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2008年1月19日土曜日

魂の価値

 最近になってギリシャ哲学とか見始めましたが、現代にまで通用する原子論を最初に唱えたデモクリトスは、物質を構成する最小単位を原子と考えましたが、なにもマテリアルな存在(日本語が思い浮かばない)に限らず、魂までもそれを構成する原子があると考えていたようです。
 彼曰く、魂も他の物質同様、消失した際に構成する原子はなくならず、くっついたり離れたりして、再びまた元の魂になったり、別の物質の構成要素になると考えたようです。自分は何度も書いていますが、肉体と精神の二元論を唱えていますが、この論にはなかなか後ろ髪の引かれる思いがします。

 私自身、以前にこれに近いような考えをもった事があります。というのも、地球上に存在する魂、というより霊魂の数には限りがあると考えました。人間、動物、植物など、それぞれに霊魂は宿っているが、それぞれに霊魂の重さというか、個体差はある。しかしながら地球上の総量には変わりがない……といったような。
 そうして何がいいたいのかと言うと、要するにこの地球上に人間は増加しているが、その背後にはおびただしい数の生物を絶滅に追いやっている。そうして絶滅させられた魂はどこへ行くかというと、人間になっているのではないか。こんな事を、たしか高校三年生くらいの頃に考えたのかな。何も食物連鎖などで説明するまでもなく、魂の上でも生物体系が壊れているのではと当時に主張しました。ちなみに、私の計算だと牛24頭あたりが人間一人の魂です。

 更に言うなれば、最近まやかしものの地球環境保護者が跋扈していますが。単純な話し、人間すべてが絶滅するほど地球にやさしい事はありません。たまにそういう主張をしている人も見かけますが、そういう人間を自分は「ガイア主義者」と読んでいます。ガイアは言うまでもなくギリシャ神話の地母神です。結構勘違いしている人が多いと思うので書いておきますが、ガイアは決して人間の味方ではありません。ギリシャ神話を読めばわかりますが、そういう意味合いをも込めての先ほどの名称です。

2008年1月18日金曜日

野田聖子の公認

 たった今のニュースで、次の選挙では岐阜選挙区の公認候補は野田聖子に決まったようです。もっとも佐藤ゆかりも活躍を認められたのか東京の選挙区で公認がもらえるらしいですが、私としては腹が立つ限りです。

 なにも佐藤ゆかりが好きな熟女好みなわけじゃないのですが、野田聖子は前回の郵政選挙、郵政民営化に反対して選挙戦を戦ったにも関わらず、選挙後の民営化の投票において賛成票を投じたことから心底見損ないました。当時、民意が民営化を選んだのは選挙の結果からわかる事ですが、だからといって大勝した自民党がその数を使って賛成票が過半数を上回る事は確実であったにも関わらず賛成を投じたのは、間違いなくその後に自民党に復党するという目算があっての行動でしょう。
 まぁそれは確かに議員の勝手でしょう。しかしだとしたら民営化反対にひかれて野田聖子に投票した有権者はどうなるのでしょうか。彼らは民営化に反対するから表を入れたにも関わらず、野田聖子は復党したいという自己の都合で賛成票を投じたのは、議員の資質として非常に疑わしいものです。

 平沼赳夫氏などは筋を通して反対票を出しましたが、私は民営化賛成派でしたがその男っぷりに非常に感心したものです。本来、平沼赳夫氏のように筋を通す人間こそが与党に復党すべきであるにも関わらず、根性の曲がった野田聖子ら造反組だけが復党したのも、また平沼氏を差し置いてその条件を受け入れるという神経のなさに怒りを通して呆れすらします。

 元々、野田聖子は小渕内閣で郵政大臣を担当したことから民営化論争の際もさも現場経験があるような口ぶりで表に出ていましたが、はっきりいいますがその時に話していた内容は実態からかけ離れた、論点のずれた事ばかり言っていました。これは何も野田聖子に限りませんが、自分はマスコットにしか過ぎないとわかっていない人間ほど愚かな人間はいないでしょう。このように、順を追って野田聖子を批判する声が聞こえないので、佐藤栄作に続いて批判しておきます。

2008年1月17日木曜日

ネヴィル・チェンバレンと佐藤栄作

 イギリス人は歴史に対してやはり優れた感覚を持っていると思う。
 毎年何がしかのイギリスの新聞にて組まれる特集に、「誇りに思うイギリス人、恥に思うイギリス人」の特集がある。その恥に思うイギリス人の中に、毎回といっていいほど出てくるのがこのネヴィル・チェンバレンだ。

 手っ取り早く知ってもらうにはウィキペディアの彼の項目を見てもらったほうがいい。結論を言えば、彼はノーベル平和賞を受賞したが、その受賞理由となった外交政策は、結果的にヒトラーのナチスドイツを助長させるきっかけとなってしまった。いわば、偽りのノーベル平和賞ともいえる。

 同じようなのがもう一人、日本に佐藤栄作がいる。私は日本人の歴史への感覚はイギリス人へ遠く及ばないと思う。なぜなら、非核三原則を唱えてノーベル平和賞を受け取った佐藤栄作は、沖縄返還に際して核ミサイルの基地装備を容認していたという。現在ですら国内で疑問視されているが、恐らく海外ではイスラエルの核保時と同様に確実視されていると思う。しかし、彼は表立って非難はされていない。受け取ったノーベル平和賞についても不当という評価は聞かない。
 自分は公正な歴史に従いたい。だれも彼を非難しないのならば、この場を使って私だけでも非難しておく。

日本版サブプライム問題

 今回は元ネタがあるので、興味が向いた方はそっちを手にとってください。

 今月の文芸春秋に今回のお題の日本版サブプライムローン問題をり扱った記事があります。タイトルは「日本版サブプライム破綻の日」というタイトルで、経済ジャーナリスの荻原博子氏が書いています。
 細かい内容は本文に譲るとして、大まかな内容は90年代後半の不況期に、消費を促すためと減らした公共事業の穴埋めとばかりに建設業者を救うためにかなり大々的な建築に際しての基準緩和、住宅税の引き下げが行われました。また住宅金融公庫が1998年にそれまでの常識を破る金利2%の「ゆとりローン」といわれる住宅ローンが作り、専門家じゃないとわかりづらいですが、この時期は不況でどこも売上が伸びない中、住宅市場のみは非常に活気であった時期でした。

