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2021年4月27日火曜日

ゲームの「天地創造」の思い出


 また急ですがかつてスーパーファミコンで発売された「天地創造」というゲームについて語ります。

 このゲームですが発売されたのは1995年ともはや太古の時代なのですが未だにファンは多いようで、上記動画のようにファンアートが未だに制作されているそうです。なおこの動画は、この「天地創造」でBGMのコンポーザーをしていた小林美代子氏のサイト経由で知り、上記動画のアレンジ曲も小林氏が制作、提供しているとのことです。

 ゲームの内容についてですが、単純にアクションゲームとしてもそこそこ楽しく、また一部謎解きがあるものの子供でもとける範囲の難しさで、バランスのいい作品でした。このひとつ前の「ガイア幻想紀」はやや謎解きが難しいところがあるのと、シナリオが恐らく開発期間が足りなかったのか後半で物凄い省略されるなど完成度が低かった点を考慮すると、天地創造も後半のストーリーがやたら駆け足ではあったものの、完成度では比較にならないほど高かったです。
 ちなみにガイア幻想紀については、中盤の空中庭園というステージで本当はギミックを動かして障害を取り除かないとダッシュで坂を登れない箇所があるのですが、実はここ、ジャンプボタンと攻撃ボタンを連打すると坂を乗り越えてしまえるバグがあります。っていうか攻略法わからないから試行錯誤を続けてそのバグで攻略してのけてしまったのですが。

 話を戻すと、この天地創造を私は1996年の1月、それも3日に確か買ってもらっています。何故かこの日にソ連人民の敵であるうちの親父と姉貴と一緒に秋葉原行って、なんかゲーム買っていいと言われて雑誌のガンガンで紹介されていたから天地創造を選びました。対抗馬は、桃太郎電鉄DXでした。
 ゲーム自体は前述の通りしっかりできてて楽しめましたが、それ以上に自分がはまったのはまさに上記動画で流れるBGMでした。あまりにも気に入ったことから姉貴と半額ずつ出してサウンドトラックまで購入しました。それまで音楽には全く興味なかった私でしたが、この天地創造のサウンドトラックは何度も聞き続け、大学進学で京都に行くときもわざわざ手に携えて持って行ったほどでした。

 先ほどこのゲームについて友人とも話しましたが、制作会社のクインテットは2000年代中盤くらいにどうも解散した模様で、権利関係も曖昧なままなことからこのゲームの再販、再配信はほぼ絶望的だと思います。この手の倒産したゲーム会社の名作が権利関係の問題で再版されない問題はかねてから頻発しているだけに、発売後20年経って権利関係が不明若しくは後進の届け出がないゲーム作品に関しては、一定の保証額(権利保有者が現れた際に支払う)を預け入れる代わりに、自由にリメイクできるような時効法などを整備してもらいたいものです。

 というわけで、次回は「パラサイトイブ」について語ります。

2021年4月26日月曜日

宏光ミニの内装


 ハイというわけでヤンマガ的な自分の記事紹介ですが、今回は四半期ごとに出している中国自動車統計記事であまり解説する内容も多くありません。しいて言えば、記事中にも書いている通りに去年の1~3月はコロナ流行に伴う都市封鎖が行われていた時期で、比較対象機関とするにはあまりに特別な期間であるため前年同期比での増減比較はあまり意味がありません。
 そのため全体販売台数に関しては2年前の2019年1~3月データとの比較も入れましたが、個別車種の販売台数ともなるとさすがにいちいち2年前のデータと比較することができず、傾向が掴みづらく記事も書きづらかったです。そのため、今季明らかに大幅な伸びを示している新エネルギー車に関する話題を大目に取り扱うことにしました。


 そこで取り上げたのは前にも取り上げた上汽通用五菱の宏光ミニで、記事中には全体写真を乗せましたがこうして内装も写真を撮ってきてあります。1月に書いた記事ではディーラーの前に置いてある車体を撮影しましたが今回はディーラーの中に入ってじっくり間近で眺めており、近くで見ると改めていい車だとさらに感じ入りました。
 それで上の写真ですが、見ての通りかなりシンプルな内装になっています。個人的に興味深いのは助手席側にエアコンの調節スイッチなどが配置されている点です。実車で見てみるとほんと小さな車なのでこのような配置にしましたが、コンパクト感あふれてて自分にとってはかなりたまらなかったりします。


