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2016年11月21日月曜日

ブラウザ「Safari」によるコメント不具合について

 先日友人から、「iPhoneのSafari使ってこのブログにコメントしようとすると確実にエラーが出るんだけど」というお便りをいただきました。どうでもいいですがこの友人は学生時代に一回だけサンマ(一尾百円くらい)をおごってあげたのをその後もずっとやけに感謝くれました。
 以前にも同じようにiPhoneやiPadを経由してコメントを投稿するとエラーが起こるという話を読者から聞いており一体この不具合の原因は何なのか調べてみたところ、どうもSafari特有の認証システムに原因があるとのことです。

iPhoneからBloggerの記事にコメントが付けられないという問題(つわものぶろぐ)

 こちらの記事に詳しい経緯というか私が見てもよくわからないflame関連の問題が開設されているのですが、やはり私のブログに限らずこのGoogleのブログソフト「Blogger」全体に共通している問題のようです。たださらに調べてみてみると、ほかのブログでもやはりSafariが原因でコメントが弾かれるというエラーが起きているそうです。

iPhoneやiPadのSafariをお使いの方へ(ぶろっこりぃのそよ風日記)

 こちらの方は今頃流行りのはてなブログですが、同様の問題が起きていてSafariに対して注意報を出しています。てっきり私のこのブログだけかと思いきや結構この問題は根深いようで、連絡して来てくれた友人からも恐らくコメントを残せなかった読者がほかにもいるだろうと言ってもらったこともあり、先程からコメント欄に「Safariに気をつけろ」的な注意書をつけるようにしました。

 なおここだけの話ですが実は私はアップルの製品を今まで一度も持ったことがありません。さすがに触ったことはなんどかありますが私の世代でiPodを一度も持ったことがない、っていうかiPodに限ればシャレや冗談抜きで一度も触ったことがなく、多分同世代でも私一人くらいなんじゃないでしょうか。
 iPhoneなどに関しても値段が高い時点で選択肢に入らず、マッキントッシュに至っては汎用性の問題から眼中にも入りませんでした。だからこそ今回の問題にも気づくのが遅れたのかもしれませんが、別にアップルが嫌いというわけではなくただただ縁がないだけで、それがまさかこういうブログにも影響を及ぼすとはなどと皮肉っぽく感じるわけです。

2016年11月20日日曜日

表現者としてのピーク

 この週末の二日間、自分でも呆れるくらいにKindleの電子書籍をダウンロードしておりました。というのもここ一ヶ月くらいずっと、一切全く何もダウンロードできなかったからです。あくまで私個人の主観で理由を予想すると、恐らく中国では11月11日(双十一)が「独身デー」といってインターネット通販の大幅値引きキャンペーンが毎年各社で行われているため、この前後の期間でサーバーへの負担を軽減するために国外の一部ネットサービスに制限をかけていたのではないかと睨んでいます。現に双十一が終わってまた復活しましたし。
 この間に購入はできてもダウンロードの出来なかった新刊を始め、無料キャンペーンで配信されていた漫画などもあらかじめ購入クリックしていたため、ダウンロードが復活するや一挙に十冊近くダウンロードし始めてしまい、また途中途中で読んで気に入った漫画をさらに追加で大人買いしたりしたもんだからなんかずっとタブレットを片手に持ってた様な二日間でした。なお読んだ中で予想外に面白かったのは金田一蓮十郎氏の「ライアー×ライアー(「ハンター×ハンター」っぽいタイトル)」でした。

 話は本題に入りますが。今回無料だからといってダウンロードした中には押見修三氏の「悪の華」の1~2巻もあり、この漫画は既に一回通しで呼んでいるものの久々に読み返したところ相変らず面白いと感じると共に、「この作者はこの作品で燃え尽きたのかな」と思う節がありました。
 この「悪の華」は全11巻で構成されており中身は主人公が中学生の頃と高校生の頃とで大きく前後編に分かれているのですが、私を含め後編の「高校生編」はあまり評価が高くありません。逆に前編はヒロインこと「仲村さん」という超絶エキセントリックなキャラクターが口を開けば「クソムシが、クズネズミが」という毒舌をまき散らし、今回読み返した際も既に内容を把握しているにもかかわらず毎回強く圧倒されます。

