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2009年9月21日月曜日

ラジオ体操の後によくしていたこと

 あまり書くことがないので、今日は自分の昔話を一つ紹介します。

 今はどうだか知りませんが、私が小学生の頃は夏休みの間、早朝に近所の公園で小学生向けにラジオ体操が行われていました。ラジオ体操が行われるのは朝の六時からということで本音ではそんなに行きたくなかったものの、友人らも参加するし両親もうるさく言うので大体二、三日にいっぺんくらいの割合で私も参加していました。

 今もそうですが当時の私の住居はマンションで、ラジオ体操の現場もマンション近くの公園で行われるために、ラジオ体操が終わると子供たちは毎日揃って同じマンションへと帰っていました。
 そうやって自宅に戻る際、普段はやることはないのですがラジオ体操帰りで人数も揃っているため、私を含めた小学生らはよくマンションに備え付けられているエレベーターにみんなで乗り込み、重量超過ブザーをなんとか鳴らそうとよく挑戦していました。

 当然乗り込むのは子供だけなので一人一人の体重はほとんど無いのですが、小学四年生くらいが音頭を取って、「ほら、お前らはもっと奥行け。まだ人はいないのか?」などと言ってはぎゅうぎゅうになるまで乗り込み、最後にうまい具合にブザーがなったらみんなで「やったー!」といって喜んでいました。もちろん、ブザーを鳴らしたら延々と乗り続けることはなく、すぐに降りて三々五々に別れてましたが。

 そんなアホなことして帰宅した後、当時の夏休みは八時くらいからよくアニメの再放送が月曜から金曜に放映されていたので友達と一緒に見たりなんやりしてよく過ごしていました。ただ他の子供と違って私は今でも近くをセミが飛ぶだけで冷や汗をかくほど子供の頃から虫類を苦手としていたので、夏休みの子供に定番の虫取りはほとんどやることはありませんでした。
 では何を一番夏休みにしてたかとなると、やっぱり自転車に乗る時間が一番多かった気がします。小学三年生くらいで片道十キロの町までよく行っていたし。成人した今でも私が自転車によく乗ることを考えると、案外子供の頃の行動というのは歳をとっても変わらないもんだと気づかされます。エレベーターのブザーはもうわざとは鳴らさないけど。

2009年9月20日日曜日

阪神、藤川球児選手について

 それは2005年のある日のことでした。その日もいつも通りに自宅で夕食を終えて何気なくテレビを点けると、ちょうどよく阪神戦の中継が流れていました。テレビ横のパソコンで作業を進めながらちらちらと見ていると、八回阪神守備の場面にて投手が投げた球に妙な違和感を感じました。

「シュートか、今の球?」

 見た感じでは非常に早い速球ではあったものの、球の軌道が見慣れたストレートのような直線状とは言い切れない何かぐにゃりと曲がったような違和感を感じ、わずかに変化する変化球のシュートを投げたのかと直感的に私は思いました。

 しかしその後にテレビに表示された球速は150kmを超えており、なおかつ球種もストレートとされました。となるとさっきの球は私が横目で見ていたから何かの見間違えかと思って見ていた次の球も、先ほどの球同様に速球でありながら妙な軌道を描いてキャッチャーミットに収まり、またもテレビ画面には「ストレート」と表示されます。
 誰だ、この投手は? と、思って興味を持ったのが、もはや野球ファンであれば知らない者は皆無といってもいい、現在私が一番贔屓にしている球界を代表するクローザーの藤川球児選手との出会いでした。

 この藤川選手へ抱いた私の第一印象はある意味間違いではなく、女房役の同じく阪神の矢野選手に、「伝説のストレートを今受けている」と言わしめるほど藤川選手のストレートは群を抜いているといわれています。そのストレートの質は現役に限らず日本球界史上でも過去最高の物とも言われ、「魔球と呼ばれるストレート」、「火の玉ストレート」の名に恥じず、ストレートで三振を奪っていけるのは現在藤川選手位だろうとよく聞かれます。
 この藤川選手のストレートについては上記にリンクを貼ったウィキペディアの記事にて詳しく解説されていますが、他の投手と違って人差し指と中指をくっつけて投げるゆえか、ボールの回転軸の傾きが進行方向に対してほぼ0に近いため、打者からすれば「浮き上がってくるような」と言わしめるストレートを投げれているのではないかとされております。