 しかし結果はというと緩められた基準によって強度偽装事件が起こるなど、様々な問題を引き起こしました。荻原氏によると、この問題は現状に留まらず、金利2%でゆとりローンを組んだ人は、アメリカのサブプライムローン同様に10年間は金利据え置きの返済額のところが、98年から10年経った今年から基準金利が2%から4%へと上がり、返済額が急激に増える事を指摘しています。アメリカの場合、五年間は元本返済だけのところが五年目以降に金利分が月々の返済額に上乗せされて、返済できなくなった人が続出した結果、今回のような問題になったといいます。はっきりいいますが、日本と同じ構造です。

 しかも近年日本は配偶者控除など増税を行っており、また平均給与も下がっている中で無事に返済できる人間は少ないだろうとも荻原氏は予想しています。私から付け加えるなら、あの強度事件が起こって急激に建築認可が厳しくなり、建設業者はどこもひぃひぃ言っていると聞きます。この上でローンの返済が滞ったりしたり、更なる住宅不安が広がるものなら金融に留まらず、ゼネコンの倒産にまで繋がりかねない問題じゃないかと思います。
 知ってる人は知ってますが、先ほどの90年代年末は住宅バブルとも言うような時期で、それこそベンチャーの不動産会社まで出てきた時代なので、まぁなんというか、黒い噂がたえません。結論として、しばらく日本では持ち家は持たないほうがよさそうです。

2008年1月15日火曜日

ナポリゴミ問題と京都市のゴミ行政

 昨今ニュースにてイタリアのナポリでゴミ問題が発生しているとよく聞きます。
 その内容とはこれまで埋めていたゴミが埋立地が使えなくなり、焼却炉を作ろうとしたらマフィアに邪魔されてしまい、街中に処理しきれないゴミが溢れ返っているというものです。大体どこのメディアでも批判的に書きつつ、せっかくの観光都市がもったいないというような報道の仕方です。

 じつはまぁ、これを聞いててすぐに京都市が私には浮かんできました。実は京都市も似たような問題を抱えています。 信じられない事ですが、京都市は去年になるまで燃えるゴミとプラスチックゴミを分けていませんでした。それどころか、現在進行形で地域のゴミ集積所というものはなく、みんなゴミ回収の日に家の前に袋を置いていき、それをいちいち回収する現状です。
 更にちょっと昔に戻ると、2005年、つまり一昨年になるまで本当にルールのない無法状態で、袋に何でも入れて出すだけでした。その年になってようやく家庭ゴミ(プラスチックを含む燃えるゴミ)と缶やビン、ペットボトルと金属類を分けるようになったのです。ちなみに、家の前にゴミ袋を置くのはずっと以前から続いています。
 私などは最初、京都に来た時は非常に驚いたものです。既に分別回収になれていた性もあって、プラスチックを燃えるゴミに一緒に入れて出す事に非常に戸惑いつつやったのを昨日のように覚えています。おまけに、現在でも続いていますが、他の地域がやっているような新聞や紙類を回収する資源回収はありません。京都市がいうには、「古紙回収業者に勝手に渡せ」です。渡せないなら燃えるゴミに混ぜろとも言っています。

 この何から何まで呆れるゴミ行政が、なぜ日本一の観光都市京都で続いているのかこれまでずっと疑問でした。なんせ朝の早くに道を歩くと、各家の前にゴミ袋がでんと座ってるのです。もう少し考えたらと思っていたら、今度は訳のわからない分別方法になったし……。
 察しのいい人にはわかると思いますが、このみょうちきりんなゴミ行政の背後には京都市の闇権力とも言うべき、日本版マフィアともいえる部落団体が背後にいるそうです。一昨年頃から全国ニュースでも取り上げられるようになりましたが、京都市の職員にはその手の人間が数多くいて、まともな人間ならともかく、事件化したように麻薬をやってたり、無免許で何十年も車を運転したりと、不祥事には事欠きません。また組織ぐるみでもいわゆる「中抜け」といわれる、ゴミを午前中に回収した後、昼休みから自宅に戻って働かないという実態も報告されています。

 京都市ではこの団体が非常に強く、面倒くさい分別回収などにずっと消極的で反対活動をしていたようです。特にこれまで国政で高い権力に居座りつづけた、野中広務が団体を後押しし続けたのが大きかったのもあると思います。一説によると、前述の京都市職員の問題が発覚した背景には、この野中広務が政界から失脚したのが原因とも言う声もあります。

 とまぁ、実態的には京都市もナポリも変わらないということです。まぁこれを言い出したら日本の地方行政はどこもかしこも似たようなものらしいですが。
 ただ噂によると、警察や市職員というのはこのような不正が非常に多いらしいのですが、消防職員やレスキュー隊などでは全くといいほど不正がないと聞きます。というのも、不正をやるような根性の曲がった連中じゃ絶えられないほどの体力のいる激務なので、真面目で志の強い人間が集まるかららしいです。また、忙しすぎて不正をやる方へと頭が回らないとも、冗談のような話まであります。
 実際に彼らの激務は漏れ聞く限りでも非常に大変だと聞きます。冬山のレスキューなどそれこそ命がけでしょう。メディアに対してもう少し、彼らの地位向上に繋がるような報道を願う限りです。

2008年1月14日月曜日

国家の目的

 先日、NHKの「クローズアップ現代」にてサブプライムローン問題を扱った際、本題より面白い内容があったので軽く特集します。

 その言葉が出てきたのはアメリカのドル体制の説明の最中で、「このようにアメリカは国家を挙げてドルを世界で基軸通貨にしようとしていて、まさに国家資本主義とも言うべきやり方だ」と、ゲストの誰かが言ってました。
 今まで「国家社会主義」というのは散々私自身もやってましたが、「国家資本主義」というのはこの時初めて聞きました。ためしにぐぐって見ると、第一候補にはいきなりソ連が出てきましたが、実際にはこの言葉はアメリカをうまく表現していると思います。他の国に規制緩和を力ずくで行わせ、ドルが出回っていない中東に戦争を吹っかけて新自由主義経済を押し付けたりするなど、言いえて妙です。

