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2012年3月3日土曜日

完璧を求め過ぎるが故の弊害

 去年に香港に出張する直前、よく通っていた自宅近くの日本食屋が閉店しました。移り変わりの激しい上海ならではなのですが、週に一度、そこの定食を食べるのが楽しみだっただけに出張が終わった後の休日はなんだか物足りなさを感じておりました。そこで先週からまた別の日本食屋を見つけ、毎週金曜にそこで昼食を取るのが習慣となってきているのですが、昨日に訪れた際に唐揚げ定食を頼んだところ、ご飯が盛られた茶碗が少し欠けているのを見つけました。

 欠けていると言っても本当にごく一部分で、食べるに当たっては全く問題のない程度です。この欠けた茶碗を見て私は、「欠けたからと言ってすぐに捨てたりせず、物を大事に使うお店なのだな」と感心したのですが、こう思うと同時にほかの日本人が見たらどう思うのかがやや気になりました。
 恐らく日本人みんながそうだとは信じたくはないですが、一部の日本人は間違いなく、「欠けた茶碗を客に出すなんて、なんて失礼な店なんだ」と憤慨した気持ちを持つかと思います。何をどう思おうがそれこそ人の勝手ですが、こうした価値観が社会全体で持たれるというのは私にとってはあまり好ましくありません。言うなれば完璧であること、欠損のないことが当たり前だと信じられる社会は面倒だということで、今日はその辺について少し批評を書きます。

 まず大前提として、あくまで私の目からですが日本人というのはやはり完璧主義がほかの国より強いという印象を受けます。製品の品質はどれも画一的に高い上、少しでも欠点があろうものなら改善していこうという意識が自然と持たれているように見えます。このような「ものつくり」に対する完璧主義は美徳この上ないのですが、これが社会意識、というか人間自体にまで適用されるというのは面倒この上ありません。
 一気に核心を突いた内容を書くと、今の日本の雇用は障害や病気を持った人間はおろか、「出来て当たり前」という慣習に対応できない人間に対してあまりにも冷たすぎる気がします。具体例を挙げると「深夜まで残業が出来ない」、「仕事より家庭優先」、「業務外の会社行事に顔を出さない」ような人たちは採用面接であまりいい目で見られないでしょう。またそれこそ慢性病を持ってて数ヶ月に一回程度の診察が必要だと言ったら、たとえその人がどれだけ優秀であろうともこの時点で不採用とする企業もあるかもしれません。

 さっきの欠けた茶碗についても同様です。道具としての機能に問題がないとしてもほんの一点がほかの完成品と異なるがゆえ、それ全部を廃棄してしまうのは無駄なことこの上ありません。さらに言えばサービスの質だって、どうでもいいようなミスを完璧じゃないからと言って激しく憤慨するなど以ての外でしょう。
 以上のように完璧を自己に求めるのならともかく、外に求め過ぎなところが日本人にはあるかと思います。無論、こうして外に対しても強く求め続けてきたことで高い品質と信頼を培ってきたとも言えますが、その一方で大きな弊害も生んでしまい、現時点では意外と弊害の方が大きくなっているのではないかとこの頃感じます。

 ただこう感じる一方、改善されつつあるのではないかと思う節があります。一つはアルコールに対する社会認識で以前であればそれこそ飲めない社会人は人じゃないという認識が強かったようですが今はそれほどでもなく、またB反市などのように「使う分に問題がないのなら安いものでいい」と買い求める人も増えております。
 しかしハンデを持つ人間の就労についてはまだ議論する、対応する余地がかなり広いかと思います。言ってしまえば健康で一通り何でもできる人間だけの職場にハンデを持つ人間を入れようものなら、普通の人を雇うのと比べて高いコストを支払うこととなります。しかしる一点を以ってハンデを持つ人間を雇用しなければ、その人ひとり分の労働力を丸々捨てるようなもので、これが社会全体でやってるとすれば無駄遣いこの上ないのではないのかと、食後に出されたまずいコーヒーを飲みながら考えていたわけです。

2012年3月2日金曜日

上越新幹線「とき325号」脱線事故を振り返る

 金土休みなので今日は朝はゆっくり眠ろうと思ったら、なんかやけに早く目が覚めて9時から始動してました。ちなみにこのところ毎週どちらかの休みに取材が入っていたので、明日からまた上海で日本系物産展が開かれるという情報がありましたが敢えて黙殺し、取材拒否しました。先週も同じの、というより日中国交正常化40周年記念の物産展に出て行ったし、内容被るのもあれなんで。
 ちなみにその40周年記念の物産展ですが、やっぱり南京市で開く予定だった催しは例の河村市長の発言が原因で中止になったようです。ちょこっとだけ書くと、仮に日本側が何らかのアクションを足らずに正常通りに開催していたら南京市政府が地元住民にシャレ抜きで襲われてしまうので私は中止も仕方ないと思います。まぁこれも煽る材料になるのでしょうが。

上越新幹線脱線事故(Wikipedia)

 話は今日の本題に移りますが、思うところがあるので2004年に起きた上越新幹線脱線事故を取り上げます。この事故は営業中の新幹線としては初の脱線事故となり、ウィキペディアの記事中にも書かれていますが「安全神話崩壊」、「地震に新幹線は弱い」などと当時のメディアには散々に騒がれましたが、私はこの事故はアポロ13に次ぐ程の偉大なる事故だと考えております。

 まず事故当時の状況について簡単に説明しますが、「とき325号」が上越新幹線の浦佐駅~長岡駅間を走行中だった最中に最大深度7の新潟県中越地震が襲い、6・7号車を除き計8両が脱線しました。ただ脱線した車両は軌道を大きく外れず、また街頭路線がカーブのない直線で対向車もすぐに運転を停止したことから衝突は起こらず、奇跡的にも死傷者は一人も出ることはありませんでした。
 さらっと事故状況について書いてみましたが、改めて読み直すと実に凄まじい快挙としか言いようがありません。というのも155人の乗客を乗せた列車が時速200キロで走行中に最大震度7の地震を直撃しておきながら、車両が大破しなかったことはおろかけが人を一人も出さないなんて、SF小説でもこんな大げさな内容を書いてもいいのかと思うくらいです。さらに言えば軌道を支える高架橋もこの地震で崩壊しなかったというのも見逃せない事実です。

 実はこの事故について、失敗学の権威である畑村洋太郎氏の寄稿文を事故後に発行された雑誌で読んだことがあります。これも読んだのは8年前のことか、よく覚えてるな……。
 畑村氏もこの脱線事故について「まさに安全工学の勝利」としか言いようのない快挙だと褒め称えており、早期地震検知警報システム「ユレダス」によって非常ブレーキがすぐ作動したことや、脱線を防ぐレール構造、ほかの車両がすぐに運行を止めたシステムなど快挙の要因を素人の自分にもわかるほど丁寧に説明しておりました。ただその一方で、「単純に運が良かった点も見逃せない」として、事故車両の特徴について指摘がありました。畑村氏によると事故の起きた車両はやや古い車両で、最新の新幹線車両と比べて重心が低い構造だったらしいです。仮に車重が少ない最新型の車両であればこうもうまくいったかとなると議論の余地があるとして、今後はこの点にも注意して車両設計などを進める必要があると、勝って兜の緒を締めるようなすごくかっこいいセリフと共に文をまとめておりました。

 私が今回何故この事故を取り上げようかと思ったのかですが、自宅で暇な時間にネットサーフィンしている最中にこの事故に関連する記事を読んだとの共に、普段からの安全対応においてJRと東電に大きな乖離を感じたからです。JRは地震に対してこれほどまでに対策を備えてバッチリな対応をしたのに対し、東電は確実に予想された津波に対して、下手すればまだはっきりしていないものの地震を受けた時点で駄目になっていた可能性すらあります。
 あとこれは人づてに聞いた話ですがベント解放の一件についても、管元首相と東電の実態について明確な認識の違いがあったと聞きます。ベント解放は放射能を十分に含んだ蒸気を開放する最後の手段であるため他のパイプとは独立したパイプで用意した上、作業員が被爆しないように遠隔操作で出来るようになっているのが世界の原発の標準だそうです。東工大出身の管元首相はそういう認識でベント解放を指示したそうですが、福島原発のベント用パイプは独立しておらず、かつ手動で開放しなければならない代物でそれで東電が躊躇したのではという話を聞きました。仮に事実であればこの一件でも、如何に東電の事故対応が甘かったのかと思い知らされます。

 またさらに言うと、これは今回記事を書くに当たって調べ直している最中に感じたことですが、仮に東日本大震災時の首相が小泉元首相だったらどうだったのか、少し気になりました。というのも新潟県中越地震の際は確かに規模は東日本大震災ほど大きくなかったものの、私の記憶では目立った混乱はなく政府の対応なども極端に的外れなものはありませんでした。私が東日本大震災の政治対応で何より許せなかったのは自民もそろって不信任下決議をしたり、民主党内で内紛をやったりとあんな時期に権力争いをしてたことで、なんていうか8年前と比較してがくっと元気なくなります。

2012年3月1日木曜日

マスコミ業界人の態度について

 かなり以前に官邸記者会見での質問を巡って、「記者の態度が横柄過ぎる」という議論がありました。この態度というのは質問する際の態度を指してて、いくら報道を追及するためとはいえ回答者に対して「何で答えないんですか」などと脅迫するような言い口がやり玉に挙がったものです。この議論が起きている最中に今回書く内容を書いても良かったのですが、ちょっと思うところがあるというか敢えて先延ばしにして、書くネタに困った今日に書くこととなったわけです。

 話をする前に自分の話をしますが、私は経歴としてはかなり変わった過程を経て現在マスコミ業界に身を置いております。別に隠す必要もないので自ら明かしますが、最初は日本で商社に入って、次に中国でメーカー、そして現在の経済紙記者となったわけですが、取材先とかで他のメディアの人たちと世間話する際に自己紹介すると、決まって私の経歴には驚かれます。まぁ向こうとしたらなんで中国語を使う専門的なメディアに未経験者が……ってな感じに見えるのでしょうが。
 そういうこともあるので日々働いている中でたまに、ある種の間隔のズレというものを感じます。もう結論から言ってしまえば、やはりマスコミ業界の人たちには横柄な輩が多いと私は感じます。一例を挙げると、ある式典で運営側がカメラ撮影の制限について説明したところ、まだその人が話をしている最中だというのにある日系国営メディアのカメラマンは、「それでどうやって撮影しろってんだよ!」と、かなりドスの利いた文句を聞こえよがしに言い始めました。それこそもし自分が運営側だったら、「だったらお帰りいただいて結構です」と言いたくなるくらい嫌味な言い方でした。なおその撮影制限は私の目からすると大したものではなく、この際はキヤノンのカメラでしっかり主賓らの撮影に私は成功しております。

 この例に限らず何かと相手を脅かすような言い方で質問したりとか、こっちは取材して取り上げてやるんだからと明らかな上から目線で迫るような人も多いです。記者魂とか記者根性とかいくらでもきれいな言い方をすることが出来ますが、イギリスのことわざの「いい弁護士は悪い隣人」のように、あまりそばにいてもらいたくないような人も少なくないです。
 私の場合は媒体が媒体であることと、年齢がまだ低いこともあるのでどちらかというと下手に出て同情を引くように話を引き出すことが多いです。ちなみにここだけの話、相手が話す内容を既に知っているかのような素振りをするとその先の話を聞き出しやすいです。

 書こうと思えばかける内容はまだとってありますが、このところ友人らが忙しいのかコメントを書いてくれないのでちょっとニーズが汲み取りづらい状況が続いています。何かこのテーマで書いてほしいものがあれば、どなたでも構わないのでコメント欄に書いていただくと幸いです。

2012年2月29日水曜日

自民党の憲法草案について

 日本はまた大雪だそうですが、上海はこのところ長雨が続いております。あともうそろそろ春ですが、毎年春に苦しい思いをしてるのでどうもこの時期は何もなくても気分が落ち込みやすいです。まぁ去年の今頃と比べれば随分と環境はよくなっているのは間違いありませんが。

天皇は「元首」、国旗国歌は「表象」 緊急事態条項も 自民憲法改正原案(産経新聞)

 そうした自分のどうでもいい気分はほっといて、今日は自民党が作成しているという憲法草案について意見を書きます。
 恐らく来年の選挙対策だと思いますがどうも自民党は独自の憲法改正案を作っているようで、先日にその概要が簡単に報道されました。あくまで概要なだけなので詳細はこれから変わってくるかと思いますが、上記リンク先の記事によると天皇を「元首」と明記し、集団的自衛権や自衛隊の存在を認めるという、鳥取にいる私の友人が見たらそれこそ激怒しそうな内容となっております。なんかこう書くと鳥取がそれっぽい地域に見えるな。

 まずこれら概要に対する意見ですが、私が目についたのはやはり天皇を元首とする点でした。あくまで概要なので文句つけるのも早すぎる気もするのですが、私は現在の象徴天皇制というのはとてもよく機能しており、ことさら変更する必要があるかとなると疑問です。既に一部で突っ込まれていますが、この天皇を元首とする案については国民主権と明確に矛盾することになり、改正することでどのような効果があるのかを発信せずにこのように概要として出すというのはいささか信じられません。
 敢えて勘ぐるならやはり、保守派に支持層に対するPRではないかと思います。仮にそうだとしたら非常に残念で、政権交代によって民主党は与党となりこれまでの野党のように好き勝手言えるわけがないということを徐々に、あくまで徐々にですが理解し始めてきましたが、下野した自民党がどんどん野党らしくなってきたというのは誠に残念です。

 次に気になった点は、憲法改正の条件を現在の三分の二以上の賛成が必要とする条件を二分の一とする案ですが、これについては素直に賛成です。この改正案は要するに改正しづらい硬性憲法から軟性憲法変えるという内容ですが、別に今の日本国憲法が極端に問題だとは思わないものの、硬性憲法というものは得てしてその書かれている内容より解釈議論が複雑になりやすく、議論が途中からわけのわからないものになりやすい点から言ってやはり良くないと考えます。さらに言えば戦前の大日本帝国憲法も天皇から国民へ与えるいわゆる欽定憲法であったことから改正することは事実上不可能であって、旧日本政治システムの最大の欠陥である軍部大臣現役武官制が誰の目に見ても問題であったにもかかわらず存続し続けた過去があります。
 といっても軟性憲法下で生活したことがないのでどういう風に変わるかまではさすがに想像しきれない点は認めますが、私は憲法があまりにも強すぎるということは長期的に見て非常にまずいと思うので、この際だから二分の一以上の賛成に変えてしまった方がいいというのが結論です。憲法9条に関しては、あまり興味ないのでどうなってもいいような感じです。

2012年2月27日月曜日

スズキの中国合弁を巡る混乱

 たまには本職の方面でもと思うので、自動車会社スズキの中国合弁で今起きているごたごたについて書きます。ここだけの話、この件については日本人の中でもトップクラスに事情を把握している自負があります。はっきり言って把握したくなかったけど。
 まず事の発端は先月1月、スズキと重慶市本拠の長安汽車の合弁会社、昌河鈴木の工場でストライキが起こりました。このストライキは数日間続いて現地政府を巻き込む大規模なものだったのですが、何故ストライキが起きたのかというと、この昌河鈴木が解散されると報じられたからでした。
 
 詳しい事情を説明する前に中国の自動車業界の構造について簡単に解説します。中国の主要な自動車メーカーというのは基本的に外資こと海外メーカーと提携して合弁会社を作っており、たとえば今一番でかい上海汽車なんかはドイツのフォルクスワーゲン、アメリカのGMと合弁を作っててグループ内で販売している車種のほとんどはこの2社のモデルです。中には一から設計して独自の車種を作ってるメーカーもおりますが、そういった車種は自主ブランド車と呼ばれてそこそこ売れてるのもありますが、ブランド価値ではやはり合弁メーカーの車の方が人気です。
 そこでこの中国自動車業界の合弁なのですが、実は一つ大きな制限があります。その制限というのも、海外メーカーは中国のメーカー2社とだけしか合弁が作れない、というもので実際に日系メーカーを例にとると、

・トヨタ:広汽豊田(広州汽車との合弁)、一汽豊田(第一汽車との合弁)
・ホンダ:広汽本田(広州汽車との合弁)、東風本田(東風汽車との合弁)

 というように同じ日系メーカーでも中国では販売車種によって合弁先が異なっていることがあり、多分私だけじゃないだろうけど中国関係の記者は販売車種と会社名を間違えるような経験が一度や二度はあると思います。自分も最初はややこしくてすごい戸惑ったけど、慣れてしまうと空で暗記できるのだから何故だか怖い。

 話は戻ってスズキの件ですが、現在スズキの中国合弁会社はご多分に漏れず二つあり、一つはストライキのあった昌河鈴木で、もう一つは長安鈴木というブランドです。この合弁会社二社の何がミソなのかというと、両方とも合弁先というのがどちらも長安汽車だということです。昌河鈴木の元々の合弁先は現地航空機メーカーだったのですが、ここが経営不振から昌河鈴木の株を手放して長安汽車に渡してからスズキと長安汽車という同じ組み合わせの企業間で二つも合弁会社を持たれるという妙な関係となってしまいました。
 仮にこれだけだったらまぁおかしな関係だねと笑って済ませるのですが、ここにきて長安汽車はまた一つ厄介な問題を抱えてきて、この問題をさらにややこしくしてくれました。その問題というのも、マツダとの合弁会社の分社化です。

 長安汽車とマツダ、というより長安汽車とマツダとアメリカのフォード三社の合弁会社名は「長安フォードマツダ」というのですが、なんでここだけ三社合弁なのかというとリーマンショック以前にマツダとフォードが資本提携をしていたからで、そのまま二社セットで長安汽車と合弁を作りました。ただマツダとフォードの提携関係はリーマンショック後に金に困ったフォードがマツダの株を売却したことから解消されているものの、既に出来てる長安フォードマツダは何故かそのままで現在に至っております。
 別にこのままでもいいんじゃないかと私は内心思っているのですが、長安汽車としてはマツダはマツダ、フォードはフォードとして分けたいと考えているようで、これまでにも「長安フォードマツダ」を「長安フォード」と「長安マツダ」に分社化させて経営したいと何度も政府に申請しておりました。ただ中国政府は品質などの向上を目指しているのか自動車会社をこれ以上増やしたくないようで、長安汽車から申請されるたびにこれまで何度も提案を却下してきました。なお同じ理由で、スバルと奇瑞汽車の合弁設立申請を認めないようです。

 そんな長安汽車は先月、「昌河鈴木を解散させる代わりに長安フォードマツダの分社化案を政府に申請した」という報道が現地メディアによってなされました。その報道によると昌河鈴木を解散させた後はそこで作っていたスズキの車種は同じ長安汽車グループの長安鈴木に作らせるという内容で、いわば昌河鈴木は完全なお払い箱にされるというものでした。
 これに怒ったのが昌河鈴木の従業員たちで、報道に従業員の処遇について何も書かれてなかったこともあって経営陣に対して完全ケンカ腰の大きなものとなりました。しかもタイミングが悪いというか、実はこの昌河鈴木はずっと赤字続きだったのが去年になってようやく黒字転換したばかりで、恐らく従業員たちからするとようやく経営が良くなってきた矢先に何をという気持ちがあったんだと思います。

 最終的に昌河鈴木の従業員代表、長安汽車幹部、あと地元政府の幹部の三者間で会談が持たれ、昌河鈴木を解散させないと約束することでストライキは沈静化しましたが、昌河鈴木の中国人総経理は責任を取って解任されることとなりました。ただ長安汽車の総経理はこの騒動後、「政府が昌河鈴木を潰せば分社化を認めてくれるって言ったんだって」とインタビューで話しており、ストライキに至る報道内容が事実だったということを認めています。さらにこの長安汽車の総経理は、「それに日本のスズキの方から、昌河鈴木の株を買い取ってくれ(=合弁解消)とも言われていた」と話しており、スズキ側でも昌河鈴木の解散に同調していたと同じインタビューで明かしています。

 現在のところ、この件ではその後の進展は何もありません。私の勝手な予想を言わせてもらえば昌河鈴木と長安鈴木の二社が同じ長安汽車グループに存在しているのは明らかに不自然で、どちらかが解散とまではいかずとも株式交換などによっていつかは合併されることになると思います。ちなみに日本のスズキ側からすると片方がなくなっても合弁先が変わるわけではないので別に痛くもかゆくもなく、この再編計画にはあまり関わっておらず長安汽車に任せているようです。
 もう片方のマツダに関しても、「長安フォードマツダ」を分社化するかどうかであまり大きな影響は受けないようで、長安汽車グループ内の再編ということで一定の距離を置いているように見えます。

 こんな感じで非常に背景がややこしいストライキ事件だったわけですが、この内容を約600文字で記事にまとめた自分は結構すごいんじゃないかと書き終えた時は妙な満足感がありました。もっとも編集会議でこのニュースやれと言われた時は「えー、俺?Σ(゚Д゚;)」ってリアルに思いましたが。
 ただどうせやるんだったらこのブログ記事みたいに、3000文字くらいできちんとまとめて出したかったというのもあるので、こうして改めて書いてみることにしました。文字数は短いに越したことはないけど、やっぱり必要最低限に解説できることは解説しておきたいものです。

2012年2月26日日曜日

次の衆院選はいつなのか

 今年に入りやけに絶好調が続いていて今も感覚とかがやけに鋭い状態が続いているのですが、今日になってようやく自分が疲れていることになんか気が付きました。前にも一回書きましたが、人間満ち足りた状態だと感覚が鈍る傾向があり、逆にちょっと疲れたり打ち込まれている状態の方がものを書くに当たってはいいような気がします。精神的にはあんまよくないかもしれないけど。
 そんなことはさておき本題に移りますが、そろそろ次期衆院選の日程について考えてもいい頃なので、ちょっとこのテーマでこのところ不足しがちな政治記事を書こうと思います。

 まず現在の民主党政権についてですが、野田首相に代わった後は消費税増税論議が大きくなるなど悪くない面もありますが、全体的に見るならやはりまだ実行力に乏しいだけでなくビジョンも小さいため、少なくとも私にとっては不満が多い政権です。ただこうした見方がどうやら大半のようで、詳しい数字は出しませんが支持率も低迷に喘いでおり、この後回復する手段もないことを考えると恐らく解散までこのまま低空飛行をし続けることとなるでしょう。
 それで解散の時期ですが、一応現在の衆議院の任期は2013年8月まであるので最長で1年以上の猶予はあります。ただ基本的に支持率の低い政権は解散したところで負けることが必定なため、恐らく麻生政権同様に任期ギリギリまで粘って民主党は自ら解散に打って出ることはないでしょう。また自民党もはっきり言って民主党以上にひどい状態が続いており、谷垣総裁もオウムみたいに「解散するしかない」としか言わないので決定的なダメージを与えて解散に追い込むことは不可能とこちらは断言します。