 私はこの「悪の華」の後に押見氏が描いた「ぼくは真理のなか」、「ハピネス」も読みましたが、単純に嗜好の違いだけかもしれませんが「悪の華」に感じた圧倒的な迫力は全く感じられず、はっきり言えばどっちもあんま面白くありませんでした。しかもエキセントリックなヒロインがぐずぐずした男性主人公を引っ張り回すというような構図がずっと続いているし。
 逆に、「悪の華」が連載される直前に押見氏が描いた「漂流ネットカフェ」はまだ面白く、「悪の華」程ではないにしろやはりそれなりに作者の持ち味が出ていて読んでて迫力も感じられて個人的に高く評価しています。それだけに、やはりこの作者は「悪の華」前編終了時に少し燃え尽きてしまったのかなと今回感じたわけです。

 なにも押見氏を貶す目的でこういうこと書いているわけじゃなく、やはり漫画家なり作家なりには表現する力のピークというか波というものは確実に存在します。以前に取り上げた週刊少年ジャンプの編集長をしていた鳥嶋氏も、対談で話した「ベルセルク」という漫画の作者である三浦建太郎氏に対し、「ベルセルク」の前半終了部における「蝕」という場面を名指しして、「あそこで君は一回燃え尽きた」というようなことをはっきり述べ、言われた三浦氏もその通りと認めていました。

 複数の作品を長期に渡って書く場合でも、長期連載作品の場合であっても、やはりどこかしらにその作者の表現にはピークがあります。しかもピークを一旦迎えてしまうと大きく調子を落とさない限りは読者は依然と面白さは感じ続けられるものの、段々と面白さが増していき盛り上がっていくというような臨場感はどうしてもなくならざるを得ず、「今も面白いけど前のあの辺りの方がすごかったよなぁ」なんて言われてしまいます。私が子供の頃だったらやっぱり「ドラゴンボール」のフリーザ編最終盤がまさにこうして挙げられる例の筆頭でした。
 逆の例としては、「ハンター×ハンター」でヨークシン編が非常に面白く、もうこれ以上この漫画は面白くはならないだろうと思ってたら、その後のグリードアイランド編、キメラアント編はもっと面白くなっていきこの作者すげぇと心底思いました。

 話は戻りますが、やはり早くにピークを迎えてしまうとどちらかといえば不便です。確か「ジョジョの奇妙な冒険」の作者の荒木飛呂彦氏が連載漫画で人気を維持する上で段々と面白さというか熱を高めていくことが大事で、基本的には右肩上がりの展開を維持するべしと言ってましたが、私の言わんとすることもこれと同じです。しかし意図的にそういう風な右肩上がりの話を作っていくならともかく、作者個人のセンスなり感覚なりがピークを迎えちゃうと、まぁちょっと言い辛いですがあんま良くないです。
 場合によってはそこからスランプに入り、「ブラックジャック」など大人向けの漫画を描くようになった手塚治虫や、昭和史を始めとした歴史、伝記、自身の戦争体験漫画を主軸に置いた水木しげるなど新境地を切り開き復活する漫画家もいますが、こういうのはどちらかといえばレアでしょう。

 小説に関してもそうですが、やはり話作り、文字表現などはどこかしらでピークを迎え、そこから段々と落ちていくものだと私は考えています。無論ピークを迎えたからと言ってその後の作者は即無価値になるというわけではなく、その後は作り上げたキャリアや経験を使った表現活動を行って行けばいいのですが、ピークを迎えるまでと迎えた後でどのように心境を置くかで物事がいろいろ変っていくのではないかという気がします。