 私が何故藤川選手が好きなのかというとこの特別なストレートもさることながら、各場面ごとの藤川選手の人となりや見せ場が私の琴線に触れるというのが主な理由です。
 なんでも親父さんが草野球でノーヒットノーランを達成した日に生まれたもんだから、これで野球選手にならなければ一体どうしたもんかという「球児」という名前をつけられたそうですが、その名に恥じず松坂世代の一人として阪神に入団するも、当初はなかなか芽が出ず引退すら考えた時期もあったそうです。

 そんな中でもくじけず練習を続け、それこそ2003年の阪神優勝時にはほとんど名前の出てこなかったにもかかわらず2005年のシーズンに彗星の如く現れ、「阪神、恐怖のJFK」の一角としてそれ以前の記録を打ち破る最多登板記録と共に最優秀中継ぎ賞を受賞する活躍に、当時は胸を大きく躍らされました。
 特に圧巻だったのは2006年のオールスター戦において、前代未聞のストレート宣言をした上で見事にカブレラ選手、小笠原選手を三振に取った場面で、その後もここぞというところではストレートにこだわって打者を抑えていきます。たまに打たれちゃうけど。また今シーズンにおいては先月に今期初めて試合に出場してきた巨人の高橋由伸選手に対し、全球ストレートで勝負をして見事抑えてくれました。

 藤川選手にかぎるわけじゃありませんが、私も一応日本人の端くれなだけに、不遇な時代を苦労して乗り越え大活躍する人物には非常に好感を持ちます。入団から五年間を経て活躍するようになったこの藤川選手はもとい、ロッテの渡辺俊介選手も同様に好きな選手の一人です。
 本来スポーツというのは白熱した試合を見せると共に、その選手一人一人の努力の過程を見せることも一つのドラマだと私は考えております。そうした意味で、こうしたエピソードなどを野球に詳しくない人にももっと広く知らしめられればとこのごろ思います。

国ごとに変わる時間の感覚

 私が中国に留学する前、私の中国語の恩師にある日こんなことを尋ねてみました。

「先生、中国と日本で決定的に違うと思うものは何ですか?」
「そうだね。これは私だけかもしれませんが、向こうはなんか、時間がゆったりと流れるような気がします」
「時間ですか?」
「そう。なんていうか、中国の一日というのは日本での一日より長く感じるのですよ」

 この先生の言葉は、後に私も中国に留学することで直に実感しました。
 私の体験で申し上げると、感覚的には中国における一時間という時間は日本における二時間分に相当するように感じます。日本では昼食を取ってから夕方になるまであっという間という感じですが、中国ではなかなか夕方にならず、やることがあればまだ気にならないのですが暇な時などはまだ夜にならないのかと、まるで小学生の頃に学校を休んだ日みたいな感覚を覚えました。
 またこれは私と先生に限らないようで中国留学生らが書き込む掲示板などを覗くと、どうも他の多くの方も同じように中国では時間がゆったりと流れるように感じるという意見を何度か見受けたことがあります。

 それにしても考えてみると不思議なものです。言うまでもなく絶対時間は世界共通で差があるはずはないのですが、日本と中国では私にははっきりと自覚できるほど一時間辺りの感覚時間が異なっていました。一体何故感覚時間がそれほど変わってしまうのか、私なりに出した仮説は以下の通りです。

・仮説一、未経験な海外生活
 例えば同じアルバイトなどの仕事においても、毎日やっている仕事とその日が初めての仕事では何事にましても勝手が違います。そして感覚的には未経験の仕事の方が体験済みの仕事に比べ覚えることや気苦労が多く、私の中では両者を比べると未経験の仕事をやっている時の方が時間が長く感じます。
 これと同じように、何年も生活してきた日本での生活に対して初めての中国での留学生活はいわば未体験なことの多い生活でした。そのように留学中ではいろいろと慣れない事が多い生活のため、日々の感覚時間が日本での生活より長く感じたのではないかという仮説です。