 とまぁこの言葉の説明だけでも多分友人とは5、6時間は話せるネタですが、まだうちの親父としかこの話題をやってないのでその辺はまた今度にして、ちょっと今回は国家について考えてみようと思います。
 政治学上の国家については専門書に譲りますが、自分はここで国家の目的について考えてみます。基本、どの宗教もその信者の拡大を教是にしています。そのため宗教学上では「宗教的慣用性」というものがあり、たとえ不快に感じても、暴力などの物理的な弊害を受けない限りは他の宗教者の勧誘活動をある程度聞かなければならないという暗黙の了解があるそうです。まぁどの宗教も大体、世界中の人をその宗教を信仰させるのを目的としています。

 では、国家の目的とはなんなのでしょうか。言ってしまえば、帝国主義時代ならば宗教と同じく、領土の拡張、世界制覇が目的だったといっても過言ではありません。一応世界大戦が起こってない今では、じゃあその目的はなんになるのでしょうか。
 ひとつに、経済戦争に勝つ事。ひとつに、自国家の保持。ひとつに、他国からの干渉の排除。
 数え上げたら切りがありませんが、基本的には二番目の国家の保持がどこの国でも目的としているでしょう。しかしそれならば、国家の目的の前には国民はどうなるのでしょうか。保持するためには、犠牲になるべきなのでしょうか。改めてこのような基本的なことを考えてみると、国家とは何のための集団なのかと考えさせられます。
 自分は今回のにも書いた国家社会主義者を自認しており、国民の福祉の繁栄を主是としています。しかし言っててなんですが、それが達成された今の日本では自分で言ってて空々しいです。まぁそれ以外にもあれこれ国家でやりたいこともありますが、その辺はまだまだ秘密にしておきます。

ブログタイトルについて

 よくこのブログ名がなんで「陽月秘話」と聞かれますので、今回ささっと説明します。

 もともと、自分が若い頃に使っていた号が「葉」という、私が最も好きな漢字を使っていたので当初はこれを使った言葉にしようと思っていたのですが、少し芸がないなと思い、同じ音の「陽」を当て、それに合う、音と意味の合う漢字の「月」を当て、読まなくてもいいけど、読んだら得するよという意味で「秘話」を当てて「陽月秘話」になりました。おしまい

 ……ををっ、稀勢之里が朝青龍に勝ちやがったΣ (゚Д゚;)

テレビの面白さ

 私は普段からあまりテレビ番組は見ない方です。理由はいたって簡単で、落ち着かない性格なのかどうもじっと一つのものを見る事が出来ないからです。そんな自分でも毎週見る番組はいくつかあり、「NHKニュース」とクリステルの出ている「ニュースJAPAN」を除くと、まず週末にある「動物奇想天外」や「天才志村動物園」など動物番組、そして期間中の相撲中継、あと「TVタックル」と関西ローカルでやっている「たかじんのそこまで言って委員会」などの政治番組です。

 先日、新年一発目という事で「たかじんの~委員会」が去年の総集編とばかりにスペシャル放映されてました。まぁ実際の理由は多分、レギュラーゲストの橋下徹が選挙に出るんで、撮りためた内容が使えなかっただけだと思いますが。
 その番組の中の最後で、やしきたかじん、辛坊二郎、三宅久幸、田嶋陽子の四人の対談があり、そのなかでたかじんがこの番組の視聴率が非常にいい事について、「多分、作ってないからいいんとちゃう」と言っていました。作っているとは文字通り、台本などで番組進行をあらかじめ作っておくという意味で、極端なものは「やらせ」と呼ばれる奴です。まぁ番組見ている人ならわかると思いますけど、この番組はそれこそ毎回ゲスト同士が激しく怒号を交わし、ケンカしあっているような討論番組です。司会のたかじんも他の番組ではずっとしゃべっていますが、この番組では締めの一言を言うだけです。
 たかじんが続けて言うには、みんな本音であれこれ語り合うのが、かえってこの時代に視聴者に受けているのではないかと言っていました。言われてみるとなるほど、自分の見ている番組はそんなのばかりだと思いました。同じ系列の「TVタックル」はもとより、動物番組なんて野生の本能むき出しで大好きです。そんでもって、やらせ臭いナインティナインの番組とか、「鉄腕DASH」は大嫌いです。

 以前に読んだ、というより途中で腹立って投げ捨てた北田暁大の「わらう日本のナショナリズム」という本によると、このようなやらせ……というよりはソフトに「演出」がテレビ番組に出始めたのは80年代以降で、「天才・たけしの元気が出るテレビ」からだといいます。この番組以降、視聴者は番組内容がやらせとわかっていつつも、それを考慮した上で見るようになったと北田は主張しています。これを皮肉、アイロニーの笑いといい、日本はずっとそのような価値観をもっていたとも北田は言いますが、そんなの関係ねぇ。まぁ、皮肉の笑いというのはいい点を突いていると思うけど。
 でまぁこの流れが行き着くとこまで行ってしまったのが、この前の関西テレビの「あるある大辞典」なのだと思いますが、ここに来て視聴者の回帰現象とも取れる動きが、前述のたかじんの言葉だと思います。ドラマでもトレンディドラマのように浮世離れしたものが受けなくなったりしているのも同じものだと思ってます。逆に、今なんかはドラマだと青春熱血物とかが受けるんじゃないかな。ちょっと、オチが弱いなぁ今回のネタは。

学問の価値は~その二~

 前回は途中で哲学関係の事はなしてたら脱線したので、本論に戻って今日は解説します。

 さて前回は日本のアカデミズムの中では西洋の学問体系が東洋より上だという前提があるのが問題だと書きましたが、その上で前回でも示唆しましたがその学問の流行り廃りから経済的価値に左右されるのも問題だという事を書きます。

 これは特に経済学の上で顕著ですが、やはり教える内容の流行り廃りというか、その学問がどれだけ金になるのかで評価が決まりやすい傾向があります。たとえば90年代末期などではIT革命が叫ばれ、ほとんどの経済学者がIT関係に投資すべきだといって、2000年ごろにITバブルははじけました。あの時に散々適当なこといっていた学者達には首を吊ってもらいたいものです。ま、中にはまともな意見も少なくありませんでしたが。