 となるとやっぱり来年夏まで持越し、ってことになるわけですが実はこれだと私は非常にまずいんじゃないかと内心考えています。恐らくこんな大胆な考え方をするのは冗談抜きで私だけの可能性もありますが、今私が一番気になっているのはほかならぬ現天皇陛下の容体です。無理して強行する必要はありませんが衆議院の解散には天皇の儀礼がこれまで必要とされているだけに、皇太子が代行することも考えられますが天皇の容体によってはスケジュールがいろいろと面倒になる可能性があるのではと気にしています。
 さらに一ブロガーとして冷徹な意見を言わせてもらうと、仮に来年の春とか夏頃に万が一のことがあった場合は選挙どころではなくなることもあり、政治的混乱がそのまま社会的混乱にまで一気に直結する可能性すらあります。政治力学で考えるなら、敢えてこのタイミングで解散に出て損害を出来るだけ少なくする戦略というのもあり得ますが。

 じゃあ一体いつの時期に解散、総選挙をすればいいのかですが、大事を取るなら今年の秋から冬にかけてが一番差し障りが少ないのではと予想します。といっても解散したところで現在の日本政治は争点という争点がなく、仮に自民党が復権したところで状況は今以上に悪くなるだけでなんら前進することはないでしょう。一つ希望があるとしたら前にも一回だけ書いたことがあるように、ここまで日本の政治をダメにさせた比例選挙制を廃止することが一番だと思えるだけに、野田首相には真面目に政治生命を賭して選挙制度改革に取り組んでほしいというのが今日の私の意見です。
 久々の政治記事だけど、やはり書き上げるのがやけに早いな(;´Д`)

2012年2月25日土曜日

日本に影響を残した外国人~アーネスト・サトウ

 前からやりたかったのもあり、今日は幕末から明治にかけて活躍した英外交官のアーネスト・サトウを取り上げます。

アーネスト・サトウ(Wikipedia)

 まず名前からして一見「ハーフなのか?」と疑わせるような苗字していますが、確かにハーフではあるものの父親がドイツ人、母親がイギリス人の歴としたイギリス人で、日系の血は入っておりません。ただ日本になじみ深い苗字であったことから、日本で生活する上では大いに役に立ったと本人も言っております。

 早速本題に入りますが、サトウは英外務省に入省すると19歳で通訳生として1862年に来日します。当初は日本語の力量も高くなくていろいろ苦労したそうですが、徐々に上達してくると伊藤博文や高杉晋作といった長州藩士らと交流を深め、幕末の日英外交に深くかかわるようになります。
 そんな彼が日本中に一躍名前を知られるようになったきっかけは、当時在日外国人の間で読まれていたジャパン・タイムズに1866年に寄稿した文章でした。その寄稿分というのは「英国策論」といって、主な内容はウィキペディアから抜粋すると以下の三点に絞られます。

・将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席に過ぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。従って現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
・独立大名たちは外国との貿易に大きな関心を持っている。
・現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。


 読んでもらえばわかりますが、非常に大胆な内容になっております。現代に例えて言うなら「有力な県が政府を倒すべき」と言っているに等しいです。これを読んで狂喜したのはほかでもなく攘夷派の薩摩藩や長州藩でした。著者名も匿名だったのにどっからか漏れたのかサトウだとばれており、本人の意図しないところであちこちで流布され、どうもイギリスと接近していた薩摩藩などでは「イギリスは倒幕を支援していると表明した」と喧伝していたようです。
 ただ実際の歴史も嘘から出た誠とというべきか、その後イギリスはパークス公司らによって薩摩藩と完全な協力関係になります。この過程でサトウも西郷隆盛らと親交を深めたと言われ、戊辰戦争の開戦後も明治天皇と謁見するなど日本史の一舞台に立ち会うこととなりました。

 明治期に移った後もサトウは外交官として日本に留まり、何度か本国に一時帰国することはあっても長い期間を日本で過ごしております。またこの間、日本人女性の武田兼との間に二人の息子までもうけています。そして1883年に一旦離任してほかの国に移りますが1895年には駐日特命全権公使となり再び日本に戻り勤務を続け、最終的な在日歴は25年にも上りました。晩年はイギリスに戻り、そのまま没しております。

 以上がウィキペディアの記述を抜粋してまとめた内容ですが、こっから自分の真価発揮というかかつて映画の「ラストサムライ」公開に合わせて放送された「その時、歴史が動いた」で紹介されていたエピソードを紹介します。それにしても9年前の放送内容をよく覚えているもんだ。
 まずは取るに足らないエピソードですが、サトウが日本で「面倒くさいな」と思ったものとして、席順の習慣があったそうです。曰く、「日本人は複数人で集まる際、だれが上座に座るかで揉めてなかなか始められない」だそうです。この話を聞いてから下宿の私の部屋で集まる際、新入りが来る際はわざと机の上に方位磁針を置いて上座を意識するかどうかを試すようになりましたが、みんなちゃんと意識して話題にするあたり同じ日本人です。

 もう一つのエピソードは先ほども出てきた西郷隆盛に関するものですが、どうもサトウは西郷に対しては軒並みならぬ親交を持っていたようで、西南戦争に出陣する直前の西郷とも会っていたようです。また勃発後も東京で勝海舟と会い、西郷の助命を嘆願したそうです。ただサトウの助命嘆願に対して勝は、ここで死ぬのが西郷にとっても望みだとして、特に運動はしなかったようです。このエピソードを引いて司会の松平定知氏は、「サトウにとってのラストサムライは西郷だったのかもしれない」といって番組をまとめていました。

 幕末の歴史問題でパークスは出てくることはありますが、サトウが出てくることはまずありえません。しかし私は幕末期の志士らの思想に大きな影響を与える文章を発表していることから彼の功績は決して小さくないとみており、もうちょっと大きく取り上げてもらいたいなとかねがね思っております。

2012年2月24日金曜日

搾取する者、される者

 ネット上で大きな騒ぎになっていると同時に、私自身も思うことがあるので今日は下記のワタミ従業員自殺のニュースについて書きます。

ワタミ従業員自殺:ストレス原因と労災認定(毎日新聞)

 詳細はリンク先の記事を読んでもらえばわかりますが、居酒屋チェーンのワタミに入社した女性が入社二ヶ月後に自殺した件についてこの度、裁判所が労災と認定しました。報道によるとこの女性は入社したばかりにもかかわらず月の残業時間が140時間を超えていたとされ、しかも研修らしい研修も受けられず深夜業務を課されていたそうです。
 ネット上では今回の判決を受けワタミに対する批判が集まっているようで自分も一部の掲示板を見ましたが、渡邊会長の過去の発言とよく比較されており、こういってはなんですが不当な批判だとは感じませんでした。いくらか抜粋すると、「自殺が起こる社会というのはなにかが欠けている証拠だ(じゃあお前の会社は何が欠けてるんだよ)」とか言ってたり、部下に向かってビルの窓から突然飛び降りろと命令したりとか。

 そうした議論の中に、「こういう過重労働させられている従業員が多いから、居酒屋チェーンには行きたくないんだ」という意見がありましたが、元々脂っこい料理が嫌いなせいもありますが私も同じ理由で、日本にいた頃は居酒屋チェーンを避ける傾向がありました。特に数年前からはやはり重労働であることからか、深夜時間帯はどこいっても留学生と思しき外国人従業員ばかりが勤務しており、同じ日本人ですら酔っぱらいの相手は大変だというのに、ある意味ではお客さんと言ってもいい留学生にこんな仕事を任せていいのだろうかと強い嫌悪感を感じたこともありました。
 またこれと同時に、居酒屋に限らずこうした外食チェーンの経営者は現場を見ているのか、実際に自分は同じ条件で働いてみたことがあるのかという疑問もよく覚えます。実際に利用して話に聞く限りですが、こうしたチェーン店の従業員の勤務状況はまさに超人的で、体を壊したりしない方が不思議に思うくらいです。それでていて賃金は安いと聞きますし、その上で最近はやたらめったらに妙なクレーマーが増えていることを考えると自分なんかじゃとても務められる自信がありません。

 こうしたことを踏まえて言うと、今に始まるわけじゃありませんが自分より上の世代に「最近の若者は働くことに対する意欲が少ない」とは全く以って言われたくありません。自分たちの世代は上の世代に比べて昇給もなければボーナス額も少ない上、携帯電話とかネットなど変に情報通信機器が発達したおかげで24時間どこでも働けるようになって、労働環境の厳しさは比較にならないほど高まっていると言い切ってもいいです。こんな環境でも文句も言わず働いている自分たち世代と比べると、やる気が低いという事実は認めてもいいですが頑張りが足りないとか言われるのは心外この上ありません。

 さらに踏み込んでいうと、やや古めかしい言い方ですが現代社会では明確に搾取というものが起こっているように感じます。このワタミの例なんか典型ですが、本当に他人を酷使して殺したところで屁とも思わない連中ほど「会社を急成長させた」とか言われてでかい顔しているは非常に気に食わないです。言ってしまえばなんで会社が急成長したのかといえば、その経営者の手腕が優れているというよりは従業員を酷使して、その犠牲の上で成長させたようにしか見えない企業が数多くあります。昔は松下さんがこの典型でしたが、金儲けがうまいと誉めるのはいいけど人格的にはむしろ批判されるべきで、安倍元首相みたいに諮問委員会に招くというのはお門違いもいいところでしょう。

 私は身を削って働くこと、それを推奨することについては批判をしません。そして身を削ってまで働こうとしない自分が、そういうことを是とする人たちに批判されることに対しては甘んじて受けます。だがしかし、他人には死ぬくらい身を削って働くことを強制しておきながら相応の対価を支払わず、自分だけがのうのうとしながら丸儲けをする人間は明確な私の敵です。たとえそれが世の中の常、現実としてそびえているとしても、それを良いと思うかどうかは別です。
 人によってはそうした構図を是認することで競争力が維持され、世の中は回るんだという人もいるかもしれません。しかし自分は、そうやって是認してきた姿こそが今の日本だとみており、ひいてはデフレを起こして競争力が失われたと考えています。またΖガンダムのカミーユ・ビダンじゃないですが、優しい人間のいない世界を作って何になるんだよと言いたいです。自分自身はそれでよくったって、そんな世界を次の世代、今の子供たちの世代に引き継がせていいのかというのが常々主張している私の意見です。

2012年2月23日木曜日

水木しげる伝説

 なんかありそうでないような感じがするので、私が尊敬してやまない水木しげる大先生の伝説的なエピソードをまとめてみようと思います。水木氏は以前に朝ドラで「ゲゲゲの女房」が報じられたことからその奇人ぶりなどが一部伝わったものの、評論家の呉智英氏をして「水木しげるの最高傑作は水木しげる」と言わしめるだけあって、明らかに常人離れしたエピソードが数多いです。このところ友人(特に松戸の)がスカイプに出てくれないこともあるので、自分の有り余る記憶力を存分に使って書いてこうと思います。

  エピソード一覧
・死というものがどんなものかわからず、5歳の時に弟を海に落として死なせてみようとする。途中でばれてものすごく怒られた。
・あまりにもぼーっとしているので、小学校の入学を一年遅らされた。
・いつでもどこでもおならをすることが出来た。
・自宅に動物園を作ろうと兄弟で動物を集めまくるが、飼育が下手でみんな死なせてしまった。
・15歳で大阪の印刷所に働きに出るが、遅刻欠勤を繰り返して2ヶ月クビになる。その後も行く先々を短期でクビになる。
・東京芸大に進学希望を持ち、受験資格を得るためにまず大阪府立園芸学校に入ろうと受験する。面接試験で志望理由を「東京芸大の受験資格を得るため」と正直に告白し、不合格となる。なおこの時の受験者数は51人で、合格者は50人だった。
・軍隊から徴兵を受け、入隊する前に死を意識してゲーテなど哲学書を読み漁る。
・入隊後、そのマイペース振りから将校と間違えられ風呂で年長兵から背中を流される。後でばれて思い切りひっぱたかれる。
・軍隊でラッパ係となるが全く拭けなかったため配置転換を受ける。「北か南か」と聞かれて「北は寒いから南」と答えて、激戦地ラバウルへ送られる。
・ラバウルまでの輸送中、敵船から魚雷攻撃を受ける。水中を泳ぐ魚雷を見て笑ってたらひっぱたかれる。
・ラバウルで所属していた小隊が全滅した中、一人生き残る。原隊へ逃亡中に現地住民にも襲われるが九死に一生を得る。なおこの時の夜間移動中、ある場所でぬりかべが立っているように押しても引いても全く先に進めない空間に出くわす体験をする。夜が明けるとその先は崖下だった。
・ラバウルの司令官、今村均に「やけに太った兵隊だな」と言われる。なお終戦直後、今村均が全兵士に対して「一人残らず日本へ帰国させてみせる」という訓示を受け、なんとなく生きて帰れる実感がわいたと述べている。
・ラバウルの現地住民に聖書を読み聞かせるなど交流を深め、現地除隊してそのまま住もうかと考えた。
・帰国後、魚屋やタクシーのリース業など様々な商売に手を出し、その後紙芝居作家から貸本漫画家へとなる。
・貸本漫画家時代は極貧で、原稿料をもらうための電車代を質屋に借りる始末だった。
・40歳前に見合いから5日で結婚。見合いについては「嫁の隣にいる父親の顔が異常に長かったため、嫁の顔の長さが当時はわからなかった」と述べている。
・40歳を超えて初めて「テレビくん」がヒット作となる。その後「鬼太郎」の連載も始まって激務となり、このころのことを元アシスタントの池上遼一は、「前夜に誰かがもんじゃ焼きが食べたいなと言ったから、次の妖怪は『なんじゃもんじゃ』だと決めるくらい忙しかった」と述懐している。
・80年代にスランプとなり、「妖怪なんて非科学的なもん、いるわけないだろ」と漏らすほどピンチになる。ただ娘が修学旅行先で目々連を見たと言ったことから奇跡の復活を遂げる。
・86歳時、昼食にメガマックとポテトを完食。このほかピザなども丸々平らげている。
・宝塚の遊園地で鬼太郎のイベントがあったことを手塚治虫に八つ当たり気味に文句言われ、手塚の嫉妬深さを皮肉る「一番病」という作品を書く。手塚は手塚で水木に対抗して「どろろ」を書いた。
・手塚、石ノ森が早世したことについて「徹夜自慢は早死にする」と述べ、自分はマイペースでよく寝ていることをアピール。
・補聴器を一時期、聞こえる方の耳につけていた

2012年2月22日水曜日

名古屋市長の南京大虐殺発言に対する反応

河村市長、南京発言撤回せず 重ねて「大虐殺無かった」(朝日新聞)

 期待もされていることでしょうし、物議を読んでいる名古屋の河村市長の発言に対する中国現地の反応を今日はお届けしようかと思います。それにしても仕事中にもたくさん読んでいるのに、家帰ってまで中国の新聞読んでると本当にしんどくなる……。
 まず事の発端となった河村市長の発言ですが、なんでも名古屋市と友好都市関係を結んでいる南京市の代表団が訪問した際に、彼らの面前で「南京大虐殺はなかった」と主張したそうです。しかもその根拠というのも「俺の親父は従軍して南京に行ったが、現地の中国人に歓迎された」というもので、歓迎されるくらいなんだから虐殺なんてなかったという展開だそうです。事の真偽は別として、こんな根拠でケンカ売るような発言するのかよと一見して思います。

 それで本題の今日の中国の反応ですが、やはりどの新聞も写真入りで非常にでっかく取り上げて、上海のローカル紙なんかどこで見つけてきたのか河村市長がどっかでカレーうどんを食っている最中の写真を載せてきました。報道内容は基本的に日本で報じられているものと同じで、くれぐれも言っておきますが極端な歪曲の類は一切ありません。むしろ今回の騒動で名古屋市側が、「あの発言は市長個人の考えによるもので、名古屋市を代表するものではない」という発表をどこも引用しており、落ち着いた報道の仕方をしていると思えます。
 ただこちらでは河村市長を批判するとともに、面前でこの発言を受けた南京市の代表団に対しても批判が集まっております。というのもある中国系通信社が今回の件で名古屋市に取材を行い、名古屋市の職員の話として、「今回の発言を受けた南京市の代表団はその場では抗議せず、すぐに話題を変えた」と報じたからです。ちなみにこの通信社はその名古屋市職員のことを「榎本先生(中国語で「先生」は日本語の「~さん」)」と書いており、「非常に誠実に対応してくれた」としています。

 私個人の意見を書かせてもらうと、中国側の反応としては今回の発言は「日本人の態度」というよりは「河村市長個人の態度」として受けているように思います。そういう意味ではまだ落ち着いた反応をしており極端な政治問題にまでは発展しないかとは思うのですが、今年は日中国交回復40周年ということでいろいろ式典とかがこっちでも予定されているのですが、これらがもしかしたら一部プログラム変更とかになったりする可能性があるかもしれません。
 あと私の南京大虐殺に対する考え方ですが、率直に言うとこれは歴史や政治問題にして「得」をする人間が日中双方にいるため、まだしばらくは解決しないでしょう。具体的に誰がどう得をするのかについては突き放させてもらいますが、これを飯のタネにしている日本人もたくさんいることだけは断言してもいいです。このような観点から、何がどう真実であるかを調べる以前に今はただ熱を冷ますことだけがこの問題の対処として一番正しいと私は考えています。

 最後にもう一件、日本人絡みの下記ニュースが本日中国紙でも報じられていました。

中国:武漢で日本人の自転車盗難 ネットで5万人が捜索協力、奇跡…手元に戻った(毎日新聞)

 このニュースの内容というのも、自転車で世界一周旅行中の河原啓一郎さんが湖北省武漢市に滞在中、なんと自転車を盗まれてしまったそうです。河原さんには誠に申し訳ないのですが、あまりにも中国らしい展開だったので昨日にこのニュースを見た時はえらい笑ってしまったのですが、なんでもこのニュースは武漢市現地でも大きく取り上げられていたようで、中国版ツイッターこと微薄でみんなして連絡を取り合い、なんと奇跡的に河原さんの自転車が見つかり本人の所へ戻ってきたようです。
 自分はこのニュースを今日付けのチャイナデイリーで読んだのですが、こちらも河村市長に負けず非常に大きな扱いで、でかい写真付きで堂々と載せられておりました。ただチャイナデイリーの記事だと河原さんの年齢は28歳と書いてあり、毎日の27歳と一つ差がありましたが。あと河原さんの自転車の行方ですが、なんでも中古自転車屋で1000元(約12万円)で売られてたそうです。今自分が買おうと思っているスポーツ用自転車が新品で1000元くらいだから、河原さんの自転車は相当いい自転車なんだろうな。

追い求めるべき幸福とは 後編

 昨日に引き続き、幸福論の話です。
 まず最初に今回の件で何が一番言いたいのかというと、幸福というものは個々人によって完全にバラバラで、定型というものはまるでないということです。前の記事でも書きましたが私にとってすると一般的な幸福の条件は少なくとも「快」の条件になるというわけではなく、場合によっては「不快」な条件に適合することすらあります。私みたいなのは明らかに例外ではあるものの、断言してもいいですが幸福の条件は個々人によって確実に個人差があり、画一的な条件が決まっているわけではありません。

 これが何を意味するかというと、幸福の定型とされるものを追いかけていざ手にしたところで、本当に満足が得られるのかということです。もちろん全く満足感がないということはないでしょうが、後々に「やっぱりああしとけばよかった」という後悔が出てくる可能性があるんじゃないかと私は考えています。私がこう思う理由として大きいのはやはり「失われた十年」に青春期を過ごして、この間に「こうすれば幸せになる」と盛んに喧伝されたものがわずか数年後に片っ端から消え去っていったのを見ているせいだと思います。今じゃ完全に死語ですが、一時期は「レーゾンデートル」とかいう言葉が流行って、「自分探し」とか「自己実現」の重要性が盛んに主張されましたが、これに乗っかった人たちは今どうしているのか気になります。

 じゃあどんな幸福を追いかければいいのかですが、突き放した言い方をすると自分で考える以外にないと思います。何も十年先の幸せとか長期的な視野に立たなくてもいいから、少なくとも「世間一般で言われているから……」というような理由で安易に選ばず、他人が主張するものでもなんとなく納得できるものを追いかけてれば後悔はないと思います。たとえ周りからそんなの信じても得しないよと言われても、本人が納得することが一番大事です。

 そんなこんだで話は飛びますが、数ある幸福論の中でも私がひときわありがたがって聞いているのはほかでもなく、漫画家である水木しげる氏の幸福論です。なんかちょっと検索かけたらすぐ出てきましたけど、主に主張している七ヶ条というのは下記の通りだそうです。

第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。


 いかにも水木氏らしい主張ですが、書かれている内容と実際の半生を見比べると自然と頭が垂れてきます。一例を出すと第六条の「怠け者になりなさい」ですが、これに限らず水木氏は普段からたくさん寝て食べることは大事だとよく主張していますが、その一方で自身は若い頃に戦争で軍隊生活を経験し、復員後もそれこそ寝ずに働いてスズメの涙ほどの収入で暮らしているだけに、ほかの人とこの言葉の重みが段違いに違います。

 これはあくまで私の解釈ですが、水木氏が主張する幸福論とは「自らの中の内なる欲求に従え」というのが大まかな意なのではないかと思っています。要するに、寝たいとか食べたいという人間の根源的な欲求に加え、個々人が持つ嗜好の対象に素直な気持ちで向き合えという風なものだと考えています。その上でさっきの第三条こと「他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし」で、それこそ資産の量など他人との比較でしか証明できないものは少し違うのでは、と言っているのだと思います。あくまで私の解釈ですが。

 こういった水木氏の考え方に触れる前から私はかねがね強情で知られていましたが、自分自身の考え方、思い方に素直になることは非常に重要だと考えていました。私も中学生くらいの頃なんかはやっぱり世間体とかを気にして、いくらか心に思っていることと全然違うことを言ったり振る舞ったりしましたが、そうした行動の後は何とも言えない嫌な気持ちでいっぱいになっていました。逆に成人した今、周囲からどんだけ批判されようが自分自身が間違っていないと思うことを言ったりやったり、一例を挙げると「今日は眠いから飲み会には行きません」と言った後はその後の立場が苦しくなるとしても(実際なった)あまり後悔がありませんでした。

