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2019年6月17日月曜日

思わず長生き

 以前はよくこのブログにも書いていましたが、十代の頃は喧嘩っ早いことから(今でもだが)二十歳になる前に何かで死ぬと思ってましたが。それが思わず二十歳まで生存してしまったのでじゃあ次は三十歳で死ぬ前提でそれまでにやることをやろうと中国渡ったりしましたが、現状三十を超えてもまだ生きており、絶対に見ることはないだろうと思ってた2020年代にも突入しそうで、未知すぎてなんかいろいろ怖いです。

 自分が死ななかった理由としては第一に、死なずに済むほど甘い世の中だからではないかと案外本気で信じています。つい先日にも会社の上司に「君は何でもはっきり言い切る」と言われましたが私としては別に言い切るつもりはなく普段どおり話しているつもりなのですが、周りからすると言い辛い内容とかもサクサク口にするようです。
 仮に世の中が世の中であれば、私なんかはまず真っ先に粛清の対象に遭っていたと思うし、私自身もそういうのをやや意図して周囲を気にせず発言することがあります。実際に、まぁ相手が明らかに問題のある人間だったというのもありますが、無駄に目をつけられ妨害を食らうことはあったものの、いきなり暗殺みたいな目には流石にまだ遭っていません。

 というかこんだけ長生きしてしまうと人生設計が狂ってしまうというか、別に収入に困っているわけではないもののこのあとどうやって生きてきゃいいのかという点でよく悩みます。一応周りから頼まれるのでJBpressで記事書いたりしていますが、私自身が何が何でもやりたいということは最近ホント少なく、戦闘機プラモもグリペンとF15、F14を除けば比較的新しい世代の機体はほぼ作り終えたので、次は戦車かとは少しよぎるもののあんまこっちには魅力感じません。

 私のような死生観はまず間違いなくレアだとは思いますが、逆に私の目から見て普通の人は一体いつまで生きれば満足するのか、その点でよく疑問です。現時点でもはっきり言えば、たとえ普通の人が70年位の人生でどれだけ努力したところで追いつけるはずもないほどの知識を私は溜め込んでおり、相手の見ている風景は私も見れないものの、私が見ている風景は普通の人には絶対に見れないと言い切れるくらいの境地に自分は立っています。
 年令をいくら重ねてもどうせこの境地には来れないのだし、また何らかの願望があるにしても、マスターピースのような芸術作品を一生かけて作るならまだ理解できるものの、そういうものや願望なしに何歳まで生きれば満足とか、なんかその基準のあやふやな姿にいつも疑問を覚えます。

 ここでまたはっきり言えば、恐らく多くの人にとっては平均寿命以上までは死なないというのが一つの目標となっている節が見えます。無論、平均寿命というのはただの統計であり、これを超え雨ようが下回ろうがそこに大した意味はありませんが、それでも多くの人は平均寿命を一つの目標として捉えて年金などの資金計画を立てているように見えます。
 それはそれで一つの願望ではあるので否定はしませんが、どうせだったらもっとはっきりとしたもの、今すぐにでも取り組まないと間に合わないようなものを追いかける方が人生的にはいいのではないかと勝手ながら思います。もっとも私は前述の通り、三十歳までに一通り果たすべきことは果たし済みなので、今更やることはなくとりあえず周りに求められる仕事を淡々とこなしつつ、早く車とかに撥ねられて死なないかなといつも考えてます。

2019年6月15日土曜日

リサイクルされていなかったプラスチックのお話

 今年はじめに中国で去年から一部都市でゴミの分別が始まったということをこのブログ、あとJBpressで報じましたが、今度七月一日からは試行ではなく義務化され、違反者には罰則も課すなど強制的な措置に変更されます。これにビビっているのが私の友人で、「分別なんてできないよ」というのですが、

「いやでも君、日本に住んでたじゃん。埼玉とかは分別厳しいじゃん」
「いや、あのときは何も考えず全部一緒にして捨ててたし(´・ω・`)」

 という、中国人らしい回答を受けました。まぁ見方を考えると、別に間違っているわけでもないのですが。

中国「もう廃プラスチックいらねえ」日本&アメリカ「マジ?これからどうすりゃいいの?」(はちま起稿)

