何も死に急いでいるわけじゃないですが、少なくとも自分が有利になる、幸福になりうる選択肢があったら迷わず選ばないことが多々、っていうかほぼ毎回です。生存本能がないというよりかは利己心がないと言った方がよく、基本的に利他的な決断や行動をとることが多く、自分が苦しい思いすることは我慢できても、周囲の人間が苦汁をなめるような状況には我慢できないことがあり、自分が衝突を起こすパターンも自分自身というよりかは周囲への攻撃とか巻き込まれに対してカチンときて行動を起こすことが多いです。
こうした性格は学生時代に自分で認識しましたが、気づいたのはむしろ自分の周囲の友人らの方が早く、一人目に「他人のことは良いからもっと自分を大事にした方がいい」と言われた後、「あいつこんなこと言ってやがったぜ(・∀・)」と別の友人に話したら「僕もそう思う(;´・ω・)」と二人目に言われ、その後も他の友人らに同じこと言われまくりました。でもって社会人になってからはなおさらこの傾向が強くなった気がします。
そうは言いながらも、よくこのブログで髀肉の嘆とばかりに自分の不遇を呪っていますが、そうした主張が冒頭の後輩の勘違いを生んだのではないかと思います。一見すると利己的な価値観から不遇に対する愚痴を履いているように見え後輩が勘違いしたのも内心仕方ないと思うのですが、自分が自分の不遇に対して愚痴を吐くのは、その不遇は自分自身にではなく自分の才能に対するものです。言い換えると、「なんでこれほど安くで高い能力のある自分をどこの誰もがきちんと活用しないのだ。これじゃ世の中大損じゃないか」という風に本気で考えています。
単純にライターとしての能力一つ取ってしてもJBpress(&やふー)である程度証明して見せましたが、あれだけアクセスを稼ぐ記事を毎回連発するライターはそんないないと断言できます。しかも自分の場合は、割と経歴が重視されるこの業界で一切の経歴を隠してカレーとせんべいが大好きという謎のアピールして不気味さを際立たせており、このハンデをものともしないのは実は内心自慢です。
それ以上に大きいのは原稿料の金額で、詳しく比較しているわけじゃないですが、かなりの格安料金で毎回原稿出しています。ある程度ボランティア感覚でやる必要があるという判断と、自分を見出してくれたという恩義からギャラ交渉は一切せずに向こうの言い値でずーっと書いてますが、そうした背景からコスパで言えばかなり上位に入るライターじゃないかと密かに考えています。ソ連人民の敵である親父からはもっとギャラ交渉しろと言われてますが。
こうしたライターとしての実量もさることながら、単純作業の処理能力も実はかなり高い水準に来ているとこの頃思います。以前からも業務処理能力はそこそこ評価されていましたが、今やっている仕事では恐らくワンシーズンの処理量としては現在ワールドレコードを樹立しかけています。正確さはともかくとりあえず仕上げるという速さでは無駄に早く、またワードやエクセルなども比較的こなせる方で、さすがにどの処理分野でも自分がナンバーワンだとはとても言えませんが、もともと高い給与を求めてないことを加味すると、業務処理スタッフとしてみれば無駄にコスパが異常に高い人材であると自負しています。
そんな自分を、日本にいた頃はどの企業も相手にしませんでした。
別に応募時に高い給与を要求したことはないし、前述の通り単純な業務処理量では恐らく自分以上の人材は巷にはほとんどいないと言えるのに、何故かどこも自分を採用しようというところはありませんでした。また処理速度だけでなく仕事を選ばない器用さでもそこそこ自信があり、それはこれまでの歪な職務経歴がある程度証明してくれていると思います。ぶっちゃけ何でも屋としての適性の方が高い気がする。
そんな自分を、何故か日本ではどこも相手にしてくれませんでした。まぁ理由ははっきり自覚しており、態度に一切媚びたところがない、全く媚びようとしないというのがはっきり見て取れるので、それが一般の日本人からすれば非常に生意気と取られ嫌悪されるのでしょう。こっちにそのつもりはないですが、恐らく自分と会った日本人は十中八九自分のことを偉そうな野郎だと考えるでしょう。
改めて考えてみるとこれまで勤めた日系企業では、ほとんどすべてで私に仕事を割り振ろうとしていなかったように思います。手持無沙汰な状態がどの会社でも多く、自分の処理能力や編集、企画力を発揮する場面はほぼありませんでした。
そうしたこともあって髀肉の嘆とばかりに自分の状況、というよりも自分を活用できないと世の中がもったいないと考え社会全体で不遇だと本気でずっと考えていました。現在もこうした考えを持っており、折角これだけコスパの良い人間を日本社会は活用できずにもったいないと思うと同時に、その立ち居振る舞いだけでどれだけ能力があっても否定されるのが日本社会なのかもという風なあきらめを持つに至っています。
もっともこう言いながら、現在いる会社では激しくこき使われています。真面目に今の会社に拾われたのは自分でも幸運だと思っています。飽きっぽい自分が満5年も同じところにいるなんてかなり奇跡ですが、一方で前述の通りワールドレコードを樹立しかけていることについては内心でリスクだとも考え、「あんまり自分に処理させ過ぎていると、何かあった時にトラブルになるからもっと人員増やして(;´Д`)」的に上にはよく言っています。
以上を踏まえて見出しの不遇であるか幸運であるかという問いを問われるなら、それでもやはり不遇であると私は思います。というのもコスパは良いけど必ずしもトップバリューではないという自覚がある私がこれほどまで世間で活用されないということは、他にも同じような人、具体的にはそこそこ能力があるのにほんのちょっとの不備で一切活用されていない人はもっとたくさんいるのだろうという風に思えるからです。
そんなのいつの時代も世の常、という人もいるでしょうが、前述の通り自分はアクセスを稼ぐライターとしてだったらかなり上位ランカーを狙える人材、というかそれ以上に他の人間がまず書かない内容を書ける強みを持っていますが、それでも日本にいた頃は自分に記事を書かせようっていうところは一つもありませんでした。割と目立つ能力だと思うのですがそれでも反応がないってことは、多分ていうかほぼ間違いなく今の日本社会は能力基準で仕事が割り振られることがほとんどないように思え、その社会的損失が非常に大きいとしか思えないです。そのため有為な才能がほとんど活用されないっていう意味で、やはり不遇であると思います。
という感じでレトリック的にまとめましたが、「不遇であるか幸運であるか」という問いの主語は「私」ではなく「日本社会」です。日本語は他言語と比べ主語の省略が非常に多いのが特徴なのですが、私が主語を省略した場合は自分のことではなく社会か人類全体を主語にして言っていることのが多く、それが不要な誤解を招いてんだなとか自覚してます。っていうか普段からそういうのを主語にして語る人間が自分しかないのでしょうが。
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