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2024年2月21日水曜日

中国側から見た倭寇

 この前デザインをリニューアルしたヤン坊とマー坊は「ヤクザのヤン坊、マッポのマー坊」で、二人はおいつ終われる関係にあると脳内設定しています。

倭寇(Wikipedia)

 それはさておき今日のお題ですが、この前ふと気になったことから中国語媒体で倭寇について調べてみました。なんで調べようと思ったのかというと、日本側の倭寇に対する見方や解釈で中国側と相違がないかという風に思ったのと、自分の経験からもしかしたら、中国側の方がこの手の解説が充実しているからじゃないかと思ったかからです。結果から言えば、自分の想定通りでした。

 まず日本側の見解、特に前期倭寇は日本人が主体であったのに対し後期倭寇は中国人(当時は明)が主体であったとする学説に関しては、中国側もほぼ全く同じ見解を持っているようです。後期倭寇に関して中国でも具体的な中国人指導者名を挙げ、日本人もいただろうが末端の構成員に過ぎないという風に解説していました。

 次に中国側の解説を見てなるほどと思った点を挙げると、日本人が主体であった前期倭寇に関して、その正体は海賊というよりも南朝方の残党だったのではという説明がありました。
 倭寇が活動した室町時代初期、日本は南北朝の動乱時代にあり、九州は特に南朝の勢力が強い地域でした。その南北朝時代は三代将軍の足利義満によって終止符が打たれますが、敗北して土地を取られたり、中央地域から逃れてきた残党らが海賊となり倭寇となった説を挙げていました。

 この説の真実味がある点として、足利義満が日明貿易を開始するにあたり、明側からの倭寇取り締まりの要請に応じた点が挙げられていました。義満にとってすれば明との貿易で得られる利益は非常に大きいうえに、倭寇を取り締まることは南朝の残党勢力掃討にもつながるだけに、一石二鳥だったからこそ明側の要請に快く応えのではという風に説明されていて、私としては非常に納得感のある説明に思えます。

 一方、この前期倭寇の段階でも中国人主体の倭寇団体が存在していたという風に中国側では説明しています。その勢力というのは明、正確にはその開祖の朱元璋と中国統一前に天下を争った張士誠の残党たちで、彼らも日本人らと組んで海賊行為を行っていたとしています。

 そんな前期倭寇ですが日明貿易の開始とともに幕府の取り締まり、恐らく名将と名高い今川貞世の九州統治が働くようになって一時消失したそうですが、義満が死んで四代目の義持の時代になると日明貿易が打ち切られ、それに伴い倭寇取り締まりもなくなって再び活動するようになったそうです。その後倭寇は後期倭寇へと変わっていくのですが、最終的には豊臣秀吉の九州平定が成ったことで治安が回復され、倭寇の拠点であった九州の島々でも取り締まりが行われて完全に消失したとされています。
 なお中国の歴史書では豊臣秀頼の朝鮮出兵も「倭寇」と表現していたそうですが、単純に当時の日本蔑視からくる言葉で、海賊としての倭寇を表しているわけではないと中国側でも解説されています。

 それでこの倭寇ですが、まぁ単純に食うに困って海賊行為をしていたのはわかるのですが、その実入りはどんなものなのかというのがちょっと前から気になっていました。この点について中国側の解説(百度百科)によると、中国と比べて当時の日本ではまだ工業が発達しておらず、衣類などの軽工業製品が異常に高値で売買されていたそうです。具体的には、恐らく銀本位での価値でしょうが、中国での売値に比べ日本での売値は十倍くらいも差があったそうで、だからこそ中国沿岸で強奪してでも日本に物を売りに行こうという海賊が現れたということになります。

 またこれは倭寇について、日本国内ではあまりその被害について触れられないという理由の裏付けにもなると思います。中国側での倭寇の被害は相当なもので、単純な経済的損失だけじゃなく鎮圧に向かった軍隊が逆襲にあって指揮官が何人も死んでたりするそうです。そうした被害の話は日本国内ではあまり聞かれないだけに、「倭寇を止めて」という明側が室町幕府に要請した話も私は子供の頃、いまいちピンときませんでした。
 倭寇からすると日本は強奪した品物の販売先にあたるため、盗難品を横流しすることはあっても襲うことはなかったのでしょう。むしろ襲うことに何のメリットもなく、また日本側からしたら正規の貿易で仕入れるよりも盗難品を安く手に入れられたであろうことから、倭寇取り締まりに対し抵抗する商人や勢力もいた可能性があります。