 ここで私個々人の話になりますが、地味に文章表現に関してはとっくにピークを過ぎており、具体的に言えば2009年に連載していた「文化大革命とは」の記事を書いてた頃がピークで、この連載記事を読み返すたびによくこれだけ難しい内容をここまで小ざっぱりまとめたものだと我ながら呆れると共に、同じような表現を再現しろと言われたら無理だという本音が出てきます。昔から難しい内容をわかりやすく説明するという表現には自信があったものの、多分もうあの頃以上にこうした表現を駆使することは永遠にないでしょう。
 一方でその後、表現手法を色々学んだこともあって新聞記事としての表現、アジテーターっぽい表現、分析レポート的な表現に関しては間違いなく今の方が上で、野球に例えるならかつて猛威を振るった縦に大きく割れるフォークこそ失ったものの、カーブやチェンジアップなど他の変化球を習得して使い分けが上手になったというような感じです。ただ欲を言えば、昔みたいなフォークを「┌(`Д´)ノセイヤッ」とばかりにもう一度投げたいという願望は常にあります。

 文章表現に関しては上記の通り、器用さは増したものの一点突破的なパワーではピークを越してしまいましたが、ことセンスというか観察力、判断力、分析力に関しては未だピークを越えておらず、毎年確実に凄みを増してきているという実感はあります。どうしてそう感じるのかというと単純に、同じ風景を見ているにも関わらず以前は気づかなかった違いやポイントを今だと簡単に気づけるようになっており、また一つのニュースを見てもそこから導き出される次の展開予想の数が毎年増え続けているからです。最低でもあと二年くらいはこの方面の成長は続くようにも感じているのですが、ただでさえ歩いている最中も常に何か考えててボーっとしており周囲に気が付かないことが多いだけに、二年先以降もピークを迎えなかったら逆にヤバいのではないかと一人警戒しています。

肌感覚で判断する重要性 後編

 前回に続いて世論などを肌感覚で感じ、判断する重要性について書いてきます


 私がこうした肌感覚について明確に意識したのは実は早く、大学四回生の頃でした。当時私は既に第二外国語の単位を既に取り終えていましたが以前から興味があったこともあってロシア語の初級講座を四回生時に受けていました。この授業では、別に悪い話しじゃないので敢えて実名を出しますが関西の私大を中心にロシア語を教える北岡千夏先生が受け持っており、マイナー言語ということもロシア事情の解説などを多く盛り込んだ、言いようによっては単位の取りやすい授業をしてもらえました。
 この授業時、確か私がマスコミ志望かなんかを口にした時だったと思いますが、「あんたやめときな、マスコミときたらクズだよ」みたいに言って、自身がかつて学生時代に朝日新聞でアルバイトをしていた時のことを話してくれました。旧ソ連時代に留学したこともあってその方面の仕事を手伝っていたそうですが、ソ連崩壊のきっかけとなった8月クーデター時に、誰でもいいから現地の人に連絡取って情報を集めてくれと言われ北岡先生は片っ端から電話をかけていたそうです。そしてひとしきり電話をかけ終えた後、

「多分これ、三日くらいで終わりますよ」

 と、北岡先生が述べた瞬間、周囲の朝日の記者たちは、「何を言うかこの小娘」みたいな視線を一斉に向けてきたそうです。しかし実際のところこのクーデターはまさに三日で終わり、この時のことについて北岡先生は、「偉そうにふんぞり返ってるくせに何もわかっていない」と憤懣やるかない素振りでしたが、現実に予想を的中した意味では北岡先生の言う通りでしょう。
 なおこの時に何故北岡先生は「三日で終わる」と予想したのかというと本人曰く、「電話で話した相手が全然焦っておらず、なんか事件が起きている根みたいな感じで他人事だったから」だったそうです。この事件ではゴルバチョフ大統領(当時)が監禁されるなど一見すると国家の一大事ではあったものの、現地の人間の肌感情というか空気ではそれほど大事と受け取られておらず、その感覚を見て出した北岡先生の予想が結果的に正しかったということになります。

