前回の「現代の若者論の間違いについて」の記事のコメントを受けてちょっと思い出したことがあるので、それについてここで細かく解説しておきます。
まず寄せられたコメントの内容ですが大雑把に言うと、かつての60年代から70年代の全共闘の時代の学生、つまり当時の若者はそれなりに社会主義国家の建設など、方向性はともかく夢があったのに今の若者にはそういう夢もなければ追いかけるという行為もない、という内容でした。
これを受けて私も思い出したのですが、現代の若者に意欲がない原因には私が挙げた「将来がすぐに決まってしまう」のともう一つ、「目指すべき社会モデルがない」というのも挙がってきます。
現代の歴史評論家がほとんど一致した見解を持っているもので、戦後のあの混乱期から日本が驚くべき復興を果たすことが出来たのは、国民全員でなんとかこの国を復興させようという強い意欲があったからだといわれています。このように、はっきりと形にされない物ながらも社会の目標というのは意外に人間を強く動かすものであります。それこそ私が紹介した文化大革命での上山下放運動で農村に入った若者が恐ろしい勢いで土地を開拓、中にはそれこそ土を掘りぬいて山と湖を一挙に作ったという例もありますが、こうした行動が出来たのは国家への強い意識があったからだと私も確信しています。
そして日本の大学で学生運動が華やかなりしころも、ひとまずは社会主義国家建設という大きな目標を若者たちは共通して抱いておりました。結果から言うと社会主義国家像はソ連の崩壊とともに完全にその姿を失ってしまったのですが、やはりあの時代の大学生たちが友人の言葉を借りるとゲバ棒を振り回してあんだけはちゃめちゃにやれたのは、こういった目指すべき社会像を明確に持っていたからだと思います。
それに対して現代はというと、はっきりいますが目指す社会像というのは個人レベルは除くとして、ある程度の集団単位で共通したモデルは一切ないといっていいでしょう。自民党にしろ民主党にしろ、今じゃ全議員に統一した意見すらほとんどない状態ですし。
これは何も私だけでなく佐藤優氏も同じようなことを述べています。どんな国にするかというのは本当に生活の中ではごくごく些細な意識かもしれないが、全体で見るとこの社会モデルは非常に大きな力になり、本来ならば政治家が作らなければならないところを今の日本ではそれを作れる政治家がいなくなったと言い、逆にそういったモデルをこれから作っていく上で期待しているのは小説家だと佐藤氏は述べています。
もちろんこういった社会モデルの欠如に対して危機感を持っている人は少なくなく、最近では恐らく「国家の品格」の藤原誠彦氏が強い問題提起とともに自らの提案を広く主張している人物の一人でしょう。藤原氏はかつての日本は「富と平和」という社会モデルがはびこったがバブル崩壊とともにそのモデルは崩壊し、これからは武士道に則った「教養のある国、日本」というモデルを日本人全員で共有すべきだとその著書の中で主張しています。まぁ私も、モデルが何もないよりかはこういう風なモデルを持つべきだと思います。
もう一人新たな社会モデルを提言している人間を挙げるとすると、こちらは藤原氏以上に政策的なモデルとして、東大教授の経済学者の神野直彦氏が「スウェーデン型高福祉社会」というものを唱えています。この説はワーキングプアーなどが注目を浴びた2006年位にはそこそこ広まったのですが、心なしかこのところは急激にトーンダウンしているように見受けられます。
この目指すべき社会モデルというのは言い換えると、「どこに誇りを持つか」というようにも考えることが出来ます。自分の国はこういうところに誇りがある、そしてそれを維持していかねばならないというような漠然とした意識でも、人間はこういうものによって行動意欲が強化されると私も考えています。
では私はどんな理想の社会モデルを持っているのかとなりますが、単純に言って「真面目な人が損をしない社会」というのが私の理想です。敢えて名づけるなら、「アリとキリギリス型社会」といったところでしょうか。少なくとも、これは別のブログでも取り上げられていましたが、日本はもう少し博士号取得者に対して社会的に正当な評価をするべきだと思います。あの中国ですら、きちんと企業でも給与などで評価をしているのに……。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年10月31日金曜日
2008年10月30日木曜日
失われた十年とは~その四、個人消費~
実はどの辺から書き始めればいいか、今結構悩んでいます。文化大革命の連載では時系列的に書けばよかったのですが、こっちだと社会的な話から政策的な話と時系列が行ったりきたりするので、しょうがないので政策の話をひとまず全部やろうと思います。
さて一般に「失われた十年」とこの時代の不況はひとくくりに言われていますが、実際のところ本格的にこれは不況だと認知され始めたのは90年代の後半に至ってからでしょう。はっきり言いますが、バブル崩壊で株価がものすごい下落をしたものの90年代の日本は滅茶苦茶なまでに余裕しゃくしゃくで、恐らく事態の深刻さに気がついていた人間は全くといっていいほどいなかったと思います。
それがきちんとデータとして現れているのが、今回のサブタイトルにもなっている「個人消費」です。恐らく現在に至るまで日本以外で起こってないであろう事例なのですが、実はバブル崩壊以後に企業業績が振るわずに社会的にも明らかに不況と言える状態であったにもかかわらず、90年代前半の日本では個人消費が一切減りませんでした。普通不況になれば今のアメリカみたいに個人消費というものは冷え込んで減っていくものなのですが、何故だか日本だけはこれが全然減りませんでした。
当時に個人消費が一切落ちなかったことを表す一つの例として私はよく、当時の音楽CDの販売数を人に紹介しています。90年代前半から中盤まで音楽CDの売り上げは文字通りに右肩昇りで、今じゃ年に一曲か二曲しか出ないミリオンヒットもなんと毎年二十曲以上は出ていました。また似たようなものとしてテレビゲームにおいても98年のピークを迎えるまで売り上げ本数は年々伸びており、逆にそれ以降は音楽CD同様に今度は右肩下がりに売り上げが低迷し、現在両方の業界はともに苦しんでおります。
せっかくだから自動車の販売台数も出そうと思ったら、なんか月別のデータしかなくて調べられませんでした。これだから三等統計国は……。
とまぁこんな具合で悪化する経済を尻目に、日本人は消費者的にはそれ以前よりずっと豊かに生活を送っていました。では一体何故、企業の売り上げが低迷しているにもかかわらず個人消費が奮ったのでしょうか。これはなんというか非常に簡単で、理由を挙げろというのなら実はいくらでもあげることが出来ます。
まず一つが、日本人の貯蓄体質です。最近はずっと目減りしているのですが当時の日本人は本当に貯金と預金が大好きで、そのために経済情勢が悪化しても豊富な貯蓄があったために消費は継続された、という感じです。