 しかしこれなんかは一過性の流行で終わりましたが、自分が非常にもったいないと思っているのはマルクス経済学です。最近になって自分も勉強し始めたのですが、やはりなかなか奥深いものですし、哲学分野にまで新出する疎外論などは現代においても価値の高い学問だと思います。しかし全共闘の反省やらソ連の崩壊という影響を受けて、恐らく専門的にこれを学ぼうとする学部生はほとんどいなくなったと思います。実際に大学の講義でも非常に扱いの小さいものになっているのは個人的に残念ですし、私が現在苦労しているように、一般の書籍でもこれを扱った本がほとんど作られないので、えらく古い日本語と格闘しなきゃいけないのがその動きを加速させている気がします。

 そして次に信念の問題というか、まぁ森永卓郎の話です。
 元神戸新聞の記者で、NHKのワーキングプアーにも度々出演している内橋克人が誰かとの対談で語った内容ですが、ある日出版社から複数人の論文をまとめて、この格差社会でどう行き抜くかという本を出すので書いてみないかと誘われたようです。しかし内橋氏は自分はこの格差社会を批判し、是正すべきだと主張しているのに、どうしてその社会の現実を甘んじて受けるような内容が書けるかといって断ったらしいのですが、出版された本を見てみると、普段内橋氏のように格差社会を批判している学者や知識人が書いていて驚いたそうです。
 その上で、この格差自体が学者達にとっては金になる材料となっている事を指摘して、内橋氏曰く「商品化される貧困」に文字通り、学者達が一役買っていることを嘆いたそうです。

 いきなりでなんですが、森永卓郎なんてこの典型です。なにもこのようなものは経済学に限らず、政治学やら理工学においても度々あります。政治学では外交問題を書籍やテレビなどで提起して大衆の無用な不安を煽り、講演回数を増やすといった方法があり、また異論派を叩き潰したり、問題をこじれさせたりしても解説の場所を増やす事も出来ます。佐藤優などはその著作で、裁判で自分の言葉を翻した青山学院大学の袴田茂樹教授(ロシア政治専門)をよっぽど腹に据えかねているのか、自身の著作で皮肉たっぷりに「商売がうまい」と評しています。

 理工学でも韓国で起こったES細胞研究捏造などで研究費を騙し取るなどありますが、このようにして学問の価値評価というのは往々にして捻じ曲げられやすいものです。確かに評価の難しいのはわかりますが、今回私が指摘した点を留意するだけでも結構物事は変わってくるのではないかと思います。

2008年1月12日土曜日

学問の価値とは その一

 基本、自分は反権力志向です。ちっちゃな頃から反抗ばっかして、現在は自分では少し丸くなったと思っていますが、周りからはそうは思われていないらしいです。
 そこで今回はいつもマスコミばっかり叩いているから、たまにはアカデミズムを叩こうと思います。実際、腹立つ事多いし。

 これは知り合いの先生、確か関東学院でやっていたらしいですが、その先生から聞いた話です。

「やはり日本の学術会では西欧の価値観や概念の方が上だという前提が強く、戦前の時代は西欧で流行り始めた社会主義思想が最先端の学問として、当時の学者は競うように学んだそうです。もちろん凄い人たちも学んで、あらかじめ日本の概念なども全部学ぶという下積みの上でこれが一番いいとして社会主義思想を持つのですから、その後の若い人間と違って立場を改めるという事は絶対にしませんでした」

 後半はおまけでつけただけで今回の内容とあまり関係はありません。肝心なのは前半部で、西欧の価値や概念が上っていうことです。考えてみると日本で哲学を教えようとする場合、必ず最初にソクラテスなどのギリシャ哲学から教えられています。それこそ自分らにちかい、というよりも東洋の孔子の儒学思想からやってもいいような気がするのですが、大体がキリスト教を終わった辺りから教えられます。また孔子はまだ教えられるだけいいですが、老子になるとそれこそ名前だけ覚えておけといわれるくらいで、無為自然とかその中身はやりませんし、後年の儒学、朱子学や陽明学なんて多分名前すら普通の高校生は哲学の時間には学ばないでしょう。そのくせ、デカルトとかフロイトはやらされるのに。

 なにも私は東洋至上主義ではないのですが、やはり日本のアカデミズムには西上東下の価値観に包まれているような気がします。多分こういったら学者連中から猛反発食らうだろうけど、それでも敢えて言わせてもらうなら、日本の学者どもは西洋の犬でしかない。
 何もこういった傾向は哲学上のみならず、経済学にまで深く浸透しています。最近流行りのアメリカの大学のMBAに始まり新自由主義経済学など、明らかに実態からかけ離れた教育が日本の大学経済学部にて行われています。その上で日本の優秀な研究者などはほとんど評価されず、ノーベル賞を取ったという事で、それまで何の賞も受けていなかった田中耕一さんがその後続々と日本で賞されたのも、彼の研究が素晴らしかったのではなく、西欧の研究者に認められたからだと言っても過言じゃないと思います。

 話は哲学に戻しますが、自分は東洋思想も決して捨てたものではないと思います。これは日ごろから言っていますが、西洋哲学は基本的に強い二項対立で語られている事が多いと思います。これはキリスト教が善と悪の二つの概念の対立を強く出しているせいだと思いますが、わかりやすい文、すこし物足りなさを感じる内容が多いです。ちょっと詳しく書くと、西欧の時間の概念は左から右へ一直線で、文明は進化しつづける事が前提です。これに対して東洋思想を代表する仏教やヒンドゥー教は時計と同じ円の循環の概念で、しばらくすればまた世界は初めからやり直すみたいに、非常に複雑でわかりにくいですが、その分深いです。
 たしか明治の誰かも西欧に行った際、その思想の浅さに呆れて、和魂洋才とばかりに技術は認めても哲学は譲るなと主張していたはずです。西洋の思想でも確かに優れたものも多く、私自身キリスト教に非常に強く影響されていますが、それをもって東洋思想を捨てるのは大間違いです。

 また日本国内にも非常に面白い考え方を持った人もいっぱいいました。たとえば江戸時代の山片蟠桃なんかはその著書の「夢の代」にて、歴史は事件が起こるその当時よりも、後年になってから明らかになる事が多いと主張しています。ダイアナさんの事故とか、ライブドア事件もそうなるのかな。