 なお上の写真のような車も上汽通用五菱は出していますが、自分が見ていないうちに随分と見た目の良い車出すようになったと感じます。

 それはそうと、また夏場は遺書を用意しなきゃいけないほど忙しくなるから今のうちにため記事作っとかないと本当に死にます。幸い今日、プリズンブレイクネタを一本思い浮かんだので、あと3本くらい用意した上で、夏の歴史特集記事も準備しなきゃいけません。歴史特集はネタは決まったけどまだ資料渉猟が済んでおらずスタートが切れてませんが、そこそこ得意分野の時代だから何とかなるでしょう。

2021年4月25日日曜日

五日はクラウン


 ということでこの週末はクラウンのプラモ作ってました。型式はGRS182型こと12代目で、徳川将軍で言えば家慶的なポジションの車です。


 なんでこんなの急に作り出したのかというと、よく行くプラモ屋に何故かこの型式のクラウンのキットが大量に置かれてあり、こんな古いクラウンのキットを中国で誰が買うんだよとか思ってよく見たら、うちのソ連人民の敵である親父が今まさに乗ってるクラウンだということに気が付き、誰が買うのかと思ってたら俺だよ的に自分が買うこととなりました。

 メーカーはアオシマでパーツの整合性とかが懸念でしたが、比較的良好で、割と楽しめて作れるキットでした。構造も非常によくできており、足回りことタイヤ軸はばねとねじを組み合わせて止めるという仕組みで、ねじの締め具合を調節することでタイヤの高さも変えることが出来るほか、正面から見て八の字になるよう、タイヤの偏角すらも変えられるという仕組みになってました。
 ただその分、足回りの組立はかなり複雑で難しく、自分は何とか組み上げられましたがプラモ組立てに慣れてない人だったらかなり難しいのではと感じるところもあります。私なんか組み上げられたらそれでいい方だから、余計な事せずシンプルで組みやすい構造にしてほしいというのが本音です。

前作ったフィットとの比較

 組立て中に感じた点としては、「やっぱクラウンってでかいな」知負うことでした。参考までに前に作ったホンダのフィット(初期型)と上の写真で比較していますが、全長に明らかな差があります。普段作る車のプラモはスポーツカーばかりなので、そうしたキットと比べても今回のクラウンはでかくて迫力を感じます。

リア部分のデカール

リア全景、先の写真は左箇所で右の省エネ優遇シールは拡大してみてみたら上下逆だった

 唯一不満だったのはリア部分のパーツで、出荷以降の経年劣化もあるでしょうが接合部が左右に広がり、接着剤使ってもきちんと接合できませんでした。おまけに白のプラスチックでやたらと接着剤に溶けやすく、やや不格好な感じにならざるを得ませんでした。
 この辺は構造をもう少し工夫すればカチッとつながりやすくできるはずだと思う箇所なだけに、設計の詰めの甘さを感じます。


 あとこのキットは「ロイヤルサルーン」と「アスリート」の二つのグレードを選んで作れるのですが、当初は「ロイヤルサルーン」にしようと組んでいたところ、何故かフェイスグリルに「アスリート」の方を貼りつけてしまっており、完成後にその事実に気が付きました。終盤だったから集中力切れてたのかもしれません。
 フェイスグリル以外は「ロイヤルサルーン」なため「シルエイティ」みたくあいのこみたくなってしまっており、敢えて言うなら「ロイヤリート」ともいうべき形に仕上がっています。言われなきゃわからないからあまり気にしてませんが(ヾノ・∀・`)ナイナイ

2021年4月24日土曜日

引きこもりの親殺害の逆パターン

 お茶の間に流れるテレビの報道で一番気まずくさせるのは、引きこもりの子供が親を殺害するというニュースじゃないかと思います。別に引きこもりじゃなかった頃の私ですら一瞬の気まずさを感じてましたし、報道自体に何か問題があるわけじゃないけど、何か沈黙を作らせたらある意味一品なニュース報道じゃないかと思います。
 そうしたニュースを中国に行ってからは一切見ないというかテレビ自体見なくなりましたが、ふと今日自宅でラーメン作っている時に、逆パターンはないのかなという疑問を覚えました。どんな逆パターン化というと、親が引きこもりの子供を殺害するというパターンです。