 非常に飛び飛びな内容となりましたが、結論としては周囲の雑音というものはしばしば幸福を阻害する可能性があるということです。私自身は何を以ってすれば自分が幸福になるのかを未だ見つけていませんし、恐らく今後も一生追い求めることはないでしょうが、朱に交われば赤くなる様なことだけは避けて生きてこうと思います。

2012年2月20日月曜日

追い求めるべき幸福とは 前編

 私がよく友人から一番注意される内容ときたらかねてから書いてある通りに、「人を見下す癖をやめろ」というもので間違いないのですが、この次によく注意されるものとして、「もっと自分の幸福を考えろ」というものがあります。恐らくこんな変な注意のされ方するのは私以外だと数少ないでしょうが、お前ら示し合わせているんじゃないかと思うくらいにこれまで実に多くの人間からこういうことを言われてきております。
 言わんとする内容はまんま言葉の通りで、もっと自分の身を大切にという内容と共に、周囲に対する気遣いなんかせずにもう少しわがままに生きた方がいいというものです。自分でも全く意識していないわけではありませんが、やはりどうも周りからも自己破滅的な生き方をしているように見えるようで、はっきり言ってくれる友人なんかは、「悪い意味で分け隔てがなく、自分をすり潰そうとしている」と言ってくれます(ノД`)

 ただこうは言われるものの、一体何をすれば自分は幸福だと感じるのか皆目見当が付きません。実際に真面目な話、今までの自分の人生で決断してきた選択には「苦」より「楽」を求めるものは一部入っておりますが、単純に幸福を目指して選んだ選択は断言してもいいですが一つもありませんし、相対的に見れば自分からいばらの道へ頭から突っ込んでいくものの方が圧倒的に多いです。なんでそんな選択をいつまでも選び続けているのかというと、育った環境にもよるでしょうが私個人の資質としか言いようがないでしょう。

 逆に私の目からすると、一体なんでみんなしてそんな幸福になろうとするのだろうと思うことがありますし、そもそも何を以って幸福を感じるのかが全く分かりません。そりゃ確かにお金がたくさんあればないよりは楽でしょうが、それで満足感を得られるかというと私はきっと得られることはできないでしょう。今現在でも私は特に買いたい物もありませんし、もう少し給料は増えてほしいとは思うもののまとまった金があってもむしろ使い道に困ると思います。
 じゃあ家族や恋人がいる状態がいいのかとなると、これもまた何か違和感を感じます。こちらもいるに越したことはありませんが、いなかったらいなかったらで楽なんじゃないかと思うこともあり、結局は環境の違いでしかない気がします。あと最後に仕事もせずに毎日好き勝手にダラダラ生きれるとしたらというのも幸福の一例として挙がってきますが、これなんか自分が一番嫌なパターンで、仕事が忙しすぎるのはもちろん嫌ですがやっぱり何かしら動き回ってないと落ち着きません。

 上記のような考え方をする人間ははっきり言って自分以外だと見たことがありませんし、自分自身でレアケースだと自認しております。ただこうして条件をすり潰していくにつれ、一体何を以って幸福なんだと言えるのか実に深く感じます。新興宗教やってる友人などは、「生きていること、ただそれ自体がありがたい」と何度も自分に聞かせてきますが、そりゃ安全安心保障付きの日本だから言えることであってアフガンとかでも同じこと言えるのかよと思うので全く意に介しません。また生きててよかったと思うことより、私は絶対的に辛いことの方が多いと考えているので、ある意味自殺者が多い今の日本の現状というものは理に適っているとさえ思います。

 では安定というのは幸福の条件になるのでしょうか。確かに仕事や生活が安定しているというのははっきり言ってありがたいと、去年に職場を3つ、国2つを跨いだ私が保証してもいいですが、それで幸福なのかとなるとやっぱ腑に落ちません。同年代の中でも非常に山っ気が強い性格というのもあるでしょうが、同じ日々が続くといずれ飽きが来るのではという気がします。また一程度のストレスは体にいいと言われておりますが、やはりスリルというものが生活中に感じなければどんどん自分が弱っていくようで自分としては好ましくありません。かといって安定がなさすぎるのもハードですが。

 このほか儒教の価値観で「中庸」というものがあって、どれもほどほどの状態を保つことが一番という考え方がありますが、これなんか私はしっくりくるのでほどほどの安定とスリル、給料などなどを一応は掲げていますが、やっぱり破滅的というかある所まで来たら突然それを自ら崩そうとするところがあり、今の環境なんかまさにそんな状態です。
 なんか妙な独白が続きますが、どうも自分には一貫して幸せになろうという意思がなく、折々で不幸を目指し走り出すところがある気がしますし、普段からも必要以上の責任や負担を抱え込もうとしてます。破綻していると言えばそれまでですが、なんかそれとは違うんじゃないかなという気もしないでもありません。

 ただ私の場合は間違いなく極端な例でしょうが、ほかの人ももっと幸福とはなんなのかを意識して考えた方がいいんじゃないかと思います。単純な幸福を求めようとしていざ実際に手に入れてみると実は違ったというケースほど不幸なものはなく、立ち止まらなくてもいいから常日頃からあーだこーだ考えることも必要なんじゃないでしょうか。
 そういった観点から、次回は私が面白いと感じる幸福論、というか水木しげる氏の話を読んでて感じたことを紹介します。

詐欺事件の実名報道について

富士重、クリーンロボット事業撤退も…不正発覚で(レスポンス)

 昨日に引き続きまた実名報道についてです。上記のニュースは富士重が今日発表した、同社のクリーンロボット事業に関わっていた元従業員が国の機関に過大な請求をしていたことから告訴されたというニュースですが、何気に朝一番にプレスリリースをチェックしてたらいきなりこれが出てきて朝っぱらからこれかよとか思いました。
 ただ今回の富士重の事件については、多分似た系列で出てきたんでしょうが先日に発覚した三菱電機の同じような過大請求と違い、ちゃんと社内調査をした上で会社として該当する元従業員を告訴しているので、組織ぐるみだった前者よりかはまだ良心的な感じがします。それにしても、確か先週末には「スバル、好調の要因は」という記事が出た翌週にこんなニュースが出るのも残念ですが。

 話はそろそろ本題に移りますが、今回の事件で不正請求を行い、告訴された従業員の名前は出てきませんでした。まぁ会社として処分をしているのだから私としてもわざわざ出す必要はないと思うのですが、基本的に詐欺事件で実名報道がされるのは少ないような気がします。それこそ闇金とかの話だったらもちろん出てきますが、こうした企業絡みとかだとどれだけ悪質でも出ることはなく、昨日に取り上げた避けようがない交通事故の報道と比べると明らかな温度差を感じます。さらに言うと、違法な行為やサービスを行っていたという風俗店摘発のニュースはほぼ確実に店長とか責任者の名前が出るのもなんだかなという気がします。

 あと最後に一つだけ付け加えると、現代だと名前をネット検索にかけると一発で履歴とかがばれることが多く、実名報道によって起こる社会的制裁の度合いは確実に高まっていると言い切れます。自分なんか仕事で社会記事を書くことはほぼなく(むしろブログのが多い)あまり気にする必要ありませんが、報道機関はもっとそういうことに神経使うべきだと考えています。
 ちなみに私の本名は比較的ありきたりな名前のせいか、検索を書けても私本人に直接たどりつくことはありません。むしろハンドルネームの方がそこそこ長期間ブログしているのもあって、引っかかりやすいです。

2012年2月19日日曜日

交通事故の実名報道について

路面凍結で自転車転倒…高校生はねられ死亡 千葉・柏(産経新聞)

 前から疑問に感じていたので、交通事故報道について一筆書いておきます。上記リンク先の記事は千葉県で起きた死亡交通事故のニュースですが、この事故の展開をみるにつけ実名で報じる、というかそもそもニュースとして報じるべき価値があるのかと強い疑問を覚えます。
 この事故は凍結した路面を自転車で走行していた高校生が車道側に倒れ、そこをたまたま通った自動車がはねてしまい死亡させてしまったというのがあらましです。この内容を見る限りですと、目の前を走っている高校生が突然点灯するなんて予測できるはずもなく、乗用車の運転手に対しては実に不幸というか、その行為を責めることはできないのではないかと強く感じます。

 にもかかわらず、今回産経新聞は運転手の名前を実名にて報じております。以前、というかかなり前に書いたことがありますが、日本の刑法というものは前科という社会的制裁を受けることを前提として量刑を定めております。それだけに社会的制裁の大半を担う報道というものは当人にとって非常に大きなものなのですが、この事件についてはそもそも社会的制裁が必要なのかどうかです。そもそも事件自体報じるべき価値があるかと言ったらもっと他のに紙面を割けよと言いたい内容である上に、報じるにしても実名を入れる必要性があるかといえば皆無でしょう。

 この記事に限らず、このところこういった事故記事が目立ちます。自分は報道にはモラルとかそういったものはそもそも存在しないと思うし、そういうものを主張すること自体が空々しく感じます。しかし必要のないことをわざわざやるということは報道以前に人間としても如何なものなので、こういったことをやる記者が一人でもいなくなればと陰ながら願っております。

2012年2月17日金曜日

週刊文春の橋下大阪市長批判記事について

 この前に日本から本を取り寄せる機会がありましたが、これまでずっと買ってきた文芸春秋は今回入れませんでした。何故文芸春秋を取り寄せなかったのかというと、同じ文芸春秋社が発行している週刊誌、週刊文春の橋下大阪市長に対する報道に対して強い反感を覚えたためでした。市長に対する報道に対して強い反感を覚えたためでした。
 詳しい内容はここでは語りませんが去る大阪市長選挙前、週刊文集は橋下市長の政策論とは全く関わりのない彼の出生について批判的な記事を載せました。仮に国籍条項を偽るなど市長選出馬に当たって不正を行っているのならばともかく、完全にお門違いもいいようなどうでもいい内容をことさらに取り上げてさも「市長として不適格」とするようなあの記事については到底看過することが出来ませんでした。

 自分はこれまで実に十年近くも文芸春秋を購読してきましたが、雑誌媒体が違うとはいえあんな内容の記事をよくもまぁ載せるというか、出版社としても強い疑問に感じる事件でした。まぁそれを言ったら、本来ならばほかのメディアも激しく糾弾すべき内容だったにもかかわらずスルーしていたということも不満なのですが、ちょっともう読む気は起きてきません。どのみちあんな記事を出せる神経してるなら、ほかの記事もあまり当てにならないでしょうし。
 さらに言うと、このところの文芸春秋は明らかにつまらなくなっておりました。読者層が自分のように若い世代ではなく年長世代が多いこともあってか、何かとガンの放射線治療とか病気関連の記事が異常に増えており、特集記事も「田中角栄のラブレター」とかそんな大きく取り上げる必要あるかいなと思う記事ばかりで、真面目に半分しか読まなかった月も珍しくありません。

 別に雑誌に限るわけじゃないですけど、部数減少を「若者が雑誌を読まなくなったせいだ」と他人のせいにする主張をよく見ますが、そもそも若者を購読者、消費者として見据えた記事をあんたらは書いているのかと深く問いたいです。まぁこれを言ったら90年代のスポーツカーばかり紹介する「ベストカー」はどうなるんだということになりますが、こっちについてはスポーツカーを出さなくなった自動車メーカーにも一部責任あるけど……。

オリンパス旧経営陣らの逮捕について

オリンパス菊川前社長ら逮捕 証券OB含む7人 虚偽記載の疑い(日経新聞)

 このブログでも何度も取り上げているオリンパス事件ですが、今日になりようやく逮捕者がでました。この件に対する私の意見は、一体今まで何をやってきたのだと、東京地検に対して呆れるような感情を持つといったところです。

 既に何度も書いているので端折って書きますが、私はこの事件はかねがね、不正経理が明らかになった段階で早くに関係者一同を逮捕し、とっとと真相解明に取り組むべきだと考えていました。仮に疑いの段階であればこのところ冤罪事件も多発していることもあって逮捕するべきではないですが、今回のこの事件は明らかに不自然な資金処理がなされており、しかも退任したウッドフォード元社長を筆頭として隠し損失がはっきりとあると言っていたことを考えると、手心を加える必要は全くないと言っていいでしょう。
 その上でさらにいうと、オリンパスの上場維持を決めた東証に対しても疑問がたくさんあります。はっきりいってこれほど巨額の損失隠しをしておきながら上場が維持されるようでは、一体何をすれば上場廃止になるのかわかりません。公開して株式の取引がなされる取引上では企業情報の完全公開が原則であってちょっとでも不正があるようであればほかの国(中国は除いてもいいけど)なら即刻廃止され、相応の処罰がなされているはずです。恐らく今回の事件で海外メディアなんかは、「やはり日本は身内に甘い」と書いているかと思います。

 あと同じ企業犯罪だと、この前にハーネスメーカーの矢崎総業の人間がカルテルの疑いでいきなりアメリカで逮捕されていました。そりゃ人を殺したんじゃないんだしとも言うことはできますが、それにしたって私は日本の司法は経済犯罪に甘いというか、やる気あるのかと言いたくなります。あとこれも何度も自分で言っているから段々嫌になってきてもいるのですけど、一体何故ライブドア事件の際はあれほど厳罰を課したのにほかの事件にはこんなにも甘いんだと、ダブルスタンダードぶりにはほとほと嫌になってきます。堀江元社長の方を持つ気はなく、むしろこの人は個人的にそりの合う人じゃないですが、懲役を受けていることに関しては強く同情いたします。

2012年2月14日火曜日

中国のバレンタインデーについて

 なんかこの前親父に話をしたら受けたので、時期も時期なので中国のバレンタインデーについて話をします。よくバレンタインデーにチョコを贈るのは日本くらいだという人をたまに見かけますが、どうもこのチョコを贈るという習慣を作ったマーケティングはお菓子業界が仕組んだもので、韓国財界とも縁のあるロッテの影響なのか韓国でも非常にお盛んだそうです。
 これに対し中国はどうかというと、もちろん女性がチョコを贈る習慣も全くないわけでもありませんが、どちらかというと男性側から女性に花束を贈るという手法の方が主流です。今日も取材帰りの電車の中で、でかい花束持った女性を何人も見たし。

 ただマーケティングについてはこっちでもかなり力が入っており、ホテルなどでは特別ディナーコースを用意したりするなどして対応しています。その中でも一風変わったものには、「店内で60秒間キスし続けたら一食タダ」という、一体誰が得するんだといろいろわけのわからないものまで出てきております。
 あとこのところの報道を見ていて気になったものの中には、「バレンタインのプレゼントの代わりに、最近の女の子は旅行の地図を送り、彼氏に旅行に連れてくよう要求する」というものもあり、本当に中国の女性はいろんな意味でたくましいなと思った次第です。

2012年2月13日月曜日

日本の社会保障の行方

 前回更新から大分日が経ってしまいましたが、どうにかまた再開できました。ちょうど先週がいろいろと山場だったためにこれからはまた普段のペースを再開できるんじゃないかと思いますが、早速明日にはまた夜中に取材入っているから難しいかも。そういうわけで今日はちょっと力の入ったネタを一本投下しておこうかと思い、日本の社会保障議論について基本論点を整理することにします。

 まず前提条件についてはっきりと指摘しますが、年金をはじめとした現行の社会保障制度の国家は日本が高度経済成長をしていた時期に作成され、当時並みの経済成長を保つことで維持できるように制度設計されております。当時の日本の成長は日本自身の努力というよりは冷戦下という国際環境によるところの方が大きいと私は見ており、ソ連が崩壊した現在においてはどう踏ん張ったって再現できる代物ではないと断言してもいいです。それはつまり、現行の社会保障制度は初めから何をどうしたって維持できるものではなく、もっと早くに制度改革をするべきものだったというわけです。

 この場合の制度改革というのは保障内容の希薄化を指しており、具体的に言うと年金の支払額などや対象者を減少したりするということですが、日本は冷戦が終わってから20年以上も経つにもかかわらず未だに矮小な議論を続け、確かに一部で年金支給年齢の引き上げや一部削減など見直しこそされているものの、抜本的な改革にはとうとう至れておりません。
 しかもこの社会保障の混乱はそれ自体の混乱にとどまらず、日本の経済全体にも大きな悪影響を及ぼしていることも見逃せません。ごくごく簡単な経過を書くと、

・社会保障が維持できる見通しがない→将来のリスクに備えて貯蓄傾向が高まる→消費額が低迷→景気が停滞

 これはほんの一例ですが、細部まで詰めると実に多岐にわたって悪影響を及ぼしており、今も続くデフレの主要因となっている点も見逃せません。じゃあ社会保障をどうすればいいのかですが、一番大事なのは「維持できるシステム」に変えることです。維持できないシステムだと国民に思われているということが一番問題で、内容が何であれ20年先が見えるシステムにすることが肝心要です。
 となると今度はどんな形にすれば維持できるのかという話に移りますが、極論を言えば「どの世代に死んでもらうか」という議論となります。現在私が想定している改革方針としては主に以下の二点に絞られます。

A案:給付額などを徹底的に削減し、年長世代に泣いてもらう
B案:給付額なども相当程度下げるが、一定の給付額を維持するため増税をして現役世代に泣いてもらう

 実に当たり前の議論ですが、今後日本が取るべき道は上の二つ以外にないとこちらも断言してもいいです。中間なんてものはありません。
 では政党は現在どっちの方針で制度改革をしようとしているのかですが、実に情けないというか私の見る限りだと民主党も自民党も、存在するはずのない中間策、誰にも恨まれずにハッピーになれる案を未だに捜しているように見えます。野田首相は増税をして増やした税収分を社会保障へ振り分けると言っていましたが、その一方で子ども手当の支給額を増やすとも発言しており、いわば「増税する代わりに給付額を増やす」という現実を無視、というか実現不可能で維持することのできない案を主張していると私は感じます。自民党は増税はしないがその代わり景気を回復させ、増えた税収分で現行制度を維持すると言っていますが、私は今の社会保障制度に道筋をつけない限りは景気回復も無理なんじゃないかと思っており、順番を履き違えているとこちらも話にならない案だと見ています。

 ではA案とB案のどちらが望ましいのかと言ったらこれはもう、どの世代に属しているかでしか語れないでしょう。私は生憎というか現役世代に属していることもあり、多少の負担増は仕方ないにしても大幅な削減なしには一人唐傘連判状の提出も辞さない覚悟です。さらにこれはひがみだと言われても言い返しませんが、現在の年長世代は若い頃に高度経済成長を謳歌し、簡単に就職できて、毎年昇給をして、自家用車も買えて、住宅ローンも組めれたことを考えると、これらの機会すら得られない自分たちの世代をさらに踏み台にするつもりかという気持ちもあります。年金額が減って将来設計が崩れると主張する方もいるかもしれませんが、将来どころか現在の生活すらままならない自分たちに比べて甘いことを抜かすなと、一人の若者として言わせてもらいます。

2012年2月9日木曜日

続、大学の秋入学検討について

 今日の中国の朝刊には、「日本で聖闘士星矢の新シリーズテレビ放映が4月から始まる」ってのがでっかく載ってました。なんで日本での放映に対してここまで反応するのかいろいろ突っ込みたくなりますが、同僚の中国人の奥さんは、「フェニックス一輝こそ、男の中の男だ」と言ってはばからないくらいにこっちでも浸透しているらしいです。

 話は本題に入りますが、東大が入学時期を現在の春から秋へ移行する案を検討していることについて以前にも取り上げたことがありますが、今日見たニュースにこの話題について非常によくまとまった記事を見かけたので紹介します。

【日本版コラム】『大学秋入学』の落とし穴 議論の迷走と状況悪化が危惧される理由(ウォール・ストリート・ジャーナル)

 はっきり言って私のブログなんかより上の記事見てもらった方がずっといいと断言できるのですが、いくつか重要なヶ所を引っ張ると、この記事を書いた尾崎氏は「入学時期を秋に変えるだけでは留学生も増えず、学生も起業も混乱するだけと」指摘しています。

 一つずつ詳しく解説していくと、東大をはじめとした国立大学などは入学時期を国際的に標準な秋(春入学は日本と韓国しか私も知らない)にすることで、日本にやってくる留学生も増える効果が見込めるとしています。これに対して尾崎氏は、そもそも世界の大学ランクは在籍する教授の論文の発表数などで決まるために英語を使用する欧米の大学が初めから有利で、入学時期が変わったくらいでは留学生を引っ張る上ではあまり効果がないと主張しており、私もこれを支持します。その上で今実際に日本位やってくる留学生はどんな学生かというと、やはりアニメや漫画といったサブカルチャーに関心の強い短期留学生らが主で、こうした留学生をもっと受け入れやすくするために春でも秋でもいつでも入学して授業を受けられるカリキュラムを整備する方が価値が高いと言っています。

 言われることいちいち的を得ていて反論のしようがないのですが、この上で尾崎氏は日本の学生についても言及しています。kの秋入学議論でよく取り上げられている効果に、「3月の高校卒業から秋の大学入学まで半年間の空白の期間が生まれ、この期間を学生はボランティアや短期留学などに使える」という意見があります。これについても尾崎氏は、日本の大学生は夏休みや冬休みなどまとまった余暇があり、わざわざ半年の空白期間、それも受験前の期間に用意したところで大きな変化が望めないとした上、「学生が在学中に多様な経験をするには時間以外に精神的なゆとりも必要である」と述べてます。これについても、私は同感です。

 こうした尾崎氏の意見について基本的に賛成ではあるのですが、それでも私はこの秋入学以降に期待を持っています。一体何故期待するのかというとこれも尾崎氏が「メリット」として挙げている、「企業の新卒一括採用が多様化するきっかけとなる」という効果が強く望めるからです。
 大分自分でも色々変わったと思いますが、現状の日本を見るにつけもっと雇用は流動的にしなくてはならないと考えており、特に若年世代については新卒一括採用こそが諸悪の根源にも思えるのでどうにかこれを打破できたらと常に考えています。理想としてはそれこそ、一年間を通した授業を作りづらくなりますが、春でも秋でもいつでも入学できて授業登録も自由にでき。単位がたまればいつでも卒業できるようなシステムになれればという気持ちがします。ちなみに自分は三回生が終わった段階で卒業必要単位数をオーバーしてましたが、全く意に介さず授業を取りまくって卒業時は160単位くらい持ってました。単位認定されない授業もたくさん取ってたから、実質的には180くらいあったろうな。

