通り、黒田氏一人による影響がカープ投手陣を大きく変えたのではないかと思います。カープはここ数年で前田健太投手、黒田氏という大エース二人がチームを離れましたがそれを補うかのようにニューヒーローが続々と登場しており、むしろ年々チームとしての実力が高まっている節すらあります。彼らカープ選手自身が元々それだけの潜在力を持っていたとも言えるかもしれませんが、やはり私の目からすれば大エースの影響を各選手が受け、それを昇華してきたという風に見えます。

 このように考えると、エースという存在は組織において大事であるということがつくづく感じます。実際、ほかのチームを見ているとエースと四番の格の違いがチーム全体に敷衍するように思え、特に日ハムなんか実質エースで四番の大谷選手を欠いたことにより精彩にも欠く状態が続いています。
 個人的にケチをつけると、日ハムの中田選手は高い人気とともにその実力が評価されていますが、私個人は彼をそれほど評価していません。というのも打球は確かに飛びますが、見ていてどうもここぞというチャンスで明らかに弱いように思え、ホームランも大抵試合を左右しないどうでもいい時に飛ばすことが多いように感じるからです。逆に今、四番としてみていて凄みを感じるのは今シーズンは不調が続いていますが横浜の筒香選手で、彼が打席に立った際は試合を一振りでひっくり返しかねないような恐ろしさめいたものを感じます。

 広島の四番については、普段弄られまくってるせいで全然凄みを感じることはありませんが、それでもきちっと仕事を果たす辺りはさすがプロだという気がします。なんていうか今やもう立派なベテランなのに、なんとなくルーキーっぽい雰囲気が絶えないというのが逆にすごい。

2017年4月29日土曜日

車はパクられるうちが華

車もコンパニオンも?肩透かしの上海モーターショー(JBpress)

 また例によって上海モーターショーを取材してきた内容を上記リンク先の記事にまとめ出しました。記事にも書いてある通りに今年の上海モーターショーは目玉が少なく、またEV関連の新技術に関する出展もあまり見られず、中国のEVベンチャーのコンセプトカーくらいしか見ていて面白くありませんでした。まぁ敢えて言えばトヨタが新たに打ち出したキャッチコピーが「Toyota New Global Architecture」を略して「TNGA」と称し、壁やパンフレットなどあちこちで打ち出していましたが、何度見ても「T○NGA」にしか見えず、日本国内限定とはいえ一体どうしてこれ採用したのかと屋y疑問でした。

 さてまた例によってYahoo記事のコメントも読みましたが経済記事な上に連休中とあってそれほどコメントされていないのですが、中国なだけに「パクリモーターショー」と揶揄するコメントがいくつか見受けられました。私の目から見てもこれは確かに間違ってはおらず、やはり中国民族ブランドメーカー車は多かれ少なかれ何かをパクっており、特にトヨタの中国ベストセラー車「カムリ」の影響を受けていると感じる車が多数見受けられました。こうしてパクられることに嫌悪感を覚える日本人は多いと思いますが、私に言わせればデザインをパクられるうちが華で、パクられなくなったらそれはそれで問題です。
 何故かというと、売れていたり人気の車ほどパクられる傾向が高く、逆を言えばパクられないということは市場で人気がないとみなされているも同然です。ここ二年くらいは日本車が絶好調なために本社をパクるメーカーが増えているものの、2013年くらいは日本車が不人気で、この時のパクられ対象はドイツ車がメインでした。やはりパクられなくなるとそれはそれで寂しく、日本車がこうして中国メーカーにパクられるということはもっと前向きに見た方がいいでしょう。

 また日本だとあまりこうした話題が報じられませんが、実際には日系メーカーも散々に他社の車をパクっています。特に激しいのが軽自動車業界で、スズキの「スペーシア」なんて露骨にダイハツの「タント」をパクっており、負けじとダイハツも「キャスト」でスズキの「ハスラー」をモロパクリしています。またリアデザインだけなら異常に個性的なトヨタ「プリウス」をホンダがHV車の「インサイト」でパクリました。
 日系同士のみならず海外メーカーからも地味にパクっており、代表的なのはダイハツの「ミラジーノ」で、独ミニ「クーパー」をサイズだけ変えてパクっており、わかる人からしたら「やばいんじゃないの?」と思うくらいのパクリ具合でした。また世界のトヨタももう十年くらい前になりますが、ミッドシップスポーツカーの「MR-S」で同じくミッドシップのポルシェ「ボクスター」をパクっていました。ポルシェもよくあれで訴えなかったな。