 これが実際に起きた例としては元農水次官長男殺害事件で、恐らくこの事件は今後20年間くらいは歴代重要事件として語り継がれるかと思います。この事件では家庭内暴力を繰り返し、将来は外部で大きな事件を起こすと考えたため殺害したと父親は述べていますが、実はこういう事件は案外報じられないだけ、というより一切認知されないだけで実際にもっとたくさん起きているのではとふと思いました。何故こんな風に思うのかというと、隠蔽が行いやすいからです。

 多戸部数年間引きこもっていて近所にもその存在が全く認知されない人がいたとしたら、殺害しても家族以外は探す人はまずいません。そしてその家族が下手人だった場合、死体をどうにかうまく処理出来たら適当に「外出してから一切帰ってこなくなった」、「以前から数日外泊することがよくあった」などと話し、行方不明届を一応出しておけばよほどのことがない限りはそのまま行方不明として処理されるのではないかと思います。
 なんでこんなことを急に思いついたのかというと、年金を受給し続けるため年金受給者の高齢者が死亡したとしてても一切届け出ず、自宅内に死体を置いたままでもずっと気づかれないという例が以前から数多くあるためです。同様に、将来を悲観して引きこもりの子供を殺したとして、前述の通りに外部との人間関係が希薄であれば文字通り闇に葬ることはそれほど困難であるとは思えず、認知や報道がされないだけでこういう例が世の中たくさんあるのではと思ったためです。

 無論、こうした親の子殺しが頻発することは望ましいわけではなく、そうした引きこもりが長年続く世帯においては可能ならば自治体などの相談所と相談して対策を採ってもらいたいところですが、上記のような「認知されない親により引きこもり子供の殺害」が怪談っぽくうわさ話になれば、少しはプラスになる面もあるかなという気がします。何故かというと引きこもりの方にとって単純にプレッシャーとなるわけで、自立意識が芽生えるとこまで行かないにしても、家庭内暴力をやると逆襲されるという懸念が芽生え、こうした行為の抑止につながるんじゃないかと都合よく考えてます。
 そういう意味では、こうした事件が本当にあるんだとしたら一定の水準で報じる価値はあるんじゃないかと思います。まぁこうした報道もお茶の間を気まずくさせるでしょうが。

 そもそも論で言うと、私は人間というのはそこまで複雑ではなく、基本的な行動原理は欲求に直結すると考えています。インセンティブがもらえるとわかれば頑張って働くし、殺されるとわかっていたら無茶な要求にだって大抵聞きます。そんな具合で、引きこもりに関しても「殺される」という生存欲求への刺激があれば動くものが少しはあるんじゃないかと見ています。
 ただこの論理を発展させていくと、それこそもうどうしようもない人に関しては国立自殺施設みたいな話に発展していきかねません。そういう意味でも尊厳死としての安楽死議論ももうちょっと社会で深めてほしいですが、この10年くらいはこのテーマもさしたる議論を見たことないなぁ。

2021年4月23日金曜日

まとめ買いした漫画の内容について


 上の動画は最近ハマってみているものですが、ピアノの練習というか猫乗り曲芸弾きの練習にしかもはや見えない。
 話は本題ですがGW間近となったので買い控えていた発売日の近い漫画を一気に購入して今読んでおり、それらをいくつか紹介します。

1、金田一37歳の事件簿(9巻)
 非常に期待していたもののやや拍子抜け。前巻から続くポルターガイスト屋敷のトリックと犯人は大体読めていたので動機に注目していたけど、如何にもミステリーでありがちな「実は家族だった」エンドでがっかり。
 それ以上にがっかりだったのは次の話、っていうかキャラで、旧シリーズでも準レギュラーだった金田一二三が大人になって再登場したものの、なんかイメージが固まっていないのか作画がページによってややブレがある印象を受けました。そもそもこのキャラ、旧シリーズでも自分からして存在するだけで不快なキャラだったため、今シリーズで出てきたという事実それ自体でなんかテンション落ちます。一応、新編の犯罪展開はまだ読みごたえがあるので続き買いますが。

2、GANTZ:E(2巻)
 昔のある批評の言葉を引用すると、「漫画を馬鹿にしている」という印象を受けました。一応ガンツシリーズなので買って読んではみたものの、もう続きを買うことはないでしょう。
 一体何がクソなのかというと戦闘描写で、これがあまりにもだるすぎです。作画に関してはCG取り込みの背景でさすがというところですが、話があまりにも面白くありません。特徴を持ったキャラクターはいないし、敵キャラもでかくて刀振り回すのしかおらず、攻略方法もこっちも同じく刀振るうか羽交い絞めにするかの2択です。2択のくせして、同じような敵が3度も仕切り直して出てきた時には唖然とされられ、戦闘の展開もほぼ全く一緒で読んでてストレスすら感じました。