2012年2月8日水曜日

このところの中国の日本報道

 さきほど新しく知り合いになった中国人と食事してきましたが、おもむろにこんなことを訪ねてみると、

「あのさ、熱血高校ってわかる?」
「あのファミコンのゲームのこと?」

 なんでこんなに中国人も「熱血高校くにおくん」を遊んでるのか不思議でしょうがない。ちなみにその人の一番のお気に入りは「魂斗羅」で、コナミコマンドをしながらみんなでやってたらしい。

 話は本題に移りますが、実は前々から中国の新聞に載る日本の情報を集めておりました。別に集めるっていうほど量があるわけじゃないですが、また適当に翻訳して乗っけようかなと思いつつも、今週はやけに忙しい上に、毎日記事翻訳しているのに自宅でもまた翻訳するという作業がなんか煩わしいので簡単にまとめることにします。

 まず一番驚いたというか名前を見てびっくりしたのは、河合隼雄の記事です。内容は中国でも人気な村上春樹との対談した際のエピソードでしたが、この河合隼雄は心理学専攻の人には知られていながらも、それ以外だとちょっと知名度に乏しいということもあってなんかいろいろと新鮮でした。惜しむらくは、学生時代にこの人を知っていれば自分もこの人の本を読んだのにということですが。

 次に政治関係の話題だと、野田政権の増税問題がやけに熱心な解説付きでこれまた取り上げられていました。曰く、震災からの復興、財政健全化、経済回復とともに増税を実施するのは非常に困難だと、実に中国人らしく短いながらも的確に急所を突いてきています。このほかの政治系の話題だとやっぱり領土関係ばかりで、この前の尖閣諸島周辺の島嶼に日本が命名したことに対して批判記事が載せられたほか、北方領土問題でロシアに日本が文句言ったことなども逐一漏らさず載せています。
 ここで一言付け加えておきますが、意外に中国側は日露の北方領土問題に強い関心を持っております。これは恐らく日本というよりロシアに対して警戒感が強いためで、どちらかと言えば日本側に依った意見ばかりが目につきます。

 あと最近、というより今日の新聞に載っていた日本のニュースだと、シャープ、東芝、日立、ソニーといった日本の大手家電メーカーが揃って巨額の赤字を計上したことをでっかく解説記事付きで連日紹介しています。なんていうか、日本の報道より大きく取り扱っているような……。内容はなんで赤字に陥ったのか、理由としてはやはり円高による影響が強いとするもののテレビ事業自体が非常に採算の取りづらい事業となっているといったことが中心です。

 ちなみにこれなんか見る人が見たら一発でばれますが、実は中国の家電メーカーにおいてもテレビ事業は実質赤字です。内容には自信あったのにあまり反響なくてがっかりしたのですが、先月に私は中国の液晶テレビ業界について記事を書いており、その時に色々調べたところどうも中国の液晶パネルメーカーも韓国のサムスン同様に政府などから大量の補助金をもらって経営しているようです。その額、日本円にして数百億円単位で、利子抜きの借入金額も膨大な額でした。自分が引用した記事ではある大手パネルメーカーの総経理の発言も入ってましたが、「政府補助なしの経営なんかできるわけない」とはっきり言っており、事実補助金がなければ一発で赤字転落する業績であることも指摘されております。

 そう考えると、台湾メーカーもそこそこ補助金が出ているというし、世界の液晶業界で補助金なしに経営しているのは実は日本メーカーくらいで、シャープなんかよくやるよと今更になって誉めてあげたくなりました。大赤字出したけど。
 ただこれは逆に言うならば、日本よりも人件費がうんと安い中国メーカーですら利益を出せないというのに、日系メーカーがどうやって利益を出せるというのかとも言えます。恐らく家電メーカーの上層部もこういった事実は了解しているでしょうが、仮にテレビ事業をやめるとなると数万人単位で雇用を切らなくてはならないため、切るに切れず赤字を出し続けているのが現状かと思います。

 仮に数千人単位であれば、冷たいと言われても私は切れない経営者を批判すると思います。だがテレビ事業ほど巨大なものだと、切れないからと言ってさすがに批判することは私にはできません。ただ決断の時期は、確実に近付いているかと思います。

2012年2月6日月曜日

震災後の作ったようなムードについて

 このところ真面目に忙しく、ブログの更新が滞っております。それこそ体を壊すほどの無茶な仕事量ではないのですが、なんか記事書くのに自分が変にこだわってて家帰っても延々と書いてるせいかやけにだるいです。
 そんなわけでさらりネタとばかりに、既に一部で取り上げられていますが自分も気になったのであるニュースを取り上げておきます。

“絆”報道は誤り!? 婚姻件数減でブライダル市場は3年連続縮小(Business Media誠)

 上記リンク先の記事の内容を簡単にまとめると、東日本震災後は結婚件数が増加したとか、2011年は今年の一字に「絆」という文字が選ばれるなどあれこれ人と人のつながりが主にメディアを通して強調されましたが、それらは全部ウソだったという内容です。一体なんでこういうデマが流れたのかというと、やっぱり自然発生的に生まれたのではなくメディア、それも国関係を通してこういうムードを作ろうという意向が働いたんじゃないかと疑っています。

 元々、「絆」という漢字が今年の一字に選ばれること自体が私にとっては何か違和感を覚えました。私の記憶だと確か阪神大震災の起きた年の一字は「災」という文字で、社会の空気も今の日本(あくまで伝聞を通してみる姿で)とは何か違ったような感じがします。具体的に何がどう違うのかというと、やはり人工的な無機質感というか、そこに人間の生きた感情が介在しているのかが全く分からないような手応えのないようなムードで、さらに言うと面倒くさいことをなんでもかんでも震災のせいにしているような姿も見受けられます。

 これも前にネットで見たニュースですが、雑誌市場規模が1兆円を割ったことについてあるメディアは「震災による影響で」と真面目に書いてて、「揺れてると読み辛いからか」といったコメントが寄せられていました。そりゃ震災起きたら流通も滞って部数も多少は落ちるでしょうが、そこまで広範囲に影響するかと言ったらやはり言い訳にはならないでしょうに。
 こう言ってはなんですが、今の日本の報道はなんでもかんでも震災のせいにして済ませてしまおうというような印象を受けます。東日本大震災が日本に与えた影響は間違いなく大きく過小評価はするべきではないですが、余計な引用を間違いなく無駄なことで、変なミスリードを作る記者がいなくなれば日本はもっとよくなると思う次第です。

2012年2月3日金曜日

自らを偽る嘘とホンダの書類選考

 このところ思想に関する記事を充実させようとしていてあれこれ書いておりますが、今日もまたその手の類として「嘘をつくこと」について書いてみようかと考えてました。ここだけの話、私は嘘をつくことに対しては明らかに他人より厳格で、聞かれなければ敢えて話したりしないよな周囲に憚る内容でも実際に聞かれた場合ははっきりと相手に告げることも多いです。また余計な嘘をつくことも良しとせず、なるべく真っ正直に生きようと常日頃から心がけています。
 もっとも、そういいながらも嘘をつくことが全くないわけでもありません。具体例を挙げると別の友人に初めて合わせる友人を紹介する際に、

「彼は通称、ヤマジュンと呼ばれてます( ゚∀゚)」
「おい、初めて聞いたぞそんなあだ名Σ(゚Д゚;)」

 というやり取りをしたことがあります。関西だったからみんな突込みが早くて素晴らしい。
 勝手な線引きではありますが、ついていい嘘の条件というのは主に以下の二点にあるかと思います。

・冗談の類など、言ったところで誰も傷つかないし損もしない
・言ったその場で嘘だとわかる内容

 ごくごく当たり前と言えばそれまでですが、この条件に合致する嘘こと冗談の類はしょっちゅう私も口に出します。また自分が得する嘘でも、自分以外の人間が誰も損をしないのであれば、内心ではよくないと思いながらもごくたまに言うこともあります。本当にたまに。
 逆についてはいけない嘘というのはこの条件とは逆の内容、他人が傷ついたり損をしたりして、自分一人が得をするような内容の嘘だと思います。これらとともにもう一つ、自分自身を偽る嘘もやはりついてはいけない嘘だと私は考えています。

 自分自身を偽る嘘というのは単純に、自分の本来の意思とは異なる内容を口にすることです。たとえば路上にゴミを投げ捨てることについて内心ではよくないと思いつつも周りもやっているんだなどと自己弁護して捨てたり、本当はお腹がすいているのにすいてないと思いこんだりなどといった内容です。
 もちろんこれには程度があり、同じものを欲しがっている人がいる場合に相手に譲るといった、周囲の環境や状況によっては謙虚心や我慢を発揮することも時には必要で、こうした譲歩するケースはもちろん除外されます。でも上司が、「お前、俺のこと本当は嫌ってるんだろう」って言ってきたら通常は「いえいえ、そんなことないっすよ」って普通は言い返すけど、この場合は「言ったその場で嘘だとわかる内容」だからありかな。

 この自分自身を偽る嘘の何が良くないのかというと、重ねていくうちに自己本質が変化していく可能性があるからです。先程の自己弁護をするケースでも、何度となく同じことをしているうちにそのうち全く気にしなくなるようになり、水は低きに流れるというか大抵は悪い方向へ流れていきます。
 こうした嘘というか自己を糊塗する現場というのは数多くありますが、自分が一番目につくのはちょうど今、山場を迎えつつある大学生の就活です。体験した方ならわかるでしょうがみんなサークルでリーダーしていたとかバイトでこんな経験をしたとか、自分自身でもしょうもないと思う内容をさも価値があるような言い方をして自己PRしてきます。ひどいのになると一から嘘をついてくることもありますし。

 私自身は既に当時から自分を偽る嘘はついてはいけないと考えていたので、かなり真っ正直にストレート球しか投げない就活をしていました。そんなもんだから中国留学をしたものの自分じゃまだまだと思ってたので、中国語のレベルを聞かれたら、「会話はもちろんできますが、まだまだ未熟です」とマジでこう答えてました。さすがに今だったら北京語ならば下手な田舎の中国人より上手に話せると言い切れるけど。
 もちろんこんなやり方だと苦戦するのは当たり前ですが、それでもあの時に変な嘘をつかなくてよかったと満足しています。そういう意味では自業自得なので企業側を批判するのはお門違いだと思うものの、ただ一社、名指しではっきり批判させてもらいますが自動車メーカーのホンダについては真面目に問題のある選考ではないかと当時思ったのをよく覚えています。

 具体的にどんな選考なのかというと、一発で落ちているのでそれは書類選考です。私が就活をした年のホンダの選考は専用の書類を提出することから始めるのですが、その最初の質問というのが、「あなたの夢はなんですか?」というものでした。この質問に対し私は変なこと聞くなと思って、

「対象を対象そのもので、比較対象なしに理解することのできる絶対感覚的要素を身に着けること」
 と、一語一句そのままでマジで書きました。書き終えて次の質問に目を向けるとそこには、

「その夢を叶えるためにホンダで働くことはどのようなステップとなるでしょうか」
 知るかそんなこと!(;゚Д゚)エエー
 真面目にこの時は口に出して驚きました。ってかこの時ほど後の質問をチェックしてから書けばよかったと思ったことはこのところありません。専用紙だし、最初の質問もボールペンで書いちゃってたし、修正液で全面消すわけにもいかないし……。

 最終的にあれこれわけのわからないいわけを書いて提出しましたがやはり書類落ちでした。ただ自分でも八つ当たりのような気もしないでもありませんが、こんな質問だとホンダで働くことで価値があるように自分の夢を合わせなければいけないんじゃないか、志望者には関係のない夢を持つな、持っても入れさせないということになるんじゃないかと強く感じました。別の会社の面接でも「なんでここで働くのを希望するのか」と聞かれて「生活資金を得るための手段としてであって目的ではない」と真顔で言って顰蹙を買った自分ですが、ホンダのあの質問は手段を目的にしろと言っているように見え、最初の自分を偽る嘘をつけと言っているように見えてあまりいい気はしませんでした。

 ちょうどこの書類を書いた後くらいにまたてんかんの発作で体調悪くして2日くらい寝込みましたが、別にこの時に限るわけじゃありませんがてんかんで寝込んだ後は世界観が変わって見えることが多いのですが、ホンダ車に対しては魅力を全く感じなくなりました。逆にこの時から、「パジェロってかっこいいよなぁ」と、何故だか三菱車に対してやけに肩を持つようになり、今ではレースゲームでは三菱以外(たまにスバルインプレッサ)は一切使わなくなっています。ただこの時は知らなかったのですが、後にうちの親父も昔から三菱党だとわかり、意外と血は争えないもんだと思い現在に至ってます。

2012年2月2日木曜日

見ていて不快な広告



 いきなり画像からですが、この画像ことバナー広告はYahooメールでこのところよく出没します。はっきり言いますが見ていて非常に不快で、なんでメール確認するたびにこんな見ていて疲れてきそうな嫌な画像を見せてくるのか、広告主の味の素には腹が立ってきます。

 別にこれに限るわけじゃありませんが、私はかねてから日本の広告はそのデザインというか内容に問題がかなり多いような気がします。具体例を挙げると駅前などに多い消費者金融やラブホテルの広告などで、このほかにも周辺の建物や風景を全く無視した配色をする看板などが多いということは大きな問題な気がします。ただ広告が多いからと言ってもそれ自体は悪いわけじゃなく、たとえば私がこの前までいた香港も街中には果てしないくらいに広告が立っており、中にはビルの3階から路上へ突き出るようにして出ている看板もありましたが、私も友人も何故だかこれらの広告には不快感は感じませんでした。

 なんか疲れているので文章が荒れていますが、繰り返して言うと日本人はもっと景観を意識して広告を制限するなりなんなりした方がいいと思います。唯一というかそうした景観に対して非常に理解ある場所というのはほかならぬ京都市で、ここはマクドナルドの看板もほかの地域のように鮮やかな赤色ではなく、やや地味に抑えられた茶色にされております。また多分今もそうだとおもいますが八坂神社前のローソンも、恐らくあの場所で横文字なんて使うなと言われたのか店の前には「ローソン」と、カタカナでしかも縦書きで書かれた看板しかありません。それにもかかわらず昔信号待ちしてたら、「なんでこんな場所にあんなもんおるんや」とおっさんがぼやいてましたが。

 ただ京都ほど徹底しろとは言わないまでも子供や外国人も多く集まる駅前や駅構内に、あんな不快感満載の広告ばかりというのは本当にどうにかしてもらいたいです。敢えて名指しで指摘させてもらうと私の地元の千葉県松戸駅には、私が子供だった頃からソープランドを経営する角海老グループの広告が常に貼られております。私なんか無知な子供だった頃、「ねぇあの広告なに?」ってうっかりお袋に質問してしまってて、今となっては非常に恥ずかしい思いがします。っていうか松戸駅はあの意味不明なロータリーといい、もっとまじめに再開発しろよなぁ。

2012年2月1日水曜日

年収300万円が既婚率ボーダーの報道について

 昨日といい今日もブログに書く話題がなく、明日の仕事の準備しなきゃいけないのにどうしようかとちょっと焦っていました。そもそも仕事の準備するならブログを書かなくともいいような気もしますが。
 そんなわけでぼーっとネットをあれこれ見ていたら、ちょっと前に発見してじっくり読んだ上で取り上げようと思っていたYahooの「30代は生きづらいのか」の特集ページにて、ちょっと癇に障る記事があったのでよっしゃと思った次第です。

年収300万円が男性の結婚境界線?(No.361) 届かぬ非正規 対策急務に(東京新聞)

 この記事もさることながら、真面目に東京新聞こと中日新聞には自分が将軍様ならテポドンを打ち込みたいくらいに毛嫌いしております。それだけにこの記事の内容も、いやどっちかっていえば内閣府の調査もの記事なんだから中日新聞を批判してもしょうがないんだけど、ちょっと自分の立場もあるもんでなんかカチンと来る記事でした。
 記事の内容は見出し通りに、男性が結婚してるかしてないかは年収300万円以上であるか以下であるかで大きな差があるという内容です。該当箇所を引用すると、

「男性の年収と既婚率の関係では、二十代では三百万円未満が8・7%なのに対し、三百万円以上なら25~39%に上昇。三十代でも既婚率は、三百万円を境に変化していました。」

 真面目な議論をすると、これは内閣府か中日新聞かどちらを批判すればいいのかちょっと悩みますが、一見してこの調査結果は年齢という変数がどれくらい影響しているのか、というより年齢の影響度が低いということを立証せずには成り立たない主張をしているようにしか見えません。一応、「二十代でも三十代でも、年収三百万円以下は既婚率が低い」と言っていますが、そもそも論として日本人男性の平均初婚年齢は2010年調査で30.5歳です。また20代で今の給与構造だと年収300万円に届く層はあまり多くなく、この前も日テレ若手社員が年末に8万円のボーナス出すくらいならもっと昇給させろと主張したことが話題になったように、一流企業でも案外少ないんじゃないかという気がします。

 急いでいるのでやや飛ばし気味に書いていますが、要するに年収300万円以上の二十代人口はあまり多くないため、この調査結果は代表性があるのか深く疑問だと言いたいのです。逆に三十代だと300万円以下の層が何人いるのかとこちらでもまた疑問符が付くし、なんか元記事でも二十代は既婚率をパーセンテージでちゃんと出しているのに三十代は数字を出してない辺りにも作為的なものを感じます。
 第一、そんなに年収年収というのなら相関係数を出せばいいのにという気がしてなりません。バリマックス回転でもさせれば年齢と年収のどちらが相関度が高いかスパっと出るはずなのに、社会調査をなめているのかと内閣府はこの際無視して相手が中日新聞なので言っておきます。

 こんな感じでやや一方的な批判をまくしたてましたが、最初にも書いたようにちょっと自分の立場もあるのでイライラしてます。あまり不幸自慢をしてもしょうがないと思うものの、こういう数字を出すことで参考になる人もいるんじゃないかと思うのでこの際書いてしまいますが、現在の自分の年収は真面目な話、フルタイム就労ながら200万円を大きく切っています。明らかに逆恨みですが、たまにネットとかで「年収300万円も行かないことに悩んでいる」という話を見ると「なめてるんじゃねぇぞボケ(# ゚Д゚)カス!!」と本気で言いたくなります。
 もちろん望んで中国に来たんだし、現在の給与に納得した上で雇用契約を結んでいるので文句を言う筋合いではありませんが、3ヶ国語使って仕事してるのにさすがにこれはないよなぁと最近感じ始めてます(´Д⊂ヽ

 ただここで再び真面目な話をすると、こういう給与に甘んじなければ中国語を使う就労経験というキャリアが伸ばしづらいというのは間違いのない現実です。また上海で働いている自分と同年代の中国人は明らかに自分より少ない、下手すりゃ半分くらいの給与で働いており、中国人留学生からするとそりゃ日本で働こうとするのにハングリーさを持つよなという気もします。
 はっきり言っていくら中国での就労がブームになっているとはいえ、二十代で私のようにこっち来る人は明らかにレアです。ただこれからは否が応でも中国に就労経験を求めに来る日本の若者(中国語が使える、使えないは問わず)は増えそうですし、日系企業も日本人を中国で現地採用して、中国の一般的な給与を支払いながら日本国内勤務をさせるという逆上がり技をやってくるところも出てくるんじゃないかと思います。

 この記事は前半部と後半部で関係が少ない内容ですが、敢えて後半部を目立たせないような構成を心掛けてこうしてみました。最後に前半部の話に触れると、年収300万円以下か以上かでこう議論が出来るのはまだ日本が余裕ある証拠のようにしか今は思えません。

2012年1月29日日曜日

日本人のイエ意識についての考察

 初めにまた本題とは関係ありませんが、下記のインタビュー記事が面白かったので紹介しておきます。

【水内茂幸の夜の政論】民主津村氏宿舎で男鍋「反ポピュリズム再編だ」与謝野氏の遺産が民主救うか(産経新聞)

 内容は民主党の津村啓介議員の政策インタビューですが、インタビュー現場は津村議員の議員宿舎で学生さながらの鍋パーティをしながらという。しかも最初は一体改革論議、次期選挙の争点と真面目な内容なのに途中からまだ独身の津村議員の失恋話に発展していきしまいには、
「女が持つのは上書き可能なCDーRW一枚だが、男は一回記録したら上書きできないCDーRを何枚も持っている。男は未練がましいのかな。本当は不燃ゴミの日に全部出しちゃって過去を捨てるべきなのに」(津村議員)
 という名言まで飛び出る始末でした。なかなか面白いなこの企画。

 そうしたことはさておき今日の本題に移りますが、ほかの人はどうかはわかりませんが私は社会学を出身としているだけに物事に対して因果関係からまず疑います。勝手な想像で悪いですが物理系とか経済系は「原因→結果」というロジックを重視しているように見えますが、我々の社会学は「原因⇔結果」など、双方向的アプローチで物事を捉えようとするところがあり、ややもすればひねくれた見方をすることも多いです。今回ここで紹介する「イエ意識」についての内容も、過分にそのような要素を持っております。

 恐らく一見してみて「なんで家意識と漢字で書かないの?」と思われるでしょうが、特段思い入れがあるわけではないものの一応社会学としての専門用語を優先してカタカナ表記の「イエ意識」で今回は統一します。さてこのイエ意識ですが、どういったものを指すのかというと普通に想像される通りに「祖先や家族など血縁に対して強い意識を持つ」、「家系のつながり(系譜)を大事にする」といった価値観のことです。私がここで言うまでもなくこのようなイエ意識は昭和時代と現代とを比べると明らかに減少しており、もはや古い価値観や保守的な考え方と言われても仕方のない現状をしております。

 では逆に、どうして以前はこうしたイエ意識が大事に持たれたのでしょうか。こういうことを言うと中には「江戸時代に築かれた儒教意識が影響しているのでは」と考える人もいるでしょうが、私はこうした考えについては否定的な立場を取ります。根拠としてはいくつかあり、まず単純なものとしては儒教が存在しなかった国や地域、具体的には中東などでも先祖崇拝や家族主義的な価値観が強く、これらも立派なイエ意識と呼べるのではと考えるからです。また江戸時代の日本に限定しても儒教教育が強くなされていた武士層の人口割合は非常に小さく、逆に圧倒的大多数を占めていた農民層は儒教教育がどこまで施されていたのか、また武士との間でイエ意識に差があったのかといった点でも疑問に感じます。
 今回の件に限るわけじゃありませんが、儒教はよくいじめ問題とかにも引っ張り出されて悪者扱いされることがあるものの、私は世間で言われているほど儒教というものはそれほど日本人の思想に影響を与えているとは思えず、体のいいスケープゴートになっているだけじゃないかという気がします。