 世の中なんてこんなもんで、私が知らないだけで現行の日系メーカー車種も実は海外メーカー車をもっとパクっているかもしれません。そう考えるなら、パクられるほど注目浴びる車を多く持っている方が華だというのが私の意見です。

2017年4月28日金曜日

アドベンチャーゲームにおけるキャラクター表現の変遷~没個性について

 パソコンデスクを変えてからキーボードの位置が素晴らしくいい位置に来たため、タイピング速度が桁違いに上がると共にミスタイプ率が極度に減りました。案外、見えないところでこうしたタイピング位置のズレが社会の効率を大きく下げているのかもしれません。うちの名古屋に左遷された親父は「HPのパソコンやとめっさ打ち辛い」と言ってましたが、私に言わせればそもそも安いだけのHPを買う時点で問題でしょう。まだLenovoの方がマシじゃないかな。

 話は本題に入りますが最近、昔流行ったとあるアドベンチャーゲームの開発者インタビューを読む機会があり、懐かしさを覚えると共に最近のゲームとの比較で考えさせられる点が多々ありました。その考えさせられた点というのは具体的に挙げると、「最近のアドベンチャーゲームはキャラクターを前面に出しており、作品全体のテーマ性やストーリーが軽んじられている傾向がある」というような指摘でした。
 多少ネタバレさせると、そのレビューで取り上げられたゲームは一見するとSFファンタジーですが裏テーマとしてはカニバリズムや近親相姦といった社会でタブーとされる概念が出てくる場面も盛り込まれてあり、私の言葉で言わせれば文学的な要素というか考えさせられる内容が多分に含まれていました。ただ、そのゲームについてはやや懐古による過大評価な面も多いのではないかという気もしますが。

 必ずしも全部の作品がそうだったわけではありませんが、確かに今現在と比べると90年代くらいのアドベンチャーゲームは作品全体を通したテーマ性が非常に強く重視されていたというのは間違いありません。一方、現代のアドベンチャーを含むゲームのストーリーではそうしたタブーに触れる様なテーマ性よりも圧倒的と言っていいほどキャラクターの造形が重視されているでしょう。キャラデザインという見た目はもとより性格やバックグラウンドなど、ライトノベルの指南本などでも「全体のストーリーはどうでもいいから読者に気に入られる魅力的なキャラを作ることが大事」という風に書かれており、現実に主人公やヒロインのキャラクター性でその手の売上げは全部決まりかねない勢いです。

 具体的に一例を挙げると、90年代におけるアドベンチャーやRPGのゲームでは主人公は「はい」か「いいえ」しかしゃべらないのが当たり前なほど没個性的でした。これはプレイヤーが主人公へより感情移入させるための措置で、何かしらの人格は与えてはならないというような不文律が少なからず当時にはありました。主人公が喋る必要のあるアドベンチャーゲームでも然りで、たとえばサウンドノベルの傑作である「かまいたちの夜」では主人公を含め登場人物はシャドウで表現され、見た目のバイアスがかからない様な処置が施されていました。
 しかし現代のゲームでは主人公がペラペラしゃべるのは当たり前で、見た目ももちろんのことその性格がどうかなどがプレイヤーに吟味されます。ヒロインキャラも同様で、悪かった例で挙げると「テイルズオブベステリア」と「俺の屍を越えてゆけ2」はそれぞれヒロインのロゼと夜鳥子の行動や性格がプレイヤーから大顰蹙を買い、ほぼこの一点でもってクソゲー扱いされる程でした。

 もちろん時代によって流行り廃りはあるのは当たり前ですが、確かによくよく考えてみると「キャラゲー」という言葉があるくらい、現代のゲームはキャラクターへの依存が強くなっている気がして、作品全体のストーリーやテーマで語られることが少なくなっている気がします。もう一つ例を挙げると、「氷点」という小説は知られていても主人公やヒロインの名前まで覚えている人は多くないでしょう。私もその口(ヒロインは「陽子」と覚えている)ですが、この作品における「汝、汝の敵を愛せよ」というテーマはしっかり覚えて今でも強く影響を受けています。

 この評論自体が懐古調なだけかもしれませんが、やはり私から見ても最近のゲームや小説はキャラクターが前面に出過ぎていて、作品全体で深みがやや足りないストーリーが多い気がします。やはりこの二つの要素は相互干渉し合い、キャラクターを追い求めると全体テーマは薄れ、その逆も然りとなります。
 特にアドベンチャーゲームでは遊んでいるというよりは遊ばされているというべきか、主体的というより受動的な印象を覚えるゲームがやはり多いです。そういった意味で敢えてこの時代に没個性的なキャラで挑むゲームがあったら遊んでみたいと少し感じたわけです。まぁドラクエはその姿勢をずっと貫いているけど。