・仮説二、国民の時間感覚の違い
 日本のバスと違い、都市間高速バスを除いて中国の市内交通バスには基本的に時刻表はありません。こういうと中にはどんな風にしてバスを利用するのかと思う方がおられるかもしれませんが、使い方は実にシンプルで、乗りたい路線のバスがやって来るバス停でひたすら待ち、やってきたら乗るだけです。
 これはずっと以前から言われていることですが、日本人というのは世界的にも時間の遵守に対して非常に厳しい面のある国民です。バスにしろ電車にしろ、五分でも遅刻しようものなら、「五分程度か( ´ー`)」とは言わずに、「五分も遅れやがって!( ゚Д゚)」とラッシュ時なら平気でみんなで言い合います。しかし海外の方からすると、ほとんど一分以内の誤差で運行する日本の交通機関に皆驚くそうで、母国では五分や十分の遅刻は当然だとよく聞きます。

 中国人も個人で見ればせっかちな人は少なくありませんが、社会的にはまだ日本人より時間にルーズです。十分や二十分くらい平気で遅刻してくれば、待つ方も仕方ないやとほとんど怒りません。
 このような社会全体の時間に対する厳しさとでも言うべきでしょうか、これが中国は日本より緩いために中国で生活する私も日本ほど時間を守らねば、焦らねばという感覚が薄まり、長く感じられたのではないかという仮説です。

・仮説三、単純に私が暇だった……
 この辺は連載中の「北京留学記」でも書いていますが、午前の授業を終えると私はほぼ毎日やることがなく、ずっと暇をもてあそんでいました。あんまり街中に出てお金を使うのも嫌だったし、自習したりすることがなければほぼ毎日昼寝をして何度も読み終わっている本をまた読み返したりして過ごしていました。
 これは別に中国に限らず、日本でも暇な時間というのは感覚的には長く感じます。中国での留学中はそのような暇な時間が多くあったため、ただ私が個人的に「長かった……(;´Д`)」と感じているだけというのがこの仮説です。

 以上の三つが主な仮説です。
 実はこの日本と中国での感覚時間が何故異なるのかという疑問が、私が時間の概念に対して興味を持った最初のきっかけでした。上記の仮説の中に部分々々におわせていますが、なにも国ごとといわずとも同じ日本国内でも場面ごとに感じる時間の長さが異なっていたりします。その差異を生むものは何か、この中国の体験談を話した友人と議論したのがある意味運の尽きで、その後数ヶ月に渡って会うたびに夜中中この議論を繰り返すこととなったわけです。

 そういうわけで次回は、「都会と田舎の時間」について解説いたします。

2009年9月19日土曜日

料理で学ぶ優先行動順位

 大分昔に「声に出して読みたい日本語」の作者の斉藤孝氏が、あるテレビ番組にてこんなことを言っていました。

「子供の教育において何をやらせれば一番いいのかといえば、実は料理なのです」

 斉藤氏が言うには料理をすることで子供は自然と効率的な動き方、行動の仕方を覚えるので、幼児期の思考の発達において非常に有意義だそうです。この斉藤氏の主張にテレビ番組を見ていた当時高校生だった私は果たしてそんなものなのかなと思いましたが、後年になって自分でも料理をするようになると段々とこの主張に納得するようになりました。

 普段から自分で料理している人間なら分かるでしょうが、案外料理というものは非常に複雑なパターンの集合体ともいえるような行為です。たとえばどの食材から切り分けるか、それとも先にお湯を沸かして食材を煮るか、その間に先に肉類に火を通しておくべきなのかなど、行動分岐を数えようものなら何百パターンにも分かれていきます。
 それでも一品の料理であればあらかじめ用意されているレシピ通りの順番で作れば間違いはありませんが、これが複数の料理を同時に作るとなれば選択の幅は大きく広がってしまい、どちらの料理のどの作業から初めて同時に何を進めておくべきか、効率的に動こうと思ってもなかなかそのようには動けず、終わってみると随分と回り道をしてしまったと思うような経験を私も何度もしております。

 そう考えると、料理作業において効率的に動くというのは非常に難儀なことです。ですが斉藤氏の言うようにそのような料理作業を通してどの行動を優先して行うことが最終的に最も効率的なるのか、そのように考える癖を身に付けて普段から行動できるようになればその他の様々な分野においても非常に応用が利くと私は確信しております。