患者のたらい回しという言葉の欠陥

 今回のネタは、以前に知り合いの医者から聞いた話です。

 何もその人に限らないのですが、大抵の医者はマスコミの事を嫌っています。というのも、昨今になってようやく明らかになってきましたが、医療現場の苛酷な労働はほとんど報道しないくせに、ほんの少しの医療ミスについてはしつこいくらい報道するからです。
 私の知り合いのその医者はもう60代の歯科医ですが、他の医者の話で、なんでも完全に事実無効な医療ミスが報じられたので新聞社に文句を言いに行ったところ、その新聞社の社員は、「我々はあなた方医者より、圧倒的大多数の大衆の側につきます。だからあなた方を敵にしても怖いとは思いません」といい、一切謝罪はしなかったらしいです。

 そこで今回の話ですが、もしホテルで客室が満室だった時に新たな客が来て、しょうがないから帰ってもらったときにたらい回しという言葉はまず使われないでしょう。にも関わらず、最近問題になっている急患の病院受け入れがなかなかうまく行かないのを、何故もってたらい回しと表現するのだと、非常にその人は怒っていました。
 実際問題、夜間に急患が運ばれてきても肝心の医者自体がほとんどいません。また実際にベッドがすべて埋まっている事もほとんどざらです。そうした、病院が対応しきれない患者を断る事がどうしてたらい回しといわれて非難されるのか、これは以前から私も気にかかっていた問題でした。

 そもそもこの問題が注目されるきっかけになった妊婦の緊急搬送についても非常に問題のある報道の仕方がなされています。ごくごく一部では報じられていますが、そのような緊急搬送を受けた人間のほとんどは、出産前に行く定期検診に言っていなかったようです。定期検診とはその名の通り、妊娠の状態を見る検査の事で、この検査を通して出産予定日などを決めるのです。そして決められた出産予定日が近づくと、まぁ普通の人間なら大事に備えて入院するでしょう。
 このように、患者の側にも準備してもらわなければ産婦人科医も予定が立てられないのです。なのに急にお産だといっても、それこそ他の妊婦に構っている医者は対応できるはずがありません。ほとんどのマスコミはこの点を追究せず、緊急体勢を取っていないといっては病院を責めつづけているのが個人的にも腹立たしいです。もしそんな緊急体勢を取ったら、労働時間は飛躍的に伸び、医者が休む時間がなくなるのは明白でしょう。

 本当はあまり使うべきでない流行語ですが、このような急に病院に駆け込もうとして流産になったのはやはり一部自己責任があるでしょう。もし入院するお金がなかったというのなら、確かに問題ですが。
 だからこそこの問題を解決するには、病院の緊急受け入れ態勢の拡充や、受け入れ先を探すコーディネーターの配置よりも、妊婦への定期検診の徹底や出産前入院の費用補助の方がよっぽど安上がりで効果的であるとはっきり断言できます。

 以後は私の完全な妄想ですが、マスコミがこのような手段を紹介せずひたすらに医者の勤労に期待する方法を紹介したり、前述のように医療ミスばかりあげつらって報道するのは、ひとえに日本政府と結託しているせいかもしれません。日本政府としてはこれ以上医療費負担を大きくさせまいと2005年前後に行われた構造改革会議にて散々に医療関係の支出を抑えてきました。それによって医療現場が荒廃するのは目に見えていたのですが……いやまぁ、当時は私もそりゃ乗せられてましたよ。医者は高給で医療ミスもよく報道されているのだから、この医療費削減への反対を日本医師会がするのはどうかなぁと思ってました。
 現場の医者、前述の歯科医の方以外に私が講演を聴いた川崎市立川崎病院の医師である鈴木厚氏などはこの動きに早くから問題だと感じていたようですが、多分私以外もマスコミの医療ミス報道に乗せられて問題視しなかった人は多いのではないかと思います。逆を言えば、マスコミが医師を叩いてくれたおかげで、日本政府は大した反対運動を起こさずに費用を削減できたというわけです。

 ま、政府がマスコミの動きに乗ったか、マスコミが政府に踊らされたかはわかりません。でも一番ありそうなのは、二人揃って医者を叩こうとした、この構図が一番わかりやすいし、結果的にはそうなっています。

 最後に、医療問題がわかりやすくなる本として前述の鈴木厚氏の本を紹介します。秀和システムから出ている本で、「崩壊する日本の医療」という本です。でも本よりこの人は講演の方が絶対に面白いと思う。正直、医者より漫才師の方が向いてるくらい話がうまいし。

麻生太郎のブームについて

 文章の敬体に疲れてきたので、今日あたりからフランクな文面で送ります。

 今朝関西ローカルでやっていた番組の中で青山繁晴が、「外務大臣の頃にライス国務長官とアメリカで会った際、麻生太郎は日中関係が悪くなって問題が起きないかと言われ、大丈夫、日中は1500年前から関係が悪いんだと答えた」と言って、この一件で彼は麻生の事が好きになったらしい。

 この麻生太郎はよく2ちゃんねるでも漫画の「ローゼンメイデン」を読んでいたと言われたり、漫画好きである事からすこぶる人気が高く、去年に行われた自民党総裁選でもネット上で大きな人気を呼んだことは記憶にも新しいでしょう。
 実際、私の回りでも当時に麻生氏を押す声が大きかったのだが、肝心要の私はと言うとそれほど麻生氏を現在でも評価していない。というのも、これまで様々な場所でインタビューや記事が伝えられているが、どれを見ても具体的な政策案が見えてこない。唯一言えば、文芸春秋にて相続税について一度述べた内容がなかなか面白かった程度である。

 まぁそんな評価はおいといて、一体何故麻生氏がこれほどの人気を誇るのだろうか。オタクな趣味という点では、前の官房長官の与謝野馨氏などはパソコン自作オタクで、こっちも面白いと思うのだが生憎人気は出てきていない。
 結論からぱっぱと言ってしまうと、彼なりのべらんめぇ口調のキャラクターが漫画好きという属性と相まって人気だと思われる。何も彼に限らず、2ちゃんねる内では自分たちに近い人間像の相手をやたらと好評価したがる傾向があるが、それについて以前に呼んだ記事で(確かこれも文芸春秋)、「彼らは自らを弱い存在と規定しており、強い権力者が自分らに近い人間像だと強い親近感を表す傾向にある」と述べられており、非常に特徴を掴んだ分析だったと覚えている。それゆえに、いくら漫画好きだろうと社会的に弱い存在だとあまり相手にされないのか、ゲーム関係者のオタク趣味は叩かれる傾向にある気がする。