 先日に上の記事とそれに付随するネットの掲示板をいくつか見ましたが、ちょうど十年くらい前はプラスチック、特にペットボトルの再利用ことリサイクルとリユースが叫ばれ、協力しない奴は非国民だとばかりに大きくプッシュされました。
 この時期について以前に私は、「景気が良かったからではないか。景気が良いときほど環境問題がピックアップされやすい」と指摘し、ちょうど2008年のリーマンショック直前が最盛期で、それからは徐々にすぼんでいきました。

 ブームがすぼんでいった理由としては、ペットボトルキャップリサイクルなど誰がどう考えても不合理なリサイクル方法がプッシュされて疑問に呈されたこと、リサイクルを行うほうが地球環境にとってはマイナスなどと武田邦彦氏が主張してそれが受け入れられたことなどがあります。あれから十年たった今、やはりリサイクル反対派の主張が正しかったと伺えるのが上記のリンク先です。

 読んでみてもらえればわかりますが、これまでリサイクルすると言って分別が強制され、回収されていたプラスチックごみはほぼ全て、中国など第三国へ輸出されていただけでした。この点については武田邦彦氏も廃棄物を第三国へ輸出してはならないバーゼル条約に真っ向から違反しているなどとかつて指摘していましたが、これまでは日本においては「ゴミ」なのに「資源」と称して中国へ輸出されていました。
 中国ではこれらの廃プラスチックを使って二次加工などをしていましたが、普通に考えてあまり環境や衛生にいいものではありません。そうした背景もあって中国が2017年末にこうした廃プラスチックの輸入を規制したところ、日本のペットボトルゴミに代表される廃プラスチックは行き場を失いました。それでどうすることにしたかと言うと、中国以外の東南アジア諸国へ輸出したり、この際だからもう燃やしちゃおうぜとかいい出しているのが現状です。

 実際、これは武田氏が特に強く主張した点ですが、プラスチックを燃やした際に生じるダイオキシンの毒性はそれほどでもないとされています。そもそも、ダイオキシン対策に日本のごみ処理炉は高い火力を備えるようになったので、現状でそのまま他のゴミと一緒にくべても特に支障がない、というか第三国へ輸出するよりはずっとマシでしょう。
 そもそも、回収されたプラスチックゴミは国内でリサイクルされているという建前でした。しかし現実はリサイクルは行われておらず、回収した自治体などは恐らく仲介業者などを通して中国への輸出により小銭を稼いできたのが実態だったようです。私としては別に隠す必要があると思える事実ではないのですが、回収や輸出を行っていた側からすると「リサイクルに回します」という嘘をつかざるを得ない事情があったのでしょう。

 このように考えると、ペットボトルはむしろ今は直で燃やす方が地球環境的にも、対外関係的にもプラスだと言えます。中国に来て自分も気が付きましたが、日本の分別方法は細かすぎてかえって効率を悪くさせているとみえるところがあり、この際だから有識者を交えて抜本的に合理的な方法へ変えるべきでしょう。
 もっとも、変える能力すらもはや今の日本の自治体にはないと分かって言っているのですが。

2019年6月13日木曜日

小説などによる誤った歴史の流布について

 最近仕事忙しくて寝る時に奈落に落ちるような感覚がして目覚め方も非常に悪く、昼食後に昼寝するけど起きた後しばらく正気に戻れず「これ逆効果じゃね?」と思いつつも、昼寝せずにはいられない生活を続けています。
 ちなみに正気でいられない間は無駄にホームズで奈良の賃貸物件とか眺めています。近鉄奈良駅近くで検索しているのに、「近鉄奈良駅までバス18分」とかの物件が表示されるのは内心どうかと思います。

「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る(現代ビジネス)