 このように考えると倭寇というのは、当時の経済貿易を見るうえでも非常に重要な指標足りうる気がします。また倭寇自体、私は日本人とか朝鮮人、中国人のどれであったかという議論はそもそも大きなトピックだとは思えず、現代のように国家意識がはっきりなかった時代なのだし、もっと単純に環東シナ海系住民として捉え、当時のこの地域における人や物の流動を調べる対象として研究すべきじゃないかと思います。

 しかし日本側において、ほぼ確実に倭寇の根拠地であったと推察される対馬や壱峻島はあまりこうした倭寇関連の研究に熱心ではない、というより博物館などを見る限りだとむしろ隠そうとする傾向すらあります。やはり海賊行為だから後ろめたさがあるのではないかと思いますが、当時のあの一帯がどうであったのかを調べるためにも、ありったけの夢をかき集めて研究を盛り上げてもらいたいです。
 もっともこれは対馬と壱峻島に限るわけじゃありません。色々な解説を読む限りだと、沖縄などの島々も倭寇がいたとされ、恐らく九州の沿岸地域においても倭寇の拠点があったと思われます。こうした地域でも探し物探しに行くように、地域の海賊史を調べてほしいです。

 以上のような後ろめたさからやや乗り気でない日本と比べると、被害記録も残している中国の方が倭寇に関して詳しく調べられる気がします。私自身も結構関心を持っているテーマなだけに、今後も何か中国語媒体で発見があったらどんどんここで書いていくつもりです。

2024年2月19日月曜日

今の日本の株価は高過ぎか?

 最近興味が薄れたこともあって日本経済に関する記事を一切書いていませんでしたが、ぶっちゃけ空前の株価上昇が続いており、トレーダーやファンドからすれば毎日パーティしても物足りないくらいの盛り上がりようじゃないかと思います。あのバブル期に記録した史上最高値にも迫っているのですが、その一方で現在の株価は高過ぎでは、実体経済を反映していないのではないかと警戒する声も見られます。
 結論から言えば、私は今の株価は適正、というよりはもっと上がっても別におかしくはないのではないかと楽観視しています。このように考える理由は主に以下の通りです。

・日本経済に不安要素がほとんどない
・半導体をはじめこれまでなかった外国から日本への投資が増えつつある
・デフレからの脱却が明確ともいえるインフレ傾向が続いている
・それでも諸外国と比べ物価が低く、上昇余地がある
・物価上昇余地があるので、日銀も量的緩和を維持し続けられる
・円安傾向が続いており、疎外する動きはない
・円安が過剰な領域に行きそうになっても、日銀としてはそれを抑える手段がたくさんある
・隣の中国からマジで日本へ投資が移ってきている

 ざっと言えばこんな感じです。敢えて言えば日系企業が海外で稼ぐ能力は確かに20年前と比べると弱まっているでしょうが、その一方でエレキを筆頭とする弱体化した産業はこの10年間の間にほとんど淘汰され、ある意味で失うものがもうほとんどない状態になっているように見えます。そうした見方から一番上の「日本経済に不安要素がない」という判断に至ったのですが、中国での売り上げが大きい日系企業からすれば中国の不景気を受けて打撃を受ける可能性はあるとも見ています。

 で、肝心となるのは最後の中国から投資が日本に移ってきている話ですが、これは周りでも実際よく聞きます。最近の日本の株価上昇を見て、早く日本株買っとけばよかったとか、中国株でやばいくらい損しているという話を周りからよく聞きます。日本とは逆に中国市場は好材料がなく、反対にこれから悪くなっていくという予想も高いだけに、日本に限らず今後中国の投資家はどんどんと海外の株や金融商品を買いに出ていくと思われます。まぁそしたらそしたで、中国政府は海外株購入に制限を書けるんだろうな。