 あとどう見ても女性キャラなのに男の振りしてるキャラがいて、周りの人間も全く気が付かないというのも見ていて萎えます。男装させるならもっと徹底的に男に見せるようにすればいいのにそうした配慮もなく、明らかに女なのに誰も気が付かないというのはもはや逆でしかありません。

 逆を言えば、本家ガンツは戦闘描写が凄まじくよかったと改めて思います。「頭文字D」でも同様ですが、「こりゃどうあがいても勝てない……」と思わせる描写からの逆転劇の見せ方が素晴らしく、多くの人間が絶賛しているように大阪編の道頓堀におけるラストバトルは全漫画史上でも読者の想像をすべて裏切る屈指の逆転劇だったと自分は思ってます。

3、よふかしのうた(7巻)
 上二つが期待外れだったのに対し、こちらは期待を大きく超えるほどめちゃ面白かったです。ちょうど盛り上がる過去究明編みたいな話というのもありますが、とにもかくにも人物の表情などの描写が秀逸でした。
 この作者のコトヤマ氏は他の作家とは一線を画すキャラ描写をしていて、前作「だがしかし」が流行ってからというもの、作中でヒロインに使われた瞳を集中円で描くという手法を真似する漫画家が増えた気がします。そうした例を筆頭に割と他の作家にない人物描写をするのですが、それがこの巻の裏切られたり半ば絶望したりしたり、複雑な感情を織り交ぜたりするキャラの表情で抜群に生きてて、表情を見るため一コマだけでもずっと眺めてられる妙な深みを感じました。あと単純にコマ割もきれいで、手早く読む箇所とじっくり読む箇所をまるでコントロールされてるかのように同じ話でも読むテンポが変わってくるのを感じます。まぁそのコマ割の妙を一番感じたのは、中二病的な体験がばれるというページでしたが。

4、ゴルゴ13(119巻)
 言わずと知れたこち亀越え確実な長寿漫画ですが、何故か113巻と119巻のみ今回購入しました。なんでかっていうと、113巻は間違えて購入したためで、119巻は読みたい話があったからです。その話というのも、「間違われた男」が収録されているからです。
 詳細はリンク先のページに解説されていますが、この回ではただの一般人がゴルゴ13に間違われるという、ゴルゴ史上屈指のギャグ回だと言われています。

 なお偶然ですが119巻にはチベット絡みの話も収録されています。この話とか中国政府なんかマジギレしそうな内容なんですが、果たして中国政府の役人はゴルゴ13もきちんと内容チェックしているのかが気になります。にしても時代が時代だから、113巻も119巻も90年代中盤の事件にかたどった話が多かった。

徳川慶喜の子孫

 昔「ヒットラーの息子」という、草葉の陰で「勝手に子供あったことにすんなよと」とアドルフさんが起こりそうなタイトルの漫画がありました。なんでこんなタイトルになったのかというとやはり当時としては世界最大の極悪人というイメージがあったからだと思いますが、実際にはヒトラーは自決直前にエヴァ・ブラウンと結婚式を行いましたが基本的には独身で、子孫とかもいません。
 なお現代で同じような作品を作るとしたらどんなタイトルになるのかなと想像したところ、やはり「ビンラディンの息子」になるのかと思ったその直後、ソ連人民の敵であるうちの親父は無駄にアラブ人顔してて会社でのあだ名が「ビンラディン」だったことを思い出し、「ビンラディンの息子って、もしかして俺のこと?(;゚Д゚)」と焦り始めました。

 そんな無駄に長い前置きはおいといて、「将軍の息子」といった場合にその将軍は誰かとなると、恐らく大半の人がラストジェネラルこと徳川慶喜の名を想像するのではないでしょうか。実は最近ネットで見た情報で、慶喜の息子というか徳川慶喜家の代々の当主の逸話を聞いて一人で結構盛り上がっています。ではその子孫というか系譜はどんなものかというとこんなもんです。