 まず第一に応用が利く場として挙げられるのは、仕事の場です。アルバイトにしろ正社員にしろ、よっぽど管理された流れ作業でない限りは一つの作業中に何かしら突発的な事態や横槍が入るのは当然です。そのような事態に際し、現行の作業を優先するべきかそれとも突発的な事態に対応するべきなのかというのは、それこそ状況次第によるので画一された答えと呼べるものはまずないでしょう。そんな事態に瞬間的に現状を見極め、効率的な選択肢はどちらなのかと考えられてそのように行動できるのであれば、まずもって周囲から期待される位の働きが出来ることに間違いないでしょう。

 またこのような仕事の場に限らず、このブログのような文章の組み立てからスケジュールの組み方、果てには資産の運用の場など、この思考法が応用出来る場を挙げれば切りがありません。また以前にもこのブログでちょこっと書いたことはありますが、私は突き詰めて言えば思考というのは事象に対し優先順位を付けることに尽きると考えており、この料理によって鍛える効率的な動き方の考え方というのは根本的な思考力に対しても大きな発達が見込めるとも思います。
 しかるにこうした効率的な動き方や思考法というのは、工場での管理以外の現場ではそれほど着目されていないように私は感じます。それこそ斉藤氏のように幼児期から料理などを通してこうした思考を鍛えることは子供の将来的にも教育的にも効果が見込めるので、もっと全体で着目して盛り上げていくべきでしょう。

 差しあたっていえるのは、サークルの活動履歴とかどうでもいいような個人的な自慢に着目するのではなく、作業手順に順位付けなどをさせることで企業の採用担当は人材を見極めるべきじゃないでしょうか。

2009年9月17日木曜日

自分が変わらない理由

・友人Aの証言
「花園君ってさ、本当に昔から変わらないよね」

・友人Bの証言
「あのさ、それだけ政治とか経済にコミットしているのに、会社内とかでそういう話題の話し相手がいないのに我慢できるの?」

 最近、友人らから上記のようなことを度々言われます。
 この友人らの意見を補足するとこれは大概の日本人がそうでしょうが、就職して組織人になることで学生時代のように自由に振舞うことが出来ず、思想や言動も無意識のうちにかつてのものと比べて幅が狭くなっていきます。私の友人らも彼らが言うにはご多分に漏れず、自分の思想や言動がいつの間にか組織の型にはまってきて以前ほどの幅や自由さを感じられなくなってきているそうです。

 そんな友人らが言うには、この陽月秘話の内容を初めとして今でも私は若い頃と全く変わらずに以前と同じ内容を以前と同じ具合で話し続けているそうです。一体どうしてそれほどまで以前の自分を保ってられるのかとよく驚かれるのですが、かくいう私自身も決してこの点を意識せずに果たしているわけではないので今日はその辺について話をしようと思います。

 まずそもそも私が周囲に全く影響されずに以前と変わらずになりふりかまわない言動を続けられるのは、言ってしまえば幼少の頃の体験によってそういった周囲からの影響への耐性というか、自分の保ち方というものを身に着けていたからだと思います。
 自分でこういうのもなんですが、私は小さい頃から周囲とは妙に異なった振舞い方、考え方を常にしておりました。それでも小学校くらいまでは特に取りざたされることはないのですが、中学高校ともなるとクラス単位の集団の付き合いというものが強くなるため、周囲からいろいろと訳の分からないことを言われることが増えていきました。まぁ中学時代に、弁当のおかずを全部食べてからご飯を食べ始める癖は周りから注意されてよかったと自分でも思いますが。

 とにかくそれこそやることなすことから言うことまでよく周囲から、「それはおかしい」と言われ続け、私としても最初のうちは自分が何でそんなことをするのかをしっかりと周囲に説明すれば分かってもらえると思っていましたが、途中からは多分自分と周囲の人間で型が違うのだろうと割り切ってしまうようになりました。しかし割り切るにしても、自分がその振る舞いや言動を変えない限りは周囲からの変な目をくらったり、矯正するべきというプレッシャーを掛けられたりするのは変わりません。となると多少の苦痛は感じますが、そういった振る舞いや言動を自ら封印して出来る限り目立たないように行動することが一番割がいいだろうと判断したわけです。

 そもそもの話、私がそれほど周囲から奇異の目で見られるような振る舞いを止めて周囲に合わせればよかったのではないかと言われる方もいるでしょう。確かに言われればその通りで私も可能であればそちらの手段を取ったでしょうが、当時の私はどうしても周囲の振る舞いや考え方が正しいものとはとても思えませんでした。