 なんか、今日は文章にノリがないなぁ。

2008年1月10日木曜日

内閣改造が見送られた件について

 少し古いニュースですが、今年の念頭に当初は予定されていた内閣改造を見送るという福田総理の発言が報じられました。今後の国会を見る上で、この見送りには何が含まれているのか考えてみたいと思います。

 まず、当初の改造ではどのような改造が予想されていたのでしょうか。私の予想だとまず法務大臣の鳩山邦夫はとっかえられたでしょう、アルカイダの友達の友達なんだし。次に予想されるのは、行革大臣の渡辺嘉美と厚生大臣の枡添要一が挙がってきます。まず前者は行政法人の廃止を訴えてきましたが、各省庁では無回答が続出し、本来後押しするべき福田総理もこの時はまったく動きませんでした。これと薬害肝炎の問題から見ても、現在の福田総理は官僚寄りの総理とも見れる行動が続いているので、ここらで切られるかと思っていました。同様に、枡添要一も去年の公約問題でやらかしたので、意趣返しでやられるかと思っていたのですが、改造自体なくなりました。

 その他の大臣はというと可もなく不可もなくで、また次に大臣をやりたがっている議員もあまり見当たらなかったので特に予想は作りませんんでしたが、今回改造を見送ったのはやはり、支持率が関与しているのではないかと思います。
 小泉政権以降、内閣改造は党内のコントロールと支持率回復に使われるようになりましたが、今回の状況では改造しても支持率の上昇が見込めなかったのが見送られた原因だと見ています。これは書く評論かも言っていましたが、福田総理は国民が民主党がテロ特措法でごねるのを見て支持率が回復すると呼んでいたのが、肝炎問題で逆に下がるという状況に慌てたと言われています。見たところ党内の制御には困ってなさそうですし、場当たり的にやってもしょうがないということから見送られたのだと思います。

一神教と多神教の宗教観

 最近になって遅ればせながら「ソフィーの世界」を読み始めました。長いのでしんどいですがそれでも読んでます。
 まぁ詳しい内容はいちいちここで書くことなどないのですが、この本の中で少し面白い考え方があったので少し紹介します。その考え方というのも、今回の御代の一神教と多神教の宗教観です。

 すぐに結論から言うと、一神教というのは「聞く」宗教で、多神教というのは「見る」宗教とのことです。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はどれも偶像崇拝は禁止され、その教義は経典にゆだねられて教えを忠実に実行することが叫ばれています。キリスト教は今でこそ偶像崇拝が行われていますが、知ってる人なんか知ってるように昔はバリバリに禁止されていました。それが縁でギリシャ正教もできたんだし。
 逆に多神教というのは「見る」宗教で、仏教や古代のギリシャ神話、ヒンドゥー教などは偶像崇拝が実際に盛んです。また神々の物語も非常に多く作られ、それを悲喜劇にして講談にするということも行われています。

 具体的にだからどうだというわけではないのですが、読んでいて面白いと思ったのでこうして記録しておきます。オチは特にありません。

2008年1月9日水曜日

炭酸飲料の思い出

 いきなり時事ネタですが、昨年に西武を退団したカブレラ選手をオリックスが獲得する事になったそうです。オリックスは去年、トレードをするそばから放出した選手が一軍で活躍して(ロッテの早川、中日の中村選手など)、フロントはどうかしているのではないかと思ってましたが、今年はどうなるのか早くも楽しみです。

 さて今回のお題ですが、本題に入る前にまずレア情報。なんでも、現在東欧を中心にヨーロッパでコーラ、スプライトに続く第三の炭酸飲料が売れに売れているらしいです。日本での上陸はいつ頃かと、去年の年末にちょっとニュースを得たのですが、その後はあまり続報がありません。今日話した友人によると、コカコーラ社がその飲料の販売権を買おうとしたところ、販売元から拒否されたというからなかなか楽しみです。私は知る人ぞ知る嗜好飲料マニアで、海外に行くたびにバニラ味のコーラを飲んだりするほどで、新しいものにはちょっと弱いです。

 でまぁそんな風に友人と話してたら、その後炭酸飲料の話に移っていったので、今回書く話はそのときの会話がメインです。まず先ほどのコーラやスプライトはそれこそ世界中、中国にだって売ってあるほどの世界的炭酸飲料ですが、日本にはもう一つ、ポピュラーな炭酸飲料としてファンタがあります。このファンタもなんでも今度から以前に売り出した味の復刻版を出すらしく、自分が好きだったグレープフルーツ味も出るらしいのですが、このところ何故だか巷でファンタを見る機会が少なくなった気もします。多分、ペットボトルであんま販売してないからだと思いますが、実際のところどうなんだろ。前はマクドナルドでも売ってたのに。

 あともう一つ、日本で炭酸飲料ときたら戦前からあるサイダーですが、実は最近、自分はこのサイダーが飲めなくなってきました。どうも味が合わなくなったというか、コーラはよく飲むのに本当に駄目になった。友人はビール以外の炭酸飲料を飲まなくなったらしいですが。
 他にも炭酸飲料ってあるっけと話してたら、都会にはないけど田舎にはよくある「チェリオ」が挙がって来ました。これなんか知る人ぞ知る炭酸飲料で、何故だかペットボトルの「クリームソーダ」とセットで売ってある事が多い飲み物です。たまに度胸試しでまだ飲むことあるけど、なんで田舎にしかないんだろう。

 そのチェリオは味はまぁいうまでもなくクセのあるもので飲む人を選びますが、友人は「ドクターペッパー」がどうしてもだめらしいです。このドクターペッパーは自分なんかは結構好きで、見かけるとよく買って飲んだりするのですが、飲んでて確かに大衆受けはしないと思います。じゃあ逆に万人受けする炭酸飲料はあったっけと話してたら、昔あった「はちみつレモンサイダー」は好きだったと一致しました。何もサイダーじゃなくとも「はちみつレモン」だけでもそこそこおいしかったのですが、今では既になくなっています。「CCレモン」や「キリンレモン」に負けちゃったからかな。

 こうしていろいろ挙げてみると、いろんな飲料があったもんだと思います。やはりこの手の飲み物は出た時は真新しくてよく飲みますが、しばらく時間がたつとすぐに飽きてしまったものばかりです。で、珍しいチェリオやドクターペッパーだったら見かけたときに飲みますが、常に飲むとしたら、やはりコーラになってきます。多分、こういったものってのはイメージ戦略かなんかの差で、味じゃないんだと思います。そういう意味で、ほんと飲料業界って弱肉強食だなぁ。
 あ、オロナミンCを忘れてた。