 では儒教でなければ一体何が日本人のイエ意識に影響を与えているのかですが、ずばり私の仮説を挙げさせてもらうとそれは「相続されるべき財産の存在」じゃないかとにらんでいます。
 まず日本の財産相続の歴史を簡単に話しますが、平安時代については諸説あってまだ確としていないものの、鎌倉時代においてはどうも男女問わず分割相続されていたようです。ただこの方法だと田畑が縮小して生活を成り立たせ辛くなったために室町時代には嫡男への単一相続方式が確立され、江戸時代において嫡男には相続する権利が認められる代わりに相続権のない弟や妹といった庶子の生活の面倒をみる義務が発生することとなりました。

 こうした相続の過程で着目するべきなのは言うまでもなく嫡男で、嫡男からすると若いうちに家を守ったり両親を助けることは将来自分が相続する財産を守ったり増やしたりすることと同義で、自分が当主となった後も自分の嫡男へと遺産を相続させるためには家を保つことが肝心になります。また嫡男以外の庶子にとっても田地を新規開拓するなど独立して生計を立てるのならばともかく、成人後の生活は当主たる嫡男のおこぼれというか面倒を見てもらわなければ生きていくことは難しい一方、イエ意識を持ち実家を盛り立てようとする立場を持つことでいざという時の逃げ場所を確保することが出来ます。

 私はこのような財産相続という制度が下地となり、明治期においては長男は兵役が免除されるようになったというように法律上でも確立されたことで日本人のイエ意識が出来上がったと考えています。これは逆に言えば、相続するべき財産がなくなるということはイエ意識もなくなるということでもあり、儒教精神の退廃とか思想上の原因ではなく単純に金銭的な問題でイエ意識は現代において勢いをなくしたとも見ています。

 日本のイエ意識を語る上で戦後の高度経済成長期に起こった核家族化は見逃すことが出来ず、単純にこれによって地方にある実家との距離が離れたことや庶子らも独立して生計を立てられるようになったことでイエ意識が減少したとみることが出来ます。ただ敢えて財産相続に着目して変化を追うと、相続が以前の嫡男への単一相続から分割相続が増え始め、また相続されるべき家や土地といった財産も都市生活では扱いづらいものになってきたことによってイエ意識も揺らいだのではないかともみれないでしょうか。

 以上のような考察を踏まえて今後のイエ意識の予想を述べると、このまま減少していくのではないかと思う一方で強まる可能性ももしかしたらあるんじゃないかと考えています。その理由は今後、というか現在進行形で今の日本社会は過去の貯金を取り崩して生きているような状態で、ニートや引きこもりといった財産のある両親の支援なしでは生活出来ない人たちも増えており、相続という概念が以前より意味合いを増してくるのではないかと見ているからです。あとさらに付け加えると、私の仮説ではイエ意識は相続財産があって初めて成り立つものであるため、家系とかにやたらこだわるのは比較的余裕のある家、階層で言うならアッパークラスほどこの傾向が強いとも言えるんじゃないかと密かに考えているわけです。

ドコモの通信障害を見て

 日本にいるわけじゃないのであくまで伝聞ですが、なんかNTTドコモがこのところ何度も通信障害を起こして総務省に怒られているそうです。自分の記憶だと去年の夏頃から大規模な通信障害を複数回起こしており、総務省は改善と対策を要求し、ドコモ側も役員報酬を削減して責任を取るとしております。
 別にこれだけだったらわざわざ取り上げるまでもないんですが確か去年起きたドコモの通信障害の折に、「通信障害の間に通話やメールできなかった分を弁償しろ」と、なんかどっかからドコモが訴えられたというニュースを見ました。確かに現在進行形でYahooのトップページが開けたり開けなかったりしてかなりやきもきされることを考えると腹立つ気持ちもわからないのですが、1日くらいの通信障害で訴えられたりもするのかとニュースを見た際にはちょっといろんな意味で驚きました。それとともに、これで訴えられるんだったらソフトバンクは一体どうなるんだという妙な疑問も覚えたわけです。

 私自身は日本にいた頃は一貫してドコモを使っており、通信状態とかそういったものには全く不満を感じたことはありません。3G(FOMA)に移行した際も特段困るような事態も発生せず、ほかの通信キャリアより通話料とかが高いとは言われていたものの余計なサービスをほとんど取っ払ったら費用は基本料込み、ってかほぼ基本料だけで毎月2500円だったので個人的には十分でした。
 ただ同じドコモ、しかも大学で初めて会った時に全く同じ携帯電話を持っていた友人がソフトバンクへ鞍替えすると、「やっぱりドコモの電波はよかった」と何度も愚痴るようになりました。何もこの友人に限らずあっちこっちでソフトバンクはちょっと都市部を外れるとすぐ繋がらなくなるとみんな言っており、方々で言われておりましたが「メガソーラー計画」に凍死するくらいならもっと基地局増やしたらどうかという気持ちを私も覚えました。

 そんなソフトバンクですが、大学時代の後期、具体的には中国留学から日本の大学に復学した際には下宿でのADSL回線契約でお世話になったことがあります。何気に留学前に使っていた部屋は月家賃3万円の安いアパートながら光回線が引いてあったのでスピードはダウンしましたが、こちらの方は携帯電話と違って通信状態で困らせられることは全く以ってありませんでした。
 ただ契約の際にソフトバンクの店員さんと話をして、なんか京都のややひなびた場所に住んでいると聞いたらうちの親父が、「そんな山奥やったら、ソフトバンクの携帯は電波届かんのとちゃう?」と嫌味なことを聞きました。するとその店員さんは、「大きな声では言えませんが、業務ではソフトバンクですが家ではドコモ使ってます……」と答えたのが何故だか今でもよく覚えてます。ってか、社員の住所くらいは電波カバーしろよなソフトバンクも。

2012年1月27日金曜日

ヒーローの活躍できる都市

 ここだけの話ですが、実は私は映画の「スパイダーマン」が大好きで、一番好きな2なんかもう五回は確実に見ています。今度キャスティングを一新したスパイダーマンが公開されるようですが、個人的にトビー・マグワイアが気に入ってただけに少し残念です。多分見るけど。
 そんなスパイダーマンですが、彼の見せ場はなんといってもニューヨークの摩天楼を飛び回るシーンで間違いなく、あの場所あってのスパイダーマンと言っても過言ではありません。それでこの前ふと思ったのですが、「香港ならスパイダーマンも活躍できるかも」と、同じくビル群が林立する香港ではどうだろうかと妙な想像をしました。

 香港もニューヨーク同様に高層ビルが隙間なく立っており、恐らくあの場所ならスパイダーマンの特性を生かして十二分な活躍が期待できます。ただこれが東京となると、意外に東京はビルがびっしり立っている地域は少なく、ど真ん中には皇居というだだっ広い平地が広がっているため空中を飛び回って移動することは叶わないでしょう。交差点を全力疾走するスパイダーマンではちょっと見ていて楽しくありません。
 では同じアメコミヒーローの、今度三作目が公開されるバットマンは東京だったらどうでしょうか。彼だったらその土地に影響されることなく活躍が期待できますが、そもそもアメコミヒーローが巣鴨とか板橋をうろついてたりしたら明らかに浮きますし、秋葉原だったらコスプレイヤーで片づけられます。そういう意味では、仮面ライダーとかはまだ日本の風土に合ったヒーローと呼べるかもしれません。

 ただそんな仮面ライダーも、北京市では日本みたいな活躍は期待できないでしょう。というのも北京市では交通渋滞が激しいために基本的にバイクの乗用は認められておらず、ライダーなのにバイクがないという笑えない事態に陥る可能性があります。さらに無理して乗ったりすると、中国はリアルに暴走族が一人もいないくらいに治安警備が厳しいところなので出撃の度にパトカーに追いかけられることになるでしょう。それ以前に、中国で仮面ライダーとなると怪人はやっぱり「毒餃子男」とかになるんだろうか。

中国繊維業界からの日本企業の見方

 以前に知り合いから、中国で繊維業を営む経営者(中国人)から聞いた話だとしてこんな話を聞きました。その経営者が言うには、日本企業は発注の際にあれこれ細かい要求を突き付けてくるには値段を安く買い叩いてくるので、発注量は確かに大きいが取引をしても得られるメリットがほとんどないそうです。その逆に、アフリカ諸国の業者は「なんでもいいから送ってくれ」と言ってくれるのでこちらは単価が低くとも非常にやりやすい相手で取引量も拡大してきているそうです。
 この話を聞いたのは去年の夏くらいでその場ですぐにブログに上げても良かったのですが、ちょっと思うところがあって敢えて今日まで書きませんでした。では何故今日になってこんなことを書こうと思ったのかですが、裏が取れたというか別ソースでも全く同じ情報を耳にできたからです。

 これは去年の香港出張中の話ですが、同僚が香港の繊維業界でそこそこ顔の聞く人にインタビューをする機会がありました。前もって伝えておくと中国の繊維業は華南地方、具体的には広州とかで盛んで、その工場の多くは香港資本で経営されております。
 話は戻ってインタビューの内容ですが、去年になって華南の中小企業や工場が資金繰りの悪化から潰れ始めていることに触れると、「今生き残っている繊維系企業はみんな、日本企業との取引をやめたところだ」と言ったそうです。こっから先の内容は最初の話と同じで、日本企業は文句ばかり言ってくるくせに全然お金を出そうとしないということで、日本企業との取引を一挙にやめてそれまで対応に費やされていた時間を別方面の開拓に使ったかどうかが生死の境目になっているそうです。

 私はこの二つの話を聞いて、恐らく事実に間違いはないのだろうなという印象を覚えました。自分も以前に日本企業で働いていた際に取引先はこっちの利益のことなんかまるで無視してひたすら値段の引き下げばかり要求され、こっちがもう無理だと何度言っても「じゃあその理由を詳しく説明しろ」と半ば脅迫的に言ってくることも多く、「値段的にこっちの商売が成り立たない」と何度も言ってるのに日本語通じないのかこのアホはとよく思いました。なもんだからもし私に決定権があるのならどうせ利益もほとんど出ないんだし、とっととそんな会社とは縁切って新規開拓に走るのですが、生憎下っ端の身分ではそんなこと出来るわけもなく嫌々対応せざるを得ませんでした。なんか日本で働いている友人にもこの話をすると、「ようわかるわぁ……」と言ってたので多分どこも似たようなもんだと思います。

 ここで真面目な話をしますが、「こっちは物を買っているんだから何を言っても許される」のはあくまで日本だけのドメスティックな価値観です。いくら発注量が大きかろうと長年取引しておろうと、中国の企業なんかは相手していてうんざりしてきたら日本人みたいに甘くないので取引も普通に切ってきます。
 またこのドメスティックな価値観ですが、日本の中でも機能しているかとなったら私は非常に疑問です。言ってしまえばこんな価値観がまかり通ってしまったためにデフレが加速した上に余計なクレーマーとかも生まれてきたと思っていますし、場合によっては若手従業員の負担もぐんと跳ね上がってしまったと考えています。

2012年1月26日木曜日

猛将列伝~袁崇煥

袁崇煥(Wikipedia)

 なんか思うところあって中国の明の時代を調べていたら面白そうな人がいたので、ちょっと取り上げておきます。
 袁崇煥は明末期(17世紀前後)の武将ですが、元々は軍人ではなく文官でした。35歳で当時の官僚採用試験である科挙に合格後は地方官でありましたが、38歳のころに諜報関係の役職に就くと当時から力を持ち始め国境を侵食し始めていた、後に明を滅ぼして清王朝を作る女真族こと満州族について徹底的に調べ上げます。その後、報告書にて当時の対満州族最大の防衛拠点であった山海関の外に寧遠城という要塞を築くように進言して自らがこれを築城します。
 この寧遠城ですが、Wikipediaの記述をそのまま引用すると、「城壁の高さは10.2m、城壁の厚さは基底部で約9.6m、上部で約7.7mあり、ほぼ方形で、4つの門をもっていた。」となっており、非常に大規模な要塞だったことがわかります。さらに袁崇煥はこの城に周囲の反対を押し切ってポルトガルから直輸入した大砲を取り付け、「紅夷砲」と名付けて満州族に備えました。

 こうして準備万端整えた袁崇煥に対し、満州族を統一して「清」を作った太祖ヌルハチ率いる軍が1628年に一斉に攻め寄せてきたのですが、なんとこの戦いで袁崇煥率いる寧遠城守備隊は敵を散々蹴散らすほどの大勝を挙げて見事撃退に成功しております。しかもこの戦闘の直後にヌルハチは病死しており、一説には戦闘で負った傷が元となって戦死したのではないかとまで言われています。この翌年、ヌルハチの後を継いだ二代目ホンタイジも、何気に瀋陽市でこの人のでっかい墓を直接見に行ったこともありましたが、父の敵を討たんとばかりに再度攻め寄せますがこれも見事撃退しております。

 こうした活躍から袁崇煥は明朝で昇進を遂げ、恐らく文官出身ということもあるでしょうが三国志の名軍師である諸葛孔明になぞらえるまでに讃えられたそうです。ただいつの世もいいことは長く続かないというか、二度も大敗したことによって相対するホンタイジも袁崇煥は一筋縄でいかないと考えたのか、迂回策を取って彼を追い詰める作戦に出ました。
 なんていうか中国史では本当によくあることで真面目に「またかよ」と言いたいのですが、ホンタイジはスパイを使って北京にいる宦官を買収し、袁崇煥が謀反を考えているという噂を宮中に流したそうです。でもってそれをまた真に受けちゃった当時の皇帝こと崇禎帝は袁崇煥を召還するとあっさりと袁崇煥を処刑してしまい、その後はセオリー通りというか同じ漢民族である李自成による反乱軍に北京を包囲されたことによって明朝は崩壊することとなりました。

 こうして袁崇煥の活躍は「亡国で善戦した名将」として決して報われることのない歴史に刻まれたわけなのですが、彼の子孫らはその後、袁崇煥が戦った清軍に身を投じてあちこちで活躍するなど脈々と受け継がれ、なんと8代目の人なんか日清戦争にも従軍していたそうです。名将の血は裏切らないと言うべきか。

 最後に一つ北京の観光案内をしておきますが、北京で一番の観光地とくれば天安門こと紫禁城です。この紫禁城はまさに今回紹介した明代から使われているのですが、ここのかなり奥まった場所には景山という裏山があり、そこにはなんと追い詰められた崇禎帝が首を吊った木というものが存在しています。実際には元の木は文革期に切り倒され、っていうか明らかにそれ以前からもうなかったんだろうけど、今植えられている木は新しく植え直した木だそうです。まぁその木の辺りで首吊ったのは間違いじゃなさそうですけど、こういうのも案外観光地になるんだなといろんな意味で感心させられる場所です。

北朝鮮の今後の予想

 この旧正月休暇の間は空気もきれいなことだし、食事量を増やした上でジョギングなど運動をすることによってウェイトアップを図っているのですが、今日また例のショッピングストアで体重計に乗ってみたらたった500グラムですが体重が落ちていました。現在の体重(60キロ以下)はある意味私の適正体重というか高校時代からほぼ一貫として保っている数字ではあるものの、意識的に食べる量を増やしているのにこの結果はなんだか腑に落ちません。

 最近書く文字数が減っているのでこういうどうでもいい近況から始めることが多いですが、そろそろ本題に入って北朝鮮についてちょっと書きます。去年の12月に北朝鮮の将軍様こと金正日が死去したことについては今更言うまでもない事実ですが、生前から彼の後継者は誰になるのかと様々な憶測が流れていた中で現在は彼の三男、金正恩が世襲によって地位などを継承しております。はっきり言って私は北朝鮮事情について何か勉強したこともなければ普段から追っているわけでもない完全な素人ではありましたが、その上で意見を述べさせてもらうと、やはり数年内に金正恩は暗殺される可能性が高いんじゃないかと勝手に推測しております。

 何故金正恩が暗殺されるのではと思う根拠ですがこれには複数あって、まず彼が北朝鮮の政治舞台に立って日が浅いことが挙がってきます。父親の金正日は1972年に党の役職についてから金日成の死によって相続するまで実に22年もの時間を経ており、この間に軍事指揮権の掌握から他の幹部らとの人脈も作っておりました。それに対して金正恩が表舞台、少なくともテレビ放送に出てきたのは一年にも満たず、それ以前の準備期間を考えても年齢的に確固たる地盤が築けているとは思いません。いわんや、中国共産党とのパイプについては以ての外です。

 さらに言うと今の北朝鮮の指導層にとって、金正恩を生かしておくメリットより彼を暗殺するメリットの方が傍目には高いような気がしてなりません。何故金正恩が最高指導者になったのかというと決して実力からではなく父親の金正日の遺言以外に何もありません。逆を言えば金正恩が最高指導者になるということで得られる北朝鮮のメリットというのは、金王朝制を維持することで軍幹部層がその地位を維持できるということしかないということです。
 ただ北朝鮮の現状は食糧事情に始まってどれもよくなく、恐らくこれからは特権階級といえども以前のように好き勝手もできなくなるのではないかという気がします。ではどうすればいいかですが、こういってはなんですが今までの悪いことを全て金親子のせいにして体制を転換させるのが最も手っ取り早い気がします。それこそかつてのルーマニアのチャウシェスクのように。

 現在の北朝鮮の最大の支援者である中国ですら「あの国は金正日の死後は持たない」とアメリカに言っていたとウィキリークスに暴露されていましたし、どうせ潰れるのならすべての呪縛を金正恩に背負わせて暗殺で始末する方が私にはすごく簡便に物が運べる気がしてなりません。その上で中国の改革開放モデルを取り入れて、徐々に資本主義経済を導入していくことが私が想定しうる最高の軟着陸案です。
 あとこれは恐らくまだ私しか主張していない意見でしょうが、仮に北朝鮮と韓国が戦争になった場合には中国はまず北朝鮮を支援せず、場合によっては逆に攻撃を仕掛ける可能性すらあるんじゃないかと見ています。このように考える理由としては中国と韓国の貿易量は日本じゃまず報じませんが意外に大きく、いきなり関係を絶てと言われても中国内で影響を受ける業者が多過ぎておいそれとできない関係にあります。逆に北朝鮮との間の貿易量はたかが知れており、むしろあの国を生かすための支援で余計な出費を背負わされているくらいです。

 オチがちょっとパッとしませんが、よく国際外交というものを政治のパワーゲームだけでいろいろ考える人がいますが、現代ではむしろ国民感情とかよりも通商関係で見ることの方が重要じゃないかと思います。ちょっとこういうことが言いたくてこういうトンデモ予想を書いてみたわけです。

2012年1月24日火曜日

人間の良心について

 自分のネット環境のせいかもしれませんが、今日夕方からYahooジャパンのトップページは開くものの個別のニュースページが開かなくなりました。多分検閲のせいだろうけどいろいろ面倒くさいからこういうのは早くやめてほしいのと同時に、真面目にネットの回線速度をもっと上げるよう中国には努力してほしいです。ここだけの話、回線速度が非常に遅すぎるせいで中国ではダウンロード型はともかく常時接続型のオンライゲームはしばらく発展しないと考えております。

 話は本題に入りますが、今日はちょっと「良心」について一席講じようと思います。通常、哲学で良心を取り上げる場合はよく性善説と性悪説の比較で性善説の立証として用いられることが多いかと思います。この性善説と性悪説については大分昔にも書いているので今回はスルーしますが、そもそもの話として良心とは一体どういったものを指すのでしょうか。
 Wikipediaの記述を読む限りだとやはり性善説同様に人間が生まれた頃より自然と備えている善の精神という書き方がされていますが、自分の中ではむしろ罪悪感と対にして取り上げることによってより理解がしやすくなるのではないかと見ております。

 罪悪感とくればわざわざ説明するまでもないですが何か悪いことをしたら慌てるような、誰かに怒られたり処罰されたりするのではないかと恐れる感情を指しますが、この罪悪感はよく幼児にはなくて成長とともに備わると言われております。確かに私自身も四歳くらいの頃に油性マジックで壁に落書きした際は全く悪いことだとは思わず大目玉を食らいましたが、そうした点を踏まえても私は案外、この罪悪感というのは生まれた当初はごくわずかなれど初めから備わっているものなのではないかと考えています。
 根拠としてはいくつかあり、まずごく小さな幼児といえども何かを壊したり、図らずも誰かを傷つけた際にはやはり慌てるように見えます。またこれは人間ではありませんが、猫なんかも花瓶とか鉢植えを倒したりすると明らかに動揺し始め、うちの実家で飼っている猫に至ってはそわそわし始めて目を合わせず、ひどい時なんかタンスの奥とかに隠れてしばらく出てこなかったりします。まぁ猫についてはしつけという後天的要素も十分に考えられますが。

 この罪悪感がどう良心に関わるのかというと、こうした「悪いことやってしまった(;´Д`)」という感情を惹起させる心に対し、「いいことをしたぞ(´∀`)」という感情を惹起させるものがその正体なのではないかと勝手に考えています。具体例を挙げると電車やバスで老人に座席を譲ると大抵の人は得意な気分というか、いい気持ちを味わうことが出来ると思います。逆を言えば、他人が喜ぶような行動を取っておきながら「ちっ、くだらないことをまたやってしまった……」と中二病的に悔しがる人間はまずいないでしょう。いたらいたで面白いけど。
 別にこうした心理行動も性善説でひとくくりに説明しても問題はないと思いますが、自分はやはり敢えて分けて考えるべきで、そこでこの「良心」という言葉を当てはめるのが最も適当ではないかと考えているわけです。定義としては、「他人を喜ばせることを自分の喜びにする心理、もしくは他人の喜びに共感する感情」といったところでしょうか。

 この考え方で特徴的なのは、良心というものはその行為の対象なしでは発生しないという点です。場合によっては人間ではなく動物、また広い社会が対象とはなりうることはありますが、自分一人で良心を感じる(起こすというべきか?)ことはまずありえないと考えています。それを言ったら善の精神も同じかもしれませんが。
 その上でもう一点上げると、やはり良心には個人差があるという点も言及しておきます。先程の席を譲る行為についても一日中気分が良くなる人もいればちょっとの間だけ得意になる人とで別れると思いますし、文化的慣習を抜きにして数学的な考え方もすると、席を譲るという行為で得られる喜びが大きい人は率先して譲る一方で、それが小さい人はそれほど席を譲ろうとしないとも考えられます。

 こうした点を踏まえて「良心を育てる道徳教育」とはなんなのかと言うと、他人を喜ばすことで自分が得られる喜びを大きくさせる教育なのではないかと私は思います。具体的にどう教育すればいいのかとなるまだ議論の必要がありますし、私もどうすればいいかはっきりと挙げられる自信はありませんが。良心教育を掲げている同志社大学はどういう風に意識してるんだろうな。