 このソ連のクーデターのように、表向きな情報以上に現地で生活した経験、そして現地の人間の反応の方が案外正しかったりすることが多いというのが私の意見です。先の米国大統領選挙でも現地メディアの情報以上に一般市民の声の方が案外正鵠を得ていたというか、そもそもメディアが現地の声なり現地住民に対してインタビューや見方を尋ねたという話を日系に限ってはほとんど見られず、結果的に思い切り予想を外してしまったというのが私の見方です。

 こうした「現地の声や反応」を無視するという行為は中国に関する報道でも根強く、やっぱり私から見ていて日系メディアの中国に関する報道は日本にいて中国について何も知らない人間が適当な資料を基に書いたり、現地メディアが報じる内容をそのまま垂れ流すだけのものが非常に多く、それによって無用な誤解を生んでいる節もあります。
 もちろん現地の声や反応、また自身の感覚を信用して記事などを書くと偏った情報となる可能性も大いにあるだけに、何でもかんでも信用できるわけではありません。しかし私の場合だと、たとえば中国や政治関連の記事を見た際に何かしらの言葉にできない違和感を覚えた場合、本当にその報じられている情報が正しいのかを確認するようにしています。この確認の過程で報道内容が事実であるとわかれば考えを改め、逆に報道内容が誤りであるような事実や根拠、疑惑が見つかった際には信じないようにと、普段はここまで慎重ではありませんが肌感覚で違和感を持った記事に関しては疑ってかかるようにします。

 それでこれまでの経験から言うと、やはり違和感を感じる記事は誤っていることが多いです。世論にしても事実報道にしろ、「本当にこれで合ってるの?」という感覚を持つものには何かしらおかしな背景だったり作為的な意思がある程度働いています。具体的には経済指標の数字とかで、売れる車がないのに妙に売り上げが伸びてたりすれば、売れる理由を見落としている書かれてないとか、後は偽装があるわけです。記者の勘といえば大層な言い方になりますが、理由がなくても感じる違和感というのは非常に大事で、そうした違和感をどれだけ拾えるかというのがある意味重要な分岐点になるかと思います。

2016年11月18日金曜日

肌感覚で判断する重要性 前編

 当初今日の記事見出しは「国際報道の現状」という見出しで行こうかと考えましたが気がかわってこちらの「肌感覚で判断する重要性」にしました。

 さて先日の米国大統領選挙では日系メディアほぼ、っていうか全部が「ヒラリー優勢」という大方の予想を覆してトランプ氏が見事当選し、安倍首相もこの前アメリカくんだり会いに行きました。個人的には、間髪入れずにすぐにあって細かい内容を敢えて表に出さない階段にしたのは見事な外交であったと高く評価しています。
 他のメディアでも一体何故トランプの当選を予想できなかったのかについて様々な分析がなされていますが、米国国内のメディアについてはなんとも言えないものの日系メディアが予想を外した理由は非常にはっきりしており、米国の主要紙しか読んでないからです。

 私自身の反省も込めて述べますが、国際報道というのは基本的に現地駐在員は自分では余り取材せず、現地メディアの報じる記事を翻訳するのが日々の仕事です。そしてその翻訳対象となるメディアは基本的に高級紙と呼ばれる様な媒体で、中には敢えて大衆紙のゴシップとか大袈裟な記事を引用するメディアもありますが(Webメディアに多い)、日本の大手紙が「米国内の報道は――」と枕に付ける記事は基本的にワシントンポストやニューヨーク・タイムスの記事だと思ってもらってもいいでしょう。
 私自身もこの手のいわゆる「翻訳ライター」で、たまに日本物産展や興味持った分野の取材に行って特集記事とかを書いてましたが、基本的に普段は中国の「第一財経日報」とか「東方早報」、「文滙報」などを毎日大体十紙くらい読んだ上に家電や自動車ニュース専門サイトのWeb記事も閲覧してその日に書く記事を選び、翻訳していました。そのため国際報道というのは記者の目とか判断以上に現地メディアの報じる内容が色濃く反映されるため、先ほどの米国の報道についても現地の世論というよりワシントンポストなどの意見が色濃く反映されがちです。

