ページ

2014年11月28日金曜日

生贄の牛を羊に取り換えるとな

 これは昔々、中国戦国時代のお話です。戦国時代に現在の山東省は斉という国で、この国は「封神演義」でおなじみの太公望を祖とする国でしたが、内紛によって戦国時代には田氏に乗っ取られ、田一族が王となって治めておりました。この田氏斉の四代目は宣王という人物(紀元前4世紀)なのですがこの宣王がある日、宮殿を歩いているとひどくおびえた牛を従者が引いているのを目撃しました。そこでおもむろに宣王はおもむろに、「この牛をどうするの?」と聞いたところ従者は、「はい、煮込んだ鐘に血を塗る儀式に使うので、これから生贄に殺すところです」と答えました。
 この従者の答えに宣王は、「やめなさい。ひどく怖がっているし何の罪もない牛だ。殺すに忍びない」というので、なら血塗りの儀式は中止ですねと従者が確認すると、「いや、儀式はやる必要がある。そうだ、代わりに羊を使えばいい(・∀・)」と閃いたので、その時の儀式は牛の代わりに羊を殺してつつがなく終えたそうです。
 
 私はこの話を大学三回生の頃の中国語の授業で習ったのですが一読して、「これって、羊とばっちりじゃん(;゚Д゚)エエー」と思うのと同時に、牛がかわいそうだからって羊殺してちゃ意味ないんじゃないかと心の中で突っこみました。恐らく、この記事読んでる人たちもみんな同じような感想だと思いますが、出典によると当時の斉の人間ですら「牛をケチって羊を使った」などと揶揄していたと書かれてあります。
 その出典ですがこれは何かというと実は「孟子」からです。「孟子」の説明は省きますが斉の国を訪れていた孟子に対して宣王が民を安んじて治めるにはどうしたらいいかと説いたところ、孟子は「宣王は過去にこんなことやりましたよね」と自分からこのエピソードを切り出します。確かにそんなことがあったと頷く宣王に孟子は、「それこそ仁です」と言わんばかりに激賞し、世間はアホな王やと言っているがこのような心持ちを持つことこそが大事で、王たる資格がある証拠だとまで言います。
 
 正直に白状するとこのくだりまで読んだところで、「孟子もちょっと持ち上げ過ぎじゃないかな?」、「頭のいい人の考えてることはよくわからない」、「もうちょっと単純に事実を見た方がいいのでは」なんていう感想を当時の私は持ちました。しかし牛や羊の肉を食べる時にふとこのエピソードを思い出すことがあり、しかも年数が経つにつれて段々とあの話は含蓄の深い話なのではなどと何故だか熟考することが増えていきました。
 
梁惠王章句上(孟子を読む)
 
 このエピソードについて上記サイトでは原文と共に詳しい解説が載っております。非常に詳しく載っていて、読んでて自分も見入りました。
 直接上記サイトを読んでもらうのが一番なのですが自分の方からここの解説をかみ砕いて説明すると、孟子はこの時宣王に対して、目の前にある生き物に憐憫の感情を持つことが大事だと言いたかったようです。憐憫の心を持つことは仁の心にまで発展させるためのスタートに当たり、結果的には目の前にいない羊を代わりに殺すことになったものの、目の前にいる怯える牛の命を助けたという情けの精神をきちんと実行した宣王の心根は悪くないと孟子は伝えたと解説されています。
 その上で上記サイトの執筆者は補足として、人間は目の前で起こっていることしか関心がなく、目の前にないものにまでは気が回らないのは自然なことであるとして、下記のような例を持ってきています。
 
- どこかの隣国の独裁政治に始終憤激しているのならば、どうして旧ソ連で同様に独裁体制を取っている諸国に激怒しないのか?
- 自分の子には勉強させて高学歴を与えるのに必死なのに、どうして一般論になると「ゆとりある教育を」などといまだにのたまうのか?
 