2012年1月23日月曜日

日本に影響を残した外国人~シーボルトの子供たち

 相変わらず連休真っ只中。今日は午後1時から4時まで昼寝して過ごしました。寝る子は育つというが本当だろうか、ってそもそももう成人しているけど。

 さて以前にこの連載でシーボルトを取り上げたことがありますが、彼自身が日本に与えた影響は紛れもなく非常に大きいのですが、彼の子供たちも父親に負けず劣らず様々な方面で日本に対し大きな貢献をしてくれております。そこで今日はシーボルトの子供たちについて、決して暇で時間が有り余っているからじゃないけどちょっとまとめてみることにしました。

楠本イネ(Wikipedia)
 楠本イネはシーボルトが最初に来日した際、長崎の出島で日本人女性のお滝との間でもうけた子供で、当時としては珍しいハーフの女性でした。父親のシーボルト自身は彼女が幼い時に国外追放を受けることとなりましたが彼の弟子たちがイネらの生活を支え、シーボルト流の西洋医学からオランダ語を教えたとされています。なお彼女にオランダ語を教えた人物の中には村田蔵六こと後の大村益次郎もおり、皮肉な運命というべきか大村益次郎が京都で襲撃され落命した際には看護助手としてイネが看取っております。
 イネが32歳の1859年、日本が開国したことを受けて父親のシーボルトが再来日し、親子は感動の再会を果たします。またシーボルトが母国で設けた異母弟のアレクサンダー・フォン・シーボルトとも初めて会うこととなります。
 彼女自身は当時としては非常に珍しい西洋医学を修めていたことから幕末期には宇和島藩主の伊達宗城などから厚遇を受け、明治初期にも宮内省ご用達の医師として活躍していますが、1875年に医師業を資格制とする医術開業試験制度が始まり、当初この制度は女性医師を認めていなかったことから医療現場の第一線を退くこととなります(その後1884年に女性の受験も認められる)。

アレクサンダー・フォン・シーボルト(Wikipedia)
 アレクサンダーはシーボルトが国外追放を受けオランダに帰国した後に生まれた、彼の長男です。日本には若干12歳の頃に父の再来日に同行する形で初めてやってきて、通訳を行う外交官として幕末の様々な事件処理に数多く関わっております。主だったものを上げると生麦事件、薩英戦争、下関戦争とまさに歴史の大事件に陰ながら関わっているわけですが、1867年のパリ万博の際には幕府名代として派遣された特区側義信の弟である徳川昭武に同行して一時帰欧しております。
 その後、1869年に幕府の命令を受ける形で弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトを伴い日本に再び来日します。帰国後は正式に明治政府から任官を受けて通訳兼秘書として様々な人物の下につき、不平等条約改正に取り組んでいた井上薫の秘書として欧州各国政府との交渉にも参加し、これは青木周蔵(駐英公使)の部下だった時代ですが日英通商航海条約の調印にも立ち会っているようです。
 アレクサンダーは1911年に死去しますが、それまで明治政府の下で実に40年以上も外交官として働いており、文字通りお雇い外国人として明治期を代表する人物の一人と言って間違いないでしょう。

ハインリッヒ・フォン・シーボルト(Wikipedia)
 ハインリッヒは兄の再来日の際に同行し、既に明治に時代の入った1869年に初来日します。日本でハインリッヒは兄同様に通訳兼外交官として仕事を得て、1873年には兄とともにウィーン万博の日本館の準備に関わって連日の大盛況に導いています。
 こうした外交官として活躍する一方、この前紹介したエドワード・モースとほぼ同時期に大森貝塚を発見するなど日本の考古学の発展にも深く寄与しており、骨董品を集めては日本人仲間との間で紹介し合っております。
 最終的に彼はオーストリアで没しますが、この時に彼を診ていたのはこれもまた今度紹介したいと思うエルヴィン・フォン・ベルツことベルツ博士です。本当にこの時代の外国人はみんなつながってるなぁ。

2012年1月22日日曜日

増税案に対する野党の姿勢について

 明日が旧正月の元旦に当たるため、先程から外では爆竹の音が鳴り響いております。私にとって旧正月は留学時代に一回、去年にも一回軽系しており、今回が三回目となりますが上海市内ということもあってまだ比較的おとなしい夜になりそうです。それにしてもこのブログでも何度も書いておりますが、同じ旧正月前でも去年と今年では全然立場が変わっていることに自分でも色々感じるところがあります。去年なんて変な会社にいたせいでひどい目に遭っており、ひどく気分が落ち込んだまま過ごしてたことを思い出すと現在の環境が現実なのかという気すらします。

 そうした前振りは置いといて今日の本題に入りますが、国会開会を前にして自民党を筆頭とする野党らは早くも野田首相が掲げる消費税増税を含む税の一体改革の提案を批判しており、解散をしないというのなら審議拒否をも辞さないという姿勢を見せております。こうした野党に対する私の意見はというと、議論に加わらないのなら早く議員辞めてくれという一言に尽きます。

 まず消費税に対する私の意見を紹介すると、増税のタイミングは遅すぎているくらいで、2010年までに上げておくべきだったのにと考えております。確かに東日本大震災の翌年ということもあって上げるべきタイミングかと言えばあまり好ましくない状況ではありますが、それでも日本国家予算の国債依存度は明らかに異常な状態で、少しでも償還のペースを進めなければかえって将来への不安が増して経済に対する影響も非常に大きくなるという危惧があります。
 たまに日本の国債は国内債務であって、現在のギリシャやイタリアが抱えて火の車にしている対外債務とは違うから大騒ぎするほどではない、むしろ日本は資産基準では世界的にも珍しい黒字国(日本以外には米国、中国のみ)だという意見を見受けますが、だからと言ってこのまま国内債務残高の膨張を放っておけばいいというのは極論もいいところではないかという気がします。このまま残高が伸びていって支払う余裕がなくなったら徳政令よろしく国内の金融機関には泣いてもらえば済む話ではなく、また「インフレを誘導させて実質価値を落とせばいい」という意見もありますが、長年ゼロ金利政策を維持しながらデフレが進む今の状況で、インフレを進めさせる策があるならぜひ聞かせてほしいものです。

 こうした考え方から、私はかねてから野田首相の財政健全化路線こと増税路線を支持しております。もっともこういう風に言えるのも中国で生活していて日本に税金を全く納めていないからとも指摘されるかもしれませんが、仮に日本にいても自分は同じ主張をしたでしょうし、なによりも自分たちの世代は増税で潰れても後の世代につながるというのなら喜んで踏み台になろうと私は考えております。むしろ自分の世代が楽をするためだけに、核廃棄物のように後の世代にツケを回すような真似だけはしたくありません。
 これに対し野党はいろいろ理由を付けてこの野田首相のこの増税路線を批判しているのですが、少なくとも現在に至るまで私が納得できる批判理由はまだ見当たりません。むしろ何が問題なのかもよくわからず、代案を出すなりそうしたところを国会で議論していくことが大事だと思うのにもう「審議拒否」と言い出すのは如何なものかと思います。

「自民はせこい」前原氏が批判、増税協議は要請(産経新聞)

 こうした自民党に対して上記リンク先記事のように前原氏も苦言を呈しているのですが、私としてもこの前原氏の発言に全く以って同感です。言ってはなんですが、かつての民主党より今の自民党はひどいように思え、仮に現在解散されたところで私は民主党に次回選挙でも票を投じると思います。

「こんなやつに話させるな!」自民党大会で経団連会長にヤジ(産経新聞)

 なんか自分でもちょっと批判し過ぎかという気もしないでもありませんが、同じ産経新聞からはまた上記のような記事が出ております。基本的に産経は自民贔屓なのにこのところはこうした自民を批判するような記事を見ることが多いです。敢えて理由を深読みすれば、今の野田首相の増税案は古い自民党の政策になんか似ている気がするからじゃないかとにらんでいます。

 夕方に小腹がすいたのでかっぱえびせんを食べましたが、そのせいで夜を回っているにもかかわらずなんか全然おなかがすきません。食べるタイミングを間違えたか……。

2012年1月20日金曜日

今日の大相撲の取組(#゚Д゚) プンスコ!

 うちの会社は一応メディア企業らしく編集部の中にはテレビが置かれており、中国の経済チャンネルとNHKをずっと映しております。なので今日は仕事の傍らチラチラ横目で大相撲の取組を見ていたのですが、思わず机を叩きなくなるほど見ていてカチンとする取組がなんと二本もありました。

把瑠都変化に「帰れ」コール連呼/初場所
日馬「だますような相撲だった」/初場所(日刊スポーツ)

 取組内容を説明すると、ちょうど優勝争いをしている把瑠都(「ばると」で一発変換出来たよおいおい)と白鵬(こっちも一発だ!)の取組で、なんと二度も立ち会いの変化が起きたのです。相撲をあまり知らない人に説明すると「立ち合いの変化」というのは取組が始まるやいきなり横によけて相手を後ろからついて送り出す、いわば不意打ちのような手段を指します。本来相撲は真正面から力士同士がぶつかるからこそ価値があるので、確かに変化をやってはいけないとは定められてはいないもののこれを使ったらやっぱり評価はしてもらえず、観客も勝った力士に対して誰も拍手をしないのが決まりです。

 私としてはまぁこれも駆け引きなんだし、平幕なら一場所に一回くらいならやってもありなんじゃないかなとは思うんですが、これが横綱や大関だったら話は全く別です。横綱や大関はその地位からして最上位であって、ほかの力士の模範たるべき存在です。そのため常に真っ向から向かう必要があり、特に横綱に至っては相手力士の攻めを一旦受け止めなければならないとまでされており、現実に白鵬の取組は相手を受け止めてから対応しています。これでいつも勝つんだから本当にすごい。

 それが今日、なんと把瑠都対稀勢の里の取り組みで把瑠都がいきなり変化して勝ち、もう一方の白鵬対日馬富士も日馬富士が変化をして勝ち、把瑠都が全勝で白鵬は二敗目を喫するなど優勝争いに水を差される結果となりました。今回引用した日刊スポーツの記事にはどちらも変化した力士の言い訳が見出しになっておりますが、「体が自然に動いた」とか言っていますがあれは誰がどう見たって明らかに確信犯で、初めから変化する気じゃないと絶対にできない動きです。把瑠都に至っては勝った後は意気揚々と引き上げてるし、朝青龍じゃなくったって怒るぞこんなことされたら。
 もうはっきり言っちゃいますが、そこまでしてお前ら勝ちたいのかと目を見て言いたいです。特に日馬富士に至ってはここ数年で変化の回数が明らかにほかの力士より多く、もう大関の地位を返上するべきじゃないかとすら思います。しかもなんでまた優勝争いが盛り上がっている最中にこんなことするのか……。

 ついでにgooブログにも、なんでスポーツのジャンルの中に「大相撲」がないのか文句を言いたいです。私は相撲は国技だなんて言うつもりはさらさらありませんが、野球やサッカーがあるんならこれだって入れろよと言いたいです。まぁさすがにWRCとか入ってたら逆に引くけど。
 それにしても、まさか中国でこんなに熱く相撲について書くことになるとは思わなかったな(∀`*ゞ)テヘッ

2012年1月18日水曜日

私の選挙制度改革案

小選挙区「0増5減」比例は「80減」 民主が方針(朝日新聞)

 やる気あんのかなと思っていたら意外と進んでいた選挙区改革案。上記リンク先に詳しいですがかねてから裁判所に一票の格差を違憲とされてきたこともあり自民、民主ともに選挙制度改革案を出してきたわけでしたが、今回民主党は自民党が提出してきた「小選挙区で5議席減らす」という内容に加え、従来からの「比例区で80議席減」を合わせて法案を用意しているようです。自民党の石原幹事長はなんかこの案に「議論もせずに出すなんて最悪だ!」とか言って批判しているわけですが、私としては今回民主党が出してきた案の方が踏み込んだ内容のように思え、石原幹事長に対しては無駄にやかましいなという印象しか覚えません。
 どちらにしろ現在の一票の格差は明らかに問題なので早めにこの問題が解決されることを祈っているのですが、それとともにこの際だから選挙制度を抜本的に改革したらどうかと以前から考えております。そこで今回はどのように改革すればいいのか、私個人の意見をいくつか紹介しようともいます。

 まず現在の選挙制度についてですが、よく「小選挙区制にしたことが自民党を弱くした」という意見がこのところ出ていて中選挙区制に戻すべきだという話をよく見ます。言わんとすることはなんとなくわかるし決して的外れな意見だとは思わないのですが、私は中選挙区制から小選挙区制に移行した事による影響は実際はそれほどではなく、むしろ現在の状態で中選挙区制に戻したらもっと自民党は弱くなると考えています。理由はと聞かれたら「私のゴーストが囁くのよ」というのが正直な回答ですが、いくつか理由付けするとまず小選挙区制の利点を生かして自民党は2005年の郵政選挙で大勝しており、ごく最近の選挙でも敗北こそしているものの小選挙区制だからなんとか持ちこたえているのではと思う節があるからです。
 そういう意味で小選挙区制というよりむしろ比例代表制の方が弊害が大きく、前回衆議院選挙でも町村議員を始め落選した大物が復活当選を数多く果たすなど、議員の新陳代謝を阻害させているように見えます。また比例制は目立ったもん勝ちということもあって当初は参議院限定ではありましたが今では衆議院でも元スポーツ選手や芸能人などいわゆるタレント候補が数多く立候補するようになり、その人らが実際に政治に対して強い志を持っているのならともかく、誰とは言いませんが傍目にも如何な人物が数多く当選していることを考えると真に廃止するべきはこちらの方でしょう。

 そんなわけで衆議院選挙について私は小選挙区でも中選挙区でも構わないからまずは比例制を完全廃止、もしくは復活当選を禁止し、その上でどちらかと言われるのなら小選挙区制の維持が望ましいと考えています。中選挙区制は中選挙区制でいいところもあるのでいろいろ悩むのですが、仮にこっちに移行すると我が心の故郷こと鳥取県はその人口の少なさから一県では選挙区にならない可能性もあってちょっとまずいかなぁとか思っている上、選挙区が広くなると候補者が選挙活動を行わなければならない範囲も広がるため必然的に有権者も投票対象を見極め辛くなるのではという懸念もあります。

 上記までの内容が衆議院選挙制度の改革案ですが参議院選挙についてはこの際、根底からひっくり返して参議院の役割も変えるべきだという意見をかねてから私は主張しています。参議院は理屈上では「良識の府」として年長者や知識のある議員によって構成される議場とされていますが現代に至っては衆議院選挙で落ちたから参議院に、またその逆で参議院選挙に落ちたから衆議院にと議員の鞍替えが一般化しており、そこにある差異は解散があるかないかしかないと言わざるを得ません。さらに言うとここ4年くらいの間で日本政治の停滞を招いているのは参議院と衆議院のねじれ現象で、なんで独自性も何もなく解散もない参議院の連中がここまでエラそうなんだよと見ていてあまり納得が行きません。

 これは何も私だけじゃなくいろんな人が参議院はもっと改革すべきだと言っていて、中には任期中の歳費(給料)は一切出さないことにして社会的に成功を納めて引退した人だけで構成してはどうかという面白い案を出している人もいます。この案でも悪くはないのですが、それだったら私はもうアメリカの上院と同じようにして、各都道府県ごとに2人ずつ選出してみてはどうかと考えています。
 現在の都道府県は47つなのでこの方法だと合計94人。数字は揃えた方がいいというのなら全国区というのを作ってここから6人を付け加えるのもありかもしれません。私の狙いとしては衆議院は「国の代表」の議場、参議院を「地方の代表」の議場とすることで専門とする役割をある程度分けることなのですが、ちょうど道州制や地方分権も盛り上がっていることですし、この手の議論を新たな選挙制度で構成する参議院に一括して任してしまうのも面白そうです。

 どちらにしろ今の選挙制度はやはり制度疲労が来ていると思います。私の性格もありますがちまちまとしたことをいちいち議論してないで、もっとドラスティックにスケールのでかい選挙改革を期待します。

2012年1月17日火曜日

ネット上のレビューについて

 リンクは貼りませんがこのところカカクコムで発覚したステルスマーケティングのニュースをよく見ます。ステルスマーケティングとは簡単に説明すると、「作為的に見せずに行うマーケティング」のことで、今回騒ぎになっている手法としては一般ユーザーからの投稿と見せかけて飲食店など特定の対象を持ち上げるレビューを載せるやり方が行われましたが、カカクコム本体がこの問題に積極的に取り組んだことによってこれによって報酬を得ている業者の存在が明らかとなりました。
 まず私自身のこれらネット上のレビューに対する姿勢を説明すると、飲食店などについてははっきり言って全く見ることがありません。もともと食に興味がないということもあり、宴会の幹事になっても近くで安くて電話番号知っているところしか予約をしません。そういう意味では今回のカカクコムの事件とは全く無縁なので当初はそれほど大した印象を覚えなかったのですが、仮にこれが別の対象であったらちょっと話が違います。

 ここだけの話ですが、実はアマゾンのゲームソフトに対するレビューは常日頃からよく見ています。アマゾンのレビューを見るきっかけとなったのは以前のブログでも散々悪口を書いたPS3の「ガンダム戦記」というゲームで、すごい期待してPS3本体と一緒に買ったのに、ふたを開けてみたらびっくりするくらいイライラさせられる内容で悔しいやら腹立つやら、たまたま家に誰もいなかったのをいいことに口汚い言葉で怒鳴りながら遊んでました。仮にお袋がいたら怒られて家追い出されていただろうに。
 そんなわけであまりにも憤懣やるかたないのでほかの連中はどう思ったのか見たくてアマゾンのレビューを開いたわけですが、まず開けてみてみて驚いたのは、自分が不満に思った点について漏れることなくほかの人も同じく指摘していたことでした。というかこれさえ見とけば買わずにすんだのにとも思いましたが、案外みんな同じことを考えるんだと変に感心し、これ以降は何かゲームを買う前にレビューでどう書かれているか必ずチェックするようにしています。クソゲーだと書かれていたのに買った「絶対説明都市3」はやはりクソゲーだったが。

 だからといってどうなのかちょっと話のつなげ方に悩みますが、やはりネット上の口コミというものは馬鹿にできないと思います。特に飲食店については自分が興味ないだけで、実際にはすごい影響力があるんじゃないかという気がします。実際にニュースで引用されていた飲食店関係者の声は切実ですし、ユーザー自身が書いたのならともかく、業者が意図的にある方向へ誘導する書き込みをするというのは個人的にやはり許せるものではありません。

 紙幅が余ったのでもう一件ネット上のレビューについて書かせてもらうと、自動車のレビューも一時期熱心に見ていた時期がありましたが、これはゲームとは逆に全くあてにならないように感じました。理由をいくつか述べると、まずみんな数百万もはたいて車を買うせいかどのレビューも基本的に誉めるような内容が多く、比較対象もそれ以前に載っていた車に限られます。だからといって車を何台も乗り換えている人のレビューだと今度は逆に専門的過ぎて、「高速でカーブを曲がる時にややアンダー気味」とか普段使う上では必要のないことばかり書かれていてあまり当てになりませんでした。ゲームや食べ物と違って車の場合はやはり玄人というか、専門雑誌のプロドライバーによるレビューがやっぱり一番参考になる気がします。
 なお私はそんなに運転はうまくないですが、一時期にレンタカーを短期間によく利用してコンパクトカーに限るなら主要車種はすべて運転したことがあります。ホンダのフィットはハンドルやアクセルの効きがいいことで親父なんかは気に入ってますが、自分はあまりスピード出すのは好きじゃないためじんわりとアクセルがかかるマツダのデミオのが好みです。ただ単純に自家用車として見るなら日産のキューブが頭抜けてて、車内の広さには特筆すべきものがありました。唯一の欠点は外形が平べったいせいか、高速になると虫がフロントガラスに当たってバンバン死ぬことだけど。

2012年1月15日日曜日

日本に影響を残した外国人~エドワード・モース

 自分は恐らくほかの歴史好きと共通するでしょうが、子供の頃に歴史漫画を読んだことから歴史に興味を持つように至りました。ちなみに好んで読んだのは編年体ではなく紀伝体というべきか特定の人物にスポットを当てた歴史漫画で、何故かそのころから戦国時代の登場人物を贔屓にして読んでいた気がします。ただ紀伝体の歴史漫画も読み終えるとやはりつまらないもので、仕方ないのでとようやく手に取ったのは確か小学館の「日本の歴史」シリーズだったと思いますが、その第1ページ目に登場したのが今日紹介するエドワード・モースです。

エドワード・S・モース(Wikipedia)

 エドワード・モースはアメリカの動物学者で、明治初期にお雇い外国人として来日を果たした人物です。来日理由は節足動物の標本を集めていたことからこの手の種類が多数生息するという日本に興味を持ったことからだそうですが、彼を現在の日本で有名足らしめたのはこの専門の動物学ではなく、日本考古学の創立者としてでした。
 モースは西南戦争の起きた1877年に来日し、明治政府から標本採集の許可を取るために横浜から新橋へ鉄道で移動中、日本初の考古学発掘の現場となる大森貝塚を見つけます。当時の日本人からすればこの貝塚の考古学的価値に気づく人間はいなかったようですが外国人には魅力的に映ったのか、モースのほかにもかのシーボルトの二男であるハインリッヒ・フォン・シーボルトも同時期に発見して発掘に強い情熱を持っていたと言われております。

 話はモースに戻りますが、元々モース自体が動物学以外にも考古学にも造詣が深かったこともあり、明治政府に対して正式にこの貝塚の発掘許可を申請しました。無事許可が下りるやモースは東大の学生を引き連れて発掘を行い、土器や人骨など様々な発見をして論文で発表し、重複した土器などを一時離日した際にアメリカへ持ち帰り紹介を行ったようです。その後1878年に再び来日すると今度は出土品を細かく整理した上であちこちで講演し、また論文発表や学会の創設などによってこの分野における開拓にいそしんだとされます。

 恐らく通常の日本史だと彼について紹介されるのはここまでで、後はせいぜい「日本で初めて進化論の講義を行った」と書かれる程度でしょう。私自身も彼の名前と功績については強く認めていたもののこれ以上の知識は持ち合わせていなかったのですが、最近になって調べてみると最初の離日の際に東大に対し、「哲学講師が必要ならフェノロサを呼べ」と、なんとあのアーネスト・フェノロサを日本に引っ張り込んだ張本人だったということを知っていろんな意味でしびれました。これはこの時期のお雇い外国人みんなに共通して言えることですが、みんなどこかしこで接点を持っていてそうした縁が数珠つなぎに繋がって来日してきています。