 なお蛇足ですが、日系メディアは中国世論の報道によく「環球時報」を引用しますが、ここは主張が最も過激で、人民日報系列ですが本体の人民日報が絶対言わないような激しい言葉でよく日本を罵ったりしますが、中国人もそんなにこの新聞を読んでるようには思えず記事内容と実際の世論には大きな乖離があるのに中国の世論として引用され日本で報じられるのが個人的に腹立ちます。

 話は戻りますが、こうした傾向はほかの国も同様にあり、例えば中国だと日本のニュースは経済ニュースだと基本的に日経新聞が引用されており、国政関連については私が見る限り八割方朝日新聞が引用されています。そのためどういう風に書かれているのかというと、「国民を無視して安倍政権が暴走」、「再軍備へひた走る日本」、「国民置いてきぼりの憲法改正議論」などと、他の人は知りませんが私からしたらとてもとても日本全体の世論を反映しているとは思えない意見が日本の現状みたく中国ではよく報じられます。真面目な話、中国人が安倍首相を嫌うのは政策や価値観以前に朝日新聞が安倍首相を理由なく嫌っているのが最大の理由だと断言します。

 話が行ったり来たりしますが今回の米国大統領選についても日系メディアは自らが結果の予想をしたり世論を分析したりすることなくワシントンポストやニューヨーク・タイムスが報じる記事内容を垂れ流していただけだったため盛大に予想を外したと考えています。
 逆に当時の世論を最も色濃く反映させていた記事は、私が見た中だと文芸春秋11月号に掲載されていた久保田智子氏の「ヒラリー 嫌われる理由がわかった」という記事で、筆者本人が現地住民との交流を通して感じ取った、「トランプは問題あると思うがそれほど嫌いではなく、ヒラリーは問題があるかないかわからないが絶対的に嫌いだ」というような米国民、特に女性の感情が非常にわかりやすく丁寧に解説されていてとても参考になりました。

 ここまで読めばわかるでしょうが、現地世論というのは大規模な調査データを分析することもさることながら現地住民と直接話したり、見ていて感じ取った内容の方が参考になることが多いというか正確なことが多く、特に外国では肌で感じてどう思うかが何よりも重要であるというのが私の持論です。「考えるな、感じろ」とは言ったもので、こういうのは頭で考えものではなく体で考えるものだと常日頃から自分に言い聞かせていますが、そのように考えるようになったきっかけなどについてはまた次回で紹介します。

2016年11月17日木曜日

あの頃は水木しげるがいた

 今月の文芸春秋に、去年一月に逝去された水木しげるの細君とその娘二人による鼎談記事が掲載されていました。三人とも「まだお父ちゃんが亡くなった実感がない」と語っており、恐らく家族以外のほかの人にとっても同じような感想が持たれるのではないかと思います。

 この鼎談によるとなんでも布団につまずいて転んで頭を打って手術してから意識がなくなった後、一切何も話すことなく亡くなったとのことです。この死に方についてご家族は寂しいと思う反面、本人としてはある意味満足な形での自然死だったのではないかと受け取っています。バイタルが弱くなりいよいよという際には医師から延命治療を受けるかと尋ねられたものの生前からそうした物は拒否する姿勢を示していたこともあって提案は拒否し、そのすぐ後に亡くなったという顛末も書かれていました。