 どちらも自分の胸にグッときました。実際、日本国内で虐待で子供一人が殺されるというニュースを聞くのとアフリカで今日何百人の子供が死んだというニュースでは、感じ方は後者の方が他人事です。同様に、北朝鮮や中国の政治弾圧の方が中東やアフリカの政治弾圧より気になります。上記のサイト執筆者によるとこうした距離感に伴う感じ方の違いは人間にとって当たり前で、誰にでも平等にだなんて言わずにしかるべき距離のしかるべき対象に愛情や憐憫の情を持ち、発展させていくことが大事だと孟子は人生を通して主張しているそうです。
 
 ここからが私の個人的意見になりますが、解釈にもよりますが上記の孟子の考え方はキリスト教の隣人愛とも通じるように思えました。隣人愛の解釈は人によっても変わりますが、私の解釈だとまずは何よりも身近な人を大事にすることに尽きます。身近な人を大事にすることが出来ればもう一つ先の距離の人も大事にすることが出来るようになり、こうして範囲を徐々に拡大していくことによって良好な共同体を作り上げられるというような具合です。
 こうした考え方のほかにもう一つ最近できてきて、たとえばNGOとかNPOみたいに世界中の人々を助けようとして活動する集団が結構ありますが、そうした集団の方々の活動は確かに尊敬できますが果たしてそれで本当に世界はよくなっていくのだろうかという疑問がよくもたげます。単純な話、日本人が地球の反対側のブラジルで活動するにしてもお金も費用も文化的障壁もあります。それであれば日本人は同じ日本にいる困っている日本人を助けることによって、その助けられた日本人が今度はほかの人を助けていくような状態に持っていく方が結果的には効率がいいのでは、しかもこっちの方が外国語能力とか変なバイタリティが無くてもすぐできるのではなどとも思います。
 
 無論、海外に行って救援活動などをされている方は確かに必要とされているし、尊敬もします。しかしみんながみんなそこまで強くはなれないし、それであれば、「貧困の国に井戸を掘るため募金しよう!でもって砒素いっぱいの水飲ませて村の人を病気にしよう」なんて某テレビ番組みたいな主張はほっといて、もっと距離的にも身近な人同士で助け合おうという精神を持つことの方が人間として正しいのではという結論に至りました。マザー・テレサも、「自国の困っている人を無視して他国の人を助けようとするのはちょっと違う」なんて言ってたそうで、この辺は孟子もキリストも一致しているのではなんて思った限りです。
 
  おまけ
 終戦間際の山田風太郎の日記に、「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出すのがキリスト、右の頬を叩いたら左の頬も叩いてくるのがキリスト教徒」と書いてあって吹き出しました。あと自分の大学はミッション系だったのに、「キリスト教は虐殺を繰り返して信者を増やしてったような宗教だ」なんて授業中に言い出す講師がいて、フリーダム過ぎるにもほどがあるずこの大学なんて思いました。

4 件のコメント:

すいか さんのコメント...

含蓄の深い、良い話を紹介してくださりありがとうございます。
世の中のことに疎い私ですが、在学中は、新聞を読まないと、社会の出来事に関心をもって、自分の意見を持たないと恥ずかしい、という雰囲気でした。
そして、わかってるフリをしながらさっぱりわからないのがコンプレックスでした。
でも、ひろさちやさんの「無関心のすすめ」などを読み、無理に社会のことに興味をもたずに、自分の周りのことだけを考えていてもいいんだ、と思うようになりました。
でも、「義務として」「勉強のために」読む経済や政治の話は面白くありませんが、それが「3度のメシより好き」という人の熱のこもった人の話をみると、「え?何がそんなに面白いの?」と興味をそそられたりします。

花園祐 さんのコメント...

 日本だと逆に、「自分の意見語ってキモい」みたいな感じで、実際キモいと言われ続けの人生送りっぱです。ただ自分は良くも悪くも周囲を気にしない人間で、ほかの誰が何と言おうと自分の知りたいことを追い求めたがゆえに今があると思います。そんな自分が子供の頃、こういうことを教えてくれる人はいなかったのかなという思いから、なるべく自分が自分で面白いと思う内容をこのブログを書き綴っていますが、読んでくれる人間がいるだけで本当にありがたいです。

上海忍者 さんのコメント...

米沢牛を米沢豚に切替えたら、どう思いますか?

花園祐 さんのコメント...

 レストランでそれやられたら笑うしかないところだけど、伊勢海老を何食わぬ顔でバナメイエビにちょっと前まで変えられてたから案外笑えない。