 ちなみに中国では最近、年金に対する不安がこの1年で急激に拡大したように思えます。そもそも少子化もあって子供からの扶養に期待できないというのもありますが、先行きが懸念される経済を受け、急に政府の年金制度に対する信頼が揺らいできています。自分の周りでも、個人年金を購入しようと検討し、自分に相談してくる人がなんか増えてきました。
 ただ中国の場合年金に関してはまだ対応策はあるというか、定年年齢の引き上げ余地があります。現在男性は60歳で、女性は55歳または50歳となっており、日本並みに65歳に引き上げ、年金支給年齢を先延ばしにすることがまだ可能だから、こっちはそこまで心配しなくてもいいかなと勝手に考えています。

2024年2月17日土曜日

女性が恋愛物でカップリングにこだわる理由の仮説

 過ぎ去りし日はもう戻らないけど今日は春節最後の休日です。まぁ人とほとんど会わずにのんびり過ごしたから気力満点というか、いい感じに暇を覚えて仕事したいなという気分なので悪くはないですが。

 それで話は本題ですが、かねてから女性が恋愛物のドラマや漫画などで、恋人同士となる伽rかうたーの組み合わせ、いわゆるカップリングに異常なこだわりを見せるのが気になっていました。正直、この感覚は男の自分からしたら全く理解できず、一体何が楽しいのか、かねてからずっと不思議でした。
 唯一近いなと感じるものとして、ガンダムなどのロボット物の作品でどのパイロットにどんな機体を宛がうのか、この手の組み合わせをあれこれ考えるのは確かに楽しいです。スパロボとかギレンの野望なんかはまさにこの楽しみを反映するゲームといえるのですが、スパロボに関してはあれこれ悩んだ挙句、結局原作通りの機体を宛がうことが自分には多いです。カミーユの乗っていないゼータガンダムなんてゼータじゃないし(´・ω・)

 話は戻しますがこのかねてからの疑問に対し、BL大好きな中国人女性の同僚に思い切って聞いてみました。その同僚によると、カップリングについては自分が考えている通りに確かに大好きだそうで、以前には「前読んだBLでは戦闘機のメインとサブパイロットという組み合わせだった(´・ω・)」という話を聞いてもないのに説明してきました。
 このカップリングを女性が何故好むのかについて単刀直入に聞いてみたところ、「女性は恋愛劇をちょっと距離を置いたところから、観劇するように客観的にみているからでは?」という、ちょっと想定外の答えが返ってきました。でもって、この答えを聞いて自分の中でこれまでのいろんな要素が一気に直列つなぎにつながりました。

 結論から述べると、こと恋愛劇に対して男性は主観的にみるのに対し、女性は客観的にみる傾向が強いのではないかと思います。この違いによって、カップリングで盛り上がるか盛り上がらないかが湧かれるのではないかという仮説を立てました。

 この仮説のヒントとなったのは上記の同僚の証言と、セクシー恋愛漫画の「ToLoveる」の作者の矢吹氏が以前行ったコメントでした。その矢吹氏のコメントは何かというと、「漫画の中で主人公(リト)以外の男性キャラには女性からモテたり、ラッキースケベ的なシーンは作らない。何故なら主人公以外にそのような場面があると、読者は興ざめするから」といったコメントを、確か初代シリーズ単行本のコメントに書いていました。
 この矢吹氏の考えに沿うと、男性は恋愛漫画や小説において男性の主人公や主要キャラクターに自身を投影しているというか、自分がそのキャラクターの目線や立場に立って、それらキャラクターを自らの分身に見立てながら作品を消化していると解釈できます。だからこそ主人公以外の別の男性キャラクターが主要ヒロインとかと仲良くなり始める展開、具体的にはNTRな展開に対して強い拒否感を持つ男性もいるのではないかと思います。
 まぁ、NTRが好きな人も結構多いらしいけど……。

 それに対し女性は、作中のどのキャラクターにも自信を投影していない、没入感を持たずに内容を消化しているのではないかと思います。男性キャラクターはおろか女性キャラクターに対しても自身と同一化せず、さながらオペラを見ているような感じで男性、女性キャラクターの双方が紡ぐ関係性に対し視点を当てているのではないかと思います。前述の通り男性は恋愛劇を自分が作中の男性キャラになった気分でヒロインの女性キャラに恋心を持ちながら主観的に見るのに対し、女性はあくまで客観的に、男性キャラと女性キャラのイチャコラぶり、言い換えると両者の組み合わせや関係性に着目して恋愛を見て楽しんでいるのではないかというのが自分の見立てです。
 もっとも女性の場合、男性×男性の組み合わせの方が盛り上がってそうだけど。