 こうした逝去時の顛末に加え生前の頃の話も語られており、個人的に印象に残っているのは双方ともにライバル視していた手塚治虫への態度で、娘たち曰く本人らは同じ時代に漫画業界でしのぎを削り合った戦友だと思っていた節があり、ラジオで手塚の逝去を聞いた際には、「ああ、逝ったのか手塚……」と呟き、葬儀にも出向いたというエピソードを披露していました。
 この二人の関係は若い頃に手塚からやっかみに近い文句を水木が受けたことは事実でそれを以って終生仲が悪かったようにも言われていますが、実際にはお互い連絡を取ろうと思えば取れるような関係で、水木の娘が手塚のサインを求めた際も、「今度頼んでおく」といってもらってきたこともあったそうで言われている程は仲が悪くなく、実力についても双方認め合う中であったことも間違いないでしょう。何気にスランプだった時期もある程度被ってるし。

 なお少し蛇足ですが、水木の命日は「ゲゲゲ忌」と呼んで関係者やフォロワー同士で何かすると報じられていますが、素直な感想を述べるとものすっごい語呂が悪くて発音し辛いように思います。それだったらもっとストレートに、「水忌しげる」でいいんじゃないのと密かに考えています。

2016年11月16日水曜日

ゲームレビュー:ZERO ESCAPE 刻のジレンマ

 またゲームの話で申し訳ないのですがこの前クリアしたので折角だし。

ZERO ESCAPE 刻のジレンマ(Wikipedia)

 今回紹介するのは「極限脱出シリーズ」と銘打たれた三部作の完結篇に当たる、「ZERO ESCAPE 刻のジレンマ」というゲームです。この作品というかシリーズは「極限脱出9時間9人9の扉」、「極限脱出ADV 善人シボウデス」、「ZERO ESCAPE 刻のジレンマ」の三部作構成となっており、ストーリーも時系列でつながっています。
 私は一番最初の「極限脱出9時間9人9の扉」は遊んでおらず「善人シボウデス」からプレイしており、こちらを去年にクリアした当時にはレビュー記事も書いています。このシリーズがどういうゲームかというといわゆる「脱出ゲーム」で、閉じ込められた部屋の中で仕掛けを動かしたり、手がかりを見つけたりして部屋から脱出するというのがメインとなっているのに加え、また部屋に閉じ込められる前後で複数の選択肢から次の行動なりを選んでその後の展開が分岐するというアドベンチャーゲーム的要素も混じっています。

 シリーズ全般に言えることですが、脱出ゲーム部分の所が非常によく出来ているというか「難しすぎず簡単過ぎず」というくらいに難易度が安定しており、詰まって全く脱出できないということはないもののそこそこ頭を使わされ、なんていうか頭の体操にもってこいな内容になっています。また脱出ゲームに使われるステージも豊富に取り揃えられており、前述の通りにストーリー分岐によって挑戦する部屋が変わり、「早く次の部屋に閉じ込めろよこの野郎!」と言いたくなるくらいに脱出が面白くなっていきます。
 ただそうした脱出ゲーム部分はもとより、全体の脚本というかストーリーの方が評価が高いでしょう。このシリーズはいわゆるループ物に当たり、何度も何度も過去に戻ったり別の時間軸に飛んだりしながら最後の最後で全体の謎が一気に解き明かされる構成となっており、どんでん返し的な結末は毎回意表を突かれその評価も際立って高いです。「善人シボウデス」もこの辺がよく効いており、続編が出たら必ず買おうと決めたくらい個人的にはまりました。

 そんなわけで「善人シボウデス」が発売されてから四年、私が遊んでから一年経ってようやくシリーズ完結作の「ZERO ESCAPE」が今年発売され、私にしては珍しく定価でガツンと買ってやりました。ゲーム全体の仕組みについて先に述べると、本作も脱出ゲームに一応は分類されますが、どちらかといえば選択肢を選ぶアドベンチャーパートの方に重きが置かれており、これまでとは逆にアドベンチャーゲームに脱出ゲームがおまけでついてきたかのように思えました。相変わらず脱出ゲームの難易度は絶妙だけど。
 次にストーリーについてですが、シリーズ完結編ということもあって過去二作で伏線として真相が明らかにされなかった謎については一応ちゃんと解答が出されます。ただ決してハッピーエンド的な内容に終わらないため、自分を含めほかの人のレビューを見ててもなんかもやもやとしたものを抱えている印象があります。