2008年1月7日月曜日

日本の国債は憲法違反

 日本政府は毎年予算を決める際に、皆さんも知ってのとおり借金こと国債を発行しております。大体30兆円台が毎年組まれますが、実はこれ、毎年予算を決める度に法律を審議されているのをご存知でしょうか。

 実を言うと、日本は憲法上、国債を発行するのは違反しているのです。何条かは忘れたのですが予算を組む際に借金を作らないと明記されています。実際、戦後十数年は一度も国債が発行された事はありません。
 なぜ憲法にこのような条文が載っているのかと言うと、言うまでもなく戦前に国債を日本政府が乱発し、軍事費に使っていたという経緯の反省からです。最近になって日本国憲法を勉強しだしましたが、アメリカの相当学識のある人たちが作ったというだけあって、よく出来た憲法だと思っています。

 しかし憲法違反といわれつつも実際に発行しているじゃないかと言われますが、実は抜け道的な法律があって、どうしても必要な場合、国会の審議を通過した場合にのみ発行が許されているのです。そのため他の予算と違い、国債は毎年その内容と発行高が国会にて審議されているのです。
 はっきり言いますが、これは明確な憲法違反でしょう。司法の立場にある最高裁がこの状況下で違憲判断を下さないのは今に始まった事ではありませんが、司法にとって非常に問題のある態度でしょう。本来一年次限りで許されている法律を毎年作られ、事実上恒久法のように扱われている事に国民の側も慣れてしまったのか、あまり議論にはなりません。

 少し歴史の経緯を話すと、この国債が戦後初めて発行されたのは60年代中盤で、オリンピックを控えて道路工事などの費用を捻出するために初めて組まれました。しかし一度なめたアメの味は忘れられないというか、その後も延々と国債は発行され、現在に至るように借金大国化してしまったのです。中曽根氏が首相だった時代は好景気もあり、発行高より償却高が上回った事もあるのですが、基本は雪だるま式に増え続けています。

 もっとも、今すぐに違憲だといっても、それを言ったら国家経営は一気に破綻します。しかしまだ若者と言われる身分の私ですが、出来る事なら下の世代にバトンタッチする頃には、泥水をすすることとなってもこの借金を返していたいものです。

睡眠は肉体の休息? 精神の休息?

 先に前提を話すと、私はもろにキリスト教思想の影響を食らっているので、基本的に肉体と精神は別々のものだと思っています。その上で、霊魂もUFOもインド人も信じています。
 そこで今回のお題ですが、睡眠は一般的に休息活動と捉えられていますが、それは肉体か精神か、どちらの休息なのでしょうか? 今回は読んでいる方にもぜひコメントを頂きたい内容です。

 先に私の考えを披露すると、よく薬の効果のほとんどはプラシーボ効果、つまり心理的に薬を飲んだからもう大丈夫という意識が病気を治させているといわれています。また逆に、精神的に落ち込んでいる時の方が病気にもかかりやすいとも言われています。私は先ほども言ったように、精神と肉体は別々だと考えており、精神が病んだ、つまり気分が落ち込んだりショックな体験をすると、精神の宿っている肉体に対してマイナスの影響が起こり、結果的に体調を崩すと考えています。また逆に、肉体の方も知らず知らず病原菌を入れたり、怪我などを負ってしまうと、その影響が精神にも及ぼし、気分が落ち込んだりうつ病に繋がったりするというようにも考えています。
 このように肉体と精神は相互作用が常に起こっており、片っ方のバランスが崩れるともう片方にも影響が起こると日ごろから思っています。

 そこで本題の睡眠ですが、これは現在でも具体的にどのようなものなのかまだはっきりわかっていないらしいです。もちろん睡眠を取らない人間などいないので、生存活動に必須の行動である事ははっきりしているのですが、それがどのように作用するのかまだまだ研究が必要な課題です。
 考えてみると不思議なものです。睡眠は毎日絶対必要といわれつつも、寝貯め、つまり寝すぎは良くないとも言われます。実際に睡眠薬の過剰摂取は死にも至りますし、一日12時間も寝るとまず体が痛くなります。
 さらに考えてみると、肉体を休ませるだけなら体を動かさないだけでも十分なようにも思います。となると睡眠は精神的な休息になるのでしょうか? それも少しおかしな気もします。睡眠をしなければ明らかに肉体の運動能力は低下していきます。
 ほかにも、夜寝ようと思ってもなかなか寝れないと、凄くイライラする経験は誰にでもあるでしょう。これなんかも精神的な要素ですが、さきほどの私の精神と肉体の相互作用の考え方を援用すると、それは単に体の疲れが取れない事からのイライラかもしれません。かといって寝ると精神的な問題はみんな解決するのかと言うと、恋の病とか仕事の悩みといった話題はちょっとやそっとの間にふて寝したくらいじゃ晴れませんし、そうなると肉体なのか……。

 とまぁ考えれば考えるほどド壺にはまる内容ですが、普通に考えるのならば、精神と肉体を繋ぐ、神経の休息と捉えるべきでしょう。まぁ医者じゃないので詳しくわかりませんが、睡眠はやはり神経の緊張をやわらげる活動で、肉体、精神の両方に作用するのではないでしょうか。これだったら丸く収まります。
 神経を張るということで、ねこなんかは起きている時に非常に周囲に警戒を行っているので、人間より眠る時間が長いという話を聞きますし、実際に何かに集中した後は私もよく眠くなります。

 と、場当たり的に特にまとめずぼんぼん書いていきましたが、私の結論を言うと神経の休息であるのは多分間違いないとして、肉体と精神とで比べると、その重要度は精神の方が重いのでないかと思います。というのも、先ほども書いたように、寝すぎると返って肉体には負荷がかかります。寝たきりの病人は途中で体勢を変えないといけませんし、先ほども言ったように寝過ぎは体に毒です。そして以前に眠れなくなったある男性の話を聞きましたが、その人は次第に意識が朦朧とし、末期に至っては会話や反応すらできなくなったという話です。確か、眠れなくなって一年後になくなられたと思います。