 こうした考えを持つ理由は他にもあり、心理学において男性に比べ女性は共感性が強いということは割と多方面で指摘されています。男は物事を主観的に見るのに対し、女性は相手の立場や視点に立ってみることが多く、だから相手の痛みを考えないシリアルキラーは男性より女性の方が少ないとされています(漫画の「サタノファニ」によると)。

 また男性に関しても、恋愛漫画でも主人公が読者の立場に近いほど男性読者に贔屓にされる傾向があるような気がします。超金持ちな男性主人公と平凡な男性主人公では、やはり後者の方が作品として男性から支持されやすいように思え、かつての「電車男」を例にとると、いわゆるオタクな主人公だと自己同一化しやすいためオタク層により支持されたのではないかとも思えます。
 逆に女性だと、女性が指示する恋愛物で読者の立場に近い女性主人公(ヒロイン)はなんか少ない気がします。代表的なのはお姫様キャラで、そのほかもバリキャリなオフィスウーマンとか、偏見かもしれませんがなんか現実味の少ない女性キャラが多いような気がします。

 以上を踏まえて言うと、恋愛物に求める要素は男性と女性で真逆に近いほど異なっている可能性があります。男性は主観的に見るので、ヒロインはともかくとして男性キャラは身近であればあるほどよいのに対し、女性は客観的に見る、っていうかファンタジーを求めている可能性もあるので、ありえない組み合わせな男性キャラと女性キャラの方が支持されるのではないかと思います。いわゆる王子様と庶民、またはその逆とか。
 そのうえで、男性はキャラに自己を投影するので一つの作品にあまり多くのカップルを成立させると逆に嫌悪感や不信感を持たれる可能性がありますが、女性は逆にウェルカムで、どいつとどいつの組み合わせがベストなのかを意識させるうえで、男性キャラと女性キャラをどちらも複数登場させた方が受けがいいかもしれません。男性向けの場合は主要男性キャラ一人に対しヒロイン多数のハーレム的展開が王道だろうけど。

 以上勝手な仮説を展開しましたが、物事を主観的に見やすい男性と、客観的に見やすい女性という概念でカップリングの謎を自分なりに納得できるところまで解釈することができたと思っています。もちろんこれは大まかな傾向に過ぎず、客観的な男性もいれば主観的な女性もいるだろうし、恋愛物についても個人によって好みは変わるでしょうが、こと女性がカップリングでああも論争する背景理由についてはようやく理解できるようになりました。BLを好む理由についてはまだあまり理解できてませんが。

2024年2月16日金曜日

そのグルガン族の男は静かに語った……

 いきなりわけわかんない見出しですが、これはファイナルファンタジー3の冒頭でいきなり出てくるモノローグの出だし言葉です。モノローグの内容も背景説明もなく急に「これから何か起こる」的な内容で意味不明ですが、それ以前にこのグルガン族が何なのかについて、一切説明なく急に語りだすもんだから、久々にこれ見て「何が言いたいねんお前」と思いました。
 なおそのググガン族はゲーム中、盲目だが未来が見えるという種族として登場しますが、モノローグで存在感満点で出てきたくせにメインストーリーにはほとんどからまず、変な谷の中にいて、「あの塔に行け」としか言ってきません。なんかとってつけたようなキャラクターでした。

 というわけで昨日、Steamで購入したFF3のピクセルリマスター版をクリアしました。FF3自体はファミコン時代に一度遊んでいますがクリアできず、20年ぶりにやり直した今回のピクセルリマスター版で無事クリアとなりました。色々仕様が変わっていましたが一番印象的だったのは終盤のボスの「まおうザンデ」が、ファミコン版では瞬殺されるザコ的なボスだったのに対し、ピクセルリマスター版では少し強くなっていくらか抵抗を見せるようになっていました。それでもそのあとのボスに比べたらくそ弱いけど。