ひ孫:徳川慶朝

 見ての通り慶喜家の当主はきちんと「慶」の字をつけているようです。なおひ孫の徳川慶朝の逝去年は2017年で、つい最近だったりします。

 一人一人簡単に説明すると、息子の慶久は七男ながら兄を差し置いて家督を継いでおり、貴族院議員などを歴任しています。ただ薬の服用ミスとみられる理由で37歳という若い年齢で亡くなられていますが、写真を見る限り非常にダンディな容姿で、柔道などの武道や油絵などの芸術にも通じていたとされ、かなり持てそうな感じがする人です。

 その慶久の息子で慶喜の孫の慶光はというと、戦時中になんと三度も召集を受けています。一度目は病気にかかってすぐ病院に入りそのまま除隊し、二度目も検査に落ちて即除隊でしたが、三度目は中国大陸に派遣されていろいろ苦労したそうです。私が慶喜の子孫について知ったのもこの慶久が元将軍の孫だと言っても特別扱いされてなかったという話題をネットの掲示板で見たのがきっかけでしたが、武門トップの一族とはいえ現代戦争ではどうにもならなかったものかというのを感じます。

 慶久はプライベートでも不倫をやったり、事業に失敗したりといろいろ面白い人生を歩みつつ、80歳で大往生を遂げたようです。その慶久の息子で慶喜のひ孫にあたる慶朝は曾祖父の慶喜同様にカメラに傾倒し、カメラマンを仕事にしていたそうです。ただ離婚後に養子も設けなかったことから、彼の代で慶喜家の嫡流は途絶えています。まぁ今の時代に家計を繋ぐという考え自体が古いかもしれませんが。

 それにしても慶喜の子孫というだけで興味がわくだけに、やはり一時代を彩る人物であったんだなというのを感じます。

2021年4月21日水曜日

不遇であるか幸運であるか

 以前後輩に自分は承認欲求が高すぎると指摘されたことがありましたが、その指摘に対し割とやんわりと否定した上で、「俺の人格の最大の特徴が見えないからそのように見えるのだろう」という風に諭しました。ではそんな自分の人格における最大の特徴は何かというと、生存欲求がほぼゼロに近いという点で間違いないでしょう。
 何も死に急いでいるわけじゃないですが、少なくとも自分が有利になる、幸福になりうる選択肢があったら迷わず選ばないことが多々、っていうかほぼ毎回です。生存本能がないというよりかは利己心がないと言った方がよく、基本的に利他的な決断や行動をとることが多く、自分が苦しい思いすることは我慢できても、周囲の人間が苦汁をなめるような状況には我慢できないことがあり、自分が衝突を起こすパターンも自分自身というよりかは周囲への攻撃とか巻き込まれに対してカチンときて行動を起こすことが多いです。

 こうした性格は学生時代に自分で認識しましたが、気づいたのはむしろ自分の周囲の友人らの方が早く、一人目に「他人のことは良いからもっと自分を大事にした方がいい」と言われた後、「あいつこんなこと言ってやがったぜ(・∀・)」と別の友人に話したら「僕もそう思う(;´・ω・)」と二人目に言われ、その後も他の友人らに同じこと言われまくりました。でもって社会人になってからはなおさらこの傾向が強くなった気がします。

 そうは言いながらも、よくこのブログで髀肉の嘆とばかりに自分の不遇を呪っていますが、そうした主張が冒頭の後輩の勘違いを生んだのではないかと思います。一見すると利己的な価値観から不遇に対する愚痴を履いているように見え後輩が勘違いしたのも内心仕方ないと思うのですが、自分が自分の不遇に対して愚痴を吐くのは、その不遇は自分自身にではなく自分の才能に対するものです。言い換えると、「なんでこれほど安くで高い能力のある自分をどこの誰もがきちんと活用しないのだ。これじゃ世の中大損じゃないか」という風に本気で考えています。

 単純にライターとしての能力一つ取ってしてもJBpress(&やふー)である程度証明して見せましたが、あれだけアクセスを稼ぐ記事を毎回連発するライターはそんないないと断言できます。しかも自分の場合は、割と経歴が重視されるこの業界で一切の経歴を隠してカレーとせんべいが大好きという謎のアピールして不気味さを際立たせており、このハンデをものともしないのは実は内心自慢です。
 それ以上に大きいのは原稿料の金額で、詳しく比較しているわけじゃないですが、かなりの格安料金で毎回原稿出しています。ある程度ボランティア感覚でやる必要があるという判断と、自分を見出してくれたという恩義からギャラ交渉は一切せずに向こうの言い値でずーっと書いてますが、そうした背景からコスパで言えばかなり上位に入るライターじゃないかと密かに考えています。ソ連人民の敵である親父からはもっとギャラ交渉しろと言われてますが。