 もちろん逆説的に、寝すぎると頭がボーっとするといった精神への影響も挙げられます。もしかしたら個人差がある内容かもしれませんし、その辺はこれから個人的に勉強していくので、また何かあったら続きを書きます。

今年の景気

 先週の金曜日に600円以上も日経平均株価が下がった事から、今朝のニュースは経済関係のものが多かった気がします。明けて今日の夕方になると、案の定というか今日も150円下がったといいますから、自分の友人みたいに新年早々株ですった人も多いと思います。

 番組名は忘れましたが、昼のワイドショーでは各経済評論かを呼んで今年の景気予想をやらせていましたが、まぁ大体が似たり寄ったりで、予想の根拠すら当てにならないものばかりでした。また財界人へのインタビューでは、どれも新年早々ということで、序盤は下がるものの年間を通して乱高下はないというような、強気な発言が多かったです。

 そんな状況を踏まえて、私なりの今年の景気予想をさせてもらうと、二つのファクターが大きく左右すると思います。まず一つ目は現在進行形のアメリカで行われている大統領選挙です。次の大統領に誰がなるのか、イラク戦争の後始末をどのようにやるのかで、景気が大きく左右される事でしょう。もっとも、大統領選自体は11月に行われるので、今年よりは来年に影響するファクターかもしれません。
 そしてもう一つのファクター、これなんか私が自慢げに話す持論ですが、中国で行われる北京オリンピックです。言うまでもなく世界経済を引っ張っているのは中国であるのは間違いなく、目下のところ向こうではバブル経済が謳歌され、一般人も個人で借金をしてまで株式投資を行っているほどです。かつての日本がそうでしたが、この手のものというのはある転換点を迎えると急激に熱が冷めます。実際に日本でも東京オリンピックが終わった後に深刻な不況に入り始めます、日本でその要因となったのもオリンピック準備のために発行しだした国債が少し絡んでいます。

 中国でもこの現象が起こる事が予想されています。私なんかは去年も持つかどうか怪しんでいましたが、案外無事に年を越して、さて今年はどうなるかと考えているところですが、中国株投資をやっている人には早めに利益確保をする事おすすめします。

2008年1月6日日曜日

人力車は飲酒運転になりうるのか?

 最近堅い内容ばかり書いているので、たまにはゆるい内容でいきたいと思います。

 これは結構知らない人も多いのですが、アルコールを摂取した状態で自転車に乗るのも、一応飲酒運転として検挙対象になります。何故かと言うと、そこら辺は法学の専門家に言わせると自転車も「車両」扱いになるので、それの運転、操縦は自動車と同じように扱われるかららしいです。
 そこで一つの疑問ですが、アルコールを摂取した状態で人力車を引くとこれも飲酒運転になるでしょうか?

 そもそも人力車は「車両」扱いになるのでしょうか。見た目で言うと自転車なんかよりよっぽど自動車に近いですが、自転車と違い、運転というよりは引くという動作になります。まぁ普通に考えたら酔った状態で引くなら、自転車の運転なんかよりよっぽど危険な気がしますが。

 あと、最近検挙率が上がってきているという、運転手が酔った状態だと知っている同乗者にも罰金がかかるあれですが、これも人力車だとどうなるのだろう。この場合同乗者はお客になるが、そもそも酔った車夫の人力車に乗るお客というのも豪気な客だ。更に追究するなら、危険運転致死傷罪なども適用されるのだろうか? 確か、バイクでの事故は現在ケースバイケースで、司法でも判断が分かれているという話は聞いた事がありますが。

2008年1月2日水曜日

時間に対する一つの概念

 基本、このブログでは日常では役に立たないけども、覚えておくと物事を考える足しになるような、普遍的かつ抽象的な概念をよく紹介しています。何故こういうことをやるのかというと、やはり自分の周囲の若者が知識こそ覚えているものの、物事を考えることができないという状況に辟易しており、実際にこういった概念を教える機関が少ないとも感じることから、一種の使命感を感じてやっています。

 そこで、今回は多分今までの中でもかなりスタンダードとなり得る概念を紹介します。結論から言って、文明は時間とともに必ずしも進化しないという概念です。

 いきなり例から出しますが、これは藤原正彦氏が以前に言っていた事ですが、10世紀のヨーロッパの数学のレベルは紀元前の古代ギリシャ時代に劣るらしいです。そこで藤原氏は、「時間の経過とともに何でもかんでも文明は進化することはない、むしろ退化することすらある」と言っております。
 私の周りだけかもしれませんが、やはりこの概念とは真逆の概念を支配的なまでに持っている人が多いような気がします。子供の頃より大人の考え方、昔より今のやり方、前の人より今の人など、例をあげれば枚挙に暇がありません。

 特に、科学の世界ではこれが顕著に思います。私が子供の頃、私の母はみかんの背にある食物繊維を消化されないものだからといっていちいちはがしてみかんを食べていました。実際、食物繊維は消化されずに体から排出されます。当時、消化されないものは体に害をなさないまでも、摂るべきではないという考え方が少なからずあったような気がします。時代は下って現在、食物繊維はそれ自体は消化されないまでも、他の食物の消化を助ける効果が発券され、転じてダイエットの目玉ともなる栄養素として現在の地位を築いています。

 この例でもわかるように、下手な科学の裏付けがなかった頃には気にせず摂っていたものを、消化されないという科学的な裏付けによって、体にとって有益な食物を摂らなくなるといった歴史がここ数十年の間にたくさんありました。何も食物に限らず、人間にとって本来は有益であるものが、新しく入ってきた概念によって次々と潰されて行ったのが、19世紀以降の歴史だと私は思っています。

 このように、科学は中立かつ絶対的な価値観というのは基本的には間違いです。その概念を主張するのならば、科学が完全に解明されてあるという前提がなければなりません。逆に温故知新のような、以前は風習、迷信と呼ばれていた行為も有益なものであったという可能性があるのです。
 もっとも、その風習や迷信の中には明らかに不条理なものも少なくありません。平安時代にあった、女性は顔を見られたらその男性と結婚するなどや、生贄を捧ぐといったものなどは現在のように廃止されてしかるべきでしょう。一番肝心なのは、その行為や考え方が本当に有益なのか、必要なのかを自らで考えることです。そして無益だからといって、無害なものをとやかく捨てるべきでもないと、やや保守主義的な自分の主張をしておいて、新年一発目の投稿を終えます。