 あとBGMはファミコン版のオリジナルとアレンジされたバージョンを切り替えることができましたが、アレンジ版は正直聞くに堪えないという印象を持ちました。絶望的にテンポが悪く、音源は良くなってるはずなのになんでと思うくらい残念な出来で、結局オリジナル版でずっとプレイしていました。

 春節の休暇も明日がジ・エンド・オブザデイですが、休み中は買いためていたゲームを消化するのに費やしていた気がします。割と暖かい日が続いていたから何度か自転車で遠出、といっても往復50㎞くらいを走っていましたが、なんかあまり追い立てられることがなく、ぼーっとして過ごしていた気がします。まぁこれから夏にかけてずっと忙しくなり、次余裕ある日常を過ごせるのは秋になってからだから、これでいいんだと思うけど。

2024年2月15日木曜日

精神病はもはや社会問題では?

 昨日の記事に引き続いて精神病関連の話題ですが、昨日書いた通り初診もなかなか受けられないほど今の日本は精神病患者があふれているそうです。私自身も確実に増えていると前々から実感しており、特にコロナ前の2019年ごろが顕著でしたが、朝方の駅中を歩いていると明らかに支店の定まっていない人間が大量に歩いており、言い方悪いですがゾンビが当たり前のようにうろついているように感じ、潜在的に鬱病となっている人は想像以上に日本は多いのではないかとそれ以来考えています。
 もっともそれ以上におかしいのは、明らかに患者数などが増えており、また鬱病予備軍的な人が街中に大量にいるにもかかわらず、メディアを中心に日本社会はその点について目を向けない、認知していないという点です。今回改めて現場の人間に確認を取ったうえで言えば、やはり精神病の患者は増えており、なおかつその潜在実数は計り知れない規模に達している恐れがあるだけに、もはや社会問題としてはっきり認識した方がいいのではないかと考えています。

 仮に潜在的精神病発症率を3%と仮定した場合、100万人の労働者の中には3万人の潜在的精神病発症者がいるということになります。これだけでも結構馬鹿にならない数で、3万人もいたら関ヶ原の合戦ですらひっくりかえせるような人数なだけにその社会的損失は無視できません。逆を言えば、この精神病問題を解決することができれば3万人の労働者をフルパワーで活用することができるだけに、労働力不足が叫ばれる世の中なだけに、大量の資金をかけてでも精神病対策を施す価値があるように思えます。

 具体的な精神病予防というか対策に関しては、昨日の記事にも書いたように単純に日光浴がノーコスト且つ手軽、なおかつ外出機会を増やして消費拡大を促す効果もあると思うので、「幸せなら外歩こ♪」みたいな感じで外出、日光浴を普段から推奨するのがいいように思えます。ぶっちゃけ日光浴をプッシュしても誰も困る人いないんだし。
 なお最近よく「幸せならケツ叩こう♪」という妙な替え歌を上海で口ずさんでいます。

 上記の日光浴のほか精神科医など専門従事者が推奨する案があればどんどんとプッシュしつつ、診療体制、特に相談しやすい体制を作って日本社会全体でもっとこの問題に目を向けるべきでしょう。たばこやアルコールの身体的健康管理も重要でしょうが、この手の精神的健康管理も国家として労働力を確保する上で、今後ますます重要になってくると思います。

 そのうえで敢えて一つクエスチョンを入れると、そもそも何故日本で精神病患者の数が増えているのか、根本的原因を追う上でこの問いは避けられないし、この点をはっきりさせることで予防対策もしっかりしてくることになります。
 単純にかつてはほとんど認知されてこなかった精神病が社会に認知され、潜在的患者が治療を受けるようになって統計上、患者数が増加したという点は間違いないでしょう。ただこの手の顕現化効果を考慮しても、近年の日本の増加ペースを見る限りもっと別の要因があると思います。

 敢えて素人としての意見を述べると、最近ドラマでも話題になっていますが、かつてはパワハラセクハラにならなかった行為が現代ではその手の行為だと指摘されるなど、社会全体でタブーというか規制、条件が増加していて、前ほどその手の社会的制限を気にせずにはいられなくなったことも大きいように思います。交通事故一つとっても自分が子供だった頃は飲酒運転なんて、「捕まったら運が悪かっただけ」みたいな感覚で周りの大人でも当たり前のようにしていました。
 なおあだ名がビンラディンだったうちの親父は昔から酒が飲めず、宴会の後の運転手役は決まって親父だったそうです。