そして二つ目に、当時はまだ終身雇用が生きていたからです。企業業績が悪化しても当時は終身雇用がはっきりと守られており、定期昇給から残業代支給まで今から考えると大盤振る舞いともいえるような俸給が被雇用者、つまり消費者に配られていました。
でもって三つ目、これが非常に重要なのですが、この時期に政府は景気刺激策の名の元に公共事業政策、要するにバラ撒き政策を大々的に行ったからです。
この公共事業については次回に詳しく解説しますが、こうしてあげたいくつかの理由によって日本の個人消費は非常に好調で、事実当時の日本経済は企業の業績悪化をよそ目に個人消費に頼って生きながらえていました。しかし最初の貯蓄は使ってけばどんどん減っていくのは当たり前で、二つ目の終身雇用はさすがに企業も被雇用者にいつまでも大盤振る舞いをしてられなくなり、三つ目の公共事業は小泉内閣が出来るまで続けられたのですが、結論を言うと90年代の後半に入ると日本経済で唯一好調だった個人消費もとうとう干上がってしまいます。その時期を具体的に言うと97年で、この年に消費税が5%に引き上げられたことによって個人消費も一気に冷え込み、この時になってようやく日本は事態の深刻さに気がつくというわけです。この辺もまた後で解説します。
私の目から見ても、90年代前半は豊かな時代だったと思います。さすがにバブル期ほどの悪趣味な散財というものは見なくなりましたが、それでも漫画からゲーム、音楽からファッションといったものへの消費が社会全体で活発で、ファッションにいたっては当時は安室奈美恵などアイドルも数多く現れ、こういった服飾品への支出が非常に煽られていた気がします。今じゃ安いユニクロとH&Mが流行ってるあたり、時代格差を感じます。
さて一般に「失われた十年」とこの時代の不況はひとくくりに言われていますが、実際のところ本格的にこれは不況だと認知され始めたのは90年代の後半に至ってからでしょう。はっきり言いますが、バブル崩壊で株価がものすごい下落をしたものの90年代の日本は滅茶苦茶なまでに余裕しゃくしゃくで、恐らく事態の深刻さに気がついていた人間は全くといっていいほどいなかったと思います。
それがきちんとデータとして現れているのが、今回のサブタイトルにもなっている「個人消費」です。恐らく現在に至るまで日本以外で起こってないであろう事例なのですが、実はバブル崩壊以後に企業業績が振るわずに社会的にも明らかに不況と言える状態であったにもかかわらず、90年代前半の日本では個人消費が一切減りませんでした。普通不況になれば今のアメリカみたいに個人消費というものは冷え込んで減っていくものなのですが、何故だか日本だけはこれが全然減りませんでした。
当時に個人消費が一切落ちなかったことを表す一つの例として私はよく、当時の音楽CDの販売数を人に紹介しています。90年代前半から中盤まで音楽CDの売り上げは文字通りに右肩昇りで、今じゃ年に一曲か二曲しか出ないミリオンヒットもなんと毎年二十曲以上は出ていました。また似たようなものとしてテレビゲームにおいても98年のピークを迎えるまで売り上げ本数は年々伸びており、逆にそれ以降は音楽CD同様に今度は右肩下がりに売り上げが低迷し、現在両方の業界はともに苦しんでおります。
せっかくだから自動車の販売台数も出そうと思ったら、なんか月別のデータしかなくて調べられませんでした。これだから三等統計国は……。
とまぁこんな具合で悪化する経済を尻目に、日本人は消費者的にはそれ以前よりずっと豊かに生活を送っていました。では一体何故、企業の売り上げが低迷しているにもかかわらず個人消費が奮ったのでしょうか。これはなんというか非常に簡単で、理由を挙げろというのなら実はいくらでもあげることが出来ます。
まず一つが、日本人の貯蓄体質です。最近はずっと目減りしているのですが当時の日本人は本当に貯金と預金が大好きで、そのために経済情勢が悪化しても豊富な貯蓄があったために消費は継続された、という感じです。
そして二つ目に、当時はまだ終身雇用が生きていたからです。企業業績が悪化しても当時は終身雇用がはっきりと守られており、定期昇給から残業代支給まで今から考えると大盤振る舞いともいえるような俸給が被雇用者、つまり消費者に配られていました。
でもって三つ目、これが非常に重要なのですが、この時期に政府は景気刺激策の名の元に公共事業政策、要するにバラ撒き政策を大々的に行ったからです。
この公共事業については次回に詳しく解説しますが、こうしてあげたいくつかの理由によって日本の個人消費は非常に好調で、事実当時の日本経済は企業の業績悪化をよそ目に個人消費に頼って生きながらえていました。しかし最初の貯蓄は使ってけばどんどん減っていくのは当たり前で、二つ目の終身雇用はさすがに企業も被雇用者にいつまでも大盤振る舞いをしてられなくなり、三つ目の公共事業は小泉内閣が出来るまで続けられたのですが、結論を言うと90年代の後半に入ると日本経済で唯一好調だった個人消費もとうとう干上がってしまいます。その時期を具体的に言うと97年で、この年に消費税が5%に引き上げられたことによって個人消費も一気に冷え込み、この時になってようやく日本は事態の深刻さに気がつくというわけです。この辺もまた後で解説します。
私の目から見ても、90年代前半は豊かな時代だったと思います。さすがにバブル期ほどの悪趣味な散財というものは見なくなりましたが、それでも漫画からゲーム、音楽からファッションといったものへの消費が社会全体で活発で、ファッションにいたっては当時は安室奈美恵などアイドルも数多く現れ、こういった服飾品への支出が非常に煽られていた気がします。今じゃ安いユニクロとH&Mが流行ってるあたり、時代格差を感じます。
現代の若者論の間違いについて
大分以前の記事で、現代の若者を評価する論説のほとんどが年長者からの上から目線で語られていることが多く、その世代の人間を基準に「お金を使わなくなった」とか「車に乗らなくなった」などと、やや偏った意見が多いと私は指摘しました。
これとは別で私が最近巷で語られる現代若者論の中で致命的だと思う欠点は、
「今の若者は先の見えない世の中に人生に意欲をなくしている」
といった言質だと思います。
確かに現代の若者は将来に対して強い不安感を持ち、そのために以前と比べるのなら行動意欲などの点で大きく低下しているのは事実だと思います。以前から大分減ってはいましたが最近だとデモ行進もなければ座り込みや、ハンスト活動……ちょっと極端なものばかり挙げていますが、身近な例だと地域自治体活動などに参加する若者は私の実感でも減っている気がします。
しかしこういった事例に対して先ほどの主張は根本から間違えていると思います。もったいぶらずに言うと、「先が見えない」からやる気をなくしているのではなく、「先が見えてしまう」からやるきをなくしてしまうというのが本当の理由でしょう。