 いくつか例を挙げると、私が高校生くらいの頃から携帯電話が流行りだして学校内はそれこそ携帯も持たないでどうするのという空気になり、持っていない生徒らも競って親にねだっていました。しかし当時の私はなにか緊急に連絡する状況になることはほとんど無く、むしろ通話代を親に負担させることになるので断固として持とうとしませんでした。
 またこの携帯電話に限らずシャンシャン総会みたいに無気力全開の図書委員会でも、こんな状態はよくないと一人で図書の推薦文を書いて全校に配ったり本の整理などもよくやりましたが、やっぱり他の委員からは変な人のように見られてたようです。
 更に言うと、周りがカードゲームやアーティストの話題を好んでする中で、私は一人で北朝鮮のテポドン事件についてあれこれ調べたり考えてたりしました。しかしこんな話題をしても周囲は相手にしないのも分かっていたので、無難に周りの話題に合わせて孤独に政経関係を勉強しておりました。

 こんな具合で、いわば周囲から無理やり型にはめられるようとする中で可能な限り目立たず、かつ自分が正しいと思う振る舞いや言動、思想を下手にさらさずに自分ひとりで育ててきた期間が長かったため、一応組織人となった今でも学生の頃と全く変わらないままでいられるのだと思います。ただそうした身の隠し方がこのところは過ぎているのか、どうも初対面の人からは自分が大人しいタイプの人間だと勘違いされることが増えてきています。自分ほど感情の上下が激しい人間はそれほどいないとは思うのですが、逆を言えばそこまで自分を隠すことが出来るようになったのだと最近は前向きに受け取っています。

 最後に自分が変わることについて、それがいい結果を生むか悪い結果を生むかはケースバイケースだと断言しておきます。変わるべき要素もあれば変わらざるべき要素もあり、自分のどこを変えてどこを変えないかをしっかり自分で考えて選ぶことが非常に重要です。一番よくないのはわざわざ私が言うまでもないですが、周りに翻弄されるがままに変わっていくことです。

オリックスの大石監督の続投問題について

 すでにあちこちのスポーツ系の報道にてオリックスの大石監督の来期の去就が噂されており、早いところなんか前阪神監督の岡田氏がオリックス監督に就任するとまで書いているところもありますが、私はというとオリックスは来期も大石体制で望むのがいいのではないかと思っています。

 まず今期のオリックスの成績ですが、確かに現在パリーグで最下位でほぼ負け越しが決まっているほど芳しくはないのは事実ですがそれでも四月まではまだ調子がよかったです。やはり今期で致命的だったのはローズ、カブレラという主砲打者二人が前半戦も早々に骨折によって長期離脱してしまったことに尽き、二人とも怪我をする途中まではホームランランキングでトップを争うほどの成績だっただけに、この二人の離脱が今期のオリックスに与えた影響は計り知れないでしょう。

 またこれは何も今に始まったわけじゃありませんが、今年のオリックスの投手陣の崩壊ぶりもまさにパンデミックものでした。私なんかは去年に新人王を取った小松投手に期待していたのですが、今年の成績は去年のあの変化球のキレはどこに行ったのかと思うほどの目も当てられない成績で、先発からリリーフに至るまで安心して見ていられる投手がオリックスにはいません。それを前半戦は打撃でカバーしていたというのに、主砲の外人二人が怪我するなんて……。

 こんなチーム事情では私は監督の責任はあまり問えないと思います。そしてなにより、あの癒し系とも取れる大石監督のさわやかな画面映りは失くすには惜しいです。そういう意味では、かつての横浜の監督だった山下大輔こと大ちゃんもいろんな意味で惜しかったのですが。

2009年9月16日水曜日

聖徳太子は一体誰なのか?(; ・`д・´)

 前にちょこっと書いたので、せっかくなので聖徳太子について私の見解をまるごと書いてみようと思います。

 まず大前提として、現在の日本の歴史においてはっきりと信頼性を置けるようになるのは壬申の乱後に即位した天武天皇の時代以降です。というのも天武朝以降の日本は隣国の唐へ遣唐使を送ることで相互にその歴史を証明し合っているだけでなく、東大寺を初めとして当時に作られた遺跡や建築物の系譜が現在においても比較的はっきりした形でまとめられているからです。
 これは逆を言えば、天武朝以前の日本の歴史は全く証明がつかない、あくまで推定の範囲での歴史だということになります。