 話を戻すとそうした社会的制限がかつてと比べて増えたことに加えもう一つ、単純にストレスに対して現代人が弱くなっているようにも思います。これは根性がなくなかったとかそういうのではなく、学校教育、社会教育などで上記の飲酒運転をはじめとする公衆ルールを破ることの責任の重さを強く教える一方、直面するストレスに対して緩和、回避する方法を一切教えないというのが地味に効いているのではないかという気がします。
 こうした視点を持つのも自分が中国にいることが大きく、さすがに問題を放置するのはあれですが、「解決できない問題なんていつまでも悩んでるだけ損じゃん(´・ω・)」という感じで、どうしようもない問題を中国人はよく視点から外します。逆に日本人は、自分じゃどうしようもない問題をいつまでも記憶し、視点に入れ続け、自らストレスの種をずっと維持し続けているように思え、この点で言えば中国人みたく早く忘れた方がずっとプラスだと思います。

 また一つの問題を重大に取りすぎることも単純にストレスを高めているように思え、年齢を気にするなど、どうでもいいことをストレスにし続けて自滅している人も中には見ます。この手の抱える必要のないストレスを緩和、回避する方法を日本の教育では一切教えず、むしろそれどころか「もっと相手の気持ちになってみろ」などとばかりに必要以上にストレスを感じさせやすくしており、こうしたものが日本で精神病患者を増やしているのではないかと密かにみています。
 っていうか他人の気持ちを理解しろって、表現者たる私に言わせれば甘ちゃんの発想です。理解してほしければもっと自分から発信しろってのに。日本人は概して、かまってちゃんな癖に発進せず、それとなく気付いてほしいという都合のいい発想をする人が多いです。

2024年2月14日水曜日

精神病対策としての日光浴

 今日の上海は昼間に気温が20度を超えるなど春を超えて初夏のような日となり、連休をゲームばかりして過ごす自分も妖気に誘われて昼食がてら家の周りを数キロ散歩していました。WeChatの歩数表を見たら友人も歩数が増えてたので聞いてみたら、やっぱり同じような理由で散歩していました。
 なお今日は天津も15度に達するなど、中国各地で異常に気温が高かったようです。ところが明日から上海は雨で、気温もまた冬の一般的な水準に戻るとの予報が出ています。

 で話は本題ですが、今日散歩に出かけたのは家でゲームばかり(FF3)し過ぎている懸念もさることながら、友人から聞いた話がちょっと頭に残っており、わざと日に当たるようにして外へ出かけました。その友人とは先月に日本へ行っている最中にあった高校の同級生で、紆余曲折あって今精神科医をしている友人です。
 なお敢えて二つ名をつけるとしたら、「最も精神年齢が幼い精神科医」と呼ぶのがその友人には一番合っている気がします。こう言うと冗談っぽく聞こえるかもしれませんがシャレじゃなくマジで精神年齢が異常に幼いのに精神科医やってる変わった奴で、患者たちもどういう風に接しているのか密かに気になっています。

 話を戻しますがその友人に、いい機会だからと前から気になっていたことを一気に尋ねてみました。まず一つ目としては、現在精神科は患者で溢れており、「私、精神病かも?」と思った人が診断を受けようと尋ねても、初診を予約するまで最低1ヶ月くらいかかるくらいの大渋滞になっているという話を聞いたのでその真偽を尋ねたところ、「よく知ってるね(´・ω・)」という回答でした。
 友人曰く、精神科の数も精神科医の数も年々増えてはいるそうなのですが、それ以上に患者の増加ペースのが早く、診断済みの患者への対応だけでもほぼ手一杯になっているそうです。そのため初診までに時間がかかり、実際診断を受けるころには症状を悪化させてしまっているというケースも見られるそうです。