以前は学歴社会といわれながらも、しっかりと勉強していい大学に入れば社会的地位も向上すると考えられていましたが、それに対して現在はいい大学を出たからといって必ずしもいい所に就職できるとは限らなくなり、また学歴社会と言われた以前より高卒の人間に対する就職状況が、ここ二、三年は好転しているものの、非常に狭められており、例を挙げると大企業メーカーの工場作業員も正社員はほとんどおらずに派遣社員などにされるなど以前より環境は悪化しております。
そして何より、終身雇用のレールから外れると一生まともな生活をすることが出来なくなると学歴社会の頃から言われていましたが、現在は当時以上にこの言葉が重みを持ってきただけでなく、不安定な雇用環境からさきほどの「レール」から外れやすくなっているのも、不安感を増大させている原因となっているでしょう。
そのため一旦失職、下手すりゃ最初にまともなところに就職できなければその後一生は暗いままで終わる、といった具合に若者も達観しているために、一旦レールから外れるとやる気をなくしてしまうのだと思います。将来に不安を持つといっても、わからないというより一生駄目なままというのがわかりきっているというのが根本的な問題でしょう。
ついでに書くと以前は定期昇給といって毎年勤め続けるごとに月々の給料は増えていきましたが、現在はどの企業も職能給という制度にほとんど移っていてこの定期昇給を維持しているところなんて極わずかでしょう。
何だかんだいって戦後に日本社会が非常に大きな活力を持てたのは、「先が見えなかった」からだと思います。今じゃ信じられないような人、ヤクザくさいハマコーとか野中広務が国会議員になれたり、街工場の一小企業がいつの間にか世界のソニーと呼ばれるようになってたりなど、ありていに言えば下克上はいくらでも起こせるという空気が日本人を真に強くさせたのだと思います。
私としても何事もわかりきっている世の中よりやはり何が起こるかわからない世界の方が生きてて楽しそうだと思います。信長の野望でも天下統一が確定的になって近づいてくるとかえってつまらなくなるし、逆に生き残るかどうかの瀬戸際で遊ぶ方が楽しいしなぁ(・∀・)
これとは別で私が最近巷で語られる現代若者論の中で致命的だと思う欠点は、
「今の若者は先の見えない世の中に人生に意欲をなくしている」
といった言質だと思います。
確かに現代の若者は将来に対して強い不安感を持ち、そのために以前と比べるのなら行動意欲などの点で大きく低下しているのは事実だと思います。以前から大分減ってはいましたが最近だとデモ行進もなければ座り込みや、ハンスト活動……ちょっと極端なものばかり挙げていますが、身近な例だと地域自治体活動などに参加する若者は私の実感でも減っている気がします。
しかしこういった事例に対して先ほどの主張は根本から間違えていると思います。もったいぶらずに言うと、「先が見えない」からやる気をなくしているのではなく、「先が見えてしまう」からやるきをなくしてしまうというのが本当の理由でしょう。
以前は学歴社会といわれながらも、しっかりと勉強していい大学に入れば社会的地位も向上すると考えられていましたが、それに対して現在はいい大学を出たからといって必ずしもいい所に就職できるとは限らなくなり、また学歴社会と言われた以前より高卒の人間に対する就職状況が、ここ二、三年は好転しているものの、非常に狭められており、例を挙げると大企業メーカーの工場作業員も正社員はほとんどおらずに派遣社員などにされるなど以前より環境は悪化しております。
そして何より、終身雇用のレールから外れると一生まともな生活をすることが出来なくなると学歴社会の頃から言われていましたが、現在は当時以上にこの言葉が重みを持ってきただけでなく、不安定な雇用環境からさきほどの「レール」から外れやすくなっているのも、不安感を増大させている原因となっているでしょう。
そのため一旦失職、下手すりゃ最初にまともなところに就職できなければその後一生は暗いままで終わる、といった具合に若者も達観しているために、一旦レールから外れるとやる気をなくしてしまうのだと思います。将来に不安を持つといっても、わからないというより一生駄目なままというのがわかりきっているというのが根本的な問題でしょう。
ついでに書くと以前は定期昇給といって毎年勤め続けるごとに月々の給料は増えていきましたが、現在はどの企業も職能給という制度にほとんど移っていてこの定期昇給を維持しているところなんて極わずかでしょう。
何だかんだいって戦後に日本社会が非常に大きな活力を持てたのは、「先が見えなかった」からだと思います。今じゃ信じられないような人、ヤクザくさいハマコーとか野中広務が国会議員になれたり、街工場の一小企業がいつの間にか世界のソニーと呼ばれるようになってたりなど、ありていに言えば下克上はいくらでも起こせるという空気が日本人を真に強くさせたのだと思います。
私としても何事もわかりきっている世の中よりやはり何が起こるかわからない世界の方が生きてて楽しそうだと思います。信長の野望でも天下統一が確定的になって近づいてくるとかえってつまらなくなるし、逆に生き残るかどうかの瀬戸際で遊ぶ方が楽しいしなぁ(・∀・)
2008年10月29日水曜日
時価会計見直しについて
今日友人、ってかツッチーから、「今、時価会計の見直しがされているそうですね」という直球メールが来たので、これは是非打ち返してあげねばと思うのでこれについてすこし解説します。
詳しく会計学を学んでないで言うのもなんですが、企業は自分たちの持っている資産がどれほどの価値があるか年度ごとの会計報告で公開しなければならないのですが、その公開する価値というのは確かまだまちまちだったと思います。
まず一般的に多いのは「簿価」という単位で、これはその資産の取得時にいくら払ったかという価格で、会計報告時には多分まだこれが主流で使われていると思います。しかしこれは以前から批判されているように実態にあっていない価格が報告されることが多く、たとえばの話で40年前に買った土地を簿価で書かれても、それ以後の物価の上昇を考えると果たして現在その簿価の価値どおりかといったらまずもってそんなことはありえません。
最近でこういった価格の差異が大きく目立った例は確か2004年に起きた村上ファンドの阪神電鉄買収騒動の時で、阪神電鉄が持っている阪神百貨店と甲子園の土地の価格が数十年前の購入した際のまさにこの簿価で会計報告されており、もし仮にこれらの土地を売り出したり担保として銀行にかけるとしたらその簿価の数倍の資金が調達できると言われていました。恐らく、それは事実でしょう。
こうした簿価に対して、会計報告する資産は実際の価値で報告する方が市場の透明性という観点からも望ましいとして取り入れられたのが「時価」です。これは簿価と違ってそのまんま、会計報告時の評価価格の事を指しています。たとえば100万円で買った証券が数年後の会計報告時に90万円に目減りしていた場合、簿価会計では取得価格の100万円と報告するところを、時価会計では90万円と報告しなければなりません。
