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2015年5月25日月曜日

インパール作戦から帰還したプロ野球選手

 先週日本に一時帰国していた際にたまたま「報道ステーション」を見ていたところ、安倍政権への皮肉なのかインパール作戦の特集が組まれていました。これまた偶然ですがちょうどその頃、うちの名古屋に左遷された親父が持ってきた本の中に野戦指揮においては旧日本陸軍最強の呼び声高い宮崎繁三郎の本を読んでいたこともあり、インパール作戦についてネットで再び調べてみました。
 最初に呼んだのはWikipediaの記事だったのですが、その中でこの作戦に従軍していたプロ野球選手がいたと知り、興味を持ったことからそのまま調べてみたところかなり面白い人物だったので今日はこの方を紹介しようと思います。どうでもいいですが「知ってるつもり?!」のようなナレーションの仕方であるものの、そもそもこの番組を覚えている人は今どれくらいいるのやら。

川崎徳次(伝説のプレーヤー)

<来歴>
 川崎徳次は1921年に佐賀県で生まれ、高校を出た後はその野球の才能を高く評価した満州撫順炭鉱から誘われ、この会社が保有する社会人野球チームで投手として選手生活をスタートさせます。このチームで活躍したことから1940年には南海へと移籍してここでも剛速球を武器に活躍しましたが、1943年には陸軍に徴兵され、上述のインパール作戦に従軍する形でビルマに渡ります。

<インパール作戦への従軍>
 インパール作戦についてはほかの記事でも何度も紹介しておりますが、補給を完全に無視した無謀極まりない作戦で、膨大な数の死者が出ていますがその死亡原因の大半は銃弾によるものではなく餓死だったとされ、撤退路には死体が連なり「白骨街道」とも言われたほど悲惨な戦闘でした。この戦闘で部下を最後まで見捨てずに善戦したのが先程の宮崎繁三郎です。
 川崎もこのインパール作戦に従軍していたそうですが、戦地では偶然にも巨人の正捕手をかつて務め現役時代に川崎と交流のあった吉原正喜という人物と再会することとなります。階級が上だった吉原は川崎に食料や薬を優遇するなどしていたそうですが、彼は川崎とは異なり戦死し、遺骨も発見されませんでした。
 激しい戦争を生き抜いて終戦を迎えた川崎は戦後約1年間はビルマの強制収容所で過ごし、1946年に日本へと帰国します。帰国した川崎は当時の巨人の監督から誘いがあったことと、上述の吉原への恩義などから巨人への入団を決意し、プロ野球の現役にも復帰します。

<戦後の現役復帰>
 現役復帰した川崎は戦場でのブランクを感じさせないほどの活躍ぶりを見せ、1948年には最多勝利のタイトルを獲得し、翌1949年の戦後としては初めての巨人優勝にも実質的なエースとして大きく貢献します。巨人で優勝を決めた翌年の1950年にはプロ野球が2リーグに分裂したことを受け西鉄へ移籍し、ここでも名選手として活躍して1953年には5年ぶりの最多勝+最優秀防御率のタイトルを獲得しました。
 当時の川崎のピッチングは球速の速さもさることながら現代においても使い手の少ないナックルボールを使用していたそうです。ナックルを使い始めたのは西鉄に移籍してからだそうですが、それでも仮に戦時中の徴兵が無ければ生涯250勝も達成していたとまで言われています。

 その後、川崎は西鉄でプレイし続けましたが登板機会は徐々に減り、1957年に現役を引退します。引退後は西鉄でコーチや監督を務めたほか、阪神の投手コーチも務めたこともありこの時には当時新人だった江夏豊氏も指導したそうです。
 球界を離れた後は東京でうどん屋、ついで故郷の佐賀県鳥栖市で喫茶店などを経営し、2006年に福岡県内の病院で84歳の人生を終えておられます。

<珍記録満載の野球人生>
 以上の様に川崎は一選手として傑出した活躍ぶりを見せておりますが、彼の本領はそういったこととかではなく、とにもかくにもおかしな記録を数多く残していることです

 もっとも有名なのは1949年4月26日の巨人対大映戦で、この試合は小さい球場でなおかつ風が強かったこともあって両チームでホームランが量産されたのですが、飛び交ったホームラン数は両チーム合計で13本塁打にもなり、得点結果も15対13(巨人勝利)というハイスコアゲームでした。
 この試合で巨人から先発したのはまさにこの川崎なのですが、川崎がこの試合で打たれたホームラン数は8本で、失点数は13失点にも上ります。にもかかわらずなんと川崎はこの試合を最後まで投げ切り完投しており、この時の「13失点完投勝利」という記録は未だ誰にも破られていない日本記録で、恐らく今後も破られることはまずないでしょう。
 しかもこの試合にはもう一つおかしい点があり、というのも投手の川崎が4安打中3本塁打9打点を打ち出しており、自分が打たれた分だけ自分で見事に打ち返すという離れ業も決めております。川崎は元々、投手にしては打撃にも秀でた選手ではありましたが、このシーズンで本塁打を打ったのはこの試合だけで、なんていうか神が乗り移ったかのような記録を残しました。

 このほかにも日本プロ野球史上初の「1球での敗戦投手」にもなったかと思えば、同じく日本プロ野球史上で二番目となる投手によるサヨナラホームスチールも記録しています。なお史上初の投手によるホームスチールは阪神の御園生崇男が1942年に記録していますが、この時にホームスチールを決められた投手は川崎でした

2 件のコメント:

上海忍者 さんのコメント...

キミはサッカーに興味を持っていないでしょうか?

花園祐 さんのコメント...

 興味がないわけではないけど、やっぱ野球の方が好き。