 フェノロサについてもこの連載でいつか取り上げる予定ですが、彼がいなかったら今の奈良の観光産業はまず成り立たないことを考えるとその影響度は半端じゃありません。もうこの時点で私にとってのモースの評価は格段に上がったのですが、その後に起きた関東大震災によって東大図書館が全部焼けたと知るや自分の蔵書1万2千冊をすべて東大に寄付するという遺言を残す(モースの死後、実際に寄付された)など、日本の学術分野における彼の功績は計り知れないものがあります。
 実はこの連載を始めるきっかけとなったのはこのモースにほかならず、明治のお雇い外国人はみんなどこかしかで接点を持ってその縁が伝手となって来日していることを意識した際、こうやってひとりひとり取り上げてみた方がいいのではと思ったからでした。その上で上記の関東大震災のエピソードも、既に知られている人物でもこうしたまだ知られていない面もあり、特に日本に尽くしてくれたエピソードというものは広く認知させるべきだと考えたのも突き動かす一つの理由となりました。最初の歴史漫画と言い、何かと自分のスタートに縁がある人だとつくづく感じます。

2012年1月14日土曜日

部下から評価する管理職

 戦争における優秀な指揮官を指す表現として、「弱卒を以って強兵となす」という言葉があります。これはそれほど訓練されてなかったり、身体的に劣っていたりする兵士でも戦闘を勝利に導くことのできる指揮官を指しており、私の中では補給もままならない中で占領地で食糧を強奪することもなくインパール作戦で善戦した帝国陸軍の宮崎繁三郎がこの評価に値すると思います。それにしてもさっきグーグルでセーフサーチ強で検索したら、上記リンク先(元自分のブログ)が出てこなかったのはなんでだろう……。
 話は戻りますが、逆に言うのなら強兵を率いているのであればよっぽど不利な状況でない限りは勝利するのが当たり前です。そういう意味では指揮官への評価というのは率いる兵や装備の質で決まるようなもので、強い軍隊を率いておきながら負けるというのは無能の証明以外の何物でもありません。話はまた二次大戦中に戻りますが米軍側は日本軍に対して、「兵員は優秀であるが指揮官が無能故に戦いやすい」と分析しており、私も当時の日本軍の作戦を見るにつけ一部には粘って粘って相手を苦しめた栗林忠道などもおりますが、基本的にはアメリカのこの分析に同感です。

 こうした考えは何も軍隊に限らず、私は現代社会の一般企業における管理職についても同じことが言えると考えています。たとえば二つの部署で同じ成果を上げているとしてもそれぞれの管理職が率いる一般社員の質によってはその評価は全然変わってきて、評価変数としては率いる部下の人数、人種、技能、資格、経験などなどたくさんありますが、真に評価する上ではこうした部分に光を当てる必要があるでしょう。世間一般ではよく売上げや収益といった表面的な成果ばかりが評価対象となりますが、こんなのは二度繰り返しますがあくまで表面的な数字を表しているにすぎず、会社経営を考える上では重要ではありますが管理職の評価項目としては実に薄っぺらいものだと常々感じます。重要なのは、どのような戦力でどれほどの成果を挙げたのかです。

 それこそ去年のプロ野球に例えると、阪神タイガースの真弓監督は成績不振からとうとう契約期間を残しながら退任を余儀なくされましたが、去年の阪神は日本人年棒だけ取ってみれば12球団トップで、また8月までは球界一のストッパーと信じている藤川球児選手を全く使おうとしながら2年連続で9月に入るやありえないくらい連投させるという妙な采配を見るにつけ、やはりあの解任は仕方がなかったかと思います。逆にこっちはパリーグですがオリックスの岡田監督なんか補強らしい補強はほとんどない中、というか元々の選手層がそれほど厚くない中でクライマックスシリーズの出場争いに最後まで絡むなど非常に善戦しており、阪神時代からそうでしたが現役監督の中では一目置かされる実力です。

 ちょっと過分に趣味の話が入りましたが今日何を一番言いたのかというと、「お前らが無能だから成績が上がらないんだ」と部下に向かって言う人は「俺は無能だヽ(`Д´#)ノ 」と自分で言っているだけだということです。部下が優秀でないならそんな部下をどのように使っていくのか、どうやって能力を引き上げていくのかを考えるのが管理職の仕事で、先ほどのセリフはそうした責任をうっちゃって自らの無能ぶりを明らかにしているだけです。まぁさすがに暴力事件とか交通事故などの問題をしょっちゅう引き起こす人間が部下だったらいろいろ同情するけど。
 逆に経験年数や実績をたくさん積んでいる部下を付けてもらいながら、標準の成果しか上げられない管理職というのもまた問題で、大きな成果を上げたとしても人員配置によっては取り立てて大きく評価するべきではないかと思います。そういう意味だと去年のソフトバンクホークスの秋山監督への評価はあの戦力だと難しくなる……。

 ちなみに上記の「お前らが無能~」のセリフはさすがに私は言われたことはなく、まだこれまでマシな上司に巡り合っているような気がします。ただ今までついた上司はみんな揃って私に対し、「お前ほど言うこと聞かない奴は初めてだ」と、口裏合わせているんじゃないかと言いたくなるくらいに同じことを言ってきます。以前はそれほど気にしませんでしたが最近になってようやく私も自覚症状が出てきたというか、確かに言うこと聞いてるフリしてスタンドプレーが多く、上司からすると扱いづらいことこの上ない部下だろうなという気がしてきました。

2012年1月13日金曜日

外国との協力の歴史を学ぶ意義

 当初は「日本に影響を与えた外国人」として日清戦争前の風刺画などで有名なジョルジュ・ビゴーを書く予定だったのですが、なんかどうにもやる気が起きないというか文章が浮かばなかったので流すことにしました。実はビゴーについては流すのはこれが二回目で、改めて考えてみると日本に影響というよりもただ有名な外国人なだけなのかもしれないのでもう取り上げない方がいいかもしれません。

 それはさておきこの「日本に影響を与えた外国人」の連載ですが、個人的にはなかなか面白いところに着目しているのではないかと自負しております。というのも歴史というのはどの国においても自国民を中心に語って外国人というのはどちらかというと文化人枠で語ることが多く、どうしても主役としては取り扱われないところがあります。ただ国政において何が最も大事かというと経済と外交(国防や戦争を含む)の二本柱で、経済だけならともかく外交においては相手がいて成り立つ商売です。そういう意味ではもっと外国人に着目して相手側からの視点で見た歴史というのはどんなものなのかというものを追求するのもありなんじゃないかと思います。

 またこれは私個人の主観でありますが、やっぱり外国人の歴史を知るにつけその外人の出身国にも興味が湧いてきます。私自身も三国志で諸葛亮や曹操に興味を持ったことからこうして中国語で飯食う身分になってしまいましたが、仮に幼少のころに興味を持った対象がシモ・ヘイへだったら今頃フィンランドにいたかもしれません。まぁそんな奴はそうそういないだろうけど。
 さらに言えばこうした人物だけでなく、昔にも取り上げましたがイラン・イラク戦争や湾岸戦争時のトルコ航空の日本人への配慮なども知るにつけ、相手国に対して単純に感謝の気持ちも芽生えますしやはり旅行とかにも行ってみたいと考えるきっかけになります。このトルコ航空の事例などは普通に歴史の授業を受けていたらまず知ることのないエピソードでありますが、私は両国の友好感情を高めるためにも、もっとこういうことを日本とトルコの双方で教え合うほうがいいと思います。といっても、トルコの方ではしっかりエルトゥールル号のことをきちんと教えてくれているようなのですが……。

 こうしたトルコ以外にも、杉原千畝とユダヤ人のエピソードとか去年の地震の際の台湾の支援など、年号とかよりも私はこうした両国の協力というエピソードこそ後年に伝えるために教えていくべきなんじゃないかと常々思います。逆に、これははっきりと批判させてもらいますが中国や韓国の歴史教育で日本の大して過剰な憎悪を持たせるような教え方は、日本人の自分がイライラするだけでなく将来的にその憎悪が政府自体に向かってくる可能性もあるのでするべきではないでしょう。何も全く教えるなとは言いませんし韓国については併合、中国に対しては侵略したのは間違いない事実なんだから言い訳するつもりはありませんが、一体何世代に渡って憎悪を植え付け、お互いに分かり合えるかもしれない可能性を摘み取る気なんだと声を大にして言いたいです。まぁ日本も政府主導でロシアに対しては北方領土教育ってのがありますけど……。

 私は熱烈な主義者たちが主張するほど、大半の国民は歴史教育で受ける影響というものはそれほど大きくはないと考えています。むしろ発信力の強い、もとい声のでかい連中が互いを批判するために歴史という科目を出汁に使っている可能性の方が高いと見ています。ただ相手国に対してポジティブな興味を持つ一つのきっかけになるというか、そういうような教育だったらもっと価値が出てくるのではというのが今日の意見です。

2012年1月11日水曜日

調子の良さと記憶力

 昨夜は友人と3カ月ぶりに再会したのですが、食べ飲み放題の焼肉屋だったということもあって無意味にワインなんか頼んで「ルネッサーンス!」を繰り返したせいかなんか今日はやけに右側頭部が痛かったです。それにしてももうずいぶんと日本のテレビは見ていないが、髭男爵はまだ頑張っているのだろうか。

 さてこのところブログの文章表現がやけに調子良いのが反映されてか、いろんな方からコメントをたくさん受けて非常にやる気が出ております。なんで急に文章表現が良くなったのかいろいろ意味が分からないのですがいくつか考えられる理由としては、やはり香港から上海に戻って、一応住み慣れた部屋に戻ってきて落ち着きを取り戻しているのが大きいのかもしれません。海外から海外に戻って落ち着くというのも何ですが。
 それともう一つ、この前の話じゃないですけど自分がややハングリーさを取り戻してきたというか、現状にまたぞろいろいろ不満を持ち始めているのもあるかもしれません。それは一体どんな不満だと普通は続くのですが会社の陰口をここでいちいち言ったってしょうがないし、差し当たって無難なところだと旧正月も近くて日本人みんなそわそわしているのを見ると、長らく日本に帰っていないこともあっていろいろ思うところがあるといったところでしょうか。私の最長海外滞在期間は留学中の1年間ですが、去年7月から一度も帰ってないから下手するとこのまま記録更新になるかもしれません。つうか代休くらい好きに取らせろよ……。

 そんなこんだで不満を持ちつつも好調を維持しているのですが、それは何も文章表現にとどまらずある意味私の代名詞に近い記憶力もこのところ冴え渡っております。昨日もその友人といった焼肉屋で、その店は去年7月にも一緒に訪れているのですがお互いにやけにかわいい女性店員がいることは覚えており、まだ勤務を続けているのを見て懐かしいなぁとかぼやいていたのですが、

私「そういえば前来た時にあの子の日本語が上手だと君言ってたよね」
友人「えっ、そんなこと言ってたっけ?」
私「言ってたじゃん。わざわざ呼び止めてどこで習ったんだって聞いて、中国で独学したと聞いてなんか驚いてたでしょ」
友人「えー、そうだったけ?」
私「でもってやけにかわいいから、焼肉屋の勤務を十時くらいに終えてこのビルの上の階にあるスナックでそのまま勤務するんじゃないのとか、そういうことも話してたでしょ」

 という会話をしたのですが、どうもその友人はこの内容は忘れていたようです。
 別にこれに限らず相手がすっかり忘れていた会話の内容をやけに細かく長年覚え続けていることは私にとって珍しくないですが、なんか年末あたりからこの感覚がやけに鋭くなっており、敢えて口に出したりしませんが相手の顔を見るだけで「数ヶ月前はこういう会話したなぁ」とか頭の中でいろいろ巡ってきます。今まであまり意識はしてきませんでしたが、調子によってこの辺の記憶も左右されることが今回でよくわかりました。

映像記憶(Wikipedia)

 さすがに歴代の偉人たちと比べると程度の差こそあれ、自分ももしかしたらこれんじゃないかと過去に何度か疑っています。この「映像記憶」というのは自分は「直観像記憶」という言葉でこれまで呼んできてますが、要するに目で見た光景をチラ見で永久記憶にしてしまう能力のことを指しており、最近よく引用する南方熊楠なんかは他人の家で何十冊も本を読んで家に帰り、それらの本を一言一句丸写しにしまったことがあるということからこの能力の持ち主だと言われています。
 さすがにこの熊楠みたいな真似しろったって私にできるわけありませんが、佐藤優氏も「その時の光景映像と一緒に会話内容などを覚える」と言っており、私自身もやはり情景とともに会話の内容を思い出すことが多いです。

 ただこの記憶ですが、自分の場合はてんかん症を患っているのが地味に影響しているんじゃないかとも考えています。一応、中学生頃から意識的に記憶力を高めるように努力はしていますが、脳に関わるものだとどうもこっちの線を疑ってしまいます。何気に調子のいい時ほど急に発作が来ることもあるので、ここ一年は全く発作が来ていませんがちょっと体に注意をして過ごそうと思います。

2012年1月9日月曜日

日本は不況なのか

 なんかこのところ短い記事が続いているから今日あたりは長い記事を書こうとビゴーについて調べたりしてましたが、どうもそんなノリになりきらないので今日もまた短めになりそうです。ただ文章量は短い一方で、表現なんかはやけに調子がいいのが気になるんだけど。

 それでは本題に入りますが、先月の香港滞在中にやってきた友人とあれこれ話した中に、香港の景気の話がありました。現在、というより去年の香港の景気は本人らも認めるくらいにバブリーともいえる好景気で、日本で言えば丸の内に当たるセントラルの地価が一時は歴代最高にまで高騰した1997年の香港返還時を上回ったくらいでした。
 そうした私の話を聞いて友人も、街中を観察するにつけ「確かにバブルだよなぁ」とため息をよく漏らしていたのですが、そんな友人に対して私は、「そんな香港にいるからこそよく思うが、今の日本はみんな不況不況というけど俺には好景気を謳歌しているようにしか見えない」と話しました。

 普通に考えれば誰だっておかしいと思うし私自身もなんか間違っている気がしないでもないですが、それでも私は奇をてらってではなく真面目に日本の景気はいい状態だと考えています。国内だけ見ていると景気の悪いニュースしかありませんが、国際的に比較するなら日本の経済データは間違いなくほとんどの国を上回っており、こういってはなんですが景気が悪いと言うことがなにかおこがましいような気すらします。
 具体的なデータを片っ端からあげていくと、若年失業率は欧州先進国でも20%以上いくのが当たり前だし、物価と比較したパートタイムの給与も十分生活していけるどころか貯蓄すら貯められる、失業しても各種手当を受けられる、そしてなんといってもこれだけの円高にもかかわらず企業がなかなか潰れない点も見逃せません。

 さらに言えば、恐らく日本ではそれほど大きく報じられていないかと思いますが中国や香港では毎日と言っていいほど欧州の債務危機問題が経済紙に大きく載ります。それだけ危機感も強ければこの問題が悪化することで被る影響も多いからでしょうが、日本はいくらなんでもと思うくらいに報道に温度差が感じられます。この理屈は単純で、別に欧州の景気が悪くなったところで日本は中国をはじめとしたほかの国ほど影響を受けないからで、現実に今私が欧州での取引が多い企業を挙げるとすれば自動車のマツダくらいしか浮かびません。逆を言えば今後のマツダの経営が非常に気になるんだけど。
 さらにさらに言うと、世界的に見ても銀行を始めとした日本の金融系企業は現金もたらふく持っており、あっちこっちで悲鳴が上がる中でかなり余裕綽々な状態に見えます。中国の銀行も同様に大量の現金を持っていますが、今の日本は円高ということもあって今年は欧州系企業の大型買収が一気に進むんじゃないかと内心見ています。去年武田薬品がどっかの製薬企業を買収してその買収額が大きくニュースになりましたが、今年に入って1ユーロ=100円を切ったけど支払いはもう済んじゃったのだろうか。

 こういう風に思うのも海外にいるからかも知れませんが、厳しいことを言えば今の日本は余裕があるにもかかわらず苦しい苦しいと言って、苦しい振りする自分に酔っているようにしか見えません。ハングリーさを持てとは言いませんが、必要以上に自分を卑下するのは現状認識を危うくさせるだけだというのが今日の私の意見です。

2012年1月8日日曜日

与謝野晶子の教科書の扱いについて

与謝野晶子(Wikipedia)

 与謝野晶子とくれば明治から昭和にかけて活躍した女流歌人として中学生以上の日本人なら誰もが知っている人物ですが、実はここだけの話、私は教科書における彼女の扱いにかねてから不満を持っております。別に与謝野晶子に対して何か恨みがあるわけでもないですし彼女の業績、そして和歌は素人ながら高く評価しているのですが、日本の教科書では「日露戦争に対して和歌で反戦を主張した女性」として紹介されるのが我慢ならないのです。

 件の和歌というのは言うまでもないでしょうがいわゆる「君死にたまふことなかれ」で戦地に赴く弟の身を案じる歌だったのですが、確かにこの和歌が発表された当時は国よりも家族のことが大事なのかといろいろ批判を受け反戦思想家と思われたようですが、恐らくこの時の与謝野晶子の心境というのは単純に、戦争どうこうは無視してその歌の通りに弟のことだけを心配していただけかと言われております。というのも後年、与謝野晶子は第一次大戦、二次大戦の頃には「ガンバレ日本!」ってな感じの、日本の戦争勝利を祈るようなかなり好戦的な和歌を詠んでいるからで、本人も言っていますが根っからの反戦主義者でなかったというのは間違いないと言っていいでしょう。

 にも関わらずここまで与謝野晶子が「反戦主義者」として現代日本で祭り上げられているのは、はっきり言いますが橋本大阪府知事が現在目の敵にしている日教組をはじめとした一部の集団による事実歪曲があったからでしょう。こう考える根拠として、日露戦争時より明らかに言論弾圧が激しかったにもかかわらずシャレや冗談抜きで徹頭徹尾で反戦を主張し政府を批判し続けた、石橋湛山については「反戦主義者」として教科書では教えられていないからです。この理由はあくまで私の推測ですが、石橋湛山は戦後に自由民主党に在籍したからだと思います。

 一応、日露戦争時の反戦主義者としては与謝野晶子のほかにも内村鑑三(この人は根っからの反戦主義者、ってかお上嫌いだった人)もよく一緒に教えられていますが、私は与謝野晶子を反戦主義者だったと教えることは彼女の実情から認識を遠ざけてしまうと考えており、「まぁこんな歌も歌ってたよ」と教えるくらいの方がいいと思っています。

2012年1月7日土曜日

茶のしずく石鹸問題に対する消費者庁の不作為

消費者庁「茶のしずく」報告見過ごす 注意喚起に遅れ(朝日新聞)

 当初は見送ろうと思っていた事件ですが、やはり記録のために一筆書いておくことにします。
 発端となる事件は福岡県のせっけん製造販売会社「悠香」が販売する「茶のしずく石鹸」の利用者の間で、小麦アレルギーが発症したことでした。既に報道で知っている方も多いでしょうが、それまで何の不自由なく生活していた利用者たちはアレルギーの発症によって小麦を使った食品が一切食べられなくなったそうで、深い同情を覚えるとともに事件を引き起こした連中に対しては強い憤りを覚えます。

 ただこの事件で許せないのは販売する前にアレルギーの可能性を考えて検査をしなかった悠香はもとより、事件報告を受けていたにもかかわらず放置し、発表を遅らせたことで事件を拡大させた消費者庁の存在です。上記の朝日のリンク先によると、消費者庁は事件報告を受けてから注意喚起するまで七ヶ月も要しており、もし即座に発表してさえいれば被害の拡大が一程度防げたでしょう。今日の報道によると少なくとも569人が発症しており、潜在的な被害者は4桁にも上ると推定されております。

 こんにゃくゼリーに対する粘質的な態度をはじめ、かねてから私は消費者庁には強い疑念を持っておりました。福田康夫元首相は辞任時の記者会見にて在任時の成果としてこの消費者庁の創設を挙げておりましたが、仮に消費者庁が存在などせず従来の部署がこの茶のしずく問題に当たっていれば被害の拡大を防げたかもしれないと思うと、随分と余計なものを作ってくれたものだと思わざるを得ません。あれだけこんにゃくゼリーに構っている暇があったのに、どうしてこの問題には常識的な対応が取れなかったのか疑問極まります。ただの張りぼてなど必要なはずはなく、早めに消費者庁は潰れてくれた方が世のためだと私は考えます。

艾未未氏への報道の違い



 上の写真に写っている建物は皆さんお覚えでしょうか。これは北京国家体育場と呼ばれる体育館で、2008年の北京五輪の際に一つのシンボルとして建てられたもので、通称「鳥の巣」と呼ばれております。自分の目から見てもこの建物は非常に前衛的かつ目を引く外観で、こう言うとひどいですが中国でこんないいセンスした人なんていないだろうし、これを設計したのはきっと海外の有名デザイナーかなんかだろうと本気で思っていました。

艾未未(Wikipedia)

 ところがどっこい「鳥の巣」を設計したのは紛れもない中国人で、上記リンク先の艾未未(アイ・ウェイウェイ)氏でした。ちょっと中国をなめすぎだと、この件については至極反省しております。

 ここでちょっと紹介に入りますがこの艾未未氏は前衛芸術家としてかねてから中国はおろか世界中で活躍しており、そうした実績からこの「鳥の巣」の設計デザインに加わったとされます。ただそうした国家的プロジェクトに絡む一方で人権活動家としても有名で、中国政府に対しても本当に容赦ない批判を繰り返しており、北京オリンピックについても途中からは開催に反対して開会式にはとうとう出席しませんでした。
 彼の名がある意味日本で大きく報じられるようになったきっかけは2008年の四川大地震で、この際に被害状況を隠そうとする政府をブログ上で批判して正確な実態調査を要求しております。ただ中国でこうした行動は出る杭が打たれるというかこれ以後は当局から物凄いマークがかかるようになり、去年四月には香港に行こうと空港に来たら突然逮捕連行されてその後2ヶ月間も音信不通となりました。最終的にはイギリスをはじめとした海外から散々批判を食らった当局が、「疑いは晴れた( ゚Д゚)イッテヨスィ」と言って釈放しましたが、まさか真に受ける人はいないでしょう。

ヌード写真で支援拡大、艾氏のわいせつ容疑に抗議(共同通信)