この時価会計は恐らくまだ株式のみで、詳しく確認はまだ取ってないのですが先ほどの土地などの不動産には適用されていなかったと思います。ですが21世紀に入ってからはアメリカの圧力の下で日本もどんどんと取り入れていき、その結果それまで株式持合いが続いていた日本の大企業連中からすると帳簿上の価格を急激に落とさねばならず、参照しているサイトによると以前に三菱電機はこの変更の際に250億円の黒字から140億円の赤字に転落したとまで書かれています。
結論を言うと、私は時価会計の方がやはり望ましいと思います。というのも簿価ではやはり実体にそぐわない数字が並び、投資をする際にも企業の情報透明化の観点からも外部者に弊害が生じやすいからです。それこそ簿価で1000万円の株式資産を持っていると言うからその企業に投資をしたところ、実際にはその株はもう100万円程の価値しかなかったら大変なことで、業績は悪くとも資産があるから安心だと思っていたら突然その企業が倒産するということもあり、もしそうなったりしたら投資した方がそれは詐欺だと思っても仕方がないでしょう。
また逆に資産価値をわざと低く見積もることによって、その資産にかけられる資産税を企業側は軽減することも出来ます。多分先ほどの阪神電鉄なんてそういう意図でわざと不動産価値を低く見積もっているのでしょうが、これなんか見ようによっては立派な脱税ですし、資本流通の促進という観点からもあまり望ましくありません。
ちょっといろいろ参照したところ、この時価会計の導入に反対している人は結構多くいるそうです。その人たちの主張を見ると、時価会計にすることで実業で赤字を出しても時価の上昇を利益として計上することによって赤字隠しの粉飾決算が行われてしまうといった指摘をしており、有名な「エンロン事件」で破綻したエンロンもこの手法で赤字を隠していたそうで、納得できる真っ当な指摘だと私も思います。
しかしそれを考慮しても、簿価会計では資産所有者の企業がどう見ても有利になるだけで投資家にとっても社会にとっても時価会計より弊害が大きいと思えます。
ここでツッチーの振ってきた話になるのですが、
・「時価会計見直し」論まで出る、サブプライムの痛手の深さ
リンクに貼った記事によるとツッチーのくれた情報通りに、かつては日本に時価会計を迫ったアメリカがこの時価会計をやめようじゃないかと言い出しているそうです。その狙いは下がり続ける株価が企業の会計報告時に大きな損失額を計上し、それを見た投資家がさらに資金を引き上げる悪循環を生むから、といったあたりでしょう。
しかしそれは記事の執筆者である山崎元氏の言うとおりに、経営者の失態隠しにしかなりません。もっともらしい事を言ってはいますが、恐らく時価会計をやめたところでこの株安が止まる事はないでしょうし、隠したところでその企業が倒産なんか起きたらそれこそ投資家がその損失をまともに被ることになるので、私も山崎氏同様にこの動きには絶対に反対です。
自分で書いててなんですが、最近自分はまたアメリカ人っぽくなってきたなと思います。「孤独に強くあれ日本人」の記事でもそうですけど。
詳しく会計学を学んでないで言うのもなんですが、企業は自分たちの持っている資産がどれほどの価値があるか年度ごとの会計報告で公開しなければならないのですが、その公開する価値というのは確かまだまちまちだったと思います。
まず一般的に多いのは「簿価」という単位で、これはその資産の取得時にいくら払ったかという価格で、会計報告時には多分まだこれが主流で使われていると思います。しかしこれは以前から批判されているように実態にあっていない価格が報告されることが多く、たとえばの話で40年前に買った土地を簿価で書かれても、それ以後の物価の上昇を考えると果たして現在その簿価の価値どおりかといったらまずもってそんなことはありえません。
最近でこういった価格の差異が大きく目立った例は確か2004年に起きた村上ファンドの阪神電鉄買収騒動の時で、阪神電鉄が持っている阪神百貨店と甲子園の土地の価格が数十年前の購入した際のまさにこの簿価で会計報告されており、もし仮にこれらの土地を売り出したり担保として銀行にかけるとしたらその簿価の数倍の資金が調達できると言われていました。恐らく、それは事実でしょう。
こうした簿価に対して、会計報告する資産は実際の価値で報告する方が市場の透明性という観点からも望ましいとして取り入れられたのが「時価」です。これは簿価と違ってそのまんま、会計報告時の評価価格の事を指しています。たとえば100万円で買った証券が数年後の会計報告時に90万円に目減りしていた場合、簿価会計では取得価格の100万円と報告するところを、時価会計では90万円と報告しなければなりません。
この時価会計は恐らくまだ株式のみで、詳しく確認はまだ取ってないのですが先ほどの土地などの不動産には適用されていなかったと思います。ですが21世紀に入ってからはアメリカの圧力の下で日本もどんどんと取り入れていき、その結果それまで株式持合いが続いていた日本の大企業連中からすると帳簿上の価格を急激に落とさねばならず、参照しているサイトによると以前に三菱電機はこの変更の際に250億円の黒字から140億円の赤字に転落したとまで書かれています。
結論を言うと、私は時価会計の方がやはり望ましいと思います。というのも簿価ではやはり実体にそぐわない数字が並び、投資をする際にも企業の情報透明化の観点からも外部者に弊害が生じやすいからです。それこそ簿価で1000万円の株式資産を持っていると言うからその企業に投資をしたところ、実際にはその株はもう100万円程の価値しかなかったら大変なことで、業績は悪くとも資産があるから安心だと思っていたら突然その企業が倒産するということもあり、もしそうなったりしたら投資した方がそれは詐欺だと思っても仕方がないでしょう。
また逆に資産価値をわざと低く見積もることによって、その資産にかけられる資産税を企業側は軽減することも出来ます。多分先ほどの阪神電鉄なんてそういう意図でわざと不動産価値を低く見積もっているのでしょうが、これなんか見ようによっては立派な脱税ですし、資本流通の促進という観点からもあまり望ましくありません。
ちょっといろいろ参照したところ、この時価会計の導入に反対している人は結構多くいるそうです。その人たちの主張を見ると、時価会計にすることで実業で赤字を出しても時価の上昇を利益として計上することによって赤字隠しの粉飾決算が行われてしまうといった指摘をしており、有名な「エンロン事件」で破綻したエンロンもこの手法で赤字を隠していたそうで、納得できる真っ当な指摘だと私も思います。
しかしそれを考慮しても、簿価会計では資産所有者の企業がどう見ても有利になるだけで投資家にとっても社会にとっても時価会計より弊害が大きいと思えます。
ここでツッチーの振ってきた話になるのですが、
・「時価会計見直し」論まで出る、サブプライムの痛手の深さ