 奈良なんてどうでもいいから本題に切り替えますが、今日読んでて気になったのが上の記事です。記事中では「逆説の日本史」でお馴染みの井沢元彦氏が名指しで批判されていますがそれは置いとくとして、この記事で言われている、「面白いから」という理由だけで特に根拠のない歴史上の推論や説が漫画や小説などで大きく取り上げられ、それがさも事実であるかのように流布するという事実については私も前から懸念していました。
 それこそ、疎開時代の上海で北斗神拳を操る男が大暴れするようなフィクション上等な歴史ファンタジー漫画とかであればこういった「怪しい説」を取り上げるのは別に問題ありません。しかし中にはさも史実に沿っているかのように展開、説明しつつ、所々でトンデモ論を注釈無しで出し、読者にそれが史実であるかのように誤解させてしまう作品はすくなくありません。

 また執筆、発行当時に有力視されていた説であっても、その後の新資料発掘によって事実関係が否定されてしまうというケースも多々見られます。具体的には司馬遼太郎作品にこの手のパターンが多く、司馬遼太郎は一切悪くはないのですが、なまじっか作品が有名過ぎてその後もかつて正しいと見られた誤った説が正しいと信じ続けられてしまうということも見られます。

 なお私の生きた時代で言うのなら、資料でいうと「武功夜話」がひっくり返りの代表格です。出た当初はなんかやたらもてはやす人がいて画期的資料と言われましたが、現代は年号などの記述の誤りなどから資料的価値はほとんどないと見られ、私も正直信用していません。第一、内容が面白すぎると言うか、世間に阿り過ぎな点で怪しかったというべきでしょう。

 話を戻すと、記事ネタに困るそばから歴史ネタを引っ張り出す私もこの点についてはいつも憂慮しており、ブログならまだしも、JBpressで出す記事に関してはいつも注意するようにしています。具体的には、「史実かどうか曖昧な内容は絶対に書かない」、「異説のある内容については注釈をつける」などという対処をしています。
 特に後者に関しては、先程も書いたように現代では正しいと信じられていながらも、将来的にひっくり返る可能性のある内容と言えるだけに、逃げ道を作っておくように(異説あり)という風に記述するようにしています。

 またその事実がごく一部の証言者によって支えられている場合、その証言者名を敢えて出すようにしています。こうすることで、証言者が嘘をついていた場合は自動的に自分の記述も修正される事となるよう図っています。もっともどれだけ努力したところで後年に事実がひっくり返ることは多々あるため、限界はあるのですが。

 ただこうした配慮を全くしない、というよりむしろ怪しい説をさも真実であるかのように取り上げる文物は少なくありません。それはやっぱり娯楽性が高いからというのが最大の原因で、トンデモ論とかそういったものは容易に人の興味を引くからでしょう。その上というか、歴史学者も自らの功名心のために敢えて目立つようトンデモ論を主張することが少なくなく、古事記と邪馬台国を結びつけようという主張はすべてこの手のトンデモ論だと私は考えています。

 もちろん正しいだけの歴史を語るのは野暮で、いくつか怪しい説もフィクションとしてなら取り上げたりするのは大賛成です。ただやはりそれはフィクションと断らなければならず、そうした配慮というか自制を自分を含め強く意識しなければとよく思います。

 ちなみに誰がどう見てもフィクションとわかるけど、宮下あきら氏の「天下無双 江田島平八伝」にはマッカーサーとか毛沢東、溥儀とか出てきますが、フィクションの度合いが凄すぎて、「よくこんなに想像膨らませられるな(・_・;)」と逆に感動しました。あそこまで無茶苦茶に史実の人物を動かしてくると、むしろ史実ってなんだっけと逆に疑問を感じてしまうからすごい。

2019年6月12日水曜日

打ち切られるWebサービスについて

 先日、Google+がサービスが打ち切られ終了しましたが、Yahooブログも確か今年年末で打ち切りになると発表されてました。これらに限らずWebサービスが打ち切られると利用者は一気に放り捨てられることとなり、まぁダメージはそこそこ大きいです。
 もっとも、Google+についてはあまりにも使い勝手悪くて利用者いなかったから、誰も損しなかったような気がするけど。地味に私は少し影響受けてて、このブログのプロフィール写真をいつの間にかGoogle+と連動されていたため、こちらのサービス打ち切りに合わせてイメージ画像を切り替える羽目となりました。