 こうしたライターとしての実量もさることながら、単純作業の処理能力も実はかなり高い水準に来ているとこの頃思います。以前からも業務処理能力はそこそこ評価されていましたが、今やっている仕事では恐らくワンシーズンの処理量としては現在ワールドレコードを樹立しかけています。正確さはともかくとりあえず仕上げるという速さでは無駄に早く、またワードやエクセルなども比較的こなせる方で、さすがにどの処理分野でも自分がナンバーワンだとはとても言えませんが、もともと高い給与を求めてないことを加味すると、業務処理スタッフとしてみれば無駄にコスパが異常に高い人材であると自負しています。

 そんな自分を、日本にいた頃はどの企業も相手にしませんでした。

 別に応募時に高い給与を要求したことはないし、前述の通り単純な業務処理量では恐らく自分以上の人材は巷にはほとんどいないと言えるのに、何故かどこも自分を採用しようというところはありませんでした。また処理速度だけでなく仕事を選ばない器用さでもそこそこ自信があり、それはこれまでの歪な職務経歴がある程度証明してくれていると思います。ぶっちゃけ何でも屋としての適性の方が高い気がする。

 そんな自分を、何故か日本ではどこも相手にしてくれませんでした。まぁ理由ははっきり自覚しており、態度に一切媚びたところがない、全く媚びようとしないというのがはっきり見て取れるので、それが一般の日本人からすれば非常に生意気と取られ嫌悪されるのでしょう。こっちにそのつもりはないですが、恐らく自分と会った日本人は十中八九自分のことを偉そうな野郎だと考えるでしょう。

 改めて考えてみるとこれまで勤めた日系企業では、ほとんどすべてで私に仕事を割り振ろうとしていなかったように思います。手持無沙汰な状態がどの会社でも多く、自分の処理能力や編集、企画力を発揮する場面はほぼありませんでした。
 そうしたこともあって髀肉の嘆とばかりに自分の状況、というよりも自分を活用できないと世の中がもったいないと考え社会全体で不遇だと本気でずっと考えていました。現在もこうした考えを持っており、折角これだけコスパの良い人間を日本社会は活用できずにもったいないと思うと同時に、その立ち居振る舞いだけでどれだけ能力があっても否定されるのが日本社会なのかもという風なあきらめを持つに至っています。

 もっともこう言いながら、現在いる会社では激しくこき使われています。真面目に今の会社に拾われたのは自分でも幸運だと思っています。飽きっぽい自分が満5年も同じところにいるなんてかなり奇跡ですが、一方で前述の通りワールドレコードを樹立しかけていることについては内心でリスクだとも考え、「あんまり自分に処理させ過ぎていると、何かあった時にトラブルになるからもっと人員増やして(;´Д`)」的に上にはよく言っています。

 以上を踏まえて見出しの不遇であるか幸運であるかという問いを問われるなら、それでもやはり不遇であると私は思います。というのもコスパは良いけど必ずしもトップバリューではないという自覚がある私がこれほどまで世間で活用されないということは、他にも同じような人、具体的にはそこそこ能力があるのにほんのちょっとの不備で一切活用されていない人はもっとたくさんいるのだろうという風に思えるからです。
 そんなのいつの時代も世の常、という人もいるでしょうが、前述の通り自分はアクセスを稼ぐライターとしてだったらかなり上位ランカーを狙える人材、というかそれ以上に他の人間がまず書かない内容を書ける強みを持っていますが、それでも日本にいた頃は自分に記事を書かせようっていうところは一つもありませんでした。割と目立つ能力だと思うのですがそれでも反応がないってことは、多分ていうかほぼ間違いなく今の日本社会は能力基準で仕事が割り振られることがほとんどないように思え、その社会的損失が非常に大きいとしか思えないです。そのため有為な才能がほとんど活用されないっていう意味で、やはり不遇であると思います。

 という感じでレトリック的にまとめましたが、「不遇であるか幸運であるか」という問いの主語は「私」ではなく「日本社会」です。日本語は他言語と比べ主語の省略が非常に多いのが特徴なのですが、私が主語を省略した場合は自分のことではなく社会か人類全体を主語にして言っていることのが多く、それが不要な誤解を招いてんだなとか自覚してます。っていうか普段からそういうのを主語にして語る人間が自分しかないのでしょうが。