リンクに貼った記事によるとツッチーのくれた情報通りに、かつては日本に時価会計を迫ったアメリカがこの時価会計をやめようじゃないかと言い出しているそうです。その狙いは下がり続ける株価が企業の会計報告時に大きな損失額を計上し、それを見た投資家がさらに資金を引き上げる悪循環を生むから、といったあたりでしょう。
しかしそれは記事の執筆者である山崎元氏の言うとおりに、経営者の失態隠しにしかなりません。もっともらしい事を言ってはいますが、恐らく時価会計をやめたところでこの株安が止まる事はないでしょうし、隠したところでその企業が倒産なんか起きたらそれこそ投資家がその損失をまともに被ることになるので、私も山崎氏同様にこの動きには絶対に反対です。
自分で書いててなんですが、最近自分はまたアメリカ人っぽくなってきたなと思います。「孤独に強くあれ日本人」の記事でもそうですけど。
失われた十年とは~その三、政治的混乱~
前回までの記事が導入に当たり、この記事から本題に入っていきます。しばらくは政策的な話が続きそうです。
さてこの「失われた十年」。ほかの不況と一線を画す特徴は言うまでもなくバブル以後から約十年間にも及ぶ長い間、何の進展もなかったという点でしょう。では一体何故それほど長い間に何の進展もなかったのかですが、私じゃこの原因はこれだと言い切るような一つの原因というものはなく、複数の大きな要因が作用していたためだと考えています。新自由主義が大流行りな昨今の時代では巷に流通している一般の経済書などには恐らく、それまでの日本独特の雇用形態や金融システム、国際スタンダードに乗り遅れたなどを理由として挙げているものばかりでしょうが、確かにそういったものも重要な要因だとは認めますが、私はそのどれよりもちょうどバブル崩壊期に起こった政変と、それによって続いた政治的混乱こそが複数の要因の中でもひときわ大きな原因になっていると考えます。
まず、以下の表を見てください。
首相名称 在任期間 任期
昭和
田中角榮 1972年07月07日- 1974年12月09日 886日
三木武夫 1974年12月09日- 1976年12月24日 774日
福田赳夫 1976年12月24日- 1978年12月07日 714日
大平正芳 1978年12月07日- 1980年06月12日 554日
鈴木善幸 1980年07月17日- 1982年11月27日 864日
中曾根康弘 1982年11月27日- 1987年11月06日 1806日
竹下登 1987年11月06日- 1989年06月03日 576日
平成
宇野宗佑 1989年06月03日- 1989年08月10日 69日
海部俊樹 1989年08月10日- 1991年11月05日 818日
宮澤喜一 1991年11月05日- 1993年08月09日 644日
細川護熙 1993年08月09日- 1994年04月28日 263日
羽田孜 1994年04月28日- 1994年06月30日 64日
村山富市 1994年06月30日- 1996年01月11日 561日
橋本龍太郎 1996年01月11日- 1998年07月30日 932日
小渕恵三 1998年07月30日- 2000年04月05日 616日
森喜朗 2000年04月05日- 2001年04月26日 387日
小泉純一郎 2001年04月26日- 2006年09月26日 1980日
これは田中角栄から小泉純一郎に至るまでの総理大臣の任期を、ウィキペディアから拝借してきた図を元に見やすく簡略化したものです。まず注目してもらいたいのは「失われた十年」の期間内における総理大臣の数で、前回に定義した開始時期である91年の海部俊樹からスタートして数える事なんと九人にも上り、平成年間で見るならば宇野短命内閣も入って十人もこの時期に総理大臣が輩出されています。これは72年の田中角栄から89年に任期を終える竹下登までが七人である事を考えると、この失われた十年に如何に多くの総理大臣が出現したかがわかるでしょう。また十年スパンで考えても以下の表のように、
注:★マークは任期が二年以上
といった具合で、事の異常さは一目瞭然です。
こうしてみると失われた十年に当たる平成年間がどれだけ総理大臣のバーゲンセールなのかがわかり、また任期一つを取ってみても海部俊樹から小泉純一郎まで十二年間で九人の総理大臣で、単純計算で一人頭は約12÷9=1.333……と、平均するとこの時期の首相の人気は約1.3年しかありません。最近じゃ皆一年も持たないんだけど。
現実にこの失われた十年の間に在任任期が二年を越した大臣はというと海部俊樹、橋本龍太郎、小泉純一郎の三人のみで、他の大臣はというと計算通りにほとんどが一年から二年目の間に辞職しています。
このように首相が代わる代わる交代していった原因はまず間違いなく、93年に初めて自民党が選挙で大敗した挙句に野党に転落した、55年体制の崩壊が原因です。この時に自民党は野党に転落し、またその後も与党に戻ったものの単独政権ではなく連立政権で、更にそれを取り巻く野党らも合従連衡を繰り返していたという、政治的に不安定な状態が続きました。なお最終的に今のひとまず落ち着いた状態に至ったのは小渕政権時の自民、公明の連立以後でしょう。この時には民主党も成立しており、その後は小沢一郎率いる自由党が民主党に合流したくらいですし。
こうした政治的に不安定な状態が続いたことの結果として、政権基盤が不安定なために与党となっても長期的な展望にたった政策を打ち出すことが出来ず、また党を支えるはずの国会議員たちも目下の経済政策より党利党略に神経を使うようになっていったのではと私は思います。
これは私の推論ですが、この時期に議員達はその政局の流動性から大物議員であれちょっとしたことで選挙にも落選しやすくなり、そのため政策以上に自らの選挙対策に神経を使うようになっていったのではないかと思います。実際にバブル崩壊以後から小泉政権の誕生に至るまでに景気対策の名の元に大型の公共事業がいくつも行われており、その公共事業を地元の選挙対策として利用した議員も少なくはなかったでしょう。だとすると、場合によってはそういった公共事業は景気対策以上に選挙対策といった目的の方が強かったとも言えると思います。
このような政治面での不安定さが「失われた十年」を政治的、社会的にもより進展のないものにさせた最大の原因と私は睨んでいます。私の不勉強によるものかもしれませんが、どうも巷に出ている書籍はこの点をあまり追究していないような気がします。まぁ今の状況も似たようなものなんですが。
