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2016年2月26日金曜日

ルターは何故、宗教改革に取り組めたのか?

マルティン・ルター(Wikipedia)

 最近歴史物の記事書けてないので、前から書きたかったルターについて書きます。
 さてルターといったらキリスト教の宗教改革の嚆矢を放った著名な人物としてお馴染みですが、彼は元々宗教家になろうとしていたわけではなく、当初は法律家を目指して法学を学んでいました。そんな彼が何故キリスト教の修道士へと進路を鞍替えしたのかというと、なんでもある日おうちに帰る途中で雷雨に遭って、「お願いだから雷落とさないで。僕、修道士になるから!」と言ったことがきっかけで、その日を境にすっぱりと法学の道をあきらめて修道会に入ったとのことです。

 このエピソードからしても、どうもルターは堅物というか真面目過ぎる人物だったのではないかと伺えます。将来を期待してた両親などは上述の進路変更に大反対だったそうですが、「俺はもう約束してしまったんだ」といって話を聞かず、そのまま突っ走るようにして修道士へ、そして神父になってしまうのですから、真面目過ぎるだけじゃなく無駄に行動力もある人物だったのだろうと勝手に推定しています。

 そんなルターが宗教改革に取り組むきっかけになったのは、世界史履修者ならみんなお馴染みの贖宥状です。これはお金に困った一部の教会が献金を集めるために、「贖宥状を買えば罪が許されて天国いけるよ♪」と売り出したことにキリスト教内部からも批判が起こって議論となったという問題で、何もルターだけでなく当時の多くのキリスト教関係者が疑問を呈しているのですが、実際に堂々と批判するという行動にまで打って出たのはルターほか数名だけだったそうです。
 キリスト教会側もこの贖宥状に関しては多少負い目があったのか当初はルターをなだめて穏便に議論をまとめようとしたそうですが、教会側から提示された和解案をルターは悉く拒否しながら公開討論や是正を求め続け、結果的に教会並びに神聖ローマ帝国は彼のありとあらゆる権利を剥奪したばかりか公然と命すら狙う事態にまで発展します。

 幸いというかルターには彼を支持する領邦君主がいたため彼らの保護を受ける形で活動を続けることが出来、保護下にあって隠遁していた最中にそれまでラテン語でしか書くことを許されなかった聖書をドイツ語に翻訳した上で当時出来たばかりの活版印刷法によって大量に広まり、彼が書いたドイツ語がそのまま中世ドイツ語のスタンダードとして定着します。
 なお余談ですがこの時の初版本のことを「グーテンベルク聖書」と呼び、早稲田大学にも一冊あるって聞いたことがあります。まぁ私が見ても読めないけど。

 ここで本題に戻りますが、一体何故ルターはそれほどまでに迫害を受けながらアグレッシブな活動を続けられたのでしょうか。私が思うに、一つは最初に書いたように彼が真面目過ぎる性格で不正を一切許せなかったからと、二つ目としては初めから神学一辺倒ではなく途中まで法学を勉強して進路変更したからではないかと考えています。言い換えるなら、若い頃に別の世界を見ていたからということです。
 よくいろんなことを体験すると視野が広がるから何にでもチャレンジした方がいいと世の中言いますが、実際にこれをやるとなると骨が折れるもので、特に専門的領域の訓練に一旦入ってしまうとなかなか引き返せないというか別方面へチャレンジしようという気が薄れます。大学でも専攻を変更する人はそんなにいないでしょうし、ましてや文系から理系へ移転する人となると確実にレアです。

 現代ですらこの通りですが中世はこの傾向がもっと強かったというか修道士になる人は小っちゃい子供の頃から修道院に入り、その世界を知らないまま修道会の中で全部完結する一生を送ったと言います。こうしたタイプはあまり内部に対して疑問を持たないというか持ったとしても上部には抵抗しない傾向があるとされ、ルターはこの点で青年期までとはいえまだ外の世界を知っていたということが大きかったのではと私は見ているわけです。

 このような「外の世界を知っているか否か」ということに何故着目するのかというと、旧日本陸軍の教育システムでも同じことが指摘されているのを前に読んだことがあるからです。旧日本陸軍(海軍もそうだが)では13~16歳が入学する陸軍幼年学校を卒業後に陸軍士官学校へ入学し、ここを出ると晴れて軍の士官なれるという教育システムでした。ただ、陸軍士官学校の入学者の大半は幼年学校の出身者であったものの、少数ですが外部からも生徒を募集しており、一般高校(当時の名称だと中学校)の出身者でも非常に狭き門ではあったものの入学することは可能でした。
 で、こういってはなんですが、そうした外部出身者の士官ほど優秀な将軍が多かったりします。主だったものを上げると、

栗林忠道:硫黄島の戦いを指揮。太平洋戦争で米軍が最も評価した日本の指揮官の一人。
宮崎繁三郎:インパール作戦を指揮。野戦指揮では陸軍最強との呼び声も。
今村均:ラバウル方面司令官。陸大も主席で卒業しておりラバウルを終戦まで持ちこたえる。

 三人とも天性の軍人ともいうべき見事な指揮ぶり、並びに戦略眼を持っておりましたが、三人とも幼年学校を出ていないというのはもはや偶然ではないと思います。何事も一つの世界に邁進することが重要だと言われますが、全否定するつもりはない物の、やはり外の世界も体験しておくことも重要だとルターと合わせて思う限りです。

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