 あと宣伝ではシリーズ作品ではあるものの本作からプレイしても特に支障はないなどと謳われていますが、はっきり言ってこれは嘘もいい所で、前作「善人シボウデス」は最低でもプレイしておかないと全く話についていけなくなるかと思われます。最初に述べた通りに私は第一作目の「極限脱出9時間9人9の扉」は遊んでいませんが二作目は問題なく楽しむことが出来ました。しかし三作目の本作についてはただでさえややこしい話がさらにややこしくなり、また登場人物9人中5人が前作、前々作の登場人物でありその背景なりがわかっていないと完全に置いてきぼりとなるため注意が必要です。

 さてここから私個人のこのゲームに対する感想になりますが、一番目についたのはその暴力描写でした。前作「善人シボウデス」でも登場人物が死に至ることはよくある、っていうか最終的にはほぼ全滅することが多かったですが、その死に方は大半が薬殺で、あってもナイフで刺されるくらい見た目にも比較的ソフトでありました。
 しかし、本作は一味違うというか、はっきり言って桁が違いました。「バトルロワイアル」よろしく爆発する首輪が出てきて爆発後の首のない死体もかなりモロに表示されるほか、硫酸なんて目じゃないくらいやばいフッ酸シャワーを浴びせかけられ、後にはなんか赤い肉片らしくものが排水溝に流れるところも出てきます。チェーンソーでぶった切られるのも普通ですし、あと脱出ゲームの探索中、「なんやこれハロウィンのグッズかいな」と思わせられる妙なものがゴロゴロ転がってるかと思いつつ部屋を脱出したら、さっきまで一緒に行動していた仲間の生首が出てきて、「え、もしかしてさっき部屋にあったバラバラの手足や胴体ってこいつの?」と、後から血の気が引く演出もあり、心臓の弱い方には割と真面目にお勧めできないレベルです。
 なおシリーズ皆勤賞の倉敷茜というキャラクターについては、本作ではなんか返り血ばかり浴びているような気がしました。

 次に気になったのはビジュアル面です。アドベンチャーパートではフルCGのキャラクターが情景に合わせて動きつつしゃべるのですが、正直な所あんまり出来は良くなく、造詣がよく出来てるキャラとそうでないキャラで差を感じました。これだったらまだ前作のような画面構成の方がよかったような。
 そしてストーリーについてですが、前作も何もわからないまま謎の施設に閉じ込められるという世界観であったもののキャラたちの間ではまだ全体的には明るさがありましたが、今回はかなり陰鬱で、一部キャラクターが悲壮な決意で臨んでいるのもありますが序盤から一歩間違えれば誰かが確実に死ぬという状況にあるため、かなり内容な重苦しいです。まぁこの雰囲気は悪くありませんが。

 逆に致命的だったと感じたのは、本作からの新キャラが全く好きになれなかったところです。先に述べた通り本作では合計9人のキャラのうち前作、前々作に登場したキャラが5人続投していますが、新キャラ4人のうち、誰とは言いませんが2人のキャラが性格的にも全く共感出来ず、おまけにビジュアルの造形もかなり悪いこともあって見ていてストレス感じるくらい鬱陶しかったです。前作なんかほぼ全キャラがいい味出してたのにこの点は非常に残念な所です。
 そしてストーリーの結末についてはやはり大どんでん返しで、確かにあっと言わせる結末に結び付きますが、個人的には前作には及ばなかったというか、やや展開が強引に感じるところもありクリアした際の感動は前作のが大きく、完成度で言っても前作を越えなかったというのが私の評価です。