さてこの「失われた十年」。ほかの不況と一線を画す特徴は言うまでもなくバブル以後から約十年間にも及ぶ長い間、何の進展もなかったという点でしょう。では一体何故それほど長い間に何の進展もなかったのかですが、私じゃこの原因はこれだと言い切るような一つの原因というものはなく、複数の大きな要因が作用していたためだと考えています。新自由主義が大流行りな昨今の時代では巷に流通している一般の経済書などには恐らく、それまでの日本独特の雇用形態や金融システム、国際スタンダードに乗り遅れたなどを理由として挙げているものばかりでしょうが、確かにそういったものも重要な要因だとは認めますが、私はそのどれよりもちょうどバブル崩壊期に起こった政変と、それによって続いた政治的混乱こそが複数の要因の中でもひときわ大きな原因になっていると考えます。
まず、以下の表を見てください。
首相名称 在任期間 任期
昭和
田中角榮 1972年07月07日- 1974年12月09日 886日
三木武夫 1974年12月09日- 1976年12月24日 774日
福田赳夫 1976年12月24日- 1978年12月07日 714日
大平正芳 1978年12月07日- 1980年06月12日 554日
鈴木善幸 1980年07月17日- 1982年11月27日 864日
中曾根康弘 1982年11月27日- 1987年11月06日 1806日
竹下登 1987年11月06日- 1989年06月03日 576日
平成
宇野宗佑 1989年06月03日- 1989年08月10日 69日
海部俊樹 1989年08月10日- 1991年11月05日 818日
宮澤喜一 1991年11月05日- 1993年08月09日 644日
細川護熙 1993年08月09日- 1994年04月28日 263日
羽田孜 1994年04月28日- 1994年06月30日 64日
村山富市 1994年06月30日- 1996年01月11日 561日
橋本龍太郎 1996年01月11日- 1998年07月30日 932日
小渕恵三 1998年07月30日- 2000年04月05日 616日
森喜朗 2000年04月05日- 2001年04月26日 387日
小泉純一郎 2001年04月26日- 2006年09月26日 1980日
これは田中角栄から小泉純一郎に至るまでの総理大臣の任期を、ウィキペディアから拝借してきた図を元に見やすく簡略化したものです。まず注目してもらいたいのは「失われた十年」の期間内における総理大臣の数で、前回に定義した開始時期である91年の海部俊樹からスタートして数える事なんと九人にも上り、平成年間で見るならば宇野短命内閣も入って十人もこの時期に総理大臣が輩出されています。これは72年の田中角栄から89年に任期を終える竹下登までが七人である事を考えると、この失われた十年に如何に多くの総理大臣が出現したかがわかるでしょう。また十年スパンで考えても以下の表のように、
注:★マークは任期が二年以上
といった具合で、事の異常さは一目瞭然です。
こうしてみると失われた十年に当たる平成年間がどれだけ総理大臣のバーゲンセールなのかがわかり、また任期一つを取ってみても海部俊樹から小泉純一郎まで十二年間で九人の総理大臣で、単純計算で一人頭は約12÷9=1.333……と、平均するとこの時期の首相の人気は約1.3年しかありません。最近じゃ皆一年も持たないんだけど。
現実にこの失われた十年の間に在任任期が二年を越した大臣はというと海部俊樹、橋本龍太郎、小泉純一郎の三人のみで、他の大臣はというと計算通りにほとんどが一年から二年目の間に辞職しています。
このように首相が代わる代わる交代していった原因はまず間違いなく、93年に初めて自民党が選挙で大敗した挙句に野党に転落した、55年体制の崩壊が原因です。この時に自民党は野党に転落し、またその後も与党に戻ったものの単独政権ではなく連立政権で、更にそれを取り巻く野党らも合従連衡を繰り返していたという、政治的に不安定な状態が続きました。なお最終的に今のひとまず落ち着いた状態に至ったのは小渕政権時の自民、公明の連立以後でしょう。この時には民主党も成立しており、その後は小沢一郎率いる自由党が民主党に合流したくらいですし。
こうした政治的に不安定な状態が続いたことの結果として、政権基盤が不安定なために与党となっても長期的な展望にたった政策を打ち出すことが出来ず、また党を支えるはずの国会議員たちも目下の経済政策より党利党略に神経を使うようになっていったのではと私は思います。
これは私の推論ですが、この時期に議員達はその政局の流動性から大物議員であれちょっとしたことで選挙にも落選しやすくなり、そのため政策以上に自らの選挙対策に神経を使うようになっていったのではないかと思います。実際にバブル崩壊以後から小泉政権の誕生に至るまでに景気対策の名の元に大型の公共事業がいくつも行われており、その公共事業を地元の選挙対策として利用した議員も少なくはなかったでしょう。だとすると、場合によってはそういった公共事業は景気対策以上に選挙対策といった目的の方が強かったとも言えると思います。
このような政治面での不安定さが「失われた十年」を政治的、社会的にもより進展のないものにさせた最大の原因と私は睨んでいます。私の不勉強によるものかもしれませんが、どうも巷に出ている書籍はこの点をあまり追究していないような気がします。まぁ今の状況も似たようなものなんですが。
2008年10月28日火曜日
友人の一言
本日政府から文化勲章の授与者の発表があり、その中で私が以前に書いた「国民栄誉賞について」の記事の中で紹介している古橋広之進氏も授与者として入っていました。私も水泳をやっていたこともあり、古橋氏の戦後の苦しい時期に日本人を水泳で勇気付けたという功績を考えると我が事のようにうれしく思えます。別に古橋氏に限るわけではありませんが、やはり自分が尊敬する人物が世間で高く評価をされると非常にうれしいものです。
かくいう私は、多少過剰な被害者意識も入っているでしょうがこれまで自分はかなり周囲に冷遇されてきたと自認しています。面と向かって狂ってるとか頭がおかしいと言われたのはザラですし、根も葉もないことを陰でよく言われていたと知り合いに教えてもらいました。特にそれが一番激しかったのは中学高校時代で、私自身も周りがそういう風に自分を見ているのを知っていたのでなるべく付き合わないようにしていました。
そんな風に、恐らく傍目にも非常に暗い時代だったある日、席が隣同士でまだ話が出来る友人に対して自分は今こんな状態で非常に冷遇されている。良くも悪くも自分をちゃんと見てくれる人間はいないなどと愚痴っていました。するとその時友人は、
「周りが君に対していろいろ言っているのはよくわかるよ。でも君は以前に僕を助けてくれたし、僕はそのことにずっと感謝しているし君を高く評価してるよ」
と、いうように言ってくれました。
実はこの会話時よりちょっと前に、授業中に携帯電話が鳴り出して犯人が名乗り出てくるまで家に返さないと教師が出て行って残った生徒同士で犯人は誰だという風になった時、クラスの一人が、「ぶっちゃけ、携帯電話持ってる奴は手を挙げて」と呼びかけた時、不用意にその友人はあまり話を聞いてなかったにもかかわらず手を挙げてしまいました。