 今まで打ち切られたWebサービスの中で個人的に強く記憶に残っているのは、ほかならぬYahooツールバーでした。何故かと言うとこれ、サービス開始当初にはしつこいくらい、「使ってみませんか?」とポップアップ広告が出てきて、間違えてクリックしてしまってインストールされてしまったことも何度かあり、とにかくそのしつこさに我慢ならないというか苛立った代物だったからです。
 結局、2017年にサービスが終了しましたが、「あんだけしつこく人に使え使えと言ってた癖に、何勝手にサービス終了してんだよこいつは!」と、使ってもいないのにサービス終了発表を見て殴り込みかけようかと思うくらい激怒していました。

 しかもその時期、なんかやたらとRSSリーダーサービスが次々と終了されました。複数のブログを見るため私も利用していたのですが、終了するそばから新しいのを見つけなくてはならずで、非常に嫌な時期を一時期過ごしてました。現在はFeed Watcherを使っていますが、なんとなく見ていて運営もこのサービスやめたそうにしか見えないため、将来はわかりません。

 そういうことを言えば現在つかっているこのBloggerことブログサービスも、さっきのYahooサービスのように打ち切られる可能性もなくもないです。ブログ自体00年代中盤に流行って以降はその後はずっと右肩下がりで、芸能人とかのブログは人気ですがそうでない個人間のブログに関しては実質SNSに代替されきっています。一応老舗のブログサービスは今でも続けられていますが、やはり連動性の面で他のWebサービスとうまく合わせられないところがあるように見え、今後淘汰が始まるのではないかと勝手に予期しています。
 私の場合はその場合、サーバー借りて個人ブログを運営することもできますが、そんなサイトにはこだわるつもりはないためできることならこのBloggerを使っていきたいものです。でもこれも見るからに、Googleは機能とか充実させようというやる気が全く見えず、Google+と同じ末路になるのかもしれません。

2019年6月11日火曜日

老後は2000万円必要な報告について

 前略、報告書の中身については省略していいたいことを書くと、一体何が今議論になっているのかよくわからない感じです。このほど出た金融庁の報告書によると、今後年金を65歳から毎月21万円もらえる夫婦が95歳まで生きてく上では、年金の他にも2000万円の貯蓄(一ヶ月辺り5万円)が必要だそうです。ただ、そもそもの前提として夫婦で毎月年金を21万円もらえる世帯は実際にはそんな多くないと既に指摘されており、また2000万円の貯蓄も言うは易いが実際貯めるとなると大変で、なかったらどないすんねんという対策については何も書かない放置ぶりで、ある意味すごい報告書です。

 この報告書で疑問な点はいくつかあり、一つは30年期におけるインフレ率などは考慮されているのかということです。まぁ日本はずっとデフレだから気にしなくていいと言われたらそうかもって気になりますが。
 次に、2000万円という数字を出して何がいいたかったのかという点です。国民に2000万円貯蓄して自己防衛しろと促しているのか、ためた貯金に資産運用がつ必要だと言って国債買わせようというのか、政府に2000万円分の老後補填をしろと促しているのか、どれもはっきりしません。

 なお報告内容を事実として受け取って政策に活かすとしたら断然三番目で、2000万円分の老後世帯への収入補填を政府が考えるべきだと思います。何故かと言うとこれをしないとあらゆる面で弊害が出て、一つは誰もが貯蓄に走ってキャッシュ・フローが悪化すること、二つは金の切れ目が命の切れ目とばかりに老後に生活破綻者が続出して社会問題化すること、三つは政府画は老人を切り捨てると受け取られ国民の不信を招くことといったところです。