 次に聞いたこととして、鬱や精神病を発症するまでの過程は諸条件が複雑に絡み合っているとは思うけれども、一番トリガーとなる最大の条件というか最後の決め手になるような要素は何かと尋ねたところ、てっきり少しくらい逡巡するのかなと思っていたら「ストレスだね(´・ω・)」と、一瞬で即答してきました。
 基本的にストレスがなければ精神病にはならないとのことで、精神病を発症する人はそのほかの発症条件もそろった上で、高いストレスを抱えた状態に至ると発症しやすくなるとのことでした。いわれてみれば当たり前のように感じますが、単純にストレスが最大の懸念要因だと言われて自分としては得心した思いがしました。

 続いて、「じゃあ精神病を予防するためにストレスを減らすとして、ストレス軽減には何が一番効果的なんだ(。´・ω・)?」と尋ねたら、こちらもまた一瞬で「日光浴だね(´・ω・)」と即答してきました。

 日光浴に関してはかねてからストレス解消とかメラトニンの生成などは聞いていましたが、本職の精神科医から最大のストレス解消方法として挙がってくるとは思ってこず、意外でした。ただ言われてみるとすごく納得できるというか、自分は学生時代によく自殺の統計などを調べていましたが、基本的に冬は雪に閉ざされる北方の雪国ほど自殺率が明確に高く、逆に太陽カンカンな南国ほど低いという傾向が日本国内はおろか、世界単位でも明確に表れていました。
 この背景理由をを「南国育ち」だからで片づけない場合、やはり日照時間こと太陽に浴びた時間の長さは人の精神に大きく影響するのではないかと前から考えていました。そこへきて上の友人の回答で、自分としても至極納得したというか、精神病を予防するための対策として日光浴というのが単純で重要なのではないかと自分も深く納得したわけです。

 そうしたやり取りもあったため、自分のストレス管理として空が晴れていたら敢えて日光を浴びるよう自分も意識するようになりました。元から鬱気味だったというわけではないのですが実際問題として日焼けを気にせず日光を浴びるのは重要だと思えるだけに、今日のように冬にして珍しいくらい暖かい晴天とあってわざわざ袖まくってまでして日光を浴びるよう心掛けました。

 そのうえで実際に入ったことがあるわけじゃないですが、何となく精神病棟、特に重度の精神病患者が入る病院というのは窓がなく、閉ざされた印象があります。実際はどうだかわかりませんが仮にもしそうだとしたら上記の友人の言葉とは真逆の環境で、日光を一切浴びるどころか見ることすら叶わず、なんか余計に精神病を悪化させてしまうような環境に見えます。
 そういう意味ではその手の精神病棟ほど、鉄格子は必要となるかもしれませんが、日の光を入れる窓が非常に重要になってくるかもしれません。なんかYKK APの宣伝文句みたいですが。

 だったらいっそのこと、360度全面ガラス張りで太陽の光から一切逃れることのできない部屋に入れた方が、精神病患者の症状の改善するかもしれません。ただ実際にそんな部屋を創造したところ、夏場に至ってはむしろ一種の拷問部屋のように見えてきたので、やはりほどほどに窓の大きな部屋にするのが無難かもしれません。

2024年2月13日火曜日

原作改変に寛容だった漫画家

 未だに「セクシー田中さん」作者の自殺事件が尾を引いていますが、この問題でドラマの脚本化は原作維持という指示を聞いていなかったといい、小学館の編集者側は原作を改変しないようテレビ局側に伝えていたいう声明を出しています。脚本家に関しては自分を守るために聞いていなかったと主張している可能性もなくもないのですが、どちらにしろ作者の支持を確実に聞いていて、本来グリップを利かせるべき番組プロデューサーこそがこの問題で最も責任が大きいと言って間違いないでしょう。聞いていなかったは通用しないし、それでいてここまで問題を大きくさせたのだから何か言えばいいのに、いまだに何も言ってこないのはやはりその問題を自覚しているからじゃないかと思います。

 そんな原作改変について、今回は変えてほしくないという要望があらかじめ作者側から出されていましたが、過去には映像化にあたって原作から離れたストーリー展開をすることに寛容だった漫画家もいました。とりあえず思いつくあたりで何人かここでピックアップしようかと思います。