それ以前にも何度か「とりあえず携帯持ってる奴は?」と聞かれていて、その友人は当時は携帯電話を持ってきてなかったのでそれまで手を挙げていなかったのですが大体三回目くらいのその呼びかけに間違えて手を挙げてしまったところ、「やっぱりお前、持ってきていたんじゃないか!」ってな感じで、何も事態がわかっていないその友人は他の生徒から突然激しく糾弾されそうになりました。
実を言うと、ちょうどその友人と私のいる辺りの席から携帯音がしており、恐らく他の生徒は、「あの中の誰かだ」と見ていたのだと思います。そこで最初は持っていないと(実際に持っていないが)言っていたのに後から手を間違ってあげちゃったもんだから、その友人に対してものすごい反応をしたのだと今更ながら思います。
友人も突然激しく糾弾されるもんだからますますパニックになって、「えっ、えっ?」といっては何も反応することができずにいました。席が隣で横で見ていたこともあり事態がわかっていた私はすぐに立ち上がると、「彼は何もわかってなくて、周りが手を挙げているのを見て間違って挙げちゃっただけだ」と、友人が携帯電話を持ってきていないと改めて説明し、その場はすぐに元通りに収まりました。
私としては特別な何かをしたと思っていなかったのですが、友人はこのことを非常に感謝しており、それで最初に書いた内容のセリフを私に言ってくれたのだと思います。時期も時期だったのでこの友人の発言は私にとって非常にありがたく、今でも折に触れてほとんど交流はなくなってしまったこの友人のことを思い出します。またそれと同時に、この友人が評価してくれたのだから、自分はその評価に値するだけの立派な人間にならなくてはならないと毎回思い直しては自身の研鑽を図りなおしています。友人からすればほんの些細な一言だったのかもしれませんが、その一言は未だに私を動かす大きな原動力となっております。
どうでもいいけど、引用した過去の記事に今日引退発表をした高橋尚子のことも書いているは因果だなぁ。
かくいう私は、多少過剰な被害者意識も入っているでしょうがこれまで自分はかなり周囲に冷遇されてきたと自認しています。面と向かって狂ってるとか頭がおかしいと言われたのはザラですし、根も葉もないことを陰でよく言われていたと知り合いに教えてもらいました。特にそれが一番激しかったのは中学高校時代で、私自身も周りがそういう風に自分を見ているのを知っていたのでなるべく付き合わないようにしていました。
そんな風に、恐らく傍目にも非常に暗い時代だったある日、席が隣同士でまだ話が出来る友人に対して自分は今こんな状態で非常に冷遇されている。良くも悪くも自分をちゃんと見てくれる人間はいないなどと愚痴っていました。するとその時友人は、
「周りが君に対していろいろ言っているのはよくわかるよ。でも君は以前に僕を助けてくれたし、僕はそのことにずっと感謝しているし君を高く評価してるよ」
と、いうように言ってくれました。
実はこの会話時よりちょっと前に、授業中に携帯電話が鳴り出して犯人が名乗り出てくるまで家に返さないと教師が出て行って残った生徒同士で犯人は誰だという風になった時、クラスの一人が、「ぶっちゃけ、携帯電話持ってる奴は手を挙げて」と呼びかけた時、不用意にその友人はあまり話を聞いてなかったにもかかわらず手を挙げてしまいました。
それ以前にも何度か「とりあえず携帯持ってる奴は?」と聞かれていて、その友人は当時は携帯電話を持ってきてなかったのでそれまで手を挙げていなかったのですが大体三回目くらいのその呼びかけに間違えて手を挙げてしまったところ、「やっぱりお前、持ってきていたんじゃないか!」ってな感じで、何も事態がわかっていないその友人は他の生徒から突然激しく糾弾されそうになりました。
実を言うと、ちょうどその友人と私のいる辺りの席から携帯音がしており、恐らく他の生徒は、「あの中の誰かだ」と見ていたのだと思います。そこで最初は持っていないと(実際に持っていないが)言っていたのに後から手を間違ってあげちゃったもんだから、その友人に対してものすごい反応をしたのだと今更ながら思います。
友人も突然激しく糾弾されるもんだからますますパニックになって、「えっ、えっ?」といっては何も反応することができずにいました。席が隣で横で見ていたこともあり事態がわかっていた私はすぐに立ち上がると、「彼は何もわかってなくて、周りが手を挙げているのを見て間違って挙げちゃっただけだ」と、友人が携帯電話を持ってきていないと改めて説明し、その場はすぐに元通りに収まりました。
私としては特別な何かをしたと思っていなかったのですが、友人はこのことを非常に感謝しており、それで最初に書いた内容のセリフを私に言ってくれたのだと思います。時期も時期だったのでこの友人の発言は私にとって非常にありがたく、今でも折に触れてほとんど交流はなくなってしまったこの友人のことを思い出します。またそれと同時に、この友人が評価してくれたのだから、自分はその評価に値するだけの立派な人間にならなくてはならないと毎回思い直しては自身の研鑽を図りなおしています。友人からすればほんの些細な一言だったのかもしれませんが、その一言は未だに私を動かす大きな原動力となっております。
どうでもいいけど、引用した過去の記事に今日引退発表をした高橋尚子のことも書いているは因果だなぁ。
失われた十年とは~その二、期間~
この連載を始めるに当たってまずやらねばらないのは言うまでもなく、この「失われた十年」が何を指しているのかという定義です。そこで連載一発目の今日はその辺を詳しく定義します。
実はこの「失われた十年」という言葉は日本で初めて出来た言葉ではなく、もともとはイギリスにおいて二次大戦後、経済的発展が少なく閉塞した時代であった1945~1955の十年を指す言葉だったらしいようです。もっとも今現在でその事実を知っているのはニュース解説者でもほとんどいないでしょう。
では実質的にどのように使われているかですが、まず世間で流布している一般的な定義としてはバブル崩壊以降の何の進展もないまま延々と不況が続き、気が付いたら十年も経ってしまった、といったような意味合いが主でしょう。別にこの説明に特段疑義を私も持ちません。
しかしここで重要になってくるのは、実際にいつからいつまでがこの失われた十年の期間に当たるかです。この点は各種の評論においてもいくつか意見が分かれているのですが、始まった時期についてはどの意見も共通してバブルの崩壊時として、年数で言うのならこの場合は日経平均株価が下がりだして本格的に景気が悪化し始めた1991年を指しています。
株価自体は1989年12月29日の大納会に38915円87銭という最高値を記録してからは下がり続けて90年には一時2万円を割るものの、その後しばらくは日本全体で好景気が続いていました。しかし企業業績の落ち込みが続いてそういった好景気も立ち行かなくなっていき、本格的に「バブル崩壊」という言葉が使われ始めたのはやはり91年頃だったと子供心に私自身も記憶しています。また国際的にもこの年に去年処刑されたサダム・フセイン元イラク大統領によるクウェート侵攻によって湾岸戦争が勃発しており、国際情勢が大きく転換した年でもあるのでひとつの時代のパラダイムとしては適当だと思います。