 しかし仮に補填するとしたら当然原資が必要であり、となると税金を上げるか資産没収をするしかありません。そうなると現役世代の負担は大きくなるわけで、特定世代が赤い彗星みたく人身御供になるしかないでしょう。そういった方針で国が一致団結するのなら私は別にいいと思いますが、そのような覚悟は国民にも政府にもないと思えるだけに、ならなんでこんな報告書出てくるんだって言う話になるわけです。
 手っ取り早い解決方法としては前にも少し話しましたが平均寿命を縮めることで、極端なことを言えば60歳あたりでみんな死ぬようになればあらゆる高齢者問題は解決しますが、もちろんそんなことは現実不可能です。そもそも95歳まで生きる前提で試算されていますが、目下の平均年齢は80歳前後と考えると、実際には平均的に必要な貯蓄額は約半分の1000万円という風になるわけですが、こちらも現実には80歳でピタリと死ぬとは限らないため、予見不能リスクは半端なく高いでしょう。

 そういう意味ではどれだけやはり年金が一番頼りになる制度のはずなのですが、目下の日本の年金ほど頼りないものはなく、更に今回の報告書は年金の信頼性をある意味で根本的に自己否定しているだけに、繰り返していいますが方針が全く見えません。そういう風に考えるだに、今回の報告書は金融庁の自爆テロのようにすら思えます。

2019年6月10日月曜日

引きこもりの息子殺害事件について

 昨日の記事に書き忘れましたがこの前のサイクリング中、前を走る50代、60代の古参メンバーの足の筋肉がめちゃすごいレベルで発達している事に気が付きました。というか数年前と比べて明らかに巡航速度が上がっており、別の古参メンバーとともに、「絶対前より速くなってる」、「知らないうちにメンバーがパワーアップしている」などと、付いていくのが辛くなった気持ちを共有し合いました。
 あとこの日170キロ走ったけど、筋肉痛とか一切ないのに自分でもびっくりでした。

 話は本題に入りますが、やはりネガティブワードは流行が早いなと思うというか「子どもおじさん」という言葉がすごく流行ってきました。またこの言葉の流行に合わせたかのように、川崎での通り魔事件と、元事務次官の息子殺害事件が相次いで発生し、年齢の高い引きこもり対象者への関心が非常に高まってきています。
 上記の二つの事件のうち、川崎の通り魔事件については非常に痛ましい事件であったものの、以前にも同じような通り魔事件が発生していることからそれほど犯人について興味はいだきませんでした。「無敵の人」とか、「一人で死ねとか言うな」などというキーワードが議論となっていましたが、どちらも議論が浅くで終わる上にあまり事件の実態を貫いていないように思え、正直つまらない議論だと感じます。

 一方、元事務次官の息子殺害事件についてはその後のドラクエザオラル騒動が皮肉っぽい結末でちょっと面白いと感じましたが、それ以上に同類と言っていいものか少し悩むものの、私が見て似ていると感じた事件が過去にありました。

浦和・高校教師夫妻による息子刺殺事件(オワリナキアクム)

 四の五の言う前にリンク先を読んでもらうのが一番早いですが、かいつまんで言うと1992年に起きた両親による23歳のフリーターの息子殺害事件です。死人を悪く言うのもなんですが、説明されている事件内容を読む限りだと殺されても仕方のない奴だなと正直思え、司法もそのように判断したか両親に対して執行猶予付き判決を下しています。
 この殺された息子は高校、大学を中退した上、家庭内暴力を繰り返し、母親に「ラーメン作れ!」と命令して一口食べるや「まずい!」と言って丼ごと投げ捨てたり、親の金で遊び回ったりと、もし自分が親であっても殺すだろうとはっきり思えるくらいのクズです。ただ今回の事件と違うのは普段から外出はしており、焼肉店でアルバイトなどはしていたなど、引きこもりであったわけではありません。

 この事件で私がとみに興味を感じるた点は、殺された息子の危機管理意識についてです。引用した記事によると両親がまさに殺害を決意した夜、アルバイト先のマネージャーに対して息子は、「家がまずい。出ないとまずい」と話していたいそうです。にもかかわらず彼は深夜バイト後に帰宅した後は呑気に寝始め、頃合いを見計らっていた両親によって包丁で一突きされています。
 この際、不運というか包丁は心臓を外れた上、刃先が折れてしまいました。母親が代わりの包丁を取ってくる間にこの息子は父親に対し、「許してくれ。俺が悪かった。お願いだから殺さないでくれ」と言ったそうですが、これまで度重なる家庭内暴力に我慢していた父親には通じず、止めを刺されています。