 ここで挙げた天武朝以前というのは時代的には聖徳太子や蘇我馬子、また日本初とされる女性天皇の推古天皇がいた飛鳥時代から中大兄皇子こと天智天皇が大化の改新を行い、その天智天皇の息子の大友皇子と天武天皇こと大海人皇子が皇位を争った壬申の乱までです。
 では何故この辺りの歴史に信用性が低いのかというと、この辺の歴史については天武朝の系譜を引く奈良時代の天皇政権が編纂した古事記、日本書紀によるところが多いのですが、どちらの史料も時の政権によって編纂されたもので支配政権の正当性がご多分に漏れず主張されているからです。言ってしまえば大化の改新も、敢えて蘇我氏を悪役に据えてそれを退治した天智天皇一派、もとい藤原氏を善玉に仕立てているのではないかとかねてから言われております。なにせ、日本書紀編纂の責任者が藤原家二代目の藤原不比等なのだし。

 そういうわけで私に限らず蘇我氏、また同時代の聖徳太子についてその人物から立ち位置に至るまで疑義を呈す人間は少なくないのですが、聖徳太子についてはその存在もかねてより疑問視されております。以前の記事にも書いた通り聖徳太子が建立したとされる法隆寺は確かに史料通りの年代に作られていることが礎石から証明されておりますが、肝心な聖徳太子の子孫は蘇我氏によって滅亡に追い込まれたとされており、大化の改新後もしばらくは残っていた蘇我一族と比べるとなんだか唐突な印象を受けます。

 そんなことをこの前ガストで友人に話していたのですが……少し話は脱線しますがその友人は私と高校の同級生で世界史科目では学年で一番の成績を取っていたような友人なのですが、他の人間同様に歴史の知識は世界史だけに偏っていて日本史は時代によってほとんど知識がないところがある友人です。しかし世界史の成績がよかっただけに歴史に対する興味は強いのか、この時も私の聖徳太子の話を黙々と聞くだけでなくその後の反応についても下手な日本史科目の受験者よりずっと上でした。

 話は戻りますがその友人はこうした聖徳太子の話についていきなり、「聖徳太子は十人いたんじゃないのか?」と切り出してきました。何故十人かというと聖徳太子のあるエピソードによるからで、そのエピソードというのも聖徳太子の賢者ぶりを表す有名なエピソードです。
 日本書紀によると、聖徳太子は一度に十人もの人間の訴えを聞き分け、また適切に各人に返答したというエピソードが載せられております。これは暗に、聖徳太子という人物はその時代における複数の人物をひとまとめにして作った架空の人物ではないかと言っているのではないかとその友人は考えたわけです。

 この聖徳太子複数人説というのは実はこれまでにも提起されており、現状で私も最も支持する意見であります。というのも日本書紀における聖徳太子というのは本当にスーパーマンばりになんでもこなす万能人間で、本当にこれが同一人物が行ったのか疑わしい面も少なくないからです。
 いくつかそうした聖徳太子のモデルを紹介すると、蘇我氏が権力を握るきっかけとなった物部氏との戦闘においては軍隊を指揮する軍人で、自らも深く帰依して仏教を日本の国家宗教にする過程では宗教者で、小野妹子を隋に派遣する場面では外交官、憲法十七条を作る場面では政治家と、このように一人の人間としてみるにはあまりにも多くの姿を持ちすぎております。このほかにも細かいところを挙げれば一つでいいような氏寺を四天王寺や法隆寺などいくつも建立しており、また空飛ぶ馬に乗って通勤していたという超能力者っぽいエピソードまであります。

 となるとこの聖徳太子というのは、蘇我政権下で活躍した人物、もしくは蘇我馬子の功績を彼から引き剥がすために作られた人物と考えるのが自然かもしれません。一つ一つのエピソードは本物でも、それを果たしたのが一人の人物だとは必ずしも限らないのは歴史の常です。もっともそういうパターンはこれとは逆に、ローマのネロみたいになんでもかんでも当時に起こったよくないことを一人の歴史人物に押し付けられることのほうが多いのですが。