・横山光輝
 日本における「三国志」普及の第一人者である横山光輝ですが、「伊賀の影丸」をはじめ実写映像化された作品も非常に数多くあります。中には「六神合体マーズ」の原作の「マーズ」など、原作から大きく離れた作品もあるのですが、横山光輝は原作を改変することにあまり口を出さなかったと言われ、それがためプロデューサーらもこぞって横山作品の映像化に取り組んだと言われます。
 もっとも横山本人も一部作品の改変ぶりには閉口していたと以前に親類が語っていたのを聞いたことがあります。とはいえ大きく口を出さずに現場に任せ、その結果多くの作品が映像化されたことは事実であり、その点で言ってもやはりこの人は大御所であると感じます。

・永井豪
 そもそも原作なんてあったのかと思うくらい、アニメ版と漫画版で全く展開の違うストーリーが展開されることは永井豪氏の作品において最早お馴染みです。彼の場合、マジンガーZをはじめマンガの連載開始前からアニメ化も同時並行で動き出すというメディアミックスをよく仕掛けており、そのため大まかなキャラクターや舞台背景などは共通するも、それぞれのメディアで各担当者が自由に作品を作り、売れる要素があったらあとから別のメディアも追随するというかなり激しいパラレルぶりを見せています。
 その結果、漫画版では衝撃的な結末で半ば伝説化した「デビルマン」も、アニメ版では勧善懲悪な無難なストーリーでまとまっています。っていうか、漫画版の内容をアニメでやっていたらとんでもないことになっていたでしょう……。
 以前に永井氏の半自伝的漫画の「激マン」を読んだことがありますが、この中でアニメ版の脚本を担当したスタッフらに対する強い信頼感が描かれており、こうした関係があったからこそああしたパラレルな展開ができたのだと思います。中でも辻真先氏は、デビルマンの打ち合わせをしながら別作品の脚本を同時に書いていたというエピソードはかなり強烈だったというか、こんな凄いスタッフがいたのならそりゃ任せられるなと納得させられました。

・諫山創
 ご存じ「進撃の巨人」の作者ですが、原作改変に寛容だったというより原作を改変するよう脚本家に要求していたというぶっ飛んだエピソードがよく語られています。「進撃の巨人」の実写映画化にあたってはかねてからファンであった映画評論家の町山智浩氏を自ら指名し、できた映画の評価は非常に低かったものの作者自身は大満足だったという、まさに作者自身が喜ぶために映画が作られたような展開でした。
 中でも本当かどうかわからないけど脚本を書くことを町山氏が当初断ったところ、

「うれしいです。これでまた町山さんを説得するために会いに来れるのだから……」

 という、若干質の悪いストーカーじみた発言を諌山氏はしていたという話を聞きます。まぁそれだけ慕っていた人間に自分が原作の映画作ってもらったんだったらうれしいに決まってるだろうなぁ。

 最後に、今回の原作改変についていろいろ議論が続いていますが、やはり業界内でガイドラインかなんかは作るべきだと思います。その際に自分から提言したいこととして、原作者が死去した後の原作改変についてどのように扱うべきなのかも決めておいた方がいいでしょう。
 生前に原作者が大きな改変を望まないとはっきり言明していた作品に関しては映像化を控えるなど、こうした制限がないと最近ホラー映画とか作られている熊のプーさんのように、作品の尊厳を踏みにじろうとする輩が後年に出てくると思います。そうした改変の幅などに関して、著作権法と絡めつつ議論するなら今であるような気がします。

 なおこの手の議論で一番最初に思い当たったのが、水木しげるの不朽の名作こと「ゲゲゲの鬼太郎」です。この鬼太郎の、作者の死後に制作された第六期アニメでは猫娘がこれまでのデザインから大きく一新され、頭身の高い美少女キャラクターとして描かれたのですが、このデザインについて放映前にいくらか議論となっていました。
 「いくら何でも改変し過ぎ」、「こんなの猫娘じゃない」、「かわいいからこれでいい」といったいろんな意見が飛び交う中、

「いや、水木先生なら『売れりゃそれでいいんです』と言うはずだ」

 というコメントがあり、このコメントを見て私も「我が意を得たり!」という気持ちがしました。どこの誰かは知らないけど、水木しげるの気持ちをかなり理解している人のコメントだと心底思ったし、こうした作者の気持ちというか方針にぶれない改変だったらやっぱアリだなと当時思いました。