 自分が不思議に思うのは、なんでこのバカ息子は「やばい」と感じていながら家を出るなりといった防衛手段を取らなかったのかということです。危機意識は割と正常に、というか殺される前夜にピタリと的中する発言している辺りは鋭いとすら思うのに、実際の退避アクションを何故取らなかったのか。そんなんじゃ危機管理終了だよといいたくなるようながっかりぶりです。
 また殺される直前の発言からも、自らの愚行が両親を殺害行動に駆り立てたということをほぼ自覚していながら、どうしてそれを改めなかったのかということです。命乞いをしなかったのならまだ理解できるものの、殺されたくないのであれば殺されまいとする態度を取るべきでしょう。しかし「このままじゃやばい」と思っていながらそうした対応すら取らなかったということは、殺されたくはないけど殺害されるリスクを自ら引き上げているような状況を作り出しているように見えます。

 極端な話、破滅願望があって自らの被殺害リスクを自ら引き上げるのなら理解できますが、殺されたくないのに自ら引き上げる、具体的には両親を煽る行為を取るというのは、生存本能的に生物として終わっているように見えてなりません。それだけにこの殺された息子について私は、わがままで両親に対する一連の無作法な行為より、生存本能を無視する行為というべきか、「どうせ何やったって殺されるまではないだろう」という高をくくった態度の方が癇に障ります。人生というのはいいか悪いかではなく生きるか死ぬかだと普段から考えているだけに、この生き死にに対する舐め腐った態度の一点でもっても死ぬべき人間だったろうという点で、この事件は強く印象に残っていました。

 締めに入ると、報道を見る限りだと今回の元事務次官に殺害された息子も家庭内暴力を繰り返していたとされ、1992年の事件の息子と私の中で非常に被ります。どちらも、親に対してどんだけ辛く当たっても殺されることはないだろうという甘えの入った高をくくった態度が見え、案の定というかその甘い想定が崩れたことで逆襲を受け身の破滅を招いています。どちらも生存本能が破綻というかおかしくなっているように見え、たとえ両親の手によるものでなくても、自然界の法則的に処分される結末のほうが自然の原理に則しているように私には思えます。

 引きこもりであっても、死にたくないと思うのなら死なない、殺されないような態度や手段を取るべきでしょう。無論、そうした努力を取ったとしても世間や庇護者が認める基準に達せず何らかの原因によって死んだり殺されたりすることは十分ありえるしそれも現実だと思いますが、そうした者たちについてはまだ理解できるし、如何なる死に方にも同情が湧きます。しかし、「やれるもんならやってみろ」と言わんばかりに限度の外れた行動や、庇護者への挑発行為を繰り返す者というのは、飛んで火にいる夏の虫というべきか、その時点で生物としては本能的にある意味死んでいる生物だと私には思え、どのような死に方をしたところで全く感情を覚えません。強いて言えば、死体処理がやや面倒だろうなってくらいでしょう。

 何がいいたいのかと言うと、死ぬべき人間がただ死んだだけなので騒ぐことかと言われたらそうではないものの、それなりにニュースになっている辺りは、「そうそう簡単には殺されない」という意識がまだ社会で強いのだろうなというのが私の見方です。

2019年6月9日日曜日

また170キロ

 昨日またサイクリング部の活動があったので、隣の昆山市まで行って、サイクリングして、でもって上海まで帰ってくる往復170キロ耐久レースをやってきました。あとで歩数計見たら1日で47000歩行ってて、実際朝6時に起きてから昼食、休憩するときを除きほぼずっと自転車漕いでました。

 漕いでる最中、大体130キロくらい走っていたところで、「俺の生命保険証書誰に預けてたっけ?」とリアルで死がよぎりました。まぁその後から頭痛とか鳴りやんだのでずっと楽になりましたが。