問題なのはこの失われた十年が終わった時期です。
これには様々な意見があるのですが、文字通り91年から十年後で2001年とする説と、昨日までここ十数年のうちで最低株価記録の7607円88銭を出した2003年4月28日という二つの意見が今のところ強いです。
私の実感で言うと、後者の03年の初期が最も暗いイメージが社会に蔓延していた時期で案の定株価も大底を出しましたが、その大底を境に株価は一応のところ下げ止まり、全体的に暗くはあったものの少なくとも今日より明日はマシなのではないかという実感が徐々に込み上げてきた年だったと思います。株価もその年の10月には11000円台にまで回復し、それまで歴史的な就職氷河期であった大学生の就職戦線も2001年を底にして徐々に採用がまた増え始めてきた頃でした。
こうしたことを考慮すると、確かに01年が大企業の倒産が相次ぎ実業面で恐らく最も苦しい時期ではあるのですが、そうした状態から脱したという意味合いで03年の方が終結年としては適当な気がします。またこれはちょっとした偶然なのですが、何気に03年はイラク戦争の勃発年でもあってこの年の年末にはフセイン元大統領もアメリカ軍によって拘束されてます。既に述べたように開始年とする91年は湾岸戦争が勃発しており、文字通りフセインに始まりフセインに終わる「失われた十年」と考えるのもなかなか
乙な気がします。
以上のように、この連載における「失われた十年」というのは1991年から2003年を指す事にします。とはいっても2001年までという説も定義的には決して悪いわけでもなく、先ほどの説明に加えこの01年はその後の政治的、社会的変動の中心となる、小泉内閣の誕生年でもあります。
その評価はともかくとして小泉元首相がこの失われた十年の構造不況を改革したのは間違いなく、そういった意味で03年が社会実感の転換点としての定義に対し、こっちは社会構造の転換点としての定義とすることも出来ます。そして蛇足ではありますが、01年は日中戦争を代表する人物である張学良がこの世を去った年でもあり、中国とか関わりの深い私としてもこの理由にあわせて01年説を持っていきたくなりそうです。
なのであえてこの両説を平行して使うのなら、広義としては91~03年、狭義として91~01年と考えるのが失われた十年の期間として適当だと考えます。本連載では先にも言ったとおり基本的には広義を採用するので、2003年に至るまでの事例を思いつくまま解説して以降と思います。
実はこの「失われた十年」という言葉は日本で初めて出来た言葉ではなく、もともとはイギリスにおいて二次大戦後、経済的発展が少なく閉塞した時代であった1945~1955の十年を指す言葉だったらしいようです。もっとも今現在でその事実を知っているのはニュース解説者でもほとんどいないでしょう。
では実質的にどのように使われているかですが、まず世間で流布している一般的な定義としてはバブル崩壊以降の何の進展もないまま延々と不況が続き、気が付いたら十年も経ってしまった、といったような意味合いが主でしょう。別にこの説明に特段疑義を私も持ちません。
しかしここで重要になってくるのは、実際にいつからいつまでがこの失われた十年の期間に当たるかです。この点は各種の評論においてもいくつか意見が分かれているのですが、始まった時期についてはどの意見も共通してバブルの崩壊時として、年数で言うのならこの場合は日経平均株価が下がりだして本格的に景気が悪化し始めた1991年を指しています。
株価自体は1989年12月29日の大納会に38915円87銭という最高値を記録してからは下がり続けて90年には一時2万円を割るものの、その後しばらくは日本全体で好景気が続いていました。しかし企業業績の落ち込みが続いてそういった好景気も立ち行かなくなっていき、本格的に「バブル崩壊」という言葉が使われ始めたのはやはり91年頃だったと子供心に私自身も記憶しています。また国際的にもこの年に去年処刑されたサダム・フセイン元イラク大統領によるクウェート侵攻によって湾岸戦争が勃発しており、国際情勢が大きく転換した年でもあるのでひとつの時代のパラダイムとしては適当だと思います。
問題なのはこの失われた十年が終わった時期です。
これには様々な意見があるのですが、文字通り91年から十年後で2001年とする説と、昨日までここ十数年のうちで最低株価記録の7607円88銭を出した2003年4月28日という二つの意見が今のところ強いです。
私の実感で言うと、後者の03年の初期が最も暗いイメージが社会に蔓延していた時期で案の定株価も大底を出しましたが、その大底を境に株価は一応のところ下げ止まり、全体的に暗くはあったものの少なくとも今日より明日はマシなのではないかという実感が徐々に込み上げてきた年だったと思います。株価もその年の10月には11000円台にまで回復し、それまで歴史的な就職氷河期であった大学生の就職戦線も2001年を底にして徐々に採用がまた増え始めてきた頃でした。
こうしたことを考慮すると、確かに01年が大企業の倒産が相次ぎ実業面で恐らく最も苦しい時期ではあるのですが、そうした状態から脱したという意味合いで03年の方が終結年としては適当な気がします。またこれはちょっとした偶然なのですが、何気に03年はイラク戦争の勃発年でもあってこの年の年末にはフセイン元大統領もアメリカ軍によって拘束されてます。既に述べたように開始年とする91年は湾岸戦争が勃発しており、文字通りフセインに始まりフセインに終わる「失われた十年」と考えるのもなかなか
乙な気がします。
以上のように、この連載における「失われた十年」というのは1991年から2003年を指す事にします。とはいっても2001年までという説も定義的には決して悪いわけでもなく、先ほどの説明に加えこの01年はその後の政治的、社会的変動の中心となる、小泉内閣の誕生年でもあります。
その評価はともかくとして小泉元首相がこの失われた十年の構造不況を改革したのは間違いなく、そういった意味で03年が社会実感の転換点としての定義に対し、こっちは社会構造の転換点としての定義とすることも出来ます。そして蛇足ではありますが、01年は日中戦争を代表する人物である張学良がこの世を去った年でもあり、中国とか関わりの深い私としてもこの理由にあわせて01年説を持っていきたくなりそうです。
なのであえてこの両説を平行して使うのなら、広義としては91~03年、狭義として91~01年と考えるのが失われた十年の期間として適当だと考えます。本連載では先にも言ったとおり基本的には広義を採用するので、2003年に至るまでの事例を思いつくまま解説して以降と思います。
登録:
投稿 (Atom)