 最後に声優談義ですが、前作ではヒロインの声優を演じていた小見川千明氏は今作でも続投しているものの、キャラの立ち位置が変わったこともあり前作ほど演技に特別感じ入ることはありませんでした。一方、準ヒロイン……今作ではもしかした正ヒロインと呼べるかもしれませんが、そのキャラを演じた能登麻美子氏については、その声に狂気を感じました。ゲーム内では能登氏が演じるキャラがやや錯乱というか発狂に近い状態となるシーンがあるのですが、そのシーンにおけるセリフは耳にするだに背中が総毛立つというか、なんていうか目の前でガチな夫婦喧嘩が繰り広げられているのを見るかのような居心地の悪さを感じるほどで、感情がこもった演技というよりは狂気がはらんだような声で聴いてて本当に怖かったです。
 なお前作でも能登氏が演じるキャラが絡むエンディングがあり、そのエンディングが一番ゾクっとさせられました。能登氏が競争激しい声優界で十年以上もトップ声優として一線張り続けている理由が、今回やったゲームだけで十分によくわかりました。

2016年11月15日火曜日

日産自動車サイトの致命的な価格表示間違い

 何故か知らないが気温もめっきり冷え込んだこの時期に自宅内でダニがやたら発生し、最近になってパソコン使用時に使う箱型の椅子が感染源だとわかりましたが、一時期は座っているだけで尻に画鋲刺される様な痛みが走りっぱなしで嫌でした。あまりにも腹立ったからアイロンかけて根絶しようとしたけど、効果が一時的で長続きせず、この際だからパソコンデスクと椅子を新調しようかとも検討しています。

 話は本題に入りますが、ちょっと所用で電気自動車市場についてやけにみっちり調べる羽目となり各国の補助金制度とか各電気自動車の性能や価格を調べていた所、とんでもない事実を発見してしまいました。

<横長画像(PC閲覧時)>

<縦長画像(スマホ閲覧時)>

 上記の二枚の画像はどちらも日産自動車サイト内で、日産の電気自動車「リーフ」を購入した場合に国からもらえる補助金額を考慮した販売価格を表示、説明した物です。

 何故画像が二枚もあるのかというと画面が横長か縦長かで切り替わるためですが、注目してもらいたいのは「横長」の画像の「参考2 メーカー希望小売価」の行です。もう説明するのも面倒くさいのではっきり指摘しますが、車両本体価格の表示が間違っており、横長画像では「312.228万円」と書かれてありますがこれはその上の30kwhバッテリー搭載車の価格で、24kwhバッテリー搭載車の正しい価格は縦長画像にある「272.808万円」です。
 しかもこれ、本体価格が間違ってるもんだからその後の計算式も「312.228-26.4=246.408」という思わず首をひねる解となっており、よくもまぁこんな間違い、しかも本体価格と補助金を説明する重要な表示をこのままアップしたもんだと、最初に気付いた時は思わず声が出ました。っていうか本当に誰もこれ、アップロード前にチェックしなかったのだろうか?あとアップされた後も気づかないもんだろうか?

 別に日産には恨みはないし嫌ってる会社でもないので殊更に日産を悪く言うつもりはありませんが、あの日産ですらこういうミスをやるんだなと正直驚きました。「だったら俺だってたまには間違ってもいい」などと妙な自信につながります。
 日産の広報にそっと「間違ってるよ(´^ω^)」と教えてあげてもよかったのですが、教えたところでお礼は言われるだろうが次につながることもないし、ブログでネタにした方が絶対得だという打算が働いたためここでこうして記事に仕立て上げました。ごめんよゴーン。

 なおこれは日産が悪いわけじゃないのですが、今回電気自動車の補助金政策をいろいろ調べていて思ったことは補助金の種類が非常に多くてわかり辛く、また購入する場所によって自治体からもらえる補助金額が数十万円単位で変わるなど複雑すぎるきらいがあり、わかりにくい制度がユーザーの電気自動車購入を阻んでいるように思えます。それこそばつっと「1台100万円プレゼント」みたいに国が一括して払ってやればよかったと思うのですが、こういう風に考える当たり自分もやっぱ広告屋の血を引いてるもんだなと思えます。