 そんな感じでいろいろと嫌がらせを受けている艾未未氏ですが、ちょっといいリンク先が見つからなかったので変な見出しの記事となりましたが、去年十月にも当局から突然奥さんの会社が数年前に脱税していたという指摘を受け、確か数週間以内に莫大な追徴課税を支払うように、もし払えなければ収監すると言われました。
 もうこの時点でいろいろとあれなのですがやられた方の艾未未氏もやはり只者ではなく、「ネットのみんな、オラに現金を分けてくれヽ(゚д゚)ノ (後で必ず返すから)」と、なんとネット上で幅広く募金を呼びかけたのです。その辺について上記のリンク先の記事も書いているのですが、なんとこの呼びかけに約3万人が応じ、総額で1億円以上もの募金が集まったそうで余計に当局を警戒させる結果となったわけです。

 自分はこの辺の過程を香港にいた頃に新聞でリアルタイムで読んでいたのですが、敢えて当時は記事にせず、上海に戻ってから書こうと考えていました。何故かというと勘のいい人ならわかるでしょうが、この事件を中国現地では報じていたのかが気になったからです。多分どっかが報じてはいたと思いますが、上海の同僚に聞いたら「そんなことあったなんて知らなかった」と述べており、やはり報道規制があったような気がします。
 逆に香港はというとこのニュースは比較的扱いが大きく、やはり本土の人権関係について熱を持って報道しているような気概が感じられます。また取材についてもなんていうかイギリスのパパラッチ顔負けなところも多く、鄧小平の死を最初に報じた(病院のドアの隙間からベッドを激写)悪名高い蘋果日報(アップルデイリー)という日刊紙は、「読者が求めているのは裸体と死体だ!」をスローガンに毎日呆れるような取材記事を載せていました。ただ交通事故死者の死体をモザイクなしで載せるのは勘弁してほしいけど。

2012年1月6日金曜日

香港で飛び交う言語

 中国語を使って仕事しているのだし、たまには語学の話をします。
 香港で使われる言語と聞いたら、皆さんは一体何を想像されるでしょうか。答えを言うと香港では大まかに分けて広東語、中国語の標準語に当たる北京語、そして英語が使われており、官公庁サイトなどでは各言語別にページが設けられるなどマルチ言語な地域です。このうち最も使われるのは広東語で、ほかの二つについて言えば香港人からすればやはり外国語として捉えられているような気がします。

 ただ外国語と言っても、英語についてはやはり通じやすいです。上海や北京といった中国本土の年では本当に簡単な英語すら通じないくらいで、ここだけの話、よく英会話教室などが「日本人はアジアで一番英語が下手だ」と煽ってきますがこれは絶対嘘で、中国人の方が明らかに英語のレベルは低いです。しかし香港に限って言えば元々イギリスの植民地だったこともあって一般市民に至るまで英語のレベルは非常に高く、日常会話程度だったら難なくこなす人間が多いです。けど中にはあまり上手じゃない人もいて、夜中のマクドナルドでオーダーし辛かったりして結構困ったりするんだけど。

 もう一つの北京語については、中国返還前と比べて大分普及したとは言うものの私の実感では通じる人、通じない人で半々くらいな感じです。文語は全く一緒なので仕事で翻訳する際は繁体字に慣れればどうというわけではありませんが、日常生活だと意外と北京語が通じなかったりするのでどちらかと言えば英語を用いることのが私の場合多かった気がします。
 ちなみにこれは留学中も幾度か経験しましたが、香港のような場所だと使用言語を英語か北京語かで使い分ける必要があるため、頭の中で非常に混乱します。なんていうか頭の中で英語と北京語の単語が飛び交い、変な時なんか「I prefer ferry to 地鉄」など、ごっちゃになって出てくることだってありました。

 そういう意味で上海に戻った今、基本的に使う言語は北京語オンリーなためにこうした妙な混乱は収まり、なんていうか非常に会話がしやすくなりました。19ヶ国語が出来た南方熊楠なんてどういう頭の構造してたんだろうなぁ。

論理的に正しいもの、破綻したもの

 基本的に議論というものは「自分の意見を通す」ということではなく、「論理的に最も正しい意見をみんなで共有する」ということが目的だと私は考えております。そのため議論中に相手の意見、もしくはその場で出てきた案が最も論理的な正当性を持っていれば、当初持っていた自分の意見を捨て去る必要もあります。中にはこの原則を持たず、やはり自分の意見を通そうと場合によっては怒鳴ったりするなど脅しを手段とする人もいますが、はっきり言ってそういう方々とは議論をする価値もないと言っていいでしょう。

 ただここで勘違いしてもらいたくないのは、論理的に正しいことが必ずしも現実に適用する際に上手く作用するというわけではないということです。一例をあげるとマルクスの考えた社会主義は論理的には確かに通らないこともないのですが(人間の意欲は完全に無視しているけど)、実際にその通りに作り上げたソ連は社会的にも閉鎖した国となり崩壊しました。私の友人なんか、「あれは人類史上、最も壮大な社会実験」と言い切ってますが。
 論理的に正しいのにうまくいかない理由というのは私は単純に、人間の知恵には限界があるせいだと思います。それこそ先ほどのソ連の例だと人間の勤労意欲や欲望を無視していることもさることながら、共産党の一党独裁政権となることから密告社会になってしまったという可能性が見落とされておりました。無論その可能性に気づいていたところでどうにかなるわけじゃありませんが、概してこういう失敗パターンは「想定外」の事態によって起こり得ます。

 そういう意味では、実際に成功を収めたプロジェクトの多くはそういった想定外の事態に対する対応、それこそ石橋を叩いて渡るような慎重さで準備がなされているように思います。もしくは想定外の事態に立ち会った際、必死でリカバリーを行ったアポロ13や日本の探査機「はやぶさ」といった例でも最終的に成功へ至っております。
 自分もそうした成功するプロジェクトにあやかろうと何か計画を立てる際は比較的に余裕を持たせるというか、細かい内容までは敢えて決めず、応変に対応できるようにして臨むことが多いです。ただあまりにも細かいことを決めず大雑把すぎて失敗することも多いのですが。

 話を戻しますが、やはり基本的には論理的に正しいことは現実面でも重視するべきです。たまに頭の中だけで考えた通りに行くはずがないと頭から論理を否定する意見も見受けられますが、やはりこれは問題のある意見だと思います。というのも今日一番に言いたいことをここで書きますが、論理的に正しいことが必ずしも正しいというわけではないものの、論理的に破綻したものはまず以って正しくはないと言えると考えるからです。論理的に破綻しながら実行されてやっぱり失敗した例は本当に数限りなくありますが、昔で言えばシミュレーションで必ず負けると出ていながらも「勝負はやってみなきゃわからない」で開戦した太平洋戦争、最近の例だと「津波は起こらない」と可能性を捨てきった福島原発。

 この頃の政治を見ていて、どうして論理破綻していて明らかに取り合う必要もない案件についてもぐだぐだ言い合いを続けるのかとよく思います。その筆頭は八ッ場ダムの問題で、過去数十年にもわたって工事に移れなかったというだけでもその建設価値が疑わしいのに、建設の根拠とされた国土交通省作成のデータが実は都合のいいように改ざんされていたにもかかわらず、どうしてまた建設へと舵を切るのか理解出来ません。論理がすべてではありませんが、ここまで無視するのは冒涜もいいところだと感じます。

2012年1月3日火曜日

「中国人男性との結婚が日本人女性でブーム」という誤報について

 明日から日系企業が仕事始めになるので自分らメディア関係、特に編集職は今日から仕事でしたが、新華社のサイトを見ていたら気になる見出しの記事が見つかりました。どうでもいいですが、なんかOperaの最新版で新華社サイトを開いたら延々とリロードしてえらいことになるのだが……。

日本女性流行“吃中国餐,嫁中国男”(国際在線)

 リンク先の記事は中国語ですが、見出しを邦訳すると「中華料理が食べたいなら中国の男に嫁げ、日本人女性の間で流行」と書いており、記事の中身も最近の情けない日本の男と比べて中国の男は頼もしくて優しい、そんな中国人男性と結婚する日本人女性が増えているという内容なのですが「どこが?(ヾノ・ω・`)ナイナイ」と思わず口に出しそうになりました。
 それで記事に書かれている「中国信息研究機構代表の武石健」というのがどんな奴か調べてみようと思って検索してみたところ、なんと全く同じ内容が2009年の12月にも出ていたことがわかり、レコードチャイナも取り上げて全文をきちんと訳していました。

<レコチャ広場>日本の男は無能!?「中国の男」との結婚が日本人女性にブーム(1)(レコードチャイナ)

 元記事の時点でいろいろ突っ込みどころが満載なのですが、2年前に全く同じ内容の記事が出ているあたりここで書かれている内容はまずもって嘘も嘘、誤報と言って間違いないでしょう。第一、日本人女性と中国人男性の結婚が増えていることが現象として起きているのであれば自分の耳にも入ってくるでしょうに。

 ちなみに私の知り合いには中国人男性と結婚した日本人女性、中国人女性と結婚した日本人男性がそれぞれおりますが、二人とも婚姻証明を出す際に窓口の人から、「あら、あなたたちは外国人カップルなのにお互いに年が近いのね」と、全く同じ言葉を言われたそうです。というのも中国で外国人カップルの結婚というと大抵が「愛人」との結婚だからだそうで、最近はまだ普通の恋愛結婚も増えているようですがどうも窓口の人からはそう見られているようです。

 あとこれは香港人女性と結婚した私の中国語の恩師が言っていた言葉ですが、「愛は国境を越えられるとか言う奴がいるが絶対に越えられない文化の壁というものは必ず存在する。如何にお互いが妥協するかだ」とやけに力説していましたが、これを以前の会社の上司や先輩に話したところ、「別に外国人じゃなくとも普通夫婦は妥協してなんぼだよ(´ω`)」とみんなして言っていました。

2012年1月2日月曜日

中国人でも鬱になる!?

 我ながらまた挑戦的なタイトルになりますが、これもよそではなかなか聞けない話なのでちょっと頑張って書いちゃいます。
 これは取材先から聞いた話なのですが、こちらではまだ日本ほど一般名詞化していないものの中国人でも鬱になる人は年々増えており、しかもその割合は日本と比べても決して大きく劣るほどではないとのことで、今後大きな社会問題となる可能性すらはらんでいるそうです。なんかこう書くと中国人が鬱になるということ自体が意外な感じで中国人からも、「俺たちをなんだと思っているんだ(#゚Д゚) プンスコ!」と言われそうですが私を含め多くの日本人からすると、中国人は日本人と比べていい意味で悩みが少なそうで鬱とか精神病とは程遠い存在だと考える人が多いと思えます。それだけに中国人を現地工場で大量に雇用する日系企業からすると従業員のメンタル面でのケアが遅れがちになり、最悪自己都合退職を招いてしまうケースもあります。

 中国人は悩みが少ない、こんな認識が日本人の間で生まれる背景にはどうも価値観というか文化の違いが大きいようです。私がその取材者から聞いた話では、日本人というのは会社など職場が原因というかそこでストレスを抱えやすい傾向がある一方で、中国人は家族や友人など身内との関係でストレスを抱えやすいとのことで、たとえが恋人に振られたりする場合は日本人でもそこそこストレスを抱え込みますが、中国人の場合は出社すらできなくなるほどのストレスを受けることもあり、このほか既婚者が伴侶を病気などで失った場合は致命的といっていいほどの大きなストレスを持つそうです。なんかこう書くと日本人が如何にも薄情な感じにも見えるな。

 こうしたストレス原因のほかにも、ストレスへの対処というか反応も異なるそうです。これもたとえを用いると、仕事でなにがしかの失敗をした場合に日本人は、「うわやっちゃったー。どうしよー(;><)」ってな感じで深刻に思うのに対して中国人は割かし、「あ、ミスった。まいっか(∀`*ゞ)テヘッ」ってな具合で、多少はストレスを受けますが日本人ほどはあまり深刻に考えず、すぐ次の行動に移れる傾向があるそうです。そのかわりこういったミスや問題への対処が日本人と比べて遅れる、というか極端な場合は放置することもあるので問題を長引かせてしまうこともあるらしいのですが、まぁこの場合だと日本人と中国人のどっちが優れているかは一概に言い切れないですが。

 こうしたストレスへの反応傾向が日本人と比べて明確なタイプの違いがあるために日本人からしたら中国人はややもすると職場では無責任で、鬱になるとは思えないと誤解されがちなのですが、逆に言えば中国人からすれば日本人は職場で深刻に物事を考え過ぎてちょっとのことでもビクビクし過ぎる上、家庭を顧みないとか思われてるかもしれません。私としてはこの点では断然中国人の方を持つというか、本当に些細なミスとかで全然関係ない、ともすれば人格否定のような発言を行う日系企業の体質は明らかに問題があるとかねてから感じます。下手をすれば、ミスに対するフォローよりその当事者へのあげつらいを優先するところすらあるし。

 最後にあまり関係ない話かもしれんが、夫婦別姓に対して名前は忘れましたが誰か国会議員が「そんなものを導入したら日本人の家族の紐帯が切れる」とか抜かしていましたが、また随分と官僚的な思想だなと聞いた当時に思いました。というのも中国では昔から夫婦別姓にもかかわらず明らかに日本人よりも家族間の仲がいいです。制度によって価値観が動くことはありますが、それでも基本的には価値観に対して制度は動くものです。狭い視野の中で動くくらいならその国会議員も世界各地を渡り歩いて勉強してみたらどうかと提案してあげたいものです。

中国の道徳観について

 潮風大使さんから質問を受けたので、今日は中国の道徳観について解説します。どうでもいいですが今日はやることもなかったので一日中ゲームをして過ごしたところ、今なんかやけに眠いです。それにしてもディリータは嫌な奴だ。

 本題に入りますが中国では昨年、路上で寝そべっていた少女が二度も車にひかれたにもかかわらず誰も助けずに放置されるという映像がインターネットに流れ、日本でも大きく取り上げられたかと思います。この事件は中国本土でも大きく取り上げられ、「生活は豊かになっていく一方、道徳観が薄れてきた」と主張する人間が後を絶たず、ちょっとした議論のトピックスになりました。またコメント欄で潮風大使さんも引き合いに出していますが、これ以外にもいろいろ信じられないような不道徳な映像が流れることもそれほど珍しくありません。
 ただこうした事件があることを踏まえた上で言わせてもらえば、私は中国の道徳観が極端に日本に劣っているとは思っていません。我ながら思い切ったことを言うもんだと思いますが、決して根拠のないことを言っているつもりはありません。

 まず中国の道徳観が落ちているかどうかという議論については、間違いなく落ちていると言ってもいいでしょう。これは私の留学中にお世話になった中国人教師から聞いた話ですが、やはり経済成長とともに中国人の他人を労わる気持ちは落ちているとはっきりと述べ、一例としてその先生が大学進学に当たって列車に乗って北京に始めてきた際は若い女の子が一人で乗り込んできたこともあり、周りの人間が荷物を荷棚に載せてくれたりあれこれ声をかけてくれたりしてもらったそうなのですが、現在だとこのような光景はそうそうお目にはかかれないと言っていました。
 またこうした個人的な話だけでなく、教育関連でもよくこの手の話題が挙がってきます。自分が見た本ではこうした道徳観の低下に歯止めをかけるために儒学こと論語の音読を義務教育に復活させるべきではないかという意見が提唱され、新聞とかでもたまに載せられたりします。こういうとなんですが、なんていうかこういう議論は懐かしい匂いがするというかなんというか。

 以上のようなことから、どうも中国人自身も世の中の道徳観がどうも低下してきているということは自覚しているようです。ただ道を譲ったりしないなど一般マナーについては明らかに悪いけど、普段の生活上で観察している限りだと中国の道徳観は極端に退廃はしていない、日本と比べてもそこまで悪くはないという印象を覚えます。
 具体的な例を挙げると、これなんか中国に長期滞在した人なんかはすぐに納得してくれるでしょうが電車やバスに乗っている際に老人や赤ちゃんを抱いている母親が乗り込むと中国人はすぐさま席を譲ります。日本でもこうした光景はもちろん見られますが、はっきり言って日本以上に中国人はこうした際の対応が早く、その他にも具合が悪くなった人などがいるとみんな一斉に声をかけて心配します。

 中国人は日本人と比べると基本的に口うるさい分、やたら他人に対してもいろいろ気に掛ける所があります。私自身もそうした中国人と付き合っていると日本人ゆえか「そんな余計な心配せんでも」と思ったりしてたまにうっとうしく感じる時もありますが、そこらへんは文化の違いと割り切ってなるべく相手に合わせています。また確かに口うるさい分、親身になっていろいろと気をかけて配慮をしてもらえることも多く、私の周りだと今の部屋に入る際に間に立った仲介業者のおっさんとはなんか長々と縁が続いてて、何か世話になる度にたばこを買って渡すという関係が続いています。

 ちょっと回りくどい言い方になってしまいますが、中国人と日本人のこうした道徳観というか気質を比較するならば「ウェットとドライ」という一言が一番しっくりきます。もちろん中には信じられないような詐欺事件とかも起こったりしますがそうした事件については中国人らも真面目に怒りますし、またビジネス面でも「騙したもん勝ち」という風潮がはびこるのを良しとせず、事業で成功した人間についても「散々悪いことして儲けやがって……」などと冷ややかな目で見る姿勢が強いように感じます。
 ただ外国というフィルターもあるせいか、日本にいると目に入りやすい中国人はそうした「やり手の経営者」ばかりでしょうし、またインターネットやらが発達したことから少女のひき逃げ事件のように極端な例ほど注目されやすくなっているところがあります。そういった極端な例が目に入るようになったという意味では確かに道徳観は低下していると言っても過言ではないものの、一般市民レベルではまだそこまで捨てたもんじゃないよというのが私の意見です。

 分けて書くのもあれなんでこのままもう一つの質問こと、今年にそれぞれ総書記、首相に就任することがほぼ確実視されている習近平と李克強についてですが、まず前提として中国では総書記は外交と軍事、首相は内政ときちんと役割分担がなされております。そのため習近平はこのところあちこちに外遊に出たりなどと顔を売っているわけなのですが、中国国内の評価だと私の友人なんかは就任前の胡錦濤同様に「なんか冷たそう」と述べておりいまいち確固とした印象が持たれていないような感じです。対する李克強については次期首相候補として国勢調査の責任者を務めたりなど、国内においては習近平より顔を出す機会が多いように見えます。私自身の意見を言えば、李克強の方がやっぱりメディアで見る機会とか多いせいかなんかこっちの方が優しそうって感じを覚えています。

 それでこの両者の関係ですが、習近平は江沢民をトップとする上海閥というグループに属しているとされ、逆に李克強は共産党青年団出身ということから同じ出身の胡錦濤に近いとされています。そのため二人の総書記経験者がいる派閥に分かれていることからあれこれ憶測も立っていますが、少なくとも表面上はそれほど仲が悪いようには見えません。私の見立てでは確かに数年前であれば次の総書記の椅子を巡って競争があったのかもしれませんが確か二年くらい前に習近平が軍事関係のポストに就いたことから決着は既についており、現時点においては争う余地がもはやなく、また前述の通りに総書記と首相で役割がはっきり分かれていることから対立する要素というものは少ないんじゃないかと思います。

2012年1月1日日曜日

オウム、平田信の出頭について

 上海に戻りましたが思ったよりネット回線が復活するのが早く、昨日の朝にはまたすぐ使えるようになりました。ただ折角だから敢えて昨日は何も書かず日がな一日をぼーっと過ごしていましたが、香港から戻ってくると「空ってこんなに広かったんだ」と視界が広いことに戸惑いを覚えます。そんなわけで新年一発目の記事となるわけですが、まさか今日の未明にこんなニュースが入ってくるとは誰も想像だにしなかったでしょう。

オウム真理教・平田容疑者が出頭、逮捕へ(読売新聞)

 一連のオウム事件、ひいては国松元警察長官狙撃事件で重要人物と見られていた平田信容疑者が、昨夜未明に突然出頭し逮捕されました。既に十年以上も指名手配されていながら一向に手がかりすらつかめなかった人物であっただけに、今朝にニュースを見て私も息をのみました。具体的に平田容疑者がどのような経歴でどんな案件に関わっているかは多分他所でも取り上げられているのでここでは触れませんが、何故今頃になって出頭してきたのかという理由については既に一部で言及されている通り、麻原彰晃死刑囚の死刑執行を防ぐためだと私も見ています。

 日本の死刑制度は「共同正犯」といって一つの犯罪に複数の容疑者が関わっている場合、執行は原則的に同じ日に執行されることが慣例となっております。そのためあさま山荘事件の日本赤軍メンバーなどは一部が現在も逃亡していることから事実上、執行することは今後も不可能とされており(それ以外にも政治犯ということも影響していると見られている)、現に悔しい限りですが永田洋子は獄中で昨年に病死しました。
 この共同正犯が今回の出頭とどうかかわってくるのかですが、1995年に明るみとなった一連のオウム事件について、既に逮捕されているメンバーらの裁判が実は先月にすべて結審したということがキーになります。

 私はオウム裁判がすべて結審したという報道を見て真っ先に思い浮かんだのは、「これで麻原の死刑執行準備が整った」ということでした。今回出てきた平田容疑者のようにまだ逃亡しているメンバーこそいれども少なくとも裁判を受けた人間らについてはこの後罪刑がひっくり返ることもないし、民主党政権だったことから2011年に1人も死刑が執行されなかったことも含めて、2012年中に麻原を含むオウム事件の死刑囚に対して一斉に死刑を執行すべきだと主張しようと考え、執筆こそしていなかったものの記事を実際に準備していました。
 しかしそれが今回の平田容疑者の出頭によって崩れました。今回平田容疑者が出てきたことでまたオウム事件について新たに彼の裁判を行う必要があり、少なくともその裁判が終わるまでの間は共同正犯は同時執行するという原則がある限り、麻原の死刑執行は実現できません。恐らくこういった意図があって出てきたのだと思います。

 こうしたことを踏まえた上で敢えて主張させてもらえば、それでも麻原の死刑執行は今年中に行うべきです。もし麻原が執行されずに獄中で病死をしたらこの事件の被害者、そして遺族はどうなるのか。またこの事件の捜査に関わってきた警察の方々についても、そして一民間人の自分もどうにも納得できすることはできません。聞くところによるとまたオウムが信者数を拡大させているとも言いますし、麻原の死刑執行によって何かしら強い反応を起こすかもしれませんが、これまで連中を見ていてつくづく思いますが麻原を生かしておいても長期的には悪い影響の方が強いように見えます。
 共同正犯の原則は私も理解できます。しかしこのオウム事件だけはほかの犯罪と一緒にしてはなりませんし、通常の枠内で取り扱っては必ず大きな錯誤を生みます。真面目にこの件については、早い決着を望みます。